【DA】リーンエスの耳
●
「先生、お久しぶり……あれ? 留守かしら?」
アドルフ・ジーノは、久々に診療所に顔を出していた。今は冒険者として生計を立てており、密かに隠れ家(賃貸だが)も持っているアドルフだが、授恵者として覚醒したての頃はこのエナメド ジーノの診療所でアルバイトをして生計を立てていた。何を隠そう、記憶喪失で自分の名前も忘れていたアドルフに『アドルフ・ジーノ』という名前を考えてくれたのも、エナメドその人である。そういった経緯もあり、アドルフにとってエナメドは養父にも等しい人だった。
「帰ってくるまで待とうっと。……うーん、それにしても、これは散らかりすぎでは……」
よくよく見ると、患者が来るスペースはともかく、エナメドの居住スペースはひどく散らかっていた。完璧主義者の彼にしては珍しい。よほどの急用でも入ったのだろうか。
「よし、お掃除してあげよう!」
たまには恩返しをしようと思い立ったアドルフは、短い腕でハタキを空高く掲げた。
「うわー!」
ガラガラガラ!
アドルフは掃除の途中で棚のバランスを崩してしまい、アドルフの頭の上に大量の箱が降ってきた。そして、落下の衝撃で棚の上に載っていた箱が落下し、フタが開いてしまった。
「あれ? これ、なにかしら?」
好奇心旺盛なアドルフが箱に目をやると、中には綺麗に折りたたまれた小さな服が入っていた。ちょうど、アドルフが着れそうなサイズである。
「子供用の服かしら。先生のじゃないよね……? でもなんだろ。この服、見たことある気がする」
何故かその服がとても気になったアドルフは、服を箱から引っ張り出し、ピッピッと引っ張った。服の正体は薬師がよく着るような、無地のローブだった。ただし、サイズはハーフリングの規格だ。
「やっぱり僕、この服見たことある気がする!」
その瞬間、アドルフの脳裏に、不思議な光景が瞬いた。
――■■。強く生きるのよ。
それは、懐かしい雰囲気がする女性 がどこか、高いところから落下していく光景だった。
「あのお姉さんは誰だろう……? 僕、探しに行かなきゃ……」
いてもたってもいられなくなったアドルフは、ぴゅーっと診療所を飛び出してしまった。
●
「あの場所は、きっと、この辺りにあるはず……」
記憶を失ったアドルフが最初に覚えている記憶は、花畑にいた記憶だ。アドルフ自身はほとんど覚えていないが、エナメドの話では一人で花畑で寝ていたらしい。アドルフは今日、その花畑に来ていた。正確には花畑ではなく、少し離れた場所にある山に来ていた。
「もしかしたら、僕はこの山からやってきたのではないかしら?」
しっかり山登りの準備をしてきたアドルフはハイキングを始めた。もしかしたら、山の上にも綺麗な花畑が広がっているかもしれない、なんて期待に胸を膨らませながら。
「おお、高い……ここならきっと星がよく見えそう」
道なりにかなり山の上の方まで登ってきたアドルフはそこから見える景色に感動していた。辺りの景色にも、なんとなく見覚えがある気がする。
「おっと、いけないいけない。あ、あれはなんだろう?」
見覚えのある場所がないか、周辺を捜索していたアドルフは奇妙なものを見付けた。それは木に深々と突き刺さった短剣ほどの長さの、象牙 のようなものだった。
「ゾウか、大きなイノシシでもいるのかしら?」
その時、ドクン、とアドルフの心臓が大きく跳ねた。
(ああ、開けてしまったんだね。せっかく、心に大事にカギをかけてしまっていたのに)
その時、アドルフの心の中で、自分 の声がした。
「違う。これ、クリーパーの爪だ……!」
そして、アドルフの脳内に三年前 の記憶が溢れ出した。
●
「父さん、ヨモギ、このぐらい取ればいいかな」
「ああ、ノア。十分だ」
少年が両手いっぱい分詰んだヨモギを見せると、少年の父は微笑んだ。少年――ノア・フォーサイスの父ダンは帝国東部で妻エミリーの息子ノアと共に暮らす薬師である。ノアは父の付き添いで薬草の採集をしていた。
「間違えて毒草 を摘んだりはしていないかい?」
「もちろん! もう子供じゃないし、そんなヘマはもうしないよ」
父の言葉に少年は唇を尖らせた。芽生えの時期のヨモギとトリカブトはとてもよく似ているが、効能は全く異なる。もし誤ってトリカブトを患者に呑ませてしまえば、とんでもないことになる。しかし、子供の頃から父の手伝いをしている少年が、ヨモギとトリカブトを間違えることなどあり得なかった。
「そうだったね。お前ももう15だ。そろそろ、一人で調合も任せてみてもいいかもしれない」
「うん、任せてよ。父さん達と寸分変わらないものを作って見せる」
ノアの村は小さな村で、医者はいない。そのため、ノアの一家は村唯一の薬師として村人達から頼りにされていた。ノアはまだ両親には腕は及ばないものの、幼い頃から両親の仕事を見て育ったことで、いくつかの薬の調合もでき、簡単な診察もできるようになっていた。
「それは頼もしいな。……さて、日が暮れる前に山を降りようか。母さん が心配するといけないし」
「そうだね。僕、お腹空いたよ。今夜の晩御飯は何だろ?」
親子はなごやかに談笑しながら山を降りて村に戻っていく。歩くたびに、クマよけの鈴が涼やかに揺れていた。
「ねえ、父さん。たまにはどこか旅行に行かない? 僕、外の世界を見てみたいんだ」
「うーん難しいな。この村に薬師は僕らしかいないからね。いざという時、お医者さんが留守だったらみんな困るだろう?」
「……だったら僕一人でも」
「ダメダメ。一人旅をするにはまだノアは若すぎる」
「むう……」
