【DA】リーンエスの耳
ゲルダ・クライン/
ナハティガル=ラー
アルベイル・ライゼンナクト
『ノベルタイトル:混線即興螺旋組曲』弓月 蒼
●主従の会話、或いは混迷の始まり
『黒鋼竜』ライゼンナクト。かつては『王国』に座す黒の公爵家と呼び称された名家。
ライゼンナクトの乱、と呼ばれる一大事件を通して降爵の憂き目に合おうとも。
家名は歴史に深く、永く、未だ薄れぬ恐怖と共に強く刻まれている。貴族派の覇王、王国の『竜』。
王国南方に位置するその所領のほぼ中央。古く砂漠のオアシスと呼ばれた街、『湖都』ラヴェルギア。
同都市のやや北よりに位置している城砦じみた屋敷こそが『黒鋼竜』の本拠地、竜館本邸である。
そんな中、丁寧に磨かれた黒曜石じみた廊下を歩き、外套を靡かせて歩くのは小柄な影。
一見したならば迷い込んだ童女であるかと思われる程の背丈だが、その装束が彼女の地位を。
そして同家内でも一目置かれる異名をも重ねて証明する。黒鋼竜附護衛士『天剣』ゲルダ・クライン。
その拳が、主の執務室の扉を規則的に三度叩く。
「入れ」
然して応じは淡々と。そして速やかに果たされる。扉を押し開き一歩踏み入った室内は静謐そのもの。
ただ執務机の上を走らせる羽根ペンの音だけが響く。その赤い瞳は書類をなぞる動きを一時も止める事は無く。
彼の投じた構想への現在の進行状況と、王家への問い合わせの結果を纏めた書類が着々と生成されて行く。
『黒鋼竜』アルベイル・ライゼンナクトは勤勉であり、勤勉である以上に厳格だ。
誰よりも自分自身に怠惰を許容しないその性質は、こういった事業の場に於いて遺憾無く発揮される。
とは言えそれは暴君である事を意味しない。彼は自らが完璧で無い事を理解している。
ただ正しいだけであったなら、これほど多くの人を従える事は叶わない。
最近、ゲルダはそれを実感として理解出来て来ていた。正義と言うのは酷く流動的だ。一義ではない。
かつてアルベイルの先代、ダミアンは恐怖で以て人を従えた。それも、決して間違いではない。
抑えつけられ従う他ないと思わされる事は、幸福だ。全責任を支配者に押し付けられる身は、気楽なのだ。
アルベイルはそうではない。対話と相互理解を是とする彼は決して正義を標榜しない。
何時でも“より良い”道を探ろうとする。だからこそ、彼女は彼に忠を捧げる事を厭わなかったのだろう。
「少し、お話を聞いて頂いても宜しいでしょうか」
「構わん。場が必要か」
「いえ、出来れば少しだけお時間を頂ければ」
「了解した。少し待て」
一見事務的とも思えるやり取りも、打てば響くと言う応答で為されれば自然と慣れる。
座椅子に座り待つ事1分かそこら。サインを終えた主の視線がゲルダへと向いた。
執務机に備えられた呼び鈴が鳴ると、見た目は未だ初老と呼ぶには少し若い執事長がやって来る。
室内にゲルダの姿を認めても然程驚く事は無く。アルベイルから書類を手渡され部屋を辞す。
黒鋼竜附護衛士とは『竜』侯直下の専属騎士である。その本懐は第一に主の身の安全を確保する事に在る。
その職分を満たす限り領内の何処に居ても許容される。これは騎士職としては極めて例外的な特権だ。
「待たせた。話を聞こう」
「はい。ええと……話せば長くなりそうなのですが」
「ああ、ラーの事か」
「――――っ!?」
「ゲルダ・クライン。貴公は感情を隠すのが上手い。が、あれはそうではない。
自覚はともあれな。人と人との関係とは単一ではなく、あくまで俯瞰して見る物だ」
淡々と告げられた事実に、戦慄を余儀なくされるゲルダに。
アルベイルが少し考えた仕草の後、立ち上がると壁際の戸棚へと向かう。
取り出した小箱を座椅子の前の長机に置くと、自らも対面に腰を下ろした。
「『渡り鳥』の同盟土産だ、処分を手伝うが良い」
「……はい」
小箱に入れられたやたら甘い薄焼きの菓子を食みながら、ゲルダはぽつぽつ語り始める。
■
日課の鍛錬を経て、精鋭たる黒鋼騎士の若手相手に指導の真似事などもこなす。
指揮官である四将の一角が失われた事で、『竜』本邸では騎士団の業務の幾らかが溢れ気味だ。
基本『学園』が休みの間、竜侯は邸内に居る為、これと言った定型業務を持たない黒鋼竜附護衛士。
その一角である『竜の半身』ナハティガル・ラーはそういった“武芸”に類する業務。
特に実践訓練を自主的に消化する事で自らの鍛錬をも兼ねていた。
趣味と実益を兼ねて……ではないが。少なくとも、思いついた当初は名案だなどと考えた物だ。
(まだだ。まだ足りない……いや、俺には足りない物が多過ぎる)
しかし、その動機部分にナハティガルの中の焦りは関係が無かった、と言えば嘘になる。
いざ『竜』の護衛士という特別な立場を得て、竜館本邸に個人用の私室を与えられてみても。
……いや、だからこそ、か。自らの力量不足に端を発する焦燥は日増しに募っていった。
例えば時折訪問にやって来る『竜』の三大商会が一角の長、『渡り鳥』の護衛『六王剣』斬鉄。
或いは同じく竜館本邸に私室を持つ『黒鋼騎士団』が長『鋼竜将』オーラン。
同僚であるゲルダもそうだ。身の回りだけでも、明らかに群を抜いて強い授恵者など幾らでも居る。
勿論、ナハティガルとて腕に憶えはあるが。では彼らと真っ向雌雄を決したとして勝てると思えるか。
この程度の問に即応出来ない人間に、果たして。『竜』の半身を名乗るような価値が存在するのか。
そんな自問自答に苛まれつつも。彼は自らに課せられた職務を極力忠実にこなす事で一時的な平穏を。
即ち、ある種の思考停止と言う安息を得る事には成功していた。勿論、それで何も問題は片付かない。
しかしこの問題はあくまで彼の心情に基く物であり、極端な話彼以外の誰にも解決し得ない事だ。
である以上、少しずつでも消化し何処かに落とし所を見つける他はない。その着地点を探していた昨今。
普段であればそろそろ昼食時である筈なのに、食堂までやって来ないアルベイルを探し。
執務室の前にやって来た事に特に理由は無かった。強いて言えば規則運動の一環だろうか。
一番良く主を見掛ける場所、ただそれだけの話。ならばそんな偶然――――一体誰が予想するだろう。
“……あまり……ない気…………と、言う…………でしょうか”
(……。 ゲルダ、か……?)
普段であれば、盗み聞きは良くない。と当たり前の理性が働いたろう。
けれど今。彼の役割は行方の知れない主の探索であり、それ以外の目的は二の次とされていた。
それは思考停止に他ならない訳だが、当人に自覚はない。そしてゲルダは彼の同僚だった。
彼女であればアルベイルの所在を知っているかもしれないと。真っ直ぐ扉の前に近付いて行き――――
“つまり何か、好いた男に自分はそれほど好かれていない気がする、と”
凍り付いた様に、ドアノブに向けて伸ばした手が止まった。
“いえ……そこまでは。わたしも、出来るだけ隠すようにはしていますし”
“とは言え別に距離を置きたい訳でも無いのだろう?”
