【DA】リーンエスの耳

●罪過の代償

『慈涙』レインフィール伯爵領。本邸、中庭。
 しとしとと小雨が降る中。2人の男が向かい合っていた。片や、剣。片や、槍。

 その眼差しを見れば、両名共に並ならぬ理由を以て対峙している事が伝わったろう。
 ――――それは、アレンヴァルト・ローゼングランツ。23の誕生日のことである。

「ガレス・コーニッシュ卿。貴公に決闘を申し込む」

 本来、婚約者と祝う筈だったその席に“剣”を持ち込む事になろうとは当人すら思いも寄らない事。
 いや――――或いは。全く予期していなかったと言えば、それは恐らく嘘になるだろう。

 冒険者になってより、婚約者の不調が続いていること。時折何かに深く懊悩していること。
 その力になりきれていない自分の不甲斐なさに気付くことは、決して少なくはなかった。

「……卿、等とは止して頂きたい。『華剣』ローゼングランツ伯爵家の若君。アレンヴァルト殿。
『黒槍』の長子ではなく唯一人の男として。その申し出、謹んで受けさせて頂く」

 対峙する。黒い外套を羽織ったその男は、貴族界隈ではちょっとした有名人だ。
 放逐された背徳と不忠の騎士。元、北方辺境騎士団第四位、通称――――『黒騎士』ガレス。

『王国』においても間違いなく“上澄み”と評して間違いない本職の戦闘従事者。
 本来、貴族がこれと相対するのであれば名代として自家で最も腕の立つ騎士を立てるべき相手。

 しかし、今回に関してそれは許されない。否、例え許されようと容認出来ない理由がある。
 それは彼の親友。ジークリッド・レインフィールからも再三忠告を受けた。

 貴族には貴族の戦い方が有り、己が裁量出来る範囲で権力(それ)を用いる事は卑怯でも何でも無い。
 王家を規範とするが貴族の正しい在り様。元王国騎士を1人2人連れて来て誰が異論を挟もう。

 けれど。彼はそんな提案全てを断りこの場に至っている。愚かであると言えば間違いなく愚かだ。
 それでも。その愚直さを貫く事が出来なければアレンヴァルトはアレンヴァルトではいられない。

 事実。彼からの申し出を受けたガレスは全く躊躇無く背負った黒い槍ではなく鍛錬用の木槍を構えた。
 “手加減”する気で居るのだとこの時点で見て取れる。この上、搦め手を用いて勝利したとして。

 果たして彼がそれを以て、自身の勝利と誇れるだろうか。否。断じて――――否だ。

「レティシア、どうか見ていて欲しい」

 長年を経て澱を込め鍛え上げた儀礼剣は、最早魔杖と呼んで差し支えない魔力を湛えている。
 だが、それを以て尚。黒衣の傭兵から向けられた矛先を前に、勝てる未来は微塵も浮かばない。

 ――――そうでなくてはならない。彼から最愛の婚約者を奪う、と言ってのける相手だ。
 強大でなければ。宿敵と呼んで差し支えない、生涯二つと無い大きな壁でなければならない。

「これが、俺に出来る精一杯だ」

 そう告げ、視線を向けた先。口元を抑え、眼差しを揺らす『慈涙(レインフィール)』の白月の手。
 握られた手巾の影に……銀糸の薔薇の刺繍が見えた、と。そう気付いた次の瞬間。

 対していた黒衣の男は文字通り、影をすら置き去りにする勢いで鋭く踏み込み槍先を跳ね上げた。
 まるで、黒い風だ。と――――即座に両手で握った剣を斜めに構える。

 初手は見。間合いに優れる長柄の武器を相手に剣士が踏み込む時は、決死の一手に限る。
 “一番槍を受ける”――――事を、しかし完全に予期した動き。そして正しく予測の通り。

 相手の全力を受け止める気で構えていたアレンの剣先は見事に、槍先と共に上段へ打ち上げられる。
 と、想った瞬間には既に穂先は引き下げられている。本来槍の弱点とされる“戻り”が速い。

 その異常とも見える速度に身体が付いていかない。武器を引き戻すまでの胴を晒したその空白。
 この状態をシャルガネに曰く――――死に体、と言う。

 ■

 ――――遡ること、一週間ほど前のこと。

「――――認められない」

「お義兄様……!」

「……レティシア。何も僕は意地悪を言っている心算はない。これは貴族として当たり前の。
 至極当たり前の、儀礼的判断に過ぎない。つまり、誰に聞いてもそう応えるだろうという事だ」

