【DA】リーンエスの耳
アルベルト・V・シュタールシュヴェーアト/
セニャ・リーラント
リット
『ノベルタイトル:結婚式を越えて』馬車猪
●
足を進めるたびに揺れる桃髪は貴金属めいて陽光を反射する。
純白の衣装が肌のほとんどを隠してはいるが体の線は明瞭で、引き締まった手足も体格の割に豊かな胸もはっきり分かる。
「また仕事? 忙しいのは分かるけど無理はしないでね」
艶のある唇から聞こえるのは柔らかな声。
会議や戦場では高笑いが似合う少女に甘い声で囁かれるのはアルベルト・V・シュタールシュヴェーアトただ1人という現実が、アルベルトを大いに高ぶらせた。
「こら、駄目」
抱き寄せ易い距離と位置にいるのが悪いのだ。
アルベルトは黒い礼服の上からでも分かる逞しい腕で分厚い胸元に抱き寄せ、濡れたように光る紫と金の瞳を見下ろした。
体が熱い。
より熱いのは腕の中の少女だ。
既に記憶に刻まれた微かなにおいに、劣情を強烈に誘うものが混じり始めている。
「ねえ、アルベルト」
おねだりの声を彼は微笑んで受け入れる。
「子供は何人欲しい?」
人によっては繊細な扱いが必要な話題なのに露骨を通り越して剥き出しだ。
「私は4人は欲しいかな」
礼服越しに胸板を撫でる指は長くて美しく、同時に攻撃的なエーテルの気配がある。
用済みになった雄を喰らう雌蟷螂にも似た凶悪さまで感じられた。
アルベルトは当然理解した上で接している。
腕の中の少女よりアルベルトの方が物理的に強い。
一生受け止め続ける覚悟も自信もあるし実績もある。
「ならば、今すぐにでも頑張らないとな」
微かな恐れとそれ以上の喜びで複雑に変化した唇が愛おしくて、アルベルトは少女の体に負担がかからないよう繊細な動きで抱きしめ唇を近づけた。
そのとき、聞き慣れた声が耳に届いた気がした。
数秒すると気のせいではなく実際に響いてくる。
切羽詰まった気配のあるそれにアルベルトの動きが止まり、少女は始めは戸惑い徐々に機嫌が悪くなっていく。
唇はまだ、触れていなかった。
「兄貴ー!」
どたどたと五月蠅い足音に品位はないが熟練戦士の気配はある。
「リット?」
アルベルトはそうっとセニャの体勢を元に戻す。
ヒールの高さ込みでも身長差が頭1つ分以上なので熟練と優れた身体操作が必要だ。
「あにきぃっ!」
始めて出会ったときとは違って髪も整えられてはいるが、始めた出会ったときよりも追い詰められている印象が強い。
「たすけてー!」
婚約者と義弟を宥めるのに、かなりの時間が必要だった。
●
リットという帝国代官がいる。
文字通りの着の身着のままで王国との国境まで流れ着き、帝国人の難民キャンプの中で下働きから始めて急速に頭角を現しついには帝国代官まで成り上がった立志伝中の人物だ。
それよりずっと上の活躍と立身をした冒険者は大勢いるのでそれほど目立ってはいないとはいえ十分に凄い。
「にーちゃんたすけて!」
「これは庇えないかな……」
金と紫の眼光に震える義弟と、正規の帝国代官でありもうすぐ侯爵夫人を見比べ彼は重い息を吐いた。
「何があった。取材がえぐい……強烈な作家か吟遊詩人の取材も受けたか」
「そんなの俺の所には来ねぇよ兄貴じゃないんだし」
リットはアルベルトの背後に隠れてようやく落ち着いたようだ。
「俺、兄貴の結婚式に出席する……していいよな?」
「勿論だ。正式な案内は今書いているところだ。主要な出席者の予定を把握して日取りを決めるのが大変なんだ」
先代以前の付き合いやアルベルト個人の交友関係や婚約者のそれまで考慮する必要があるので、戦闘以外の実務能力も高いアルベルトでも苦しい作業だ。
普段以上にいちゃいちゃしているのも、作業のストレス解消という面を否定できない。
「侯爵様の結婚式に出るのって、かくしき? とかそういうの考えた格好とか贈り物とかいるんじゃないかなって」
代官見習いという他国基準では貴族に近い地位にいるのにリットの言動は粗野だ。
本人にも自覚はあり自主的に学んではいるのだが、頭の出来が平均未満なので成果が出ているとは言いがたい。
「リットも成長したな。分からないことは分かる者に訊く。問題が起きる前に話を通しておくのは重要なことだ」
アルベルトは好意的に解釈している。
リットも褒められて嬉しそうで、しかしその表情には焦りが隠せていない。
「待ちなさい」
義兄と義弟の会話に始めてセニャが口を挟む。
「念の為に確認させてもらうけど、どういう状況でそう思ったのかしら」
尋問じみた言動を止めるかどうか考えたアルベルトだが、セニャの雰囲気が追い詰められたときのそれなことに気付いて判断を保留し続きを聞く。
「私も結婚式の当事者なのだから聞く資格はあるでしょう?」
「えっ、とー」
リットは誤魔化そうとして失敗した。
アルベルトに助けを求めて見上げる目に色気はないが可愛げはある。
セニャはドゥジンシの1ジャンルのことが脳裏に浮かんでしまいアルベルトとリットを交互に見てしまった。
「悪いようにはしない。全部話せ」
「分かったよ兄貴」
リットは肩を落として説明を始める。
「最近結婚式に呼ばれることが増えてさ。昔からの仲間の式は問題ねーんだけど」
見習いでも担当地域を維持している代官だ。
担当地域に居住する金持ちや担当地域外のそこそこの有力者とのつきあいもある。本人やその一族の冠婚葬祭に招かれることもある。
「なんか評判悪くてさぁ。直接文句を言われることはないんだけど」
アルベルトも察した。
察しただけでなくセニャより正確に状況を把握する。
「金がないから金がなりそうな魔獣でも狩って持ち込んだとか、か」
「うん。喜ばれると思ったんだけど。その場で解体したのもまずかったかも」