“それは……はい。ですから、わたしの方から少しずつでも寄り添って行けたら……と”
“悠長な事を言う。独り芝居では限界が在ろう”
伸ばした手が止まったまま握られ。ゆっくりと降りる。
声の主は片やアルベイル。そしてもう片方は聞き間違えようも無く、ゲルダのそれ。
内容から察するに。ゲルダの恋愛相談をアルベイルが受けている。と言う構図に疑いはなく。
そしてどう聞いた所で。それは彼女に片想いの相手が存在すると言う証左に他ならない。
(……何だ。何故、俺は――――)
ただ分からないことが有るとすれば。何故、自分はその事実にこれほど動揺しているのか。
いや、より有体に言ったなら。何故これほど衝撃を受けているのか――――と、言う事だ。
「? ……少しお待ちを。! アルベイル様、そろそろ昼食の御時間では!?」
「ああ、もうそんな時間か。ゲルダ、供をせよ」
「はいっ!」
懐中時計を確認し、慌てて席を立ったゲルダが先導して執務室の扉を開けた時には。
その場には、最早誰かの居た痕跡など何一つ残ってはいなかった。
●迷走の行方、或いは虚妄の影法師
(何故こんな、逃げるようにしてあの場を離れてしまったのか)
自分の為に用意された私室で、寝台に身を倒しながらナハティガルは自問する。
職責を考えれば、決して適切な対応とは言い難い。いや、あの場にはゲルダが居た。
発言から考えれば、ナハティガルが声を掛けずともアルベイルは必然的に昼食へ向かったろう。
つまり場に留まる理由の方が乏しい。それでは完全に盗み聞き以外の何物でもなくなってしまう。
そう考えて、何を今更と自嘲する。あれが盗み聞きでないなら、一体何だと言うのだ。
盗人猛々しいとはまさにこの事だと。思わず自己嫌悪で額を覆う他は無い。
これまで救った事も有るし、救われた事もある。叱責された事もあるし、対立した事もある。
冒険者として幾度も同じ戦場を駆け、実力と実績。そして精神性に確かな信頼を置いてもいた。
ゲルダ・クラインと言う娘の事を、まるで良く出来た妹の様に思いつつあった事は否定出来ない。
家族、と言う物と殆ど縁の無かったナハティガルにとってそれは、戸惑いそのものでしかなかった。
漸く互いにある程度適切な距離感と立ち位置を築けて来たと。そう、思っていたのだが。
まさか自分が、妹分の恋愛と言う事態にこれほど耐性が無いとは。驚きを通り越し愕然とする。
(……馬鹿か、俺は)
本当に家族の様に思うのであれば。必要なら助力し、応援してやるべき物ではないのか。
いや、とは言え年頃の異性だ。知られる事そのものが恥であり、侮辱でないとどうして断言出来よう。
ナハティガルには指針が無い。何を、どうするべきか全く何も参考に出来ない。
何より。考えれば考えるほど“自分は何の力にもなれないのではないか”と言う想いが募って行く。
(――――だからゲルダは、俺ではなくアルベイルを頼ったのではないか)
その推測は思う以上に腑に落ちた。ゲルダは聡い。特に、対人関係の目利きは相当な物だ。
問題解決にナハティガルの方が有効だと思ったなら、相談相手は自分であったに違いない。
だがそうではなかった。それはつまり、事実として“頼りにならない”と言う事に違いない。
思い当たる節なら幾らでもあった。適切な助言が投げられる気など微塵もしない。
何せ。又聞きの身ですらこれほど醜態を晒しているのだ。ゲルダの見立ては恐らく正しい。
正しくないのは、その正確な見立てに対して衝撃を受けている自分自身の方だ。
「この体たらくの、一体何処が『竜』を名乗るに相応しいと」
脳裏を過ぎるのは、かつて巨大な魔獣を前に彼女を担いで駆け回った記憶だった。
あの時、仲間の多くが傷付き倒れる中ナハティガルは何一つ報いる事が適わなかった。無力だった。
以前ならそうではなかった。頼る者は己しか無く。ただ個を研ぎ澄まさなければ死んでいた。
生きる為に使える手段ならば何でも使った。清くも正しくも無かったが、強く在る事は出来た。
(……弱くなった)
兼ねてより抱いていた焦燥感と。正体不明の動揺が自然と結び付いていた。
自分は。ナハティガル=ラーは弱くなった。強くも無い騎士になど何の存在意義も無い。
『王国』では最底辺種の亜人が、力までも失ってしまったら。
いざ竜侯が窮地に陥った時。そんな無価値な存在が本当に奴を護れるのだろうか。
結論を出すのが恐ろしく。無意識に。無自覚に先延ばしにし続けていた問に答えが出そうだった。
これではアルベイルに覚悟を問うまでも無い。今のナハティガルはその隣に立ち続けられるか。
――――不可能だ。
■
「随分と、突然の申し出だな。理由を聞こう」
「俺なりに熟考し、出した結論だ。今の俺ではアンタを護れない。隣に立つべき資格が無い」
「ラー、誰が側近に相応しいか。それを決めるのは貴公ではない。俺だ」
夜。竜館本邸、謁見の間。段上に座すアルベイルの言に、膝を付いたナハティガルが応じた。
突然の申し出でありながらも『黒鋼竜』に動揺の色は見られない。それに僅か安堵する。
未練は少ない方が良い。引き留められたなら、弱い自分はまた揺らぐ事が容易に想像出来た。
その点常に淡々と応じるアルベイルとの対話は、心的負担が最小限で済む。
「『竜』に弱卒は不要。違うか」
「是非もない。では貴公は自らを弱卒であると定義する訳か」
「そうだ。俺は弱い。それを思い知らされた。自らを研ぎ直すまで暇を貰いたい」
勿論。暇、とは文字通りではない。余程家に対する貢献厚い重鎮などで在ればともかくも。
つい先日正式に臣従を決めたばかりの若輩が、自分勝手にこの様な申し出をすればどうなるか。
『竜』直下に置かれる人間には並々ならぬ才能と実力。そして実績が求められるが。
それは決して立場を担保しない。ナハティガルとて重々承知している。承知の上での決断だった。
「帰った時、未だ貴公の席が有ると思うか」
「構わない。無ければ実力で奪う」
両目を閉じたアルベイルが暫く黙考する。その静寂を、ナハティガルはじっと耐えた。
たっぷり間を置き、嘆息が零れる。決意は固い、と言う点はこれで十分伝わった筈だ。
しかし次に瞳が開いた時。その眼差しには割とはっきりと呆れの色が浮かんでいた。
「確認するが、その意思はゲルダ・クラインとは無関係か」
「……、……」
無情な沈黙が落ちた。勿論、欠片も無関係ではない。
全く無関係ではないが、それをこの場で答えるのは流石のナハティガルにも憚られる。
「俺個人の問題だ」
「騎士が主へ私的な要因で虚偽を告げる事は、『竜』では重罪に相当する」
