【DA】リーンエスの耳

ナハティガル=ラー/ ゲルダ・クライン
アルベイル・ライゼンナクト

『ノベルタイトル:夢の迷い路、未来の道標』弓月 蒼
●価値の相違と認知の齟齬

 物の見方、と言うのは一面的ではない。それは善悪と言い換えても良い。
 例えば円筒を例に挙げよう。全方位から見れば真実は一目瞭然。だが、一面だけならば。

 ある者はそれを長方形だと言い、ある者はそれを楕円だと言うだろう。
 ある者は円だと言うし、またある者は線だと言う。どれもが正しく、間違っている。

 一面を切り出しただけでは正解は見えてこないが、ヒトはそう何もかも俯瞰では見られない。
 個人に見える世界と言うのは得てして一面的だ。問題はそれをどう評するかの側にある。

 要してしまえばそれは価値観の問題であり、大抵の認識齟齬の元凶とは正に“それ”だ。
 ズレ。乖離。すれ違い。表現は多種多様にあるが、それは結局無理解の産物と言う他はない。

 例えば、誰かが貴いと評する物が、誰かにとって唾棄すべき害悪であり。
 例えば誰かにとって切なる願いが。別の誰かにとっては、他愛も無い理想でしかない様に。

 事実はいつも一つではない。真だと信ずる者の数だけ――――存在し得る。

 ■

『王国』南方、ライゼンナクト侯爵領――――領都、『湖都』ラヴェルギア。
 ――――11月某日、ライゼンナクト本邸内応接室。掛け時計が午後を告げるため1度、鳴る。

 同じ部屋の中、同じ座椅子(ソファー)の端と端に座り2人の男女がそっぽを向き合っていた。
 この光景から、両者が喧嘩乃至揉め事の類を抱えていると察せない人間は余程鈍いと言えよう。

 幸い、此度の観測者A。『黒鋼竜』アルベイル・ライゼンナクトはそうではなかった訳だが。
 縦しんばそうではなかったところで、実の所事態はそれ以上にも以下にも進展しない。

 シャルガネに曰く、犬も喰わないと言う奴だ。王国風に言うならば貴族の食べ残し、であろうか。
 その価値は当人だけにしか分からず、軽々しく手を出しても碌な事にはならない。

 さて、しかし冒険者間の力関係の機微には流石に縁遠いアルベイルだがこの両名。
 即ち『竜の半身』ナハティガル=ラーと『天剣』ゲルダ・クラインについては聊か事情が異なる。

『竜』がいずれ自らの臣下に召し抱えよう打診する以上、事前には徹底した背景監査が入っている。
 そうでなくともかつて『王都』冒険者ギルド前の大通りで大立ち回りを演じた両名である。

 2人が互いを想い合っているのだろうこと。その関係性は『竜』に益する物であること。
 そしてこういった恋愛感情と密接に結び付く話が得てして外様には理解し難い拗れ方をすること。

 その何れもをアルベイルは事前知識として確かに有していた。
 勿論、経験を伴わない知識とは文字通り――解決とも改善とも程遠い――ただの知識である。

「ラー、クライン。卿らに本邸滞在を赦したのは当面の事態の急変に備える為であってだな……」

 独自判断独自行動を全面的に認めているナハティガルとは異なり、ゲルダは元々生真面目な性質だ。
 本来この様な苦言は必要ない。事実今も何処となく居心地悪げな視線を向けては、来ている。

 彼は一つ嘆息を落とした。今後、『竜』の未来を共に切り拓く戦友が諸共これでは話にならない。
 憂慮すべき事態であり、解消すべき問題であり、将来の主として早急の対応は必然と言えた。

 呼び鈴を鳴らすと、側近の一人である老家令――此度家令長に昇進した――がやって来る。
 幸い、『竜』の人材は潤沢だ。彼に今日一日の執務処理を全て預けると、同家領主。

 即ち、現王国貴族『貴族派』の盟主は、いよいよ腰を据えて両名の意見抽出に着手する。
 ――――そして結論から言えば。それは酷く浅くも根の深い、厄介極まる事態の始まりだった。

