【DA】リーンエスの耳

コルネリウス・アーラ/ アルベイル・ライゼンナクト

『ノベルタイトル:春陰、胡蝶も眠るなら』弓月 蒼
●学園にて

 人が蝶の夢を見ているのか。蝶が人の夢を見ているのか。
 自分が見ている世界がどれほど曖昧か。という物の見方を指し、シャルガネでは胡蝶の夢と呼ぶと聞く。

 では、人が学び積み上げて来た文化の歴史は胡蝶の見た無為な夢なのか。勿論、そうではない。
 例えば長命種たる森人(エルフ )などにとって、唯人(ヒューマン )の一生は泡沫に過ぎない。

 けれどその中で積み上げた知識。築いた知恵。そして折り重ねた想いは次へ。
 未来へと継承される。そうした道程の先にこそヒトという種の進歩があり、精神的成熟があるのだ。

 であるならば。もしもその全てが胡蝶の夢の間隙に過ぎないのだとしても。
 その時その瞬間を懸命に生きている者の意義は決して、断じて些かも揺らぐ物ではない。

 少なくとも、文学とはまさにそういった余白をこそ黄金へと換える物であるのだから。

 ――――パンクリアース学園教書 地方都市国家文学基礎 より

●偶発的接近遭遇

 それは、窮地と称すにはあまりに残酷で、危機と呼ぶには前兆すら無く。
 吉兆と言うには混沌に過ぎて、いっそ……破綻と評してくれた方が、まだ笑い話位にはなりそうな。

 そんな、年単位で通った学び舎にあって尚、そうそう日常とは括り難い陥穽そのものだ。
 つまり有り体に。単純明快誰にでも分かる簡素な表現で言えば――――彼女は、混乱していた。

 (な……んで!?)

 ――――リーンエス王国、『学園』内、大図書館一般書架。
 静寂と言う言葉を世界に広げたら、きっとこうなる。そんな一角でかりかりと、何か認める音が響く。

『気高き白(エーデルワイス )』コルネリウス・アーラは多忙である。
 冒険者と学生の二足の草鞋ですら大変だと言うのに花園の管理・運営までしているのだから。

 彼女はあまり器用な性質ではない。他者評はともかく自分では心底”不器用な方だ”と信じている。
 いつだって手が足りず、いつだって自分が出来ることはほんの少しだけだと認じて止まない。

 だから例えば、進級直後の授業と言うのは大いに注意が必要だ。
 教本が変わり教師も変わり、必然的にこれまでの積み重ねが何処まで通じるかが曖昧になる。

 場合によっては昨年学んだこと、という先入観を破壊する必要が出てくる事すらある。
 学園に通い始め、コルネリウスは世に識者と呼ばれる人間の言葉がどれほど容易に覆るか。

 何かを学ぶにあたって“こうに違いない”という思い込みがどれほど危うい事なのかを学んでいた。
 以前であれば信じ難いことだ。教師なんて人種は小難しい顔で正しいことしか言わない……と。

 そんな幼い頃からの思い込みが、もしも正しかったなら今頃どんなに気楽だったろう。
 けれど――――そんな現実の厳しさを噛み締めつつあるコルネリウスは現在。

 真新しい今年の教本を広げ、予習をする為に訪れた大図書館の自習用の机で以て。
 まるで勉学が手につかない時間を、今まさに刻一刻と積み上げていた。

 本質的に、彼女の基本的心性は純朴そのものであり学園生でも真面目な側に分配される。
 である以上、これが異常事態でないならば一体何と表現すれば良いと言うのか。

 (うぅぅぅ……どれだけ集中しても何も頭に入ってこない……)

 ――――話は、ほんの数分前まで遡る。
 良い席が取れた。と、思った。元々自然を愛するコルネリウスが窓辺の席を好んだのは必然である。

 彼女は昨年の苦難から学んでいる。授業というのは一度付いて行けなくなると取り戻すのが大変だと。
 そしてあまり器用でない自分は、人よりも早く動き出すことが肝要なのだ。と、言うことを。

 だから彼女は忙しない日々の予定をやりくりして、真面目に学生業に勤しもうとここまでやって来た訳である。
 森人(エルフ )は顔だけ綺麗な脳筋揃い(バルバロイ )だ。……などと誰にも言わせない為にだ。