事態がどれだけ深刻か気付いていない義弟が、今は少しだけ憎らしい。
「血は必ずしも汚れではないけど」
セニャは比喩ではない頭痛に耐えている。
「全員が獣の解体に慣れているような一族は少数派だし、全員が慣れていても結婚式なら血の気配は少なめにする集団がほとんどよ」
リットがしたのは蛮族扱いされかねない蛮行である。
「……俺めちゃくちゃ失礼だったのか。え、いや、ちょっと待って。なら兄貴の結婚式で俺、どうすれば」
「セニャ、どうする」
「今考えてるわ。考えてるけどっ」
血の繋がりのない3人が、初めて危機感を共有した瞬間であった。
●
数年前までスラムで暮らしていた少年が、侯爵の結婚式に出席するまでになったというはとんでもないサクセスストーリーでもある。
リットは新生帝国で庶民受けするシンデレラボーイの1人ともいえた。
「その童話の主人公は社会上層出身よ」
ため息を吐くセニャは実に艶めかしい。
戦場という過酷で不潔な場へ出向くことが減り私生活がこの上なく充実した結果、わずかに露出した肌までが性的に人を惹きつける。
アルベルトが即座に咳払い。
リットの視線を遮る位置へ移動する。
「兄貴は考えすぎだって。兄貴の嫁さんってことを抜きでも怖くて近付きたくねぇよ。俺の趣味は……」
「現実逃避は止めなさい」
セニャの声は柔らかなのに込められた意味はどこまでも冷たい。
「謝罪の文面は私が用意させるわ。指揮の系統が違うから命令ではないけど……」
試着した花嫁装束のまま、セニャは婚約者を回り込んでリットの頭から靴の先まで見て確かめる。
リットは無意識に剣の柄に手をかけてしまう。
しかし授恵者としての格はセニャの方が相当に上だ。
武装が懐剣だけの相手に勝てる気がせず、リットがじわりと涙目になる。
「で、でも」
リットが言葉を絞り出す。
自身の力不足は分かってはいるが、多くの人に期待されてついた地位であり必死に努力を続けて来た場所だ。
唯々諾々と従うのは感情的に難しい。
「俺が監修する。帝国での社交はまだ俺の方が得意なはずだ」
アルベルトは真剣だ。
義弟の思いを守るためでもあるが、リットに期待をかけた主君のためでもある。
「もうすぐ侯爵夫人になるのに苦手分野があるのは問題ね。反省するわ」
セニャは王国の伯爵家のうまれであり、帝国侯爵の正妻という立場は身分不相応寸前だ。
「いつも助けられている。感謝しているさ」
アルベルトは本音しか言っていない。
シュタールシュヴェーアト侯爵家は帝国以上に壊滅状態なのだ。
他国とはいえ有力伯爵家の後継者候補だった人材を娶れるのは望外の僥倖でもある。
「夫の義弟が不始末をしでかすと私個人にもシュタールシュヴェーアト侯爵家にも影響があるから」
セニャの顔に制御された微笑みが浮かぶ。
「徹底的に仕込んであげる」
相手に拒否を許さない口うるさい兄嫁の顔で、セニャはリットを見下ろした。
●
「セニャ、もう少し加減を」
「私や貴方が生まれてから長い時間学んだことを短期間で学ばせるのよ。多少の無理は覚悟しないと」
兄夫婦(予定)の会話はリットの耳に届いても理解には至らない。
滅茶苦茶高価そうなカトラリーを頑張って丁寧に使うので精一杯だ。
リットのため急遽用意された少し遅い昼食で、リットはテーブルマナーを徹底するよう厳命されている。
「あ」
変な声とナイフが食器に触れる音が重なって聞こえた。
食器も負けず劣らず高級感と特別感があり、料理が普通の鳥肉ソテーでもその迫力は十分だ。
「失敗をしても平然とした態度を維持しなさい。謝罪が必要なときも多くも少なくもない適量だけしなさい」
セニャは優しくはないが意味のない意地悪をするタイプでもない。
実家なら10歳になる前に教え込まれる内容を、彼女としては密度低く教えていく。
「え、と、それって?」
しかしリットには高度過ぎる。
生まれ育ちがどうであれ凄まじい速度で学んでいった熟練冒険者達とは異なり、リットの頭は平均未満で意欲はあっても学習能力も平均以下なのだ。
「……見本を見せた方がいいかしら。アルベルト、気持ちは分かるけど貴方も時間が余っている訳ではないでしょう」
席について見本になろうとした男を止める。
書く必要のある招待状の数と日程の調整の面倒さを思い出し、アルベルトは軽く肩をすくめて頑張れとリットを応援する。
「テーブルでのやりとりにも慣れてもらうわ。テレパスを使うわね」
セニャが口を閉じる。
黙っていて見る側が普段の言動を忘れたら美人なんだよなと、未婚で恋人もいないリットがため息を吐いていていた。
十数分後。
数人分の食事と同数のメイドが用意される。
そして始まるのは非常に陰険な上流階級のやり口だ。
態度も言葉も褒めてはいるのに総合すればリットの生まれや現在の粗雑さに対する徹底的な当て擦り。
リットが率直に反論しようものならセニャから容赦なく駄目出しされる。
「反撃は自らの強みの誇示か相手の弱みを突くかのどちらかにしなさい。それができないなら毅然とした態度を維持」
セニャは部下に虐めさせてはいない。
ほんの少し成長すれば潜り抜けられる程度の圧力を加えているつもりだ。
なお、本人は才人であり親しく付き合った冒険者もそれ以上の才人ばかりだったので感覚が狂ってしまっている。
「でも」
「でもでもなんでもやりなさい。式に出席するなら私以上に作法を身につけている私以上に性格の悪いのに絡まれるのは十分有り得ることなの」
権力に近付けば近付くほど、その権力が大きければ大きいほど、悪意の大きさと巧妙さが増していくとセニャは断言した。
(そうなの?)
(否定はできないな)
テレパスは使えなくても目と目で通じ合える程度にこの義兄弟は仲が良い。
(楽にやりすごすやり方とかねーの?)
