【DA】リーンエスの耳
レティシア・レインフィール/
ガレシウス・アルヴァ・クラティアス
ジークリッド・レインフィール/
アルガス・コーニッシュ
『ノベルタイトル:坐花酔月、黒槍旅記』弓月 蒼
●『黒槍』と言う貴族家
『黒槍』。元は王党派に属していた貴族家であり、現貴族派の中核を成す。
伯爵家としては王国建国以来武門として名を馳せ、かつて貴族間抗争が盛んだった時代には武門の誉れ。
純然たる戦功の積み重ねのみで以て、王家より神具『黒の魔槍』を下賜されたとされる。
文字通り徹底した、そして卓抜した戦働きで以て自家の価値を証明し続けて来た家系である。
その華々しい戦歴を誇示するが如く、召し抱える騎士団も伯爵家水準で考えれば異例と言える授恵者の多さを誇り。
所領の大きさこそ他の伯爵家に劣ろうとも。存在感と発言力と言う面では決して引けを取る物ではない。
歴史ある。そして栄誉ある貴族家の一角として、現在まで途切れる事なくその武名と歴史を継いで来た。
その現当主――――『黒槍伯』アルガス・コーニッシュもまた。
血と鉄に彩られた先祖の軌跡に恥じる事無きよう、領主としての責務に従じている。
そんな彼が異色を放つ部分があるとするならば。武を司る神は彼に恵を齎さなかった、だと言う点だろうか。
世界には、取り返しの付かない事など幾らもある。致命的な、決定的な、運命が切り替わってしまうような。
そんな失敗もあり、成功もある。いずれにせよ、無かった事にも、やり直すことも、出来ない。
"非授恵者"として生を受けた彼が選りに選って武門の長を引き継いだことは、失敗だろうか。それとも成功だろうか。
その答えは未だ、明らかな物として示されないままである。
武門『黒槍』。その当主に求められる物はこれまで――――ただ、力だけであった。
■
『王都』グランスパーダ。中央通りより一本裏手へ回った一画。
主に冒険者や旅人と言った、観光客向けの店が立ち並ぶ中にある一軒の喫茶店。
貴族向け、とは言い難いそんな店の軒先で。伯爵家の当主と侯爵家の第一子が対面する――――等と言う事態は。
幾ら『王都』の規模が『王国』随一であり、貴族の別邸もまた多いとは言えどもそう滅多にある光景では、ない。
況や。それらが殆ど血の繋がらぬ義兄弟であるなどと言えば、一体何の戯曲の話かとその前提を疑われよう。
「顔を合わせて話がしたいと言うから何かと思えば……お前の婚姻の話など俺の知った事か」
黒に程近い焦げ茶色の髪と父親に良く似た深い橙の瞳。アルガスはその心性を示す様に僅か一言で切って捨てた。
にべもない、とはまさにこの事だ。彼と義兄、ガレシウス・アルヴァ・クラティアスは兄弟仲がまるで良くない。
其処には武門の家系に在りながら片や授恵者。片や非授恵者であり。立場こそ義兄弟ながら血統上は従兄弟であり。
そして弟の方が家督継承権は高かったにも関わらず、家宝を預けられたのは兄の方であった……などと言った。
確執と言う確執を軒並み並べた様な、まさに複雑怪奇かつ王国貴族の悪い部分を集約したかの如き関係性に原因がある。
――――が。子供の頃であればともかくも、互いにそれぞれの家を背負う立場になった身の上で。
そんな昔の。それもお互いどうしようもなかった時節の話を今更持ち出すほど、いずれももう幼くはない。
「……自分もそう思うのですが、こればかりは慈涙の意向も汲む必要がありますので」
「は。今から尻に敷かれているのなら、家庭円満は約束されたも同然だなガレシウス卿。結構な事だ」
「賛辞有り難く存じます。当のアルガス伯に置かれましては、御世継ぎの予定は如何でしょうか」
お互いに、穏やかなのは声音だけである。アルガスの眼差しには殺気もかくやと言う敵意が滲み。
対するガレシウスは何処吹く風と受け流している様に見えるも、確り慇懃無礼で以て切り返している。
大人気ないとはこの事だが、両名いずれもその血の半分は勇猛苛烈で知られる『黒槍』の血筋。
つまり発端はともかくとして。この2人そもそも単純に、相性が悪いのである。
「……まあ、『慈涙』の姫君とは少なからず縁もある。
家を出た身とは言えお前が元々『黒槍』の人間である事は事実だ。当主である以上一切無関係……とも言えんか」
おや、と驚いた様にガレシウスが片眉を上げる。まさか義弟の方から折れて来るとは思ってもみなかったからだ。
少なくとも、彼が家を出た8年前であれば考え難い事だった。しかし、人は成長する物である。
「そう言って頂けると助かります。出来れば義父上にも一度ご挨拶を……と」
「もし揉めに揉めて婚姻が破談になっても当方は一切責任は持てないが?」
「それは大丈夫でしょう。愛されていますから」
「どこか知らない所でのたれ死ね」
かくして。元は『中立派』である『慈涙』の事情だった『黒槍』伯爵家の挨拶は。
これまで殆ど縁故を持たないままやって来た義兄弟による合意の上で執り行われる事になった。
『白銀』の別邸へ帰宅したガレシウスによる“義弟は実に快く挨拶を受けると言ってくれました”なる優しい欺瞞に。
妻となる令嬢『慈涙の銀月』レティシア・レインフィールは、それは大層喜んだという。
■
「ガレシウス様、先ほどは露店で何を買われていたのですか?」
「ああ、林檎です。南方の林檎は蜜が多く甘い、と人伝に聞きまして」
「そう言えばお好きですよね、林檎。理由をお聞きしても?」
二頭立ての馬車が揺れる。本来であれば侍女や侍従を含みもっと大所帯で移動するのが貴族の旅行である。
しかし、此度はそうは行かない事情があった。旅程が長く、土地勘も無い場所へ行く――――それ以上の理由が。
「母君の好物だったそうだよ。幼い日に口にする事が多かった物を好きになる、と言うのも分からない話ではないね」
声は隣ではなく対面から割り込んできた。何故、レティシアも知らない婚約者の好みを知っているのかは不明だが。
それ以上にまるで当たり前の様にそこに鎮座している不思議である。本来、必要なのは結婚する2人だけの筈。
「と言いますか……何故、義兄様まで一緒に行く事に……?」
「義弟の義弟であればそれはもう義弟だと言っても過言ではないのではかな」
「流石にそれは過言だと思いますが」
馬車で街道を進んでは宿で休み、宿で休んではまた馬車に揺られること……実に凡そ一週間余り。
『白銀』侯爵領からであれば丸三日もあれば十分だった事を考えると、旅行期間は二倍を優に超え、既に三倍近い。
途中『慈涙』伯爵領に寄った事で、大いに余分と言う他ない道程を辿っている為だ。
現地集合であればそんな無駄は幾らでも省けただろうに、目上を立てる事を徹底して教えられている“元騎士”は。
義兄となるジークリッド・レインフィールに足労を掛ける事を嫌い、結果この様な大旅行に繰り出す羽目に相成った。
勿論。前半は既に新婚旅行の様な物で、行く先々での観光など含めレティシアも散々楽しんだ手前異論は無いが。
御者を除けば、ほぼ2人きりで数日を過ごす。と言う経験は彼女にとってもとてもとても貴重な物であり。
ジークリッドの合流でそれが3人旅になった事に、実の所一番落胆したのも恐らく彼女であった。
義妹想いの義兄からすれば随分酷い扱いだと訴えられても仕方あるまい。――――が、しかし。しかしである。
そんなジークリッドはと言えば“家族関係を深める為”との名目で義弟を連れまわす事にまるで躊躇いが無く。
“せめて新婚間近の義妹夫婦をもう少し労わっても良いのではでしょうか……?”……と。
割と我慢強い心算のレティシアが、思わず婚約者に訴える事になる程だったと言えば、想像もつこう物である。
勿論。ジークリッド側からすれば、血の繋がりは無くとも家族仲が良いに越した事はない筈であり。
結婚まで秒読み段階とはいえあくまで“婚前”である以上はずっと傍に居て過ちが有っても――――究極構わないのだが。
それはそれとして、我慢し続ける事を強いるのも余り性格の宜しい物でもないだろうと。
彼なりに気を使った結果ではあったのだが。その心遣いは少なくとも、義妹には余り伝わっていなかった。
「さあガレシウス殿。今日は染物屋の露店が出ていると聞いた。『白銀』の生まれとしては興味が有るのではないかな?」
「それはまあ……確かに無いではないですが。ジークリッド殿、そういった物ならレティシアを誘っては如何かと」
「勿論誘うとも。しかし義兄として下手をすると自由時間の全てを鍛錬に費やす義弟を放ってはおけないね」
「はあ……それはお気遣い頂きありがとうございます」
――――せめて、私が、誘うかどうか決めるまで、待ってくれても良いのでは無いでしょうか……?
