【DA】リーンエスの耳

Alexandra・Hexe・Claudia/ マリステラ・コナー

『ノベルタイトル:拝啓、星空のあなたへ』弓月 蒼
●星の海の彼方から

 遍く人々の多くがそうであるように。そうである――――筈、であるように。
 人の命は望まれ育まれ、生まれ来る。其処には執着なり、慕情なり、偏愛なり、打算なり。

 何かしら望まれる理由がある。彼女の場合は衝動だった。当人らの認識は純愛だ(ともかく)として。
 若さとは省みない物、と言う見方もあるが。その是非は少なくとも今問うべき事ではない。

 ただ、齢若い貴族令嬢とその使用人。間に子が出来てしまえば多くの場合、あまり幸福な結末は辿らない。
 それは『王国』(このくに)における必然であり。往々にして、不幸の落差が大きいのは子を宿した側だ。

 金銭的余裕のある中堅貴族以上と異なり、下級貴族達にとって不義の子など危険(リスク)の大きい醜聞(スキャンダル)に他ならない。
 “星の海(マリステラ)”と名付けられた彼女は、そんな即興劇の後日談(エピローグ)として世に生を得た。
 珍しい話でもない。現在(いま)に至るまで無数に生じた、対策すら施されないありふれた悲劇である。

 ■

『王都』グランスパーダ内――――パンクリアース学園。
 その広大な敷地の外れに、引っ掛けられた銀のチェーン以外何の特徴もない粗末な墓標がある。

 学園の新入生ならば所以すら知らず。2年生以上であっても殊更話題に上がる事もない。
 さる老教師や一部学生だけが時折祈りにやって来る。そんなうら寂れた僻地に、彼女は座っていた。

『誓約の剣』Alexandra・Hexe・Claudiaは真剣な眼差しで手元を凝視し、こまめに布で擦る。
 手にしているのは当の。まさに眼前の墓標についさきほどまで掛かって風に揺れていた銀鎖である。

 雨風に晒され続けくすんでしまった輝きを取り戻さんが為、その表面を一心不乱に磨き早数時間。
 元通りの銀の輝きを取り戻した事を確認し終え、彼女は大いに満足そうに頷いた。

「……折角の装飾品が汚れたままでは、嫌ですよね」

 呟きに、応じなど有りはしない。墓標があることからも明らかな通り。
 Alexandraが語り掛ける相手は既にこの世界の何処にも居ない。星海の娘は、星と1つとなった。

 彼女が何故、“禁忌”と呼ばれるに至ったか。何故、討伐されなければならなかったのか。
 そういった事柄の経緯を探ったことは無い。興味が一切無いと言えば、きっと嘘になるだろうが。

 数十年と言う年月を経て尚、その体躯があくまで痩せた子供の姿を象っていたこと。
 その生が行き果てた後もこんな学園の片隅に葬り去られ、親族の一人も訪れた痕跡が無いこと。

 そういった断片断片に触れるにつけ。恐らく決して幸せな生き方をして来なかったろう事は分かる。
 ――――その、永遠に満たされる事の無かった孤独に。恐らく、自分が共感を感じている事にも。

(……この子は、私だった)

 親から棄てられ、人に利用され、宿業の炎に身を焼かれ、奈落の底で生きて来た。
 まるで辻褄合わせのように神の祝福とやらだけ与えられ。しかし、だから何だと言うのだろう。

 そんなもの誰も望んでいなかった。いっそ生きる力すら満足に無ければ利用価値すら無かったろうに。
 天稟とは望む者が望むよう得られる物ではない。故にそれは時に賜物となり、時に呪詛となる。

 ″禁忌″マリステラは後者の極端な例と言えたが。Alexandraも立場は異なれど大差はない。
 彼女らには才能があった。少なくとも、評価する者達にとって人格を無視するには十分な価値が。

 結果、Alexandraは破綻の末に自由を手にし。マリステラは破綻の末に幽閉と言う処分を下された。
 偶々そうなった。もし両者の生まれが逆であったなら、立場もまた入れ替わっていたろう。

(誰も省みなかった)

 禁忌の塔での戦い。彼女を護ろうと集った学園生達はその全てが『侵蝕』の支配下に在った。
 1人の例外も無く、マリステラと言う個人を想って行動を起こした者などAlexandra以外に居ない。