 もちろん。そんな事情を鑑みれば何処で勉強するのか、なんてことは極々単純に気分の問題でしかない。
 しかし、たかが気分、されど気分。良い席ですると何となく頭が良く回る気がする。気持ちは大切である。

 さあ今年はどんな強敵が待ち構えているか。いざ、と真新しい教本を開いて向き合う。
 そんな時だった。最初の頁に影が落ちたのは。次いで、響いた透明感のある声。

「コルネリウス・アーラ、対面の席を使わせて貰って構わないか」

 一瞬、幻聴の類かと思ったのは、まさに彼女が忙しなく方々移動する日々を送っていたからに他ならない。
 何せ、彼は大図書館の常連と言って良い。いっそ遭遇しない方が稀だったろう。

 しかしそんな事情など露知らぬコルネリウス。視線をゆっくりと上げれば、整った細面には強過ぎる赤い眼差し。
 繊細を極めた金の髪。黒一色の制服に身を包んだ見慣れた――――青年が古い本を両手に積み上げ佇んでいた。

「はい―――……えぇ……?」

 コルネリウスがこてんと首を傾げるしか出来なかったのも止むない話である。
 彼女が彼、『黒の後継』ことアルベイル・ライゼンナクトに話掛ける場合多くは彼女の側からだ。

 その度に、多かれ少なかれ自棄っぱちの駄目で元々な提案が予想に反しさらっとすり抜け。
 思い掛けない自体に動揺を余儀なくされることは、ままあれど。まあ、そちらは常習犯ではあれども。

 ここまで完璧に奇襲では心の準備も出来ていない。幾らなんでも秘匿情報(マスクデータ )が過ぎる。
 難易度詐欺だ。な、ん……? なん、で……? に思考が蹂躙されている。

「? それは了承と受け取って良かっただろうか。ああ、今日は席が混んでいてな」

「勿論大丈夫です」

 理由を問われたと認識したアルベイルが周囲を見回す様に視線を逸らした暇もあればこそ。
 反射で髪を整え、笑顔を形作れたのはコルネリウスが全力で自制を試みた結果である。

 実際、湧き出した混乱は全く鎮圧出来ておらず今まさに砦へ旗を立てられている真っ最中だったが。
 そんな劣勢は露とみせず、対面に座ったアルベイルを視界から外すべく教書を立てる。

 今は守りだ。守りを固めるべき時だ。時間さえ稼げばいずれ勝機がやって来る筈。
 ……だとすれば、彼女にとって現在。未だ教本の最初の頁で目が滑ることは痛恨という他は無い。

 そう、これは“誤算”だ。望むと望まざると発生した偶発的接近遭遇(ランダムエンカウント )だった。
 相席して凡そ小一時間。『新約、貴族の歴史』の予習は、最初の項からまるで進んでいない。

●黒竜と白花の午後

 (……なんで、私、なんだろう)

 書を読む素振りのまま対面を流し見ては、其処には手帳に何かを書き付けていくアルベイル。
 学生界隈で語られる“竜の仔”、“黒竜の君”などという仰々しい呼称とは裏腹に。

 その風貌や風体は、どちらかと言えば繊細で華奢……などという評価が出て来る容姿の持ち主だ。
 勿論一度舌鋒を向ければその気風は苛烈であり、見た目ほど綺麗なだけの人でないことは知っている。

 けれど、だからこそコルネリウスは不思議だった。この2年そこらでアルベイルの親派は大きく増えた。
 彼女の場合は少々事情が異なるが。彼にある種の求心力があると言う見立ては、贔屓目ではないだろう。

 目を引く容姿と断定的な立ち居振る舞いには華があり、特に下級生・同級生間の人気は高い。
 今大図書館に居る生徒でも何人かは一致するだろう。なのに……何故、彼女が声を掛けられたのか。

『王国』に深く関わる様になって、コルネリウスとて良い加減はっきり理解出来て来ている。
 この国の身分制度。特に、『貴族』と『平民』の間の垣根は酷く強固で厳格だ。いっそ窮屈なほどに。

 以前、冒険者として出向いた『西方辺境』は流石にもう少し風通しが良かったが。
 国としての規範と言う意味で考えればあちらの方が“例外”なのだろうことは然程想像に難くない。

