【DA】リーンエスの耳

ヴァンゲルス・ロッド
『ノベルタイトル:親愛なる先生へ』空色みなも
●
先生、俺、教えてもらったようにしてみるよ。
だから先生は安心して見てな――。
●
ヴァンゲルス・ロッドが己の幼少期を振り返るとき。
彼の金色の瞳は、凪いだ湖面のように穏やかな瞳と逢うことになる。
今やヴァンゲルスにとって記憶の中の人となった先生は、名をクロエという美しい女性であった。
長く、尖った耳を一目見れば、彼女がエルフであることは瞭然。
しかし森林の奥深くなどではなく、人里近くに一人で居を構えていた。
ヴァンゲルスは先生と初めに出会ったとき、自身がひどい空腹を抱えていたのを覚えている。
同時に、先生から分け与えて貰ったパンの味もありありと思い出せた。
あまりに必死に食らいついたものだから、喉に詰まらせてあの世に渡りかけたことも。
そして、先生が差し出した水袋でどうにか一命を取り留めたことも。
そう、ヴァンゲルスはスラム街の出身で、つまりは貧困にあえいでいた。
飢餓のあまり行き倒れていたところを、先生に助けられたのだ。
それ以来である。
ヴァンゲルスが先生のもとで勉学を教わるようになったのは。
もちろん、スラム街で育った小さな子供にまともな読み書き計算ができるはずもなく。
基礎の基礎から始める手習いとなった。
存外、悪くないと思った。
当時のヴァンゲルスは行儀よくお勉強などするには腕白に過ぎる小僧であったが、それでも知るという行為は面白い。
知恵を身に着けるほど、ぼやけていた世界の解像度が上がっていくような不思議な感覚があった。
なにより、先生との交流は温かかった。
これまで親身になってくれる人物に恵まれなかったヴァンゲルスには特に、先生から受ける授業は居心地のよい時間に感じられた。
また、年上の綺麗な女性が何くれと面倒を見てくれるのだ。
多感な少年としては、悪いように感じろというほうが難しい。
少なくとも、ヴァンゲルスは先生のことを好ましく思った。
まずは母や姉のような存在として、だったけれども。
いつしか、ヴァンゲルスが先生に向ける想いは――。
●
「順調ですか、ヴァン」
先生が飲み物を乗せたお盆を手に、ヴァンゲルスが文字の書き取りを練習している部屋に入ってきた。
「ううん、全然!」
ヴァンゲルスはそこで大きな伸びを一つする。
書き取りをしていたはずの羊皮紙には文字のようなインクの染みが並んでいるが、その形はどれも打ち損じた釘のように歪だ。
「どうしてもペン先が紙に引っかかって字が歪む。これはペンの質が悪いんだ」
「責任転嫁をしてはいけませんよ。あなたが練習を続ければきっと上手くなります」
不平を零すヴァンゲルスを、先生が微笑を浮かべながらもたしなめる。
「休憩にしましょう。こちらをどうぞ」
先生はヴァンゲルスの向かいに座り、二人それぞれの前に飲み物を配膳した。
「なあ、先生」
「はて、なんでしょう?」
ヴァンゲルスはグラスに口を付けながら、かねてより疑問に思っていたことを先生に尋ねることにした。
「先生はなんで俺なんかに勉強を教えてくれるんだ?」
ヴァンゲルスの問いが発せられて、先生はしばし黙した。
「それは私が聖人だから――と言いたいところですが、そうではありません。私が本当に聖人なら、全ての子供に遍く手を差し伸べていたでしょう」
先生はやっと口を開いたかと思うと、珍しく寂しそうな顔をする。
「だから、これはきっと私のためなのかもしれませんね」
そう言った先生がヴァンゲルスに微笑みかけ、この話題はここで終わった。
幼きヴァンゲルスは先生の言葉がよく理解できないでいた。
しかし先生が笑顔であったから、そういうもんか、と思っておくことにした。
●
ヴァンゲルスが先生と過ごすようになってそれなりの月日が経った、ある日。
日差しが肌を焦がすように暑い時期のことであった。
「お誕生日おめでとうございます、ヴァン」
穏やかな笑みを浮かべた先生が、小さな箱をヴァンゲルスに手渡してきた。
「先生、なにこれ?」
ヴァンゲルスは小箱と先生の顔を交互に見やる。
「なにって、誕生日の贈り物ですよ」
「誕生日ってなんか貰える日だったのか?」
先生は当たり前のことのように言うが、ヴァンゲルスは目を白黒させていた。
「ええ。あなたには馴染みがないものだったかもしれませんが、そのような習慣があるのです」
先生もヴァンゲルスの置かれた環境を理解していなかったわけではないようだ。
後で思い返せば、誕生日の贈り物はされて当然の権利だとヴァンゲルスに教えるための態度であったらしい。
繰り返しになるが、ヴァンゲルスはスラム街出身であり、たいした身寄りもない。
これまで誕生日に物を贈られることはおろか、盛大に祝われた覚えもなかった。
おかげで、先生からそれとなく自分の誕生日を尋ねられたときも、思い出すのにずいぶんな時間を要したものだ。
