【DA】リーンエスの耳
海神 江流/ クリスタリア・ラズベリル
『ノベルタイトル:仙望、天涯より落つる』弓月 蒼
●翼をください
人が生来持ち得る才能、と言うのは決して自分が望んだ物ではない。
それは『紫の君』と呼び称され、王国社交界の最上の華の一つに数えられる『紫水晶 』の至宝。
クリスタリア・ラズベリルの如き“優等生”が語るには、余りにも残酷過ぎる言葉であり。
故に、彼女がそんな感情を第三者に漏らす事は、言葉を手繰る様になってより十数年唯の一度も無かった。
彼女は持たざる者の対局に位置する恵まれた侯爵家の令嬢であり、美貌、智謀、人脈、目利きに政治観、如才無さ。
凡そ貴族令嬢が備えるべきとされるあらゆる分野に於いて、然程労せずして一定の成果を上げる。
そういった“才人”とされる資質を多く有していた。当然幾多嫉妬される事はあれど、羨望の方が遥かに多く。
敵対する者を静粛に、丁寧に取り除いていった結果。彼女は誰の前でも仮面 を脱ぐ事が出来なくなった。
そんな事を望んだ訳ではなくとも、自然と周囲は彼女に完璧を求めた。それが当たり前であるように。
果たして不幸が有るとすれば。余人であれば苦痛だろうそんな期待に彼女が応えられてしまった、と言う異常だろう。
常人ならば徐々に首を絞められるかの如き呪いは、彼女にとって少し退屈。と言う程度の些細な悩み事だった。
そんな程度のものどれほど降り募ろうとも、敢えてまじまじと直視する必要も無いくらいの。
“俺は、この学園は王国外の者が王国を学ぶという、外交窓口でもあると受け取っている”
いつからだろう。敢えて目を内側へと向け続け、優れた自分は恵まれている。と思い込もうとしていたのは。
“確かに。私自身の見識の狭さを認めますわ。お名前を伺っても宜しくて?”
いつからだろう。この『王国 』の外にも世界は広がっている。そんな事実をそっと水底へ沈めたのは。
“――――海神、江流”
いつからだろう。異国の黒い眼差しに映る境界線の外側を、一緒に見てみたいと望む様になったのは。
“――――エル様、私貴方に興味があります”
気付かなければ、幸せでいられた。自分が籠の鳥であるなんてこと。
知ろうと思わなければ、微笑んでいられた。それがどれほど退屈であったとしても。
それが当たり前であれば良かった。それで満足していられたなら目を瞑っていられた。
けれど“そうでない”――――と突き付けられて。彼女はその先を見たいと望んでしまった。
――――一度芽吹いた好奇心は、止まることなく貪欲にその枝葉を伸ばしていき。
自分でも気付かなった自分と何度も何度も向き合って。クリスタリアはようやく一つの答えに至る。
何でも出来る彼女には、けれど鳥籠を開ける才能だけが足りなかった。
多くの開明的な。或いは向こう見ずな貴族達に出来るだろうことが、彼女にはどうしても出来なかった。
だとしたら。
その手を引いて、一緒に外を見ようと言ってくれた人に――――惹かれない筈が無かったのだ……と。
■
――――雲のように生きていきたい、と思っていた。
それは自由と言い換えても良い。『紫水晶の婚約者』海神 江流は、いわゆる世捨て人の類である。
当人、その自覚はないが。彼の語る“仙人”という概念は凡そ大陸 に於いて一般的な物ではない。
同様に、唯人 がヒトの枠組みを超えて生きる方法論、というのも似たような話となる。
古今に於いて短命種――――例えば唯人 の寿命上限の解消に挑んだ魔法使い は数居るが。
現実的にそれが実用化された類例は皆無と言って良い。縦しんば――――それに近い成果が上がったとして。
それが人語に上ることはない。組織なり、国家なり、或いはそれ以上の存在によって秘密裏に排除されるからだ。
それほどに、寿命を伸ばすというヒトの命題は同時に、解明されてはならない危険性を内包する。
特に“為政者”にとって見れば。魅力的な研究材料でありながら、多大な火種の元と言っても過言ではない。
では、その様な分野に邁進する人間を、果たして世俗の目線では何と呼ぶか。
奇人変人、成果を示せば異才ないし奇才と呼ばれよう。しかしいずれにせよ――――その方向性を一言で表すなら。
海神 江流は、いわゆる世捨て人である。市井に益する事を本質とする青き血。“貴族”の対極に在る。
(さて――――そろそろかな)
『紫水晶 』侯爵領は『王都』グランスパーダから乗合馬車で直通1本。
貴族派の貴族の所領の中でも最も交通の便の良い所領の1つである。それには同領の治安の良さが響いている。
当然の話ではあるが、王国からの支援はあるにせよ“乗合馬車”の運営は慈善事業ではない。
商業的には長く、安定して、流通の太い経路に人は集まり、馬車主も当然利益還元を重視する。
そうなれば“問題が起き難い”と“距離的に近い”が両立する地域と言うのは自然と商路開発が進む物。
昨今、自らの婚約者の領地運営について少しでも学ぼうとしている江流は、漸く彼の地の強みが分かって来た。
何故、これと言った特産物も無い土地が“侯爵領”に選定され、同家がその権勢を維持し続けられるのか。
“交通の要所”かつ“通商路”という利点は想像以上に大きい事なのだと、いざ通うようになって思い知る。
貴族でない者が『王都』内に邸宅を持つ事は非常に難しい。しかし、『紫水晶』領ならばそれが叶う。