「それは…‥…、……っ……分かって、います。でも――――」

「落ち着きなさい、レティ。ほら見ると良い。少なくとも君の騎士は一切異論の色は見せていない」

『慈涙』本邸の談話室に揃っていたのは『夜に咲く白月』レティシア・レインフィール。
 その義兄、ジークリッド・レインフィール 。そして『黒槍の守り人』ガレス・コーニッシュの3人。

 先ずは家族に面通しを。として、多忙故最後になったのがジークリッドだった訳だが。
 事情を説明した上での、開口一番。ジークリッドの下した判断はかつてなく辛辣な物だった。

「ガレス様……」

「ああいや。異論がない……と言う訳では有りません。ただ見た所。
 “少なくとも現状では認められない”と言う節の御言葉でしたので、では条件は如何かな物かと」

 黒の瞳と緑の瞳が交差する。片や殆ど表情が無く、片や微笑みを湛えながら。
 けれど互いの見立ては既にこの時点で凡そ済んだ様だった。両名は共に視線で語っている。

 “なるほど、こういうタイプの人間か”――――と。
 方向性は違えども、その対人分野への審美眼。洞察力に大差はなく。互いが良く似た性質を持つ事。

 即ち。表情と心中が必ずしも同期しない人種である事を悟るには、このやり取りで十分だったのだろう。
 そういった意味では、陰謀詭計の類に一際適性の無いレティシアだけが取り残されている状況と言え。

「お義兄様……?」

「うん、何だいレティ。ああ、彼の言い分は間違っていないよ。
 僕としても大切な義妹を、まさか“傭兵”にはいどうぞ、と差し出す訳には行かないのだから」

 ジークリッドの言い分は筋が通っており、レティシアには其処に異を唱える言葉はない。
 そしてその意図を一早く察したガレスの判断力が大した物なのも、素直に受け止められる。

 ただ殆ど面識の無い2人が互いを理解者かの様に振る舞う事に、思う所が無いと言えば嘘になる訳で。

(……もしかすると、私が居ない方が話が早く済んだりするのでしょうか)

「そんな事は有りませんから、あまり気にせず座っていて下さい」

 苦笑いの様な物を浮かべて頭を振るガレスに、何処と無く眼に不満を滲ませるレティシア。
 そのやり取りを見て、ジークリッドは両名共に見えない角度でそっと息を吐く。

 正直なところ今回の一件。つまり伯爵家の令嬢が、何処の馬の骨とも知れない傭兵に誑された。
 と、少なくとも貴族界隈では見られて仕方ない状況に、一番頭を悩ませているのは彼に他ならない。

 このちょっとやそっとでは隠し切れない“不祥事”を何とか上手く誤魔化すには。
 本来であれば、レティシアを家から放逐してしまうのが一番早いのだから。

 それでいて、当人ら同士は今一つ危機意識に乏しいのだ。嘆息の一つも漏れるという物。

(とは言え少なくとも。今のレティに必要な人間がこの男である事に間違いはない……か)

 伊達や酔狂でこの十余年、義妹のことをずっと見て来た訳ではない。
 今の彼女にとって、彼の傭兵の存在が生きる理由の根幹となっている事くらいは、見れば分かる。

 で、あるならば。彼女の為に一つ骨を折る程度、どうして厭う物だろうか。

「先ず、コーニッシュ殿。貴殿には貴殿が行った事。その代償を支払って貰う必要がある。
 これは王国法規に則った要求であり、貴殿に拒否権は――――」

「承知しました」

 内容も聞かず即応するガレスに、レティシアが瞬く。状況の推移について行けていない。
 視線を義兄と想い人を行き来する最中にも、ジークリッドは首肯し言葉を続ける。

「私が同じ立場でもそう答えるだろう。先方には既に書状を出してある。
 暫くは当家に滞在しておいて貰えるだろうか。何であれば正規の代金で貴殿を雇おう」

「それには及びません。自分は傭兵ですが。“傭兵として”この場に居る訳ではない心算ですから」

 交わる視線。其処にはどうも、レティシアには測りかねる“何か”があるようだった。

 ■

 それから、3日を待たずしてローゼングランツからの書状は返って来た。
 いや、実のところそれは返答の早さを意味しない。何せレインフィールの初動は迅速だった。

 元より“こうなる”可能性を半ば予期していた『慈涙伯』ヴィルフリードである。
 事態の縮小化の為方々に手を回し、一番の過失については全面的に自家が被る事で追撃をかわす。

