【DA】リーンエスの耳

エリカ・プレトリウス
『ノベルタイトル:密やかな婚儀と、未来への誓い』紀藤トキ
●
午後から調べ物に注力していたエリカ・プレトリウスは、ふと自分の集中力が途切れるのを感じた。何か予定があっただろうかと考えれば、部屋へ日の入る角度から思い当たることがある。
「そろそろ、テオが帰ってくる時間ですね」
恋や愛が分からない自分では、テオバルト・リーフェンシュタールに同じ熱を返すことは出来ない。その事を申し訳なく思い、形だけでも良き伴侶を演じようと思った。幸い、手本としては貴族らしからぬおしどり夫婦が身近に居る。子爵がしばらく屋敷を空けて帰ってくるときには、夫人は玄関まで迎えに出る人だった。それを真似ようと、彼の帰宅に備えて身支度を調える。
「お嬢様も、テオバルト様をお慕いしているのですね」
「……ちゃんと、そう見えていますか?」
嬉しそうに言う年配のメイドに疑問形で返すと、上品な笑みが返された。子爵夫人の輿入れの際に実家から付いてきた彼女は、社交に縁遠い子爵家には過ぎた人物だと聞いたことがある。本物のエリカが存命であれば、その手腕も存分に振るえたのだろうと思うと、爺と自分で勝手に相手を見つけて来たことが少し申し訳ない。
「貴女から見ても、テオは子爵家に相応しい人物ですか」
「まあ、ご不安になったのですか? ほほほ、大丈夫ですよ。テオバルト様は立派な方ですわ」
優しく言う彼女だけで無く、爺も、シュルトハイス子爵夫妻も、短い時間の間に彼を懐に受け入れていた。善人ばかりで不安になるようなシュルトハイス子爵家であるが、だからこそ外側の人間を懐に入れる際の警戒心は強い。その厳しい選定眼を潜り抜けた理由は、やはりエリカへの態度だろう。
「お嬢様を大事にしている事は、もう胸やけがしそうな位にはっきりわかります。溺愛ですわね」
「溺愛……」
溺愛というのは、溺れそうな位に愛を注がれることらしい。しかし、底が抜けた器に幾ら愛を注いでも、報われる事が無ければ、いつかは注ぐ愛も尽きるのでは無かろうか。そうなった時、彼が変わってしまう事は無いのだろうか。誰かに聞いた恋愛物語によれば、溺愛は行きすぎれば監禁などに発展してしまうものらしい。どうして監禁が愛の発展形なのか、聞けば聞くほどに愛というものがエリカにはわからなくなった。
(そういえば、こうしてテオの迎えに時間を使えるようになったのは、その『溺愛』のお陰なのでしょうか……)
以前であれば睡眠時間を削らなければ終わらなかった物事が、テオバルトが子爵家に滞在するようになってから、余裕を持って片付くようになっていた。身体は楽になったし、気持ち的にも追われているような感覚は無くなったと思う。子爵家への恩義という理由があるエリカに負けぬ程に、彼が力を尽くしてくれているのは日々見ていた。ありがたいと思うたびに、申し訳ないという気持ちがまた静かに積もる。
●
「ただいま。エリカ。出かけていた間、何も変わりは無かったかな」
「お帰りなさい、テオ。はい、恙なく」
玄関で雨除けの外套を受け取り、エリカは頷く。今日は、家中の者だけでテオバルトとエリカの結婚を祝うつもりだった。子爵夫妻には内緒でとエリカが言い、爺をはじめ家人も快く協力してくれている。準備の間にバレぬよう、シャーフヴルムの街へ視察という名のお出かけに出て貰っていた。主役であるエリカとテオバルトの衣装などの準備も調っている。
「私の養子縁組については、外に問題を生じないならば不干渉でいてくれるそうだよ。侯爵家は以前から大凡のことは把握していたようだ」
「わたしの事も、ご存じだったのですか?」
「異種族を子爵家の後援で学園に通わせているという時点で目立っただろうからね」
寄子の子爵家が問題を起こせば、寄親である侯爵家に失点が付く。中央の政治闘争に熱心な寄親であれば、子供の居ない子爵夫妻が異種族と親子ごっこをしている時点で制止してきただろう。今まで何事も言われなかったことが、間接的に侯爵家の方針を示していた。それでも、寄子の後継問題へ全くの無関心ということは無かったらしい。
「エリカがいくつかの商談で子爵家の名代として振る舞っていた事も知っていた。エリカが実質的な跡継ぎで私が傀儡なのかと探りを入れられた感じだよ」
「そうですか……。お疲れ様でした」