「虚偽ではない! 本当に俺個人の――――」
「――――で、あれば。当人の前でも同じ事が言える筈だな」
アルベイルの手元で黒い鈴が鳴る。特に高い音を響かせるそれは、護衛士に緊急招集を要請する物。
邸宅内に滞在しているのであれば、何を置いても駆けつけることを義務付けられていた。
そしてゲルダの決断は速い。外套一枚羽織っただけの寝衣姿で、剣を携え謁見の間へと突入する。
「御前に馳せ参じましたっ! 何事で――――……え」
呆気に取られたゲルダを、2対4つの瞳が種類の異なる困惑を滲ませ見詰めていた。
「――――……えっ!?」
これが、迷走でないとしたら一体何と呼んだら良いのだろうか。
●混沌の坩堝、或いは犬も喰わない喧々囂々
「何で、ナハティガル様が暇を頂く何てお話に……!?」
「今の俺では、竜侯を護れない。ゲルダも、俺の様な者が同僚では頼ることも出来んだろう」
「ですからっ! 何でそんなこと――――……あれ……」
完全に、我関せず。となっているアルベイルを他所に。
自分を殺して応じるナハティガルに、ゲルダが一方的に疑問をぶつける構図が続く。
それもその筈だ。彼女からすればナハティガルの決断は全く以て意味不明な青天の霹靂である。
2人で『竜』を支えて行こうと思っていた矢先、理由も分からず梯子を外されたに等しい。
一瞬。激昂にも似た感情が胸を衝いた事は否定出来ない。けれど彼女の眼はその違和を見逃さない。
ナハティガルの言は何処かおかしかった。その態度から汲み取れるのは、罪悪感にも似たある種の拒絶。
それに何だろう。自己嫌悪、或いは自己不信だろうか。一見冷静を装っているけれど。
今のナハティガルは何か、一人で立つ為にとても大切な軸がぐらついてる様に見えた。
「何が、そんなに不安なんですか」
ぽつ、と。溢してからはたと、失言に気付く。『学園』であれば有り得なかった失態だ。
実家の中ですらきちんと制御出来ていたのだ。けれど、『竜』の居城はあまりに勝手が違い過ぎた。
彼女の主を筆頭に、彼らは誰もが個人に依って立っている者達だった。
出入りする商人も貴族も、大半は一国一城の主ばかり。騎士たちとて主家を誇りとはしても概ね同様だ。
『竜』は君臨し、時に庇護するが。あくまでその個の責任と権利を否定しない。
責を怠れば罰則が下り、権利を越えれば規制される。しかしそれらを前提として成り立つ小社会だ。
そんな中に在れば人は種族や、身分で相手を見ない。それをすれば“必ず足元を掬われる”。
自衛の為には個人を見極める必要がある。そんな空間は、ゲルダにとってとても気が楽な世界だった。
これまでずっとして来た事の延長線上だ。こんな価値観がもっと広がって行けば良い。
それがある種の“傲慢”である事に彼女は気付いていなかった。持つ者のみの自由を謳歌していた。
だから、事この場に於いて。ナハティガルが向けた眼差しに。彼女は自分の失敗を一際早く悟った。
人には“この相手には指摘されたくない事”が、ある。そんな事、ずっと分かっていたのに。
「……不安、か。そう見えるか」
「……はい、ごめんなさい」
その瞳の奥。とても深い場所には、怯えが滲んでいた。
自分はこの場に相応しく無いのではないだろうか。本当に、自分は役に立てるのだろうか。
自らが望んだ未来の為に、一歩でも前に進めているだろうか。只管足踏みしているだけではないだろうか。
これまではそうではなかった。力と結果。研鑽と実績が結び付いている限りにおいては。
初めて対面したその2つ。決して裏切らないと信じていた二本の柱の乖離と崩壊は。
ナハティガルの自己評価に大きな亀裂を入れていた。だからこそ、ゲルダの指摘はとても良く刺さった。
“不安”。即ち不信だ。実に笑える話だ。心底可笑しいのに自嘲の一つも出てこない。
そうか。逃げたかったのか。これ以上の重荷を背負う事が耐え切れず尻尾を巻いて距離を取りたかったのか。
自らを取り繕っている心算など無かったが、無かったからこそ無様だった。
理解してしまえば単純な話だ。何が『竜』か。自分は、結局負け犬でしかなかったのだ、と。
■
「好きな相手が居るのだろう」
――――傷付けた。と、その事に気を取られて過ぎていたからだろう。
ナハティガルの突然の話題の転換に付いていけず、ゲルダはぽかんと空白を返してしまった。
それを彼がどう受け取ったのかは知らない。ただ、その声音は何処か自暴自棄に似ていた。
「俺の知る限り、ゲルダ。アンタほど優秀な冒険者はそうは居ない。
『竜』の騎士としても、竜候の片腕としても。これから先、きっと上手くやっていけるだろう」
納得が在り、諦観が在った。分相応と言う言葉を、ナハティガルは良く知っている。
これまでは一方的に突き付けられ、常に反発を憶えて来たが。今はそれを漸く受け止められた。
「人の手は2つしかないと思って来たが。持つ者、と言うのはどうもそればかりでも無いらしい。
アンタであれば一人でも、理想と現実。どちらの幸福も掴めるのかもしれない。であれば、俺は――――」
「なんですか、それ」
もう、必要ないと。そう続けようとした言葉を。俯いたゲルダが遮った。
深い、地の底から湧き出る様な激情が水面下で蠢いていた。あまり感情的になるのは、好きではない。
アルベイルがそうである様に、感情のまま放った言葉は多くの場合自分も、相手も等しく傷付ける。
誰よりそういった機微に敏感なゲルダは、それで人一倍勝手に傷付き、後悔するのだ。
けれど我慢出来なかった。失言をしたのは自分が悪い。ナハティガルを傷付けたのも自分が悪い。
でも。それでこれまで積み重ねた全てを無かったかの様にされる程、浅い付き合いではなかった筈だ。
放り出された様に感じた。その事実にまた、勝手に傷付いている事は自覚している。
でも何の相談も無く、打ち明けも無く、一方的に手を離されるのは幾ら何でもおかしい。
例えそれが彼女の行為に対する罰であったのだとしても――――絶対におかしい。
「わたしに、好きな人が居たら何だって言うんですか」
「そいつと幸せになれば良い。俺はもう必要ないだろう」
「人の必要とか不必要とかって、そういう物ではないでしょうっ!!」
ゲルダは怒っていた。ここまで、心の底から誰かに怒りをぶつけたのは家族以来かもしれなかった。
それだけ心を許していたのだと。信じていたのだと。彼女自身事ここに至って気が付いた。
「誰か代わりが居たら居なくなっても良いんですか!? そんな事を頼みましたか!
