【DA】リーンエスの耳
ディレイン・オールドケイジ/
ウォーレス・クレビオン
ジェイムズ・オールドケイジ
『ノベルタイトル:矜持とプライドの狭間』革酎
●
ディレイン・オールドケイジが、まだ年若い少年だった頃。
彼には、父が居た。母も居た。が、厳密にいえば、血の繋がりは無い。
養父ジェイムズ・オールドケイジは優秀な医者だった。各地を巡って症例に合わせた診療を施す、遍歴医として活動していた。
ロスガリア大陸に於いて、医者という存在は非常に珍しい。授恵者が治癒師として傷を癒す能力を持つことは広く一般的に知られているが、それは飽くまでも常人を越えた存在としての能力がその基礎となっている。
特殊な技術も能力も持たない一般人が傷を治し、病を治療するなどという話は、場合によっては眉唾物として信用されないこともあった。
そんな中にあってジェイムズの医療技術は、行く先々で歓迎され、重宝された。
授恵者の数が爆発的に増えたのは1220年頃の話であり、それ以前は現在よりも遥かに数が少なかった。当然ながら治癒師の人数も限られている。
それ故、授恵者の治癒師程とまではいかなくとも、傷や病に苦しむ者を助けてくれる存在は、それだけで奇跡に等しかったのかも知れない。
ジェイムズはまさに、その奇跡をひとびとに体現させてくれる人物だったといって良い。
或る日、少年ディレインは養父ジェイムズに、訊いたことがあった。
「親父はどうして、そこまでしてひとびとを助けるんだい?」
これに対し養父ジェイムズは、何故そんなことを訊かれているのか今ひとつピンときていない様子だった。
彼にとっては、医療技術を持つ者が傷や病に苦しむひとびとを助けることは、至極当然のことだという意識が染みついていたからだ。
「何故助けるのか、か……そんなことは、考えたことも無かったな」
ジェイムズは苦笑を滲ませた。
医療技術でひとを助けることに理由など要るのか――そういいたげな表情だった。
ひとが息を吸う様に、医者は怪我人、病人を治す。目の前に居るから、治す。遠くに居ても、足を延ばして行って治療する。それが医者として当然の道だからだ。単純に、それだけの話らしい。少なくとも若いディレインは養父ジェイムズの考え方を、その様に理解した。
そしてそんな養父ジェイムズに育てられている若きディレイン自身も、いずれは同じ道を歩むことになるのだろうと当然の様に考えていた。
事実ディレインは医者として後に独り立ちする訳だが、そこに至るまでには様々な紆余曲折があった。
メドゥの指先幹部『緑の人差し指』ラネンターカム討伐戦から、少し経った或る日。
ディレインは旅先の宿で夜明け前に目を覚ました。
しばらくベッドの中で宙空をぼんやりと見つめ、夢に出てきた亡き父の快活な笑顔を思い出していた。
(何で今頃、親父が夢ん中に……?)
分からないでもなかった。
ディレイン自身がラネンターカム討伐に強い執念を見せる様になったのは、あの吸血鬼が絡んだ過去の事件にクレビオン家が関わっていたからだ。
そのクレビオン家で見た膨大な診療録に、養父ジェイムズの面影を見たのである。
(あの字は間違い無く、親父のものだった)
ジェイムズは名前こそ変えていたものの、間違い無くクレビオン伯爵家の出身だったことは、その後の調査で確信を得るまでに至っていた。
(でも、まだ決着まで辿り着いたって訳じゃないな)
のっそりと上体を起こしたディレインの面には、ひとつの決意が滲み出ていた。
(もう一度、行くか……クレビオンに)
やるべきことは、分かっている。後は己自身の決意の問題だった。
●
リーンエス王国クレビオン伯爵家は、かつては貴族派貴族に所属する一門だった。
が、現在は西方辺境伯の寄り子として籍を変え、辛うじて家系の存続に成功した。集権派という新たな一大派閥に呑み込まれる前に寄り親を変えたのは、現当主ウォーレス・クレビオンのひとつの英断だったといっても良いだろう。
しかしウォーレスは同時に、拙い手を打った。
緑の人差し指ラネンターカムと裏で結託し、結果として領民に危害を加える様な愚行を働いてしまったのである。その問題行動を寄り親たる西方辺境伯に問い詰められ、危うくお家断絶に至るところだった。
何とか釈明を重ねて、辛うじて情状酌量余地を勝ち取ることは出来た。が、今も尚、厳しい目は注がれ続けている。これ以上、下手な真似は出来ない。