少年は唇を尖らせた。父の言うことはもっともだったが、ろくに村から出れないのは困りものだ。仕事熱心な両親のおかげで、少年は今までほとんど村から出たことがない。たまに遠出をする時も、せいぜい山を降りたふもとにある町まで足を伸ばす程度で、それも日帰りだ。観光旅行なんて、夢のまた夢である。同じ年頃の子供達(と言ってもハーフリングのノアより身長はずいぶん大きいが)がたまに旅行に出かける話を聞くと、ノアは外の世界でのお話に目を輝かせる一方で、自分も村の外に気兼ねなく行けたらな、と思うことも多々あった。
(この村での暮らしに不自由はなく、平穏そのものだ。けれどあまり変化の無い暮らしは退屈そのもので――)
「ほら、家が見えてきたぞ。きっと母さんが夕食の支度をして待ってくれているよ」
「うん」
父の言葉に頷くノア。
●
「おかえり、二人とも。今夜はシカ肉のハンバーグよ」
二人が玄関の扉を開けると、ご飯を作って待っていてくれた母がニッコリと微笑んだ。
「おお、ごちそうだ! 一体どうしたんだい?」
「オリビア叔母さんが遊びに来て、いいお肉を分けてくれたの」
「そうだったのか、明日お礼を言わなきゃな」
ダンは顔を綻ばせた。ハンバーグはダンの好物だ。そしてオリビア叔母さんは、ノアの父方の叔母の名である。叔母は村の外れに住んでおり、ノアが幼い頃は忙しいノアの両親に代わり、たびたびノアの面倒を見てくれていた。
「「いただきます」」
食卓に着き、親子が今日の恵みに感謝を捧げた後、家族団らんの時間が始まった。会話の内容はその日あったことの報告や、村で流れている噂話など、ありふれた内容だったが。家族にとっては幸せな時間だった。
「そういえば、薬草は取れた?」
「ああ、たくさん取れたよ。ノアがたくさんとってくれたんだ。もちろん、毒草は混ざってなかった」
「あら、すごいじゃない。これなら立派な薬師になれるわね」
「……うん」
「あら、なんだか嫌そうね。お父さんの後を継いで薬師になるのは嫌?」
「そうじゃない、けど」
少年は俯いたまま答えた。
父の仕事が立派な仕事であることも、村で唯一の薬師である両親が村人達からとても感謝され、尊敬されていることも理解している。しかし、少年はこの狭い村で一生暮らすことを考えると、陰鬱な気持ちになってしまう。父の後を継ぐのが嫌なわけではないが、『世界を巡る冒険をしてみたい』という内なる欲求は年々強まるばかりだった。
(でも、こんな話を父さんや母さんにできるわけがないよね。『子供っぽい』って笑われるのがオチだし)
ハア、とため息を吐くノア。元々、ハーフリングはただでさえ子供っぽいのだ。『大冒険がしたい』なんて話をしたら、同年代の友達は遠慮なく笑うだろう。お隣の5歳のチビスケは、大いに賛同してくれるかもしれないが。
「ごちそうさま」
ノアは手早く食事を済ませると、食器を片付けて自室に引っ込んでいった。
「ノア、なんだか元気がないわね。どうしたのかしら」
「なに、思春期ってやつだよ。しばらくそっとしておこう」
母の不安そうな表情を吹き飛ばすように、父は笑った。
――少年が、その穏やかな暮らしこそがかけがえのないものだったと気づくのは、もうしばらく経ってからのことだった。
●
「一体どうして、こんなことに……」
村は地獄と化していた。ノアはその日、父の往診の付き添いで村のあちこちを回っていた。それはノアにとっては目をつむっていても村を一周できるほどに慣れた日常茶飯事だった。しかし、その日のシルトラース帝国はいつもと同じではなかった。突如として村のあちこちに、異形の怪物たちが出現したのだ。
ギィギィ。ギィギィ。ゲッゲッゲッゲ。キョコロロロロロ。
首が二つある獅子が、牛ほどもある蝦蟇が、人間大のネズミの群れが、様々な異形の獣たちが、本能の赴くままに村人を襲って捕食していた。ソレらは、この世界 の住人ではなく、異界 からやってきた侵略者 。遥か昔に、神々が我が身を犠牲にして貼った結界により、退けられているはずの者たち。這い寄るもの と呼ばれ、恐れられている者たちだった。神より力を授かりし授恵者 なら……否、せめて鍛え抜かれた兵士であるならいざ知らず、只人である村人達は怪物たちにはまるで歯が立たず、悲鳴を上げて逃げ惑っていた。
「このままここにいたら危ない! とりあえず家に戻るぞ。ノア。急いで母さんと合流する! 走れるな」
「うん!」
ノアと父が急いで自宅に戻ると、家は不気味なほどに静まり返っていた。
「母さん!」
「エミリー!」
二人が母を呼ぶと、窓から母がひょっこりと顔を出した。
「良かった! 二人とも無事だったのね。オリビアさんは?」
エミリーがダンに問うと、ダンは首を横に振った。
「……分からない。オリビアの家は村はずれだ。村を出ようとすれば自然とオリビアの家に着く。そちらの方に逃げよう」
……。
ノアと両親がオリビアの家に寄ると、外の壁にナイフで文字が彫ってあった。
「私は先に逃げる。無事を祈る」
よほど急いでいたのか、行先は書いていなかった。
「どうやらオリビアは先に逃げたらしい。僕らも逃げよう。なあに、無事ならきっとどこかで再会できるだろう」
ダンは家族を励ますように笑った。
●
ノア一家はクリーパーがいない場所を求めて山道を逃げ続けた。どうやら、国土全域にクリーパーは出現しているらしい。逃げても逃げても一家はクリーパー達に出くわしたが、ある時は崖を飛び降りるように滑走し、またある時は一家でクリーパーに出くわさないようにじっと息を潜めてクリーパーをやり過ごし、ひたすら東へと進んでいった。そうこうしているうちに、いつの間にか日は沈んでいた。