以前であれば、まるで興味も持たなかっただろうことに江流が意識を向け出したのは、単 に。
一人で何でも出来るのに江流の言葉を聴きたがる――――そんな想い人の力になりたいが為だと言えた。
此度は少し休みが取れるらしいと聞いて、態々早朝から乗合馬車に跳び乗る事を選ぶ彼も彼ではあるが。
全く対極の相手に惹かれ人生の選択が明後日の方向へ狂ったという意味で、2人は似た者同士だと言えた。
●紫の華が咲く頃に
「江流様! 言って下されば迎えを出しましたのに……」
王国風の発音の癖が抜けたのはいつ頃だったろうか。
呼び方が自然になったと言うのは、面映いと言うべきか。もっと率直に気恥ずかしいと言うべきか。
実際問題。指摘される事も無ければ意識する事は少ないが、江流とクリスタリアの年齢は一回り程も違う。
外見だけであれば童顔気味の江流なので、例えば着飾って2人で並んだ場合然程の違和感はないが。
「ああ、いや……それほどの事じゃ無いだろ?」
「それほどの事です、私にとっては!」
その一挙一動。細かい仕草まで見て行けばクリスタリアの挙動は如何にも“若い娘”のそれだ。
領主業で多忙な彼女の久方の休みに『紫水晶 』領を訪れた所。開口一番手を取られた身としては。
そういった如何にも恋人に対する振る舞いを受けると、やはりどうにも動揺の方が先に立つ。
間近まで近付いて漸く気付く、淡く儚い花の香りは胡蝶蘭 だろうか。
クリスタリアに併せて少しずつ勉強している最中では有るが、蘭の中でも特に香りの淡い物。
つまりは――――“本当に近くに居なければ気付かない”香水をつける――――用途など限られている。
事実、出迎えに出て来た侍女も彼女以外僅か1人と言う少なさだ。
これは事前に、クリスタリアから何かしら家臣たちへ言い含めてあったに違いない。
(何と言うか……なるほどなぁ……)
記憶の中では遥か以前の様に感じるが、暦の上では約2年と少し。
紆余曲折を経て、現在の関係性に至るまでも大概様々な側面を見て来た心算だったが。
現在の彼女を見るにまだまだそれが全てではなかったのだと思わずにはいられない。
何せ、今江流の手を引いて自室へ拉致せんとするクリスタリアの周囲にはハートが飛んでいる。
その愛情表現たるや全力過ぎて、“未来の婚約者”という立ち位置を得てからも一向に慣れる気がしない。
もちろん比喩表現ではなく幸せそうで愉しそうな仕草を見れば、男冥利に尽きるとも言えようが。
「今日の為に焼菓子 を焼いてみたんです。後で侍女に持って来させますね?」
足取りすら跳ねるが如く。クリスタリアよりもう少し冷静な江流はこれが何時まで続くのか。
それだけが、正直ほんの少し恐い。いつか自分の役割は無くなってしまうのではないか――――と。
風の噂で聞いた通り――――彼女の恋愛経験が乏しいと言うのは何の誇張も無い事実である様だった。
■
「あ、江流様口元に粉が付いてます。じっとしていて下さいね……」
「ああ、ごめん。焼菓子は美味しかったよ、ありがとう」
かくの如く、話はあまり順調には進んでいなかった。クリスタリアの位置が近過ぎる。
肩が触れる様な場所に座られては、真面目な話などことほど左様に全力で脱線するに決まっている。
「と言うか、近くないかな?」
「婚約者同士、このくらい普通ではないでしょうか」
薄紫の瞳がじっと向けられると、そんなものかなと納得してしまいそうになるが。
そもそもが彼の“婚約”は、現時点では未だクリスタリアしか確約していない仮初の身分である。
勿論、江流の側に否やは無いのだが。貴族であり領主である彼女との“婚約”には相応の手順がいる。
『帝都』と言う火種が燻る状況下では、そういった形式的手続きはどうしても後回しになる訳である。
そんな事情を鑑みれば今日という時間は貴重な物だ。江流は自らの感情強く制し話を戻す。
「あー……っと、王国貴族の在り方そのものが変わりかねない状況なんだろ? 君は、どうしたいんだい」
「どう、とは? あ。結婚式の内容は一緒に決めましょう。領民へのお披露目も必要ですし」
「それはまあ追々ね。いや、そうではなくて。
例えば……君がもし王党派に繋がりが必要なら少しは力になれそうなんだけれど」
そうまで言い募って、漸くクリスタリアは少しだけ考えるように視線を上向け。
その隙に江流は婚約者との間に拳一つ分ほど間を空けた。理性の防御力も無限大ではないのだ。
「少なくとも。当面『紫水晶 』は『貴族派』で居るしかないかと思います。
『集権派』と縁が出来れば一番話が早いですが、そうでなくとも義妹 との約束も有りますから」
現在、『紫水晶』は人材育成に特別力を入れている。後々奪還を果たした際に『帝国』へ送る為だ。
その都合上、派閥争いに加担する余力は然程無く。今“国内事情”に合わせ派閥を動かす損失の方が大きい。
「結局。“『貴族』の力を削ぐ”方針が動かない限り、王家に擦り寄っても未来はあまり明るくありません」
クリスタリア曰く。この先、貴族は派閥ではなく“各家の特色”が求められる。
他所の家で代わりの効かない新たな強みを持つ必要があり、それは『王国』に依らない物ほど良いとのこと。
「俺に、何か手伝えることはあるかな」
「そうですね。先ず私の騎士様には、領主業に専念する私の心身の安寧を護って頂かないと」