(誰も手を取りはしなかった)

 誰も彼もから忘れられていた。40年もの時間的隔絶は、世界から放逐されたと言うに等しい。
 その瞳が、人を映さなくなるのに十分な時間だ。彼女の存在が“禁忌”だ、と言うなら。

(――――私は、間に合わなかった)

 ただ愛されたかった子供を、“禁忌”に仕立て上げてしまった者達に罪は無いと言うのか。
 胸を焼く様な痛みがある。悔恨がある。もっと何か出来たのではないかと――――慙愧の念は燻るまま。

 手元で、銀のチェーンが風に吹かれてシャランと音を立てた。視線は掌へ向いたまま。
 もし今、『王都』を出れば明日には郊外まで行って戻れるだろうか。講義の時間は足りている。

「……あなたは、星が好き……だったはず」

 かつて彼女の後見人だった老教師とは、時折墓前で出会うにあたり幾つか言葉を交わしたことがある。
 その時語るがままに任せていた中で、何故かその部分だけはっきりと記憶に残っていた。

『王国』の古い言葉で、『星の海(マリステラ)』。如何にも貴族らしい教養を前提とした名だ。
 少なくともそう名付けられた瞬間には、彼女だって両親から愛情を向けられていたに違いない。

 そして恐らくは。彼女自身。決してその名を嫌ってはいなかったのだろう。例え親から拒まれても。
 でなければ、星空に想いを馳せたりする様になる理由が思い浮かばない。

「……見に行きましょうか、星空」

 それはふとした思い付きだった。普段であれば、他人の物(銀のチェーン)を勝手に持って行く。
 という行為そのものに抵抗を感じていた筈だが。今は、何故だかそうすべきだと思ったのだ。

 衝動的決断だと。そう言われてしまえば否定のしようもないが、止める者とて居ない。
 Alexandraは大切そうに形見の装飾を手巾(ハンカチ)に包むと、学園の門を後にする。

 ――――ただ一人、亡き友人との思い出を刻む為に。

 ■

『侵蝕(インクルージョン)』と名付けられた魔法がある。
 接触した人間の価値観の最上位に自らの存在を割り込ませる、極めて強力な認識操作。

 幾多の精神干渉系魔法の中でも接触と発動に時間差(タイムラグ)が無く、発動即ち無力化であると言う点から。
 国家秩序に対する内在危険性(リスク)が極めて高いとして、研究・再現が“禁忌”に指定された混沌魔法である。

 その魔法の開発者であり史上唯一とされる使用者は同魔法について、論文内でかくの如く記している。
 “この魔法は、誰もがお友達になれると言う可能性の証明”――――で、あると。

 同魔法使いは、魔法使いの塔に幽閉の末、後に暴走。周囲の学生達に多くの傷跡を残し討伐された。
 これは封を破った“禁忌”に対する当然の処分であり、国家秩序維持の為に不可欠な処置である。

 彼の魔法へ託された彼女の願い(ゆめ)は――――現在に至るまで実現していない。

●変彩の輝石は空を仰ぐ

『帝国』には“ヨゼフ・バルダス”を筆頭として、あくまで力をこそ希求する“実力派”と呼ばれる者達が居た。
 その主義は様々だが、『帝国』が人類の守護者足り得る為に必要な物……と言う観点で物を考えた時。

 “絶対的な力”を要件として挙げる者たちの多くは、これら実力派に属していると言って良い。
 Alexandraがかつて属していたと思われる研究機関『アマルガム』もその1つであろう。

 あくまで通り一遍のありふれた事象として、一定の社会的後ろ盾を。
 即ち“大義”を得た集団の研究は過激化する傾向にある。より明確な、華々しい、他所より優れた成果を。

 “人類の守護”と“絶対的な力”。目的と手段が反転するのにそれほど時間は必要なかった。
 Alexandra自身もまた、その研究被検体の一例であったのだろうと推測している。

 珍しい話でもない。現在(いま)に至るまで無数に生じた、対策すら施されないありふれた悲劇である。
 ■

『王国』において、市井に出回っている地図。と言うのは品質がそれほどは良くない。
 相応の金銭を代価として積み上げれば話は別だが、庶民が用いる物ならば高が知れている。