と、果たしてレティシアが流石にご機嫌を斜めに傾けたとしても。同情の余地は有るだろう。
義兄様はこう、女心が分からない所が玉に瑕だと思います。と、まさか義妹からそんな酷い評価を受けている等露知らず。
ジークリッドの、義弟と友誼を深めようと言う積極的行動は概ね彼女からは不評であった。
そんなこんなで十日に少し足りない程の時を費やして後。遂に『黒槍』伯爵領の関所を抜けた時には。
アルガス様に今の気持ちを思い切り伝えて話を聞いて貰おう……と、レティシアは固く心に誓ったのだった。
■
「ようこそ遠路遥々来てくれた。『黒槍』当主として卿らを歓迎しよう」
ちら、と婚約者の方を一瞥し。けれど其方に対して特段何かを言及する事は無く。
その視線はレティシアとジークリッド。『慈涙』の両名へと向け直される。此度の賓客は、あくまで彼女らだ。
久々に対面するアルガスは、見た目こそ依然と然程変わらないにせよ威厳の様な物が備わった様に見えた。
コーニッシュ伯爵領領都、『鉄の城塞』オルダレンは城下街が諸共に重厚な城壁に囲まれた壁内都市である。
貴族同士の物理衝突が有り得た時代に築かれた古式建築は、とにかく堅牢堅固である事が優先され。
昨今の貴族の邸宅に良く見る、華美な装飾や利便性を重視した動線などは殆ど考慮されていない。
その代わり、壁には返しが付いており、近くの川より水を流せる内堀。全窓には格子を下ろす事が可能など。
一度踏み込んだ人間を決して外に逃がさない仕組みに満ちている。授恵者の刺客とて容易には攻め込めまい。
そんな造りをしているからには必然、謁見の間も広い。通された『慈涙』一行はこの時点で既に。
まるで住居に作り替えられた監獄。とすら思える重々しい空気に呑まれ緊張を余儀なくされていた訳だが。
どんな街でも住めば都と言う事か。領主の座に着くアルガスは、至って慣れた仕草で彼ら、彼女らを迎え入れた。
「如何せん、当家は武門なのでな。武骨者しか居らず卿らを楽しませる事も簡単ではない訳だが。
ささやかながら晩餐の用意を進めさせている。まあ、洗練とは程遠い街ではあるが楽しんで行ってくれ」
そう言って手を叩く仕草も堂に入った物で。未だ領主代行に過ぎないジークリッドもまた目を丸くしたが。
他方レティシアは自分が褒められているかの如く誇らしかった。彼――――アルガスは、彼女が珍しく懐いている。
感嘆し、憧憬し、心から敬意を向けている貴族であるからだ。その振る舞いも、物の考え方も。その示し方を含め。
アルガス風に言うならば、“武骨で洗練されていない”貴族像なのかもしれない。それは、そうなのかもしれない。
けれど。彼女は『学園』から仕事を受けるようになってからの冒険者生活で幾度も彼と会話を重ねて来た。
レティシアはどちらかと言えば古い価値観の持ち主だ。刻まれた貴族教育は、そういった古典礼法の色濃い物だった。
だから古典的貴族観の持ち主であるアルガスと相性が良かった。と言えばそれは勿論否定出来ない。
しかし彼の第一印象は……酷く苛烈で恐ろしい人、だったのだ。その時からを考えれば――――
(とても、立派になられました)
領主になる、と言う展望など一度も持った事が無い。言うなれば伝統的貴族令嬢であるレティシアには。
次期後継者としての重圧と戦いながら、限られた時間。限られた自由の中で個としての枝葉も伸ばしていく。
と言うことが、どれほど難しい事であるのかは分からない。何処まで行っても、分かった気、になれる程度だろう。
それはきっと同じ立場、同じ状況に置かれ孤軍奮闘した事のある者でなければ訳知り顔で語ってはいけない分野だ。
それでも。レティシアは彼が断固たる意思の下“民を率いる者”と自身を定義し研鑽を積んで来た事を知っている。
武門に在りながら非授恵者として生を受け、腐る理由も挫ける要素も幾らでも有っただろうに。
気高く前を向き、血への誇りと貴き義務を以て如何に“貴族”として振る舞うか問い続けて来た事を知っている。
その生き様は、年齢の多寡など関係無しに心を揺さぶる事なのだと――――良く、知っている。
だから彼女はここまでやって来たのだ。レティシアは認めて欲しかった。この……尊敬すべき人の、家族として。
●対峙の刻
「……もう一度だけ確認するが……本気、か……?」
「勿論、本気です」
「ジークリッド卿。卿もまた同意見か」
「そうですね。もしもアルガス伯から御許しが頂けるのであれば。義妹の我儘を聞いて頂ければと思います」
4人がやって来たのは屋敷の一室だった。屋敷の主であるアルガスですら滅多な事が無い限り近付くことは無い。
領主業は、基本的に多忙である。貴族家によっては、"家族と食事を取る時間"を態々捻出する者も居るが。
齢若くして当主を引き継ぎ、今は何より経験を積み上げる途上にある彼にとって、その時間は惜しむべき物。
また、当の部屋の主からしてそういった気質の。良くも悪くもあまり家族への干渉を望まない人間だった。
であれば、その背を見て貴族としての振る舞いを学んだアルガスが同様に振る舞ったとして何の不思議が有ろう。
恐らく。其処には失望も有ったのだろうと思う。望んだ継嗣が非授恵者であり、家を出た妹の子が授恵者だったのだ。
誇り高い男はだからと言ってそれ以上子を設ける事を由とせず、あくまで彼を己の後継者として育て上げた。
感謝はある。けれど、家を継いだ今この先どう付き合っていけば良いのか。其処には未だ答えが出せないでいた。
「恐い物知らずとはこの事だな……まあ、敢えて虎穴に挑むと言うなら仕方ないが」
「いざとなれば、自分が責を負いましょう」
「必要ない。当家の現領主は俺であり、その俺が許すとしたんだ。異論は挟ませんさ」
蛮勇と無謀は紙一重である。そしてレティシアが願った事は、アルガスから見てもやや後者よりだと言えた。
此処は先代の私室である。『先代黒槍伯』は昔ながらの武人であり、典型的な武闘派である。
女子供の扱いなどまるで分からない人間だ。それはほぼ厳しさのみで育てられたアルガスが、一番良く知っている。
一方武人としてのジオルグは優れた戦士でもある。麾下の騎士団には彼に憧れ、或いは尊敬する者も多い。
その発言には今も家門内で一定の力が有る。お互い深く干渉しない事が最善手、となるのは自然な流れだった。
「父上、義兄上とその婚約者が面通りを願いたいと」
三度叩かれた扉に、レティシアとガレシウスが表情に少しの緊張を滲ませる。
面識は、お互い全く無い訳では無いもののほぼ、無いに等しい。怒声を浴びせられる可能性も0ではなかった。
「……入れ」
低い、巌の様な声が響く。部屋に鍵は掛かっていなかった。
先導するアルガスが扉を開くと。中は謁見の間程ではない物の1人で使うにはかなり広い部屋だった。
壁に無数に立て掛けられているのは武器。剣、槍、斧、と様々だ。窓辺には全身甲冑が鎮座していた。
返り血の跡が、斬撃痕が刻まれている。美術品ではなく、あくまで実用品だ。
如何にも、歴戦の猛者を思わせる部屋には他に机が一つ。寝台が一つ。椅子が一つ。
それ以外何もない。何処か空虚で――――何処か、侘しさの感じられる部屋だ。個性らしき個性が武器しかない。