言ったじゃないですか、一緒に進みたいって。わたしは――――あなたと一緒に居たいんです!」
「……俺も、アンタを家族のように。親しい相手だと思っていた。いや、今も思っている。
だが、俺にはアンタの幸せを支えられない。こんな、役立たずな男では――――」
「役に立つとか立たないとか、そんなのどうだって良いって言ってるんです!!」
踏み込んで、手を掴む。普段のナハティガルなら避けようと位はしたろう。
けれど彼女の剣幕は、彼の銀髪鬼をして。その足を縫い留めるほどの効力を見事に発揮した。
(そうだ。“どんなに違っても、触れ合える”と)
かつても、確かにそう言ってくれたのではなかったか。
いつかの夜、『王都』の冒険者ギルドの前で詰め寄られたあの時とゲルダは何も変わっていない。
変わったのは、ナハティガルの方だ。強さ、弱さ、そんな事ばかりに気を取られていたが。
人と人との関係性もずっと同じではいられない。変わっていくのだ、望む望まざると。
であれば、ナハティガルの中で変わった物とは何だ。あの時は無くて、今はある感情。
或いは、あの時は有って、今は無くなったもの。それは何で、だからどうしたいのか。
その見定めが欠けている事に、ナハティガルはここに来て漸く気が付いた。
(――――あの時と、今と。俺は、ゲルダの事をどう思っている)
●竜の裁定、或いは紆余曲折して半歩進む
「お互い要点は掴めたと見る。では結論を聞こう」
膠着状態の2人に対し、これまで対話の推移を見定めていたアルベイルが声を上げる。
ゲルダ、ナハティガル。両名の視線を受けその瞳が細められた。其処にははっきりと測るような色がある。
「“主体性の無き同胞など『竜』は求めない。我が麾下に於いて唯一人として不要だ”と。
以前、そう伝えたことを憶えているか」
それは、かつてナハティガルが自ら確認した事。そして決して揺るがない『竜』の理念だ。
派閥の盟主家として。『王国』貴族の頂点に君臨する者として。アルベイルは臣下に自律を求める。
「ゲルダは己の意思を示した。ラー、次は貴公の番だ」
「……俺は」
「少なくとも。俺は貴公を有用であるか、そうではないか。と言う観点のみで傍に置いた訳ではない」
ナハティガルが拳を握る。あの竜侯が此処まで言うのは余程の事だ。
その期待に応えたい、と言う思いがある一方で、自分自身への失望は未だ根深く残ったままだ。
生れて始めて、ナハティガルは自らの人生の岐路で迷っていた。
これまでは選択肢その物が無かった。縦しんば自分で選ぶにせよ、考する猶予など与えられなかった。
だが今は彼の同僚も。主も。視線を落としたナハティガルの応じを待ってくれている。
それがどれほど恵まれた環境であるか。他ならない、彼自身が一番良く分かっている事だった。
(――――何を、今更迷っていたのだ)
其処には。かつて彼が求めていたもの。地を這いずって、泥をかぶって、足掻いてすら欲したもの。
それが全て揃っていた。心を許せる相手も、見上げるべき天も、死に物狂いで掴むべき未来すら。
何も無かった――――何一つ失う物が無かった、汚泥に沈み続けたあの頃とは違う。
弱くなった、と思っていた。そんな物は当たり前だ。強さを失ったのではない。
“護るべきものが増えた”のだ。孤独でいた頃と同じ戦い方が通じる訳がない。
そんな当たり前の事に躓き、勝手に壁にぶつかって、自分自身に失望していた。
かつての戦いでは誰一人喪う事は無かった。其処に、彼がゲルダを抱えて敵を惹きつけた事。
その功績が戦果に何ら寄与しなかったと。一体誰がそう言えたろう。
彼は敵を討ち倒す事が出来なかった。『竜』の剣としての役割を果たせなかったとして。
だが彼は確りと、自らが護ると決めた物を護り抜いた。何故、その事を誇れなかったのか。
(――――ああ、そうか)
過去に縛られていたのは他ならない、自分自身だった。
いつの間にか、気付けば全て自分が背負うべきだと。そう気負い過ぎていたのだろう。
ゲルダは幾らでも手伝うと。アルベイルは共に臨もうと。いつでも、そう言っていたのに。
「先の暇願、撤回しても構わないだろうか」
――――羞恥を押してでも。そう告げるに足る十分過ぎる理由があった。
「栄えある『竜』の護衛士が深酒に浸り世迷言を口走ったなら、見せしめは必要だな?」
「アルベイル様、屋敷内全区画の掃除一週間。辺りで如何でしょうか」
「適当な範疇だ。監督は任せる」
如何にも厳かに告げるも。当然、そんな裁定で適当な訳はない。
厳罰を覚悟し俯くようにして言葉を待っていたナハティガルが呆気に取られた風に視線を上げると。
目配せし合った2人はまるで示し合わせたかの如く、それぞれに笑った。
■
「ナハティガル様、1階はあと36区画です」
「っ……! 広、過ぎる……っ!」
一般人からすれば無尽蔵にも思える授恵者の体力だが、普段と違う事をすれば当然疲れる。
埃落としから小物の補充、ベッドメイクに雑巾掛け。一言で掃除と言ってもやる事は無限に在った。
本来であれば優秀極まる『竜』の侍女団が総力を結集して取り掛かる事業なのだから当たり前だが。
慣れないナハティガルの作業にはまだまだ無駄が多い。今日も日付が変わるまで掛かるだろう。
「少しはわたしも手伝いましょうか?」
「……っ! 不要、だ……!」
無駄に長い廊下を雑巾と共に駆け抜けながら、律儀に応じるナハティガルには。
ゲルダが何やら随分と愉しそうに監督役の仕事をしているように見えた。未だ怒っているのだろうか。
「そういえば……っ、アンタの好きな――――奴ってのは……どんな、奴なんだ……?」
行ったり来たりの往復の最中声を掛ける為に必然とぎれ途切れになりつつも。
そう言えばその話題は有耶無耶になっていたな、と思い出し投げかけた問に。
ゲルダが視線を逸らし、手にしていた屋敷内の地図で顔を半分隠した事を。
真剣に廊下だけを見つめていたナハティガルは残念ながら、遂に気付くことは無かったが。
「……どうして、それがそんなに気になるんですか?」
(どうして――――……言われてみれば、どうしてだ。俺は、ゲルダを妹の様に……)
小さな問に。駆け抜けた廊下の端。雑巾をバケツで洗いながらナハティガルは考える。
それは本当に、家族の様な。妹の様な存在に対して向ける感情だったろうか。
いや、或いは――――それは。ただ経験が少な過ぎたから気付かなかっただけで。
もしかすると。世間一般では――――
「え、ちょ、あああナハティガル様前前――――!」
「うわった! あぶ、あぶなっ! な、何してらしゃるんですか御二人ともこんな所で!?」
間一髪、という所でバケツを蹴り上げた女行商人の言に。諸に汚水を被らされた男が俯く。
水も滴る何とやら、ではあるが。間が悪いにも程が在った。
「シズル、他に何か弁明は有るか」
「わ、目恐ぁ! 待って下さい事故じゃないですか!? これは不幸な事故、セーフ。ギリセーフ!」
必死に弁明する褐色肌の美女に、ゲルダが残念そうな眼差しで首を振る。
情状酌量の余地は認められず、ナハティガルがモップを構えるも。
「ところで、御二人はお付き合いなさっているんですよね?」
「――――え」
「……――――は!?」
「隙あり……っ!」
書類を抱いて踵を返す女行商人の逃げ足は、授恵者の盗賊もかくやと言う物。
