【DA】リーンエスの耳

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 今から二十数年前といえば、エルフの時間感覚ならほんの少し前ともいえるし、かなりの大昔といえる場合もある。
 フィルエス大森林に住まう賢者フェアロス・アーラ・アスプロスは当時、既に百歳を数える一人前の成人エルフだったが、治癒師としては兎も角、エーテル研究に携わる者としてはまだまだ未熟で駆け出しの若輩だと考える傾向が強かった。
 彼は仕事熱心であり、以前はシルトラース帝国軍の魔法研究にも協力するなど、魔術とエーテルに注ぐ情熱は若い頃から少しも色褪せることはなかった。
 しかし彼が居を構える集落に於いては、フェアロスは研究者であると同時に、独り身ながら子沢山という変わり者としての側面の方が、強く印象付けられているきらいがあった。
 というのも、フェアロスは魔法研究の為に遠出をすると、その都度孤児を連れて帰ってきていたのである。その時点で既にフェアロス宅には三人の孤児が引き取られていたが、種族はばらばらであった。
 ひとりは、ハーフリングの娘。
 ひとりは、ヒューマンの少年。
 ひとりは、ハーフビーストの少女。
 フェアロスは三人の子供達に対し、血を分けた本当の家族の様に接した。ところが三人の子供達はどういう訳かお互いに仲が悪く、何かにつけて手を焼かされていた。
 種族的な性格の違いなのか、それとも自身の育て方に問題があるのか――フェアロスは研究者としては鋭い知見を働かせる優秀な人物であったが、子を育てるひとりの父親としては、余りに非力だった。
 それでも三人の子供達を決して手放そうとしなかったのは、ひとえにフェアロスが慈愛に満ちた心優しき人物だったからに他ならない。
 子供達もフェアロスの愛情は肌身で感じていたのか、競う様にしてフェアロスの自慢の子であろうとした。
 或いは、その無償の愛が却って子供達の関係性に影響を与えていたのかも知れないが、その当時のフェアロスには、そこまで思い至る程の子育て感覚がまだ十分には備わっていなかった。
 子供達の教育についてはフェアロス自身まだまだ勉強中、これから色々と知ることで三人の関係性も改善するかも知れない――そんなことを日々考えながら、それでも何とか必死に研究と子育てを両立する毎日だった。
 ところがその微妙な家族関係のバランスを、ともすれば崩壊させかねない新たな事態に直面した。

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 フィルエス大森林内の某氏族の集落地。
 その近隣でエーテル溜まりが発生した原因を調査し、一定の結論を得たところで帰途に就いたフェアロスは、樹々の間で響き渡る泣き声に、思わず足を止めた。
 (まさか、こんなところに……?)
 疑問はしかし、すぐに確信へと変じた。
 深い森の奥で赤子の気配を感じたフェアロスは声の主を探し、そして見つけた。
 小さな編み籠の中で、清潔な木綿の布でくるまれた赤子が火のついた様な勢いで泣いていた。
 捨て子か――咄嗟にそう考えたフェアロスは赤子を抱きかかえ、そのまま自宅へと引き返した。
 だが、その足取りはいささか重かった。
 (これで、良かったのでしょうか)
 フェアロスは何度も自問した。
 既に我が家には三人の子供達が居る。正直なところ、彼ら彼女らに愛情を注ぐだけでも今は手一杯だ。にも関わらず、更にもうひとり、最も手がかかるであろう赤子を連れ帰ることが、本当に正しかったのか。
 フェアロスには赤子を育てた経験は、一度も無い。三人の子供達を引き取った時は、いずれも既に物心がついていた。意思の疎通が可能で、拙いながらも言葉のやり取りが出来た。
 だが、赤子という存在はまるで別次元だ。言葉による意思の疎通が不可能である以上、面倒を見る側が全てを察しなければならない。フェアロスにとっては分からないことだらけだ。
 そして何より、この赤子はエルフだった。
 三人の子供達は、自身が父とは異なる種族であることを理解している。そこへエルフの赤子を連れ帰ったとなれば、もしかすると子供達から何らかの負の感情を向けられてしまうかも知れない。
 勿論、フェアロスは赤子が自分と同じエルフだからといって、三人の子供達へ注ぐ愛情を変化させるつもりは毛頭も無かったのだが、子供心からすれば多少なりとも警戒することだってあり得るだろう。
 それでもフェアロスは、前を向いた。
 (悩むのは、後にしましょう。今は兎に角、連れ帰らなければ……)
 あのまま放置していれば、いずれ魔獣の餌食となっていたかも知れない。そうでなくとも、か弱い赤子の生命力ではそう何日と持たない筈だ。
 応急的な時限措置でも構わない。まずは連れ帰り、赤子の健康状態をしっかり確認する必要がある。
 その先のことは、それから考えれば良い。
 自宅のある集落近くへと辿り着いた頃には、ひと先ず当面の方針は固まっていた。
 だが流石に何の知識も無いまま、赤子の命を預かることは出来ない。フェアロスは帰宅途中に自宅近くの友人夫婦を訪ね、赤子の世話に関するノウハウを例え付け焼き刃でも構わないから、ひと通り頭の中に叩き込むことにした。

