【DA】リーンエスの耳
アルベルト・V・シュタールシュヴェーアト/ セニャ・リーラント
『ノベルタイトル:貴公子と代官の休日』馬車猪
●
黒汗馬が白い息を吐いている。
特に持久力に優れた馬ではあるが、はるばる帝国まで移動すると疲労もする。
アルベルト・V・シュタールシュヴェーアトは苦痛に耐えるのに似た表情を浮かべている。
帝国騎士として困難に立ち向かう覚悟も実力もある。
しかし生まれ育った土地の荒廃を直視するのは、治りかけの傷口を抉られるような痛みをもたらしていた。
「依頼以外で戻れたのは久しぶりだな」
口から言葉にすることで心の痛みをごまかす。
黒汗馬は指示を先取りして移動を再開しようとして、気付いたアルベルトに宥められた。
「セニャに会いに行くのは後にしよう」
高頻度で依頼を受ける熟練冒険者と、広大な土地を担当する帝国代官のカップルの逢瀬は非常に貴重だ。
どちらも激務であり依頼で冒険者と依頼人として会う時間の方が多いほどだ。
(急がないと)
いくら貴重でもそれより優先すべきことがある。
貴族としての教養を持つ彼には、婚約者が今どれほど危ない立場にいるか理解できていた。
●
老若男女が驚きと喜びの声をあげる。
かつての水路を塞いでいた大きな岩が、たった1人の若者によって地面から引き剥がされたのだ。
「ロープを巻いてくれ」
厚めの服を着ているのにアルベルトの筋肉の盛り上がりはすばらしい。
騎士や軍人や剣士として鍛えた体なので労働者ほど効率は良くなく、しかし圧倒的な質となかなかの量の筋肉がもたらす力は見ての通りだ。
あの日を生き延びた土木の専門家達が危険な岩の側に急行して素早くロープを取り付ける。
「よし、いいぞ」
アルベルトの指示に最初に従ったのは黒汗馬だ。
優れた体格と体力を遺憾なく発揮させ、アルベルトが全力を出さなくても岩を支えられるようにする。
そうなってようやく、アルベルトに圧倒されていた普通の住民達が動き出す。
最も力がある者達はアルベルトと一緒になって岩を押し、力がない者もある者もロープに取り付き全力で引っ張る。
貴重な資材と物資と時間を使って破壊する必要があった大岩が、もうすぐ麦を植える予定の畑の隣にごろりと転がった。
「ありがとう。助かった」
全身から汗と湯気を発しながらアルベルトが微笑む。
圧倒的な腕力と体力を見せつけた直後の気品がある態度に、彼がシュタールシュヴェーアト侯爵家の生き残りと知らない住民達が感銘を受ける。
実力主義が徹底したシルトラース帝国では力ある者の意見が通りやすい。
その力ある者の性格がまともで民に優しいなら人気も説得力も強くなる。
幼い子達は無邪気な憧れの視線をアルベルトに向け、女性陣 は別の意味で熱い視線を向けるだけでなく甲斐甲斐しく世話しようとした。
「すまない、俺には婚約者がいるんだ」
やに下がることもなく徹底的に紳士に謝絶する。
その反応にますます熱を上げる少女もいはしたが、慌ててやってきた村長により元の仕事に戻るよう命令される。
なお、その村長は婚約者の名を聞いて満面の笑みのまま凍り付いたように固まった。
●
「セニャの真意を聞いてください。セニャは皆さんが飢えることの無いようにするためにあえて厳しく接してきたんです」
アルベルトは本題に入る。
どんな言葉も単独で使っては効果が薄い。
帝国人らしい帝国人が実力を示した上で口にした言葉は、より強い説得力を持つのだ。
自発的に集まった村長や顔役が途惑った顔でお互いを見る。
優雅に微笑んでいたのに巨大な魔獣か何かに見下ろされているとしか思えなかった ことを思い出して身震いする。
1分近く沈黙して恐る恐る口にしたのは、「婚約者になるよう強制されたのでしょうか」という内容を穏便に表現した、アルベルトを心配する言葉であった。
「セニャは可愛いですよ」
思わず本音を言ってしまい咳払いして真面目な話題に戻る。
「帝国はあの日以前と比べて秩序と安全が崩れています」
巨大な軍も、それを支える官僚組織も、今ではすっかり痩せ衰えた。
「しっかりと説明した上で穏便に食料を運び込んで分配するには時間も人材も足りません」
