【DA】リーンエスの耳

ハーヴィ/ ヒルルク

『ノベルタイトル:名前の価値』真柄 葉
 エラトゥーン都市同盟にようやく春の兆しが見え始めたあの日、ずっと眠っていた一人の少女が目を覚ました。
 永い眠りから覚醒を喜んだのも束の間、少女は『イーラ』という名前以外の全ての記憶を失っていた。
 部屋に集った旧知に向け、”初めまして”とよそよそしく話しかける少女。
 その光景に、僕はどうしようもない寂しさを覚えてしまった。
 記憶喪失は一時的なもので、少女の記憶はいつか戻る。これまで重ねてきた想い出はけして失われない。
 そう思っていた。だから最初は記憶が戻ってほしいと本気で願った。
 でも彼女の記憶はけして楽しいものばかりじゃない。ううん、辛い記憶の方が多いのかもしれない。
 むしろ記憶が戻る事は彼女を不幸にするんじゃないか。今の何も知らないままでいることこそが、彼女にとって本当の幸せなんじゃないか。
 心の中で膨らんでいく葛藤に、僕は口をつぐんでしまった。
 そんな僕を他所に、仲間たちは次々に自分の考えを表明していく。
 最終的に僕は自分の答えを彼女に示せなかった。いや、僕はあの時、彼女に選択を丸投げしてしまったのだ。

 あれから時間ができる度に彼女の元を訪れているけど、あの時の葛藤は今もなくなっていない。彼女と接するたびに、何ができるのか、何をしてあげるべきなのかって、ずっと考えている。
 だけどある時、彼女は僕が心の内に抱える感情に気付いたのか、苦笑しながら言ったんだ。

「なるようになるわ」って。

 まったく、人がこんなに悩んでるのに、そんな簡単な一言で片付けないでほしい。
 確かにその一言ですっと肩の荷が下りたんだけど……その言葉がどうしようもなく”前”の君と重なって見えてしまって、別の意味で心にダメージを受けるはめになっちゃったよ。

「どうかした?」

 ハーヴィはイーラの声にはっと顔を上げる。

「ううん、何でもないよ。それにしても、この辺りもすっかり暖かくなったね」

 屋敷のすぐ傍の湖は、陽の光を反射しキラキラと輝いていた。
 季節は冬から春へ。
 肌寒かった冬の風は、すっかり春の暖かさを孕み、湖畔の新緑を優しく揺らしている。

「でも、水はまだ冷たいや」

 波打ち際にしゃがんで、静かに浜辺へ打ち寄せるさざ波に手を浸してみた。

「ねぇ、イーラも触ってみない?」

 ハーヴィは振り返り、何をしているのかとじっと見つめていたイーラに声をかける。
 イーラは「わたしも?」と自分を指さすが、ハーヴィがこくりと頷くと素直に隣に並びしゃがみこむと、そっと水に手を浸けた。

「うーん、そんなに冷たいかな?」
「あれれ、冷たくない?」
「うん、別に」
「ああ、そっか。極北出――――っとと、何でもない。君は寒さに強いんだね」
「別に気を遣わなくてもいいわよ。わたしが極北出身だから冷たさには強いって思ったんでしょ」
「……やっぱりバレた?」
「バレバレ。何度も言うけど、記憶の件は気にしないで。”なるようになる”って言ったでしょ?」
「それはそうなんだけど、やっぱり気になるっていうか……」
「はぁ……。あれから色々な人にいろんな話を聞いて、前の記憶(過去のプロフィール)もだいたい把握したけど、結局記憶は戻ってないし、戻る気配もない。だから気にしないでいいわよ」
「……そっか。そうだね。ごめん、変な気遣いした」
「うん、わかればよろしい」

 そう言って呆れたように見つめてくる彼女に、僕はどんな顔で応えたらいいのかわからなかった。
 君はなんでもないように言うけど、本当に気にしないでいいの?
 ”なるようになる”。それは確かにそうなのかもしれないけど、君は不安じゃないの?
 直接聞けばいいのかもしれないけど、あまりしつこいと彼女は嫌がるだろう。
 ハーヴィは心の中に浮かんでは消えていく疑問を押し殺し、湖に視線を戻し話題を変えることにした。