 そういった水面下での立ち回りに於いて、『中立派』以上に手慣れた貴族家などそうは無い。
 勿論、アレンヴァルトの“親友”であるジークリッドもこれには一枚噛んでいる。

 結果、貴族界における信頼性には多少罅が入るにせよ。事は公の火種となる前に手打ちが済んでいる。
 届いた返答の内容はそれ故に、アレンヴァルト当人の意志が色濃く出た物となった。

「婚約破棄に応じる条件は2つ。1つ、婚約者レティシア・レンフィールとの対面。
 2つ、『傭兵』ガレス・コーニッシュがアレンヴァルト・ローゼングランツに決闘で勝利すること」

 以上だ。と告げられたレティシアは、先ず言葉を上手く咀嚼し損ねた様に義兄を見上げ。
 次いで色を失った表情で頭を横に振った。それは、彼女には到底看過し得ない事態だったからだ。

「アレンヴァルト様は、どうして、そんな……駄目です、決闘なんてそんなこと!
 悪いのは私です、罪も、罰も、私が課せられるべき物で……決闘なら、いっそ私が!!」

「レティ、事がそう単純ではないことは分かっているね。これは家と家と体面の話だ。
 勿論、罪科は全て当家が背負う。けれどあちらにも、婚約破棄を容認する公的理由が必要になる」

 でなければ。傭兵に婚約者を拐かされた貴族令息として、アレンヴァルトの声望は地に堕ちよう。
 それは彼の今後の為にならない。そんな汚名を抱えては、継嗣としての立場すら危うい。

「お受けしましょう」

「――――っ、ガレス様まで……!」

「これが貴女の罪だと言うなら、それは自分の罪でもあります。
 代償を払ったからと償える物でもないでしょうが、果たすべき責務は果たさなければならない」

「誇りは貴族にとって最も重視される事項の一つ。貴族から申し込んだ決闘だ、命の保証は出来ない」

「承知しています」

 淡々と応じるガレスの言に、困惑を色濃く滲ませレティシアが強く頭を振る。
 どんな理由があるにせよ。彼女の所為で命を賭けることなど在ってはならない。

 例え縋り付いてでも止めないと。そう思って掴んだ手に。黒衣の傭兵は僅かに笑って掌を載せる。

「大丈夫です。約束したでしょう?」

「でも……全ては私の所為で」

「貴女の所為ではありませんよ、レティシア。俺が自分で決めたことです」

「……ん゛ん゛」

 喉を鳴らしたジークリッドに。ふと手を掌を取り合う様な形で見つめ合っていた2人は。
 自分達が置かれていた状況を正しく理解し、慌てて距離を取る。

 一転素知らぬ顔のガレスに、ジークリッドが目を細めるも。かくして粛々と了承は為された。
 本来は自分が罰を受けるべき、と考えるレティシアは粘り強く撤回を訴えたが。

 そもそもが貴族間の。つまりレインフィールとローゼングランツ間での結論は出ている上。
 決闘を申し込まれたガレスがこれを受けると言っている以上は如何ともし難く。

 そうは言っても心落ち着かぬレティシアの内心を他所に、刻一刻と時は過ぎ行き――――
 そうして。望む望まざるとて、運命の日はやって来る。

●愁雨の決闘

 振るわれる儀礼剣が木槍と打ち合う事はなく。黒衣の傭兵はこれを間一髪で避ける。
 時折、剣を振るう隙を魔弾が埋めるが。これもやはり、その外套を射抜くことすらない。

 常に攻め立てるのはアレンヴァルトの側であり、攻撃を受け、躱し、退くのはガレスの側。
 この場面だけを切り取ったとしたなら、或いは一方的な展開である。と見る者も居るかもしれない。

 けれど、実戦経験に乏しく戦いは得手でないジークリッドにすら分かる。
 幾度も死線を潜ったというレティシアや、腕に憶えがある実父、ヴィルフリードならば尚更だろう。

 初手の打ち合い。咄嗟に魔弾を放ったアレンヴァルトの判断は決して遅い物ではなかったが。
 あれは、畳み掛けるだけで十分に、“詰み”へ持ち込めるだけの隙だった。

 本来。力量の分からない初手の相打ちで一方的に斬り伏せるには、三倍程の実力差が必要だと言うが。
 ジークリッドの見立てでは、アレンヴァルトとガレス。両名の力量差はそんな次元ですらない。