が、同時にウォーレスには医者としての矜持も僅かに残されていた。
彼は諸々の問題を経験し、乗り越えた後に、ひとつの決断を下した。
それは、医術薬学を目指す徒を育てる為の学校を領内に設立することだった。
ラネンターカム問題の後、クレビオン伯爵領内で恐るべき伝染病が蔓延した。ウォーレスはこの伝染病に対処することが出来ず、結果として冒険者の力を借りる破目に陥った。
その時、己の力不足と知見の狭さを思い知った。だからこそ、医術薬学の学び舎設立を決めたのだ。
授恵者の様に突出した治癒能力がある訳ではないのなら、大勢の領民を医療の道に導くことで、数の力で病に立ち向かってやろうという訳である。
ウォーレスが医療人として生き残るには、最早この道しか残されていなかった。
そうしてウォーレスが医術薬学領校の開設準備に追われる中、思いがけない人物の訪問を受けた。
ディレイン・オールドケイジだった。
「何? あの男が……?」
過日の伝染病騒ぎの際にも、そしてラネンターカムと手を組んで行った領民人体実験の際にも、あの男は姿を見せた。ウォーレスにとっては何とも微妙な立ち位置となる相手であろう。
昼食を終え、執務室で諸々の手続き書類作成に勤しんでいたウォーレスだったが、ディレイン訪問の報を受けてしばし考え込み、視線を宙空に漂わせた。
一体何の目的で足を運んできたのか、その真意が分からない。
だが一度はクレビオン伯爵家の領民を救ったこともまた事実だ。無下に扱う訳にもいかない。
「……分かった。通せ」
ウォーレスは腹を括った。
医者としても恐るべき技量を誇るディレイン。あの男とはもう一度、何らかの形で対峙することになるであろうとは薄々予感していた。それが偶々、この日になったというだけの話である。
遅かれ早かれ、この時は訪れたのだ。
ならば覚悟を決めて、相対してやろうではないか。
ウォーレスは軽く身なりを整えると、応接室へと足を向けた。
クレビオン伯爵邸の応接室に通されたディレインは、家士が供した茶菓子を前にしたまま室内をぐるりと見渡した。
腰掛けているソファーは勿論、調度品や置物など、それら全てに何となく既視感を覚える。
過去に二度の依頼でこの伯爵邸を訪れたことがあるから、ではない。
もっと以前から、この内装や家具の置き方、調度品の傾向などに僅かながら記憶と一致するところがあったのである。
当初はそれが何故なのか、ディレイン自身にも分からなかった。
が、今となってはその理由がはっきりと説明出来る。
(親父と住んでいた家と、何となく雰囲気が似ていたんだな……)
養父ジェイムズに引き取られ、その家で過ごすことになった当時は余り気にしたことも無かったが、生活するうちにそれら家内の様子が次第にディレインの記憶に刻み込まれる様になった。
そして、今。
ディレインは改めて確信を得るに至っていた。
矢張り養父は、ここクレビオン伯爵家出身だったのだ、と。
そんなことを考えていると、分厚い木製扉の向こう側から部屋をノックする音が響いた。次いで、家士が見覚えのある老年男性の為に扉を押し開く。
ウォーレス・クレビオン伯爵だった。
気まずい、というよりも、どこか刃を向け合わせる様な鋭い緊張感が漂い、室内の空気がピンと張り詰めた。それでもウォーレスは貴族としての礼を失わず、ディレインと挨拶を交わし合った。
それからウォーレスは家士を室の外で待機させ、ディレインとふたりきりで向かい合った。
●
ウォーレスは堅い表情のまま、幾分鷹揚に口を開いた。
「で、どういったご用向きかな?」
「まずは、ご報告が」
ディレインは居住まいを正した。かつては一度敵対したこともあったが、この場はリーンエス王国の伯爵家当主を相手にしているという場を弁えての態度を取るべきであろう。
「緑の人差し指ラネンターカムの討伐が為りました」
ディレインがそう告げた瞬間、ウォーレスの表情に苦味が走る。恐らくは己の失敗を思い出させる報告に、僅かながらでも敵意の様なものを感じているのだろう。
しかしディレインは相手の感情を敢えて無視した。ラネンターカム討伐報告はいってしまえば、もののついでに過ぎない。本題は、ここからだった。