「ねぇ、イーラ。もう旅立ちの日は決めたの?」
「え? あーうん。4月に入ったら発つつもり」
「4月か。もうすぐだね。どこに行くかはもう決めたの?」
「うん、シャルガネに行こうかなって思ってる」
「ああそっか、約束したもんね。うん、きっと彼も喜ぶと思うよ」

 永い眠りから目覚めた彼女にみんなで会いに行った日、僕の仲のいい友人が彼女を故郷に誘っていた。
 あの時は突然なことだったし明確な返事はしていなかったけど、あれから彼女の中に何か心境の変化でもあったのか、結局行くことにしたみたい。
 これは彼の積極性の勝利かな。うん、僕も見習わないと。

「あ、でも4月に入ってから出るのか。ちょっと急がないと行かないと桜が散っちゃうかもね」
「えっ、見れないの?」
「うーん、見れないわけじゃないと思うけど、桜って花が咲いている期間が短いから、桜の絨毯をみたいんだったら急ぐ必要があるかなって」
「さ、桜の絨毯! なにそれ、すごそうね!」

『桜の絨毯』って単語に惹かれたのか、彼女が食いついた。
 ほんと、この辺りは全然変わっていない。
 彼女と何度か会う内に、予想が確信に変わったことがある。それはヒルルクさんであった頃の性格はやっぱり彼女本来の性格だったんだって事。今した桜の話題だって、ヒルルクさんもきっと同じ反応をしただろう。

「好奇心旺盛なのは変わらないね」
「?」

 興奮気味だった表情からきょとんと首を傾げたイーラに、ハーヴィは微笑んだ。

「うーん、そうなるとどうやって行こうか。僕はいいとしてイーラは冒険者じゃないからビッグオウムは使えないし、馬車を乗り継いでドワーフ王国を超えていくのは流石に時間がかかりすぎるから……やっぱり船かな」
「え、えっと……?」
「となると客船を手配しないといけないんだけど……うーん、この時期は、北に向かう船って満室になることが多いんだよね。今からで滑り込めるかな……あ、そういえば商会の貨物船が4月頭に北に向かうって父さんが言ってたっけ。客船に比べたら乗り心地は悪いけど……これから色々と入用になるだろうし、贅沢は言っていられないよね。利用できるものは何でも利用していかないと。よし、帰ったら確認しよう」
「ね、ねえハーヴィ!」
「え? うん、どうしたの?」
「あ、あの……旅にアドバイスくれるのはありがたいんだけど……なんだか、一緒に行く流れになってない?」
「え、そのつもりだけど?」
「な、なんで……?」
「なんでって、僕も旅に出るからだよ」
「……ええっ!?」

 当然だろと苦笑するハーヴィに、イーラは尻もちをついて驚いた。

「そんなに驚かれると若干凹むんだけど」
「わっ、ごめん!」
「いいよいいよ。君の事だから別に嫌で驚いたんじゃないと思うし」

 ハーヴィは苦笑しながら手を差し出す。
 イーラはハーヴィの手を取り立ちあがると、お尻についた砂を払った。

「ま、まぁそれは……」
「なにその曖昧な返事。もしかして嫌だった……?」
「そ、そんなことは無い。無いけど……なんで旅に出るの? あなたは冒険者……はもう廃業なんだっけ? でも、お家のお手伝いとかあるんでしょ?」
「うん、そうだね。確かにいつでも帰ってきていいとは言われているよ。でもまだ帰る気はないかな。僕が居なくても父さんが健在な内は商会が傾くようなことはないだろうし、逆に外に出て沢山の経験をして来いって言われてるしね。ほらうちって、そう言う理解はとても高いから」
「そう言う理解?」
「あっ、えっとこっちの話。まあ理由はともかく、見聞を広めるためにも旅には出るつもりだったんだ。だから、もし良かったら一緒に行かない? いくら一般的な常識は覚えてるからって、女性の一人旅は危険だし、護衛兼道案内役でいいからさ」
「ふーん」

 あまり理解できていないような彼女に思わず苦笑してしまう。
 建前上の理由は今話した通りだよ。本心は……今はまだ内緒だけどね。

「あ、でも旅をするなら、あの件もあったっけ。あっちはどうするの?」
「あっち?」
「うん、君が起きた日に団長さんに誘われたでしょ? 傭兵団に入るっていう件」
「ああ、あの件ね」