誕生日も話としていちおう知らされてはいたが、意識する機会が乏しかったゆえに。
「誕生日はその人が生まれてきてくれたことを感謝する日ですから」
「感謝? 俺に?」
やはり先生の言うことはよく分からない。
ヴァンゲルスが自分の顔を指差して疑問符を浮かべていると。
「そうですよ。私はヴァンと出会わせて頂けたことに感謝しているのです」
先生の瞼が下りる。
まるで、なにかに祈りを捧げるように。
「そんな――」
感謝するのは俺のほうなのに、という言葉がヴァンゲルスの喉元まで出かかって、しかし飲み込んでしまった。
どうにも口にするには面映ゆい台詞であったから。
素直になれない年頃、というのはたいてい誰にだってあるものだ。
それはヴァンゲルスにとっても例外ではなく。
「俺、先生に何もしてあげてないぞ」
代わりにヴァンゲルスの口をついて出てきたのは、そっけない返事。
「いいえ。あなたはたくさんのものを私に与えてくれていますよ」
先生は首を小さく横に振り。
「あなたが喜んで学んでくれる。私にはそれで十分なのです」
そしていつもの穏やかな笑みでこんなことを言うのだ。
「……よくわかんないけど、ありがとな、先生」
このときのヴァンゲルスには、照れ隠しにうつむいて礼を言うことしかできなかった。
「開けても、いいか?」
ヴァンゲルスが恐る恐る尋ねると、先生はにっこりとしたまま頷いた。
リボンの端を掴む。
ゆっくりと力を入れれば、結わかれたそれはあっけないくらいあっさりと解けてしまう。
晴れて自由の身となった小箱を、開いてやる。
入っていたのは真新しい筆記用具、そして。
ピカピカに光る、しかし他になんということもない硬貨数枚。
「すっげー、新品だ」
「今、使っている分がずいぶん古い物でしたからね。これでいっそう勉学に励んでください」
贈り物が筆記用具というのも先生らしいチョイスだと、ヴァンゲルスは思った。
先生はいつも、ヴァンゲルスの読み書きが上達するのを喜んで見守っていてくれたから。
だが、ヴァンゲルスは筆記用具に添えられるようして収まっていたコインのほうへ意識が向いていた。
「そのコインが気になりますか」
視線の行先を先生に見つかり、ヴァンゲルスはうん、と首肯する。
「あなたもそろそろ、自分の意思で大きな買い物をする、ということを覚えてもいい頃でしょう」
先生の言い分はこうだ。
ヴァンゲルスは先生から物や食事を与えられることはあるが、自分の意思で自分のために物を買うという経験に乏しい。
だからこれを機会に一度、自分のために好きなものを買ってみるのもいいだろうと。
「……うん、嬉しい。大切にするよ、先生」
小箱をそっと抱きかかえたヴァンゲルスの頭に、先生が優しく手を置いた。
●
コインをランプの灯にかざしてみると、角度によって異なる表情を見せる。
寝床に就いたヴァンゲルスは、先生から貰ったコインの一枚を手の中でくるくると回して眺めていた。
小遣いとして自由にしていいと言われたが、いざ買いたいものを考えるとなるとなかなか思い浮かばない。
もとより贅沢に慣れていないので、使い道に悩むのだ。
めったに食べられないような御馳走にありつくというのも検討はした。
しかし、せっかく先生から貰った贈り物の使い道としては勿体ないようにも感じられた。
それにしても、綺麗だ。
コインは炎に照らされて、星のように煌めいている。
いつまでも飽きることなく、眺めていることができた。
そういう意味じゃ先生みたいだ――などと考えて、ヴァンゲルスは一人でいるにも関わらず気恥ずかしくなった。
「――まあ、置いといても腐るもんじゃないしな」
考えることに疲れたヴァンゲルスは、コインの用途を保留することにした。
実際、金銭を貯蓄に回すというのは珍しい話でもなんでもない。
使うのを後回しにしたところで不都合はなにもあるまい。
ヴァンゲルスはコインを懐に仕舞い、火照った顔を枕にうずめた。
●
日が昇り、日が沈み、月が昇って沈んで、日がまた昇る。
そのような営みを何度か繰り返した、また別のある日。
ヴァンゲルスは商店街を歩いていた。
時折、気ぜわしく行き交う人々や、商人の馬車に追い抜かれながら、ゆっくりと。
ヴァンゲルスの歩みが緩やかなのは、商店に並べられた品物を見定めながらであったから。
そう、ヴァンゲルスは先生から貰ったコインの使い道を決めたのだ。
すう、と吸い寄せられるように、ヴァンゲルスの視線がある品物に留まった。
それは若草を模った、女性用の髪飾りであった。
と、ヴァンゲルスは店員らしい女性から自分が訝し気に見られていることに気づいた。
「ああ、心配するな。ちゃんと客だよ、おばちゃん」
店員の意図に気付いたヴァンゲルスが手にしたコインを見せてやると、店員の態度は上客に対するそれになる。