人差し指を立てたクリスタリアが悪戯っぽく微笑むのに、見詰められた江流が苦笑いを浮かべる。
どうもこのお姫様は、素直に領主を返上してやる心算など更々有りはしないようだ――――と。
●ここから未来の始め方
2人の話は差し当たって一つの区切りを見せる。
クリスタリアの求める方向性を考えると、江流はその視点を『帝国』まで向けた方が良いのだろうか……と。
ある種新たな難題を突き付けられた事になる訳だが、ともあれ“貴族”としてはこれまで通り。
彼女が家の舵を取り、江流は出来得る範疇でこれを支える。という体制は変わらないまま行くのだろう。
また、『王家』が幾らこれから先大鉈を振るうにしても。先ず影響が波及するのは過激派貴族。
現時点、王家に強く反旗を翻していない穏健派の貴族達は、徐々に力を削がれるにした所で直ぐではない。
この“空白期間”で如何に自家の発言力を“認めざるを得ない”立場を得るか。という点を考えた場合。
“人を育てる”と言う方向性は悪くない物の様に思えた。何せ、政治と違いこれなら江流も手助けが効く。
「……ところで江流様」
そんなこんなと両者の合意が取れたところで、冷めつつあった紅茶で唇を湿らせていると。
クリスタリアがおずおずといった風情で、何処と無く言い難い感を出して言葉を選ぶ。
「――――跡継ぎの、話なのですが」
「ん゛く゛――――ごほっ、ごほ、ごほ……」
さて、これはまた何か難題の類か。と身構えてた江流は、続いた言葉で思い切りむせた。
あとつぎ。跡継ぎ。そう、後継者――――だ。彼女は貴族で、領主。しかしそれ以前に年若い侯爵令嬢である。
王国貴族の平均的婚姻年齢を考えても決して若過ぎる事はない。適齢より多少年上な位だ。
であれば勿論貴族の令嬢の義務として。と言う側面はあるにせよ――――そう、あるにせよ。
極々一般的な貴族教育の有無を問わずして。互いに気持ちを伝えあった恋人同士であれば。
考えるべきことであり、考えなければならないことであり、一緒に考えて欲しいことでも――――ある。
江流とて『学園』で学ぶ身。王国貴族について通り一遍の知識はある。が、しかしそれはそれ。
これはこれで、あくまで平民生まれの身としては淑女の側からそういった話が出るのは衝撃であった。
――――衝撃で、あった。
そしてやはりと言うか当たり前と言うか。クリスタリアの側も切り出してこそみたものの。
決意や覚悟が背中を押してくれたのはここまでである。
「いえあの違います、その。これは婚約するに当たって必然的に考えておくべきことです。
貴族なら当たり前で、他意はありません。至極、至って普通のやりとりです。その……筈です」
白い肌を頬を朱に染め、視線を落とした様には羞恥が滲む。生粋の貴族、支配階級とあれども。
政略結婚でない道を自ら選んだ以上。ここで流石に“義務”と割り切れる話でも、ない。
しかし同時に。貴族とは血統であり血脈に根付く身分である……と言う前提に則る以上。
婿入りとなれば避けて通れない話題であることもまた、事実。
■
「ああ、うん。そうだな……そう……だな……」
何とも気不味い沈黙が場を満たすこと暫し。その重みに耐えかね江流が言葉を探す。
いずれはそういった話もしなければならない。とは――――思ってはいたものの。
いざ、子を作り次世代へ繋いで行く……などと言う話になると。これは想像でどうこうなる話ではない。
一方で、互いに“冒険者”と“貴族令嬢”として出会った手前。何となくで済ませば齟齬は必ず出て来る。
この辺で互いの価値観を共有しておかないと、後々問題になることは両者の共通認識ではあった。
ただ、その認識に欠点があるとするなら。とても気恥ずかしい、と言う事を度外視していた事だろうか。
「……俺は、君に何も棄てさせたくないし、その為に務めようと思ってる。だから、勿論君が望むなら――――」
「江流様は、如何思われているのかを聴かせて頂きたく存じます」
逃げ道は残さない、とばかりに告げられた言葉に。江流が思わず浮かべたのは苦笑いだった。
なるほど、確かに今のは少しばかり男らしくなかった。先ず両者の合意有りき、と思ってのことだったが。
その容姿も、振る舞いも、能力も、誰もが褒めそやすだろう彼女を以てしても、尚。
いや――――そんなクリスタリアだからこそ。特別な人にはきちんと認め、求めて欲しいのだと。
汲めど振る舞うことは難しく。それでも待つ姿勢を示されて、退くことが誰に出来るだろう。
「君と同じ未来図を共に描けたら、俺はそれを嬉しく思うよ」
「その……今後、貴族は今までの血統主義より、実力主義の側面が強くなって行くと私は見ています。
ただ、この『王国 』の貴族特有の男児継承は当分廃れないだろうと思われますので……」
「……?」
江流の言葉に俯いたクリスタリアが告げる言葉の意味が、今一つピンと来ないのは。
事実実力で次期領主を勝ち取った彼女の姿を見ているからか。或いは平民と言う生まれ故か。
しかし。才能以上に生来の生真面目さこそが広く優等生と賞賛される所以か。
耳まで赤くなった彼女の言は、それでも何だかんだと行き着く所まできちんと続く。
「――――1度で男児を産める自信は、その……なので」
口に含んだ紅茶を噴き出さなかったのは、一心に彼の努力の賜物に違いない。