 イーラは思い出したようにポンと手を打った。

「あの時は曖昧な返事だったけど。結局どうするのか気になっててさ。もし君が入団するなら僕も入れてもらおうかと思ってるんだよね」
「え、あなたも?」
「うん。一緒に旅するのならそっちの方が都合がよさそうだし、団長さんにも個人的に誘われたしね」
「ふーん、そうなんだ」
「あれ、傭兵団に入る気はないの?」

 どうにも気のない返事を返してくるイーラに、ハーヴィは首をかしげて問いかけた。

「そうね。折角のお誘いだけど傭兵団に入るつもりは今のところないかな。でも、色々なところに行けるのならついていきたいとは思ってるわ」
「なるほどね、入団はしないけど旅には同行させてもらうって言う事か。うん、いいんじゃないかな。こんなこと言ったら団長さんには悪いけど、君が傭兵団員っていうのもちょっとイメージに合わない気がしてたから」

 そうでしょ? と胸を張るイーラに、在りし日の彼女が重なって見えた。
 きっと、誘われたのが”ヒルルクさん”でも同じ返事をしたと思う。ヒルルクさんには大切なお役目があったからってのもあるけど、それに関係なく彼女は傭兵団には入らなかったんじゃないかな。彼女は色んな意味で自由だったから。

「それで結局のところ、同行の許可はいただけますか、お嬢さん?」
「え? うーん……」

 イーラは湖を見たり空を見上げたり、うんうん唸って悩んでいる。
 そこは即断してほしいところだけど、よくよく考えれば”二人きりの旅”になる可能性もあるんだし、悩むのは当然だよね。
 だからってわけじゃないけど、少しでも紳士的なところを見せたくて、礼儀正しく貴族礼を取って誘ってみたけど……彼女には効果薄だったかな。

「まぁ、いいかな」
「ありがとう。そして、これからもよろしくね」

 そんな事を思っていたら彼女が了承してくれた。
 なんとも曖昧な返事だったけど、許可を出したのは間違いない。僕は翻意されないよう、商人らしく早々に”契約の右手”を差し出した。

●
「今日も出てきてくれないのかな。そろそろ会いたいんだよね」
「うん? 何かいるの?」

 湖の方を見つめながらイーラに話しかけたら首を傾げられた。

「ああ、そっか、そうだよね。あの子の事も覚えていないよね。えっと、イーラは驚くかもしれないんだけど、実はこの湖にはマーメイドが居るんだ」
「ええっ!?」

 予想通りの反応に思わずぷっと噴き出してしまった。

「そうだよね、驚くよね」

 むっと膨れる彼女に頭を下げてから、改めて事情を説明する。

「えっと、この湖にはとある事情で保護することになったマーメイドの少女が住んでいるんだ。話せば長くなるからその辺りの話はまた追々するけど、保護する切っ掛けを作ったのは、君……ヒルルクさんだったんだよ」
「え、そうなの?!」

 予想通りの反応に、思わずクスっと笑ってしまった。
 なにせマーメイドを含むマーマン種は基本的に人類の敵対者であって、ヒトと相容れることなんてない。それがこの世界の一般常識だし、イーラも知っているだろう。
 そんな危険な種族を記憶を失う前の人格とはいえ、自分が保護したなんて知らされれば、驚くのは無理もない。しかも、こんなに近くに住んでいると聞かされては、その驚きも一層の事だろう。

「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。あの子は僕たちに危害を加えたりはしないから……たぶん」
「たぶん!?」
「うそうそ。君がいる限り、絶対にそんな事はしないよ、ローラはね」
「……ハーヴィがそう言うなら――――って、ローラ? それって、そのマーメイドの名前なの?」
「うん、僕はそう呼んでる」
「ふーん……」

 それっきりイーラは湖の方へ視線を向けてしまった。
 なんだろう、別に興味を失くしたわけじゃなさそうなのに、なんだか不思議な反応だった。

「君が呼べば出てきてくれないかな? イーラ、もしよかったら、呼んでみてくれないかな」
「え? うーん……本当に何もしない?」
「うん、そこは安心していいと思うよ。あの子、君――――ヒルルクさんに随分懐いていたから」
「そうなんだ。わかった、呼んでみるね。でも来なくても文句言わないでよ?」
「言わないよ。会えたらラッキーだなって思っておく」
「ならいいわ。それじゃ呼んでみるね」