おばちゃんじゃなくてお姉さんだよ、と訂正するのだけは店員も忘れなかったけれど。
要するに、あまり身なりが小綺麗でないヴァンゲルスは、手癖の悪いような輩でないかと警戒されていたのだ。
別にそうした自衛のための意識はヴァンゲルスも理解できるので、態度を改められた以上は気を悪くすることもない。
「こいつを包んでくれ」
ヴァンゲルスが代金と一緒に髪飾りを手渡すと、店員は慣れた手つきで包装を行うのだった。
●
「先生、これやるよ」
丁寧に包まれた小箱は、ヴァンゲルスから先生へ差し出された。
「まあ」
先生はヴァンゲルスの行動がよほど意外だったのだろう。
目を丸くして驚いている。
「先生、今日が誕生日だろ」
「覚えていてくださったのですね」
頬を掻くヴァンゲルスに、先生は微笑みを向けた。
ヴァンゲルスは自らの誕生日を祝われた際、先生の誕生日も聞き返していた。
先生もそのことは記憶に留めていそうなものだが、まさかヴァンゲルスがこうして実際に贈り物を用意してくれるとまでは思わなかったらしい。
「開けてもいいですか」
どこかで聞いたような言葉を、今度は先生が口にした。
「ああ、もちろん」
ヴァンゲルスが見守る中、小箱が開かれる。
わくわくとした高揚を示していた先生の表情が、いっそう華やいだ。
当然、中に入っていたのはヴァンゲルスがなけなしの所持金で購入した髪飾り。
「これは――私があなたの誕生日にお渡したコインで買われたのですね?」
どうやら先生もこの贈り物の購入費用がどこから出たか勘付いたようだ。
ヴァンゲルスが自分でお金を稼ぐにしても、小さな子供にできることには限りがある。
そのように考えれば、自ずと答えに辿り着くというわけだ。
「あなたのために使ってくださってもよかったですのに」
先生が少し申し訳なさそうな顔をする。
もともと、あのコインはヴァンゲルスの好きなことに使って欲しいと渡されたものだ。
ヴァンゲルスに誕生日を教えることで気を遣わせてしまったのだろうか、と先生は心配しているのだろう。
「いいや、これは俺のためなんだ」
しかし、ヴァンゲルスは先生の目を真っすぐに見て言う。
「その髪飾りをつけた先生を、俺が見たいと思ったから」
これはヴァンゲルスにとって嘘偽りのない気持ちであった。
ヴァンゲルスは敬愛する先生の、今より美しい姿を目に焼き付けたいのだ。
それを聞いた先生は、再び目を見開いた。
「ヴァン、あなたはきっと――」
髪飾りが先生の頭に若草を芽吹かせて。
「将来、立派な女たらしになりますね」
そんなことを言いながらも、先生は嬉しそうに頬を緩ませるのだった。
●
どうやら自分は先生のことが好きらしい。
ヴァンゲルスがそうと気付いたのは、先生の髪を自らの贈り物が飾ったときだった。
もちろん、先生を慕うような気持ちは初めからあった。
だが、この胸の高鳴りは単なる尊敬としては言い表せない。
淡い恋心。
使い古された言葉で表現するなら、そういうことになるだろうか。
先生の姿を頭に思い描くたび、どことなく切なくなる。
今とは違った関係を、改めて先生と結び直すことなど想像もできない。
ヴァンゲルスにとって先生が先生であるように。
先生にとって、ヴァンゲルスは一人の教え子だ。
そう、一人の教え子なのだ。
「問題は、だ――」
誰も聞いていないのをいいことに、ヴァンゲルスは独り言つ。
この想いを先生に伝えるか否か、問題というのはそれであった。
まず第一、この恋愛が成就するという結末は全くと言っていいほど見込めない。
勢いに任せて告白してしまえば、断られたとき気まずくなるというのはヴァンゲルスにも容易に予想できた。
「……こいつに聞いてみるか」
そう言って、ヴァンゲルスは己の懐を探る。
出てきたのは、一枚のコイン。
これもあの時、先生に贈られたものである。
髪飾りを購入する際、一枚だけは手許に残るように値段を見ていたのだ。
輪を作った指の上に、コインが乗せられた。
「裏なら言わない。表なら――」
ヴァンゲルスの親指に弾かれたコインが、宙に踊る。
表、裏、表、裏。
目まぐるしく回転を続けたコインはやがて、ヴァンゲルスの手の甲にキャッチされた。
●
「これ読んでくれ、先生」
ヴァンゲルスは先生の目の前に、一通の封筒を突き出していた。
その中身はヴァンゲルスが先生から受け取った筆記具で一生懸命にしたためた懸想文。
コインは先生に想いを告げろとヴァンゲルスに促したのだ。
「あなたも字が上手になりましたね。頑張って勉強された証です」
ゆっくりと手紙の文面に目を通した先生は、ぽん、とヴァンゲルスの頭の上に手を置いた。
かつてヴァンゲルスの誕生日にそうしたように。
「先生、俺――!」
ヴァンゲルスの言いかけた言葉を、しかし先生は人差し指をヴァンゲルスの口に添えて遮った。