「今夜はここで野宿しよう。エミリーもノアも疲れただろう。今は体を休めるんだ」
ほとんど一日中歩き詰めだったノア一家だったが、日が落ちた後はたき火を起こし、休憩することにした。
「あいつら、クリーパーだよね。ねえ父さん。どうしてあいつらは人を襲うの?」
たき火に当たりながら、ノアは父に問いかけた。
「襲われているのは人だけじゃない。生き物みんなだ。クリーパーは本来はこの世界の障壁の外側の世界であるアストラル界の住人だ。奴らがこの世界……マテリアル界で活動するためには、エーテルが必要なんだ。この世界に現れたばかりのクリーパーはみな、エーテルが枯渇して消えかかっている。連中はこの世界に定着するために、エーテルを求めて生物を襲うんだ」
「迷惑な話よね」
父が説明すると、母はため息を吐いた。
「私達、逃げられるかしら」
「大丈夫だ、二人とも、父さんが必ず守ってみせる。さあ、二人とも。今日は早く眠りなさい。火の番は父さんがしておくから」
(こんな時でも、父さんは頼もしい。うん、きっと大丈夫だよね)
極限状況においても冷静さを失わない父の姿を誇らしく思いながら、ノアはうとうとと眠りに落ちていった。
●
ノア達一家はひたすら東へと逃げ続けた。ほぼ飲まず食わずで逃げ続け、ついに辺境都市群との国境の関所が見えてきた。
「ここまでくれば、もう大丈夫だろう」
「良かった……助かるんだね、僕達」
父の言葉に、ノアはようやく助かったという実感が湧いてきた。
「ああ。国境警備隊に事情を話して保護してもらおう。他にも逃げ延びている人がいれば……」
「――待って」
突然、エミリーが息子 の袖を掴んだ。ただならぬ声音に、ノアも、父も立ち止まる。
「クリーパーだわ。首は動かさずに、視線だけを動かして」
エミリーは指で二人に自分達が来た方向を指し示した。ノアが母の言う通りに目線だけを動かすと、ガサリ、と茂みが揺れた。
「ギッギッギッギッギッ」
茂みから姿を現したのは、つるつるとした真っ白な皮膚を持つ、サルのようなクリーパーだった。巨大な鉤爪を携えた両腕は異様に長く、腕だけでノアの身長ほどもある。その不気味なシルエットは、神話の怪物を想起させた。怪物には目が無かったが、ノアは何故か、怪物が自分を睨み付けている気がした。
「……」
怪物は少し前かがみになると、ゆらり、と長い腕を持ち上げた。
「走れ!!」
父の叫び声と同時に、ノアは全速力で駆け出した。長い逃避行で体調は万全にはほど遠い状態だったが、生存本能に突き動かされたノアはベストコンディションに匹敵する速度で山道を駆け抜けた。だが――。
ドガッ!
「あうっ!」
ドンッと凄い力で突き飛ばされたような衝撃を受け、ノアは転んでしまった。ノアが思わず振り返ると、そこには――。
「がふっ」
怪物に、深々と背中を貫かれた父がいた。
「父さん……?」
ノアは尻もちをついたまま、呆然と父を見上げる。怪物は父を蹴り、腹から鉤爪を引き抜いた。ノアの父の腹からは夥 しい量の血が流れていく。明らかに致命傷だった。
「逃げ……るんだ……ノア……エミリー……」
父は絞り出すような声でそう告げ、どさりと倒れた。
「父さん!!」
「ノア、駄目! 逃げるわよ!!」
父に縋り付こうとするノアを、母は制した。ノアが聞いたことのない程大きな声だった。
「嫌だ! 父さんを置いてなんていけない!」
ノアは涙ながらに叫んだ。その時、父は必死にクリーパーの腰にしがみつきながら、ノアの方を見た。
「ノア……母さんを……頼む……生きて……幸せを……」
「……!」
涙で喉が詰まり、声が出なかった。だから、少年は代わりにぶんぶんと大きく首を縦に振った。すると、父は安心したように微笑んだ。ノアは涙ぐむ母の手を引き、全速力で駆けた。
●
「ギッギッギッギッギ」
怪物はノアの父の死体には目もくれず、二人を追ってきた。
(どうして――?)
なぜ、あの怪物は自分達を追ってくるのか。ノアには分からなかった。だが怪物が答えてくれるはずもなく、追いつかれれば問答無用で殺される。だからノアは母の手を引いて必死に走る。しかし、本気の出した怪物の脚力は肉食獣並であり、歩幅の小さいハーフリングに追いつけない道理はなかった。加えて、この道は狭く、荒れている。少しでもバランスを崩せば、崖の下に真っ逆さまだ。落ちればまず助からないだろう。
(駄目だ、追いつかれる!)
ノアが一瞬振り向いた時、怪物はもうすぐ後ろまで迫っていた。あの長い腕は数拍後には、ノアの背中を貫くだろう。だが。
――そうなる直前に、ノアの母はクリーパーにしがみつき、崖に身を投げていた。
「母さん!!」
「――強く生きるのよ」
母は微笑み、クリーパーと共に消えていった。
「母さーん!」
ノアは地面に這いつくばり、必死に母の姿を探した。だが暗いせいで下は見えなかった。
ザク、ザク。
「!」
その時、母と共に消えたはずのクリーパーが崖の下から顔を出した。鉤爪を崖に突き立て、這い上がってきたのだ。
「あ……」
ノアはすくんで動けなかった。母の血に染まった怪物は鉤爪を振り上げ、ノアへと近づいてくる。
「ギッギッギッ」
ノアの目の前まで迫ったクリーパーが腕を振り下ろした。もう、ノアを守ってくれる人はいない。一秒後に、怪物の鉤爪はノアの小さな体を真っ二つに引き裂くだろう。
(ああ、ここまでなのか)
ノアは自身へと振り下ろされた死の一撃をスローモーションで見ていた。
――生きて、幸せを……。
――強く、生きるのよ。
(駄目だ、まだ、死ねない!)