 ようやく決心してくれたのか、イーラは湖に向かって『ローラ』と叫んだ。静かな湖畔にイーラの声の澄んだ声が響く。
 彼女の声は少しの余韻を残し、春のそよ風に溶けて消えた。

「……ダメみたいね」
「そっか、残念。君が呼べば会えると思ったんだけど」

 彼女に心配をかけまいと、おどけるように肩をすくめて見せた。
 と、表面上は平静を装っているけど、内心は結構落胆している。
 イーラ――――ヒルルクさんの声で呼びかければ、あの子は反応してくれると思っていた。だけど、結果は大失敗。一体どうやったらあの子にもう一度会えるのだろう。やっぱりヒルルクさんじゃないと――――。

「ねぇ、そのマーメイドって本当にローラって名前なの? 別の名前があるんじゃないの?」

 なんて思案していたら予想もしていなかった質問が来た。
 ローラという名前は、ローレラウラ湖で囚われのマーメイドの少女を救い出した後、冒険者仲間の一人が付けた名前だ。僕自身、いい名前だと思ったし、きっとマーメイドの少女も気に入ってくれていると思ってた。
 だけど、彼女が言う様にあの子に名前があったのだとしたら?

「マーメイドって頭がいい種族なんでしょ? 体の構造が違うから人と話ができたりはしないらしいけど、身振り手振りで伝えればコミュニケーションは可能だって」
「う、うん。そう言われているね。まあ文化が違いすぎるから、仲良くなれるかは別の話だけど」
「それは仕方がないと思う――――じゃなくて、問題は名前よ」
「うん?」
「もう一度聞くけど、あの子の名前って、本当にローラっていうの?」
「……いや、ローラっていう名前は、僕たちが勝手につけた名前だ」
「あー、やっぱり」

 得心のいった顔でうなずく彼女を見て、急に不安になった。
 もしかして僕はローラに何かとんでもないことをしていたのではないだろうか。

「僕、何かまずいことしちゃった……?」
「うーん、どうかしら。マーメイドの習慣はよくわからないから絶対そうって言えるわけじゃないけど……名前ってその人を表す特別なものよね」
「うん、そうだね」
「例えば生まれたての赤ちゃんとかペットとか、最初から名前がないのならつけてあげるのはいいと思うんだけど、元からちゃんとした名前があるのにぜんぜん別の名前で呼ばれるのって、やっぱり嫌じゃない?」

 そう言われてハッとなった。もし仮に自分が全然関係のない名前で呼ばれ続けることになったら……やっぱり、いい気はしないどころか不快でしかないと思う。
 仮にマーメイドが人類と同じ感覚を持っているのだとしたら、あの子は『ローラ』と呼ばれることを嫌がっていたのではないだろうか。あのそっけない反応は無言の拒否だったのではないだろうか……。

「ねぇ、もう一つ確認なんだけど、前のわたしってその子の事をローラって呼んでたの?」
「え? ……たしか、君は――――」

 思い悩むハーヴィにイーラが問いかける。ハーヴィは思考を切り替えて、ヒルルクがマーメイドの少女と接している時のことを思い出してみた。

 二人が一緒にいる場面に立ち会ったことは何度もあった。
 湖の暗礁地帯で少女を救い出した時。
 ローレラウラの湖畔でかくまっていた時。
 同盟領と帝国領の国境の山脈に潜んでいた時。
 そして、この場所へと移ってきた後――――。

「……呼んで、ないかも」

 どれだけ思い出しても、ヒルルクがマーメイドの少女の事を『ローラ』と呼んでいた記憶はなかった。

「やっぱりね」
「えっ、もしかしてヒルルクさんはそれが分かっててローラって呼ばなかったってこと?」
「どうだろう。それは前のわたしに聞いてみないとはわからないけど、多分そうじゃないかな」

 今まで何気なく呼んでいたマーメイドの少女の名前。まさかそれが少女の不興を買っている可能性があるなんて思いもしなかった。

「……どうやったら謝れるかな」
「うーん、前のわたしはどうやってその子と会ってたの? 何か呼ぶ方法とかないの?」
「それはヒルルクさんも分からないって言ってた。懐いていたのは確かだと思うんだけど……」
「そうなんだ。うーん、どうすればいいのかしら。潜って探すわけにもいかないし……」