結果、個室で2人きり、肩を寄せ合って語り合うにはあまりにも具体的過ぎる話に――――
――――江流が先に限界を迎えたことは、言うまでも無い。
●紫百合の手紙
……さて。
しかし例えばそんな想い人との一時だけで話が終わるならば、心も安らかでいられたに違いない。
だが、こと『紫水晶 』本邸に滞在するとなると必然、家主の了承が必要であろう。
そして次期領主こそクリスタリアであるが、同邸宅の所有権は未だ『紫水侯 』に在る。
そう――――未来の義父 ――――に、だ。
「……、遠慮はいらない、掛けたまえ」
「……あ、はい。失礼します」
繊細さ極まる、ガラス細工の様な空気が張り詰めていた。さしもの江流もこういった経験はない。
『紫水晶 』内の家督問題と向き合っていた時も、一切面識を持とうとはしていなかった。
結果、両者とも互いの距離感を測り兼ねているかの様で、何処か空々しい空間が此処に現出している。
「――――娘から話は聞いている。エル・ウミガミ。先ず私には今の所、君を排除する気はない」
淡々と続けられるのは“貴族”による“平民”の審査であり、其処に融和の余地はない。
あくまで『学生』であった『紫の君』とは異なり、『紫水侯』はこれまで“貴族”で在り過ぎた。
「娘は君と共に在る事を望んでいる。愛人で良いのではないか、と説いたが聞く耳持たずだ。
そして私は政争に敗れた身。悪戯に家を割り家門の力を落とすは本意ではない。君の滞在を認めよう」
彼の目線では、“平民”を自分達と同じ人種だと見做す価値観はない。それは『王国』貴族の常識だ。
その上で以て、彼の言は“娘が見初めた若者”に対する最上位の譲歩であると――――言えた。
勿論――――いざその審議 に晒されている江流からすれば針の筵以外の何物でもない訳だが。
「但し。今後万が一君の存在が娘の前途に影を落とすと判断した場合……私にも相応の覚悟はある」
この『王国 』に於いて。平民が貴族の家に入るとは、どういうことであるか。
その中で物を言われないだけの立場を得るには――――果たして何が必要なのか。
それを端的に言葉で示したオルジェントの宣は。ある種の親切心から成る物であることは疑いない。
彼の選択は、甘い物。優しい物ではない。固まった既存構造に刃を立てる事を、容易な道とは言えない。
それを畏れるならば、早めに手を引けと暗に諭され。それでも。江流の答えは決まっていた。
「――――それは杞憂であると申し上げておきます。俺は、彼女に何一つ捨てさせない。そう約束しましたから」
断言してのけた江流を一瞥し、僅か口元に笑みを描いた『紫水侯』が果実酒の注がれた銀杯を掲げる。
若さとは無謀であること。それは同時に――――愚かなほどに一途になれる、という事でもあるのだろう、と。
■
――――久々の休日を『紫水晶 』にて過ごしてより数日後。
『王都』グランスパーダ。
滞在していた江流の元へ配達されたのは、封蝋がされた紫の手紙。
既に幾度もやりとりを行い、この封書の形にも慣れた物だが。
以前彼が彼女へと送った手紙という対話の形に甚く感動したクリスタリアは。
忙しいだろう領主業の合間合間を縫って、時折こういった手紙を送って来る。
その間隔は一定ではないが、今回はまた随分と早かったな。等と思いながら封を切ると。
中から溢れた押し花の栞が掌へと落ちる。それは純白の“章魚蘭 ”。
こういった暗号めいたやり取りも。2人の間では慣れたものだ。
花を好む彼女の為に持ち歩いているカペル侯爵領謹製の花言葉辞典を取り出すと、頁を辿ること暫し。
記された文言を辿り、今が誰の目にも止まってない偶然に心から感謝する。
章魚蘭 の花言葉は、“祈り”、そして“いつまでもあなたと一緒に”
それはきっと、あの何かに付けて優れているとされる侯爵令嬢が示した如何にも不器用な。
けれど、これ以上も無く愛情を込めて刻まれた“独占欲”の発露であったのだろうから。
贈り物を懐に仕舞い、改めて便箋を抜き出し広げながら。あの穏やかな館の窓から覗く空を想う。
江流の自己評価は決して高い物ではない。そんな自分が何故これほど恋われるのかも分からない。
彼女の父親と相対した時は、真っ向からその懸念を否定してみせたものの。
想い人に“相応しい”だけの自分――――と言う未来像に、近付いている確たる自信が有る訳ではない。
いつか自分の役割は無くなってしまうのではないか。そんな不安が、全て消え去る事はきっとないけれど。
或いは、人を恋しく。愛しく想うと言うのは、誰であれそんな物なのかもしれない。
“前略、江流様
処暑の候、 天高く澄んだ空に陽射し猛る昨今、お変わり有りませんでしょうか。
過日の訪問有り難く存じます。今は屋敷の陽に影に、貴方の面影を見ては想い募る日々を送っています”
恋と言うのは落ちる物であると言う。であれば、平地を歩くようには生き難いに違いない。
いつか夢見た、霞を食んで無縫に生きる。そんな奇想に空いた陥穽は驚くほど深く。それでも不幸には程遠い。
今はただ彼女を信じ、彼女を大切にしていきたいと想う自分自身のことを信じれば良いのだと。
例えばそんな――――雲を掴む様な建前すら、信じて良い様な気がした。
人が生来持ち得る才能、と言うのは決して自分が望んだ物ではない。