「うん。迎えに出てくれたエリカの顔を見て疲れは吹き飛んだけれどね」
そう言われれば、自分の気配りも無駄では無かったと知れて嬉しく思う。
「結婚式には名代を送ると言われたのだけど、家の者だけで小さく祝いたいとお話ししたら何とかご理解頂けたよ。どうしてもと言われたら、一騒動だったね」
「それは……。まさか、今日行うとは考えていらっしゃらなかったでしょうね」
呼べ、という命令形では無かった事に胸をなで下ろした。家族のためのささやかなサプライズパーティに上司の代理が顔を出す事になれば、お互いさぞ居心地が悪かろう。
「ただ、落ち着いた頃に、二人で挨拶に行く必要はあると思う」
「……できれば王都ではなく、御領地に侯爵様がお戻りの際に、お時間を頂ける形が嬉しいのですが」
「衆目の晒し者にするおつもりはないだろう。そこは大丈夫だと思うよ」
関係を公然のものとするつもりは無い。が、寄親をはじめ一部の相手には告知しなければ、独身のテオバルトへ要らぬ話が舞い込み続けるだろう。厄介ごとを避けるためにも、必要な相手には知らせるべきだ。その意味で言えば、エリカはテオバルトの実家へも話を通す必要があると思う。
(いずれ、ご挨拶に窺ってお許しを頂かないと……)
自分とテオバルトの婚姻は王国貴族としては非常識であると理解している。例え当人がこの関係に同意していたとしても、テオバルトの将来の可能性を自分の我意で潰してしまった事は間違いない。血の繋がった跡取りを普通の手段で残し得ない事も、申し訳なく思っていた。
「きちんと結婚しておくことには、私の虫除け以外にも良い事はあるから。多少の面倒事は我慢しないとね」
そんな気持ちを知ってか知らずか、テオバルトは自分の望んだことであるというスタンスを崩すことは無い。養子の伴侶となれば、子爵夫妻は誰憚ること無くエリカを娘と呼ぶことが出来るようになる。そうなればきっと喜ぶだろうと、爺も言うので、そうなのだろうとエリカも納得した。
「……ですが、テオが他の女性と関係を持ちづらくなるのでは?」
「ありえない、と言ってもエリカは信じてくれない?」
「テオの言葉は、信じています。信じると、決めましたから。ただ、わたしは必要以上に貴方を縛りたくは無い、です」
エリカは、今日のために用意した指輪を思いながらそう口にする。テオバルトはエリカへ愛を告げてくれるが、自分にはその愛というものがわからない。今のエリカには、テオバルトとの幸福な愛を演じることしかできない。せめて、このテオバルトという善き人を心から信じようと思った。信じ合う心を願って作った指輪には、薄青く控えめな花の意匠が施されている。
「愛するエリカから縛られるのであれば、契約であれ言葉であれ望むところだよ」
「……テオの着替えは爺達が用意しています」
「そうか。子爵夫妻の喜ばれる姿が楽しみだ」
「はい」
「もちろん私も楽しみだけどね」
わたしも、という簡単な同意をなぜか返すことが出来ず、エリカの心中にまた澱が積もった。
●
外出から戻った子爵と子爵夫人を、爺やメイドが言葉巧みに衣装室へと誘導する。扉を開けたエッカルトが固まり、夫の肩越しに中を見たアンジェリカも唖然と口元を手で抑えた。
「どう……。でしょうか」
友人や職人に手伝って貰い、自身の子爵領への思い入れも盛り込んだウェディングドレス姿を、二人に見せることがエリカの望みだった。心優しいシュルトハイス子爵夫妻が決して目にすることが出来ない、実の娘の晴れ姿の代用品として。
「エリカ、綺麗だなあ」
「本当に。素敵ね……。もっと近くで見ても構わないかしら?」
「あの、はい。どうぞ」
さすがに綿花を主産業とする家の奥方だけあって、子爵夫人は細かい工夫やアレンジにも目が行くようだ。自身を薔薇で飾った様子にエリカの友人の事を思い、透き通った薄布は最近のエリカが職人と幾度も相談していた新しい技法だと気づく。美しく結い上げられた髪やいつもよりも潤いのある肌つやを愛で、エリカの背後でやりきった顔をしている家人に頷いて見せた。女主人が役割を果たしている一方、子爵の方は潤んだ目元のままに立ち尽くすだけだ。それはそれで、花嫁の父らしい姿ではあった。
「……私は、もう何も心残りは無いな……」
「馬鹿なことを言わず、着替えてらっしゃいな」
「え、着替え……?」
「ドレス姿の娘のエスコートは、父の役割ですよ」