 そんな時だった、湖から小さな水音が届いたのは。

「ロー……んぐっ!」

 思わず叫びそうになったハーヴィは両手で口を塞ぎつつ立ち上がると、波打ち際まで駆けていく。

「今までごめん! 僕は君を不快にさせていたかもしれない!」

 遠くの湖面に顔を覗かせているマーメイドの少女に向かってハーヴィは叫んだ。

「僕の名前はハーヴェスタ! ハーヴェスタ・J・カークランドって言います! 今まで本当の名前を教えなくてごめん!」

 少女は顔半分を水面下に隠し、じっとこちらを見つめている。

「僕は君と仲良くなりたい! 今までずっとそう思って接してきたつもりだったんだ! でも、僕は間違っていたのかもしれない! ごめん! ほんと今は謝る事しかできないけど、これからもっと沢山君達の事を勉強するよ! そして、いつか君達の事をもっと理解でたら、改めて僕と会ってくれないかな! その時に改めて君の本当の名前を教えて欲しいんだ!」

 一生懸命叫ぶハーヴィにマーメイドの少女は応えることなく、小さな水音を立てて水底へ消えていった。

●
「ほんとに居たんだ」

 湖にわずかに残った波紋を見つめていたハーヴィの隣にイーラが立った。

「疑ってたの?」
「ちょっとだけ?」

 首をかしげるイーラに苦笑して、ハーヴィは改めて彼女に向かう。

「前の君はヒルルクっていう名前に誇りを持ってた。征竜さまにもらった名前なんだって、とても大切にしていたよ。でも、目覚めた時、君は自分の事をイーラと名乗った。僕は正直、ショックだった」
「えっと……ごめん?」
「あ、ごめん。別に責めてるとかじゃないんだ。ショックだったのは確かだけど、さっきのあの子の話で納得出来た気がする。
 君がヒルルクではなく、本当の名前(イーラ)を覚えていた理由。それは君にとって『イーラ』っていう名前こそが本当に大切な名前だったからなんだね」
「……そうね、そうかもしれない。
 前のわたしにとっては『ヒルルク』って名前が一番大切だったんだろうけど、今のわたしは征竜さまを知らない。あ、もちろん知識としては知ってるけど、会ったことも言葉を交わしたこともない今のわたしにとって、ヒルルクっていうのは知らない他人の名前なの」

 イーラの言う様に、征竜の巫女であった頃の彼女にとって一番大切な名前は間違いなくお役目の名であるヒルルクだっただろう。竜の里『ドラグエンダ』の住民たちも皆、彼女の事をヒルルクと呼んでいたし、征竜さまにいただいた名を名乗ることは、あの里の民にとってはとても名誉なことだとも教えてくれた。
 だから前の彼女は、『ヒルルク』という名前に誇りを持っていたし、大切にしていた。両親にもらった『イーラ』という名よりもだ。
 だけど、征竜の巫女でなくなった今の彼女にとってヒルルクという名に価値はなく、大切だとも思っていない。征竜の事を覚えていないのだから当然といえば当然なのだけど……。

「寂しい?」
「……正直に言えば少しだけね。でも、すっきりした」
「そう、それならよかった」

 イーラはにこりと微笑んでから、すっかり静まり返った湖を見つめている。
 ハーヴィはそんな彼女の横顔を見つめながら、改めて心で誓った。

 彼女を……イーラの事を何があっても必ず守る。
 旅に出れば色々なことが彼女を待っているだろう。辛い事も楽しい事も、沢山の事を彼女は経験するはずだ。
 それはとても素敵なことだと思うし、これからの彼女の為にも是非行くべきだと思う。だけど、懸念がないわけじゃない。それはもちろんイーラがヒルルクだった事だ。
 記憶を失くしてしまったとはいえ、彼女が『征竜の巫女』であったという事実は消えない。そして、その称号はけして小さなものじゃない。
 きっと彼女は旅をする先々でその名前や記憶に触れることになるだろう。もしかしたら、何かの切っ掛けで『ヒルルク』だった頃の記憶を取り戻すかもしれない。
 もし征竜の巫女としての記憶が戻った時、”彼女”は一体どうなるのか。ヒルルクになるのか、それともイーラになるのか、はたまたまったく別の誰かになってしまうのか……。
 たとえどんな結果になっても、それが幸せであれば文句はないけど、誰も幸せにならない結末がそこに待っている可能性だって0じゃない。
 もし最悪の方向に進んでしまった時、僕にできる事はあるのだろうか。何もできない可能性の方が高いかもしれない。
 だからこそ、その時まで僕に君の隣を歩かせてほしい。
 どういう未来が待っているとしても、君が人生の岐路に立った時、何かに依存するのではなく自分の足で立っていられるように、君が君らしい最良の選択ができるように、僕が導いてみせるから。
 それが僕の望み。だって僕は君が――――。