 何せ、大陸(ロスガリア)には危険が多い。旅中の難題と言えば蛮族(バルバロイ)、魔獣、野盗だが。
 傭兵や冒険者と言った護衛を雇わずに一般人がこれらに対処する事は、現実的に極めて困難だ。

 勿論旅を要する傭兵や冒険者と言った業種の人間の多くは自衛の為、より精度の高い地図を自前で持つ。
 彼らに先導を依頼するなら、一般庶民にとって必要な情報は“何処へ行きたいか”程度に集約される訳だ。

 例外的に、ある程度安全で舗装された旅道だけを選択的に移動するなら乗合馬車と言う手もあるが。
 いずれにせよ目的地さえ分かれば然程不便はなく。それも凡その方角程度で事足りてしまう。

 結果、多くの庶民は地図に金をかけない。商人もまた、需要が無い為積極的に供給しない。
 今回。冒険者の依頼と関係無しにAlexandraが利用したのは、そんな大雑把な地図の一枚だった。

「……恐らく、ここの筈ですね」

『王都』や『学園』に居ると感覚が狂うが、人手が入っていない純粋な自然環境と言うのは優しくない。
 地面は舗装されておらず、細かい凹凸が無作為に存在し、視界は暗く、草樹は好き勝手繁殖している。
 人が山に登ろうとして何故遭難するのかと言えば、方向性を見失う以上に度々視界を塞がれるからだ。
 その都度、自分の所在と移動距離を正しく測り凡その位置を把握すること……を、容易とは言い難い。

(日が暮れかかっています……急がないと)

『王都』郊外の、“これと言った名も無い小高い山”だと思って正直甘く見ていた。
 Alexandraは決して、自然環境への適応(サバイバル)能力が特別高いタイプではない。

 通り一遍の知識ならばあるし、冒険者稼業で得た経験も活かせなくはないが。
 さりとて人手の有無と言うのはそのまま自由度に直結する。単独で山を登るとはそういうことだ。

「山登りの経験はあまりないですが……シグモル火山に比べれば、こんな程度」

 真っ直ぐ進んでいる心算で、微妙に角度がズレていてもそれを指摘してくれる人間は居ない。
 目的地が明らかであっても其処に“辿り着くこと”は決して簡単ではない。

 もし切り取って見比べたなら断じて“同じよう”ではない風景が、“同じよう”に見えて来る。
 そんな山道を一歩一歩登って行くと、自分は果たしてどうしてこんな事をしているのだろう――――と。

 根源的な疑問と直面しそうになるが。その度、衣嚢(ポケット)に入れた銀鎖を確かめ意気を昂める。
 時節は冬。温暖な『王国』とは言え陽が傾くと風は冷たく。手が指先から悴んで来る。

 それでもAlexandraは足を止めはしなかった。例え発端は思い付きでしかなかったとしても。

「あなたもきっと、『学園』や塔以外の場所にも行ってみたかったですよね……
 ……もしも機会があったなら、一緒に旅なども出来たのでしょうか」

 “何も出来なかった”――――と。胸に落ちた後悔を憶えている。
 墓標を目の当たりにした時の喪失感を憶えている。そんな物自己満足だなんて分かり切っている。

 あれから何度も何度も墓前へ通って来た。語り掛ける度“間に合わなかった”自分と向き合って来た。
 どれほど手を伸ばしても、もう繋がる手はないのだと。そんな現実を呑み下す痛みと比べれば――――

 他所事を考えていた所為だろうか、樹の根に爪先を引っ掛け体勢を崩す。あっ、と思う暇も無かった。

(――――っ!!)