 普通に対したなら黒衣の傭兵の側が、相手に何もさせずに完封出来る。大人と子供ほどの格差。
 では、何故今仮にも決闘らしき物が成立しているのかと言えば。“手加減”しているからに他ならない。

 ――――それが、一体どれ程の屈辱か。ジークリッドには痛いほど理解(わか)る。

「どうした、コーニッシュ卿! それが君の誇りの示し方か……!」

「誇り……? ローゼングランツ殿。これはまた随分と可笑しな事を仰る」

 大上段から全力の振り下ろし。それを、ガレスは僅か2歩で横に避ける。
 しかしアレンヴァルトも見切られている事は承知の上。魔力の弾を指先に灯し――――

「何が可笑しい! この上まだ俺を嘲弄し足りないか――――!」

 直線の飛ぶ魔弾の軌跡――――それを牽制(フェイント)として片手で儀礼剣を振り上げる。
 捉えた。これまでにない手応えがあった。剣の先に、確かに敵手の体躯。

 レティシアが口元を抑える。そこで初めて――――アレンヴァルトは自らが対する男の顔。
 その目が。彼を見つめるその相貌が、余りにも何の感情も映していない事に気付いた。

 命中する筈だった剣先が、ガレスの手元で弧を描いた槍の柄で払われる。
 乾坤一擲の一閃が。まるで児戯も同然に逸らされ、たたらを踏み、地面に浅い斬痕を刻んだ。

「誇りなど、有りませんよ。これは決闘の名を借りた、ただの私闘だ」

「――――なっ」

「違いますか、違わないでしょう。自分は貴方の愛する相手を奪った。
 貴方は自分が本来得るべき幸福と祝福を共に奪われた。憎くないわけがない。恨まぬわけがない」

 それは。本来貴族同士の決闘にあるまじき侮辱だと言えた。許される物ではない。
『傭兵』と言う、下賤の立場を加味してもぎりぎりだ。相応しい言動だとは到底言えない。

「ですが。ただの私闘だからこそ。貴方は本当にこれで満足か、とお聞きしたい」

 だが、本来静止すべき立場であるヴィルフリードも。ジークリッドもそれを黙認した。
 今は黙認すべきだと。ある種の共感で以て、両者の理解は一致していた。

 ■

「騎士の誉れ。そんな物を渡すだけで貴方がレティシアを諦めてくれるのであれば。
 それで構わない。と、自分は想っていました。貴方の想いを侮ったこと、お許し下さい」

 向け直されるべき切っ先は、地に落ちたまま。
 敵手から紡がれる言葉に、アレンヴァルトは一切の動きを止めていた。

 憎悪。怨嗟。嫉妬。欺瞞。煮凝りのような負の感情。そんな物は、貴族の戦いには相応しく無い。
 決闘は決して習慣的な物ではない。授恵者と非授恵者の絶対的格差を考えれば代案など幾らもある。

 である以上。敢えてそれが為される場合の殆どは、名誉の名の下に行われる出来レースだ。
 その形式に則るのであれば。これは決闘を行い奮戦するも敗北し、婚約者を諦めざるを得なかった。

 と言った落とし所に至るまでの、筋を通すだけの物でしかない。勝ち目の無さなど問題にもならない。
 それはアレンヴァルトが一番良く分かっている。一合。最初の打ち合いでそれを思い知らされた。

 勝てない。どう足掻こうとも勝てない実力差。その現実から全力で目を逸らしていた。
 けれどそれは同時に。自らが相対する相手からも。自分の感情からも目を逸らしていたという事だ。

 愁雨で滲んだ視界が、まるでその瞬間嘘のように晴れたかのように思えた。
 今。漸く彼には対する黒衣の傭兵の姿が見えた。憎く恨めしい恋敵の姿を直視した。

 奇しくも自分と良く似た黒髪に。淡く青の滲む黒瞳の。余り好きになれそうも無い仏頂面の男。
 だが。其処に居たのはただひたすらに強い。けれどただの男だ。賊でも、蛮族でも、神話の英雄でもない。