「ガレス。……何故、此処へ戻った」
重々しい問と共に。まるで片時も手放さないと言う様に机に立て掛けられた大槍を手元に寄せる。
それが、ジオルグ・コーニッシュと言う男の縁であるならば。彼は老いたとて何処までも武人だった。
■
――――かつて。後に“ライゼンナクトの乱”と呼ばれる凶事が引き起こされる前。
レティシアは、この壮年の男。ジオルグと対面した事がある。実の所、言葉を交わした事も……ある。
“火の様な男性”、と言う印象があった。近付く者は軒並み燃やし尽くしてしまう。戦う事のみを生業としてきた人。
けれど、改めて戦場でも何でも無い。貴族の屋敷で対面した彼は――――何という事は無い。
確かに少々強面ではあるのかもしれなくとも。座っていたのはもう老齢に差し掛かろうと言う、ただの貴族だった。
「ジオルグ様、此度は大恩ある御身に自分の妻とその家族を紹介したく。恥知らずにも敷居を跨がせて頂きました」
「……下らん。忠義を棄て、あれほど恩ある北方辺境伯に牙を剥いた愚物の言葉など聞きたくもない」
残酷な言葉だった。義父は自ら養子にする事を選んだ男の唯一度の願いを当然の如く切って捨てた。
当然、老人には老人の言い分があるだろう。行き場を失っていたガレシウスを引き取った事。
彼に騎士として生きていけるだけの鍛錬を積ませた事を考えれば、其処に一切の情が無かったとは思わない。
そして老人が。ガレシウスがした事によって恩を仇で返されたと受け取るのも――――分からない訳では、無い。
けれどレティシアは、その全てを見て来たのだ。彼がどれほど苦しんだか。悩んだか。自らの生まれを呪ったか。
それを、何もしなかった人に否定して欲しくはなかった。間違いだったと言い捨てて欲しくはなかった。
「お待ち下さい」
「……ん? 貴様は……まさか、冒険者の」
「以前は御挨拶も出来ず申し訳ありません。『慈涙』のレティシア、です」
「同じく。『中立派』レインフィール伯爵家よりジークリッドと申します。先代、ジオルグ伯をお見受け致します」
視線を受けて、スカートを摘まんで一礼したレティシアを護る様に、アルガスとジークリッドが進み出る。
けれど、ジオルグは間違いなく彼女を見ていた。顔に憶えがあったのだろう。それほど不思議な話ではない。
何せ彼女の弁は鮮烈であり衝撃だった。武門の長の価値観に真っ向剣を突き立てたのだから、それは印象にも残る。
「貴様、あの時の……騎士の誇りを嘲った娘が、主君を裏切った男の妻を演ずるか。……とんだ茶番ではないか」
がりがりと髪を掻いて嘆息したジオルグに。殆ど無視された形になったジークリッドが鋭い眼差しを向ける。
ガレシウスがレティシアを下げようと手を翳し――――が、それより一手早く、アルガスが動いた。
誰も予期しない動きだった。振り被った拳が、老人の頬に垂直に突き刺さる。
片や授恵者。片や非授恵者。然程の痛撃でもないだろうが、多忙な領主業の最中にも鍛錬は欠かしていないのだろう。
鋭く爆ぜるような音が鳴った。それは紛れも無く、怒りではなく理性で以て放たれた殴打に他ならない。
「下らぬのは父上、貴方だ。何時まで過去にしがみ付いている。この者らは貴方に祝福されたくて。
ただそれだけの為に態々歓迎もされぬだろうこの地へ踏み入って来たのだ。それが分からない貴方では無いだろう」
その訴えには有無を言わせぬ何かが確かに宿っていた。ガレシウスすら見知らぬ義弟の素振りに瞠目する。
彼とて心から歓迎している訳では無いだろうに。それでも、アルガスは誠実だった。
■
「……祝福? そんな事に、何の意味が……」
「意味ならばある。父上、貴方には無くともこの者らにはあるんだ。以前貴方は言ったな。
我らは旗手だ、手本でなくてはならないのだと。願い、乞う者が居るならば力で以て護るのが貴族の義務だと」
切々とした言葉には燃え盛る様な感情は無く。けれど、胸を衝く様な痛みがあった。
アルガスはきっと、ジオルグを手本としてこれまで生きて来たのだ。そして遂には、研鑽の末に父親に克えた。
けれども。だとしても。彼は望んでいたのだろう。あくまでその背が誇り高く在る事を。
例え"そうではなくなってしまった"のだとしても。それでも――――諦めきれないのが、血縁と言う物だ。
「ならば何故祝ってやれない。ガレスは、義姉上は。貴方に認めて欲しかっただけだ。
ただそれだけが何故出来ない。貴方を手本にした者は、それで本当に幸せだと言えるのか。答えろ……っ!」
「もう良い、アルガス。すまなかった」
握り締めたアルガスの手にガレシウスが手を添えた。相性が悪く、仲も決して良いとは言えないが。拒まなかった。
それこそが誇りだ。貴族の、青き血の誇りだ。平民に威を示し導く者の誇り高い姿だった。
気付けばレティシアは瞳に涙を滲ませていた。叱責を受けたジオルグは、それでも無言を貫いていたが。
瞳には迷いが見えた。ならそれで満足すべきだろう。これ以上も、これ以下も。今ここで望むべき事ではない。
「お騒がせして、申し訳ありません。今日明日中には、御暇させて頂きますので」
レティシアを下げる様にしながらジークリッドがそう告げて退いた。貴族社会に於ける『中立派』は処世術の世界だ。
進むべき時、退くべき時を見極めなければ死に直結する。その匙加減を、『慈涙』は見誤らない。
そうして、ガレシウスとアルガスが廊下へ出ると。漸く扉が閉じられる。黒槍の義兄弟が深く、深く嘆息を零した。
「……だから言っただろう、本気か? と」
「はい……いいえ。それでも、やっぱり来て良かったと思います」
「心が鋼鉄で出来ているのか……?」
「いえ、でも……義姉上って呼んで頂けましたから」
何だか良い笑顔で。とても嬉しそうにそう応じたレティシアを一瞥し。
アルガスは珍しく隣で処置無し……と言った虚無の表情を浮かべるガレシウスを見遣ってこう呟いた。
「冒険者での経験が何か厄介な方向に作用していないか」
「聞かなかった事にしましょう。自分は何も聞きませんでした」
「自分の妻の手綱位握っておけよ本当に。多分気付くととんでもない事になってるぞお前」
シャルガネに曰く、雨降って地固まるではないが。何事にも良い側面と悪い側面はあるものだ。
こうしてアルガスとガレシウスの間に残り続けた深い蟠りは、この日を境に少しだけ晴れたようだった。
●憧れと言う名の思い出
青い盛装を若干着崩したレティシアが、椅子に寄りかかりながらくすくすと笑う。
彼女一人だけがご機嫌であり、それ以外の男性3名は愚か給仕係の侍女らすらもが困惑で視線を泳がせる。
「――――なのれ、あるがすさまはぁすごいかたなのれす……!」
「すまん……本当にすまん……まさか食前酒ごときで此処まで酔うとは思わなかったんだ……」
「いや、良いんだよアルガス君。僕も義妹が此処まで酒に弱いままだとは思っていなかったから。
と言うか……この有り様でどうやって冒険者稼業を務めあげていたんだろう……本当に」
「ジークリッド殿、事は一刻を争います。急いで寝室に運んでは」
そうして漸くやって来た晩餐会のこと。緊張と慣れぬ土地柄と言う事もあり、レティシアは喉が渇いていた。