「お、おお! ああ、そうか、エリカの父の役割を私が……」
また置物になりそうな夫の背を押すように、夫人も部屋を後にする。二人の喜ぶ姿に、胸の奥が少し暖かくなった気がした。
●
食堂へ続く廊下に敷かれた赤い布を踏み、娘と父が歩んでいく。扉を潜り抜けた左右に家人、奥に夫人が並び、更に先にテオバルトと爺が立っていた。自分以上に緊張したエッカルトのお陰か、頭は冴えている。
「エリカ。私達の娘になってくれて、ありがとう」
「……お父様?」
「この国は、君に優しくは無かっただろう? 君はいつか、遠くへ旅立つと思っていた。その覚悟を、私もアンジェリカもしていたんだ」
前を向くエリカに、横を歩むエッカルトの表情を窺うことは出来ない。ここには返すべき恩義があり、果たすべき義務があると思う。けれども、それは冒険者として得た金銭や、王国からの権利を対価とする手段もあった。己の人生の一部を割いて、この地に残ることを選んだのは何故だっただろう。思考をまとめる前に添えた手が離れ、テオバルトへと委ねられる。
「娘を、頼む」
「はい」
初めて見るテオバルトの衣装の薄黄色は、生成りの綿の色だ。小汚い庶民の色と馬鹿にされそうな風合いを、デザインの力で瀟洒な装いに見せている。婚礼衣装の生地にあえてそれを選んだテオバルトの意を叶えたのは、ここにはいない彼女の友人だろう。
「とても綺麗だ、エリカ」
「……テオ。ありがとうございます」
自分と同じように、子爵領の事を考えてくれている。申し訳なく思うのでは無く、感謝の想いが先に立った。
「テオバルト・シュルトハイス。エリカ・プレトリウス。汝らは互いを信じ、支え、導き、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「誓います」
「はい」
愛が分からないと悩むエリカの事を、爺は知っている。誓いに嘘をつかぬよう、言葉を選んでくれたのだろう。愛することは無くとも、彼を信頼している。
「誓いの口づけを」
薄布を上げ、テオバルトが微笑する。
「目は閉じないの?」
「閉じるものなのですか?」
「いや。君が望むままに」
唇がそっと触れて、すぐに離れていく。もしも互いが求め合っていたのならば、情熱的な口づけを交わす所だったのだろうか。誓いの時を終えて居並ぶ家人へ向き直り、彼は次期子爵として挨拶をする。皆が喜びの表情を浮かべていた。涙を浮かべている者もいる。これで良かったのだ、と思った。
「エリカの本当のご両親も、喜んでくれていれば良いのだが」
「……え」
「以前より、気に掛けてはいたのだけれど。今日になるまで、見つけることはできなかったよ」
エッカルトの言葉に、エリカの目が揺れる。いつもの彼は、エリカがエリカでは無いことに触れようとはしなかったのに。
「アンジェリカも、もうずっと前から分かっている。私達は君にずっと甘えていた。至らぬ親だったと思う。……もしも、エリカが触れて欲しくないことだったら、二度とは尋ねないが。今日だから聞きたいことがあるんだ」
「……何、でしょうか」
「小さい頃から君と一緒だったあの子の、名前を教えてくれないか」
予想していなかったときに、予想していないことを言われ、エリカは当惑した。子爵令嬢を演じる時に、必要ない事だから隠そうと思った。隠し切れていると良いと思ってはいた。けれども、所詮は子供の浅知恵に過ぎないとも分かっていた。彼らは、エリカが隠そうとしていたものを、ずっと見て見ぬ振りをしていたのだろう。エリカ自身が彼らが見せようとしないところを見ないようにしてきたのと同様に。短いが深い葛藤の末、エリカは親友の名前を言葉にする。
「……、……ネム、です」
死に別れてから、ずっと口にすることが無かった単語を声にしたとたん、胸の奥から込み上げる物があった。
「そうか。……ネム君にも、今日の君を見て貰いたかったよ」
「……っ」
どうして今になってそのような言葉を掛けるのか。まだエリカでは無かった少女が嘆きの声を上げかけて、あってはならぬとこれまでのように蓋をしようとする。すぐに、堰を切って流れ出したこの衝動は、自分でも元に戻すことは出来ないと知った。祝いの席に涙は似つかわしくないのでは無いかと不安になる。けれども、不快そうな顔をしている者はいない。ならば、これで良かったのだろう。こうしても、良かったのならば。色々な想いに押し流されて、子供のように泣いてしまった。