「……ガレス・コーニッシュ。俺は、君が嫌いだ」

 言葉を繰るのは得意ではない。恐らく、眼前の男はそうではないのだろう。
 そんな所に、彼女は惹かれたのだろうか。いや。けれどそんな単純な話ではないのだろう。

「君を許す事は出来ない。君は、俺の一番大切な物を奪おうとしているからだ」

 けれど、これほど想うまま。感じるままを言葉にするのは何時以来だろうか。
 親友であるジークリッドに対してですら、いつも何処かで自分の本心を飾っていた気はする。

「誇り高い決闘に泥を塗った、君の言動に嫌悪を憶える。断固容認する気はない」

 怒りがある。恨みがある。憎しみがある。認めよう、眼前の男こそが宿敵であると。
 敗北する気はない。勝てないなどと言う諦観はもはや捨てる。例えどれほど力の差が有ろうとも。

「俺は君から彼女を取り戻す。覚悟は良いか」

「……であれば。自分はこう応じましょう」

 譲れない理由がある。最初の打ち合い以来始めて、黒衣の傭兵が木槍を構えた。
 その威圧感たるや、アレンヴァルトが剣を学んだ『華剣』の騎士団長をすら大きく上回る。

 だがそうでなければならない。これは一対一の決闘であり、男としての“私闘”なのだから。
 己の誇りと信念を賭けて、愛する者の為に振るう獲物が。“手抜き”で良い、わけがない。

「――――俺を於いて、レティシアを幸せに出来る者など他に居ない」

「その言葉、証明してみせるがいい……――――!」

 交わる、剣と槍。搦め手無しの真っ向勝負。何十、何百、何千繰り返した振り下ろしは速い。
 しかし長柄武器は間合いこそが最大の利。“鍔を競る”事が無い槍は威を逸らす事に優れている。

 打ち合わせた力が抜けた。次の瞬間半月を描く槍の柄尻が、アレンヴァルトの腹部に深く沈み込む。

 一拍置き。カ――――ン。と。魔力を帯びた剣先に斜めに斬られた木槍の穂先が地に落ちた。

「勝者、ガレス・コーニッシュ」

 ヴィルフリードの声に、レティシアがガレスの下へ駆けつける一方で。
 ジークリッドは激痛に声すら上げられず地に伏せる親友の下へ歩み寄る。

「……全く。大した男だよ君は」

 歯が立たないと見たジークリッドの読みを。一瞬。確かにアレンヴァルトは超えて見せた。
 ガレスの槍を絶った一刀。それこそは彼の愚直なまでの鍛錬の結実であり――――そして。

 彼が抱き続け、その婚約者が背を押したその夢が。決して無駄では無かった事の証明だった。

 ■

 決闘の後。時を於いて、暫し――――レインフィール本邸、応接室。
 例え如何なる決着が付いたにせよ。現実という奴は、物語の幕間のようにはいかない。

 幸い。自家から連れて来ていた治療師による回復を施されたアレンヴァルトに後遺症はなく。
 怪我人の心配をすべきだったレティシアは、別に誰からも責められていないのに消沈していたが。

 ローゼングランツの家紋印と、レインフィールの家紋印。
 2つが捺印された事で、正式に。両家の合意の元で2人の婚姻関係の破棄が決定した。

 この間。完全に部外者であり話がややこしくなるだけの黒衣の傭兵は室外に出されており。
 当主名代であるジークリッド。ローゼングランツ側の代表であるアレンヴァルト。

 そして当事者の片割れであるレティシアだけが椅子に着く室内は、酷く重い空気に包まれていた。

「……レティシア。ジークリッド」

 そんな中、口火を切ったアレンヴァルトだが。其処から先が続かない。
 じっと天井を見つめると。その空いた間を埋めようにも兄妹は互いに待つことしか出来る事はなく。

「俺が不甲斐ないばかりに、君たちには世話を掛けた。改めて、謝らせて欲しい」

「! それは、それは違いますアレンヴァルト様! 元はと言えば私が――――」

「待ちなさいレティシア。アレンの話を聞こう」

「でもお義兄様、アレンヴァルト様は何一つ悪い事など」

「……俺は君を護りたかった。幸せに、したかった」

 真っ直ぐに。向けられた言葉が、レティシアとジークリッドの言葉を詰む。
 それは罪悪感故に、アレンヴァルトがどうしても伝えられないでいたこと。

 そして、今でなければもう。伝えられない事だった。

「けれど。その為に俺は、自分の夢を追い続ける事だけで手一杯だった。
 君に寄り添うことが出来なかった。それは婚約者として、俺の過失に他ならない」

 否定の言葉は幾らでも浮かんだ。彼が、精一杯レティシアを護ろうとしてくれていた事。
 誠意を以て彼女と向き合おうとしてくれていた事は分かっていた。きちんと、伝わっていた。