それは『紫の君』と呼び称され、王国社交界の最上の華の一つに数えられる『紫水晶 』の至宝。
クリスタリア・ラズベリルの如き“優等生”が語るには、余りにも残酷過ぎる言葉であり。
故に、彼女がそんな感情を第三者に漏らす事は、言葉を手繰る様になってより十数年唯の一度も無かった。
彼女は持たざる者の対局に位置する恵まれた侯爵家の令嬢であり、美貌、智謀、人脈、目利きに政治観、如才無さ。
凡そ貴族令嬢が備えるべきとされるあらゆる分野に於いて、然程労せずして一定の成果を上げる。
そういった“才人”とされる資質を多く有していた。当然幾多嫉妬される事はあれど、羨望の方が遥かに多く。
敵対する者を静粛に、丁寧に取り除いていった結果。彼女は誰の前でも仮面 を脱ぐ事が出来なくなった。
そんな事を望んだ訳ではなくとも、自然と周囲は彼女に完璧を求めた。それが当たり前であるように。
果たして不幸が有るとすれば。余人であれば苦痛だろうそんな期待に彼女が応えられてしまった、と言う異常だろう。
常人ならば徐々に首を絞められるかの如き呪いは、彼女にとって少し退屈。と言う程度の些細な悩み事だった。
そんな程度のものどれほど降り募ろうとも、敢えてまじまじと直視する必要も無いくらいの。
“俺は、この学園は王国外の者が王国を学ぶという、外交窓口でもあると受け取っている”
いつからだろう。敢えて目を内側へと向け続け、優れた自分は恵まれている。と思い込もうとしていたのは。
“確かに。私自身の見識の狭さを認めますわ。お名前を伺っても宜しくて?”
いつからだろう。この『王国 』の外にも世界は広がっている。そんな事実をそっと水底へ沈めたのは。
“――――海神、江流”
いつからだろう。異国の黒い眼差しに映る境界線の外側を、一緒に見てみたいと望む様になったのは。
“――――エル様、私貴方に興味があります”
気付かなければ、幸せでいられた。自分が籠の鳥であるなんてこと。
知ろうと思わなければ、微笑んでいられた。それがどれほど退屈であったとしても。
それが当たり前であれば良かった。それで満足していられたなら目を瞑っていられた。
けれど“そうでない”――――と突き付けられて。彼女はその先を見たいと望んでしまった。
――――一度芽吹いた好奇心は、止まることなく貪欲にその枝葉を伸ばしていき。
自分でも気付かなった自分と何度も何度も向き合って。クリスタリアはようやく一つの答えに至る。
何でも出来る彼女には、けれど鳥籠を開ける才能だけが足りなかった。
多くの開明的な。或いは向こう見ずな貴族達に出来るだろうことが、彼女にはどうしても出来なかった。
だとしたら。
その手を引いて、一緒に外を見ようと言ってくれた人に――――惹かれない筈が無かったのだ……と。
■
――――雲のように生きていきたい、と思っていた。
それは自由と言い換えても良い。『紫水晶の婚約者』海神 江流は、いわゆる世捨て人の類である。
当人、その自覚はないが。彼の語る“仙人”という概念は凡そ大陸 に於いて一般的な物ではない。
同様に、唯人 がヒトの枠組みを超えて生きる方法論、というのも似たような話となる。
古今に於いて短命種――――例えば唯人 の寿命上限の解消に挑んだ魔法使い は数居るが。
現実的にそれが実用化された類例は皆無と言って良い。縦しんば――――それに近い成果が上がったとして。
それが人語に上ることはない。組織なり、国家なり、或いはそれ以上の存在によって秘密裏に排除されるからだ。
それほどに、寿命を伸ばすというヒトの命題は同時に、解明されてはならない危険性を内包する。
特に“為政者”にとって見れば。魅力的な研究材料でありながら、多大な火種の元と言っても過言ではない。
では、その様な分野に邁進する人間を、果たして世俗の目線では何と呼ぶか。
奇人変人、成果を示せば異才ないし奇才と呼ばれよう。しかしいずれにせよ――――その方向性を一言で表すなら。
海神 江流は、いわゆる世捨て人である。市井に益する事を本質とする青き血。“貴族”の対極に在る。
(さて――――そろそろかな)
『紫水晶 』侯爵領は『王都』グランスパーダから乗合馬車で直通1本。
貴族派の貴族の所領の中でも最も交通の便の良い所領の1つである。それには同領の治安の良さが響いている。
当然の話ではあるが、王国からの支援はあるにせよ“乗合馬車”の運営は慈善事業ではない。
商業的には長く、安定して、流通の太い経路に人は集まり、馬車主も当然利益還元を重視する。
そうなれば“問題が起き難い”と“距離的に近い”が両立する地域と言うのは自然と商路開発が進む物。
昨今、自らの婚約者の領地運営について少しでも学ぼうとしている江流は、漸く彼の地の強みが分かって来た。
何故、これと言った特産物も無い土地が“侯爵領”に選定され、同家がその権勢を維持し続けられるのか。
“交通の要所”かつ“通商路”という利点は想像以上に大きい事なのだと、いざ通うようになって思い知る。
貴族でない者が『王都』内に邸宅を持つ事は非常に難しい。しかし、『紫水晶』領ならばそれが叶う。
以前であれば、まるで興味も持たなかっただろうことに江流が意識を向け出したのは、単 に。
一人で何でも出来るのに江流の言葉を聴きたがる――――そんな想い人の力になりたいが為だと言えた。