アルベルトの発言は全て事実であり、普通の人間には受け入れ辛い内容でもある。
(セニャは王国を出奔してから活発になったからな……)
活発という表現で納得できるとしたら、アルベルト達冒険者のような実力者だけである。
「許可していただけるなら、セニャの……代官の思いを1人1人に説明したいと思っています」
アルベルトの要望は「貴方ほどの人物が言うなら」という反応で受け入れられた。
●
アルベルトの遊説はまだ始まったばかりだ。
人が大勢亡くなったとはいえ侯爵領は広大。
再建中のものを含めれば村は十以上あり、最も大きな居住地は小さな町ほどもある。
しわがれた声がアルベルトに呼びかける。
依頼中にお互いの顔を認識はしたが依頼 のためお互い目礼するだけにしていた知人が、杖を使っているとは思えない速度でアルベルトに近づいて来る。
老人はアルベルトの無事を喜び騎士叙任を知らされ熱い涙を流す。
そのままだと日が暮れても話が終わらないと判断したアルベルトは、知人を黒汗馬に乗せて知人の住む村へ向かい、そこでも熱狂的な歓迎を受けた。
最初の村のように体力と腕力を示す必要もなく歓迎されたのは時間の節約の意味で幸運だった。
が、最初の村に無い大きな障害に直面する。
「だから本当だ。セニアーラ……今はセニャと名乗っているが、彼女とは結婚の約束をしている」
元家臣は他の住民と比べて教養も知識も多い。
真っ直ぐに育った若様が悪い王国貴族令嬢に騙されているのではと、主家への忠誠心もあるが若者を心底心配する大人としての良識から、アルベルトに苦言を呈する。
「それは悪い面に注目しすぎだ。セニャは……」
婚約者の良いところを語るのは何時間でも可能ではあるのだが、欠点を否定するのはアルベルトでも難しい。
非常に荒っぽく残酷な面があるのも事実なのだ。
夜が更けるまで話し込み、短時間の睡眠をとって次の村へ向かうことになった。
その途中で知ってはいるが顔は知らない人物に出会う。
「初めまして。帝国騎士アルベルト・V・シュタールシュヴェーアトと申します」
馬を下りて丁寧に挨拶する。
相手が帝国軍高官なので妥当な態度だ。
高官は何故かとても友好的で友人や親類の子に対するように距離が近い。
途惑っても礼節を保つアルベルトに気付いて、高官は咳払いをして真面目な表情になる。それから始まったのは軍に戻って欲しいという勧誘だ。
「いえ、帝国騎士に叙されたとはいえ今の私は冒険者です。長期間帝国のためだけに動くことはできません」
授恵者として力をつけ、冒険者として活躍するアルベルトにも弱みはある。
あの日から始まった騒乱が解決しない限り、冒険者は正式に仕官できないのだ。
「そう言われましても……」
熱烈に誘われても、みっともなく哀願されてもできないものはできない。
できるならとっくに各国が 冒険者を引き抜いている。
それでも高官は諦めきれない。
アルベルトはシュタールシュヴェーアト侯爵の子だが侯爵位を継承できるかどうかは未定だ。
シュタールシュヴェーアトの地の代官も、今は一時的にセニャが担当しているだけでセニャの後を誰が引き継ぐかもまだ決まっていない。
前侯爵とその一族の献身 を知る高官は、アルベルトを今すぐにでも帝国軍に戻して功績を得る機会を与えてどちらも継承させたいのだ。
警護と測量を担当する兵士達もアルベルトに対する優遇に反発はしない。
先祖代々の活躍も大きな理由だが最大の理由は冒険者としてのアルベルトの活躍だ。その活躍を帝国軍でして欲しいという気持ちは非常に強い。
「ありがとうございます。戻る目処が立ち次第、必ず」
アルベルトの立場ではこう返事するしかない。もちろん本心から感謝しているのは間違いない。
高官を含む少数の軍人達はアルベルトのことをとても気にしながら調査に戻る。
他国出身の貴族令嬢という出自も本人 の評判も、警戒されるのに十分以上の理由であった。
●
心身とも頑健なアルベルトも、牛馬数等分の働きをした後で軍高官の相手まですると疲労する。
(父上達は統治だけでなく軍や中央との折衝も行っていた、か)
成長するほど先達の苦労と能力の高さを痛感する。
(後いくつ回れる?)