貴族の食事には食前酒が出されることが珍しくはない。普段であれば、きっと彼女も重々警戒していたろう。
けれど、心身共の疲れと出された食前酒がアルガスの好みに合わせ香りが弱めの果実酒だった事もあり。
漂った淡く甘い葡萄の芳香から彼女はそれを“果実水”だと判断し一気に煽った。制止の暇も無かった。
尚、武門に於ける酒とは気付けの意味合いも込められる為、出される酒は量こそ少ないが……弱いと言っても割と強い。
此度は女性客を含むという事で、それでも更に大いに手加減されてはいたが。にも関わらず――――こうなった。
「そうでした。ねー、あるがすさまぁ……めかけにこいってあれ、ほんきでしたかぁ……?」
「な! ば! 本気も何も例え話でしか無かったろう!? むしろ何で今此処でそ――――」
「――――……おや。おやおやおやおやアルガス君。ちょっと詳しく聞かせて貰えるかな」
「自分も、どういった経緯でそんな話になったのか俄然興味が湧いてきましたね――――?」
左右をジークリッドとガレシウスが固めていた。レティシアの看護には給仕係の侍女らが既に向かっている。
アルガスには逃げ場が無かった。何が性質が悪いかと言えば冗談でも確かにそんな発言があったのが最悪だ。
経緯まで説明すれば直ぐに誤解は解けると言うのに、幾ら何でも抽出の仕方に悪意がある。
これが良く見知ったレティシアとガレシウスでなければ、悪質な美人局の可能性を考慮に入れる所だが。
選りにも選ってそういった色事とは一番無縁そうな2人である。幾ら何でもそんな馬鹿げた策謀も無い。
「いやいやいやいや、レティシア嬢! 正気に戻れお前治療師だろう!? 誤解を、誤解だって……!」
「ふふ、うふふ……ですから、あるがすさまはですねぇ、がくえんのせんきょでもとてもがんばっていて……
あれ。なんであるがすさまたくさんいらっしゃるんです……? おひとりでないとみながこまります……ふふふふふ」
「さてはこいつ聞いてないな――――……!?」
義兄2人に引き摺られていくアルガスが食堂からフェードアウトしても尚。
レティシアは兄弟仲に難のある2人をフォローする為にアルガスの武勇伝を語り続けたものの。
それに面白そうに耳を傾けるのは『黒槍』に属する侍女達ばかりであり、当のガレシウスやジークリッド。
あまつさえ一番尊敬の気持ちを伝えたかったアルガスは、屋敷の深淵へと消えていった後なのだった。
尚、この一件を通して『黒槍』の調理場には『慈涙』の令嬢には決して酒品の類を供さない事。
と言う注意書きが足されることとなった。何でも領主直々の命令であったのだと言う。
■
――――目が醒めると。何故か客室に運び込まれていた。
酒がそれなりに強かった所為だろう。晩餐に入ってからこれまで、自分が何を口走り何をしていたか全く覚えがない。
ただ、何故かアルガスが沢山居た気がすることと、とても楽しかった印象だけが残っている。
もしアルガスが沢山居るのだとしたら、1人くらい持ち帰って貴族の心構えを一から教えて貰うのだけれど。
何処かふわふわした頭でそんな事を考えていると、部屋の外からノックの音。
過剰に規則正しく同じ拍子で叩かれるそれが、愛する婚約者の物である事はレティシアにはすぐに分かる。
「どうぞ」
「失礼します。酔いは醒めましたか? 水を持って来たのですが」
「……ガレシウス様、今は2人きりです」
「……、……。水を持って来た。調子はどうだ」
寝台に腰掛けたガレシウスの手元から水差しを受け取り、酒杯に注いで喉を潤す。
言われてみればとても喉が渇いていた。何であれば少しばかりお腹もすいていたけれど。
それは黙ったままに。すぐ傍に居るガレシウスの正装の袖を引く。
それは彼女なりに分かり易く意識している。甘やかして欲しい時の合図だ。
道中の後半戦は義兄が付きっきりだったし、今日もこの後いつ2人きりになれるかも分からない。
婚前交渉厳禁……である以上、客室も当たり前に男女別々である。
「レティシアは、アルガスとは仲が良いみたいだな」
「ガレシウス様は……やっぱり、アルガス様が苦手なのでしょうか」
凭れ掛かる様に身を寄せながら問うと。ガレシウスは迷うように視線を上向けながら呟く。
其処には幾許かの複雑な思いと。それ以上に――――罪悪感めいた後ろめたさが滲んでいた。
「苦手、とは多分違う。どちらかと言うと……俺に、彼は眩し過ぎたのだろうと思う。
彼は、自分の立場を揺るがす、縁もゆかりも無い、義兄とも呼べない異物を。それでも受け入れ家族として扱った」
血縁上は従兄弟。関係上は義兄。突然降って湧いたそんな親族を快く受け入れる家などそうはないだろう。
貴族であれば尚更に。元々並び立つ2人の後継者候補などと言うものは、家門を乱す凶兆として厭われる傾向にある。
両者が互いに互いを尊重し切磋琢磨すれば良いが、人間と言うのはそれほど高尚には出来ていない。
疎ましかったろう。厭わしかったろう。だがアルガスは彼を義兄として扱った――――彼が家を棄て逃げ出すまでは。
「……俺にはその気高さが理解不能な物として映った。不気味だった。だから距離を置いた。
それがお互いの為だと思っていた。……もしかすると。それこそがアルガスへの裏切りだったのかもしれない」
もしかすると、分かり合えたのかもしれない。お互いにもっと上手にやれたなら、家族になれたかもしれないと。
今となってはそう思う。それが遅すぎた気付きだと、理解出来たのはもっと大人になってからだった。
「遅くなんて、無いと思いますよ」
「そうであれば、どんなに良かったろうな」
抱きしめる様に回された腕は鍛え上げられていて、その力が誰かを護る為に研がれたのだと言う事を知っている。
知っているけれど、この人は何でも出来るようでいて失敗も多い。本当は、多分不器用な人なのだと思う。
だから護りたいのだ。人は一人ではなかなか幸せにはなれないから。一番近い筈の自分が、一番見えないのだから。
腕を引き寄せぎゅっと抱きしめると。良く懐いた動物がするように、大好きな人の胸に頬を擦り付ける。
「大丈夫です。意外と当たるんですよ、私の予測も」
過去の追憶に沈み込んでいたガレシウスは気付かなかったけれど、レティシアだけは気付いていた。
部屋の扉は蝶番が緩んでいたのか僅かに開いていたことに。誰かの影がそっと遠ざかって行ったことに。
だからきっと、遅過ぎるなんてことはない。彼女もまた、心からそうであって欲しいと望んでいるのだから。
■
翌朝。朝食の席にガレシウスと2人で座って談笑していると。
昨晩全力でアルガスに絡みに行ったらしきジークリッドとアルガスが土気色した顔でやって来た。
「この馬鹿義兄本当何とかしろよレティシア嬢。何時か面白半分で誰か殺すぞ……」
「流石に僕も引き際は弁えているよアルガス君。だからほら、2人共気絶はしなかったろう……?」
「しなかったろう? じゃないんだよジークリッド。翌日に残ったら諸に政務に響く……うぶ」
口元を抑えたアルガスが食堂を横断して室外へ去る。これはもう今日は駄目かもしれないですね……?