その瞬間、ノアの内側にぱっと、閃光が弾けた感覚があった。
ガィン!
「?」
怪物の鉤爪がノアを引き裂くことはなかった。ノアは恐るべき身のこなしで、怪物の鉤爪を回避したのだ。必殺のはずだった一撃が躱され、怪物は困惑した様子でノアを見た。
「――よくも」
ジジジジ……。
青白いスパークがノアの周囲で弾ける。ノアの体はぼんやりと輝いていた。
「……?」
ノアに起きた変化に驚いているのか、クリーパーは微動だにせずにノアを見つめている。
「よくも!! 母さんと父さんを!!」
バチチチチ!!
「うああああっっ!!」
「――!」
クリーパーに向けて突き出されたノアの掌から、爆発的な量の光が放出された。その星のような煌めきこそ、エーテルの光。極限状況下で目覚めた、ノアの授恵者 としての力だった。
「ギギギギギ!!」
右腕を付け根から吹き飛ばされたクリーパーは後ろに飛び退き、ぴょんぴょんと跳ねてそのまま森の奥に消えていった。
「はぁ、はぁ……」
ノアは怪物の赤い体液で全身をべっとりと濡らし、荒い息を吐いた。
●
「母さん……僕、行くね」
ノアはぽつりと呟くと、人里を探してまた歩き出した。夜明けが近いようだ。東の空からは薄明るくなりつつあった。
「父さんも、母さんも死んでしまった。僕、一人になっちゃった。これから、どうしよう……」
ノアはこれからのことをぼんやりと考えながら、ひたすらに歩いた。やがて、ノアは大きな花畑にたどり着いた。
「――ああ、綺麗な花畑だ、な……」
一面に広がる花畑を見て、ノアは美しいと思った。
「……もう、疲れちゃった。ちょっと、休もうかな……」
ノアが倒れ込むと、花畑は優しく彼の体を受け止めてくれた。
●
「うう、寒。明け方に薬草の採取になんて来るもんじゃないな……ん?」
材料を切らしてしまった薬草を求め、明け方から花畑沿いの道を歩いていた薬師、エナメドは花畑の中から、子供の足が突き出ていることに気付いた。
「なぜこんなところに子供が……!? おい君、しっかりするんだ!」
「うう……」
「いかん。ずいぶん衰弱しているな。すぐに村に運ばないと。少年、必ず助けるからな。死ぬんじゃないぞ!」
……。
「はぐはぐ、むしゃむしゃ」
「よし。それだけ食欲があればもう大丈夫だな」
「んぐんぐ」
「そう慌てるんじゃない。おかわりならまだあるから」
意識を取り戻した少年は一心不乱にスープを飲んでいた。よほど腹が減っていたのだろう。エナメドは少年への質問は後回しにし、とりあえず食事を与えた。
……。
「ありがとう、おじさん!」
少年は無邪気な表情でエナメドにお礼を言った。
「うむ。どういたしまして。さて、そろそろ君が誰なのか、僕に教えてくれるかな。少年、君の名前は?」
「……分からない」
●
「先生、僕のお父さんとお母さん、死んじゃってた……」
「――そうか。思い出したのか……」
泣きじゃくるアドルフの話を聞いて。エナメドはその言葉だけを絞り出した。
(やはりアドルフは、シルトラース帝国から来た子だったんだな……)
エナメドはアドルフの出身地に薄々気づいていながらも、詮索することはしなかった。否、気付かないフリをしていた。アドルフを発見した花畑は辺境都市群でも、帝国との国境にかなり近い場所だ。もしアドルフの故郷がシルトラース帝国ならば、アドルフの故郷はまず間違いなく滅んでいる。そう直感していたからだ。なぜならば、三年前のあの日、シルトラース帝国は全土にクリーパーが溢れ出し、壊滅したのだから。
「先生、知っていたのかしら? 僕のお父さんとお母さんのこと……」
「――確証はなかった。……服のことはいつか言おうとは思っていたのだが……言い出せなかった。すまない」
アドルフは暗く沈んでいた。アドルフはいつか記憶を取り戻せれば、両親と再会とできるのだと信じていた。だが、童話のようなハッピーエンドは初めから用意されていなかった。『アドルフ・ジーノ』の物語は、悲劇から始まっていたのだ。
「僕が、いけないの。僕が、あのクリーパーを呼び寄せた! 僕が、あの村から出たいと思ってたから! だから、お父さんもお母さんも、みんな、死んでしまったの!」
アドルフはたまらず叫んだ。
「アドルフ。君の両親が亡くなったことも、君の故郷がなくなったことも、君のせいではない。帝都崩壊は人為的に召喚された幽界樹のせいだ。君は何も悪くない」
エナメドは思わずアドルフを抱きしめた。
「先生。だけど……!」
「君の両親は最後の瞬間まで、君の幸福を願っていたはずだ。君が両親の死後に授恵者に目覚めたというのなら、それはきっと、その力は君を想う人達から授かった力なんじゃないか。僕にはそう思えてならない」
「……」
「アドルフ。君に宿った力は素晴らしい力だ。どうか、そんな風に自分を嫌いにならないでくれ。君の両親も、きっとそれを望んでいるはずだ」
エナメドは真剣な表情でアドルフを見た。アドルフは、コクリと頷く。
「ありがとう、先生。うん、僕、考えてみる。お父さんとお母さんからもらったこの力で、何をしなくちゃいけないのか」
「ああ、ありがとう。アドルフ……いや、本当の名前はノアか」
「……アドルフでいいよ、先生」
涙を拭いたアドルフは微笑んだ。
「先生、お久しぶり……あれ? 留守かしら?」
アドルフ・ジーノは、久々に診療所に顔を出していた。今は冒険者として生計を立てており、密かに隠れ家(賃貸だが)も持っているアドルフだが、授恵者として覚醒したての頃はこのエナメド ジーノの診療所でアルバイトをして生計を立てていた。何を隠そう、記憶喪失で自分の名前も忘れていたアドルフに『アドルフ・ジーノ』という名前を考えてくれたのも、エナメドその人である。そういった経緯もあり、アドルフにとってエナメドは養父にも等しい人だった。
「帰ってくるまで待とうっと。……うーん、それにしても、これは散らかりすぎでは……」
よくよく見ると、患者が来るスペースはともかく、エナメドの居住スペースはひどく散らかっていた。完璧主義者の彼にしては珍しい。よほどの急用でも入ったのだろうか。
「よし、お掃除してあげよう!」
たまには恩返しをしようと思い立ったアドルフは、短い腕でハタキを空高く掲げた。
「うわー!」
ガラガラガラ!
