【DA】リーンエスの耳

ルチル・プルメリア・グレイハーツ
『ノベルタイトル:あの日、焦がれた空の下』桃谷かな
――蜥蜴人はいつか、竜に成れる。
少女はそれを聞いた時、真っ先に空を見上げた。
青く、広く。どこまでも続く大空。この背中に力強く羽搏く翼を得て、あの空を制覇する『竜』に成れたなら。
雲霞鳥、ワイバーン。そんなものよりなお強く、速く、あの空を自由に飛べたなら。
魂の研鑽、輪廻転生。同胞達の言うそれが途方も無い遠回りに思えてしまうほど――少女は、見上げた空の青さに焦がれた。
●
「流石に疲れが出ちまいそうだね。オルセンから王都、次はディズルさ」
頭に被った頭蓋骨が揺れ、軽い音を立てる。馬車を降りたルチル・プルメリア・グレイハーツは、懐から顔を出した相棒の栗鼠を見遣りつつ、深く息を吐いた。
空に焦がれ、空の制覇を夢見て『竜』を目指した嘗ての自分。その研鑽の物語を寓話として後世に残せはしないかと、世界を巡って過去の資料や記録を――とりわけ、征竜や蜥蜴人の信仰、魂の研鑽に関する物を探し回っているのが今のルチルだ。
仲間の協力は得られるにしても、ずっと未来まで語り継がれる寓話の制作を目指すのならば、ルチルの経験だけに基づいた内容で良いとは思えない。例え時間がかかっても、参考資料は多く集めておくべきだろう。
「風に砂が混じってるじゃないか。砂漠が近いとこれだから……」
頭蓋骨の隙間から口の中に吹き込んできた砂を唇の外側へと押し出して、ルチルはリーンエス王国の辺境――シラー砂漠に程近い街の通りを歩んでいく。
超越者と呼ばれる階梯に至り、自身が大きく変化した感覚はあるようで無い。
否。恐らくは変化はあるのだろう。にもかかわらず、『無い』ようにも感じる事そのものが、超越者という階梯に居る証なのやもしれない。
「アンタとも、そう長くは一緒に居られないね」
頭を撫でたルチルの右手を嗅いで、ラトは不思議そうにチチッと鳴いた。
己の目的を果たすための、研鑽の旅は続く。いつかルチルが神へと至る日が来たならば、エーテルの絆で結ばれたラトは一体どうなってしまうのだろう。
そうなる前に、信頼できる仲間に預けるべきだ。ルチルは、そう考えていた。
「ちっと寂しくなるがね。アンタを巻き込みたくはないのさ、ラト」
ルチルはきっと、この先も長い年月をかけて研鑽を積む事になるだろう。短い寿命しか持たない栗鼠だから、旅の中で看取ってやる事はできるのかもしれない。
けれど、相棒に向けるこの優しい感情がまだ十分残っているうちに、別れたいのだ。
きっといつか、それすらも失われてしまうから。
「さあ、着いたよ」
辿り着いた、街の外れ。眼前に現れた石造りの建物を、まるで牢獄のようだとルチルは頭の中で形容する。
壁の所々に嵌め込まれた小さな窓は、人が外に出る事を許しはしない。
ルチルはそのうち一つの窓に近付くと、片手で窓枠に積もった砂を払い除けた。
先程買ったばかりのそれを無言で見つめて、窓枠の上に置いてからコンコンと窓を叩く。
応じる者の有無を、確かめる事も無く。
ルチルは静かに踵を返すと、窓に背を向けて再び歩き始めた。
●
神への祈りを終えた修道女が、壁に手を添えながら石造りの廊下を歩いていた。
その瞳は虚空を見つめ、光を映す事は無い。
教会に隣接して建てられた修道院の廊下は静まり返り、靴音のみが響き渡る。ここに送られる事を恐れる高貴な令嬢達からは、牢獄と呼ばれている事を彼女は知っていた。
真に愛する者が現れるまでは――そして、この世で一番愛しく思う者を、その両腕に抱くまでは。彼女も確かに、そちら側に在ったのだから。
「……まあ、誰かしら」
誰かが窓を叩く音がして、盲目の修道女は慣れた手つきで鍵を開けた。
声をかけるも返事は無く、窓を閉めようとしたところで、ふわりとした風が花の香りを運んできたことに気付く。
窓枠に手を這わせてみると、ちょうどそこに置ける程度の、小ぶりな花束が指先に触れた。