(ない)
代官としての担当地域がまだ侯爵級の広さではないアルベルトも面倒くさい人付き合いを強いられているのだ。
肩書きは見習いでも個人的にレイウェストと連絡しあっていてときどき食事までしているリットに対する嫉妬は強烈だ。
「注意散漫よ」
「はいっ。あっ」
ナイフが食器に触れる音が酷く大きく響く。
割れた食器からソースと脂が垂れていく。
セニャはメイドに片付けを命じようとして、食器の割れ方の異様さに気付いた。
「こういうときに限って剣の修行の成果が出るか」
「才能皆無という訳ではないのね。普段は力が過剰なのかしら」
食器の断面は、専用の工具で切断したかのように鮮やかだった。
●
床も絨毯も椅子も机も全てが高品質だ。
配置もそれ単独で美を感じさせる出来映えで、もともと支配者層かよほどの自信家でない限りひるんでしまう環境だった。
「力だけあっても権威がなければ支配は安定しない」
死体を積み上げるようなやり方は手間がかかりすぎると、セニャは罪悪感を覚えもせずに淡々と説明する。
「王侯貴族が大きな宝石を好むのもその一環ね」
セニャは仮縫い状態だった花嫁装束から普段着のドレスに着替えている。
装束としての格は落ちているのに、自然光を浴びた宝石の輝きは神々しくすら感じられる。
「王侯貴族が期待しているのが今のあなたの反応よ。反骨心が薄れているでしょう?」
腹心に宝石を外させ保管させる。
そうすると、ほんの少しだけ存在感が薄くなった気がした。
「兄貴、ここ……」
「シュタールシュヴェーアト侯爵家の結婚式会場だ」
侯爵家の格式に慣れているアルベルトは冷静だ。
要所要所にセニャの趣味が強く反映されていて、典型的な乙女の願望がそのまま形になったものまである。
(今のセニャを止めようとしても止まらないからな)
シュタールシュヴェーアトの伝統に沿おうにも、設備もノウハウを持った人材も大部分が失われているので王国から人材も連れて来たセニャに頼らざるを得ない。
セニャも空気を読んで王国風になりすぎないよう配慮はしているが、セニャ個人の趣味が強く反映されてしまっていた。
「先祖だいだいの、ってやつ?」
リットが教養がないなりに頑張って考えて発言する。
「それが復旧できるのは最短で次の代ね」
セニャは真剣な表情で家具の配置や飾り付けの出来映えを確認してはメモすることを繰り返している。
一生に一度しかするつもりのない結婚式なのだ。
凝り具合も真剣さも普段とは次元が違う。
「今日はアルベルトに式の作法を教えてもらいなさい。万一壊すとどうなるか、分かっているわよね?」
巨大な魔獣より怖く感じてしまう、リットであった。
しかし人間は慣れるもの。
翌日にはリットはただの子供のようにはしゃぐようになっていた。
「すっげー! これ鏡? なんか変なの映ってる!」
縁が白で差し色がピンクの三面鏡は優美さの中にも可愛らしさがある。
鏡としても大きくそして磨き上げられている。
複数の鏡がつくり出す光景は、荒野と戦闘の経験は豊富でも社会上層での経験はさっぱりなリットにとって刺激が強すぎた。
「リット」
アルベルトはかなり焦る。
彼にとって始めて見るものだが同じようなものを見たことがある。
パンクリアース学園に在学中の頃のセニャが使っていた大型三面鏡に酷似していて、色使いと品質から考えてセニャの実家からの贈り物以外にあり得ない品だ。
要するに、再建途中の侯爵領では購入に躊躇する水準の逸品だ。
「うん? 分かってるって」
明らかに鏡の脆さも希少性も分かっていないまま鏡から距離をとるリット。
その背後では、セニャが凄い表情でアルベルトとリットをじーっと見つめていた。
「ありがとう兄貴! セニャの姐御!」
リットが数秒間直立不動で静止して数秒後、勢いよく頭を下げ再び静止する。
礼法に従っているとはとてもいえないが感謝の気持ちは伝わってくる元気な挨拶だ。
(陛下もリットのこういう所を気に入っているのかもしれないな)
現実の過酷さに負けず誠実で有り続けるのは大変だ。
欠点が多数あるとはいえ、帝国代官まで成り上がってもこの真っ直ぐさが変わらないのは間違いなく美点ではあった。
「リット」
「兄貴、安心してくれ。もう侯爵家でも王国の伯爵家でもびびらねぇぜ! うっかり壊して弁償は怖いけどな!」
普段から担当地域の資金繰りに苦労しているリットは、金銭面では非常に弱い。
「リット、違うんだ」
義兄が沈痛な面持ちでリットの肩に手を置く。
「簡単に動かすことのできる貴重品はまだ配置していないんだ」
三面鏡は破損を回避しながら移動させるのが非常に大変なので、普段は場所はそのまま埃よけの布をかけている。
他の品は傷つけようとしても壊れない頑丈な品か、形が似ているだけで本物と比較すれば廉価版だ。
「しかも式の当日にいるはずの出席者もお前以外にはいなかった」
「つまり?」
リットはまだ分かっていない。
「俺と同格以上の代官や帝国中央や帝国軍の高官も当日はいるということだ。それがどんな連中か分かるか? 想像してみろ」
帝国において、地位と実力は多くの場合比例する。
そして、リットのこれまでの経験では、実力が高くなるほど強烈な性格の持ち主の比率が高くなっていた。
「まさか!」
「何がまさかか知らないけど、私が帝国で一番性格がきつくて悪いというのは勘違いよ」
紫と金の瞳には怒りはないが呆れがある。
「他者を陥れる気がなくても、今の立場を守るために悪辣な手段の知識と習熟は必要なの」
セニャの本質が性悪で強烈かどうかとは別な話だ。
「アルベルトが守るだろうけど限界がある。少しは知恵を身につけなさい。それがあなた自身と部下を守るわ」
セニャにしては珍しい、リットのための助言であった。
●
「セニャ。リットのことだが」
睦言を交わした直後に義弟について話す男に、セニャはしっとりした手のひらでぺちぺちと抗議する。
拗ねた小動物がやりそうな仕草なのに込められている力と技は極めて高い。
「真面目な話なんだ」
「……本気で怒るわよ?」
セニャが手を止めて身を起こす。
盛り上がっていたときは気にならなかった汗とそれ以外が気になりだして、不寝番に連絡して風呂と湯の準備を命じる。
「そこまで怒らなくても……」
筋骨逞しいアルベルトが肩を落とす光景には面白みがある。
「ドゥジンシの……いえ、何でもない。私も言い過ぎたわ」
アルベルトとリットという組み合わせは妄想を刺激し易いらしい。
セニャは、2人が題材の物理的に薄くて芸術的価値が高いドゥジンシに遭遇したことが何度もあった。