と、至って健康なレティシアは朗らかな気分で義兄の蛮行を見送った。
どうも遠慮が見え隠れするガレシウスより、アルガスの方がジークリッドとの相性は良かった様で。
たった1日で随分仲良くなった物だと感心はするけれど。それでも付き合いの長さでは負けていませんし。
と、妙な対抗心を抱きつつ口元を手巾で拭う。――――と、丁度アルガスが出て行った扉からであった。
昨日、半ば決裂に近い形で別れた先代、ジオルグが顔を出したのは。
緊張感に空気がひりつく。給仕係の侍従が思わず手を止めるも、ジオルグは室内をじろりと一瞥し。
アルガスの姿が見えないと分かると、踵を返す様にして廊下の方を向き直った。
ただ、朝食に来ただけだったのか。喉でも乾いて水差しでも取りに来たのか――――と。
一瞬空気が和らいだその時だ。その声はやはり低く、深く、けれど決して大きな声ではなかった。
「……あれで尚懲りないのであれば……婚姻が成った後にでも、また来るがいい」
大きな声ではなかったけれど。それでも、レティシアにも。ガレシウスにも。勿論ジークリッドにも。
彼の老人の声はきちんと届いていたのだから。3人は顔を見合わせると、忍ぶように笑って応じた。
「「「――――必ず!」」」
世界には、取り返しの付かない事など幾らもある。致命的な、決定的な、運命が切り替わってしまうような。
そんな失敗もあり、成功もある。いずれにせよ、無かった事にも、やり直すことも、出来ない。
けれど、それはまるで神が定めた賽子の目の様な。そんな理不尽が降り掛かる事があるのと同じくらい。
取り返せることも、やはりあるのだ。それは断じて致命的でも、決定的でも、運命的でもない。
ただ頑張り続けると言う。そんな、誰にでも出来る一途な想いが時に、誰かを救う事が――――ある。
それは頑固で捻くれた、けれど何処かうら寂しい老人の。その凝り固まった心であったりもするのだろう。
「……意外と当たるでしょう?」
言って笑ったレティシアに。これは勝てないと言うようにガレシウスは黙って肩を竦めた。
そう。互いに歩み寄る意思さえあれば、取り返しがつくこともまた。案外幾らでも転がっている。
「今日は良い日になりそうだね」
天高くして気清し。それは蒼穹が見事に晴れ渡り、陽射しの盛る春の終わりの事。
2人の結婚を間近に控えた――――とある、『王国』領での記録である。
『黒槍』。元は王党派に属していた貴族家であり、現貴族派の中核を成す。
伯爵家としては王国建国以来武門として名を馳せ、かつて貴族間抗争が盛んだった時代には武門の誉れ。
純然たる戦功の積み重ねのみで以て、王家より神具『黒の魔槍』を下賜されたとされる。
文字通り徹底した、そして卓抜した戦働きで以て自家の価値を証明し続けて来た家系である。
その華々しい戦歴を誇示するが如く、召し抱える騎士団も伯爵家水準で考えれば異例と言える授恵者の多さを誇り。
所領の大きさこそ他の伯爵家に劣ろうとも。存在感と発言力と言う面では決して引けを取る物ではない。
歴史ある。そして栄誉ある貴族家の一角として、現在まで途切れる事なくその武名と歴史を継いで来た。
その現当主――――『黒槍伯』アルガス・コーニッシュもまた。
血と鉄に彩られた先祖の軌跡に恥じる事無きよう、領主としての責務に従じている。
そんな彼が異色を放つ部分があるとするならば。武を司る神は彼に恵を齎さなかった、だと言う点だろうか。
世界には、取り返しの付かない事など幾らもある。致命的な、決定的な、運命が切り替わってしまうような。
そんな失敗もあり、成功もある。いずれにせよ、無かった事にも、やり直すことも、出来ない。
"非授恵者"として生を受けた彼が選りに選って武門の長を引き継いだことは、失敗だろうか。それとも成功だろうか。
その答えは未だ、明らかな物として示されないままである。
武門『黒槍』。その当主に求められる物はこれまで――――ただ、力だけであった。
■
『王都』グランスパーダ。中央通りより一本裏手へ回った一画。
主に冒険者や旅人と言った、観光客向けの店が立ち並ぶ中にある一軒の喫茶店。
貴族向け、とは言い難いそんな店の軒先で。伯爵家の当主と侯爵家の第一子が対面する――――等と言う事態は。
幾ら『王都』の規模が『王国』随一であり、貴族の別邸もまた多いとは言えどもそう滅多にある光景では、ない。
況や。それらが殆ど血の繋がらぬ義兄弟であるなどと言えば、一体何の戯曲の話かとその前提を疑われよう。
「顔を合わせて話がしたいと言うから何かと思えば……お前の婚姻の話など俺の知った事か」
黒に程近い焦げ茶色の髪と父親に良く似た深い橙の瞳。アルガスはその心性を示す様に僅か一言で切って捨てた。
にべもない、とはまさにこの事だ。彼と義兄、ガレシウス・アルヴァ・クラティアスは兄弟仲がまるで良くない。
其処には武門の家系に在りながら片や授恵者。片や非授恵者であり。立場こそ義兄弟ながら血統上は従兄弟であり。
そして弟の方が家督継承権は高かったにも関わらず、家宝を預けられたのは兄の方であった……などと言った。
確執と言う確執を軒並み並べた様な、まさに複雑怪奇かつ王国貴族の悪い部分を集約したかの如き関係性に原因がある。
――――が。子供の頃であればともかくも、互いにそれぞれの家を背負う立場になった身の上で。
そんな昔の。それもお互いどうしようもなかった時節の話を今更持ち出すほど、いずれももう幼くはない。
「……自分もそう思うのですが、こればかりは慈涙の意向も汲む必要がありますので」
「は。今から尻に敷かれているのなら、家庭円満は約束されたも同然だなガレシウス卿。結構な事だ」
「賛辞有り難く存じます。当のアルガス伯に置かれましては、御世継ぎの予定は如何でしょうか」
お互いに、穏やかなのは声音だけである。アルガスの眼差しには殺気もかくやと言う敵意が滲み。
対するガレシウスは何処吹く風と受け流している様に見えるも、確り慇懃無礼で以て切り返している。
大人気ないとはこの事だが、両名いずれもその血の半分は勇猛苛烈で知られる『黒槍』の血筋。
つまり発端はともかくとして。この2人そもそも単純に、相性が悪いのである。
「……まあ、『慈涙』の姫君とは少なからず縁もある。
家を出た身とは言えお前が元々『黒槍』の人間である事は事実だ。当主である以上一切無関係……とも言えんか」
おや、と驚いた様にガレシウスが片眉を上げる。まさか義弟の方から折れて来るとは思ってもみなかったからだ。
少なくとも、彼が家を出た8年前であれば考え難い事だった。しかし、人は成長する物である。
「そう言って頂けると助かります。出来れば義父上にも一度ご挨拶を……と」
「もし揉めに揉めて婚姻が破談になっても当方は一切責任は持てないが?」
「それは大丈夫でしょう。愛されていますから」
「どこか知らない所でのたれ死ね」
かくして。元は『中立派』である『慈涙』の事情だった『黒槍』伯爵家の挨拶は。
これまで殆ど縁故を持たないままやって来た義兄弟による合意の上で執り行われる事になった。
『白銀』の別邸へ帰宅したガレシウスによる“義弟は実に快く挨拶を受けると言ってくれました”なる優しい欺瞞に。
妻となる令嬢『慈涙の銀月』レティシア・レインフィールは、それは大層喜んだという。
■
「ガレシウス様、先ほどは露店で何を買われていたのですか?」
「ああ、林檎です。南方の林檎は蜜が多く甘い、と人伝に聞きまして」
「そう言えばお好きですよね、林檎。理由をお聞きしても?」
二頭立ての馬車が揺れる。本来であれば侍女や侍従を含みもっと大所帯で移動するのが貴族の旅行である。
しかし、此度はそうは行かない事情があった。旅程が長く、土地勘も無い場所へ行く――――それ以上の理由が。
「母君の好物だったそうだよ。幼い日に口にする事が多かった物を好きになる、と言うのも分からない話ではないね」
声は隣ではなく対面から割り込んできた。何故、レティシアも知らない婚約者の好みを知っているのかは不明だが。
それ以上にまるで当たり前の様にそこに鎮座している不思議である。本来、必要なのは結婚する2人だけの筈。
「と言いますか……何故、義兄様まで一緒に行く事に……?」
「義弟の義弟であればそれはもう義弟だと言っても過言ではないのではかな」
「流石にそれは過言だと思いますが」
馬車で街道を進んでは宿で休み、宿で休んではまた馬車に揺られること……実に凡そ一週間余り。
『白銀』侯爵領からであれば丸三日もあれば十分だった事を考えると、旅行期間は二倍を優に超え、既に三倍近い。
途中『慈涙』伯爵領に寄った事で、大いに余分と言う他ない道程を辿っている為だ。
現地集合であればそんな無駄は幾らでも省けただろうに、目上を立てる事を徹底して教えられている“元騎士”は。
義兄となるジークリッド・レインフィールに足労を掛ける事を嫌い、結果この様な大旅行に繰り出す羽目に相成った。
勿論。前半は既に新婚旅行の様な物で、行く先々での観光など含めレティシアも散々楽しんだ手前異論は無いが。
御者を除けば、ほぼ2人きりで数日を過ごす。と言う経験は彼女にとってもとてもとても貴重な物であり。
ジークリッドの合流でそれが3人旅になった事に、実の所一番落胆したのも恐らく彼女であった。
義妹想いの義兄からすれば随分酷い扱いだと訴えられても仕方あるまい。――――が、しかし。しかしである。
そんなジークリッドはと言えば“家族関係を深める為”との名目で義弟を連れまわす事にまるで躊躇いが無く。
“せめて新婚間近の義妹夫婦をもう少し労わっても良いのではでしょうか……?”……と。
割と我慢強い心算のレティシアが、思わず婚約者に訴える事になる程だったと言えば、想像もつこう物である。
勿論。ジークリッド側からすれば、血の繋がりは無くとも家族仲が良いに越した事はない筈であり。
結婚まで秒読み段階とはいえあくまで“婚前”である以上はずっと傍に居て過ちが有っても――――究極構わないのだが。
それはそれとして、我慢し続ける事を強いるのも余り性格の宜しい物でもないだろうと。
彼なりに気を使った結果ではあったのだが。その心遣いは少なくとも、義妹には余り伝わっていなかった。
「さあガレシウス殿。今日は染物屋の露店が出ていると聞いた。『白銀』の生まれとしては興味が有るのではないかな?」
「それはまあ……確かに無いではないですが。ジークリッド殿、そういった物ならレティシアを誘っては如何かと」
「勿論誘うとも。しかし義兄として下手をすると自由時間の全てを鍛錬に費やす義弟を放ってはおけないね」
「はあ……それはお気遣い頂きありがとうございます」
――――せめて、私が、誘うかどうか決めるまで、待ってくれても良いのでは無いでしょうか……?