「花束ね? どなた宛てかしら?」
通りすがりに尋ねられた別の修道女が、後ろから覗き込む。彼女は花束に添えられたカードの宛名を読み上げ、少し訝しむような声音で「貴方宛てよ」と教えてくれた。
「良い香り。私の事なんて、皆忘れてしまったと思っていたのだけれど。誰かは覚えていてくれたのかしら」
目尻の皺が目立ち始めた顔で、盲目の修道女は柔らかに微笑んだ。
束ねられた花は、目に光を映す者から見ればちぐはぐな色合いで。そうでない者からすれば、手触りと香りが特に楽しめるものばかりが選ばれている。
「花束を頂くなんて、何時ぶりかしら。……神よ、どうか心優しい贈り主へ、幸福をお与えください」
牢獄と揶揄される鳥籠の中で刻む、暗闇の時間。
それは彼女にとって、地獄を意味しない。
光を映さぬ両の瞳は、愛する我が子を守り抜いた証。
膝を折り神に祈る日々は、愛する我が子の幸福を祈る日々。
愛する者の忘れ形見が生きている、その代償が此処で静かに朽ちていく事であるならば。
彼女はそれを、不幸と呼ばない。
●
ルチルが己の出生の秘密を知ったのは、彼女にとって偶然に過ぎない。
養父を亡くしてからの旅の途中、そうとは知らずに立ち寄った貴族領が自身の出生の地であり、実母の父だか兄だかが治める土地だった。
つまり、ルチルは蜥蜴人として生まれた『貴族家に連なる子』 ――という事になる。
どうやら実父は旅の者であったらしいが、詳しい素性は判らない。実母の生家の人間からすればルチルは家の存続すら危ぶませる『汚点』であり、存在してはならぬ人間だった。
生き延びて立派に成長している事実はむしろ驚くべき事で、それは実母が自身の一生と視力を犠牲にして彼女を守った結果のようだ。
ともあれ、その土地を治める血縁者の貴族は、市井に生きるルチルの存在を忘れていたわけではなかった。
端的に言えば、襲われたのだ。その貴族の私兵に、その貴族領の街道で。
所詮は女と油断したのか知らないが、返り討ちにしたその時に色々と聞き出す事はできた。隊長らしき男が何故そこまで知らされていたのか、何故口を割ったのかは判らない。彼は彼で、何か事情があったのやもしれないが。
「何てことはない。もっと酷い話だってゴロゴロしてるもんさ」
自身の過去を知ったその時を思い返しても、ショックを受けた記憶はない。幸いにも、育ての親に恵まれたためかもしれない。
その時の私兵達を通じて「二度と関わらなければ口外はしない」と伝えた所為か、それとも別の理由なのかは知らないが、再び襲撃を受けるような事も無く今に至る。故に、自身の出生について強く意識する機会も多くは無かった。
けれど、その生まれは。ヒューマンではなく蜥蜴人として生まれた事実は。
今になって、ルチルの心を揺り動かした。
『竜』を目指し、空に憧れた少女は大人になり、帝都を解放した英雄のひとりになった。
彼女はその過程で、ヒトの心を失った『超越者』の姿を見、神代より続く役割に縛られ変革を許せぬ『竜』と対峙する。
『超越者』と『竜』が、共に蜥蜴人の研鑽の延長線上に在り得るものか否か、今のルチルには判らない。しかし彼らはいずれも、本来の志など疾うに失っているようにしか見えなかった。
『竜』に成る事とは、ただ盲目的に創造神の残した言葉に従う存在に成るという事なのだろうか。
あれが、階梯を昇り詰めたヒトの成れの果てか、と。
あれが、蜥蜴人の夢の果てか、と。
落胆とも絶望とも、怒りともつかぬ想いが疑問を生み、幼い夢を蝕んだ。
(まるで、老害じゃないか)
あんな形で今を生きる人々の敵になる事が、蜥蜴人の夢だなんて酷すぎる。いくら何でもあんまりだ。
そんな想いを抱くうちにルチルは、生まれて直ぐに死ぬはずだった自身が生き延びた意義を――そして、蜥蜴人として生を受けた意味を、考えるようになった。
もし、それらに意味があったと言うならば。