「リットが陛下の結婚式に召かれると思うか?」
義弟に対する嫉妬はないが懸念はある。
侯爵として活動を始めてから今まで、腸が煮えくりかえるような状況や人間に何度も遭遇してきた。
権力の中枢とは物理的にも距離がある侯爵ですらこうなのだ。
アルベルトより気が短いリットが今後どうなるか考えると、悲観的な予想ばかりが頭に浮かぶ。
「私個人の予想では5割くらいかしら」
セニャは清潔なタオルを1つアルベルトに渡してから己の髪をまとめ肌を拭いている。
「ただ、結婚式に召かれなくても同じようなことは起こると思う」
距離を詰めてくるアルベルトをひらりと躱す。
2人だけの時間が期待より短く終わってしまったことにまだ拗ねているのだ。
「結婚式だけではない、か。……リットにできると思うか?」
「根性は認めるけど才能はね。冒険者時代のあなたはもちろん私にも劣るし……ちょっと、今は」
風呂の用意が完了しても、2人は寝室から出てこなかった。
●
「頑張ってくださいリットさん!」
「上達してますよ。その調子です」
1度は上流階級仕草でリットを虐めたメイド達がリットを応援している。
素直で努力家で可愛げがあるというのも大きな理由だが、最大の理由は未婚の代官見習いであるということだ。
レイウェストとの付き合いを無視しても結婚相手としての価値はかなり高い。
そんな状況で、婚約者と違ってまだまだ元気なアルベルトが侯爵閣下であるのに気配を消していた。
リットの周囲にいるメイドにはセニャの直属の部下ではないメイドも混じっているというかそっちの方が多い。
(下手に口出しすると火傷しそうだ)
リットは帝国の僻地が担当地域の、代官としては弱小と表現するしかない存在だ。
政略結婚を考えなくても済む立場であり、侯爵家のメイドとして採用される程度の人物ならリットが承諾するなら婚姻しても問題ない。
(問題ない、訳がないか)
美人過ぎる冒険者に性癖や女性観を歪められていたり、長年副官を務めている女性から重い感情を向けられていたりと、まだ爆発していないだけの爆弾がいくつもある。
男であるアルベルトが介入するなら難易度は非常に高くなるだろう。
「頑張れリット」
リットにも気付かれないまま、セニャの様子を見に行くアルベルトであった。
「お早いお帰りね?」
セニャは目覚めて風呂と身支度を終わらせたところだ。
「おはようセニャ」
「おはよう旦那様。朝から頑張ったわね」
セニャ自身楽しみはしたが、やるべきことが山積みなのにしようとしたのはアルベルトだ。
「今日も綺麗だ。王国にいたときに着ていた服かな?」
「また誤魔化して」
言葉はそっけなくても声は柔らかい。
「一時は痩せてたけどまた着ることができるようになったの」
胸を張る。
もともと質の高いものが適切に保管されているため、新品ではないがセニャの美貌に負けていない。
「お互い多忙だったからな」
冒険者として高頻度で依頼に挑んでいたアルベルトも、少ない金と人材で広大な担当地域をなんとか維持していたセニャも、若さと高位授恵者の体力があっても困難な日々を送っていた。
アルベルトは引き締まったまま筋肉がついた程度で済んだ。セニャは過労で倒れるわ美容にも影響は出るわで本当に散々だった。
「どう? 似合う?」
妖艶に微笑む様からは魔性すら感じられ……少女時代の服は似合ってはいない。
「……そうだな」
「今誤魔化したわね」
アルベルトの反応から内心を察し、セニャは不満と反省と懐古が混じった表情になった。
「このデザインを参考に一着ドレスを仕立てようと思ってたのだけど」
体型は当時とほとんど変わっていないのだが、本人の気配は大きく変わった。
無邪気な悪意と善意を振り回す少女が、個人としても公人としても修羅場を潜り抜けた大人になった。
「俺にだけ見せてくれるというのはどうかな」
少しだけ年齢にあっていない衣装の悪女風美女というのもいけるアルベルトである。
「夫の性癖の広さをどう評価すべきかしら」
ドレスを仕立てるかどうかはひとまず保留にして、今着ている服は使うために置いておこうと判断するセニャであった。
●
アルベルトのペンが丁寧かつ高速で動く。
主要な招待客と来賓との日程調整が完了し、シュタールシュヴェーアト侯爵アルベルトと代官セニャの結婚式の日程が確定した。
後は最後までやり遂げるだけだ。
国内外へ送る招待状の延々書き続けるのもその一環だ。
(ペンだこか)
剣を振るい続けて硬くなった部分は昔からあるが、ペンを使い続けてこうなったのは初めてだ。
(父上もこうだったかな)
声も顔も覚えてはいても、細部は徐々に朧気になっている。
それが悲しくもあり懐かしくもある。
(いつか子供ができたら父上達のことも話さないとな)
どちらに似ても、何を受け継いでも受け継がなくても、守り育て愛すると心に誓う。
「よし」
気合いを入れ直す。
管理地域の広さはまだ爵位ほど大きくはないが、冒険者の頃から実力者であるアルベルトは目立つ存在だ。
直接の付き合いや取り引きがある個人や組織だけでなく、多くの人や組織と積極的に関わる必要がある立場だ。
「兄貴ー!」
「ノックはしろリット」
執務室に駆け込んできた義弟に厳しく言う。
リットは素直に謝り、しかし勢いは衰えない。
「俺の招待状くれよ!」
期待と喜び一杯で後ろめたさは一切ない、ように見えた。
「リット」
アルベルトは作成済み書類が置かれた棚から封書に入れる前の書面を1つ取り上げる。
「書いた本人に詳しく説明させようとするとはな。考えたな?」
「そんなこと考えてねぇよ? ほんとだよ?」
リットは露骨に動揺し始める。
「冗談だ。質問なら今しておけ。お互いの担当地域を行き来するのには時間がかかるからな」
「さすが兄貴!」
リットは調子を取り戻す。
「どんな服装で何を手土産にすればいいか教えてくれよ」
目がきらきらしているがアルベルトは騙されない。
これは義兄を尊敬している態度ではなく、めんどくさくなって義兄に頼ろうとしている駄目な感じの行動だ。
「まず読め」
アルベルトは、自身への招待状を読まずに頼ってきたリットに軽く拳骨を落とす。
「痛いっ、ほんとに痛いぜ兄貴」
「真面目な話でふざけるからだ。いいかリット。あの時は必要以上の重圧を感じさせないよう敢えて言わなかったが、陛下に召かれるかもしれないんだぞ」
「昼飯とか? 最近一緒に食えてないけど」
レイウェストと直接顔をあわせて会話できるということの重さを全く理解していない。
「セニャはお前のそういう所を嫌って……いや今はいい。俺達は陛下とお呼びしているが陛下の戴冠式はまだ行われていないよな」