アドルフは掃除の途中で棚のバランスを崩してしまい、アドルフの頭の上に大量の箱が降ってきた。そして、落下の衝撃で棚の上に載っていた箱が落下し、フタが開いてしまった。
「あれ? これ、なにかしら?」
好奇心旺盛なアドルフが箱に目をやると、中には綺麗に折りたたまれた小さな服が入っていた。ちょうど、アドルフが着れそうなサイズである。
「子供用の服かしら。先生のじゃないよね……? でもなんだろ。この服、見たことある気がする」
何故かその服がとても気になったアドルフは、服を箱から引っ張り出し、ピッピッと引っ張った。服の正体は薬師がよく着るような、無地のローブだった。ただし、サイズはハーフリングの規格だ。
「やっぱり僕、この服見たことある気がする!」
その瞬間、アドルフの脳裏に、不思議な光景が瞬いた。
――■■。強く生きるのよ。
それは、懐かしい雰囲気がする女性 がどこか、高いところから落下していく光景だった。
「あのお姉さんは誰だろう……? 僕、探しに行かなきゃ……」
いてもたってもいられなくなったアドルフは、ぴゅーっと診療所を飛び出してしまった。
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「あの場所は、きっと、この辺りにあるはず……」
記憶を失ったアドルフが最初に覚えている記憶は、花畑にいた記憶だ。アドルフ自身はほとんど覚えていないが、エナメドの話では一人で花畑で寝ていたらしい。アドルフは今日、その花畑に来ていた。正確には花畑ではなく、少し離れた場所にある山に来ていた。
「もしかしたら、僕はこの山からやってきたのではないかしら?」
しっかり山登りの準備をしてきたアドルフはハイキングを始めた。もしかしたら、山の上にも綺麗な花畑が広がっているかもしれない、なんて期待に胸を膨らませながら。
「おお、高い……ここならきっと星がよく見えそう」
道なりにかなり山の上の方まで登ってきたアドルフはそこから見える景色に感動していた。辺りの景色にも、なんとなく見覚えがある気がする。
「おっと、いけないいけない。あ、あれはなんだろう?」
見覚えのある場所がないか、周辺を捜索していたアドルフは奇妙なものを見付けた。それは木に深々と突き刺さった短剣ほどの長さの、象牙 のようなものだった。
「ゾウか、大きなイノシシでもいるのかしら?」
その時、ドクン、とアドルフの心臓が大きく跳ねた。
(ああ、開けてしまったんだね。せっかく、心に大事にカギをかけてしまっていたのに)
その時、アドルフの心の中で、自分 の声がした。
「違う。これ、クリーパーの爪だ……!」
そして、アドルフの脳内に三年前 の記憶が溢れ出した。
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「父さん、ヨモギ、このぐらい取ればいいかな」
「ああ、ノア。十分だ」
少年が両手いっぱい分詰んだヨモギを見せると、少年の父は微笑んだ。少年――ノア・フォーサイスの父ダンは帝国東部で妻エミリーの息子ノアと共に暮らす薬師である。ノアは父の付き添いで薬草の採集をしていた。
「間違えて毒草 を摘んだりはしていないかい?」
「もちろん! もう子供じゃないし、そんなヘマはもうしないよ」
父の言葉に少年は唇を尖らせた。芽生えの時期のヨモギとトリカブトはとてもよく似ているが、効能は全く異なる。もし誤ってトリカブトを患者に呑ませてしまえば、とんでもないことになる。しかし、子供の頃から父の手伝いをしている少年が、ヨモギとトリカブトを間違えることなどあり得なかった。
「そうだったね。お前ももう15だ。そろそろ、一人で調合も任せてみてもいいかもしれない」
「うん、任せてよ。父さん達と寸分変わらないものを作って見せる」
ノアの村は小さな村で、医者はいない。そのため、ノアの一家は村唯一の薬師として村人達から頼りにされていた。ノアはまだ両親には腕は及ばないものの、幼い頃から両親の仕事を見て育ったことで、いくつかの薬の調合もでき、簡単な診察もできるようになっていた。
「それは頼もしいな。……さて、日が暮れる前に山を降りようか。母さん が心配するといけないし」
「そうだね。僕、お腹空いたよ。今夜の晩御飯は何だろ?」
親子はなごやかに談笑しながら山を降りて村に戻っていく。歩くたびに、クマよけの鈴が涼やかに揺れていた。
「ねえ、父さん。たまにはどこか旅行に行かない? 僕、外の世界を見てみたいんだ」
「うーん難しいな。この村に薬師は僕らしかいないからね。いざという時、お医者さんが留守だったらみんな困るだろう?」
「……だったら僕一人でも」
「ダメダメ。一人旅をするにはまだノアは若すぎる」
「むう……」
少年は唇を尖らせた。父の言うことはもっともだったが、ろくに村から出れないのは困りものだ。仕事熱心な両親のおかげで、少年は今までほとんど村から出たことがない。たまに遠出をする時も、せいぜい山を降りたふもとにある町まで足を伸ばす程度で、それも日帰りだ。観光旅行なんて、夢のまた夢である。同じ年頃の子供達(と言ってもハーフリングのノアより身長はずいぶん大きいが)がたまに旅行に出かける話を聞くと、ノアは外の世界でのお話に目を輝かせる一方で、自分も村の外に気兼ねなく行けたらな、と思うことも多々あった。
(この村での暮らしに不自由はなく、平穏そのものだ。けれどあまり変化の無い暮らしは退屈そのもので――)