意義をこれから、生み出すとするならば。
「神座に至り、後に続く同胞達が己を失わず『竜』に成れるように――世界の理を、書き換えること」
戻る事の許されぬ階梯へと足を踏み入れたルチルだからこそ、それを目指すのだ。
嘗て自身が目指した大空を、同胞達が自由に飛ぶ様を夢見て。
ルチルは今日も、旅を続ける。
●
ルチルが目を開けると、そこには一面の花畑が広がっていた。
頭上を見上げれば、青く、広い空がどこまでも続いている。
不思議な事に、これが夢の中の光景であるとルチルは理解していた。
あまりにも美しい花畑を前にして、ルチルは足を踏み出すのを思わず躊躇う。動かぬ両脚に違和感をおぼえて見下ろせば、何故か爪先が透けて見えた。
「私達の夢を守ってくれて、ありがとうございます」
「……!」
気が付けば、目の前に蜥蜴人の少女が立っている。
見知らぬ誰かのようにも、知っている誰かのようにも見える。あどけない笑顔を浮かべた少女はルチルを真っ直ぐに見つめて、問うた。
「貴方の夢は、叶いましたか?」
少女の声が、頭の中で木霊する。
(ああ、そうか……)
再び見下ろしてみれば、ルチルの両手両脚はもう殆ど消えかかっていた。
これはきっと、来るとも知れぬ未来を夢見ているのだと。
夢の中で、自分は今、最後の階梯を昇ろうとしているのだと。
ルチルは、この世界から消えていく感覚を全身で感じながら、そう理解した。
「――叶ったよ」
身体が消える。まるで泡のように。
少女はルチルの答えを聞いて、さらに大きく笑ってみせた。
「遠い未来、空の向こうを見た誰かが、私の残したものを思い出してくれるだけでいい。……それまでは、ここでゆっくり待つとするさ」
身体が消え失せても、名を失っても。神と成ったルチルは、きっと其処に漂い続ける。
そしていつか、後に続く同胞達が自由に飛べる翼を得て、大空へと羽搏く頃。
――彼らを守り慈しむ神として、彼らの選ぶ未来を見届けたい。
少女はそれを聞いた時、真っ先に空を見上げた。
青く、広く。どこまでも続く大空。この背中に力強く羽搏く翼を得て、あの空を制覇する『竜』に成れたなら。
雲霞鳥、ワイバーン。そんなものよりなお強く、速く、あの空を自由に飛べたなら。
魂の研鑽、輪廻転生。同胞達の言うそれが途方も無い遠回りに思えてしまうほど――少女は、見上げた空の青さに焦がれた。
●
「流石に疲れが出ちまいそうだね。オルセンから王都、次はディズルさ」
頭に被った頭蓋骨が揺れ、軽い音を立てる。馬車を降りたルチル・プルメリア・グレイハーツは、懐から顔を出した相棒の栗鼠を見遣りつつ、深く息を吐いた。
空に焦がれ、空の制覇を夢見て『竜』を目指した嘗ての自分。その研鑽の物語を寓話として後世に残せはしないかと、世界を巡って過去の資料や記録を――とりわけ、征竜や蜥蜴人の信仰、魂の研鑽に関する物を探し回っているのが今のルチルだ。
仲間の協力は得られるにしても、ずっと未来まで語り継がれる寓話の制作を目指すのならば、ルチルの経験だけに基づいた内容で良いとは思えない。例え時間がかかっても、参考資料は多く集めておくべきだろう。
「風に砂が混じってるじゃないか。砂漠が近いとこれだから……」
頭蓋骨の隙間から口の中に吹き込んできた砂を唇の外側へと押し出して、ルチルはリーンエス王国の辺境――シラー砂漠に程近い街の通りを歩んでいく。
超越者と呼ばれる階梯に至り、自身が大きく変化した感覚はあるようで無い。
否。恐らくは変化はあるのだろう。にもかかわらず、『無い』ようにも感じる事そのものが、超越者という階梯に居る証なのやもしれない。
「アンタとも、そう長くは一緒に居られないね」
頭を撫でたルチルの右手を嗅いで、ラトは不思議そうにチチッと鳴いた。
己の目的を果たすための、研鑽の旅は続く。いつかルチルが神へと至る日が来たならば、エーテルの絆で結ばれたラトは一体どうなってしまうのだろう。