「……そうだよ?」
アルベルトはもう一度拳骨を落とす。
今度は覚悟していたのでリットは耐えた。頑丈なのだ。
「主君の重大事を忘れるな。いいかリット、お前は戴冠式に出席を許される可能性がある」
「おー!」
リットも凄いことだというのは分かるようだ。
「帝国中興の祖の戴冠式で不始末があれば末代まで悪影響がある。言い換えてもう1度言うぞ。お前が失敗するとお前の子供や孫も酷く迷惑するんだ」
リットは何度も首を傾げながら考え、1分近く経ってようやく理解した。
「やべーじゃん!」
「陛下も今のリットをご覧になれば頭を抱えるだろう。しばらく休暇をとれ。俺とセニャの式までに礼儀を身につけさせてやる。拒否は許さん。いいな?」
「わ、分かった。世話になるぜ兄貴」
リットの顔が戦場へ向かうときよりも真剣になる。
式までの短くない期間、寝る時間も惜しんで頑張った。
●
月日は過ぎていく。
レイウェストの許可という最大の難関は解決済みなので1度予定が決まれば後は順調に進展していく。
主に帝国から、次に王国から、他にも大陸のあちこちからシュタールシュヴェーアトの地に人が集まってくる。
「侯爵夫人か……」
純白の装束に身を包み、化粧だけでは説明できない美しさを持つ花嫁が静かにつぶやく。
「不満かな?」
傍らに立つアルベルトは自負と迫力に満ちている。
「侯爵夫人だけならね。王国とは違って皇帝から与えられる代官の地位がなければ意味の薄い爵位の配偶者だもの。でも」
花嫁が振り向く。
その微笑みは幸福に満ちていて、最も遠くにいた招待客まで惹きつける魅力がある。
「貴方の妻になれて嬉しいの。それだけは本当よ」
「疑いはしないさ」
いつでも花嫁を守り支えられる位置についてエスコートする。
未来は分からなくても、2人の足取りに迷いはない。
足を進めるたびに揺れる桃髪は貴金属めいて陽光を反射する。
純白の衣装が肌のほとんどを隠してはいるが体の線は明瞭で、引き締まった手足も体格の割に豊かな胸もはっきり分かる。
「また仕事? 忙しいのは分かるけど無理はしないでね」
艶のある唇から聞こえるのは柔らかな声。
会議や戦場では高笑いが似合う少女に甘い声で囁かれるのはアルベルト・V・シュタールシュヴェーアトただ1人という現実が、アルベルトを大いに高ぶらせた。
「こら、駄目」
抱き寄せ易い距離と位置にいるのが悪いのだ。
アルベルトは黒い礼服の上からでも分かる逞しい腕で分厚い胸元に抱き寄せ、濡れたように光る紫と金の瞳を見下ろした。
体が熱い。
より熱いのは腕の中の少女だ。
既に記憶に刻まれた微かなにおいに、劣情を強烈に誘うものが混じり始めている。
「ねえ、アルベルト」
おねだりの声を彼は微笑んで受け入れる。
「子供は何人欲しい?」
人によっては繊細な扱いが必要な話題なのに露骨を通り越して剥き出しだ。
「私は4人は欲しいかな」
礼服越しに胸板を撫でる指は長くて美しく、同時に攻撃的なエーテルの気配がある。
用済みになった雄を喰らう雌蟷螂にも似た凶悪さまで感じられた。
アルベルトは当然理解した上で接している。
腕の中の少女よりアルベルトの方が物理的に強い。
一生受け止め続ける覚悟も自信もあるし実績もある。
「ならば、今すぐにでも頑張らないとな」
微かな恐れとそれ以上の喜びで複雑に変化した唇が愛おしくて、アルベルトは少女の体に負担がかからないよう繊細な動きで抱きしめ唇を近づけた。
そのとき、聞き慣れた声が耳に届いた気がした。
数秒すると気のせいではなく実際に響いてくる。
切羽詰まった気配のあるそれにアルベルトの動きが止まり、少女は始めは戸惑い徐々に機嫌が悪くなっていく。
唇はまだ、触れていなかった。
「兄貴ー!」
どたどたと五月蠅い足音に品位はないが熟練戦士の気配はある。
「リット?」
アルベルトはそうっとセニャの体勢を元に戻す。
ヒールの高さ込みでも身長差が頭1つ分以上なので熟練と優れた身体操作が必要だ。
「あにきぃっ!」
始めて出会ったときとは違って髪も整えられてはいるが、始めた出会ったときよりも追い詰められている印象が強い。
「たすけてー!」
婚約者と義弟を宥めるのに、かなりの時間が必要だった。
●
リットという帝国代官がいる。
文字通りの着の身着のままで王国との国境まで流れ着き、帝国人の難民キャンプの中で下働きから始めて急速に頭角を現しついには帝国代官まで成り上がった立志伝中の人物だ。
それよりずっと上の活躍と立身をした冒険者は大勢いるのでそれほど目立ってはいないとはいえ十分に凄い。
「にーちゃんたすけて!」
「これは庇えないかな……」
金と紫の眼光に震える義弟と、正規の帝国代官でありもうすぐ侯爵夫人を見比べ彼は重い息を吐いた。
「何があった。取材がえぐい……強烈な作家か吟遊詩人の取材も受けたか」
「そんなの俺の所には来ねぇよ兄貴じゃないんだし」
リットはアルベルトの背後に隠れてようやく落ち着いたようだ。
「俺、兄貴の結婚式に出席する……していいよな?」
「勿論だ。正式な案内は今書いているところだ。主要な出席者の予定を把握して日取りを決めるのが大変なんだ」
先代以前の付き合いやアルベルト個人の交友関係や婚約者のそれまで考慮する必要があるので、戦闘以外の実務能力も高いアルベルトでも苦しい作業だ。
普段以上にいちゃいちゃしているのも、作業のストレス解消という面を否定できない。
「侯爵様の結婚式に出るのって、かくしき? とかそういうの考えた格好とか贈り物とかいるんじゃないかなって」
代官見習いという他国基準では貴族に近い地位にいるのにリットの言動は粗野だ。
本人にも自覚はあり自主的に学んではいるのだが、頭の出来が平均未満なので成果が出ているとは言いがたい。
「リットも成長したな。分からないことは分かる者に訊く。問題が起きる前に話を通しておくのは重要なことだ」
アルベルトは好意的に解釈している。
リットも褒められて嬉しそうで、しかしその表情には焦りが隠せていない。
「待ちなさい」
義兄と義弟の会話に始めてセニャが口を挟む。
「念の為に確認させてもらうけど、どういう状況でそう思ったのかしら」
尋問じみた言動を止めるかどうか考えたアルベルトだが、セニャの雰囲気が追い詰められたときのそれなことに気付いて判断を保留し続きを聞く。
「私も結婚式の当事者なのだから聞く資格はあるでしょう?」
「えっ、とー」
リットは誤魔化そうとして失敗した。
アルベルトに助けを求めて見上げる目に色気はないが可愛げはある。