「伯爵閣下が、医療薬学の学校を設立なさろうとしている旨をお聞きしました。そこで是非にも協力させて頂きたく存じ上げた次第です」
いいながらディレインは、分厚い診療録を卓上に差し出した。
これは父と自身が経験した症例をまとめたものであり、医術に携わろうとする者には参考になるだろうと付け加えた。
ウォーレスの表情には更に厳しい色が増したが、しかし彼はこれをいきなり付き返す様な真似はせず、ひとまずはその内容を検めることにした。
ずっしりと重い感触を掌に感じさせる診療録を開き、冒頭数ページにさっと目を走らせる。
その極めて濃厚な内容を読み進めるうちに、ウォーレスは渋い表情の中に感嘆と称賛の色を滲ませていた。
だがウォーレスは、それ以上頁を繰る手を進めようとはしなかった。彼はゆっくりと丁寧に診療録を卓上に戻し、小さくかぶりを振った。
「ご厚意は有り難いが、卿からこの様な申し出を受ける義理は無い。お引き取り願おう」
「いえ、それなのですが……困ったことに、私にもその義理があるのですよ」
ディレインは苦笑を浮かべつつ、今度は別の物を懐から取り出した。
手紙だった。随分と皺が寄っているのは、一度くしゃくしゃに折り畳んだことがあるのかも知れない。ディレインは大変汚くて読み辛いことをひと言詫びてから、その手紙を開いてウォーレスに指示した。
卓上に広げられたその紙面を、ウォーレスは食い入る様にじっと凝視した。
その瞳に、驚愕の色が見え隠れしている。
「この筆跡に、見覚えは無いでしょうか?」
ディレインから、半ばとどめに近しいひと言が発せられた。
ウォーレスは思わず、喉の奥で唸った。
かつてウォーレスは、伯爵家先代当主である父から、或る厳命を受けていた。
奴を越えろ、と。
その『奴』なる人物は、先代当主の弟に該当する血筋、即ちウォーレスにとっては叔父に当たる男性だ。その顔も知らぬ叔父は、家の為の結婚を嫌い、クレビオン家を出奔したとの由。
だが技術は恐ろしく優秀だった。クレビオン家始まって以来の傑出した医療技術の持ち主だったらしい。
先代当主はこの叔父に対して強いコンプレックスを抱いていたのではないか――今になってウォーレスは、父が抱いていたであろうかつての劣等感を理解する様になっていた。
自分自身が、同じ感情を抱いているからだ。それも、目の前に居る男、ディレインに対して。
そのディレインがこともあろうに、因縁たる叔父の手紙を携えて現れた。これは一体どういうことなのか。
「以前拝見したご当家の診療録上の筆跡と、私の養父の筆跡は酷似しています。これが何を意味するのか、ご理解頂けましたかな?」
「待て……今、養父と申したのか」
ウォーレスはごくりと喉を鳴らした。自分でも気づかぬうちに、脂汗が頬を伝い落ちようとしていた。
だが、彼は既に理解していた。
先代当主たる父から絶対に越えろと厳命された叔父の教え子であり、養子たる男が、目の前に座っている――何とも恐ろしい、そして奇跡の様な偶然だった。
否、これを只の偶然と片付けて良いのだろうか。或いは必然が導いた運命だったのではないか。
そんなウォーレスの葛藤を知ってか知らずか、ディレインは更に淡々と言葉を繋いだ。
「血の繋がりこそありませんが、私の父……ジェイムズ・オールドケイジは確かにご当家出身だったと確信しております。だからこそ、父が生まれ育った土地を支えたい。それが私のいう義理で御座います」
ディレインは敢えて意識して、言葉を丁寧に重ねた。
ウォーレスの反発心は、ディレインにも手に取る様に分かった。だからこそここは相手の感情を逆撫でせず、幼子にいい聞かせる様にしてゆっくりと、そして確実に理解させる必要があった。
●
ウォーレスは尚も苦悩の色を滲ませている。
ティーカップに注がれた紅茶は、すっかり冷めてしまっていた。
それでもディレインは、我慢強く待った。ウォーレスが理解し、納得し、受け入れることが出来る程度には心の整理を付けさせる必要があったからだ。
そのウォーレスの表情に、僅かな変化が見られた。それはディレインの言葉を受け入れる覚悟がついたというよりも、どこか諦めに似た感情だった。
「私は今後、父の様に遍歴医として国を問わず各地を回るつもりです。そうなれば、診療録は更に厚くなるでしょう。それに、クレビオン伯爵領には無い薬草類も持ち帰るつもりです」