●
涙を流すと言うことは、体力を使う事なのだと知った。目を覚ましたエリカは、隣で静かに息を立てている青年の横顔を見る。子供のように泣き明かして、妻の務めを果たせぬままに寝てしまったエリカを、テオはどう思っているだろうか。じっと見つめる気配に気づいたのか、新郎も目を開いた。
「……おはようございます、テオ」
「おはよう、エリカ。まだ夜は明けていないけれど。大丈夫かい? 今日は、止めておく?」
自分の中にも、激しい想いがあることを知った。あの感情は、爺やテオ、もしかしたら子爵夫妻へ感じている気持ちの先にあると思う。けれども、テオが抱いてくれている愛とはきっと違うのだ。エリカは彼を大事に思っていても、求めてはいない。そう、気づいてしまった。
「……いいえ。大丈夫、です」
愛のない結婚は貴族では当たり前の事。エリカがテオバルトを求めることは無くとも、その手に触れられて不快では無い。他の男性と、例えば見合いを試みた人達と、必要に駆られてそうすることを想像すれば、テオバルトの方が良い、と思う。
「テオ、貴方がそうしてくれるように、貴方を愛することが出来なくて、ごめんなさい」
優しく労るような触れ合いはそう長くは無く。うっすらと涙を浮かべたエリカの一言に、テオバルトは慌てたように上半身を起こした。
「……もしかしたら、不快な思いをさせてしまっただろうか。その、私はこういう経験が不足していて。事前に本当はしっかり学んでおくべきだったと思うのだが……。子爵家での日々にやりがいを感じてしまい、つい準備を疎かにしてしまった。本当にすまない」
「いえ。その。そういうことではない、です」
余裕綽々と言った普段の様子ではなく、早口の彼は見慣れない。いや、婚約の話をした時はこんな様子だった。エリカがまだ子爵令嬢を演じているように、テオバルトも頼れる子爵継嗣を演じていたのだろうか。素を見ても、自分の中の彼という人への信頼は揺るがないようだと気づいた。同じように、彼や皆が向けてくれる気持ちが、子爵令嬢を演じるエリカでは無い部分を見せていっても、変らないものだと良いと思う。
「少し、お話をしませんか」
「……そうだね。私も、その。義父上が仰っていたネム君のことを知りたい。君にとって大事な事だったのだろうに、今まで聞いたことがなかったから」
まだ夜は明けやらず、灯りをつけて茶を淹れる。ふんわりと漂う百合茶の香りは、心を落ち着かせた。思えば愛のない結婚の話を持ちかけて、心を捧げたいと答えられたあの日から、話をする機会が不足していたかもしれない。話すことが出来ないこともあるけれど、私では無くわたしを愛すると言ってくれた彼には、わたしの親友の話も聞いて貰いたかったのだと、気がついた。普段とは逆にエリカがたくさんのことを話し、テオバルトが時折相づちを挟む。いつの間にか、夜は明けていた。
「……君はやはり、愛情深い人だと私は思うよ。子爵夫妻を愛し、家人を愛し、領民を愛している。彼らに喜んで貰うために、サプライズパーティなんてことを思いつくくらいにね」
「そう、でしょうか」
「それは恋人へ向ける情熱的な愛情では無いかもしれないけれど、優しい君らしい家族への愛だ。そして、自惚れで無ければ、私はその気持ちを向けて貰っては居る、と思う。それで十分なんだ」
微笑む青年を、なぜか羨ましいと感じる。
「わたしも、いつか。テオのように誰かを愛する事があるのでしょうか」
「それは分らないな。もしかしたら私への気持ちが変ってくれるかもしれないし。あるいはいつか君が、私の知らない誰かへ身を焦がすような愛情を抱く時が来るとしても、それに負けないくらいに君を愛していた男がいたのだ、と思い出して貰えれば、嬉しい」
「……いつか、そうなるとしたら……」
エリカを知る皆が先立ち、彼が想い出になって、この名を捨てたとしても、忘れる事はないと思う。彼女は命ある限り、テオバルトという人間へ真心を尽くすと誓ったのだから。
午後から調べ物に注力していたエリカ・プレトリウスは、ふと自分の集中力が途切れるのを感じた。何か予定があっただろうかと考えれば、部屋へ日の入る角度から思い当たることがある。
「そろそろ、テオが帰ってくる時間ですね」