セニャはドゥジンシの1ジャンルのことが脳裏に浮かんでしまいアルベルトとリットを交互に見てしまった。
「悪いようにはしない。全部話せ」
「分かったよ兄貴」
リットは肩を落として説明を始める。
「最近結婚式に呼ばれることが増えてさ。昔からの仲間の式は問題ねーんだけど」
見習いでも担当地域を維持している代官だ。
担当地域に居住する金持ちや担当地域外のそこそこの有力者とのつきあいもある。本人やその一族の冠婚葬祭に招かれることもある。
「なんか評判悪くてさぁ。直接文句を言われることはないんだけど」
アルベルトも察した。
察しただけでなくセニャより正確に状況を把握する。
「金がないから金がなりそうな魔獣でも狩って持ち込んだとか、か」
「うん。喜ばれると思ったんだけど。その場で解体したのもまずかったかも」
事態がどれだけ深刻か気付いていない義弟が、今は少しだけ憎らしい。
「血は必ずしも汚れではないけど」
セニャは比喩ではない頭痛に耐えている。
「全員が獣の解体に慣れているような一族は少数派だし、全員が慣れていても結婚式なら血の気配は少なめにする集団がほとんどよ」
リットがしたのは蛮族扱いされかねない蛮行である。
「……俺めちゃくちゃ失礼だったのか。え、いや、ちょっと待って。なら兄貴の結婚式で俺、どうすれば」
「セニャ、どうする」
「今考えてるわ。考えてるけどっ」
血の繋がりのない3人が、初めて危機感を共有した瞬間であった。
●
数年前までスラムで暮らしていた少年が、侯爵の結婚式に出席するまでになったというはとんでもないサクセスストーリーでもある。
リットは新生帝国で庶民受けするシンデレラボーイの1人ともいえた。
「その童話の主人公は社会上層出身よ」
ため息を吐くセニャは実に艶めかしい。
戦場という過酷で不潔な場へ出向くことが減り私生活がこの上なく充実した結果、わずかに露出した肌までが性的に人を惹きつける。
アルベルトが即座に咳払い。
リットの視線を遮る位置へ移動する。
「兄貴は考えすぎだって。兄貴の嫁さんってことを抜きでも怖くて近付きたくねぇよ。俺の趣味は……」
「現実逃避は止めなさい」
セニャの声は柔らかなのに込められた意味はどこまでも冷たい。
「謝罪の文面は私が用意させるわ。指揮の系統が違うから命令ではないけど……」
試着した花嫁装束のまま、セニャは婚約者を回り込んでリットの頭から靴の先まで見て確かめる。
リットは無意識に剣の柄に手をかけてしまう。
しかし授恵者としての格はセニャの方が相当に上だ。
武装が懐剣だけの相手に勝てる気がせず、リットがじわりと涙目になる。
「で、でも」
リットが言葉を絞り出す。
自身の力不足は分かってはいるが、多くの人に期待されてついた地位であり必死に努力を続けて来た場所だ。
唯々諾々と従うのは感情的に難しい。
「俺が監修する。帝国での社交はまだ俺の方が得意なはずだ」
アルベルトは真剣だ。
義弟の思いを守るためでもあるが、リットに期待をかけた主君のためでもある。
「もうすぐ侯爵夫人になるのに苦手分野があるのは問題ね。反省するわ」
セニャは王国の伯爵家のうまれであり、帝国侯爵の正妻という立場は身分不相応寸前だ。
「いつも助けられている。感謝しているさ」
アルベルトは本音しか言っていない。
シュタールシュヴェーアト侯爵家は帝国以上に壊滅状態なのだ。
他国とはいえ有力伯爵家の後継者候補だった人材を娶れるのは望外の僥倖でもある。
「夫の義弟が不始末をしでかすと私個人にもシュタールシュヴェーアト侯爵家にも影響があるから」
セニャの顔に制御された微笑みが浮かぶ。
「徹底的に仕込んであげる」
相手に拒否を許さない口うるさい兄嫁の顔で、セニャはリットを見下ろした。
●
「セニャ、もう少し加減を」
「私や貴方が生まれてから長い時間学んだことを短期間で学ばせるのよ。多少の無理は覚悟しないと」
兄夫婦(予定)の会話はリットの耳に届いても理解には至らない。
滅茶苦茶高価そうなカトラリーを頑張って丁寧に使うので精一杯だ。
リットのため急遽用意された少し遅い昼食で、リットはテーブルマナーを徹底するよう厳命されている。
「あ」
変な声とナイフが食器に触れる音が重なって聞こえた。
食器も負けず劣らず高級感と特別感があり、料理が普通の鳥肉ソテーでもその迫力は十分だ。
「失敗をしても平然とした態度を維持しなさい。謝罪が必要なときも多くも少なくもない適量だけしなさい」
セニャは優しくはないが意味のない意地悪をするタイプでもない。
実家なら10歳になる前に教え込まれる内容を、彼女としては密度低く教えていく。
「え、と、それって?」
しかしリットには高度過ぎる。
生まれ育ちがどうであれ凄まじい速度で学んでいった熟練冒険者達とは異なり、リットの頭は平均未満で意欲はあっても学習能力も平均以下なのだ。
「……見本を見せた方がいいかしら。アルベルト、気持ちは分かるけど貴方も時間が余っている訳ではないでしょう」
席について見本になろうとした男を止める。
書く必要のある招待状の数と日程の調整の面倒さを思い出し、アルベルトは軽く肩をすくめて頑張れとリットを応援する。
「テーブルでのやりとりにも慣れてもらうわ。テレパスを使うわね」
セニャが口を閉じる。
黙っていて見る側が普段の言動を忘れたら美人なんだよなと、未婚で恋人もいないリットがため息を吐いていていた。
十数分後。
数人分の食事と同数のメイドが用意される。
そして始まるのは非常に陰険な上流階級のやり口だ。
態度も言葉も褒めてはいるのに総合すればリットの生まれや現在の粗雑さに対する徹底的な当て擦り。
リットが率直に反論しようものならセニャから容赦なく駄目出しされる。
「反撃は自らの強みの誇示か相手の弱みを突くかのどちらかにしなさい。それができないなら毅然とした態度を維持」
セニャは部下に虐めさせてはいない。
ほんの少し成長すれば潜り抜けられる程度の圧力を加えているつもりだ。
なお、本人は才人であり親しく付き合った冒険者もそれ以上の才人ばかりだったので感覚が狂ってしまっている。
「でも」
「でもでもなんでもやりなさい。式に出席するなら私以上に作法を身につけている私以上に性格の悪いのに絡まれるのは十分有り得ることなの」
権力に近付けば近付くほど、その権力が大きければ大きいほど、悪意の大きさと巧妙さが増していくとセニャは断言した。
(そうなの?)
(否定はできないな)
テレパスは使えなくても目と目で通じ合える程度にこの義兄弟は仲が良い。
(楽にやりすごすやり方とかねーの?)