そうなる前に、信頼できる仲間に預けるべきだ。ルチルは、そう考えていた。
「ちっと寂しくなるがね。アンタを巻き込みたくはないのさ、ラト」
ルチルはきっと、この先も長い年月をかけて研鑽を積む事になるだろう。短い寿命しか持たない栗鼠だから、旅の中で看取ってやる事はできるのかもしれない。
けれど、相棒に向けるこの優しい感情がまだ十分残っているうちに、別れたいのだ。
きっといつか、それすらも失われてしまうから。
「さあ、着いたよ」
辿り着いた、街の外れ。眼前に現れた石造りの建物を、まるで牢獄のようだとルチルは頭の中で形容する。
壁の所々に嵌め込まれた小さな窓は、人が外に出る事を許しはしない。
ルチルはそのうち一つの窓に近付くと、片手で窓枠に積もった砂を払い除けた。
先程買ったばかりのそれを無言で見つめて、窓枠の上に置いてからコンコンと窓を叩く。
応じる者の有無を、確かめる事も無く。
ルチルは静かに踵を返すと、窓に背を向けて再び歩き始めた。
●
神への祈りを終えた修道女が、壁に手を添えながら石造りの廊下を歩いていた。
その瞳は虚空を見つめ、光を映す事は無い。
教会に隣接して建てられた修道院の廊下は静まり返り、靴音のみが響き渡る。ここに送られる事を恐れる高貴な令嬢達からは、牢獄と呼ばれている事を彼女は知っていた。
真に愛する者が現れるまでは――そして、この世で一番愛しく思う者を、その両腕に抱くまでは。彼女も確かに、そちら側に在ったのだから。
「……まあ、誰かしら」
誰かが窓を叩く音がして、盲目の修道女は慣れた手つきで鍵を開けた。
声をかけるも返事は無く、窓を閉めようとしたところで、ふわりとした風が花の香りを運んできたことに気付く。
窓枠に手を這わせてみると、ちょうどそこに置ける程度の、小ぶりな花束が指先に触れた。
「花束ね? どなた宛てかしら?」
通りすがりに尋ねられた別の修道女が、後ろから覗き込む。彼女は花束に添えられたカードの宛名を読み上げ、少し訝しむような声音で「貴方宛てよ」と教えてくれた。
「良い香り。私の事なんて、皆忘れてしまったと思っていたのだけれど。誰かは覚えていてくれたのかしら」
目尻の皺が目立ち始めた顔で、盲目の修道女は柔らかに微笑んだ。
束ねられた花は、目に光を映す者から見ればちぐはぐな色合いで。そうでない者からすれば、手触りと香りが特に楽しめるものばかりが選ばれている。
「花束を頂くなんて、何時ぶりかしら。……神よ、どうか心優しい贈り主へ、幸福をお与えください」
牢獄と揶揄される鳥籠の中で刻む、暗闇の時間。
それは彼女にとって、地獄を意味しない。
光を映さぬ両の瞳は、愛する我が子を守り抜いた証。
膝を折り神に祈る日々は、愛する我が子の幸福を祈る日々。
愛する者の忘れ形見が生きている、その代償が此処で静かに朽ちていく事であるならば。
彼女はそれを、不幸と呼ばない。
●
ルチルが己の出生の秘密を知ったのは、彼女にとって偶然に過ぎない。
養父を亡くしてからの旅の途中、そうとは知らずに立ち寄った貴族領が自身の出生の地であり、実母の父だか兄だかが治める土地だった。
つまり、ルチルは蜥蜴人として生まれた『貴族家に連なる子』 ――という事になる。
どうやら実父は旅の者であったらしいが、詳しい素性は判らない。実母の生家の人間からすればルチルは家の存続すら危ぶませる『汚点』であり、存在してはならぬ人間だった。
生き延びて立派に成長している事実はむしろ驚くべき事で、それは実母が自身の一生と視力を犠牲にして彼女を守った結果のようだ。
ともあれ、その土地を治める血縁者の貴族は、市井に生きるルチルの存在を忘れていたわけではなかった。
端的に言えば、襲われたのだ。その貴族の私兵に、その貴族領の街道で。
所詮は女と油断したのか知らないが、返り討ちにしたその時に色々と聞き出す事はできた。隊長らしき男が何故そこまで知らされていたのか、何故口を割ったのかは判らない。彼は彼で、何か事情があったのやもしれないが。