「私はあなたの成長が嬉しいです。勉学についても、そうした気持ちを抱けるようになったことも」
先生はいつもの優しい調子で、諭すように語る。
「なら――」
「ですが、あなたのその気持ちに応えることはできません。私はあなたの先生ですから」
ヴァンゲルスにとっても、先生の返答は予期されたものだった。
こうなると分かって告白したはずだ。
しかしやはりと言うか、こうして実際に言葉にされると刺さるものがあった。
だが、涙は流さない。
後悔なんて、これっぽっちもしていないからだ。
「――ありがとうございます、ヴァン」
先生がくしゃくしゃとヴァンゲルスの頭を撫でながら零した言葉を聞けてよかった。
貰ったコインに背中を押されて間違いはなかったと、ヴァンゲルスは心の底からそう思ったのだ。
●
先生はヴァンゲルスの想いを知ってからも、これまで通り変わらず接してくれた。
かといって、そのような日々がいつまでも続くわけでもない。
やがてヴァンゲルスが十分に育ち、独り立ちする日がやってくる。
「あなたならもう問題なく一人で生きていくこともできるでしょう。ですがどうか、あなたにとって大切な人をいつかまた見つけてください」
先生が餞として贈った言葉を、ヴァンゲルスが忘れることはないだろう。
そして最後に見た先生の頭に、若草の髪飾りが光っていたことも。
その後しばらくして、ヴァンゲルスは先生が亡くなったことを知った。
帝国崩壊が起こるより、前の出来事ということになる。
ヴァンゲルスと出会った頃にはもともと歳を重ねていた先生は、ヴァンゲルスを送り出したことで安心してしまったかのように。
最期は安らかな顔で、永遠の眠りについたという。
●
時に流されるうちに、ヴァンゲルスは壮齢の男となった。
幼き日と比して、色々なものが変わってしまったように思う。
情報屋として荒波に揉まれてきたこともあり、ずいぶんとひねくれた目で世の中を眺めるようになってしまったものだ。
それでも、ヴァンゲルスには未だあの頃から変わらぬものがある。
特に、先生に抱いた畏敬の念などだ。
まず先生から読み書きを教わらなければ、今の自分がしているような仕事にもありつけなかっただろう。
そういう意味でも、今のヴァンゲルスを築き上げたのは他でもない先生だ。
なにより先生と共に過ごした日々は、隣に誰かがいる生活も悪くないと思わせてくれた。
さて、こうしてヴァンゲルスが過去を振り返ることになったのにも理由がある。
かつてヴァンゲルスが先生に贈り物を見繕った装飾店を、再び訪れる機会があったからだ。
あの時のように、身近な者へ贈り物をしようというわけだ。
大きく異なる点があるとすれば、今は自らの稼ぎが手許にあるということか。
店番をしていたのは、前にヴァンゲルスに対応したのとは違う女性だった。
しかしその目許を見れば、どことなく前に目にした店員の面影がある。
おおかた代替わりをして、娘が店を継いだといったところだろう。
あれからもうずいぶんな月日が経ったものだ。
店内を一通り見て回ったヴァンゲルスは、小さな鞠のついた簪を手に取った。
「これ包んでくれるか、姉ちゃん」
ヴァンゲルスも今度は店員をおばちゃんとは呼ばなかった。
大人になるとは、こういうことを言うのだろうか。
やはり手慣れた様子で包装されていく簪を眺めながら、ヴァンゲルスはそれを贈る相手を想う。
日頃の世話にありがとうと言いたい、という気持ちもある。
それと同時に、その簪をつけている姿はさぞ美しかろうという気持ちもあった。
誰が何と言おうと、女は美しいに越したことはないのだ。
そのように考えるという点も、ヴァンゲルスが幼少期より変わっていないことの一つだった。
こうして感謝の印に贈り物をする、という習慣も先生から教わったものである。
贈り物を選ぶ間は、普段以上に相手について深く考えることになる。
相手は何が好きだろうか、何を贈れば喜んでもらえるだろうか、などと。
そうしたことが理解できるようになればなるほど、あの日、先生から貰った贈り物の有難さを噛みしめることになった。
使い込んだ筆記具は、いつの間にかボロボロで使い物にならなくなってしまったけれど。
「じゃ、これ貰ってくぜ」
小箱を受け取ったヴァンゲルスが、店を出る。
そこでヴァンゲルスは懐を探って、一枚のコインを取り出した。
指に乗せて弾いてやると、コインは高く、高く舞い上がって。
やがて太陽に重なり、その縁を輝かせた。
先生、俺、教えてもらったようにしてみるよ。
だから先生は安心して見てな――。
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ヴァンゲルス・ロッドが己の幼少期を振り返るとき。
彼の金色の瞳は、凪いだ湖面のように穏やかな瞳と逢うことになる。
今やヴァンゲルスにとって記憶の中の人となった先生は、名をクロエという美しい女性であった。