 受け身を取ろうとした瞬間、衣嚢(ポケット)の中の手巾(ハンカチ)から銀のチェーンが滑り落ちる。
 慌てて光源(ランプ)を地面に置き所在を探るが、指が冷え切って感覚が鈍い。

 焦りだけが心を急かす。指先が木々の鋭い葉先に触れて切れ、血が滲んだ。
 けれど、そんなこと気にすら留めず腐葉土の上を手探りで確かめる。カツ、と。固い手触りが指に触れた。

「ありました……!」

 拾い上げた銀鎖が月灯りに照らされて煌く。そんな夜空から射す光の先、木々の向こうに何か見えた。
 気持ちばかり逸ってそれまで気付かなかったが……遠くない場所に、水の音。

 転んで付いた土を払い、まるで何かに呼ばれでもしたかの様に歩を進めれば。
 樹木の帳を抜けた先――――すっかりくしゃくしゃになった地図を取り出し、その一点を確かめる。

(……ここが)

 突然視界が開けたその場所が、あれだけ探したのに見つからなかった小さな旅路の終着点。
 或いは彼女自身すら信じきれないでいた。それでも、心の何処かで確かに信じたかった目的地。
 山頂から流れた雪解け水が溜まったのだろう。小さな貯水湖が、青々とした水を湛え佇んでいた。

 ■

 古来より。人は自然の創造物に自らの願いや祈りを託して来た。
 若き夫婦は多産の獣に子宝を願い、貴人は輝石や花々に淑女を例え、夜に瞬く星々に切なる祈りを捧ぐ。
 流れる川に死者への餞を流し、縁結びの湖へは恋人達が硬貨や宝石を投げ入れる。効能の有無を問わず。
 その願いは無価値だろうか。その祈りは無意味だろうか。愚かだろうか。滑稽だろうか。

 だが人の想いとはそう割り切れる物ではない。例え不合理であろうとも、不合理こそが人なのだから。
 端的に言うなら、彼女が至った“貯水湖”はそんな不合理の一例である。

 望む者の前にのみ姿を顕し、望まない者の前には決して顕れることはない――――と。
 近隣の村々でまことしやかに語られる。語られるのみであり、断じて誰かが確かめた訳では無い夢物語。

 ――――その秘されし湖畔では、死者と語らうことが叶うと言う。

●闇天彩る星の下

 見上げれば、空には満天の星。
 確かそんな語りから始まる叙事詩があったと。Alexandraは座り込んだまま思い出していた。

 世界はあまりにも静かだった。辺りには獣の姿もなく、風すら吹いていない。
 貯水湖へ流れ込む水の、ちょろちょろと言う音だけが止む事無く続いている。他には何もない。

 しん、と静まりかえった闇夜を照らすのは、彼女が持ち込んだ光源(ランプ)1つ。
 誰も居ない。まるで幽玄の如き景色を見ていると、自分と世界との境界線が酷く曖昧になっていく。

 拾い上げたままだった銀のチェーンがシャランと鳴った。

「……旅の、話をしましょうか」
 誰にでもなく。自分にですらない。元より、特に饒舌な訳でも無い。
 けれどAlexandraは語り始めた。自らが自由の身を得てから辿った道程。当て所もない旅の記憶。
 出逢いがあり別れがあった。勝利があり敗北があった。未知があり学びがあった。
 冒険者となって縁を結んだ友人達の話。『学園』で出会った剣としての主の話。

 火山で出会った聡く青き獣の話。彼女が殊更興味を持ち、未だ発展途上にある折り紙なる遊戯の話。
 自分には何も無い、と思っていた彼女が積み上げた……この数年と言う、年月の話。

 そこにはAlexandraが生きた時間が在った。生きていたからこそ刻めた年月があった。
 今も脈打ち次代を望む、彼女の衝動の根源が在った。自覚のなかった変化が、確かにあった。

 命あればこそ。未来に想いを託すことが出来る。命続けばこそ。旅路の先は絶望ばかりではない。
 ――――そんな当たり前の。彼女の人生があった。

「シグモル火山帯は、本当に冬でも関係ないくらい暑くて、汗が滲む場所さえあるほどで――――」

 どうしてだろう――――と。感傷は、上白紙に溢した墨(インク)の様にほとりと落ちた。
 確かに、マリステラは罪を犯したのかもしれない。多くの人の心を弄んだのかもしれない。

 それによって沢山の人が傷付いたのかもしれない。今も苦しんでいるのかもしれない。
 けれどあの子は、“誰一人殺しはしなかった”。それを容易に出来る力があった筈なのに。

 命を奪うと言う単純で安易な選択肢を、決して。唯の一度も選びはしなかった。
 それは彼女が愛されたかったからではないか。愛情と言う物の本質を理解していたからではないか。