と、果たしてレティシアが流石にご機嫌を斜めに傾けたとしても。同情の余地は有るだろう。
義兄様はこう、女心が分からない所が玉に瑕だと思います。と、まさか義妹からそんな酷い評価を受けている等露知らず。
ジークリッドの、義弟と友誼を深めようと言う積極的行動は概ね彼女からは不評であった。
そんなこんなで十日に少し足りない程の時を費やして後。遂に『黒槍』伯爵領の関所を抜けた時には。
アルガス様に今の気持ちを思い切り伝えて話を聞いて貰おう……と、レティシアは固く心に誓ったのだった。
■
「ようこそ遠路遥々来てくれた。『黒槍』当主として卿らを歓迎しよう」
ちら、と婚約者の方を一瞥し。けれど其方に対して特段何かを言及する事は無く。
その視線はレティシアとジークリッド。『慈涙』の両名へと向け直される。此度の賓客は、あくまで彼女らだ。
久々に対面するアルガスは、見た目こそ依然と然程変わらないにせよ威厳の様な物が備わった様に見えた。
コーニッシュ伯爵領領都、『鉄の城塞』オルダレンは城下街が諸共に重厚な城壁に囲まれた壁内都市である。
貴族同士の物理衝突が有り得た時代に築かれた古式建築は、とにかく堅牢堅固である事が優先され。
昨今の貴族の邸宅に良く見る、華美な装飾や利便性を重視した動線などは殆ど考慮されていない。
その代わり、壁には返しが付いており、近くの川より水を流せる内堀。全窓には格子を下ろす事が可能など。
一度踏み込んだ人間を決して外に逃がさない仕組みに満ちている。授恵者の刺客とて容易には攻め込めまい。
そんな造りをしているからには必然、謁見の間も広い。通された『慈涙』一行はこの時点で既に。
まるで住居に作り替えられた監獄。とすら思える重々しい空気に呑まれ緊張を余儀なくされていた訳だが。
どんな街でも住めば都と言う事か。領主の座に着くアルガスは、至って慣れた仕草で彼ら、彼女らを迎え入れた。
「如何せん、当家は武門なのでな。武骨者しか居らず卿らを楽しませる事も簡単ではない訳だが。
ささやかながら晩餐の用意を進めさせている。まあ、洗練とは程遠い街ではあるが楽しんで行ってくれ」
そう言って手を叩く仕草も堂に入った物で。未だ領主代行に過ぎないジークリッドもまた目を丸くしたが。
他方レティシアは自分が褒められているかの如く誇らしかった。彼――――アルガスは、彼女が珍しく懐いている。
感嘆し、憧憬し、心から敬意を向けている貴族であるからだ。その振る舞いも、物の考え方も。その示し方を含め。
アルガス風に言うならば、“武骨で洗練されていない”貴族像なのかもしれない。それは、そうなのかもしれない。
けれど。彼女は『学園』から仕事を受けるようになってからの冒険者生活で幾度も彼と会話を重ねて来た。
レティシアはどちらかと言えば古い価値観の持ち主だ。刻まれた貴族教育は、そういった古典礼法の色濃い物だった。
だから古典的貴族観の持ち主であるアルガスと相性が良かった。と言えばそれは勿論否定出来ない。
しかし彼の第一印象は……酷く苛烈で恐ろしい人、だったのだ。その時からを考えれば――――
(とても、立派になられました)
領主になる、と言う展望など一度も持った事が無い。言うなれば伝統的貴族令嬢であるレティシアには。
次期後継者としての重圧と戦いながら、限られた時間。限られた自由の中で個としての枝葉も伸ばしていく。
と言うことが、どれほど難しい事であるのかは分からない。何処まで行っても、分かった気、になれる程度だろう。
それはきっと同じ立場、同じ状況に置かれ孤軍奮闘した事のある者でなければ訳知り顔で語ってはいけない分野だ。
それでも。レティシアは彼が断固たる意思の下“民を率いる者”と自身を定義し研鑽を積んで来た事を知っている。
武門に在りながら非授恵者として生を受け、腐る理由も挫ける要素も幾らでも有っただろうに。
気高く前を向き、血への誇りと貴き義務を以て如何に“貴族”として振る舞うか問い続けて来た事を知っている。
その生き様は、年齢の多寡など関係無しに心を揺さぶる事なのだと――――良く、知っている。
だから彼女はここまでやって来たのだ。レティシアは認めて欲しかった。この……尊敬すべき人の、家族として。
●対峙の刻
「……もう一度だけ確認するが……本気、か……?」
「勿論、本気です」
「ジークリッド卿。卿もまた同意見か」
「そうですね。もしもアルガス伯から御許しが頂けるのであれば。義妹の我儘を聞いて頂ければと思います」
4人がやって来たのは屋敷の一室だった。屋敷の主であるアルガスですら滅多な事が無い限り近付くことは無い。
領主業は、基本的に多忙である。貴族家によっては、"家族と食事を取る時間"を態々捻出する者も居るが。
齢若くして当主を引き継ぎ、今は何より経験を積み上げる途上にある彼にとって、その時間は惜しむべき物。
また、当の部屋の主からしてそういった気質の。良くも悪くもあまり家族への干渉を望まない人間だった。
であれば、その背を見て貴族としての振る舞いを学んだアルガスが同様に振る舞ったとして何の不思議が有ろう。
恐らく。其処には失望も有ったのだろうと思う。望んだ継嗣が非授恵者であり、家を出た妹の子が授恵者だったのだ。
誇り高い男はだからと言ってそれ以上子を設ける事を由とせず、あくまで彼を己の後継者として育て上げた。
感謝はある。けれど、家を継いだ今この先どう付き合っていけば良いのか。其処には未だ答えが出せないでいた。
「恐い物知らずとはこの事だな……まあ、敢えて虎穴に挑むと言うなら仕方ないが」
「いざとなれば、自分が責を負いましょう」
「必要ない。当家の現領主は俺であり、その俺が許すとしたんだ。異論は挟ませんさ」
蛮勇と無謀は紙一重である。そしてレティシアが願った事は、アルガスから見てもやや後者よりだと言えた。
此処は先代の私室である。『先代黒槍伯』は昔ながらの武人であり、典型的な武闘派である。
女子供の扱いなどまるで分からない人間だ。それはほぼ厳しさのみで育てられたアルガスが、一番良く知っている。
一方武人としてのジオルグは優れた戦士でもある。麾下の騎士団には彼に憧れ、或いは尊敬する者も多い。
その発言には今も家門内で一定の力が有る。お互い深く干渉しない事が最善手、となるのは自然な流れだった。
「父上、義兄上とその婚約者が面通りを願いたいと」
三度叩かれた扉に、レティシアとガレシウスが表情に少しの緊張を滲ませる。
面識は、お互い全く無い訳では無いもののほぼ、無いに等しい。怒声を浴びせられる可能性も0ではなかった。
「……入れ」
低い、巌の様な声が響く。部屋に鍵は掛かっていなかった。
先導するアルガスが扉を開くと。中は謁見の間程ではない物の1人で使うにはかなり広い部屋だった。
壁に無数に立て掛けられているのは武器。剣、槍、斧、と様々だ。窓辺には全身甲冑が鎮座していた。
返り血の跡が、斬撃痕が刻まれている。美術品ではなく、あくまで実用品だ。
如何にも、歴戦の猛者を思わせる部屋には他に机が一つ。寝台が一つ。椅子が一つ。
それ以外何もない。何処か空虚で――――何処か、侘しさの感じられる部屋だ。個性らしき個性が武器しかない。
「ガレス。……何故、此処へ戻った」
重々しい問と共に。まるで片時も手放さないと言う様に机に立て掛けられた大槍を手元に寄せる。
それが、ジオルグ・コーニッシュと言う男の縁であるならば。彼は老いたとて何処までも武人だった。
■
――――かつて。後に“ライゼンナクトの乱”と呼ばれる凶事が引き起こされる前。
レティシアは、この壮年の男。ジオルグと対面した事がある。実の所、言葉を交わした事も……ある。
“火の様な男性”、と言う印象があった。近付く者は軒並み燃やし尽くしてしまう。戦う事のみを生業としてきた人。
けれど、改めて戦場でも何でも無い。貴族の屋敷で対面した彼は――――何という事は無い。
確かに少々強面ではあるのかもしれなくとも。座っていたのはもう老齢に差し掛かろうと言う、ただの貴族だった。