 それを袖にしたのは。無下にしたのは自分だという自覚が、レティシアにはある。
 悪いのは自分だと。アレンヴァルトは何も悪くなど無いのだと……伝えたかった。

 殴られ、罵られる覚悟くらい出来ていた。それで償いになるのであればどんな痛みも厭わなかった。
 しかしジークリッドは何も告げずにレティシアを見て頭を振った。

 それで分かった。分かってしまった。此処で罰を被っても、楽になるのは彼女だけなのだと。
 アレンヴァルトはそんな事は望んでおらず。それはジークリッドもまた同様なのだ。

 誰も彼女を責めはしない。その立場を甘んじて受け入れる事こそが、贖罪なのだと。
 レティシアは両の拳を握って俯いた。俯いて、けれど泣くことだけはしなかった。

 耐えなければならない。それが、彼女が選んだ道の結末なのだから。

「君を縛る物は、もうない。レティシア。どうかせめて、君は必ず幸せに――――」

「――――アレン」

 かつての婚約者が、息を呑んだことが分かった。それは特別な、2人だけの時の呼び方で。
 本当なら。もうそう呼ぶことは二度と無い筈だった――――けれど。

「私は、貴方の婚約者で幸せでした」

 それは、彼が唯一つ聞きたい言葉で。もっと早く、伝えられたら良かった言葉に違いない。
 眼鏡を外し、天井を仰いだ彼からの応じの言葉は無かった。それで良い。それが、良い。

 痛みを背負って。罪を背負って。罰を背負って。それでも、必ず前へ進んでいく。
 それは彼女が自分の意志で選んだことだ。愁雨もまた。いずれはきっと、止むのだから。

●答えを下さい

「見送りは此処までで良い」

 アレンヴァルトの言に、玄関まで出向いたジークリッドは怪訝の色を浮かべた。
 馬車は門前であり、玄関から正門まではそれなりの距離がある。

 小雨が止んだ訳でもない以上傘なり何なり差すべきだが、それらしき物も見られない。
 そも少人数ではあれ家臣も連れて来ていた筈なのに、彼一人なのは何故だろう。

「いや、門まで見送らせて欲しい。傘も持って来ていないんだろう?」

「少し濡れる位なら気にする程でもない。何よりジーク。君には別にすべきことがある筈だ」

 その言に。漸くそれがアレンヴァルトなりの気遣いなのだとジークリッドは理解した。
 何せ、彼の家臣達にとっては一方的に婚約を袖にし、大切な次期当主を決闘で打ち負かした相手だ。

 レインフィールの側の本意が何処に有ったとしても。
 或いはアレンヴァルトがその結果を認め、レインフィールの立場に理解を示していたとしても。

 家臣達にとって見れば自らの属する家を侮辱した憎き貴族家。と受け取られても可笑しくはない。
 当然、主君筋であるアレンヴァルトが見咎める事は容易い。だが、それは禍根となり得るだろう。

 その様な瑕疵を遺したくなかったのだとすれば。如何にも、さっぱりとした気質の彼らしい。
 そう思う一方で、恐らく当人が考えている以上にその指摘は的を射ていた。

 正直な所。此度の決闘で決着が付いたのはローゼングランツとの関係性のみであり。
 レインフィールの立場からすればむしろ、婚約に決着が付いたからこそ派生する問題があるのだから。

 流石に見送りの時間が取れない程ではないが。ジークリッドには既に目下の難題が見えている。
 道徳よりも我欲を優先する一部の貴族達は“敗者”に対する配慮などしない。

 婚約者を失い、よりによって傭兵などと言う身分の男を選んだ令嬢として。
 現状のまま放置しておけば、然程時を置かずレティシア個人に対する悪評が付く事は免れない。

 或いは、傭兵に誑かされる様な低俗な令嬢であれば。と言った風評被害によって。
 不必要なトラブルを抱え込む可能性も到底0とは言い難い。貴族社会とは得てしてそういう物だ。