此度は少し休みが取れるらしいと聞いて、態々早朝から乗合馬車に跳び乗る事を選ぶ彼も彼ではあるが。
全く対極の相手に惹かれ人生の選択が明後日の方向へ狂ったという意味で、2人は似た者同士だと言えた。
●紫の華が咲く頃に
「江流様! 言って下されば迎えを出しましたのに……」
王国風の発音の癖が抜けたのはいつ頃だったろうか。
呼び方が自然になったと言うのは、面映いと言うべきか。もっと率直に気恥ずかしいと言うべきか。
実際問題。指摘される事も無ければ意識する事は少ないが、江流とクリスタリアの年齢は一回り程も違う。
外見だけであれば童顔気味の江流なので、例えば着飾って2人で並んだ場合然程の違和感はないが。
「ああ、いや……それほどの事じゃ無いだろ?」
「それほどの事です、私にとっては!」
その一挙一動。細かい仕草まで見て行けばクリスタリアの挙動は如何にも“若い娘”のそれだ。
領主業で多忙な彼女の久方の休みに『紫水晶 』領を訪れた所。開口一番手を取られた身としては。
そういった如何にも恋人に対する振る舞いを受けると、やはりどうにも動揺の方が先に立つ。
間近まで近付いて漸く気付く、淡く儚い花の香りは胡蝶蘭 だろうか。
クリスタリアに併せて少しずつ勉強している最中では有るが、蘭の中でも特に香りの淡い物。
つまりは――――“本当に近くに居なければ気付かない”香水をつける――――用途など限られている。
事実、出迎えに出て来た侍女も彼女以外僅か1人と言う少なさだ。
これは事前に、クリスタリアから何かしら家臣たちへ言い含めてあったに違いない。
(何と言うか……なるほどなぁ……)
記憶の中では遥か以前の様に感じるが、暦の上では約2年と少し。
紆余曲折を経て、現在の関係性に至るまでも大概様々な側面を見て来た心算だったが。
現在の彼女を見るにまだまだそれが全てではなかったのだと思わずにはいられない。
何せ、今江流の手を引いて自室へ拉致せんとするクリスタリアの周囲にはハートが飛んでいる。
その愛情表現たるや全力過ぎて、“未来の婚約者”という立ち位置を得てからも一向に慣れる気がしない。
もちろん比喩表現ではなく幸せそうで愉しそうな仕草を見れば、男冥利に尽きるとも言えようが。
「今日の為に焼菓子 を焼いてみたんです。後で侍女に持って来させますね?」
足取りすら跳ねるが如く。クリスタリアよりもう少し冷静な江流はこれが何時まで続くのか。
それだけが、正直ほんの少し恐い。いつか自分の役割は無くなってしまうのではないか――――と。
風の噂で聞いた通り――――彼女の恋愛経験が乏しいと言うのは何の誇張も無い事実である様だった。
■
「あ、江流様口元に粉が付いてます。じっとしていて下さいね……」
「ああ、ごめん。焼菓子は美味しかったよ、ありがとう」
かくの如く、話はあまり順調には進んでいなかった。クリスタリアの位置が近過ぎる。
肩が触れる様な場所に座られては、真面目な話などことほど左様に全力で脱線するに決まっている。
「と言うか、近くないかな?」
「婚約者同士、このくらい普通ではないでしょうか」
薄紫の瞳がじっと向けられると、そんなものかなと納得してしまいそうになるが。
そもそもが彼の“婚約”は、現時点では未だクリスタリアしか確約していない仮初の身分である。
勿論、江流の側に否やは無いのだが。貴族であり領主である彼女との“婚約”には相応の手順がいる。
『帝都』と言う火種が燻る状況下では、そういった形式的手続きはどうしても後回しになる訳である。
そんな事情を鑑みれば今日という時間は貴重な物だ。江流は自らの感情強く制し話を戻す。
「あー……っと、王国貴族の在り方そのものが変わりかねない状況なんだろ? 君は、どうしたいんだい」
「どう、とは? あ。結婚式の内容は一緒に決めましょう。領民へのお披露目も必要ですし」
「それはまあ追々ね。いや、そうではなくて。
例えば……君がもし王党派に繋がりが必要なら少しは力になれそうなんだけれど」
そうまで言い募って、漸くクリスタリアは少しだけ考えるように視線を上向け。
その隙に江流は婚約者との間に拳一つ分ほど間を空けた。理性の防御力も無限大ではないのだ。
「少なくとも。当面『紫水晶 』は『貴族派』で居るしかないかと思います。
『集権派』と縁が出来れば一番話が早いですが、そうでなくとも義妹 との約束も有りますから」
現在、『紫水晶』は人材育成に特別力を入れている。後々奪還を果たした際に『帝国』へ送る為だ。
その都合上、派閥争いに加担する余力は然程無く。今“国内事情”に合わせ派閥を動かす損失の方が大きい。
「結局。“『貴族』の力を削ぐ”方針が動かない限り、王家に擦り寄っても未来はあまり明るくありません」
クリスタリア曰く。この先、貴族は派閥ではなく“各家の特色”が求められる。
他所の家で代わりの効かない新たな強みを持つ必要があり、それは『王国』に依らない物ほど良いとのこと。
「俺に、何か手伝えることはあるかな」
「そうですね。先ず私の騎士様には、領主業に専念する私の心身の安寧を護って頂かないと」
人差し指を立てたクリスタリアが悪戯っぽく微笑むのに、見詰められた江流が苦笑いを浮かべる。
どうもこのお姫様は、素直に領主を返上してやる心算など更々有りはしないようだ――――と。
●ここから未来の始め方