 ■

 時は、『王都』で聖剣が抜かれ“竜喰らい”の封印が解けるより少し前。
 後に“ライゼンナクトの乱”と呼ばれる王国貴族史の一大事件が表出する、その直前に遡る。

 当時『王都』冒険者ギルドでは、『黒の後継』アルベイルより依頼を受けた者。
 即ち、先代『黒竜公』ダミアン討伐の支援を承諾した冒険者達が集められていた。

 一定以上の権力者が冒険者ギルドを利用する場合、その相談内容には秘匿性が高い物が多く。
 それら情報を外部から遮断する手段として、ギルド奥に用意された個室を任意で利用しても良い。

 この仕事はその極端な一例と言えたが。概ね方針の固まりつつあったそんな相談の最終盤。
 もし依頼人による『黒竜公』討伐が不可能であったら。と、話はそんな変遷を辿っていた。

「もしも『竜の仔(アルベイル)』が『竜(ダミアン)』を討ち果たせなかった場合……俺が斬る」

 彼女にナハティガルがそう断言してのけた時。ゲルダは一旦それを納得と共に受け入れた。
 竜の仔と銀髪鬼の縁故は長い。その分だけ個人間の結び付きがあり、積み重ねた絆がある。

 であるならば、今回手を汚すのに相応しいのは“彼”以外居ないだろう――――と。
 けれど事実そうなった時、彼女は心の何処かには納得し切れない。負い目の様な物が残ってしまった。

 確かに。もし介錯を預かる機会が訪れたとしたなら。適任者はナハティガルしか居ない。
 其処までは分かっていた。理解も出来るし、止むを得ないと納得も出来る。

 けれど、であるなら自分は? 汚れ仕事は全て預けて見て見ないふりをすれば良かったのだろうか。
 だがそれで“良い”と割り切れないのがゲルダの生真面目さであり、融通の利かない所でもあった。

 その場は、とりあえずそのまま進行し。結果ナハティガルはアルベイルの決断の背を押す事となる。
 一つの事件に区切りが付き、月が明けて暫し。『竜』領内は今、混乱の真っ只中と言って良い。

 だがゲルダはその違和に引っ掛かったままだ。そして一度引っ掛かると前に進めない自分に気付く。
 何とか落し所を探ったが、どうにも遣る瀬無さが足を引く。藻掻けば藻掻くほど底無き沼は尚深く。

 “――――騎士か……なるほど。アンタにはその方が良く似合っている”

 一つの決断と共に『竜』への臣従を決めたゲルダへ、ナハティガルが納得の色と共に呟いたその台詞。
 何気ないそんな価値観の齟齬が――――結局のところ、最後の引き金を引いた。

●瑕疵の不在と過失の証明

 “――――似合っている……って何ですか?”

 “ん……? 騎士と言えば戦士の花形だ。光の下に在るアンタには良く似合うと――――”

 “それで昏い部分は。罪や咎は全て自分が担うと、そう仰るんですか?”

 “……何が言いたい。夢だったんだろう、立派な騎士になりたかったんじゃないのか”

 “見ないふり知らないふりで、汚れ仕事は全部誰かに押し付け叶えるような夢は、夢なんかじゃない!”

 “……? 騎士と名誉は不可分だ。不名誉まで背負う騎士が何処に居る。それは――――”

 “違いますっ! そう言う事を言ってるんじゃありません……!! 私は、ただ――――”

 ――――喧々囂々。正しく、喧々囂々である。だが問題は、両名どちらも間違ってはいない事だ。
 騎士に求められるのは、華だ。そんな綺麗事だけでは片付かない。それも確かに正しいが。

 一面的に、騎士とは忠義の象徴である。華が無ければ人は騎士に夢を見られない。
 そして『王国』(このくに)の封建社会とはこの、忠義と奉公で以て成立している事実がある。

 王家を規範とするのが貴族であるなら、秩序を規範とするのが騎士であると言える。
 民にとって騎士が善き者と見えるからこそ、民にとって秩序は良き物と捉えられる訳である。

 その騎士が秩序を乱したなら、その国に生きる人々にとっての秩序が乱れる。
 騎士と名誉が不可分とされる所以の1つがこれだ。秩序の守護者には誉れ貴き事が望まれる。

 が……しかし。話をより個人単位(ミクロ)に落とした場合。これは必ずしも正解とは言えない。
 何せ、いざ“騎士になる”のは騎士譚英雄譚に憧れる無邪気な少年少女ではない。

 地に足の付いた、良くも悪くも現実を知る一端の大人であり、ゲルダもまたその1人だ。
 綺麗な、名誉ある仕事だけで秩序が保たれている訳では“無い”事を嫌が応にも理解している。