「わっ!? な、なに!?」

 突然、イーラが驚きの声を上げた。
 慌てて振り向こうとしても、身体に回された腕がそれを許さない。

「ハ、ハーヴィ……?」

 背中には大きな温もりがある。
 お腹には意外にがっちりとした腕が回されていた。

「静かに」

 耳元で囁かれる声に、イーラはびくりと身体を震わせる。

 突然こんなことをしてごめん。一緒に旅をすると決めた矢先にこんなことをしてしまったら、いきなり関係がぎくしゃくするかもしれない。
 でも、今だけは許して。これは僕が決意を固めるのに必要な”儀式”なんだ。

 僕は君が好きだ。

 好奇心旺盛で天真爛漫。ちょっと無鉄砲だけど誰にでも優しい君が好きだ。
 口に出したことはない……いや、まあ君が『ヒルルクさん』だった頃に似たようなことは言ったかもしれないけど、今の君を見て改めてそう感じたよ。
 最初は記憶を失くした君がどう変わってしまうのか不安だったけど、君の本質は何も変わっていなかったね。
 君(イーラ)はやっぱりきみ(ヒルルクさん)なんだ。
 例え名前が違っても、全てを忘れてしまっても、なにも変わっていない。
 君は僕の好きな女の子のままだ。
 僕はそれが何よりも嬉しいよ。
 だから僕も決意を固めた。

「もう我慢しないって」
「え?」

 今までは他の人に遠慮してこういう事は控えていたんだけど、それじゃダメだってわかったから。

「……はい、取れたよ。お腹に虫がついてた」
「へ?」
「さぁ森にお帰り。もう”イタズラ”したらダメだよ!」

 ぽかんと口を開けるイーラから離れたハーヴィは波打ち際へ立つと、拳を大きく振りかぶり湖に向けて投げた。

「え、なに、どこどこ?」

 投げると同時に開いた拳から『虫』が飛び立つ――――事はなく、ハーヴィの腕は虚しく空を切ったように見える。

「あれ、見えない? おっきな『虫』だったよ」

 そう言って空を指さすハーヴィに、イーラも空を見上げ飛んでいったらしい『虫』を探すが――――。

「何もいないじゃない。もしかしてからかったの?」
「そんなことするわけないじゃないか。確かにいたよ、悪い虫が」
「どこに?」
「もう飛んで行っちゃった」
「ほんとに?」
「疑り深いなぁ。ま、正確に言えばまだついているんだけど」
「ええっ!? どこどこ!?」

 慌てて自分についた『虫』を探すイーラ。

「大丈夫だよ、今は一先ずね。でも、君についた『虫』は払っておかないと大変なことになるから、これからも定期的に”虫の駆除”はしていくかも」
「……はぇ? なになに、どういう事?」
「別に大したことじゃないよ、ただの宣戦布告だから」
「……は?」

 再びぽかんと口を開けるイーラがおかしくて、思わず吹き出してしまった。
 それが彼女の気に障ったのか、ムッとする気配が伝わってきて慌てて頭を下げる。

 ――――ありがとう。

 まだ何も始まっていないのに感謝を伝えるのは変かもしれないから、心の中で言わせてほしい。
 帰ってきてくれて、ありがとう。
 変わらずにいてくれて、ありがとう。
 また僕と出会ってくれて、ありがとう。

「……はぁ、何だったのよ結局」
「だから旅立つ準備だよ、僕のね」
「は? また訳のわからないこと言って、わたしをからかってるでしょう」
「だからからかってないって。ほら、そろそろ行こう。旅立つのなら入念に準備をしないとね。忙しくなるよ!」
「わわっ!? ちょっと、引っ張らないでってば!!」

 遠ざかっていく”騒音”を、湖面に浮かんだ小さな顔がじっと見つめていた――――。

assignment【DA】史実ノベル 関連特設ページ

メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
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アーカイブ生成日時 2026年08月05日 14時56分25秒 ・ world0