奴は本当に商人か……? と、常々抱いていた疑惑が再浮上するも。偶々同時に視線を向け合い。
「っ!」
「……!?」
不意に。うっすら朱に染まったゲルダの表情を目の当たりにし。
ナハティガルは見てはいけない物を見たかのように視線を落とした。或いは、もしかすると。
(……まさか――――な)
――――その気持ちは。世間に於いては“嫉妬”と呼ばれる類の物ではなかったか……などと。
そんな不合理な解答から、ぎりぎりまで目を逸らすように。
『黒鋼竜』ライゼンナクト。かつては『王国』に座す黒の公爵家と呼び称された名家。
ライゼンナクトの乱、と呼ばれる一大事件を通して降爵の憂き目に合おうとも。
家名は歴史に深く、永く、未だ薄れぬ恐怖と共に強く刻まれている。貴族派の覇王、王国の『竜』。
王国南方に位置するその所領のほぼ中央。古く砂漠のオアシスと呼ばれた街、『湖都』ラヴェルギア。
同都市のやや北よりに位置している城砦じみた屋敷こそが『黒鋼竜』の本拠地、竜館本邸である。
そんな中、丁寧に磨かれた黒曜石じみた廊下を歩き、外套を靡かせて歩くのは小柄な影。
一見したならば迷い込んだ童女であるかと思われる程の背丈だが、その装束が彼女の地位を。
そして同家内でも一目置かれる異名をも重ねて証明する。黒鋼竜附護衛士『天剣』ゲルダ・クライン。
その拳が、主の執務室の扉を規則的に三度叩く。
「入れ」
然して応じは淡々と。そして速やかに果たされる。扉を押し開き一歩踏み入った室内は静謐そのもの。
ただ執務机の上を走らせる羽根ペンの音だけが響く。その赤い瞳は書類をなぞる動きを一時も止める事は無く。
彼の投じた構想への現在の進行状況と、王家への問い合わせの結果を纏めた書類が着々と生成されて行く。
『黒鋼竜』アルベイル・ライゼンナクトは勤勉であり、勤勉である以上に厳格だ。
誰よりも自分自身に怠惰を許容しないその性質は、こういった事業の場に於いて遺憾無く発揮される。
とは言えそれは暴君である事を意味しない。彼は自らが完璧で無い事を理解している。
ただ正しいだけであったなら、これほど多くの人を従える事は叶わない。
最近、ゲルダはそれを実感として理解出来て来ていた。正義と言うのは酷く流動的だ。一義ではない。
かつてアルベイルの先代、ダミアンは恐怖で以て人を従えた。それも、決して間違いではない。
抑えつけられ従う他ないと思わされる事は、幸福だ。全責任を支配者に押し付けられる身は、気楽なのだ。
アルベイルはそうではない。対話と相互理解を是とする彼は決して正義を標榜しない。
何時でも“より良い”道を探ろうとする。だからこそ、彼女は彼に忠を捧げる事を厭わなかったのだろう。
「少し、お話を聞いて頂いても宜しいでしょうか」
「構わん。場が必要か」
「いえ、出来れば少しだけお時間を頂ければ」
「了解した。少し待て」
一見事務的とも思えるやり取りも、打てば響くと言う応答で為されれば自然と慣れる。
座椅子に座り待つ事1分かそこら。サインを終えた主の視線がゲルダへと向いた。
執務机に備えられた呼び鈴が鳴ると、見た目は未だ初老と呼ぶには少し若い執事長がやって来る。
室内にゲルダの姿を認めても然程驚く事は無く。アルベイルから書類を手渡され部屋を辞す。
黒鋼竜附護衛士とは『竜』侯直下の専属騎士である。その本懐は第一に主の身の安全を確保する事に在る。
その職分を満たす限り領内の何処に居ても許容される。これは騎士職としては極めて例外的な特権だ。
「待たせた。話を聞こう」
「はい。ええと……話せば長くなりそうなのですが」
「ああ、ラーの事か」
「――――っ!?」
「ゲルダ・クライン。貴公は感情を隠すのが上手い。が、あれはそうではない。
自覚はともあれな。人と人との関係とは単一ではなく、あくまで俯瞰して見る物だ」
淡々と告げられた事実に、戦慄を余儀なくされるゲルダに。
アルベイルが少し考えた仕草の後、立ち上がると壁際の戸棚へと向かう。
取り出した小箱を座椅子の前の長机に置くと、自らも対面に腰を下ろした。
「『渡り鳥』の同盟土産だ、処分を手伝うが良い」
「……はい」
小箱に入れられたやたら甘い薄焼きの菓子を食みながら、ゲルダはぽつぽつ語り始める。
■
日課の鍛錬を経て、精鋭たる黒鋼騎士の若手相手に指導の真似事などもこなす。
指揮官である四将の一角が失われた事で、『竜』本邸では騎士団の業務の幾らかが溢れ気味だ。
基本『学園』が休みの間、竜侯は邸内に居る為、これと言った定型業務を持たない黒鋼竜附護衛士。
その一角である『竜の半身』ナハティガル・ラーはそういった“武芸”に類する業務。
特に実践訓練を自主的に消化する事で自らの鍛錬をも兼ねていた。
趣味と実益を兼ねて……ではないが。少なくとも、思いついた当初は名案だなどと考えた物だ。
(まだだ。まだ足りない……いや、俺には足りない物が多過ぎる)
しかし、その動機部分にナハティガルの中の焦りは関係が無かった、と言えば嘘になる。
いざ『竜』の護衛士という特別な立場を得て、竜館本邸に個人用の私室を与えられてみても。
……いや、だからこそ、か。自らの力量不足に端を発する焦燥は日増しに募っていった。
例えば時折訪問にやって来る『竜』の三大商会が一角の長、『渡り鳥』の護衛『六王剣』斬鉄。
或いは同じく竜館本邸に私室を持つ『黒鋼騎士団』が長『鋼竜将』オーラン。
同僚であるゲルダもそうだ。身の回りだけでも、明らかに群を抜いて強い授恵者など幾らでも居る。
勿論、ナハティガルとて腕に憶えはあるが。では彼らと真っ向雌雄を決したとして勝てると思えるか。
この程度の問に即応出来ない人間に、果たして。『竜』の半身を名乗るような価値が存在するのか。
そんな自問自答に苛まれつつも。彼は自らに課せられた職務を極力忠実にこなす事で一時的な平穏を。
即ち、ある種の思考停止と言う安息を得る事には成功していた。勿論、それで何も問題は片付かない。
しかしこの問題はあくまで彼の心情に基く物であり、極端な話彼以外の誰にも解決し得ない事だ。
である以上、少しずつでも消化し何処かに落とし所を見つける他はない。その着地点を探していた昨今。
普段であればそろそろ昼食時である筈なのに、食堂までやって来ないアルベイルを探し。
執務室の前にやって来た事に特に理由は無かった。強いて言えば規則運動の一環だろうか。
一番良く主を見掛ける場所、ただそれだけの話。ならばそんな偶然――――一体誰が予想するだろう。
“……あまり……ない気…………と、言う…………でしょうか”
(……。 ゲルダ、か……?)
普段であれば、盗み聞きは良くない。と当たり前の理性が働いたろう。
けれど今。彼の役割は行方の知れない主の探索であり、それ以外の目的は二の次とされていた。
それは思考停止に他ならない訳だが、当人に自覚はない。そしてゲルダは彼の同僚だった。
彼女であればアルベイルの所在を知っているかもしれないと。真っ直ぐ扉の前に近付いて行き――――
“つまり何か、好いた男に自分はそれほど好かれていない気がする、と”
凍り付いた様に、ドアノブに向けて伸ばした手が止まった。
“いえ……そこまでは。わたしも、出来るだけ隠すようにはしていますし”
“とは言え別に距離を置きたい訳でも無いのだろう?”