 そんな、きらきらとした夢だけ見ていられる訳では無くなった個人にとって。
 “汚れ仕事を押し付けて名誉を積み重ねる騎士”と言う実態は如何にも卑怯に思える。

 少なくとも、ゲルダが追い求める“理想の騎士像”とこの“騎士の偶像”はまるっきり相容れず。
 故に“彼女の理想”を“大衆の理想”と変換して問い糾してくるナハティガルの言も受け入れ難い。

 客観的にここまで分析して、傍目八目を地で行くアルベイルは頭が痛くなって来た。
 不毛の極みである。両名とも別に頭が悪い訳では無いだろうにどうしてこうも行き違うのか。

 何せ、ゲルダがナハティガルに負い目を憶えるのは彼女の誠実さ故であり。
 ナハティガルがゲルダを気遣うのは彼の純粋さ故である。本来どちらも美徳と呼ばれる物の筈だ。

 にも拘わらず。対立し、反発し合い、平行線の極致を辿っている。
 ――――これで呆れない人間が居たらそれは聖人の類であり。アルベイルはそうではない。

 そうではない故――――彼は一計を投じる事にした。

 ■

「……では聞くが。必要な時アンタに人が斬れるのか? 老若男女赤子も問わずな」

「出来ないと思いますか。何を選んでも犠牲は伴う。血を流さず進める道なんてありません」

「それを為して尚――――自らの剣に誇りを持ち続ける事ができるのか……?」

「それは、正しくは無いかもしれません。でも自分で選んだものであれば胸を張って生きていけます。
 だから……ちゃんと背負えます、わたしだって――――!」

「――――両者そこまで。……事情はまあ、良く分かった」

 黙り込んだナハティガルとゲルダを眺め、アルベイルが頷く。
 バツの悪そうな眼差しは2つに増えたが、どちらも互いに頭を下げるには至らない。

 まあ、至らないのは止むを得ないとも言えるか。別にいずれかが間違っている訳では無い。
 大きな勘違いがあるとすれば、間違いを侵さなければ全面的に正しい訳でも無いと言う点だ。

「では先ずラー、貴公に問う。貴公は無辜の民草を斬って捨てられるか」

「……それが必要であるなら、是非も無い」

「同じことをクラインにも問おう。如何とする」

「誰かを護るということは、他の誰かを護らないということ。わたしはもう、選んだ心算です」

 瞳には決意の色がある。その意思が、ナハティガルが思うよりずっと強固であること。
 自らの決断に犠牲が伴う事など当に承知している事を、アルベイルは知っている。

 だがそれを敢えて指摘する必要はない。この両者であれば自ずと気付く事だ。
 人を見定める事。それだけを物心付く前から研ぎ澄ませて来た『竜』に躊躇いはない。

「では今一度問う。ラー、貴公は無辜の民草を殺す事を望むか」

 続いた問は、さしものナハティガルであれ一拍程の躊躇いを憶える物だった。
 彼は汚れ仕事で命を繋いで来た人間だ。が、だからと言って殺人嗜好者ではない。

 視線が刹那ゲルダの方へ向きかけ、鋼の自制心でこれを抑えると首を縦に振る。

「それが、俺以外の者の手を穢さない為の手段であるならば」

「――――同じ問をクラインに投げよう」

 今度の空白は、ナハティガルのそれより明らかに長かった。
 ゲルダもまた。その類稀な洞察眼でアルベイルと言う、自らの忠を誓う相手を見定めている。

 彼は無為な犠牲を厭い、多くの民の安寧を願う人間だが、一方で生粋の為政者だ。
 お為ごかしは通じない。その言に“真”が宿らなければ見抜かれる。

「……望みません」

 ゲルダがはっきり応じる。それを見て、何処かほっとした様にナハティガルが目を伏せた。
 けれど、其処で終わりではない。其処で終わることを――――ゲルダの夢は、赦さない。

「でも、望まなくても“出来ます”。望まないから、目を逸らしたりなんてしません。
 それがわたしの選んだ道だと、わたしの掴んだ夢だと――――そう、信じているから」

 銀髪鬼は瞬き、今代の『竜』は口元だけで笑みを描いた。
 それはかつて実の母を殺めた時、『竜の仔』が先代から求められた物の見方、価値観だ。

 世界には清流が在り、同じだけ濁流が在る。いずれか一方でしか生きられない者も居る。
 ――――だがその双方を等しく見定め泳げぬ者は――――『竜』、足り得ない。

 ナハティガルとの縁は深く、果たしてアルベイルが誰に信を置くか問えばその名は最初に挙がる。
 しかしゲルダは彼自身が見定め、背を押すに足ると見込んだ。それに応えた娘なのだ。