 声望を高める事は難しくとも、貶められる時は一瞬である。
 そういった悪意から個を護ろうとすれば必然、派閥や係累の。即ち集団の力を借りる必要がある。

「呆れたお人好しだ。自分を振った元婚約者の心配の方が先とはね」

「……言っただろ。俺はそれでも。彼女には幸せになって欲しいんだ」

 ジークリッドが嘆息を零す。そう。アレンヴァルトはそういう男だった。
 そういう男だからこそ、義妹を。レティシアを任せても大丈夫だと思ったのだ。

 例えその結末が望ましい物でなかったからと言って。彼の生き方が何一つ損なわれる訳ではない。
 生涯の親友と見込んだ男は。例え義妹の婚約者でなくなっても、尊敬に値する男だった。

「アレン。また何時でも訪ねて来てくれ、歓迎する」

「ジーク、いずれまた逢おう」

 2人、どちらからともなく拳を合わせる。それはかつて、学園生であった頃の様に。
 例え家と家との関係が途切れようと、それは決別ではない。新たな門出への餞別である。

 お互いを認めあった友情に、終わりはないのだから。

 ■

 他方。少しでも目を離すと行方を晦ましてしまうのではないか。
 そんな漠然とした不安を抱えるレティシアは、その黒影を目の当たりにして安心――――

 すると同時に、別に心配を抱え込む事になる。彼が相手の場合、往々にして良くある事だ。

「……ガレシウス様、ずっと此方に居たのですか」

 応接室から追い出されたガレスは、決闘が行われた中庭に佇んでいた。
 彼の側には殆ど怪我はないとは言え。この真冬に雨に濡れて無害である訳もない。

 駆け寄ろうとするも、自分もまた傘の類を持っていない事に気付いて右往左往する間に。
 黒衣の傭兵は外套を脱ぎながら間近に近付き。それから態々髪と肩を払う。

 何をしていたのだろう……と疑問は浮かぶ物の。それより前に伝える事があると気付き。
 レティシアはせめてもと普段から持ち歩いている予備の手巾を頬に押し付ける。

「少しばかり、無体な事をしてしまいましたので。頭を冷やしていました」

「それで身体を壊されたら、私が哀しむと分かっていての所業でしょうか」

「……そうですね、或いは手厚い看病を信じていればこそ、やもしれません」

 最近、彼は良く笑うようになった。それは或いはレティシアからの贔屓目なのかもしれないが。
 中々分からない物の。瞳を細め、僅かに口元を緩ませる。そういった表情が増えた気がする。

 相も変わらず。何処か斜に構えた言動に、彼女の方が困惑させられる事も多いけれど。
 こんな穏やかな、何でも無いやり取りを通してでも。心が温かくなる瞬間は何物にも代え難い。

「……終わりました」

 何が、とは言わない。言わずとも、彼くらい察しが良ければ全部伝わってしまう。
 一つの区切りが付いた。その我儘を通す為に、多くの物と、沢山の人を傷付けた。

 これで終わりではないにせよ。償い方すら定かではないのに。償うべき罪だけが増えていく。
 どうしたら良いのか。どうすれば正しいのか。答えは出ない。答えは……まだ見えないけれど。

「では、次は自分の番ですね」

「ガレシウス様」

 じっと見つめる。実のところ、先刻からずっと気になっていたことだ。
 今。中庭近辺には2人しか居ない。レティシアだってそれを見越して呼び方を変えた。

 にも関わらず。ガレスの側は周囲の人目を警戒してか。一向に態度を変える素振りがない。
 普段の彼の丁寧口調がいわゆる“猫を被っている”状態である事などとうに気付いているのだ。

 それを自分の前でまで徹されるのは、一線を引かれている様でとても嫌だった。
 勿論、我儘であることは百も承知している。けれど、それはお互いの何とも曖昧な関係性も含めて。

「何でしょうか」

「名前、呼んで下さい」

「……レティシア」

「その、騎士様みたいな喋り方も出来れば止めてくれると嬉しいです」

「一応、元は……いや、分かった。俺の負けで良いよ。これで良いのか」

 そう言って小さく嘆息する様は、きっと血の繋がった家族位しか知らない筈の彼の顔。
 いずれ家族になるのであれば、その位は見せて貰わないと困ると想う傍らで。

 少なくとも。婚約者は居ない状態になった自分に対して何も想う所はないのだろうかと。
 そんな、不義理この上ない事が思い浮かぶ程度には。彼女もまた、平常とは程遠いのだけれど。

「あとは、その……」

 心許ない立場から、いっそ抱きしめて貰えたら、と。そんな願いを告げようとした瞬間である。
 まるで見計らったかのように、ジークリッドが廊下を歩いてくるのが見えたのは。