 平民とは……身分違い。そんな、まるで物語の一節みたいな内容で悩む日が来ようなんて。
 冗談のようで――――冗談なら、良かったのに――――笑い話にすら、なってはくれなくて。

 彼女の内心などきっと何処吹く風と。まるで気にせず自分の作業を進めるアルベイルに。
 以前、この人に先導(エスコート )されて踊ったことがあった……なんて、こと。

 それほど前の事ではない筈なのに。そんな、叶わない夢を見でもしたのではないかと。
 迷いと不安とほんの僅かな期待に思考を乱されて。貴重な勉強の時間はひたすら虚無へと呑まれていく。

「コルネリウス。手が止まっている様だが」

「――――!?」

 手帳から視線を上げた。と、思ったら続いた一声に。
 ずっと余計なことを考えていたと、気付かれていたことに驚いて肩が跳ねる。

 全く気にした素振りなんて無かったと思ったが、良く良く考えてみれば相手は生粋の最高位貴族。
 そういった“意識を配らず周囲を掴む”技術に関しては下手な冒険者より余程に習熟していて当然だ。

 流石にコルネリウスの内心まで気取れはしないだろうが、それはそれとして思わず頬に血が上る。
 たしかに。対面に座った相手が自分を気にし続けていたら気には、なる。だろう。それは。うん。

「……分からないのであれば、軽く手解きしよう」

 ――――、――――。

 揺れることすらない赤い瞳に、怯えた様な眼差しをした森人(エルフ )が映っていた。
 続いた言葉に驚いて。呼吸すら忘れた一瞬を置いて。答えようとした言葉は喉で止まって。

 何で。この人は。この人はそうやって。すぐに、私の事を甘やかすんだろう。
 息苦しい程の気持ちに蓋をして。仕方ないからと厳重に鎖を巻いて鍵をして。

 見えないように水面に沈めて。辛い想いなんてしたくないから。見て見ないふりをし続けて。
 それなのに、どうしてこうやって。まるで、対等な友達のように気を使ったりするんだろう。

 そんなことをすると、勘違いしてしまうと分からないんだろうか。
 そんなことをされると、深く深く沈めておきたい気持ちが不意に視界に映るのだと。

 どうして分かってくれないんだろう。どうして気付いてくれないんだろう。どうして――――

 (どうして私なんだろう)

 それがとても嫌なのに。もしも貴方が敬意を向ける人が、私でなかったら、きっとそれは嫌なんだろう。
 どうして? 分からない。分かりたくない事が多くて。多くて。とても、とても多くて。

 目を閉じないと。涙が溢れてしまいそうになることが。
 多過ぎて。

「……お願い、します」

「心得た。まあ、貴族の歴史など貴女が知る必要はないだろうがな」

 教書を辿る、白い指先を幾ら追いかけても。きっと、この疑問の答えは出ない。
 彼が紡ぐ貴族の在り様は、或いはとても歪で。竜の仔は、ヒトの歴史など瑣末事だと詠う。

 身分の差など些細な問題で、ヒトの価値とは結局その者が何を希求し、どう行動したのかなのだと。
 そうであれば、良いと想う。本当に、誰もがそうであれば――――良いのにな、と想う。

 そのちっとも優しくはない。いざ教えるとなれば必要以上に本気で教える困った貴族様の講義は続く。
 勉強にあまり自信の無い。不器用で平民の森人(エルフ )は必死に追い縋るので精一杯で。

「800年代の貴族社会は所謂謀略と裏切りの歴史と言え――――うん? 聞いているか、コルネリウス」

「き、聞いていますよ!?」

 この人こんなに勉強出来たんだ……と、新しい発見を胸に刻んで、またそっと蓋をする。
 けれどきっと、今日という日を。私は決して忘れないように新しい日記に記すのだろう。

 森人(エルフ )と唯人(ヒューマン )。流れる時間(とき )が、終わる時間(とき )が違っても。
 どうかもう少しだけ。せめて、日が陰るまで。こんな一時がずっと。ずっと続けば良い。

 ――――そんな事を考えていると、不意に。つい先日聞いた講義の一節が頭を過ぎった。
 あるいは……いつか、いずれ。この瞬間を懐かしく想い出す事があるのだとしても。

 春陰、胡蝶も眠るなら。せめて今だけは、都合の良い夢ではありませんように。

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