 彼女は既にして、『竜』の心をその身に宿している。

 ■

 何処か冷えたような空気が流れる中、アルベイルは淡々と続ける。
 双方の言い分を咀嚼した上で、理解を示すように左右交互に応じていく。

「ナハティガル=ラー。貴公の言い分も分かる。それを誤りとは言うまい。
 以前教えられたな。手を穢す事には慣れる。一度慣れれば、元通りにならない」

 その諫言を認めよう。と、アルベイルは首肯する。
 光の下に在る様に振る舞える、と言うのは一つ。類稀な才能なのだ。特異とも言える。

 ゲルダが“そう”である事に救われる人間が確かに居る。
 それは、既に手を穢したアルベイルやナハティガルには救えない。凡そ取り返しは付かない。

「ゲルダ・クライン。貴公の想いを認めよう。それもまた、一つの正しさだ。
 己が手を穢す事を厭う人間には少なくとも。手を穢さねば救えぬ者は、救えない」

 その意思を認めよう。と、アルベイルはやはりこれも首肯で応じる。
 人の想いは時に理を超越する事がある。だが、余力や余禄を残して奇跡など起きはしない。

 不可能を可能にしようと思えば、それ以外全てを切り捨てる覚悟が必要となる。
 これもまた――――一つの才能だ。前を向き続ける事。目を逸らさない事は、容易ではない。

「だが、最も大切な事は、自ら選択すると言う事だ。それだけは他人に委ねるな。
 是非など、後の世の無責任な歴史家たちに預けて構わん。忘れるな。我らは『竜』」

 痛い所を突かれた様に、ナハティガルが表情を歪める一方、ゲルダが大きく頷く。
 それは裁定であると言って良い。結論まで過剰に遠回りをしつつあった両名の迷走を糾す。

 此度、この場に行き在ったのは全くの偶然であったと言って良いが。
『竜』の当主を担う以上、未来の臣下らに相応の振る舞いを求められるのも彼以外には居ない。

「主体性の無き同胞など『竜』は求めない。我が麾下に於いて唯一人として不要だと断じよう。
 誰を生かすも、殺すも、救うも、救わぬも、己で選ぶ。まさにその決断をこそ“誇り”とせよ」

 或いは、それを傲慢と謗る者も居るだろう。だが、何時の時代もその一点だけは変わらない。
『竜』とは守護者であり裁定者である。傲慢でない『竜』など、名乗る価値は無い。

 ――――掛け時計が刻を告げるため2度、鳴る。

●竜の双翼と二人の事情

 アルベイルが場を去った後。ナハティガルとゲルダは連れ立って長い廊下を歩いていた。
『竜』の本邸は字面に何の誇張も無い大邸宅、と言って相違無い。

 2人は一時的に逗留するに当たり、無数に存在するその客室の1つを借り受けていた。
 そんな客室から応接室までですら、迷子になる程に部屋が連なっている訳だが。

 これは“公爵家主催の夜会”に対する備えであるらしい。
 現在こそ数を減らしているが、貴族派全盛の頃は王国各地から貴族達が侍従を連れ集っていた。

 それを軒並み収容するのに必要な部屋数とはどれほどか。あにはからんや、と言った所である。
 結果、手入れは行き届いているが使われない客室、が過剰に生まれた訳だが――――

「おや、“双翼”の御方々。今日はもうお休みなされますか?」

「いや。もう少し調べておきたい事が――――……うん?」

 今何か、奇怪な単語が聞こえたような……と、ナハティガルが眉を顰めると。
 奇しくも視線の大分下。ゲルダもまた、似たような表情を浮かべていた様だった。

 からからと笑う『竜』の家令長――――アルベイルから“じい”と呼ばれる初老の男には。
 “亜人(ゴブリン)”だから下に見られた、と言う様な空気感(ニュアンス)はまるでない。

 であれば、一体何の冗談だと。問い質そうとした彼の言葉を少女騎士が継ぐ。

「あの、その“双翼”と言うのは一体……」

「おやぁ。シズル様が仰っていましたよ? 銀髪の亜人(ゴブリン)様と、金髪の半人(ハーフリング)様。
 御二方は『黒鋼竜(ライゼンナクト)』の次代を担う“竜の双翼”だ――――と」