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 三人の子供達は、赤子に興味津々の様子だった。
 特にハーフリングの娘とハーフビーストの少女は、連れ帰った最初の数日はほぼ付きっ切りに近い形で常に赤子の傍に居つく様になった。
 フェアロスも新たな住人の思わぬ効果に内心で胸を撫で下ろす気分だったが、しかしその穏やかな空気もそう長くは続かなかった。
 程無くして、ふたりの娘は赤子を巡って争い始めたのである。自分が世話をする、いや自分の方が上手に面倒を見ることが出来るなどと口論を始め、今にも掴みかからんばかりの様相を呈していた。
「やめなさい、ふたり共。赤ん坊が泣いているではありませんか」
 結局フェアロスは赤子を自身の作業場兼書斎の部屋へと連れ込み、研究作業の合間に赤子の面倒を見るという生活スタイルに切り替えざるを得なかった。
 娘達は渋々従ったものの、今度は別の問題が生じ始めた。
 フェアロスが四六時中赤子にばかり気を配り、自分達のことをなおざりにしていると思い始めたらしい。
 勿論、フェアロスにはそんなつもりは全く無かったのだが、三人の子供達の目には、その様に映っていたのかも知れない。
 そして赤子を連れ帰ってから三週間が経ったある日、決定的な出来事が生じた。
 昼食の準備を進めている最中、赤子が癇癪を起こして激しく泣き始めてしまった。フェアロスは調理の手を止めて赤子をなだめることに意識を割いた。
 結果、子供達に昼食を供する時間が大幅に遅れた。空腹に耐えていた三人はいずれも、不機嫌そうな顔を隠そうともしなかった。
 フェアロスは何とか謝って子供達の機嫌を直そうと頑張ったが、しかしそこでハーフビーストの少女が、
「あんな赤ん坊、捨てちゃえば良いのに」
 と小さく零すのを聞いてしまった。
 子供達の感情を考えれば決して諫めるべきではなかったのかも知れない。だがこの時、フェアロスは厳しい顔つきで、
「もう二度と、そんなことをいってはいけませんよ」
 と低い声音で窘めた。
 ところがその日を境に、家庭内の空気が一変した。
 子供達との会話も、次第に少なくなり始めた。
 元々仲が悪かった子供達同士は、それでも何だかんだと喧嘩をしながら、お互いに自己主張する程度の言葉は交わしていた。
 ところが赤子を連れ帰ってから一カ月を過ぎた頃には、家の中はまるでぼんやりとした闇に包まれた様な、酷く澱んだ空気が漂っていた。
 子供達に対する日々の世話や教育は従来通りだが、明らかに感情の熱量が減少した。
 フェアロスはただ、困惑するばかりだった。
 これまでに味わったことの無い異変だった。
 エーテル研究に没頭して、多少世話が疎かになった時でさえも、三人の子供達がここまで拒絶に近しい沈んだ空気を押し出してくることは一度も無かったからだ。
 (私は、間違えてしまったのでしょうか……?)
 矢張りあの赤子は、連れ帰るべきではなかったのか――この段に至って、フェアロスは赤子を友人夫婦に委ねるべきではないのかと考え始める様になっていた。