恋や愛が分からない自分では、テオバルト・リーフェンシュタールに同じ熱を返すことは出来ない。その事を申し訳なく思い、形だけでも良き伴侶を演じようと思った。幸い、手本としては貴族らしからぬおしどり夫婦が身近に居る。子爵がしばらく屋敷を空けて帰ってくるときには、夫人は玄関まで迎えに出る人だった。それを真似ようと、彼の帰宅に備えて身支度を調える。
「お嬢様も、テオバルト様をお慕いしているのですね」
「……ちゃんと、そう見えていますか?」
嬉しそうに言う年配のメイドに疑問形で返すと、上品な笑みが返された。子爵夫人の輿入れの際に実家から付いてきた彼女は、社交に縁遠い子爵家には過ぎた人物だと聞いたことがある。本物のエリカが存命であれば、その手腕も存分に振るえたのだろうと思うと、爺と自分で勝手に相手を見つけて来たことが少し申し訳ない。
「貴女から見ても、テオは子爵家に相応しい人物ですか」
「まあ、ご不安になったのですか? ほほほ、大丈夫ですよ。テオバルト様は立派な方ですわ」
優しく言う彼女だけで無く、爺も、シュルトハイス子爵夫妻も、短い時間の間に彼を懐に受け入れていた。善人ばかりで不安になるようなシュルトハイス子爵家であるが、だからこそ外側の人間を懐に入れる際の警戒心は強い。その厳しい選定眼を潜り抜けた理由は、やはりエリカへの態度だろう。
「お嬢様を大事にしている事は、もう胸やけがしそうな位にはっきりわかります。溺愛ですわね」
「溺愛……」
溺愛というのは、溺れそうな位に愛を注がれることらしい。しかし、底が抜けた器に幾ら愛を注いでも、報われる事が無ければ、いつかは注ぐ愛も尽きるのでは無かろうか。そうなった時、彼が変わってしまう事は無いのだろうか。誰かに聞いた恋愛物語によれば、溺愛は行きすぎれば監禁などに発展してしまうものらしい。どうして監禁が愛の発展形なのか、聞けば聞くほどに愛というものがエリカにはわからなくなった。
(そういえば、こうしてテオの迎えに時間を使えるようになったのは、その『溺愛』のお陰なのでしょうか……)
以前であれば睡眠時間を削らなければ終わらなかった物事が、テオバルトが子爵家に滞在するようになってから、余裕を持って片付くようになっていた。身体は楽になったし、気持ち的にも追われているような感覚は無くなったと思う。子爵家への恩義という理由があるエリカに負けぬ程に、彼が力を尽くしてくれているのは日々見ていた。ありがたいと思うたびに、申し訳ないという気持ちがまた静かに積もる。
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「ただいま。エリカ。出かけていた間、何も変わりは無かったかな」
「お帰りなさい、テオ。はい、恙なく」
玄関で雨除けの外套を受け取り、エリカは頷く。今日は、家中の者だけでテオバルトとエリカの結婚を祝うつもりだった。子爵夫妻には内緒でとエリカが言い、爺をはじめ家人も快く協力してくれている。準備の間にバレぬよう、シャーフヴルムの街へ視察という名のお出かけに出て貰っていた。主役であるエリカとテオバルトの衣装などの準備も調っている。
「私の養子縁組については、外に問題を生じないならば不干渉でいてくれるそうだよ。侯爵家は以前から大凡のことは把握していたようだ」
「わたしの事も、ご存じだったのですか?」
「異種族を子爵家の後援で学園に通わせているという時点で目立っただろうからね」
寄子の子爵家が問題を起こせば、寄親である侯爵家に失点が付く。中央の政治闘争に熱心な寄親であれば、子供の居ない子爵夫妻が異種族と親子ごっこをしている時点で制止してきただろう。今まで何事も言われなかったことが、間接的に侯爵家の方針を示していた。それでも、寄子の後継問題へ全くの無関心ということは無かったらしい。
「エリカがいくつかの商談で子爵家の名代として振る舞っていた事も知っていた。エリカが実質的な跡継ぎで私が傀儡なのかと探りを入れられた感じだよ」
「そうですか……。お疲れ様でした」
「うん。迎えに出てくれたエリカの顔を見て疲れは吹き飛んだけれどね」
そう言われれば、自分の気配りも無駄では無かったと知れて嬉しく思う。
「結婚式には名代を送ると言われたのだけど、家の者だけで小さく祝いたいとお話ししたら何とかご理解頂けたよ。どうしてもと言われたら、一騒動だったね」