「ジオルグ様、此度は大恩ある御身に自分の妻とその家族を紹介したく。恥知らずにも敷居を跨がせて頂きました」
「……下らん。忠義を棄て、あれほど恩ある北方辺境伯に牙を剥いた愚物の言葉など聞きたくもない」
残酷な言葉だった。義父は自ら養子にする事を選んだ男の唯一度の願いを当然の如く切って捨てた。
当然、老人には老人の言い分があるだろう。行き場を失っていたガレシウスを引き取った事。
彼に騎士として生きていけるだけの鍛錬を積ませた事を考えれば、其処に一切の情が無かったとは思わない。
そして老人が。ガレシウスがした事によって恩を仇で返されたと受け取るのも――――分からない訳では、無い。
けれどレティシアは、その全てを見て来たのだ。彼がどれほど苦しんだか。悩んだか。自らの生まれを呪ったか。
それを、何もしなかった人に否定して欲しくはなかった。間違いだったと言い捨てて欲しくはなかった。
「お待ち下さい」
「……ん? 貴様は……まさか、冒険者の」
「以前は御挨拶も出来ず申し訳ありません。『慈涙』のレティシア、です」
「同じく。『中立派』レインフィール伯爵家よりジークリッドと申します。先代、ジオルグ伯をお見受け致します」
視線を受けて、スカートを摘まんで一礼したレティシアを護る様に、アルガスとジークリッドが進み出る。
けれど、ジオルグは間違いなく彼女を見ていた。顔に憶えがあったのだろう。それほど不思議な話ではない。
何せ彼女の弁は鮮烈であり衝撃だった。武門の長の価値観に真っ向剣を突き立てたのだから、それは印象にも残る。
「貴様、あの時の……騎士の誇りを嘲った娘が、主君を裏切った男の妻を演ずるか。……とんだ茶番ではないか」
がりがりと髪を掻いて嘆息したジオルグに。殆ど無視された形になったジークリッドが鋭い眼差しを向ける。
ガレシウスがレティシアを下げようと手を翳し――――が、それより一手早く、アルガスが動いた。
誰も予期しない動きだった。振り被った拳が、老人の頬に垂直に突き刺さる。
片や授恵者。片や非授恵者。然程の痛撃でもないだろうが、多忙な領主業の最中にも鍛錬は欠かしていないのだろう。
鋭く爆ぜるような音が鳴った。それは紛れも無く、怒りではなく理性で以て放たれた殴打に他ならない。
「下らぬのは父上、貴方だ。何時まで過去にしがみ付いている。この者らは貴方に祝福されたくて。
ただそれだけの為に態々歓迎もされぬだろうこの地へ踏み入って来たのだ。それが分からない貴方では無いだろう」
その訴えには有無を言わせぬ何かが確かに宿っていた。ガレシウスすら見知らぬ義弟の素振りに瞠目する。
彼とて心から歓迎している訳では無いだろうに。それでも、アルガスは誠実だった。
■
「……祝福? そんな事に、何の意味が……」
「意味ならばある。父上、貴方には無くともこの者らにはあるんだ。以前貴方は言ったな。
我らは旗手だ、手本でなくてはならないのだと。願い、乞う者が居るならば力で以て護るのが貴族の義務だと」
切々とした言葉には燃え盛る様な感情は無く。けれど、胸を衝く様な痛みがあった。
アルガスはきっと、ジオルグを手本としてこれまで生きて来たのだ。そして遂には、研鑽の末に父親に克えた。
けれども。だとしても。彼は望んでいたのだろう。あくまでその背が誇り高く在る事を。
例え"そうではなくなってしまった"のだとしても。それでも――――諦めきれないのが、血縁と言う物だ。
「ならば何故祝ってやれない。ガレスは、義姉上は。貴方に認めて欲しかっただけだ。
ただそれだけが何故出来ない。貴方を手本にした者は、それで本当に幸せだと言えるのか。答えろ……っ!」
「もう良い、アルガス。すまなかった」
握り締めたアルガスの手にガレシウスが手を添えた。相性が悪く、仲も決して良いとは言えないが。拒まなかった。
それこそが誇りだ。貴族の、青き血の誇りだ。平民に威を示し導く者の誇り高い姿だった。
気付けばレティシアは瞳に涙を滲ませていた。叱責を受けたジオルグは、それでも無言を貫いていたが。
瞳には迷いが見えた。ならそれで満足すべきだろう。これ以上も、これ以下も。今ここで望むべき事ではない。
「お騒がせして、申し訳ありません。今日明日中には、御暇させて頂きますので」
レティシアを下げる様にしながらジークリッドがそう告げて退いた。貴族社会に於ける『中立派』は処世術の世界だ。
進むべき時、退くべき時を見極めなければ死に直結する。その匙加減を、『慈涙』は見誤らない。
そうして、ガレシウスとアルガスが廊下へ出ると。漸く扉が閉じられる。黒槍の義兄弟が深く、深く嘆息を零した。
「……だから言っただろう、本気か? と」
「はい……いいえ。それでも、やっぱり来て良かったと思います」
「心が鋼鉄で出来ているのか……?」
「いえ、でも……義姉上って呼んで頂けましたから」
何だか良い笑顔で。とても嬉しそうにそう応じたレティシアを一瞥し。
アルガスは珍しく隣で処置無し……と言った虚無の表情を浮かべるガレシウスを見遣ってこう呟いた。
「冒険者での経験が何か厄介な方向に作用していないか」
「聞かなかった事にしましょう。自分は何も聞きませんでした」
「自分の妻の手綱位握っておけよ本当に。多分気付くととんでもない事になってるぞお前」
シャルガネに曰く、雨降って地固まるではないが。何事にも良い側面と悪い側面はあるものだ。
こうしてアルガスとガレシウスの間に残り続けた深い蟠りは、この日を境に少しだけ晴れたようだった。
●憧れと言う名の思い出
青い盛装を若干着崩したレティシアが、椅子に寄りかかりながらくすくすと笑う。
彼女一人だけがご機嫌であり、それ以外の男性3名は愚か給仕係の侍女らすらもが困惑で視線を泳がせる。
「――――なのれ、あるがすさまはぁすごいかたなのれす……!」
「すまん……本当にすまん……まさか食前酒ごときで此処まで酔うとは思わなかったんだ……」
「いや、良いんだよアルガス君。僕も義妹が此処まで酒に弱いままだとは思っていなかったから。
と言うか……この有り様でどうやって冒険者稼業を務めあげていたんだろう……本当に」
「ジークリッド殿、事は一刻を争います。急いで寝室に運んでは」
そうして漸くやって来た晩餐会のこと。緊張と慣れぬ土地柄と言う事もあり、レティシアは喉が渇いていた。
貴族の食事には食前酒が出されることが珍しくはない。普段であれば、きっと彼女も重々警戒していたろう。
けれど、心身共の疲れと出された食前酒がアルガスの好みに合わせ香りが弱めの果実酒だった事もあり。
漂った淡く甘い葡萄の芳香から彼女はそれを“果実水”だと判断し一気に煽った。制止の暇も無かった。
尚、武門に於ける酒とは気付けの意味合いも込められる為、出される酒は量こそ少ないが……弱いと言っても割と強い。
此度は女性客を含むという事で、それでも更に大いに手加減されてはいたが。にも関わらず――――こうなった。
「そうでした。ねー、あるがすさまぁ……めかけにこいってあれ、ほんきでしたかぁ……?」
「な! ば! 本気も何も例え話でしか無かったろう!? むしろ何で今此処でそ――――」
「――――……おや。おやおやおやおやアルガス君。ちょっと詳しく聞かせて貰えるかな」
「自分も、どういった経緯でそんな話になったのか俄然興味が湧いてきましたね――――?」
左右をジークリッドとガレシウスが固めていた。レティシアの看護には給仕係の侍女らが既に向かっている。
アルガスには逃げ場が無かった。何が性質が悪いかと言えば冗談でも確かにそんな発言があったのが最悪だ。
経緯まで説明すれば直ぐに誤解は解けると言うのに、幾ら何でも抽出の仕方に悪意がある。
これが良く見知ったレティシアとガレシウスでなければ、悪質な美人局の可能性を考慮に入れる所だが。
選りにも選ってそういった色事とは一番無縁そうな2人である。幾ら何でもそんな馬鹿げた策謀も無い。
「いやいやいやいや、レティシア嬢! 正気に戻れお前治療師だろう!? 誤解を、誤解だって……!」