できることなら住民全員にセニャについて説明したい。
しかしそんな時間的余裕は存在しない。彼は活発に活動する冒険者なのだ。
最大の居住地で黒汗馬を休憩させているとアルベルトへ視線が集中した。
ある程度慣れている期待や羨望や嫉妬のそれではなく、純粋すぎて眩しく感じられる憧憬の視線だった。
「これかい?」
アルベルトは原因に気付く。
いつも携帯している木製のメダルが原因だ。
素材は安価な木材。
作ったのは職人ですらない普通の人間。
年金は付随せず戦闘用装備としての価値も皆無。
帝国難民キャンプに関わり助けたことを示すだけの勲章 だ。
だからこそキャンプとメダルの由来を知る帝国人からは厚く遇されることがある。
最も困難なときに助けてくれたか、最も困難なときに親類や友人を助けてくれたことを高確率で意味する勲章だからだ。
「そうか、君達は北側の村にいたのか」
純粋な憧憬と尊敬の視線を向けられた以上、それに相応しい人間として振る舞うのは義務に近い。
苦労話には共感する表情を見せて辛抱強く聞いてあげて、頼り甲斐のある騎士として振る舞う。
優れた体格に重厚な剣盾鎧という分かり易い強さを持つアルベルトは、武力を使わなくても治安と人心の安定に貢献できる。
人はどんどん集まってくるが、アルベルトは夕暮れの空をちらりと見上げてから散会を告げた。
肉体も精神も強靱なアルベルトが1日使って接した人間は多く、しかしこの地に暮らす人間の数は圧倒的だ。
(今日も大勢に会ったつもりだが……な)
この地に住む民の数は多い。
既に広がってしまったセニャの悪評を消し去るのは難しい。
それでもアルベルトは、帝国のため、侯爵領のため、そしてもちろん愛する人のため最期まで走り抜く覚悟だった。
●
セニャが滞在中の砦に到着したのは翌日の夜になってからだった。
既に風呂を済ませていたセニャは、ナイトキャップを被ったままアルベルトを出迎える。
「貴重な休日を使って何をしていたのよ」
言葉は冷たいが態度は温かい。
アルベルトの装備を外す手つきは危なげなくしかも丁寧だ。
「若いうちの無理は歳をとってから心身の不調という形で現れるの。分かってる?」
人生を長く共にする気があるから出てくる言葉だ。
いつもは 冷たく輝く紫と金の瞳も今はとても印象が柔らかい。
瑞々しい肌とそこから微かに立ち上る香りに、アルベルトは無意識に生唾を飲み込んでいた。
セニャの言葉が止まる。
艶やかな唇が最初は揶揄うように、次に少しずつ挑発的に歪んでいく。
彼女は現在17歳。
気力も体力も溢れていて自身の欲望にも忠実だ。
アルベルトを見上げる瞳は、食欲ではない欲で輝く肉食獣の瞳を思わせた。
(いけるか?)
内心雄叫びをあげかかったアルベルトではあるが現実はなかなかに厳しい。
アルベルトの紳士さが本能を抑えている間にセニャの理性 が欲望を抑え込んでしまう。彼女にとって今が功績を立てる最高の機会なのだ。
「今お湯とタオルを持って来させるわ。そこに座って頂戴」
ソファーを勧めて自身もアルベルトの隣に座る。
「改めてになるけど2日間も何をしてたのよ」
お互い忙しいことは十分理解しているが感情は別だ。
己 を最優先にして欲しいと思いは常にある。
「部下に調べさせなかったのかい?」
アルベルトはセニャを優しく宥めている。
「数が足りないの。分かってるでしょ」
唇を尖らせると年齢より幼く見える。
婚約者 かにしか見せない表情だ。
「君を誤解させたくなくてね。セニャの真意 を伝えていたんだ」
アルベルトはセニャを優しい目で見下ろす。
「勝手なことをしたことは申し訳ない。けど、セニャが民から恨みを買ったままなんて耐えられないんだ」
「別に、頼んでない、のに」
セニャが動揺し理性 も揺れている。
(私の真意 を……。アルベルトが私を見捨てる訳がないから、角が立たないよう装飾して伝えたのね。そこまでしてくれるなんて)
もう感情が制御できない。
かなり冷えていた体が急速に熱くなるだけでなく、普段は抑えているエーテルが体外に漏れるほど活発化している。
「いいんだ」
アルベルトが静かにうなずく。
セニャも勘違いしていることに気付いてはいないが、アルベルトがセニャを思って実際にセニャのためになることを実行し成功したのは紛れもない事実だ。
なお、セニャの思った通りの行動をしていたら高確率で暴動が起きていた。
「アルベルト」
「セニャ」
視線が交わったまま動かなくなる。
紫と金の瞳が潤んでいく。
アルベルトが両手を広げると、セニャはうっとりとした笑顔を浮かべて飛び込んだ。
●
深夜に急報を受け取り飛び起きたセニャが、慣れた様子で戦装束に着替える。
「……危なかった」