“それは……はい。ですから、わたしの方から少しずつでも寄り添って行けたら……と”
“悠長な事を言う。独り芝居では限界が在ろう”
伸ばした手が止まったまま握られ。ゆっくりと降りる。
声の主は片やアルベイル。そしてもう片方は聞き間違えようも無く、ゲルダのそれ。
内容から察するに。ゲルダの恋愛相談をアルベイルが受けている。と言う構図に疑いはなく。
そしてどう聞いた所で。それは彼女に片想いの相手が存在すると言う証左に他ならない。
(……何だ。何故、俺は――――)
ただ分からないことが有るとすれば。何故、自分はその事実にこれほど動揺しているのか。
いや、より有体に言ったなら。何故これほど衝撃を受けているのか――――と、言う事だ。
「? ……少しお待ちを。! アルベイル様、そろそろ昼食の御時間では!?」
「ああ、もうそんな時間か。ゲルダ、供をせよ」
「はいっ!」
懐中時計を確認し、慌てて席を立ったゲルダが先導して執務室の扉を開けた時には。
その場には、最早誰かの居た痕跡など何一つ残ってはいなかった。
●迷走の行方、或いは虚妄の影法師
(何故こんな、逃げるようにしてあの場を離れてしまったのか)
自分の為に用意された私室で、寝台に身を倒しながらナハティガルは自問する。
職責を考えれば、決して適切な対応とは言い難い。いや、あの場にはゲルダが居た。
発言から考えれば、ナハティガルが声を掛けずともアルベイルは必然的に昼食へ向かったろう。
つまり場に留まる理由の方が乏しい。それでは完全に盗み聞き以外の何物でもなくなってしまう。
そう考えて、何を今更と自嘲する。あれが盗み聞きでないなら、一体何だと言うのだ。
盗人猛々しいとはまさにこの事だと。思わず自己嫌悪で額を覆う他は無い。
これまで救った事も有るし、救われた事もある。叱責された事もあるし、対立した事もある。
冒険者として幾度も同じ戦場を駆け、実力と実績。そして精神性に確かな信頼を置いてもいた。
ゲルダ・クラインと言う娘の事を、まるで良く出来た妹の様に思いつつあった事は否定出来ない。
家族、と言う物と殆ど縁の無かったナハティガルにとってそれは、戸惑いそのものでしかなかった。
漸く互いにある程度適切な距離感と立ち位置を築けて来たと。そう、思っていたのだが。
まさか自分が、妹分の恋愛と言う事態にこれほど耐性が無いとは。驚きを通り越し愕然とする。
(……馬鹿か、俺は)
本当に家族の様に思うのであれば。必要なら助力し、応援してやるべき物ではないのか。
いや、とは言え年頃の異性だ。知られる事そのものが恥であり、侮辱でないとどうして断言出来よう。
ナハティガルには指針が無い。何を、どうするべきか全く何も参考に出来ない。
何より。考えれば考えるほど“自分は何の力にもなれないのではないか”と言う想いが募って行く。
(――――だからゲルダは、俺ではなくアルベイルを頼ったのではないか)
その推測は思う以上に腑に落ちた。ゲルダは聡い。特に、対人関係の目利きは相当な物だ。
問題解決にナハティガルの方が有効だと思ったなら、相談相手は自分であったに違いない。
だがそうではなかった。それはつまり、事実として“頼りにならない”と言う事に違いない。
思い当たる節なら幾らでもあった。適切な助言が投げられる気など微塵もしない。
何せ。又聞きの身ですらこれほど醜態を晒しているのだ。ゲルダの見立ては恐らく正しい。
正しくないのは、その正確な見立てに対して衝撃を受けている自分自身の方だ。
「この体たらくの、一体何処が『竜』を名乗るに相応しいと」
脳裏を過ぎるのは、かつて巨大な魔獣を前に彼女を担いで駆け回った記憶だった。
あの時、仲間の多くが傷付き倒れる中ナハティガルは何一つ報いる事が適わなかった。無力だった。
以前ならそうではなかった。頼る者は己しか無く。ただ個を研ぎ澄まさなければ死んでいた。
生きる為に使える手段ならば何でも使った。清くも正しくも無かったが、強く在る事は出来た。
(……弱くなった)
兼ねてより抱いていた焦燥感と。正体不明の動揺が自然と結び付いていた。
自分は。ナハティガル=ラーは弱くなった。強くも無い騎士になど何の存在意義も無い。
『王国』では最底辺種の亜人が、力までも失ってしまったら。
いざ竜侯が窮地に陥った時。そんな無価値な存在が本当に奴を護れるのだろうか。
結論を出すのが恐ろしく。無意識に。無自覚に先延ばしにし続けていた問に答えが出そうだった。
これではアルベイルに覚悟を問うまでも無い。今のナハティガルはその隣に立ち続けられるか。
――――不可能だ。
■
「随分と、突然の申し出だな。理由を聞こう」
「俺なりに熟考し、出した結論だ。今の俺ではアンタを護れない。隣に立つべき資格が無い」
「ラー、誰が側近に相応しいか。それを決めるのは貴公ではない。俺だ」
夜。竜館本邸、謁見の間。段上に座すアルベイルの言に、膝を付いたナハティガルが応じた。
突然の申し出でありながらも『黒鋼竜』に動揺の色は見られない。それに僅か安堵する。
未練は少ない方が良い。引き留められたなら、弱い自分はまた揺らぐ事が容易に想像出来た。
その点常に淡々と応じるアルベイルとの対話は、心的負担が最小限で済む。
「『竜』に弱卒は不要。違うか」
「是非もない。では貴公は自らを弱卒であると定義する訳か」
「そうだ。俺は弱い。それを思い知らされた。自らを研ぎ直すまで暇を貰いたい」
勿論。暇、とは文字通りではない。余程家に対する貢献厚い重鎮などで在ればともかくも。
つい先日正式に臣従を決めたばかりの若輩が、自分勝手にこの様な申し出をすればどうなるか。
『竜』直下に置かれる人間には並々ならぬ才能と実力。そして実績が求められるが。
それは決して立場を担保しない。ナハティガルとて重々承知している。承知の上での決断だった。
「帰った時、未だ貴公の席が有ると思うか」
「構わない。無ければ実力で奪う」
両目を閉じたアルベイルが暫く黙考する。その静寂を、ナハティガルはじっと耐えた。
たっぷり間を置き、嘆息が零れる。決意は固い、と言う点はこれで十分伝わった筈だ。
しかし次に瞳が開いた時。その眼差しには割とはっきりと呆れの色が浮かんでいた。
「確認するが、その意思はゲルダ・クラインとは無関係か」
「……、……」
無情な沈黙が落ちた。勿論、欠片も無関係ではない。
全く無関係ではないが、それをこの場で答えるのは流石のナハティガルにも憚られる。
「俺個人の問題だ」
「騎士が主へ私的な要因で虚偽を告げる事は、『竜』では重罪に相当する」