「それは……。まさか、今日行うとは考えていらっしゃらなかったでしょうね」
呼べ、という命令形では無かった事に胸をなで下ろした。家族のためのささやかなサプライズパーティに上司の代理が顔を出す事になれば、お互いさぞ居心地が悪かろう。
「ただ、落ち着いた頃に、二人で挨拶に行く必要はあると思う」
「……できれば王都ではなく、御領地に侯爵様がお戻りの際に、お時間を頂ける形が嬉しいのですが」
「衆目の晒し者にするおつもりはないだろう。そこは大丈夫だと思うよ」
関係を公然のものとするつもりは無い。が、寄親をはじめ一部の相手には告知しなければ、独身のテオバルトへ要らぬ話が舞い込み続けるだろう。厄介ごとを避けるためにも、必要な相手には知らせるべきだ。その意味で言えば、エリカはテオバルトの実家へも話を通す必要があると思う。
(いずれ、ご挨拶に窺ってお許しを頂かないと……)
自分とテオバルトの婚姻は王国貴族としては非常識であると理解している。例え当人がこの関係に同意していたとしても、テオバルトの将来の可能性を自分の我意で潰してしまった事は間違いない。血の繋がった跡取りを普通の手段で残し得ない事も、申し訳なく思っていた。
「きちんと結婚しておくことには、私の虫除け以外にも良い事はあるから。多少の面倒事は我慢しないとね」
そんな気持ちを知ってか知らずか、テオバルトは自分の望んだことであるというスタンスを崩すことは無い。養子の伴侶となれば、子爵夫妻は誰憚ること無くエリカを娘と呼ぶことが出来るようになる。そうなればきっと喜ぶだろうと、爺も言うので、そうなのだろうとエリカも納得した。
「……ですが、テオが他の女性と関係を持ちづらくなるのでは?」
「ありえない、と言ってもエリカは信じてくれない?」
「テオの言葉は、信じています。信じると、決めましたから。ただ、わたしは必要以上に貴方を縛りたくは無い、です」
エリカは、今日のために用意した指輪を思いながらそう口にする。テオバルトはエリカへ愛を告げてくれるが、自分にはその愛というものがわからない。今のエリカには、テオバルトとの幸福な愛を演じることしかできない。せめて、このテオバルトという善き人を心から信じようと思った。信じ合う心を願って作った指輪には、薄青く控えめな花の意匠が施されている。
「愛するエリカから縛られるのであれば、契約であれ言葉であれ望むところだよ」
「……テオの着替えは爺達が用意しています」
「そうか。子爵夫妻の喜ばれる姿が楽しみだ」
「はい」
「もちろん私も楽しみだけどね」
わたしも、という簡単な同意をなぜか返すことが出来ず、エリカの心中にまた澱が積もった。
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外出から戻った子爵と子爵夫人を、爺やメイドが言葉巧みに衣装室へと誘導する。扉を開けたエッカルトが固まり、夫の肩越しに中を見たアンジェリカも唖然と口元を手で抑えた。
「どう……。でしょうか」
友人や職人に手伝って貰い、自身の子爵領への思い入れも盛り込んだウェディングドレス姿を、二人に見せることがエリカの望みだった。心優しいシュルトハイス子爵夫妻が決して目にすることが出来ない、実の娘の晴れ姿の代用品として。
「エリカ、綺麗だなあ」
「本当に。素敵ね……。もっと近くで見ても構わないかしら?」
「あの、はい。どうぞ」
さすがに綿花を主産業とする家の奥方だけあって、子爵夫人は細かい工夫やアレンジにも目が行くようだ。自身を薔薇で飾った様子にエリカの友人の事を思い、透き通った薄布は最近のエリカが職人と幾度も相談していた新しい技法だと気づく。美しく結い上げられた髪やいつもよりも潤いのある肌つやを愛で、エリカの背後でやりきった顔をしている家人に頷いて見せた。女主人が役割を果たしている一方、子爵の方は潤んだ目元のままに立ち尽くすだけだ。それはそれで、花嫁の父らしい姿ではあった。
「……私は、もう何も心残りは無いな……」
「馬鹿なことを言わず、着替えてらっしゃいな」
「え、着替え……?」
「ドレス姿の娘のエスコートは、父の役割ですよ」
「お、おお! ああ、そうか、エリカの父の役割を私が……」
また置物になりそうな夫の背を押すように、夫人も部屋を後にする。二人の喜ぶ姿に、胸の奥が少し暖かくなった気がした。