「何てことはない。もっと酷い話だってゴロゴロしてるもんさ」
自身の過去を知ったその時を思い返しても、ショックを受けた記憶はない。幸いにも、育ての親に恵まれたためかもしれない。
その時の私兵達を通じて「二度と関わらなければ口外はしない」と伝えた所為か、それとも別の理由なのかは知らないが、再び襲撃を受けるような事も無く今に至る。故に、自身の出生について強く意識する機会も多くは無かった。
けれど、その生まれは。ヒューマンではなく蜥蜴人として生まれた事実は。
今になって、ルチルの心を揺り動かした。
『竜』を目指し、空に憧れた少女は大人になり、帝都を解放した英雄のひとりになった。
彼女はその過程で、ヒトの心を失った『超越者』の姿を見、神代より続く役割に縛られ変革を許せぬ『竜』と対峙する。
『超越者』と『竜』が、共に蜥蜴人の研鑽の延長線上に在り得るものか否か、今のルチルには判らない。しかし彼らはいずれも、本来の志など疾うに失っているようにしか見えなかった。
『竜』に成る事とは、ただ盲目的に創造神の残した言葉に従う存在に成るという事なのだろうか。
あれが、階梯を昇り詰めたヒトの成れの果てか、と。
あれが、蜥蜴人の夢の果てか、と。
落胆とも絶望とも、怒りともつかぬ想いが疑問を生み、幼い夢を蝕んだ。
(まるで、老害じゃないか)
あんな形で今を生きる人々の敵になる事が、蜥蜴人の夢だなんて酷すぎる。いくら何でもあんまりだ。
そんな想いを抱くうちにルチルは、生まれて直ぐに死ぬはずだった自身が生き延びた意義を――そして、蜥蜴人として生を受けた意味を、考えるようになった。
もし、それらに意味があったと言うならば。
意義をこれから、生み出すとするならば。
「神座に至り、後に続く同胞達が己を失わず『竜』に成れるように――世界の理を、書き換えること」
戻る事の許されぬ階梯へと足を踏み入れたルチルだからこそ、それを目指すのだ。
嘗て自身が目指した大空を、同胞達が自由に飛ぶ様を夢見て。
ルチルは今日も、旅を続ける。
●
ルチルが目を開けると、そこには一面の花畑が広がっていた。
頭上を見上げれば、青く、広い空がどこまでも続いている。
不思議な事に、これが夢の中の光景であるとルチルは理解していた。
あまりにも美しい花畑を前にして、ルチルは足を踏み出すのを思わず躊躇う。動かぬ両脚に違和感をおぼえて見下ろせば、何故か爪先が透けて見えた。
「私達の夢を守ってくれて、ありがとうございます」
「……!」
気が付けば、目の前に蜥蜴人の少女が立っている。
見知らぬ誰かのようにも、知っている誰かのようにも見える。あどけない笑顔を浮かべた少女はルチルを真っ直ぐに見つめて、問うた。
「貴方の夢は、叶いましたか?」
少女の声が、頭の中で木霊する。
(ああ、そうか……)
再び見下ろしてみれば、ルチルの両手両脚はもう殆ど消えかかっていた。
これはきっと、来るとも知れぬ未来を夢見ているのだと。
夢の中で、自分は今、最後の階梯を昇ろうとしているのだと。
ルチルは、この世界から消えていく感覚を全身で感じながら、そう理解した。
「――叶ったよ」
身体が消える。まるで泡のように。
少女はルチルの答えを聞いて、さらに大きく笑ってみせた。
「遠い未来、空の向こうを見た誰かが、私の残したものを思い出してくれるだけでいい。……それまでは、ここでゆっくり待つとするさ」
身体が消え失せても、名を失っても。神と成ったルチルは、きっと其処に漂い続ける。
そしていつか、後に続く同胞達が自由に飛べる翼を得て、大空へと羽搏く頃。
――彼らを守り慈しむ神として、彼らの選ぶ未来を見届けたい。
assignment【DA】史実ノベル 関連特設ページ
メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。