(ない)
代官としての担当地域がまだ侯爵級の広さではないアルベルトも面倒くさい人付き合いを強いられているのだ。
肩書きは見習いでも個人的にレイウェストと連絡しあっていてときどき食事までしているリットに対する嫉妬は強烈だ。
「注意散漫よ」
「はいっ。あっ」
ナイフが食器に触れる音が酷く大きく響く。
割れた食器からソースと脂が垂れていく。
セニャはメイドに片付けを命じようとして、食器の割れ方の異様さに気付いた。
「こういうときに限って剣の修行の成果が出るか」
「才能皆無という訳ではないのね。普段は力が過剰なのかしら」
食器の断面は、専用の工具で切断したかのように鮮やかだった。
●
床も絨毯も椅子も机も全てが高品質だ。
配置もそれ単独で美を感じさせる出来映えで、もともと支配者層かよほどの自信家でない限りひるんでしまう環境だった。
「力だけあっても権威がなければ支配は安定しない」
死体を積み上げるようなやり方は手間がかかりすぎると、セニャは罪悪感を覚えもせずに淡々と説明する。
「王侯貴族が大きな宝石を好むのもその一環ね」
セニャは仮縫い状態だった花嫁装束から普段着のドレスに着替えている。
装束としての格は落ちているのに、自然光を浴びた宝石の輝きは神々しくすら感じられる。
「王侯貴族が期待しているのが今のあなたの反応よ。反骨心が薄れているでしょう?」
腹心に宝石を外させ保管させる。
そうすると、ほんの少しだけ存在感が薄くなった気がした。
「兄貴、ここ……」
「シュタールシュヴェーアト侯爵家の結婚式会場だ」
侯爵家の格式に慣れているアルベルトは冷静だ。
要所要所にセニャの趣味が強く反映されていて、典型的な乙女の願望がそのまま形になったものまである。
(今のセニャを止めようとしても止まらないからな)
シュタールシュヴェーアトの伝統に沿おうにも、設備もノウハウを持った人材も大部分が失われているので王国から人材も連れて来たセニャに頼らざるを得ない。
セニャも空気を読んで王国風になりすぎないよう配慮はしているが、セニャ個人の趣味が強く反映されてしまっていた。
「先祖だいだいの、ってやつ?」
リットが教養がないなりに頑張って考えて発言する。
「それが復旧できるのは最短で次の代ね」
セニャは真剣な表情で家具の配置や飾り付けの出来映えを確認してはメモすることを繰り返している。
一生に一度しかするつもりのない結婚式なのだ。
凝り具合も真剣さも普段とは次元が違う。
「今日はアルベルトに式の作法を教えてもらいなさい。万一壊すとどうなるか、分かっているわよね?」
巨大な魔獣より怖く感じてしまう、リットであった。
しかし人間は慣れるもの。
翌日にはリットはただの子供のようにはしゃぐようになっていた。
「すっげー! これ鏡? なんか変なの映ってる!」
縁が白で差し色がピンクの三面鏡は優美さの中にも可愛らしさがある。
鏡としても大きくそして磨き上げられている。
複数の鏡がつくり出す光景は、荒野と戦闘の経験は豊富でも社会上層での経験はさっぱりなリットにとって刺激が強すぎた。
「リット」
アルベルトはかなり焦る。
彼にとって始めて見るものだが同じようなものを見たことがある。
パンクリアース学園に在学中の頃のセニャが使っていた大型三面鏡に酷似していて、色使いと品質から考えてセニャの実家からの贈り物以外にあり得ない品だ。
要するに、再建途中の侯爵領では購入に躊躇する水準の逸品だ。
「うん? 分かってるって」
明らかに鏡の脆さも希少性も分かっていないまま鏡から距離をとるリット。
その背後では、セニャが凄い表情でアルベルトとリットをじーっと見つめていた。
「ありがとう兄貴! セニャの姐御!」
リットが数秒間直立不動で静止して数秒後、勢いよく頭を下げ再び静止する。
礼法に従っているとはとてもいえないが感謝の気持ちは伝わってくる元気な挨拶だ。
(陛下もリットのこういう所を気に入っているのかもしれないな)
現実の過酷さに負けず誠実で有り続けるのは大変だ。
欠点が多数あるとはいえ、帝国代官まで成り上がってもこの真っ直ぐさが変わらないのは間違いなく美点ではあった。
「リット」
「兄貴、安心してくれ。もう侯爵家でも王国の伯爵家でもびびらねぇぜ! うっかり壊して弁償は怖いけどな!」
普段から担当地域の資金繰りに苦労しているリットは、金銭面では非常に弱い。
「リット、違うんだ」
義兄が沈痛な面持ちでリットの肩に手を置く。
「簡単に動かすことのできる貴重品はまだ配置していないんだ」
三面鏡は破損を回避しながら移動させるのが非常に大変なので、普段は場所はそのまま埃よけの布をかけている。
他の品は傷つけようとしても壊れない頑丈な品か、形が似ているだけで本物と比較すれば廉価版だ。
「しかも式の当日にいるはずの出席者もお前以外にはいなかった」
「つまり?」
リットはまだ分かっていない。
「俺と同格以上の代官や帝国中央や帝国軍の高官も当日はいるということだ。それがどんな連中か分かるか? 想像してみろ」
帝国において、地位と実力は多くの場合比例する。
そして、リットのこれまでの経験では、実力が高くなるほど強烈な性格の持ち主の比率が高くなっていた。
「まさか!」
「何がまさかか知らないけど、私が帝国で一番性格がきつくて悪いというのは勘違いよ」
紫と金の瞳には怒りはないが呆れがある。
「他者を陥れる気がなくても、今の立場を守るために悪辣な手段の知識と習熟は必要なの」
セニャの本質が性悪で強烈かどうかとは別な話だ。
「アルベルトが守るだろうけど限界がある。少しは知恵を身につけなさい。それがあなた自身と部下を守るわ」
セニャにしては珍しい、リットのための助言であった。
●
「セニャ。リットのことだが」
睦言を交わした直後に義弟について話す男に、セニャはしっとりした手のひらでぺちぺちと抗議する。
拗ねた小動物がやりそうな仕草なのに込められている力と技は極めて高い。
「真面目な話なんだ」
「……本気で怒るわよ?」
セニャが手を止めて身を起こす。
盛り上がっていたときは気にならなかった汗とそれ以外が気になりだして、不寝番に連絡して風呂と湯の準備を命じる。
「そこまで怒らなくても……」
筋骨逞しいアルベルトが肩を落とす光景には面白みがある。
「ドゥジンシの……いえ、何でもない。私も言い過ぎたわ」
アルベルトとリットという組み合わせは妄想を刺激し易いらしい。
セニャは、2人が題材の物理的に薄くて芸術的価値が高いドゥジンシに遭遇したことが何度もあった。
「リットが陛下の結婚式に召かれると思うか?」
義弟に対する嫉妬はないが懸念はある。
侯爵として活動を始めてから今まで、腸が煮えくりかえるような状況や人間に何度も遭遇してきた。
権力の中枢とは物理的にも距離がある侯爵ですらこうなのだ。
アルベルトより気が短いリットが今後どうなるか考えると、悲観的な予想ばかりが頭に浮かぶ。
「私個人の予想では5割くらいかしら」
セニャは清潔なタオルを1つアルベルトに渡してから己の髪をまとめ肌を拭いている。
「ただ、結婚式に召かれなくても同じようなことは起こると思う」
距離を詰めてくるアルベルトをひらりと躱す。
2人だけの時間が期待より短く終わってしまったことにまだ拗ねているのだ。
「結婚式だけではない、か。……リットにできると思うか?」
「根性は認めるけど才能はね。冒険者時代のあなたはもちろん私にも劣るし……ちょっと、今は」
風呂の用意が完了しても、2人は寝室から出てこなかった。
●
「頑張ってくださいリットさん!」