「ふふ、うふふ……ですから、あるがすさまはですねぇ、がくえんのせんきょでもとてもがんばっていて……
あれ。なんであるがすさまたくさんいらっしゃるんです……? おひとりでないとみながこまります……ふふふふふ」
「さてはこいつ聞いてないな――――……!?」
義兄2人に引き摺られていくアルガスが食堂からフェードアウトしても尚。
レティシアは兄弟仲に難のある2人をフォローする為にアルガスの武勇伝を語り続けたものの。
それに面白そうに耳を傾けるのは『黒槍』に属する侍女達ばかりであり、当のガレシウスやジークリッド。
あまつさえ一番尊敬の気持ちを伝えたかったアルガスは、屋敷の深淵へと消えていった後なのだった。
尚、この一件を通して『黒槍』の調理場には『慈涙』の令嬢には決して酒品の類を供さない事。
と言う注意書きが足されることとなった。何でも領主直々の命令であったのだと言う。
■
――――目が醒めると。何故か客室に運び込まれていた。
酒がそれなりに強かった所為だろう。晩餐に入ってからこれまで、自分が何を口走り何をしていたか全く覚えがない。
ただ、何故かアルガスが沢山居た気がすることと、とても楽しかった印象だけが残っている。
もしアルガスが沢山居るのだとしたら、1人くらい持ち帰って貴族の心構えを一から教えて貰うのだけれど。
何処かふわふわした頭でそんな事を考えていると、部屋の外からノックの音。
過剰に規則正しく同じ拍子で叩かれるそれが、愛する婚約者の物である事はレティシアにはすぐに分かる。
「どうぞ」
「失礼します。酔いは醒めましたか? 水を持って来たのですが」
「……ガレシウス様、今は2人きりです」
「……、……。水を持って来た。調子はどうだ」
寝台に腰掛けたガレシウスの手元から水差しを受け取り、酒杯に注いで喉を潤す。
言われてみればとても喉が渇いていた。何であれば少しばかりお腹もすいていたけれど。
それは黙ったままに。すぐ傍に居るガレシウスの正装の袖を引く。
それは彼女なりに分かり易く意識している。甘やかして欲しい時の合図だ。
道中の後半戦は義兄が付きっきりだったし、今日もこの後いつ2人きりになれるかも分からない。
婚前交渉厳禁……である以上、客室も当たり前に男女別々である。
「レティシアは、アルガスとは仲が良いみたいだな」
「ガレシウス様は……やっぱり、アルガス様が苦手なのでしょうか」
凭れ掛かる様に身を寄せながら問うと。ガレシウスは迷うように視線を上向けながら呟く。
其処には幾許かの複雑な思いと。それ以上に――――罪悪感めいた後ろめたさが滲んでいた。
「苦手、とは多分違う。どちらかと言うと……俺に、彼は眩し過ぎたのだろうと思う。
彼は、自分の立場を揺るがす、縁もゆかりも無い、義兄とも呼べない異物を。それでも受け入れ家族として扱った」
血縁上は従兄弟。関係上は義兄。突然降って湧いたそんな親族を快く受け入れる家などそうはないだろう。
貴族であれば尚更に。元々並び立つ2人の後継者候補などと言うものは、家門を乱す凶兆として厭われる傾向にある。
両者が互いに互いを尊重し切磋琢磨すれば良いが、人間と言うのはそれほど高尚には出来ていない。
疎ましかったろう。厭わしかったろう。だがアルガスは彼を義兄として扱った――――彼が家を棄て逃げ出すまでは。
「……俺にはその気高さが理解不能な物として映った。不気味だった。だから距離を置いた。
それがお互いの為だと思っていた。……もしかすると。それこそがアルガスへの裏切りだったのかもしれない」
もしかすると、分かり合えたのかもしれない。お互いにもっと上手にやれたなら、家族になれたかもしれないと。
今となってはそう思う。それが遅すぎた気付きだと、理解出来たのはもっと大人になってからだった。
「遅くなんて、無いと思いますよ」
「そうであれば、どんなに良かったろうな」
抱きしめる様に回された腕は鍛え上げられていて、その力が誰かを護る為に研がれたのだと言う事を知っている。
知っているけれど、この人は何でも出来るようでいて失敗も多い。本当は、多分不器用な人なのだと思う。
だから護りたいのだ。人は一人ではなかなか幸せにはなれないから。一番近い筈の自分が、一番見えないのだから。
腕を引き寄せぎゅっと抱きしめると。良く懐いた動物がするように、大好きな人の胸に頬を擦り付ける。
「大丈夫です。意外と当たるんですよ、私の予測も」
過去の追憶に沈み込んでいたガレシウスは気付かなかったけれど、レティシアだけは気付いていた。
部屋の扉は蝶番が緩んでいたのか僅かに開いていたことに。誰かの影がそっと遠ざかって行ったことに。
だからきっと、遅過ぎるなんてことはない。彼女もまた、心からそうであって欲しいと望んでいるのだから。
■
翌朝。朝食の席にガレシウスと2人で座って談笑していると。
昨晩全力でアルガスに絡みに行ったらしきジークリッドとアルガスが土気色した顔でやって来た。
「この馬鹿義兄本当何とかしろよレティシア嬢。何時か面白半分で誰か殺すぞ……」
「流石に僕も引き際は弁えているよアルガス君。だからほら、2人共気絶はしなかったろう……?」
「しなかったろう? じゃないんだよジークリッド。翌日に残ったら諸に政務に響く……うぶ」
口元を抑えたアルガスが食堂を横断して室外へ去る。これはもう今日は駄目かもしれないですね……?
と、至って健康なレティシアは朗らかな気分で義兄の蛮行を見送った。
どうも遠慮が見え隠れするガレシウスより、アルガスの方がジークリッドとの相性は良かった様で。
たった1日で随分仲良くなった物だと感心はするけれど。それでも付き合いの長さでは負けていませんし。
と、妙な対抗心を抱きつつ口元を手巾で拭う。――――と、丁度アルガスが出て行った扉からであった。
昨日、半ば決裂に近い形で別れた先代、ジオルグが顔を出したのは。
緊張感に空気がひりつく。給仕係の侍従が思わず手を止めるも、ジオルグは室内をじろりと一瞥し。
アルガスの姿が見えないと分かると、踵を返す様にして廊下の方を向き直った。
ただ、朝食に来ただけだったのか。喉でも乾いて水差しでも取りに来たのか――――と。
一瞬空気が和らいだその時だ。その声はやはり低く、深く、けれど決して大きな声ではなかった。
「……あれで尚懲りないのであれば……婚姻が成った後にでも、また来るがいい」
大きな声ではなかったけれど。それでも、レティシアにも。ガレシウスにも。勿論ジークリッドにも。
彼の老人の声はきちんと届いていたのだから。3人は顔を見合わせると、忍ぶように笑って応じた。
「「「――――必ず!」」」
世界には、取り返しの付かない事など幾らもある。致命的な、決定的な、運命が切り替わってしまうような。
そんな失敗もあり、成功もある。いずれにせよ、無かった事にも、やり直すことも、出来ない。
けれど、それはまるで神が定めた賽子の目の様な。そんな理不尽が降り掛かる事があるのと同じくらい。
取り返せることも、やはりあるのだ。それは断じて致命的でも、決定的でも、運命的でもない。
ただ頑張り続けると言う。そんな、誰にでも出来る一途な想いが時に、誰かを救う事が――――ある。
それは頑固で捻くれた、けれど何処かうら寂しい老人の。その凝り固まった心であったりもするのだろう。
「……意外と当たるでしょう?」
言って笑ったレティシアに。これは勝てないと言うようにガレシウスは黙って肩を竦めた。
そう。互いに歩み寄る意思さえあれば、取り返しがつくこともまた。案外幾らでも転がっている。
「今日は良い日になりそうだね」
天高くして気清し。それは蒼穹が見事に晴れ渡り、陽射しの盛る春の終わりの事。
2人の結婚を間近に控えた――――とある、『王国』領での記録である。
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メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。