長く、尖った耳を一目見れば、彼女がエルフであることは瞭然。
しかし森林の奥深くなどではなく、人里近くに一人で居を構えていた。
ヴァンゲルスは先生と初めに出会ったとき、自身がひどい空腹を抱えていたのを覚えている。
同時に、先生から分け与えて貰ったパンの味もありありと思い出せた。
あまりに必死に食らいついたものだから、喉に詰まらせてあの世に渡りかけたことも。
そして、先生が差し出した水袋でどうにか一命を取り留めたことも。
そう、ヴァンゲルスはスラム街の出身で、つまりは貧困にあえいでいた。
飢餓のあまり行き倒れていたところを、先生に助けられたのだ。
それ以来である。
ヴァンゲルスが先生のもとで勉学を教わるようになったのは。
もちろん、スラム街で育った小さな子供にまともな読み書き計算ができるはずもなく。
基礎の基礎から始める手習いとなった。
存外、悪くないと思った。
当時のヴァンゲルスは行儀よくお勉強などするには腕白に過ぎる小僧であったが、それでも知るという行為は面白い。
知恵を身に着けるほど、ぼやけていた世界の解像度が上がっていくような不思議な感覚があった。
なにより、先生との交流は温かかった。
これまで親身になってくれる人物に恵まれなかったヴァンゲルスには特に、先生から受ける授業は居心地のよい時間に感じられた。
また、年上の綺麗な女性が何くれと面倒を見てくれるのだ。
多感な少年としては、悪いように感じろというほうが難しい。
少なくとも、ヴァンゲルスは先生のことを好ましく思った。
まずは母や姉のような存在として、だったけれども。
いつしか、ヴァンゲルスが先生に向ける想いは――。
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「順調ですか、ヴァン」
先生が飲み物を乗せたお盆を手に、ヴァンゲルスが文字の書き取りを練習している部屋に入ってきた。
「ううん、全然!」
ヴァンゲルスはそこで大きな伸びを一つする。
書き取りをしていたはずの羊皮紙には文字のようなインクの染みが並んでいるが、その形はどれも打ち損じた釘のように歪だ。
「どうしてもペン先が紙に引っかかって字が歪む。これはペンの質が悪いんだ」
「責任転嫁をしてはいけませんよ。あなたが練習を続ければきっと上手くなります」
不平を零すヴァンゲルスを、先生が微笑を浮かべながらもたしなめる。
「休憩にしましょう。こちらをどうぞ」
先生はヴァンゲルスの向かいに座り、二人それぞれの前に飲み物を配膳した。
「なあ、先生」
「はて、なんでしょう?」
ヴァンゲルスはグラスに口を付けながら、かねてより疑問に思っていたことを先生に尋ねることにした。
「先生はなんで俺なんかに勉強を教えてくれるんだ?」
ヴァンゲルスの問いが発せられて、先生はしばし黙した。
「それは私が聖人だから――と言いたいところですが、そうではありません。私が本当に聖人なら、全ての子供に遍く手を差し伸べていたでしょう」
先生はやっと口を開いたかと思うと、珍しく寂しそうな顔をする。
「だから、これはきっと私のためなのかもしれませんね」
そう言った先生がヴァンゲルスに微笑みかけ、この話題はここで終わった。
幼きヴァンゲルスは先生の言葉がよく理解できないでいた。
しかし先生が笑顔であったから、そういうもんか、と思っておくことにした。
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ヴァンゲルスが先生と過ごすようになってそれなりの月日が経った、ある日。
日差しが肌を焦がすように暑い時期のことであった。
「お誕生日おめでとうございます、ヴァン」
穏やかな笑みを浮かべた先生が、小さな箱をヴァンゲルスに手渡してきた。
「先生、なにこれ?」
ヴァンゲルスは小箱と先生の顔を交互に見やる。
「なにって、誕生日の贈り物ですよ」
「誕生日ってなんか貰える日だったのか?」
先生は当たり前のことのように言うが、ヴァンゲルスは目を白黒させていた。
「ええ。あなたには馴染みがないものだったかもしれませんが、そのような習慣があるのです」
先生もヴァンゲルスの置かれた環境を理解していなかったわけではないようだ。
後で思い返せば、誕生日の贈り物はされて当然の権利だとヴァンゲルスに教えるための態度であったらしい。
繰り返しになるが、ヴァンゲルスはスラム街出身であり、たいした身寄りもない。
これまで誕生日に物を贈られることはおろか、盛大に祝われた覚えもなかった。
おかげで、先生からそれとなく自分の誕生日を尋ねられたときも、思い出すのにずいぶんな時間を要したものだ。
誕生日も話としていちおう知らされてはいたが、意識する機会が乏しかったゆえに。
「誕生日はその人が生まれてきてくれたことを感謝する日ですから」