伯爵は尚も、ぎりぎりと奥歯を噛み鳴らす様な反応を示した。
己の感情は今も複雑怪奇で、自分でも捉えようが無かった。相手はかつて、父から絶対に越えろと口酸っぱくいわれ続けた叔父の縁者だ。
その半ば不倶戴天の敵ともいうべき男から、ウォーレスの発案について協力の意思が申し入れられた。
冷静に考えれば何の迷いも無く受け入れるべきだろう。しかしこれまで何十年も積み重ねてきた感情のもつれが、ウォーレスの思考に澱みを生じさせていた。
受けるべきか、否か。
それから随分と長い時間が過ぎた様に思えた。
ウォーレスは依然として歯を食いしばり、ディレインと、卓上の診療録の間で視線を何度も往復させた。
既に結論は出ている。後は、ウォーレス自身の感情の整理だけであった。
一方でディレインは表情こそ変えなかったが、その内心に諦めの色が次第に広がりつつあった。
矢張り、この男は駄目なのか。領民に医学の道を進ませようという実に見上げた覚悟を示したにも関わらず、結局は己の感情に負けてしまう程度の男だったのか。
だが例え、ここで拒絶されたとしても、ディレインには後悔は無かった。打つべき手は打ったのだ。今更何を悔やむことがあろう。
賽は投げられた。後は相手の決断ひとつだ。
そして――。
「承知した。卿の申し出、有り難く受けさせて頂くとしよう」
ウォーレスは大きく息を吐き出した。彼の中で何かが変わった瞬間だった。
これに対し、ディレインは深々と頭を下げた。感謝でもなく、貴族に対する礼でも無い。これは、ひとつの敬意だった。
目の前の男は、激しい葛藤を乗り越えた。
その決断に、自然と頭が下がっただけだった。
ディレイン・オールドケイジが、まだ年若い少年だった頃。
彼には、父が居た。母も居た。が、厳密にいえば、血の繋がりは無い。
養父ジェイムズ・オールドケイジは優秀な医者だった。各地を巡って症例に合わせた診療を施す、遍歴医として活動していた。
ロスガリア大陸に於いて、医者という存在は非常に珍しい。授恵者が治癒師として傷を癒す能力を持つことは広く一般的に知られているが、それは飽くまでも常人を越えた存在としての能力がその基礎となっている。
特殊な技術も能力も持たない一般人が傷を治し、病を治療するなどという話は、場合によっては眉唾物として信用されないこともあった。
そんな中にあってジェイムズの医療技術は、行く先々で歓迎され、重宝された。
授恵者の数が爆発的に増えたのは1220年頃の話であり、それ以前は現在よりも遥かに数が少なかった。当然ながら治癒師の人数も限られている。
それ故、授恵者の治癒師程とまではいかなくとも、傷や病に苦しむ者を助けてくれる存在は、それだけで奇跡に等しかったのかも知れない。
ジェイムズはまさに、その奇跡をひとびとに体現させてくれる人物だったといって良い。
或る日、少年ディレインは養父ジェイムズに、訊いたことがあった。
「親父はどうして、そこまでしてひとびとを助けるんだい?」
これに対し養父ジェイムズは、何故そんなことを訊かれているのか今ひとつピンときていない様子だった。
彼にとっては、医療技術を持つ者が傷や病に苦しむひとびとを助けることは、至極当然のことだという意識が染みついていたからだ。
「何故助けるのか、か……そんなことは、考えたことも無かったな」
ジェイムズは苦笑を滲ませた。
医療技術でひとを助けることに理由など要るのか――そういいたげな表情だった。
ひとが息を吸う様に、医者は怪我人、病人を治す。目の前に居るから、治す。遠くに居ても、足を延ばして行って治療する。それが医者として当然の道だからだ。単純に、それだけの話らしい。少なくとも若いディレインは養父ジェイムズの考え方を、その様に理解した。
そしてそんな養父ジェイムズに育てられている若きディレイン自身も、いずれは同じ道を歩むことになるのだろうと当然の様に考えていた。
事実ディレインは医者として後に独り立ちする訳だが、そこに至るまでには様々な紆余曲折があった。
メドゥの指先幹部『緑の人差し指』ラネンターカム討伐戦から、少し経った或る日。
ディレインは旅先の宿で夜明け前に目を覚ました。
しばらくベッドの中で宙空をぼんやりと見つめ、夢に出てきた亡き父の快活な笑顔を思い出していた。
(何で今頃、親父が夢ん中に……?)