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 数日後、フェアロスは帰路となる馬車道を駆けに駆けていた。
 ヒューマンの長男が、赤子の急変を知らせてきたからだ。長男はまだ年端もゆかぬ幼子だが、それでも赤子の為にと必死に脚を急がせ、自宅近くの小川でエーテル流の研究に着手していたフェアロスのもとへと駆け付けてきてくれた。
 フェアロスは何もいわず、長男を抱きかかえて自宅へと急ぎ帰り着いた。
 娘達が大声で泣きながら父を出迎えた。曰く、赤子がぐったりして動かないのだという。
 子供達を何とか落ち着かせながら、フェアロスは赤子が眠るベビーベッドの傍らへと張り付いた。確かに、状態がおかしい。赤子の体温は大人に比べて若干高いとは聞いていたが、しかしそれ以上の体温上昇が見受けられる。明らかに発熱していた。
 内心では酷く狼狽し、不安が頂点に達しつつあったフェアロスだが、それでも穏やかな笑みを浮かべて三人の子供達に振り向いた。
「知らせてくれて、ありがとう。もう大丈夫ですよ。私がちゃんと治してあげますから」
 本音をいえば誰よりも自分自身の為に、この赤子を救いたい。しかし同時にフェアロスは、子供達の為にも赤子を救ってやりたいと心底願った。
 友人夫婦からは赤子は発熱すると痙攣を起こすこともあると聞いていたが、幸いにしてその兆候は今のところ見られない。
 フェアロスはこの日から数日に亘って赤子の看病に没頭した。エーテル研究などは、いつでも出来る。今は兎に角、赤子を元気にしてやることだけに集中しよう。
 そして驚いたことに、三人の子供達も献身的に赤子の看病を手伝ってくれた。
 薬草や栄養のある食材の収集はもとより、子供達はフェアロスの手を煩わせぬ様にと、自分達のことは自分達で面倒を見ようと頑張った。あれ程に仲が悪かった三人が、お互いに気を遣い、いたわり、そして優しく接し合う。
 赤子の発熱という非常事態にあって初めて見せたその姿は確かに皮肉な展開かも知れなかったが、しかしフェアロスにはそれで十分だった。
 そして同時に、この子達の親であって良かったと、本当に心の底から思えた。
 それから程無くして、赤子は無事に回復した。
 フェアロスの治癒師としての能力の為せる業であったが、三人の子供達はこの時初めて、お父さん凄いという感情を抱いたのだろう。
 それまでフェアロスが見せていた姿はエーテルや魔術の研究者としてのそれであり、ひとの命を救うこと出来る治癒師としての能力は、子供達の前ではほとんど披露したことが無かった。

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 家の中に、活気が戻ってきた。
 だがそれは以前とは大きく雰囲気が異なる。かつては子供達が争う喧嘩の声ばかりだったが、赤子が無事に回復して以降は、笑い声が圧倒的に多くなった。
 少し前まではあれ程に赤子を疎んじていたハーフビーストの少女が、今では私の天使と呼ぶ程にまで可愛がる様になっている。
 子供達からすれば、一種の衝撃だったのかも知れない。自分達は赤子を敵視していた。にも関わらず、赤子は子供達に笑顔を向けてくれる。それは父が、彼ら彼女らに与えてくれる無償の愛と同質なのだ。きっとその事実に気付いたのだろう。
 そしてフェアロスは、漸く決心が固まった。
 (この子は……私が育てましょう)
 最早、何の迷いも無い。
 この赤子が自分と、そして愛する子供達を救ってくれた。手放すなど、到底考えもつかない話だ。
 と、ここでフェアロスはある事実に気付いた。
「そういえば、まだ名前がありませんでしたね」
 三人の子供達と幾つかの候補を考え、そして決まったのが、コルネリウスという名だった。
 やがてコルネリウスも成長し、授恵者に覚醒するとロスガリア大陸全土を駆け巡る冒険者として活躍する日々を送る様になる。
 この赤子が二十数年後には、エルフの常識を覆す『壁エルフのお姉さん』との異名を持ち、更にはロモズ歩兵団の団長としてその勇名を馳せる様になろうとは、流石にフェアロスも、そして三人の子供達も予想だにしていなかったのだが、それはまた、別の話。

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