「感謝? 俺に?」
やはり先生の言うことはよく分からない。
ヴァンゲルスが自分の顔を指差して疑問符を浮かべていると。
「そうですよ。私はヴァンと出会わせて頂けたことに感謝しているのです」
先生の瞼が下りる。
まるで、なにかに祈りを捧げるように。
「そんな――」
感謝するのは俺のほうなのに、という言葉がヴァンゲルスの喉元まで出かかって、しかし飲み込んでしまった。
どうにも口にするには面映ゆい台詞であったから。
素直になれない年頃、というのはたいてい誰にだってあるものだ。
それはヴァンゲルスにとっても例外ではなく。
「俺、先生に何もしてあげてないぞ」
代わりにヴァンゲルスの口をついて出てきたのは、そっけない返事。
「いいえ。あなたはたくさんのものを私に与えてくれていますよ」
先生は首を小さく横に振り。
「あなたが喜んで学んでくれる。私にはそれで十分なのです」
そしていつもの穏やかな笑みでこんなことを言うのだ。
「……よくわかんないけど、ありがとな、先生」
このときのヴァンゲルスには、照れ隠しにうつむいて礼を言うことしかできなかった。
「開けても、いいか?」
ヴァンゲルスが恐る恐る尋ねると、先生はにっこりとしたまま頷いた。
リボンの端を掴む。
ゆっくりと力を入れれば、結わかれたそれはあっけないくらいあっさりと解けてしまう。
晴れて自由の身となった小箱を、開いてやる。
入っていたのは真新しい筆記用具、そして。
ピカピカに光る、しかし他になんということもない硬貨数枚。
「すっげー、新品だ」
「今、使っている分がずいぶん古い物でしたからね。これでいっそう勉学に励んでください」
贈り物が筆記用具というのも先生らしいチョイスだと、ヴァンゲルスは思った。
先生はいつも、ヴァンゲルスの読み書きが上達するのを喜んで見守っていてくれたから。
だが、ヴァンゲルスは筆記用具に添えられるようして収まっていたコインのほうへ意識が向いていた。
「そのコインが気になりますか」
視線の行先を先生に見つかり、ヴァンゲルスはうん、と首肯する。
「あなたもそろそろ、自分の意思で大きな買い物をする、ということを覚えてもいい頃でしょう」
先生の言い分はこうだ。
ヴァンゲルスは先生から物や食事を与えられることはあるが、自分の意思で自分のために物を買うという経験に乏しい。
だからこれを機会に一度、自分のために好きなものを買ってみるのもいいだろうと。
「……うん、嬉しい。大切にするよ、先生」
小箱をそっと抱きかかえたヴァンゲルスの頭に、先生が優しく手を置いた。
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コインをランプの灯にかざしてみると、角度によって異なる表情を見せる。
寝床に就いたヴァンゲルスは、先生から貰ったコインの一枚を手の中でくるくると回して眺めていた。
小遣いとして自由にしていいと言われたが、いざ買いたいものを考えるとなるとなかなか思い浮かばない。
もとより贅沢に慣れていないので、使い道に悩むのだ。
めったに食べられないような御馳走にありつくというのも検討はした。
しかし、せっかく先生から貰った贈り物の使い道としては勿体ないようにも感じられた。
それにしても、綺麗だ。
コインは炎に照らされて、星のように煌めいている。
いつまでも飽きることなく、眺めていることができた。
そういう意味じゃ先生みたいだ――などと考えて、ヴァンゲルスは一人でいるにも関わらず気恥ずかしくなった。
「――まあ、置いといても腐るもんじゃないしな」
考えることに疲れたヴァンゲルスは、コインの用途を保留することにした。
実際、金銭を貯蓄に回すというのは珍しい話でもなんでもない。
使うのを後回しにしたところで不都合はなにもあるまい。
ヴァンゲルスはコインを懐に仕舞い、火照った顔を枕にうずめた。
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日が昇り、日が沈み、月が昇って沈んで、日がまた昇る。
そのような営みを何度か繰り返した、また別のある日。
ヴァンゲルスは商店街を歩いていた。
時折、気ぜわしく行き交う人々や、商人の馬車に追い抜かれながら、ゆっくりと。
ヴァンゲルスの歩みが緩やかなのは、商店に並べられた品物を見定めながらであったから。
そう、ヴァンゲルスは先生から貰ったコインの使い道を決めたのだ。
すう、と吸い寄せられるように、ヴァンゲルスの視線がある品物に留まった。
それは若草を模った、女性用の髪飾りであった。
と、ヴァンゲルスは店員らしい女性から自分が訝し気に見られていることに気づいた。
「ああ、心配するな。ちゃんと客だよ、おばちゃん」
店員の意図に気付いたヴァンゲルスが手にしたコインを見せてやると、店員の態度は上客に対するそれになる。