分からないでもなかった。
ディレイン自身がラネンターカム討伐に強い執念を見せる様になったのは、あの吸血鬼が絡んだ過去の事件にクレビオン家が関わっていたからだ。
そのクレビオン家で見た膨大な診療録に、養父ジェイムズの面影を見たのである。
(あの字は間違い無く、親父のものだった)
ジェイムズは名前こそ変えていたものの、間違い無くクレビオン伯爵家の出身だったことは、その後の調査で確信を得るまでに至っていた。
(でも、まだ決着まで辿り着いたって訳じゃないな)
のっそりと上体を起こしたディレインの面には、ひとつの決意が滲み出ていた。
(もう一度、行くか……クレビオンに)
やるべきことは、分かっている。後は己自身の決意の問題だった。
●
リーンエス王国クレビオン伯爵家は、かつては貴族派貴族に所属する一門だった。
が、現在は西方辺境伯の寄り子として籍を変え、辛うじて家系の存続に成功した。集権派という新たな一大派閥に呑み込まれる前に寄り親を変えたのは、現当主ウォーレス・クレビオンのひとつの英断だったといっても良いだろう。
しかしウォーレスは同時に、拙い手を打った。
緑の人差し指ラネンターカムと裏で結託し、結果として領民に危害を加える様な愚行を働いてしまったのである。その問題行動を寄り親たる西方辺境伯に問い詰められ、危うくお家断絶に至るところだった。
何とか釈明を重ねて、辛うじて情状酌量余地を勝ち取ることは出来た。が、今も尚、厳しい目は注がれ続けている。これ以上、下手な真似は出来ない。
が、同時にウォーレスには医者としての矜持も僅かに残されていた。
彼は諸々の問題を経験し、乗り越えた後に、ひとつの決断を下した。
それは、医術薬学を目指す徒を育てる為の学校を領内に設立することだった。
ラネンターカム問題の後、クレビオン伯爵領内で恐るべき伝染病が蔓延した。ウォーレスはこの伝染病に対処することが出来ず、結果として冒険者の力を借りる破目に陥った。
その時、己の力不足と知見の狭さを思い知った。だからこそ、医術薬学の学び舎設立を決めたのだ。
授恵者の様に突出した治癒能力がある訳ではないのなら、大勢の領民を医療の道に導くことで、数の力で病に立ち向かってやろうという訳である。
ウォーレスが医療人として生き残るには、最早この道しか残されていなかった。
そうしてウォーレスが医術薬学領校の開設準備に追われる中、思いがけない人物の訪問を受けた。
ディレイン・オールドケイジだった。
「何? あの男が……?」
過日の伝染病騒ぎの際にも、そしてラネンターカムと手を組んで行った領民人体実験の際にも、あの男は姿を見せた。ウォーレスにとっては何とも微妙な立ち位置となる相手であろう。
昼食を終え、執務室で諸々の手続き書類作成に勤しんでいたウォーレスだったが、ディレイン訪問の報を受けてしばし考え込み、視線を宙空に漂わせた。
一体何の目的で足を運んできたのか、その真意が分からない。
だが一度はクレビオン伯爵家の領民を救ったこともまた事実だ。無下に扱う訳にもいかない。
「……分かった。通せ」
ウォーレスは腹を括った。
医者としても恐るべき技量を誇るディレイン。あの男とはもう一度、何らかの形で対峙することになるであろうとは薄々予感していた。それが偶々、この日になったというだけの話である。
遅かれ早かれ、この時は訪れたのだ。
ならば覚悟を決めて、相対してやろうではないか。
ウォーレスは軽く身なりを整えると、応接室へと足を向けた。
クレビオン伯爵邸の応接室に通されたディレインは、家士が供した茶菓子を前にしたまま室内をぐるりと見渡した。
腰掛けているソファーは勿論、調度品や置物など、それら全てに何となく既視感を覚える。
過去に二度の依頼でこの伯爵邸を訪れたことがあるから、ではない。
もっと以前から、この内装や家具の置き方、調度品の傾向などに僅かながら記憶と一致するところがあったのである。
当初はそれが何故なのか、ディレイン自身にも分からなかった。