 ■

 幸いというか。妙齢の、婚約者でも無くなった貴族令嬢の居る貴族家に宿泊する訳にもいかないと。
 夜も更けていると言うのに、義理堅く帰路に着いたアレンヴァルトはもう居ないとは言え。

 義母の目が何処に在るのかも分からない状況である。レティシア当人にこそ自覚が薄い物の。
 ジークリッドの目からすれば、彼女がいまだかつて無く緊張感を失っている事は瞭然だった。

 正直なところ。婚前交渉は当然却下であるとして。両想いである事は明らかな男女である。
 大切な義妹の話とは言え、多少の羽目を外す程度までは容認してやりたい気持ちが無いではない。

 しかし。昨今の貴族界隈の派閥関係の難しさと、『中立派』という立場。
 そしてレティシアの未来を考えた場合に。件のガレス・コーニッシュという男には柵が多過ぎた。

 少なくとも。所属派閥と家格。立場と業種が明確にならない事には婚姻話も進められない。
 そしてこの状況下で“婚約者”などと言う立場に置けるかと言えば、現時点では問題外なのだ。

 こればかりは、如何に義妹が一途に相手を想っていて、相手もまた同様であった所で。
 貴族として許される事。許されざる事というのは歴然と存在する。

 勿論。事前に調べた限りレインフィールの水準で考える“婚約者の条件”を満たす可能性。
 これについては、実母グレイローネが“保留”との判断を下した様に可能性は、大いに有る。

 特に『女傑』フォルトゥナと第二王子の婚約者『白銀の薔薇』を擁する『白銀(クラティアス)』。
『王党派』と『集権派』に顔が利き、王家の評価も高い同家は今後発展する可能性が高い。

 となると。同家の血を引く可能性の高いガレス・コーニッシュは有る種の切り札たり得る。
 実母であればそう受け止めても可笑しくはない。ジークリッドもある程度同意出来る理屈だ。

 先の。即ちレティシアの立場を護る防波堤として考えた場合。これは強力な後ろ盾足り得る。
 問題があるとすれば。それが獲らぬ竜鱗で鎧を仕立てるような話(皮算用)でしかないと言う事だろうか。

「2人共、僕が言っている事は分かるね?」

 普段は優しい義兄の目は全く笑ってはいなかった。念を押され、ガレスとレティシア。
 中庭で逢い引きしていた両名は、何処と無く止むを得ないようにしぶしぶと頷く。

「何も全く認めないと言っている訳ではないよ。むしろ条件付きであれば認めても良い。
 但し、当家も。僕個人としても。アレンに何か一つでも劣る条件を提示する訳にはいかない」

 それは外聞としても、そしてグレイローネを説得する材料としても問題が有る。
 言葉にはしないものの。ジークリッドは言外にそういったニュアンスを滲ませていた。

 当然必要に迫られてとは言え、そういう人間であると聞いた上で策を講じた事がある。
 ガレスもまた、レティシアの義母が求める条件とやらが“どういった物か”想像は容易い。

 唯一人。そういった家の事情で婚約の是非を決められつつある当事者の一方。
 レティシアだけが其処に何処と無く不満を憶えてはいるが。それはあくまで個対個の話である。

「それまでは、あくまで節度ある交際を行うこと。良いかな」

 念押しされた2人は、とりあえずその場は了解の意を示すものの。
 いざジークリッドが踵を返すと。視線を見合わせて思わず。と言う様に苦笑いを浮かべた。

 確かな答えは未だ見えない。それは、此処から先に進む方法であれ。
 或いは傷付け、壊した物に償う為の手段であれ。何であれば、今の2人の関係性であれ。

「ところで……その。交際、までは認めて頂けたと言う事で良かったのでしょうか」

「そうですね。それではレティシア。御手を拝借」

「……もう。また、義兄様に怒られても知りませんよ」

 けれど。此処まで積み重ねてきた物。積み上げて来た絆は裏切らない。
 彼が彼女を信じるように。彼女もまた、彼を信じているのだから。

 過ちが有り、裏切りが有り、迷走が有り、衝突が有った。それでも尚今、傍らに在る。
 その結実として漸く手を取り合った2人は、肩を並べて歩き出した。いずれ誓いを本当にする為に。

 失くし、溢し、傷付けた物の数だけ必ず。互いを、周囲を幸せに出来るように。
 冬尽く小雨明け。寒期の終わりはもう、間近に迫っている。

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