2人の話は差し当たって一つの区切りを見せる。
クリスタリアの求める方向性を考えると、江流はその視点を『帝国』まで向けた方が良いのだろうか……と。
ある種新たな難題を突き付けられた事になる訳だが、ともあれ“貴族”としてはこれまで通り。
彼女が家の舵を取り、江流は出来得る範疇でこれを支える。という体制は変わらないまま行くのだろう。
また、『王家』が幾らこれから先大鉈を振るうにしても。先ず影響が波及するのは過激派貴族。
現時点、王家に強く反旗を翻していない穏健派の貴族達は、徐々に力を削がれるにした所で直ぐではない。
この“空白期間”で如何に自家の発言力を“認めざるを得ない”立場を得るか。という点を考えた場合。
“人を育てる”と言う方向性は悪くない物の様に思えた。何せ、政治と違いこれなら江流も手助けが効く。
「……ところで江流様」
そんなこんなと両者の合意が取れたところで、冷めつつあった紅茶で唇を湿らせていると。
クリスタリアがおずおずといった風情で、何処と無く言い難い感を出して言葉を選ぶ。
「――――跡継ぎの、話なのですが」
「ん゛く゛――――ごほっ、ごほ、ごほ……」
さて、これはまた何か難題の類か。と身構えてた江流は、続いた言葉で思い切りむせた。
あとつぎ。跡継ぎ。そう、後継者――――だ。彼女は貴族で、領主。しかしそれ以前に年若い侯爵令嬢である。
王国貴族の平均的婚姻年齢を考えても決して若過ぎる事はない。適齢より多少年上な位だ。
であれば勿論貴族の令嬢の義務として。と言う側面はあるにせよ――――そう、あるにせよ。
極々一般的な貴族教育の有無を問わずして。互いに気持ちを伝えあった恋人同士であれば。
考えるべきことであり、考えなければならないことであり、一緒に考えて欲しいことでも――――ある。
江流とて『学園』で学ぶ身。王国貴族について通り一遍の知識はある。が、しかしそれはそれ。
これはこれで、あくまで平民生まれの身としては淑女の側からそういった話が出るのは衝撃であった。
――――衝撃で、あった。
そしてやはりと言うか当たり前と言うか。クリスタリアの側も切り出してこそみたものの。
決意や覚悟が背中を押してくれたのはここまでである。
「いえあの違います、その。これは婚約するに当たって必然的に考えておくべきことです。
貴族なら当たり前で、他意はありません。至極、至って普通のやりとりです。その……筈です」
白い肌を頬を朱に染め、視線を落とした様には羞恥が滲む。生粋の貴族、支配階級とあれども。
政略結婚でない道を自ら選んだ以上。ここで流石に“義務”と割り切れる話でも、ない。
しかし同時に。貴族とは血統であり血脈に根付く身分である……と言う前提に則る以上。
婿入りとなれば避けて通れない話題であることもまた、事実。
■
「ああ、うん。そうだな……そう……だな……」
何とも気不味い沈黙が場を満たすこと暫し。その重みに耐えかね江流が言葉を探す。
いずれはそういった話もしなければならない。とは――――思ってはいたものの。
いざ、子を作り次世代へ繋いで行く……などと言う話になると。これは想像でどうこうなる話ではない。
一方で、互いに“冒険者”と“貴族令嬢”として出会った手前。何となくで済ませば齟齬は必ず出て来る。
この辺で互いの価値観を共有しておかないと、後々問題になることは両者の共通認識ではあった。
ただ、その認識に欠点があるとするなら。とても気恥ずかしい、と言う事を度外視していた事だろうか。
「……俺は、君に何も棄てさせたくないし、その為に務めようと思ってる。だから、勿論君が望むなら――――」
「江流様は、如何思われているのかを聴かせて頂きたく存じます」
逃げ道は残さない、とばかりに告げられた言葉に。江流が思わず浮かべたのは苦笑いだった。
なるほど、確かに今のは少しばかり男らしくなかった。先ず両者の合意有りき、と思ってのことだったが。
その容姿も、振る舞いも、能力も、誰もが褒めそやすだろう彼女を以てしても、尚。
いや――――そんなクリスタリアだからこそ。特別な人にはきちんと認め、求めて欲しいのだと。
汲めど振る舞うことは難しく。それでも待つ姿勢を示されて、退くことが誰に出来るだろう。
「君と同じ未来図を共に描けたら、俺はそれを嬉しく思うよ」
「その……今後、貴族は今までの血統主義より、実力主義の側面が強くなって行くと私は見ています。
ただ、この『王国 』の貴族特有の男児継承は当分廃れないだろうと思われますので……」
「……?」
江流の言葉に俯いたクリスタリアが告げる言葉の意味が、今一つピンと来ないのは。
事実実力で次期領主を勝ち取った彼女の姿を見ているからか。或いは平民と言う生まれ故か。
しかし。才能以上に生来の生真面目さこそが広く優等生と賞賛される所以か。
耳まで赤くなった彼女の言は、それでも何だかんだと行き着く所まできちんと続く。
「――――1度で男児を産める自信は、その……なので」
口に含んだ紅茶を噴き出さなかったのは、一心に彼の努力の賜物に違いない。
結果、個室で2人きり、肩を寄せ合って語り合うにはあまりにも具体的過ぎる話に――――
――――江流が先に限界を迎えたことは、言うまでも無い。
●紫百合の手紙
……さて。
しかし例えばそんな想い人との一時だけで話が終わるならば、心も安らかでいられたに違いない。