が、今となってはその理由がはっきりと説明出来る。
(親父と住んでいた家と、何となく雰囲気が似ていたんだな……)
養父ジェイムズに引き取られ、その家で過ごすことになった当時は余り気にしたことも無かったが、生活するうちにそれら家内の様子が次第にディレインの記憶に刻み込まれる様になった。
そして、今。
ディレインは改めて確信を得るに至っていた。
矢張り養父は、ここクレビオン伯爵家出身だったのだ、と。
そんなことを考えていると、分厚い木製扉の向こう側から部屋をノックする音が響いた。次いで、家士が見覚えのある老年男性の為に扉を押し開く。
ウォーレス・クレビオン伯爵だった。
気まずい、というよりも、どこか刃を向け合わせる様な鋭い緊張感が漂い、室内の空気がピンと張り詰めた。それでもウォーレスは貴族としての礼を失わず、ディレインと挨拶を交わし合った。
それからウォーレスは家士を室の外で待機させ、ディレインとふたりきりで向かい合った。
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ウォーレスは堅い表情のまま、幾分鷹揚に口を開いた。
「で、どういったご用向きかな?」
「まずは、ご報告が」
ディレインは居住まいを正した。かつては一度敵対したこともあったが、この場はリーンエス王国の伯爵家当主を相手にしているという場を弁えての態度を取るべきであろう。
「緑の人差し指ラネンターカムの討伐が為りました」
ディレインがそう告げた瞬間、ウォーレスの表情に苦味が走る。恐らくは己の失敗を思い出させる報告に、僅かながらでも敵意の様なものを感じているのだろう。
しかしディレインは相手の感情を敢えて無視した。ラネンターカム討伐報告はいってしまえば、もののついでに過ぎない。本題は、ここからだった。
「伯爵閣下が、医療薬学の学校を設立なさろうとしている旨をお聞きしました。そこで是非にも協力させて頂きたく存じ上げた次第です」
いいながらディレインは、分厚い診療録を卓上に差し出した。
これは父と自身が経験した症例をまとめたものであり、医術に携わろうとする者には参考になるだろうと付け加えた。
ウォーレスの表情には更に厳しい色が増したが、しかし彼はこれをいきなり付き返す様な真似はせず、ひとまずはその内容を検めることにした。
ずっしりと重い感触を掌に感じさせる診療録を開き、冒頭数ページにさっと目を走らせる。
その極めて濃厚な内容を読み進めるうちに、ウォーレスは渋い表情の中に感嘆と称賛の色を滲ませていた。
だがウォーレスは、それ以上頁を繰る手を進めようとはしなかった。彼はゆっくりと丁寧に診療録を卓上に戻し、小さくかぶりを振った。
「ご厚意は有り難いが、卿からこの様な申し出を受ける義理は無い。お引き取り願おう」
「いえ、それなのですが……困ったことに、私にもその義理があるのですよ」
ディレインは苦笑を浮かべつつ、今度は別の物を懐から取り出した。
手紙だった。随分と皺が寄っているのは、一度くしゃくしゃに折り畳んだことがあるのかも知れない。ディレインは大変汚くて読み辛いことをひと言詫びてから、その手紙を開いてウォーレスに指示した。
卓上に広げられたその紙面を、ウォーレスは食い入る様にじっと凝視した。
その瞳に、驚愕の色が見え隠れしている。
「この筆跡に、見覚えは無いでしょうか?」
ディレインから、半ばとどめに近しいひと言が発せられた。
ウォーレスは思わず、喉の奥で唸った。
かつてウォーレスは、伯爵家先代当主である父から、或る厳命を受けていた。
奴を越えろ、と。
その『奴』なる人物は、先代当主の弟に該当する血筋、即ちウォーレスにとっては叔父に当たる男性だ。その顔も知らぬ叔父は、家の為の結婚を嫌い、クレビオン家を出奔したとの由。
だが技術は恐ろしく優秀だった。クレビオン家始まって以来の傑出した医療技術の持ち主だったらしい。
先代当主はこの叔父に対して強いコンプレックスを抱いていたのではないか――今になってウォーレスは、父が抱いていたであろうかつての劣等感を理解する様になっていた。