「虚偽ではない! 本当に俺個人の――――」
「――――で、あれば。当人の前でも同じ事が言える筈だな」
アルベイルの手元で黒い鈴が鳴る。特に高い音を響かせるそれは、護衛士に緊急招集を要請する物。
邸宅内に滞在しているのであれば、何を置いても駆けつけることを義務付けられていた。
そしてゲルダの決断は速い。外套一枚羽織っただけの寝衣姿で、剣を携え謁見の間へと突入する。
「御前に馳せ参じましたっ! 何事で――――……え」
呆気に取られたゲルダを、2対4つの瞳が種類の異なる困惑を滲ませ見詰めていた。
「――――……えっ!?」
これが、迷走でないとしたら一体何と呼んだら良いのだろうか。
●混沌の坩堝、或いは犬も喰わない喧々囂々
「何で、ナハティガル様が暇を頂く何てお話に……!?」
「今の俺では、竜侯を護れない。ゲルダも、俺の様な者が同僚では頼ることも出来んだろう」
「ですからっ! 何でそんなこと――――……あれ……」
完全に、我関せず。となっているアルベイルを他所に。
自分を殺して応じるナハティガルに、ゲルダが一方的に疑問をぶつける構図が続く。
それもその筈だ。彼女からすればナハティガルの決断は全く以て意味不明な青天の霹靂である。
2人で『竜』を支えて行こうと思っていた矢先、理由も分からず梯子を外されたに等しい。
一瞬。激昂にも似た感情が胸を衝いた事は否定出来ない。けれど彼女の眼はその違和を見逃さない。
ナハティガルの言は何処かおかしかった。その態度から汲み取れるのは、罪悪感にも似たある種の拒絶。
それに何だろう。自己嫌悪、或いは自己不信だろうか。一見冷静を装っているけれど。
今のナハティガルは何か、一人で立つ為にとても大切な軸がぐらついてる様に見えた。
「何が、そんなに不安なんですか」
ぽつ、と。溢してからはたと、失言に気付く。『学園』であれば有り得なかった失態だ。
実家の中ですらきちんと制御出来ていたのだ。けれど、『竜』の居城はあまりに勝手が違い過ぎた。
彼女の主を筆頭に、彼らは誰もが個人に依って立っている者達だった。
出入りする商人も貴族も、大半は一国一城の主ばかり。騎士たちとて主家を誇りとはしても概ね同様だ。
『竜』は君臨し、時に庇護するが。あくまでその個の責任と権利を否定しない。
責を怠れば罰則が下り、権利を越えれば規制される。しかしそれらを前提として成り立つ小社会だ。
そんな中に在れば人は種族や、身分で相手を見ない。それをすれば“必ず足元を掬われる”。
自衛の為には個人を見極める必要がある。そんな空間は、ゲルダにとってとても気が楽な世界だった。
これまでずっとして来た事の延長線上だ。こんな価値観がもっと広がって行けば良い。
それがある種の“傲慢”である事に彼女は気付いていなかった。持つ者のみの自由を謳歌していた。
だから、事この場に於いて。ナハティガルが向けた眼差しに。彼女は自分の失敗を一際早く悟った。
人には“この相手には指摘されたくない事”が、ある。そんな事、ずっと分かっていたのに。
「……不安、か。そう見えるか」
「……はい、ごめんなさい」
その瞳の奥。とても深い場所には、怯えが滲んでいた。
自分はこの場に相応しく無いのではないだろうか。本当に、自分は役に立てるのだろうか。
自らが望んだ未来の為に、一歩でも前に進めているだろうか。只管足踏みしているだけではないだろうか。
これまではそうではなかった。力と結果。研鑽と実績が結び付いている限りにおいては。
初めて対面したその2つ。決して裏切らないと信じていた二本の柱の乖離と崩壊は。
ナハティガルの自己評価に大きな亀裂を入れていた。だからこそ、ゲルダの指摘はとても良く刺さった。
“不安”。即ち不信だ。実に笑える話だ。心底可笑しいのに自嘲の一つも出てこない。
そうか。逃げたかったのか。これ以上の重荷を背負う事が耐え切れず尻尾を巻いて距離を取りたかったのか。
自らを取り繕っている心算など無かったが、無かったからこそ無様だった。
理解してしまえば単純な話だ。何が『竜』か。自分は、結局負け犬でしかなかったのだ、と。
■
「好きな相手が居るのだろう」
――――傷付けた。と、その事に気を取られて過ぎていたからだろう。
ナハティガルの突然の話題の転換に付いていけず、ゲルダはぽかんと空白を返してしまった。
それを彼がどう受け取ったのかは知らない。ただ、その声音は何処か自暴自棄に似ていた。
「俺の知る限り、ゲルダ。アンタほど優秀な冒険者はそうは居ない。
『竜』の騎士としても、竜候の片腕としても。これから先、きっと上手くやっていけるだろう」
納得が在り、諦観が在った。分相応と言う言葉を、ナハティガルは良く知っている。
これまでは一方的に突き付けられ、常に反発を憶えて来たが。今はそれを漸く受け止められた。
「人の手は2つしかないと思って来たが。持つ者、と言うのはどうもそればかりでも無いらしい。
アンタであれば一人でも、理想と現実。どちらの幸福も掴めるのかもしれない。であれば、俺は――――」
「なんですか、それ」
もう、必要ないと。そう続けようとした言葉を。俯いたゲルダが遮った。
深い、地の底から湧き出る様な激情が水面下で蠢いていた。あまり感情的になるのは、好きではない。
アルベイルがそうである様に、感情のまま放った言葉は多くの場合自分も、相手も等しく傷付ける。
誰よりそういった機微に敏感なゲルダは、それで人一倍勝手に傷付き、後悔するのだ。
けれど我慢出来なかった。失言をしたのは自分が悪い。ナハティガルを傷付けたのも自分が悪い。
でも。それでこれまで積み重ねた全てを無かったかの様にされる程、浅い付き合いではなかった筈だ。
放り出された様に感じた。その事実にまた、勝手に傷付いている事は自覚している。
でも何の相談も無く、打ち明けも無く、一方的に手を離されるのは幾ら何でもおかしい。
例えそれが彼女の行為に対する罰であったのだとしても――――絶対におかしい。
「わたしに、好きな人が居たら何だって言うんですか」
「そいつと幸せになれば良い。俺はもう必要ないだろう」
「人の必要とか不必要とかって、そういう物ではないでしょうっ!!」
ゲルダは怒っていた。ここまで、心の底から誰かに怒りをぶつけたのは家族以来かもしれなかった。
それだけ心を許していたのだと。信じていたのだと。彼女自身事ここに至って気が付いた。
「誰か代わりが居たら居なくなっても良いんですか!? そんな事を頼みましたか!