おばちゃんじゃなくてお姉さんだよ、と訂正するのだけは店員も忘れなかったけれど。
要するに、あまり身なりが小綺麗でないヴァンゲルスは、手癖の悪いような輩でないかと警戒されていたのだ。
別にそうした自衛のための意識はヴァンゲルスも理解できるので、態度を改められた以上は気を悪くすることもない。
「こいつを包んでくれ」
ヴァンゲルスが代金と一緒に髪飾りを手渡すと、店員は慣れた手つきで包装を行うのだった。
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「先生、これやるよ」
丁寧に包まれた小箱は、ヴァンゲルスから先生へ差し出された。
「まあ」
先生はヴァンゲルスの行動がよほど意外だったのだろう。
目を丸くして驚いている。
「先生、今日が誕生日だろ」
「覚えていてくださったのですね」
頬を掻くヴァンゲルスに、先生は微笑みを向けた。
ヴァンゲルスは自らの誕生日を祝われた際、先生の誕生日も聞き返していた。
先生もそのことは記憶に留めていそうなものだが、まさかヴァンゲルスがこうして実際に贈り物を用意してくれるとまでは思わなかったらしい。
「開けてもいいですか」
どこかで聞いたような言葉を、今度は先生が口にした。
「ああ、もちろん」
ヴァンゲルスが見守る中、小箱が開かれる。
わくわくとした高揚を示していた先生の表情が、いっそう華やいだ。
当然、中に入っていたのはヴァンゲルスがなけなしの所持金で購入した髪飾り。
「これは――私があなたの誕生日にお渡したコインで買われたのですね?」
どうやら先生もこの贈り物の購入費用がどこから出たか勘付いたようだ。
ヴァンゲルスが自分でお金を稼ぐにしても、小さな子供にできることには限りがある。
そのように考えれば、自ずと答えに辿り着くというわけだ。
「あなたのために使ってくださってもよかったですのに」
先生が少し申し訳なさそうな顔をする。
もともと、あのコインはヴァンゲルスの好きなことに使って欲しいと渡されたものだ。
ヴァンゲルスに誕生日を教えることで気を遣わせてしまったのだろうか、と先生は心配しているのだろう。
「いいや、これは俺のためなんだ」
しかし、ヴァンゲルスは先生の目を真っすぐに見て言う。
「その髪飾りをつけた先生を、俺が見たいと思ったから」
これはヴァンゲルスにとって嘘偽りのない気持ちであった。
ヴァンゲルスは敬愛する先生の、今より美しい姿を目に焼き付けたいのだ。
それを聞いた先生は、再び目を見開いた。
「ヴァン、あなたはきっと――」
髪飾りが先生の頭に若草を芽吹かせて。
「将来、立派な女たらしになりますね」
そんなことを言いながらも、先生は嬉しそうに頬を緩ませるのだった。
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どうやら自分は先生のことが好きらしい。
ヴァンゲルスがそうと気付いたのは、先生の髪を自らの贈り物が飾ったときだった。
もちろん、先生を慕うような気持ちは初めからあった。
だが、この胸の高鳴りは単なる尊敬としては言い表せない。
淡い恋心。
使い古された言葉で表現するなら、そういうことになるだろうか。
先生の姿を頭に思い描くたび、どことなく切なくなる。
今とは違った関係を、改めて先生と結び直すことなど想像もできない。
ヴァンゲルスにとって先生が先生であるように。
先生にとって、ヴァンゲルスは一人の教え子だ。
そう、一人の教え子なのだ。
「問題は、だ――」
誰も聞いていないのをいいことに、ヴァンゲルスは独り言つ。
この想いを先生に伝えるか否か、問題というのはそれであった。
まず第一、この恋愛が成就するという結末は全くと言っていいほど見込めない。
勢いに任せて告白してしまえば、断られたとき気まずくなるというのはヴァンゲルスにも容易に予想できた。
「……こいつに聞いてみるか」
そう言って、ヴァンゲルスは己の懐を探る。
出てきたのは、一枚のコイン。
これもあの時、先生に贈られたものである。
髪飾りを購入する際、一枚だけは手許に残るように値段を見ていたのだ。
輪を作った指の上に、コインが乗せられた。
「裏なら言わない。表なら――」
ヴァンゲルスの親指に弾かれたコインが、宙に踊る。
表、裏、表、裏。
目まぐるしく回転を続けたコインはやがて、ヴァンゲルスの手の甲にキャッチされた。
●
「これ読んでくれ、先生」
ヴァンゲルスは先生の目の前に、一通の封筒を突き出していた。
その中身はヴァンゲルスが先生から受け取った筆記具で一生懸命にしたためた懸想文。
コインは先生に想いを告げろとヴァンゲルスに促したのだ。
「あなたも字が上手になりましたね。頑張って勉強された証です」