「ほら、家が見えてきたぞ。きっと母さんが夕食の支度をして待ってくれているよ」
「うん」
父の言葉に頷くノア。
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「おかえり、二人とも。今夜はシカ肉のハンバーグよ」
二人が玄関の扉を開けると、ご飯を作って待っていてくれた母がニッコリと微笑んだ。
「おお、ごちそうだ! 一体どうしたんだい?」
「オリビア叔母さんが遊びに来て、いいお肉を分けてくれたの」
「そうだったのか、明日お礼を言わなきゃな」
ダンは顔を綻ばせた。ハンバーグはダンの好物だ。そしてオリビア叔母さんは、ノアの父方の叔母の名である。叔母は村の外れに住んでおり、ノアが幼い頃は忙しいノアの両親に代わり、たびたびノアの面倒を見てくれていた。
「「いただきます」」
食卓に着き、親子が今日の恵みに感謝を捧げた後、家族団らんの時間が始まった。会話の内容はその日あったことの報告や、村で流れている噂話など、ありふれた内容だったが。家族にとっては幸せな時間だった。
「そういえば、薬草は取れた?」
「ああ、たくさん取れたよ。ノアがたくさんとってくれたんだ。もちろん、毒草は混ざってなかった」
「あら、すごいじゃない。これなら立派な薬師になれるわね」
「……うん」
「あら、なんだか嫌そうね。お父さんの後を継いで薬師になるのは嫌?」
「そうじゃない、けど」
少年は俯いたまま答えた。
父の仕事が立派な仕事であることも、村で唯一の薬師である両親が村人達からとても感謝され、尊敬されていることも理解している。しかし、少年はこの狭い村で一生暮らすことを考えると、陰鬱な気持ちになってしまう。父の後を継ぐのが嫌なわけではないが、『世界を巡る冒険をしてみたい』という内なる欲求は年々強まるばかりだった。
(でも、こんな話を父さんや母さんにできるわけがないよね。『子供っぽい』って笑われるのがオチだし)
ハア、とため息を吐くノア。元々、ハーフリングはただでさえ子供っぽいのだ。『大冒険がしたい』なんて話をしたら、同年代の友達は遠慮なく笑うだろう。お隣の5歳のチビスケは、大いに賛同してくれるかもしれないが。
「ごちそうさま」
ノアは手早く食事を済ませると、食器を片付けて自室に引っ込んでいった。
「ノア、なんだか元気がないわね。どうしたのかしら」
「なに、思春期ってやつだよ。しばらくそっとしておこう」
母の不安そうな表情を吹き飛ばすように、父は笑った。
――少年が、その穏やかな暮らしこそがかけがえのないものだったと気づくのは、もうしばらく経ってからのことだった。
●
「一体どうして、こんなことに……」
村は地獄と化していた。ノアはその日、父の往診の付き添いで村のあちこちを回っていた。それはノアにとっては目をつむっていても村を一周できるほどに慣れた日常茶飯事だった。しかし、その日のシルトラース帝国はいつもと同じではなかった。突如として村のあちこちに、異形の怪物たちが出現したのだ。
ギィギィ。ギィギィ。ゲッゲッゲッゲ。キョコロロロロロ。
首が二つある獅子が、牛ほどもある蝦蟇が、人間大のネズミの群れが、様々な異形の獣たちが、本能の赴くままに村人を襲って捕食していた。ソレらは、この世界 の住人ではなく、異界 からやってきた侵略者 。遥か昔に、神々が我が身を犠牲にして貼った結界により、退けられているはずの者たち。這い寄るもの と呼ばれ、恐れられている者たちだった。神より力を授かりし授恵者 なら……否、せめて鍛え抜かれた兵士であるならいざ知らず、只人である村人達は怪物たちにはまるで歯が立たず、悲鳴を上げて逃げ惑っていた。
「このままここにいたら危ない! とりあえず家に戻るぞ。ノア。急いで母さんと合流する! 走れるな」
「うん!」
ノアと父が急いで自宅に戻ると、家は不気味なほどに静まり返っていた。
「母さん!」
「エミリー!」
二人が母を呼ぶと、窓から母がひょっこりと顔を出した。
「良かった! 二人とも無事だったのね。オリビアさんは?」
エミリーがダンに問うと、ダンは首を横に振った。
「……分からない。オリビアの家は村はずれだ。村を出ようとすれば自然とオリビアの家に着く。そちらの方に逃げよう」
……。
ノアと両親がオリビアの家に寄ると、外の壁にナイフで文字が彫ってあった。
「私は先に逃げる。無事を祈る」
よほど急いでいたのか、行先は書いていなかった。
「どうやらオリビアは先に逃げたらしい。僕らも逃げよう。なあに、無事ならきっとどこかで再会できるだろう」
ダンは家族を励ますように笑った。
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ノア一家はクリーパーがいない場所を求めて山道を逃げ続けた。どうやら、国土全域にクリーパーは出現しているらしい。逃げても逃げても一家はクリーパー達に出くわしたが、ある時は崖を飛び降りるように滑走し、またある時は一家でクリーパーに出くわさないようにじっと息を潜めてクリーパーをやり過ごし、ひたすら東へと進んでいった。そうこうしているうちに、いつの間にか日は沈んでいた。
「今夜はここで野宿しよう。エミリーもノアも疲れただろう。今は体を休めるんだ」
ほとんど一日中歩き詰めだったノア一家だったが、日が落ちた後はたき火を起こし、休憩することにした。