だが、こと『紫水晶 』本邸に滞在するとなると必然、家主の了承が必要であろう。
そして次期領主こそクリスタリアであるが、同邸宅の所有権は未だ『紫水侯 』に在る。
そう――――未来の義父 ――――に、だ。
「……、遠慮はいらない、掛けたまえ」
「……あ、はい。失礼します」
繊細さ極まる、ガラス細工の様な空気が張り詰めていた。さしもの江流もこういった経験はない。
『紫水晶 』内の家督問題と向き合っていた時も、一切面識を持とうとはしていなかった。
結果、両者とも互いの距離感を測り兼ねているかの様で、何処か空々しい空間が此処に現出している。
「――――娘から話は聞いている。エル・ウミガミ。先ず私には今の所、君を排除する気はない」
淡々と続けられるのは“貴族”による“平民”の審査であり、其処に融和の余地はない。
あくまで『学生』であった『紫の君』とは異なり、『紫水侯』はこれまで“貴族”で在り過ぎた。
「娘は君と共に在る事を望んでいる。愛人で良いのではないか、と説いたが聞く耳持たずだ。
そして私は政争に敗れた身。悪戯に家を割り家門の力を落とすは本意ではない。君の滞在を認めよう」
彼の目線では、“平民”を自分達と同じ人種だと見做す価値観はない。それは『王国』貴族の常識だ。
その上で以て、彼の言は“娘が見初めた若者”に対する最上位の譲歩であると――――言えた。
勿論――――いざその審議 に晒されている江流からすれば針の筵以外の何物でもない訳だが。
「但し。今後万が一君の存在が娘の前途に影を落とすと判断した場合……私にも相応の覚悟はある」
この『王国 』に於いて。平民が貴族の家に入るとは、どういうことであるか。
その中で物を言われないだけの立場を得るには――――果たして何が必要なのか。
それを端的に言葉で示したオルジェントの宣は。ある種の親切心から成る物であることは疑いない。
彼の選択は、甘い物。優しい物ではない。固まった既存構造に刃を立てる事を、容易な道とは言えない。
それを畏れるならば、早めに手を引けと暗に諭され。それでも。江流の答えは決まっていた。
「――――それは杞憂であると申し上げておきます。俺は、彼女に何一つ捨てさせない。そう約束しましたから」
断言してのけた江流を一瞥し、僅か口元に笑みを描いた『紫水侯』が果実酒の注がれた銀杯を掲げる。
若さとは無謀であること。それは同時に――――愚かなほどに一途になれる、という事でもあるのだろう、と。
■
――――久々の休日を『紫水晶 』にて過ごしてより数日後。
『王都』グランスパーダ。
滞在していた江流の元へ配達されたのは、封蝋がされた紫の手紙。
既に幾度もやりとりを行い、この封書の形にも慣れた物だが。
以前彼が彼女へと送った手紙という対話の形に甚く感動したクリスタリアは。
忙しいだろう領主業の合間合間を縫って、時折こういった手紙を送って来る。
その間隔は一定ではないが、今回はまた随分と早かったな。等と思いながら封を切ると。
中から溢れた押し花の栞が掌へと落ちる。それは純白の“章魚蘭 ”。
こういった暗号めいたやり取りも。2人の間では慣れたものだ。
花を好む彼女の為に持ち歩いているカペル侯爵領謹製の花言葉辞典を取り出すと、頁を辿ること暫し。
記された文言を辿り、今が誰の目にも止まってない偶然に心から感謝する。
章魚蘭 の花言葉は、“祈り”、そして“いつまでもあなたと一緒に”
それはきっと、あの何かに付けて優れているとされる侯爵令嬢が示した如何にも不器用な。
けれど、これ以上も無く愛情を込めて刻まれた“独占欲”の発露であったのだろうから。
贈り物を懐に仕舞い、改めて便箋を抜き出し広げながら。あの穏やかな館の窓から覗く空を想う。
江流の自己評価は決して高い物ではない。そんな自分が何故これほど恋われるのかも分からない。
彼女の父親と相対した時は、真っ向からその懸念を否定してみせたものの。
想い人に“相応しい”だけの自分――――と言う未来像に、近付いている確たる自信が有る訳ではない。
いつか自分の役割は無くなってしまうのではないか。そんな不安が、全て消え去る事はきっとないけれど。
或いは、人を恋しく。愛しく想うと言うのは、誰であれそんな物なのかもしれない。
“前略、江流様
処暑の候、 天高く澄んだ空に陽射し猛る昨今、お変わり有りませんでしょうか。
過日の訪問有り難く存じます。今は屋敷の陽に影に、貴方の面影を見ては想い募る日々を送っています”
恋と言うのは落ちる物であると言う。であれば、平地を歩くようには生き難いに違いない。
いつか夢見た、霞を食んで無縫に生きる。そんな奇想に空いた陥穽は驚くほど深く。それでも不幸には程遠い。
今はただ彼女を信じ、彼女を大切にしていきたいと想う自分自身のことを信じれば良いのだと。
例えばそんな――――雲を掴む様な建前すら、信じて良い様な気がした。
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メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
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