ゆっくりと手紙の文面に目を通した先生は、ぽん、とヴァンゲルスの頭の上に手を置いた。
かつてヴァンゲルスの誕生日にそうしたように。
「先生、俺――!」
ヴァンゲルスの言いかけた言葉を、しかし先生は人差し指をヴァンゲルスの口に添えて遮った。
「私はあなたの成長が嬉しいです。勉学についても、そうした気持ちを抱けるようになったことも」
先生はいつもの優しい調子で、諭すように語る。
「なら――」
「ですが、あなたのその気持ちに応えることはできません。私はあなたの先生ですから」
ヴァンゲルスにとっても、先生の返答は予期されたものだった。
こうなると分かって告白したはずだ。
しかしやはりと言うか、こうして実際に言葉にされると刺さるものがあった。
だが、涙は流さない。
後悔なんて、これっぽっちもしていないからだ。
「――ありがとうございます、ヴァン」
先生がくしゃくしゃとヴァンゲルスの頭を撫でながら零した言葉を聞けてよかった。
貰ったコインに背中を押されて間違いはなかったと、ヴァンゲルスは心の底からそう思ったのだ。
●
先生はヴァンゲルスの想いを知ってからも、これまで通り変わらず接してくれた。
かといって、そのような日々がいつまでも続くわけでもない。
やがてヴァンゲルスが十分に育ち、独り立ちする日がやってくる。
「あなたならもう問題なく一人で生きていくこともできるでしょう。ですがどうか、あなたにとって大切な人をいつかまた見つけてください」
先生が餞として贈った言葉を、ヴァンゲルスが忘れることはないだろう。
そして最後に見た先生の頭に、若草の髪飾りが光っていたことも。
その後しばらくして、ヴァンゲルスは先生が亡くなったことを知った。
帝国崩壊が起こるより、前の出来事ということになる。
ヴァンゲルスと出会った頃にはもともと歳を重ねていた先生は、ヴァンゲルスを送り出したことで安心してしまったかのように。
最期は安らかな顔で、永遠の眠りについたという。
●
時に流されるうちに、ヴァンゲルスは壮齢の男となった。
幼き日と比して、色々なものが変わってしまったように思う。
情報屋として荒波に揉まれてきたこともあり、ずいぶんとひねくれた目で世の中を眺めるようになってしまったものだ。
それでも、ヴァンゲルスには未だあの頃から変わらぬものがある。
特に、先生に抱いた畏敬の念などだ。
まず先生から読み書きを教わらなければ、今の自分がしているような仕事にもありつけなかっただろう。
そういう意味でも、今のヴァンゲルスを築き上げたのは他でもない先生だ。
なにより先生と共に過ごした日々は、隣に誰かがいる生活も悪くないと思わせてくれた。
さて、こうしてヴァンゲルスが過去を振り返ることになったのにも理由がある。
かつてヴァンゲルスが先生に贈り物を見繕った装飾店を、再び訪れる機会があったからだ。
あの時のように、身近な者へ贈り物をしようというわけだ。
大きく異なる点があるとすれば、今は自らの稼ぎが手許にあるということか。
店番をしていたのは、前にヴァンゲルスに対応したのとは違う女性だった。
しかしその目許を見れば、どことなく前に目にした店員の面影がある。
おおかた代替わりをして、娘が店を継いだといったところだろう。
あれからもうずいぶんな月日が経ったものだ。
店内を一通り見て回ったヴァンゲルスは、小さな鞠のついた簪を手に取った。
「これ包んでくれるか、姉ちゃん」
ヴァンゲルスも今度は店員をおばちゃんとは呼ばなかった。
大人になるとは、こういうことを言うのだろうか。
やはり手慣れた様子で包装されていく簪を眺めながら、ヴァンゲルスはそれを贈る相手を想う。
日頃の世話にありがとうと言いたい、という気持ちもある。
それと同時に、その簪をつけている姿はさぞ美しかろうという気持ちもあった。
誰が何と言おうと、女は美しいに越したことはないのだ。
そのように考えるという点も、ヴァンゲルスが幼少期より変わっていないことの一つだった。
こうして感謝の印に贈り物をする、という習慣も先生から教わったものである。
贈り物を選ぶ間は、普段以上に相手について深く考えることになる。
相手は何が好きだろうか、何を贈れば喜んでもらえるだろうか、などと。
そうしたことが理解できるようになればなるほど、あの日、先生から貰った贈り物の有難さを噛みしめることになった。
使い込んだ筆記具は、いつの間にかボロボロで使い物にならなくなってしまったけれど。
「じゃ、これ貰ってくぜ」
小箱を受け取ったヴァンゲルスが、店を出る。
そこでヴァンゲルスは懐を探って、一枚のコインを取り出した。
指に乗せて弾いてやると、コインは高く、高く舞い上がって。
やがて太陽に重なり、その縁を輝かせた。
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