 誰だって同じ筈だ。独りは辛い。独りは寂しい。独りは苦しい。誰かに自分を認めて欲しい。
 そんなあの子がどうして殺されなければならなかったのか。どうしても吞み込めない。

 愛されたいとはそれほどの罪だろうか。手を繋ぎたいとはそこまでの咎だろうか。
 それが罪だと、咎だと言うのなら。大陸の地表を埋めるのは、罪人ばかりではないか。

 手段は正しくなかったかもしれない。その力は危険だったかもしれない――――だとしても。

(――――そんなもの、望んで得た訳じゃない)

 どうしてだろう――――どうして、あの子が救われてはいけなかったのだろう。
 ぽろ、と。頬を伝った一滴。その感触に気付いて、自らの頬に手を当てる。

 悔しさが胸を衝く。肺を満たす痛みは呼吸すら厭うかのよう。苦しくて、苦しくて、息も出来ない。
 見上げれば、空には満天の星。ここは水底だ。星の海に溺れて沈む。泡になって、沈んでいく。

(あなたが居ない)
 もっと違う可能性があった筈。声を交わして。手を重ねて。一緒に何だって出来た筈。
 そんな未来はやって来ない。分かっている。分かっているのだ、もう。嫌と言うほど。

「―――――ぁ―――――っ」

 噛み締めた声の代わりに、涙が毀れる。止め処無く。遣る瀬無く。ぽろぽろと涙が毀れて落ちる。
 独りだ。どうしようもなく、私は独りだと分かった。幼子の様に頭を振り、空に散る喪った半身を想う。

 右手に彼女の痕跡を握ったまま、左手を星空へ伸ばす。いっそ一緒に連れて行ってくれたら良かった。
 届かない。この水底からでは、星の海に届かない。どうして、私は間に合わなかったんだろう。

 それでも。存在しない可能性に縋りたい程、夜一色の闇に哀しさが、寂しさが募る。
 勝手な同情だ。過ぎた思い入れだ。似た環境に投影して自分自身を憐れんでいるだけだと。

 分かっていて尚、心が叫ぶのだ。だってあの時――――わたしは、確かに呼ばれた。
 そう感じたことは、決して嘘にはならない。

 ――――――銀のチェーンが、シャランと鳴った。

 ■

 何が発端だったのか、憶えていない。涙で濡れた視界は常にぼやけているかのようで。
 両目を擦った時だろうか。視線を落とした時だろうか。もう一度、湖畔へ向け直した時だろうか。

 最初彼女は先ず自分の目を疑った。月灯りの下、夜空に星を散らした長い髪。
 薄汚れた白衣を纏った、子供の様な小さな体躯。素足で、まるで踊るような軽快な拍子(ステップ)。

 薄靄を纏い、貯水湖の水面に少女が佇んでいた。Alexandraをの方へ振り返り、屈託なく笑う。
 その姿を見て更に数度瞬く。人は死んでしまえば、それで終わり。死者は決して戻らない。

 そんな“当たり前”が、2人の間には冷たく横たわっている。伸ばし掛けた手を、怯えるように諫める。
 マリステラは何かを喋っていた。唇は動いても声は届かない。聞こえない。けれど確かに。

「何……!? 何が、言いたいの」

 例えそれが恨み言であれ、聞き逃したくはなかった。だってそうしたらまた、必ず後悔する。
 溺れた子供が水を掻き分ける様に必死で這い寄るもやはり、何を言っているのかは分からない。

 彼女が楽しそうに掌を向ける。それに応じようとAlexandraもまた手を伸ばした。
 一瞬、脳裏に『侵蝕』なる魔法の作用が過ぎったが。そんな物、最早どうだって良かった。

 もしも手を取る事で価値観を書き換えられるなら、それで良い。恨んだりなんてしない。
 一緒に居たいと。ただそれだけを願って、湖畔の端から身を乗り出す様にして、指先が……触れる。

 “あ り が と ね”

 たった5文字。唇を読めたのは、僅かそれだけの時間。傾いだ身体が貯水湖に――――落ちる。
 本来なら聞こえただろう水飛沫の音は、何故だか全く聞こえなかった。

 ――――――――
 ――――――
 ――――

 ――――沈む。と、思った瞬間。湖畔の、最初に座り込んでいた辺りで慌てたように身を起こす。
 沈むも何も、彼女は貯水湖に全く近付いてなど無く。何であれば今はまだ夜中。