 その一瞬。ナハティガルの脳裏を積み重ねた某行商人への無茶振りの数々が過ぎって消えた。
 これは内定者である2人の逃げ道を確りと塞ぐ、かの女商人による謀略の類だろう。

 果たして彼女がそういった小細工を弄するタイプか、と言えば全然弄するタイプである。
 無償で何らかの効果が期待出来るなら躊躇など0で手を打つだろう。邪悪が過ぎる。

「……“双翼”」

 そう呟いて俯いた、ゲルダの表情は何処となしか嬉しそうに見え。
 そんな物を目の当たりにしてしまった以上、これ以上諫めるのも無粋な様に思えた。

 或いは。名に相応しくない程度の力量と思われたなら、二つ名など自然消滅する物である訳だし。
 何であれば、並び称されることによる益も――――まあ。無いではないのではないか、と。

 そんな辺りの機微も含めて読み切ったとしたなら、敏腕商人の人心掌握術恐るべしである。

(やはり、家中に入ったとしても敵に回すべきではないな……)

 アルベイルに次いで長い付き合いではあるが。ナハティガルは心中そっと決意を固める。
 そんな傍ら、ゲルダはゲルダで一つの決意を固めていた。

 ■

 応接室の、壁掛け時計が5度鳴る。もう少しすると夕食の時間だ。
 現在は先の“乱”以降の罰則として降爵を経て侯爵家を掲げている『竜』ではあるが。

 その雇用している人層は殆ど変動していない。滞在者には最高位のもてなしが徹底されている。
 そんな中に客分として居ると、生きる為の諸々は何もせずとも満たされる訳ではあるが。

 勿論それではいけないと――――ゲルダもナハティガルも、自らを律して日々を生きている。
 律さなければ堕落するに決まっている時間が、この屋敷の中では途切れることなく流れていた。

 そうして堕落し、『竜』に相応しく無くなった人間がどうなるか。そんな事は問うまでも無い。
 当たり前に“自ら選択する”ことを強いられる環境とは“選択しなければ死ぬ”環境である。

 これが『竜』の世界。『王国』と言う国家の頂点を競う、緩やかで穏やかな即死の檻だ。
 故、この時間帯。“彼”が騎士団用の鍛錬場に居る事を彼女は重々承知していた。

 敢えて遭遇を避ける為に、自身は早朝に鍛錬を済ませる様にしていたりするのだから。
 正しく案の定。ナハティガルは二本の木剣を手に、木人形相手に自らの動きを確かめていた。

 いざと言う時躊躇無く指先まで動けるかどうかは、毎日の積み重ねに掛かっている。
 その重要性を、彼は常に命を脅かされる汚泥の日々で学んでいた。

「――――ナハティガル様」

 その挙動の端々に滲む哀しさを、ゲルダは知っている。それはヒトを殺す剣だ。
 殺すことに特化し過ぎて、殺さない様にすることの方が難しい剣だ。

 彼は刃の先を止める事しか、咄嗟に手を抜く方法を知らない。峰や柄で打つ様な。
 通り一遍の正規剣術なら当たり前に学ぶ様な、不殺制圧の手段があまりにも乏しい。

 “穢れる”とは、こういう事なのだろうと、彼の剣を見る度にゲルダは想う。
 “いずれ慣れる”と言うのが間違いではないのだろうと――――苦しいほど思い知らされる。

 そんな彼の眼差しがゲルダへと向く。勿論、彼女とて先の裁定に異論がある訳では無い。
 訳では無いけれどこうも思うのだ――――それでも、解答(こたえ)は自分で出さなければならないと。

「決着を付けましょう」

 抜いた木剣は彼女の身長よりも長く、ただ一本。反りも無い。
 それは剣と言うにはあまりに単純で、武骨であり、率直に過ぎる。直剣――――否。

 ――――それは、木槍と呼ぶ方が相応しい。

 ■

 一合、二合、三合、それは数が十を超え、二十を超え、五十を超えて尚続く。
 互いに心地良い汗を流す、を優に超える運動量をこなしても、息を切らしながら終わりは来ない。

 鎧と盾を有さず、装飾品すら外したゲルダは、この戦い明確に不利を被っていた。
 装備品が武器のみで戦うなど、ナハティガルからすれば慣れたものだ。その動きには澱みがない。