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食堂へ続く廊下に敷かれた赤い布を踏み、娘と父が歩んでいく。扉を潜り抜けた左右に家人、奥に夫人が並び、更に先にテオバルトと爺が立っていた。自分以上に緊張したエッカルトのお陰か、頭は冴えている。
「エリカ。私達の娘になってくれて、ありがとう」
「……お父様?」
「この国は、君に優しくは無かっただろう? 君はいつか、遠くへ旅立つと思っていた。その覚悟を、私もアンジェリカもしていたんだ」
前を向くエリカに、横を歩むエッカルトの表情を窺うことは出来ない。ここには返すべき恩義があり、果たすべき義務があると思う。けれども、それは冒険者として得た金銭や、王国からの権利を対価とする手段もあった。己の人生の一部を割いて、この地に残ることを選んだのは何故だっただろう。思考をまとめる前に添えた手が離れ、テオバルトへと委ねられる。
「娘を、頼む」
「はい」
初めて見るテオバルトの衣装の薄黄色は、生成りの綿の色だ。小汚い庶民の色と馬鹿にされそうな風合いを、デザインの力で瀟洒な装いに見せている。婚礼衣装の生地にあえてそれを選んだテオバルトの意を叶えたのは、ここにはいない彼女の友人だろう。
「とても綺麗だ、エリカ」
「……テオ。ありがとうございます」
自分と同じように、子爵領の事を考えてくれている。申し訳なく思うのでは無く、感謝の想いが先に立った。
「テオバルト・シュルトハイス。エリカ・プレトリウス。汝らは互いを信じ、支え、導き、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「誓います」
「はい」
愛が分からないと悩むエリカの事を、爺は知っている。誓いに嘘をつかぬよう、言葉を選んでくれたのだろう。愛することは無くとも、彼を信頼している。
「誓いの口づけを」
薄布を上げ、テオバルトが微笑する。
「目は閉じないの?」
「閉じるものなのですか?」
「いや。君が望むままに」
唇がそっと触れて、すぐに離れていく。もしも互いが求め合っていたのならば、情熱的な口づけを交わす所だったのだろうか。誓いの時を終えて居並ぶ家人へ向き直り、彼は次期子爵として挨拶をする。皆が喜びの表情を浮かべていた。涙を浮かべている者もいる。これで良かったのだ、と思った。
「エリカの本当のご両親も、喜んでくれていれば良いのだが」
「……え」
「以前より、気に掛けてはいたのだけれど。今日になるまで、見つけることはできなかったよ」
エッカルトの言葉に、エリカの目が揺れる。いつもの彼は、エリカがエリカでは無いことに触れようとはしなかったのに。
「アンジェリカも、もうずっと前から分かっている。私達は君にずっと甘えていた。至らぬ親だったと思う。……もしも、エリカが触れて欲しくないことだったら、二度とは尋ねないが。今日だから聞きたいことがあるんだ」
「……何、でしょうか」
「小さい頃から君と一緒だったあの子の、名前を教えてくれないか」
予想していなかったときに、予想していないことを言われ、エリカは当惑した。子爵令嬢を演じる時に、必要ない事だから隠そうと思った。隠し切れていると良いと思ってはいた。けれども、所詮は子供の浅知恵に過ぎないとも分かっていた。彼らは、エリカが隠そうとしていたものを、ずっと見て見ぬ振りをしていたのだろう。エリカ自身が彼らが見せようとしないところを見ないようにしてきたのと同様に。短いが深い葛藤の末、エリカは親友の名前を言葉にする。
「……、……ネム、です」
死に別れてから、ずっと口にすることが無かった単語を声にしたとたん、胸の奥から込み上げる物があった。
「そうか。……ネム君にも、今日の君を見て貰いたかったよ」
「……っ」
どうして今になってそのような言葉を掛けるのか。まだエリカでは無かった少女が嘆きの声を上げかけて、あってはならぬとこれまでのように蓋をしようとする。すぐに、堰を切って流れ出したこの衝動は、自分でも元に戻すことは出来ないと知った。祝いの席に涙は似つかわしくないのでは無いかと不安になる。けれども、不快そうな顔をしている者はいない。ならば、これで良かったのだろう。こうしても、良かったのならば。色々な想いに押し流されて、子供のように泣いてしまった。