「あいつら、クリーパーだよね。ねえ父さん。どうしてあいつらは人を襲うの?」
たき火に当たりながら、ノアは父に問いかけた。
「襲われているのは人だけじゃない。生き物みんなだ。クリーパーは本来はこの世界の障壁の外側の世界であるアストラル界の住人だ。奴らがこの世界……マテリアル界で活動するためには、エーテルが必要なんだ。この世界に現れたばかりのクリーパーはみな、エーテルが枯渇して消えかかっている。連中はこの世界に定着するために、エーテルを求めて生物を襲うんだ」
「迷惑な話よね」
父が説明すると、母はため息を吐いた。
「私達、逃げられるかしら」
「大丈夫だ、二人とも、父さんが必ず守ってみせる。さあ、二人とも。今日は早く眠りなさい。火の番は父さんがしておくから」
(こんな時でも、父さんは頼もしい。うん、きっと大丈夫だよね)
極限状況においても冷静さを失わない父の姿を誇らしく思いながら、ノアはうとうとと眠りに落ちていった。
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ノア達一家はひたすら東へと逃げ続けた。ほぼ飲まず食わずで逃げ続け、ついに辺境都市群との国境の関所が見えてきた。
「ここまでくれば、もう大丈夫だろう」
「良かった……助かるんだね、僕達」
父の言葉に、ノアはようやく助かったという実感が湧いてきた。
「ああ。国境警備隊に事情を話して保護してもらおう。他にも逃げ延びている人がいれば……」
「――待って」
突然、エミリーが息子 の袖を掴んだ。ただならぬ声音に、ノアも、父も立ち止まる。
「クリーパーだわ。首は動かさずに、視線だけを動かして」
エミリーは指で二人に自分達が来た方向を指し示した。ノアが母の言う通りに目線だけを動かすと、ガサリ、と茂みが揺れた。
「ギッギッギッギッギッ」
茂みから姿を現したのは、つるつるとした真っ白な皮膚を持つ、サルのようなクリーパーだった。巨大な鉤爪を携えた両腕は異様に長く、腕だけでノアの身長ほどもある。その不気味なシルエットは、神話の怪物を想起させた。怪物には目が無かったが、ノアは何故か、怪物が自分を睨み付けている気がした。
「……」
怪物は少し前かがみになると、ゆらり、と長い腕を持ち上げた。
「走れ!!」
父の叫び声と同時に、ノアは全速力で駆け出した。長い逃避行で体調は万全にはほど遠い状態だったが、生存本能に突き動かされたノアはベストコンディションに匹敵する速度で山道を駆け抜けた。だが――。
ドガッ!
「あうっ!」
ドンッと凄い力で突き飛ばされたような衝撃を受け、ノアは転んでしまった。ノアが思わず振り返ると、そこには――。
「がふっ」
怪物に、深々と背中を貫かれた父がいた。
「父さん……?」
ノアは尻もちをついたまま、呆然と父を見上げる。怪物は父を蹴り、腹から鉤爪を引き抜いた。ノアの父の腹からは夥 しい量の血が流れていく。明らかに致命傷だった。
「逃げ……るんだ……ノア……エミリー……」
父は絞り出すような声でそう告げ、どさりと倒れた。
「父さん!!」
「ノア、駄目! 逃げるわよ!!」
父に縋り付こうとするノアを、母は制した。ノアが聞いたことのない程大きな声だった。
「嫌だ! 父さんを置いてなんていけない!」
ノアは涙ながらに叫んだ。その時、父は必死にクリーパーの腰にしがみつきながら、ノアの方を見た。
「ノア……母さんを……頼む……生きて……幸せを……」
「……!」
涙で喉が詰まり、声が出なかった。だから、少年は代わりにぶんぶんと大きく首を縦に振った。すると、父は安心したように微笑んだ。ノアは涙ぐむ母の手を引き、全速力で駆けた。
●
「ギッギッギッギッギ」
怪物はノアの父の死体には目もくれず、二人を追ってきた。
(どうして――?)
なぜ、あの怪物は自分達を追ってくるのか。ノアには分からなかった。だが怪物が答えてくれるはずもなく、追いつかれれば問答無用で殺される。だからノアは母の手を引いて必死に走る。しかし、本気の出した怪物の脚力は肉食獣並であり、歩幅の小さいハーフリングに追いつけない道理はなかった。加えて、この道は狭く、荒れている。少しでもバランスを崩せば、崖の下に真っ逆さまだ。落ちればまず助からないだろう。
(駄目だ、追いつかれる!)
ノアが一瞬振り向いた時、怪物はもうすぐ後ろまで迫っていた。あの長い腕は数拍後には、ノアの背中を貫くだろう。だが。
――そうなる直前に、ノアの母はクリーパーにしがみつき、崖に身を投げていた。
「母さん!!」
「――強く生きるのよ」
母は微笑み、クリーパーと共に消えていった。
「母さーん!」
ノアは地面に這いつくばり、必死に母の姿を探した。だが暗いせいで下は見えなかった。
ザク、ザク。
「!」
その時、母と共に消えたはずのクリーパーが崖の下から顔を出した。鉤爪を崖に突き立て、這い上がってきたのだ。
「あ……」
ノアはすくんで動けなかった。母の血に染まった怪物は鉤爪を振り上げ、ノアへと近づいてくる。
「ギッギッギッ」
ノアの目の前まで迫ったクリーパーが腕を振り下ろした。もう、ノアを守ってくれる人はいない。一秒後に、怪物の鉤爪はノアの小さな体を真っ二つに引き裂くだろう。
(ああ、ここまでなのか)
ノアは自身へと振り下ろされた死の一撃をスローモーションで見ていた。
――生きて、幸せを……。
――強く、生きるのよ。
(駄目だ、まだ、死ねない!)