「上達してますよ。その調子です」
1度は上流階級仕草でリットを虐めたメイド達がリットを応援している。
素直で努力家で可愛げがあるというのも大きな理由だが、最大の理由は未婚の代官見習いであるということだ。
レイウェストとの付き合いを無視しても結婚相手としての価値はかなり高い。
そんな状況で、婚約者と違ってまだまだ元気なアルベルトが侯爵閣下であるのに気配を消していた。
リットの周囲にいるメイドにはセニャの直属の部下ではないメイドも混じっているというかそっちの方が多い。
(下手に口出しすると火傷しそうだ)
リットは帝国の僻地が担当地域の、代官としては弱小と表現するしかない存在だ。
政略結婚を考えなくても済む立場であり、侯爵家のメイドとして採用される程度の人物ならリットが承諾するなら婚姻しても問題ない。
(問題ない、訳がないか)
美人過ぎる冒険者に性癖や女性観を歪められていたり、長年副官を務めている女性から重い感情を向けられていたりと、まだ爆発していないだけの爆弾がいくつもある。
男であるアルベルトが介入するなら難易度は非常に高くなるだろう。
「頑張れリット」
リットにも気付かれないまま、セニャの様子を見に行くアルベルトであった。
「お早いお帰りね?」
セニャは目覚めて風呂と身支度を終わらせたところだ。
「おはようセニャ」
「おはよう旦那様。朝から頑張ったわね」
セニャ自身楽しみはしたが、やるべきことが山積みなのにしようとしたのはアルベルトだ。
「今日も綺麗だ。王国にいたときに着ていた服かな?」
「また誤魔化して」
言葉はそっけなくても声は柔らかい。
「一時は痩せてたけどまた着ることができるようになったの」
胸を張る。
もともと質の高いものが適切に保管されているため、新品ではないがセニャの美貌に負けていない。
「お互い多忙だったからな」
冒険者として高頻度で依頼に挑んでいたアルベルトも、少ない金と人材で広大な担当地域をなんとか維持していたセニャも、若さと高位授恵者の体力があっても困難な日々を送っていた。
アルベルトは引き締まったまま筋肉がついた程度で済んだ。セニャは過労で倒れるわ美容にも影響は出るわで本当に散々だった。
「どう? 似合う?」
妖艶に微笑む様からは魔性すら感じられ……少女時代の服は似合ってはいない。
「……そうだな」
「今誤魔化したわね」
アルベルトの反応から内心を察し、セニャは不満と反省と懐古が混じった表情になった。
「このデザインを参考に一着ドレスを仕立てようと思ってたのだけど」
体型は当時とほとんど変わっていないのだが、本人の気配は大きく変わった。
無邪気な悪意と善意を振り回す少女が、個人としても公人としても修羅場を潜り抜けた大人になった。
「俺にだけ見せてくれるというのはどうかな」
少しだけ年齢にあっていない衣装の悪女風美女というのもいけるアルベルトである。
「夫の性癖の広さをどう評価すべきかしら」
ドレスを仕立てるかどうかはひとまず保留にして、今着ている服は使うために置いておこうと判断するセニャであった。
●
アルベルトのペンが丁寧かつ高速で動く。
主要な招待客と来賓との日程調整が完了し、シュタールシュヴェーアト侯爵アルベルトと代官セニャの結婚式の日程が確定した。
後は最後までやり遂げるだけだ。
国内外へ送る招待状の延々書き続けるのもその一環だ。
(ペンだこか)
剣を振るい続けて硬くなった部分は昔からあるが、ペンを使い続けてこうなったのは初めてだ。
(父上もこうだったかな)
声も顔も覚えてはいても、細部は徐々に朧気になっている。
それが悲しくもあり懐かしくもある。
(いつか子供ができたら父上達のことも話さないとな)
どちらに似ても、何を受け継いでも受け継がなくても、守り育て愛すると心に誓う。
「よし」
気合いを入れ直す。
管理地域の広さはまだ爵位ほど大きくはないが、冒険者の頃から実力者であるアルベルトは目立つ存在だ。
直接の付き合いや取り引きがある個人や組織だけでなく、多くの人や組織と積極的に関わる必要がある立場だ。
「兄貴ー!」
「ノックはしろリット」
執務室に駆け込んできた義弟に厳しく言う。
リットは素直に謝り、しかし勢いは衰えない。
「俺の招待状くれよ!」
期待と喜び一杯で後ろめたさは一切ない、ように見えた。
「リット」
アルベルトは作成済み書類が置かれた棚から封書に入れる前の書面を1つ取り上げる。
「書いた本人に詳しく説明させようとするとはな。考えたな?」
「そんなこと考えてねぇよ? ほんとだよ?」
リットは露骨に動揺し始める。
「冗談だ。質問なら今しておけ。お互いの担当地域を行き来するのには時間がかかるからな」
「さすが兄貴!」
リットは調子を取り戻す。
「どんな服装で何を手土産にすればいいか教えてくれよ」
目がきらきらしているがアルベルトは騙されない。
これは義兄を尊敬している態度ではなく、めんどくさくなって義兄に頼ろうとしている駄目な感じの行動だ。
「まず読め」
アルベルトは、自身への招待状を読まずに頼ってきたリットに軽く拳骨を落とす。
「痛いっ、ほんとに痛いぜ兄貴」
「真面目な話でふざけるからだ。いいかリット。あの時は必要以上の重圧を感じさせないよう敢えて言わなかったが、陛下に召かれるかもしれないんだぞ」
「昼飯とか? 最近一緒に食えてないけど」
レイウェストと直接顔をあわせて会話できるということの重さを全く理解していない。
「セニャはお前のそういう所を嫌って……いや今はいい。俺達は陛下とお呼びしているが陛下の戴冠式はまだ行われていないよな」
「……そうだよ?」
アルベルトはもう一度拳骨を落とす。
今度は覚悟していたのでリットは耐えた。頑丈なのだ。
「主君の重大事を忘れるな。いいかリット、お前は戴冠式に出席を許される可能性がある」
「おー!」
リットも凄いことだというのは分かるようだ。
「帝国中興の祖の戴冠式で不始末があれば末代まで悪影響がある。言い換えてもう1度言うぞ。お前が失敗するとお前の子供や孫も酷く迷惑するんだ」
リットは何度も首を傾げながら考え、1分近く経ってようやく理解した。
「やべーじゃん!」
「陛下も今のリットをご覧になれば頭を抱えるだろう。しばらく休暇をとれ。俺とセニャの式までに礼儀を身につけさせてやる。拒否は許さん。いいな?」
「わ、分かった。世話になるぜ兄貴」
リットの顔が戦場へ向かうときよりも真剣になる。
式までの短くない期間、寝る時間も惜しんで頑張った。
●
月日は過ぎていく。
レイウェストの許可という最大の難関は解決済みなので1度予定が決まれば後は順調に進展していく。
主に帝国から、次に王国から、他にも大陸のあちこちからシュタールシュヴェーアトの地に人が集まってくる。
「侯爵夫人か……」
純白の装束に身を包み、化粧だけでは説明できない美しさを持つ花嫁が静かにつぶやく。
「不満かな?」
傍らに立つアルベルトは自負と迫力に満ちている。
「侯爵夫人だけならね。王国とは違って皇帝から与えられる代官の地位がなければ意味の薄い爵位の配偶者だもの。でも」
花嫁が振り向く。
その微笑みは幸福に満ちていて、最も遠くにいた招待客まで惹きつける魅力がある。
「貴方の妻になれて嬉しいの。それだけは本当よ」
「疑いはしないさ」
いつでも花嫁を守り支えられる位置についてエスコートする。
未来は分からなくても、2人の足取りに迷いはない。
assignment【DA】史実ノベル 関連特設ページ
メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。