自分自身が、同じ感情を抱いているからだ。それも、目の前に居る男、ディレインに対して。
そのディレインがこともあろうに、因縁たる叔父の手紙を携えて現れた。これは一体どういうことなのか。
「以前拝見したご当家の診療録上の筆跡と、私の養父の筆跡は酷似しています。これが何を意味するのか、ご理解頂けましたかな?」
「待て……今、養父と申したのか」
ウォーレスはごくりと喉を鳴らした。自分でも気づかぬうちに、脂汗が頬を伝い落ちようとしていた。
だが、彼は既に理解していた。
先代当主たる父から絶対に越えろと厳命された叔父の教え子であり、養子たる男が、目の前に座っている――何とも恐ろしい、そして奇跡の様な偶然だった。
否、これを只の偶然と片付けて良いのだろうか。或いは必然が導いた運命だったのではないか。
そんなウォーレスの葛藤を知ってか知らずか、ディレインは更に淡々と言葉を繋いだ。
「血の繋がりこそありませんが、私の父……ジェイムズ・オールドケイジは確かにご当家出身だったと確信しております。だからこそ、父が生まれ育った土地を支えたい。それが私のいう義理で御座います」
ディレインは敢えて意識して、言葉を丁寧に重ねた。
ウォーレスの反発心は、ディレインにも手に取る様に分かった。だからこそここは相手の感情を逆撫でせず、幼子にいい聞かせる様にしてゆっくりと、そして確実に理解させる必要があった。
●
ウォーレスは尚も苦悩の色を滲ませている。
ティーカップに注がれた紅茶は、すっかり冷めてしまっていた。
それでもディレインは、我慢強く待った。ウォーレスが理解し、納得し、受け入れることが出来る程度には心の整理を付けさせる必要があったからだ。
そのウォーレスの表情に、僅かな変化が見られた。それはディレインの言葉を受け入れる覚悟がついたというよりも、どこか諦めに似た感情だった。
「私は今後、父の様に遍歴医として国を問わず各地を回るつもりです。そうなれば、診療録は更に厚くなるでしょう。それに、クレビオン伯爵領には無い薬草類も持ち帰るつもりです」
伯爵は尚も、ぎりぎりと奥歯を噛み鳴らす様な反応を示した。
己の感情は今も複雑怪奇で、自分でも捉えようが無かった。相手はかつて、父から絶対に越えろと口酸っぱくいわれ続けた叔父の縁者だ。
その半ば不倶戴天の敵ともいうべき男から、ウォーレスの発案について協力の意思が申し入れられた。
冷静に考えれば何の迷いも無く受け入れるべきだろう。しかしこれまで何十年も積み重ねてきた感情のもつれが、ウォーレスの思考に澱みを生じさせていた。
受けるべきか、否か。
それから随分と長い時間が過ぎた様に思えた。
ウォーレスは依然として歯を食いしばり、ディレインと、卓上の診療録の間で視線を何度も往復させた。
既に結論は出ている。後は、ウォーレス自身の感情の整理だけであった。
一方でディレインは表情こそ変えなかったが、その内心に諦めの色が次第に広がりつつあった。
矢張り、この男は駄目なのか。領民に医学の道を進ませようという実に見上げた覚悟を示したにも関わらず、結局は己の感情に負けてしまう程度の男だったのか。
だが例え、ここで拒絶されたとしても、ディレインには後悔は無かった。打つべき手は打ったのだ。今更何を悔やむことがあろう。
賽は投げられた。後は相手の決断ひとつだ。
そして――。
「承知した。卿の申し出、有り難く受けさせて頂くとしよう」
ウォーレスは大きく息を吐き出した。彼の中で何かが変わった瞬間だった。
これに対し、ディレインは深々と頭を下げた。感謝でもなく、貴族に対する礼でも無い。これは、ひとつの敬意だった。
目の前の男は、激しい葛藤を乗り越えた。
その決断に、自然と頭が下がっただけだった。
assignment【DA】史実ノベル 関連特設ページ
メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。