その瞬間、ノアの内側にぱっと、閃光が弾けた感覚があった。
ガィン!
「?」
怪物の鉤爪がノアを引き裂くことはなかった。ノアは恐るべき身のこなしで、怪物の鉤爪を回避したのだ。必殺のはずだった一撃が躱され、怪物は困惑した様子でノアを見た。
「――よくも」
ジジジジ……。
青白いスパークがノアの周囲で弾ける。ノアの体はぼんやりと輝いていた。
「……?」
ノアに起きた変化に驚いているのか、クリーパーは微動だにせずにノアを見つめている。
「よくも!! 母さんと父さんを!!」
バチチチチ!!
「うああああっっ!!」
「――!」
クリーパーに向けて突き出されたノアの掌から、爆発的な量の光が放出された。その星のような煌めきこそ、エーテルの光。極限状況下で目覚めた、ノアの授恵者 としての力だった。
「ギギギギギ!!」
右腕を付け根から吹き飛ばされたクリーパーは後ろに飛び退き、ぴょんぴょんと跳ねてそのまま森の奥に消えていった。
「はぁ、はぁ……」
ノアは怪物の赤い体液で全身をべっとりと濡らし、荒い息を吐いた。
●
「母さん……僕、行くね」
ノアはぽつりと呟くと、人里を探してまた歩き出した。夜明けが近いようだ。東の空からは薄明るくなりつつあった。
「父さんも、母さんも死んでしまった。僕、一人になっちゃった。これから、どうしよう……」
ノアはこれからのことをぼんやりと考えながら、ひたすらに歩いた。やがて、ノアは大きな花畑にたどり着いた。
「――ああ、綺麗な花畑だ、な……」
一面に広がる花畑を見て、ノアは美しいと思った。
「……もう、疲れちゃった。ちょっと、休もうかな……」
ノアが倒れ込むと、花畑は優しく彼の体を受け止めてくれた。
●
「うう、寒。明け方に薬草の採取になんて来るもんじゃないな……ん?」
材料を切らしてしまった薬草を求め、明け方から花畑沿いの道を歩いていた薬師、エナメドは花畑の中から、子供の足が突き出ていることに気付いた。
「なぜこんなところに子供が……!? おい君、しっかりするんだ!」
「うう……」
「いかん。ずいぶん衰弱しているな。すぐに村に運ばないと。少年、必ず助けるからな。死ぬんじゃないぞ!」
……。
「はぐはぐ、むしゃむしゃ」
「よし。それだけ食欲があればもう大丈夫だな」
「んぐんぐ」
「そう慌てるんじゃない。おかわりならまだあるから」
意識を取り戻した少年は一心不乱にスープを飲んでいた。よほど腹が減っていたのだろう。エナメドは少年への質問は後回しにし、とりあえず食事を与えた。
……。
「ありがとう、おじさん!」
少年は無邪気な表情でエナメドにお礼を言った。
「うむ。どういたしまして。さて、そろそろ君が誰なのか、僕に教えてくれるかな。少年、君の名前は?」
「……分からない」
●
「先生、僕のお父さんとお母さん、死んじゃってた……」
「――そうか。思い出したのか……」
泣きじゃくるアドルフの話を聞いて。エナメドはその言葉だけを絞り出した。
(やはりアドルフは、シルトラース帝国から来た子だったんだな……)
エナメドはアドルフの出身地に薄々気づいていながらも、詮索することはしなかった。否、気付かないフリをしていた。アドルフを発見した花畑は辺境都市群でも、帝国との国境にかなり近い場所だ。もしアドルフの故郷がシルトラース帝国ならば、アドルフの故郷はまず間違いなく滅んでいる。そう直感していたからだ。なぜならば、三年前のあの日、シルトラース帝国は全土にクリーパーが溢れ出し、壊滅したのだから。
「先生、知っていたのかしら? 僕のお父さんとお母さんのこと……」
「――確証はなかった。……服のことはいつか言おうとは思っていたのだが……言い出せなかった。すまない」
アドルフは暗く沈んでいた。アドルフはいつか記憶を取り戻せれば、両親と再会とできるのだと信じていた。だが、童話のようなハッピーエンドは初めから用意されていなかった。『アドルフ・ジーノ』の物語は、悲劇から始まっていたのだ。
「僕が、いけないの。僕が、あのクリーパーを呼び寄せた! 僕が、あの村から出たいと思ってたから! だから、お父さんもお母さんも、みんな、死んでしまったの!」
アドルフはたまらず叫んだ。
「アドルフ。君の両親が亡くなったことも、君の故郷がなくなったことも、君のせいではない。帝都崩壊は人為的に召喚された幽界樹のせいだ。君は何も悪くない」
エナメドは思わずアドルフを抱きしめた。
「先生。だけど……!」
「君の両親は最後の瞬間まで、君の幸福を願っていたはずだ。君が両親の死後に授恵者に目覚めたというのなら、それはきっと、その力は君を想う人達から授かった力なんじゃないか。僕にはそう思えてならない」
「……」
「アドルフ。君に宿った力は素晴らしい力だ。どうか、そんな風に自分を嫌いにならないでくれ。君の両親も、きっとそれを望んでいるはずだ」
エナメドは真剣な表情でアドルフを見た。アドルフは、コクリと頷く。
「ありがとう、先生。うん、僕、考えてみる。お父さんとお母さんからもらったこの力で、何をしなくちゃいけないのか」
「ああ、ありがとう。アドルフ……いや、本当の名前はノアか」
「……アドルフでいいよ、先生」
涙を拭いたアドルフは微笑んだ。
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メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。