 随分長く泣いていた気分でいたが、夜明けですら程遠い。見上げれば、変わらぬ満天の星空。
 勿論、水面に佇む星の海の少女の姿などは無い。白昼夢。でないなら……ただの夢、か。

 気付いて、頬に手を当ててみれば涙の跡は確りと残っていた。良い齢して大泣きしたのは間違い無い。
 であれば……一体何処から何処までが現で、何処から何処までが夢だったのか。

 いや――――

(――――……何て度し難い)

 もしも自分の中に募る罪悪感に負けてあんな夢に溺れたのだとすれば、身の恥にも程がある。
 救えず、守れず、手を繋ぐことも出来ず、せめて何か出来ればと足掻く事すら満足に出来ないのか。

 自嘲気味な笑いと共に絶望感で掌を見つめる。

「……あれ」

 掌、から続く手首を見ると。其処には確かに握っていた筈の銀のチェーン。
 記憶では落して、拾い上げ、そのままだった。けれど銀鎖は確かに、手首を掴むように結ばれている。

 片手で持って片手に結ぶだけでも相当に困難な作業だ。寝惚けた様な頭であれば尚更の筈なのに。
 軽く引っ張ってみたところ全く外れそうもない。どう絡まればこんな結ばれ方をするのか。

 少しの焦りと共にチェーンの繋がり方を確かめ始めた辺りで。ぽちゃん、と。水面が揺れた。

「……、……」

 おそるおそる……視線を上げる。誰も居ない。少なくとも、一瞬前までは誰も居なかった。
 なら、それはまず間違いなく――――生きている何者か、ではないだろう。

「……マリステラ?」

 声が届くことはない。声が伝わることも、やはりない。
 けれど湖畔の彼方に彼女は確かに見た。両手を広げて視線を空へ向ける小柄な少女の影。
 それが事実であるか、空想であるか、或いは幻創であるかなど、きっと些末な話なのだろう。
 Alexandraにとっても――――多分、マリステラにとっても。

 一迅の風。瞬き一つの間に、その影は姿を消してしまったけれど。
 ただこの夜空を。2人で見上げた百点満点の星空を。彼女は、殊の外喜んでいる様に思えた。

 ――――
 ――――――
 ――――――――

 尚――――後日談。すっかり冷え切った身体でどうにか麓へ降りたAlexandraはと言えば。
 すぐさま帰りの馬車に乗ろうとしたが、流石に夜明けの時間に走る乗合馬車など無い。

 結果として一晩の宿を借り受ける事にした訳だが、いざその時になって彼女も流石に気が付いた。
 自力解除が困難な程複雑に絡み付いてしまった銀のチェーンを、果たしてどうするか。

 流石に斬って解くのは論外として、複雑怪奇な結び目は一朝一夕でどうこうなる様には見えない。
 チェーンが外れるのが早いか、手が千切れるのが早いか。そもそもこれは本当に解けるのか。

 或いは、このまま持って諸国漫遊の旅にでも出てしまおうか、と真剣に頭を悩ます事になった上。
『学園』へ帰る過程においても複数回の白昼夢に苛まれる訳だが――――それはまた、別の話

 ■

 ある星は、きっと誰より大地や生命を愛していた。
 彼らの為力の限り輝き、また歩み寄ろうとするその星を、周りは疎んだ。

 あれは不幸を呼ぶ存在だ と。
 澱んだ意思は呪いとなり、やがて最初は光であったものをも吞み込んだ。

 大地より眺めていた少女は、今や見えぬ輝きにただ涙を流すことしか出来ぬまま。
 けれどいつか、きっと、届く時が来ると信じて何度も。何度でも夜空へ手を伸ばす。

 拝啓、星空のあなたへ。あなたは今、笑えていますか。

assignment【DA】史実ノベル 関連特設ページ

メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。

墓標、白き追憶/弓月 蒼
トゥーリ/アストリッド・リーヴァイス
拝啓、星空のあなたへ/弓月 蒼
Alexandra・Hexe・Claudia/マリステラ・コナー

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アーカイブ生成日時 2026年08月05日 14時56分25秒 ・ world0