言ったじゃないですか、一緒に進みたいって。わたしは――――あなたと一緒に居たいんです!」
「……俺も、アンタを家族のように。親しい相手だと思っていた。いや、今も思っている。
だが、俺にはアンタの幸せを支えられない。こんな、役立たずな男では――――」
「役に立つとか立たないとか、そんなのどうだって良いって言ってるんです!!」
踏み込んで、手を掴む。普段のナハティガルなら避けようと位はしたろう。
けれど彼女の剣幕は、彼の銀髪鬼をして。その足を縫い留めるほどの効力を見事に発揮した。
(そうだ。“どんなに違っても、触れ合える”と)
かつても、確かにそう言ってくれたのではなかったか。
いつかの夜、『王都』の冒険者ギルドの前で詰め寄られたあの時とゲルダは何も変わっていない。
変わったのは、ナハティガルの方だ。強さ、弱さ、そんな事ばかりに気を取られていたが。
人と人との関係性もずっと同じではいられない。変わっていくのだ、望む望まざると。
であれば、ナハティガルの中で変わった物とは何だ。あの時は無くて、今はある感情。
或いは、あの時は有って、今は無くなったもの。それは何で、だからどうしたいのか。
その見定めが欠けている事に、ナハティガルはここに来て漸く気が付いた。
(――――あの時と、今と。俺は、ゲルダの事をどう思っている)
●竜の裁定、或いは紆余曲折して半歩進む
「お互い要点は掴めたと見る。では結論を聞こう」
膠着状態の2人に対し、これまで対話の推移を見定めていたアルベイルが声を上げる。
ゲルダ、ナハティガル。両名の視線を受けその瞳が細められた。其処にははっきりと測るような色がある。
「“主体性の無き同胞など『竜』は求めない。我が麾下に於いて唯一人として不要だ”と。
以前、そう伝えたことを憶えているか」
それは、かつてナハティガルが自ら確認した事。そして決して揺るがない『竜』の理念だ。
派閥の盟主家として。『王国』貴族の頂点に君臨する者として。アルベイルは臣下に自律を求める。
「ゲルダは己の意思を示した。ラー、次は貴公の番だ」
「……俺は」
「少なくとも。俺は貴公を有用であるか、そうではないか。と言う観点のみで傍に置いた訳ではない」
ナハティガルが拳を握る。あの竜侯が此処まで言うのは余程の事だ。
その期待に応えたい、と言う思いがある一方で、自分自身への失望は未だ根深く残ったままだ。
生れて始めて、ナハティガルは自らの人生の岐路で迷っていた。
これまでは選択肢その物が無かった。縦しんば自分で選ぶにせよ、考する猶予など与えられなかった。
だが今は彼の同僚も。主も。視線を落としたナハティガルの応じを待ってくれている。
それがどれほど恵まれた環境であるか。他ならない、彼自身が一番良く分かっている事だった。
(――――何を、今更迷っていたのだ)
其処には。かつて彼が求めていたもの。地を這いずって、泥をかぶって、足掻いてすら欲したもの。
それが全て揃っていた。心を許せる相手も、見上げるべき天も、死に物狂いで掴むべき未来すら。
何も無かった――――何一つ失う物が無かった、汚泥に沈み続けたあの頃とは違う。
弱くなった、と思っていた。そんな物は当たり前だ。強さを失ったのではない。
“護るべきものが増えた”のだ。孤独でいた頃と同じ戦い方が通じる訳がない。
そんな当たり前の事に躓き、勝手に壁にぶつかって、自分自身に失望していた。
かつての戦いでは誰一人喪う事は無かった。其処に、彼がゲルダを抱えて敵を惹きつけた事。
その功績が戦果に何ら寄与しなかったと。一体誰がそう言えたろう。
彼は敵を討ち倒す事が出来なかった。『竜』の剣としての役割を果たせなかったとして。
だが彼は確りと、自らが護ると決めた物を護り抜いた。何故、その事を誇れなかったのか。
(――――ああ、そうか)
過去に縛られていたのは他ならない、自分自身だった。
いつの間にか、気付けば全て自分が背負うべきだと。そう気負い過ぎていたのだろう。
ゲルダは幾らでも手伝うと。アルベイルは共に臨もうと。いつでも、そう言っていたのに。
「先の暇願、撤回しても構わないだろうか」
――――羞恥を押してでも。そう告げるに足る十分過ぎる理由があった。
「栄えある『竜』の護衛士が深酒に浸り世迷言を口走ったなら、見せしめは必要だな?」
「アルベイル様、屋敷内全区画の掃除一週間。辺りで如何でしょうか」
「適当な範疇だ。監督は任せる」
如何にも厳かに告げるも。当然、そんな裁定で適当な訳はない。
厳罰を覚悟し俯くようにして言葉を待っていたナハティガルが呆気に取られた風に視線を上げると。
目配せし合った2人はまるで示し合わせたかの如く、それぞれに笑った。
■
「ナハティガル様、1階はあと36区画です」
「っ……! 広、過ぎる……っ!」
一般人からすれば無尽蔵にも思える授恵者の体力だが、普段と違う事をすれば当然疲れる。
埃落としから小物の補充、ベッドメイクに雑巾掛け。一言で掃除と言ってもやる事は無限に在った。
本来であれば優秀極まる『竜』の侍女団が総力を結集して取り掛かる事業なのだから当たり前だが。
慣れないナハティガルの作業にはまだまだ無駄が多い。今日も日付が変わるまで掛かるだろう。
「少しはわたしも手伝いましょうか?」
「……っ! 不要、だ……!」
無駄に長い廊下を雑巾と共に駆け抜けながら、律儀に応じるナハティガルには。
ゲルダが何やら随分と愉しそうに監督役の仕事をしているように見えた。未だ怒っているのだろうか。
「そういえば……っ、アンタの好きな――――奴ってのは……どんな、奴なんだ……?」
行ったり来たりの往復の最中声を掛ける為に必然とぎれ途切れになりつつも。
そう言えばその話題は有耶無耶になっていたな、と思い出し投げかけた問に。
ゲルダが視線を逸らし、手にしていた屋敷内の地図で顔を半分隠した事を。
真剣に廊下だけを見つめていたナハティガルは残念ながら、遂に気付くことは無かったが。
「……どうして、それがそんなに気になるんですか?」
(どうして――――……言われてみれば、どうしてだ。俺は、ゲルダを妹の様に……)
小さな問に。駆け抜けた廊下の端。雑巾をバケツで洗いながらナハティガルは考える。
それは本当に、家族の様な。妹の様な存在に対して向ける感情だったろうか。
いや、或いは――――それは。ただ経験が少な過ぎたから気付かなかっただけで。
もしかすると。世間一般では――――
「え、ちょ、あああナハティガル様前前――――!」
「うわった! あぶ、あぶなっ! な、何してらしゃるんですか御二人ともこんな所で!?」
間一髪、という所でバケツを蹴り上げた女行商人の言に。諸に汚水を被らされた男が俯く。
水も滴る何とやら、ではあるが。間が悪いにも程が在った。
「シズル、他に何か弁明は有るか」
「わ、目恐ぁ! 待って下さい事故じゃないですか!? これは不幸な事故、セーフ。ギリセーフ!」
必死に弁明する褐色肌の美女に、ゲルダが残念そうな眼差しで首を振る。
情状酌量の余地は認められず、ナハティガルがモップを構えるも。
「ところで、御二人はお付き合いなさっているんですよね?」
「――――え」
「……――――は!?」
「隙あり……っ!」
書類を抱いて踵を返す女行商人の逃げ足は、授恵者の盗賊もかくやと言う物。
奴は本当に商人か……? と、常々抱いていた疑惑が再浮上するも。偶々同時に視線を向け合い。
「っ!」
「……!?」
不意に。うっすら朱に染まったゲルダの表情を目の当たりにし。
ナハティガルは見てはいけない物を見たかのように視線を落とした。或いは、もしかすると。
(……まさか――――な)
――――その気持ちは。世間に於いては“嫉妬”と呼ばれる類の物ではなかったか……などと。
そんな不合理な解答から、ぎりぎりまで目を逸らすように。
assignment【DA】史実ノベル 関連特設ページ
メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。