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涙を流すと言うことは、体力を使う事なのだと知った。目を覚ましたエリカは、隣で静かに息を立てている青年の横顔を見る。子供のように泣き明かして、妻の務めを果たせぬままに寝てしまったエリカを、テオはどう思っているだろうか。じっと見つめる気配に気づいたのか、新郎も目を開いた。
「……おはようございます、テオ」
「おはよう、エリカ。まだ夜は明けていないけれど。大丈夫かい? 今日は、止めておく?」
自分の中にも、激しい想いがあることを知った。あの感情は、爺やテオ、もしかしたら子爵夫妻へ感じている気持ちの先にあると思う。けれども、テオが抱いてくれている愛とはきっと違うのだ。エリカは彼を大事に思っていても、求めてはいない。そう、気づいてしまった。
「……いいえ。大丈夫、です」
愛のない結婚は貴族では当たり前の事。エリカがテオバルトを求めることは無くとも、その手に触れられて不快では無い。他の男性と、例えば見合いを試みた人達と、必要に駆られてそうすることを想像すれば、テオバルトの方が良い、と思う。
「テオ、貴方がそうしてくれるように、貴方を愛することが出来なくて、ごめんなさい」
優しく労るような触れ合いはそう長くは無く。うっすらと涙を浮かべたエリカの一言に、テオバルトは慌てたように上半身を起こした。
「……もしかしたら、不快な思いをさせてしまっただろうか。その、私はこういう経験が不足していて。事前に本当はしっかり学んでおくべきだったと思うのだが……。子爵家での日々にやりがいを感じてしまい、つい準備を疎かにしてしまった。本当にすまない」
「いえ。その。そういうことではない、です」
余裕綽々と言った普段の様子ではなく、早口の彼は見慣れない。いや、婚約の話をした時はこんな様子だった。エリカがまだ子爵令嬢を演じているように、テオバルトも頼れる子爵継嗣を演じていたのだろうか。素を見ても、自分の中の彼という人への信頼は揺るがないようだと気づいた。同じように、彼や皆が向けてくれる気持ちが、子爵令嬢を演じるエリカでは無い部分を見せていっても、変らないものだと良いと思う。
「少し、お話をしませんか」
「……そうだね。私も、その。義父上が仰っていたネム君のことを知りたい。君にとって大事な事だったのだろうに、今まで聞いたことがなかったから」
まだ夜は明けやらず、灯りをつけて茶を淹れる。ふんわりと漂う百合茶の香りは、心を落ち着かせた。思えば愛のない結婚の話を持ちかけて、心を捧げたいと答えられたあの日から、話をする機会が不足していたかもしれない。話すことが出来ないこともあるけれど、私では無くわたしを愛すると言ってくれた彼には、わたしの親友の話も聞いて貰いたかったのだと、気がついた。普段とは逆にエリカがたくさんのことを話し、テオバルトが時折相づちを挟む。いつの間にか、夜は明けていた。
「……君はやはり、愛情深い人だと私は思うよ。子爵夫妻を愛し、家人を愛し、領民を愛している。彼らに喜んで貰うために、サプライズパーティなんてことを思いつくくらいにね」
「そう、でしょうか」
「それは恋人へ向ける情熱的な愛情では無いかもしれないけれど、優しい君らしい家族への愛だ。そして、自惚れで無ければ、私はその気持ちを向けて貰っては居る、と思う。それで十分なんだ」
微笑む青年を、なぜか羨ましいと感じる。
「わたしも、いつか。テオのように誰かを愛する事があるのでしょうか」
「それは分らないな。もしかしたら私への気持ちが変ってくれるかもしれないし。あるいはいつか君が、私の知らない誰かへ身を焦がすような愛情を抱く時が来るとしても、それに負けないくらいに君を愛していた男がいたのだ、と思い出して貰えれば、嬉しい」
「……いつか、そうなるとしたら……」
エリカを知る皆が先立ち、彼が想い出になって、この名を捨てたとしても、忘れる事はないと思う。彼女は命ある限り、テオバルトという人間へ真心を尽くすと誓ったのだから。
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メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。