 例えば、片腕を失った人間が直進歩行すら上手く出来なくなるように。
 戦い方には癖が出る。普段重装備の人間は、それに応じた体捌きに慣れていく。

 それは軽装であっても同じ事が言える。一対一の立ち合いではそういった“慣れ”が強く響く。
 にも拘わらず、何故ゲルダが未だ立っていられるかと言えば。それは“迷い”故に他ならない。

 ナハティガルの剣には“迷い”があった。それはゲルダが押し切れる程の隙ではない。
 けれどここぞという瞬間の決定打を逃す。熟達の授恵者にとってその余白は限りなく大きい。

 互いに決着を見ないまま、けれど打ち合いが百に近付いた頃。
 無理な重心移動で木槍を振り被ったゲルダの槍先が何の偶然かナハティガルの胸を突いた。

 衝撃は大きく膝だけで殺し切れない。一瞬を分割するような立ち合いで倒れるのは致命傷だ。
 ゲルダは既に地を蹴っている。追撃が来る――――その段に至って。

 ――――漸く、ナハティガルの迷いが消えた。無理に勢いを殺さず後退。
 試合場の白線ぎりぎりで体躯を直上に跳ね上げる。倒れる筈だった影を、ゲルダが見失う。

 中空で上下を反転させ空を蹴ったナハティガルの木剣が――――ゲルダの背を、打つ。
 それでも。木槍を手放さないまま自ら転がり受け身を取って、体躯を立て直す。

 けれどその足先は、試合場の境界を示す白線を完全に踏み越え外に在った。即ち、敗着である。

「……流石です。強い……ですね」

「アンタのそれは……褒められている気が微塵もしないな」

 呆れた様に溢すナハティガルに、ゲルダがくすりと笑う。最後の一撃、衝撃は殆ど殺されていた。
 試合であるから勝ちだとはいえ、もしも死合であったなら――――そんな事を考えるナハティガルに。

 真っ直ぐ、視線を向けてゲルダは問い掛ける。やっと、言いたい事が定まった。

「いままでのわたしの行動では、……信用に値しませんか」

 それは、彼女の賞賛だけではない。覚悟、信念、矜持、夢。そういった諸々を込めた問だ。
 彼女は、彼に信じて欲しかった。それはきっと――――それだけ。ただ、それだけの話。

「……ゲルダ、アンタには俺やアルベイルの決断から零れ落ちる者達。
 決して強くは無い者たちを、掬い上げる役割を担って欲しいと……そう、思っていた」

 俯き、溢れたナハティガルの言葉こそは、きっと彼の心からの本音だ。
 受け取り、納得して。それでも彼女ははっきりと首を振った。それは多分、彼女の役割ではない。

 彼の想いは貴い物だ。貴い物だと思うからこそ――――彼自身にこそ、諦めて欲しくは無かった。
 だって人はきっと、そんな他愛も無い理想を。誰にもなかなか理解されない希望を。

 それでもいつか、きっとこの手で叶えると。そう決断する事を指して――――

「だったら叶えましょうよ。ナハティガル様のその“夢”、一緒に」

 ――――――“夢”と、呼ぶのではなかったろうか。

 ――――

 ――

「爺……貴公、また何か余計な世話を焼いたな?」

「ほっほっ、何のことやら。いや、しかし若者の葛藤とは何時の時代も良きものですなあ。
 ああ、しかしシズル様がお帰りの際には、流石に何か甘い物でも差し入れねばなりませんか……」

 物陰で気配を植物同然に消した家令長を眺め、今代の『竜』(アルベイル)が苦く笑う。
『黒鋼竜(ライゼンナクト)』とは王国貴族社会の最高峰。故以て人材は潤沢と言えようが、如何せん癖が強過ぎた。

 或いは彼の“新米護衛士”2名もまた、その一角を担う者へと育つのか。前途は杳と知れないが。
 例え『竜』が血塗られた路を選ぶのだとしても、未来という目的地を描くのに希望は不可欠な塗料である。

「前途が楽しみな2人ですな、若様?」

「……だから良い加減若様は辞めろ、と言っているだろう」

 それは断じて輝かしき物でなければならない訳ではない。清濁を合わせ呑んでこその『竜』なれば。
 その途上を照らす道標(しるべ)は、いままさに。その双翼を天へと伸ばそうとしているのかもしれなかった。

assignment【DA】史実ノベル 関連特設ページ

メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
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アーカイブ生成日時 2026年08月05日 14時56分25秒 ・ world0