急報が後10分遅ければセニャにとって未経験の領域に到達していた。
「落ち着けー、落ち着け私ー」
首筋についた痣を化粧で隠す。
胸についた痣も隠そうとして、下着と服と防具で隠されていることに気付きううむと唸る。
理性はこのまま賊退治に行くべきと判断しているのに心が別のことを強く希望している。
「セニャ、俺も行く」
武人らしく素早く武装を終えた婚約者 が執務室に入ってくる。
初めて会った頃より大きく力強く気配も強く、そしてセニャが己以外の全てを失ったときと同じように頼り甲斐がある。
「共同作業ね」
アルベルトはにやりと笑い、セニャ と共に賊討伐へ向かう。
闇の空に、2つの星がきらめいていた。
黒汗馬が白い息を吐いている。
特に持久力に優れた馬ではあるが、はるばる帝国まで移動すると疲労もする。
アルベルト・V・シュタールシュヴェーアトは苦痛に耐えるのに似た表情を浮かべている。
帝国騎士として困難に立ち向かう覚悟も実力もある。
しかし生まれ育った土地の荒廃を直視するのは、治りかけの傷口を抉られるような痛みをもたらしていた。
「依頼以外で戻れたのは久しぶりだな」
口から言葉にすることで心の痛みをごまかす。
黒汗馬は指示を先取りして移動を再開しようとして、気付いたアルベルトに宥められた。
「セニャに会いに行くのは後にしよう」
高頻度で依頼を受ける熟練冒険者と、広大な土地を担当する帝国代官のカップルの逢瀬は非常に貴重だ。
どちらも激務であり依頼で冒険者と依頼人として会う時間の方が多いほどだ。
(急がないと)
いくら貴重でもそれより優先すべきことがある。
貴族としての教養を持つ彼には、婚約者が今どれほど危ない立場にいるか理解できていた。
●
老若男女が驚きと喜びの声をあげる。
かつての水路を塞いでいた大きな岩が、たった1人の若者によって地面から引き剥がされたのだ。
「ロープを巻いてくれ」
厚めの服を着ているのにアルベルトの筋肉の盛り上がりはすばらしい。
騎士や軍人や剣士として鍛えた体なので労働者ほど効率は良くなく、しかし圧倒的な質となかなかの量の筋肉がもたらす力は見ての通りだ。
あの日を生き延びた土木の専門家達が危険な岩の側に急行して素早くロープを取り付ける。
「よし、いいぞ」
アルベルトの指示に最初に従ったのは黒汗馬だ。
優れた体格と体力を遺憾なく発揮させ、アルベルトが全力を出さなくても岩を支えられるようにする。
そうなってようやく、アルベルトに圧倒されていた普通の住民達が動き出す。
最も力がある者達はアルベルトと一緒になって岩を押し、力がない者もある者もロープに取り付き全力で引っ張る。
貴重な資材と物資と時間を使って破壊する必要があった大岩が、もうすぐ麦を植える予定の畑の隣にごろりと転がった。
「ありがとう。助かった」
全身から汗と湯気を発しながらアルベルトが微笑む。
圧倒的な腕力と体力を見せつけた直後の気品がある態度に、彼がシュタールシュヴェーアト侯爵家の生き残りと知らない住民達が感銘を受ける。
実力主義が徹底したシルトラース帝国では力ある者の意見が通りやすい。
その力ある者の性格がまともで民に優しいなら人気も説得力も強くなる。
幼い子達は無邪気な憧れの視線をアルベルトに向け、女性陣 は別の意味で熱い視線を向けるだけでなく甲斐甲斐しく世話しようとした。
「すまない、俺には婚約者がいるんだ」
やに下がることもなく徹底的に紳士に謝絶する。
その反応にますます熱を上げる少女もいはしたが、慌ててやってきた村長により元の仕事に戻るよう命令される。
なお、その村長は婚約者の名を聞いて満面の笑みのまま凍り付いたように固まった。
●
「セニャの真意を聞いてください。セニャは皆さんが飢えることの無いようにするためにあえて厳しく接してきたんです」
アルベルトは本題に入る。
どんな言葉も単独で使っては効果が薄い。
帝国人らしい帝国人が実力を示した上で口にした言葉は、より強い説得力を持つのだ。
自発的に集まった村長や顔役が途惑った顔でお互いを見る。
優雅に微笑んでいたのに巨大な魔獣か何かに見下ろされているとしか思えなかった ことを思い出して身震いする。
1分近く沈黙して恐る恐る口にしたのは、「婚約者になるよう強制されたのでしょうか」という内容を穏便に表現した、アルベルトを心配する言葉であった。
「セニャは可愛いですよ」
思わず本音を言ってしまい咳払いして真面目な話題に戻る。
「帝国はあの日以前と比べて秩序と安全が崩れています」
巨大な軍も、それを支える官僚組織も、今ではすっかり痩せ衰えた。
「しっかりと説明した上で穏便に食料を運び込んで分配するには時間も人材も足りません」
アルベルトの発言は全て事実であり、普通の人間には受け入れ辛い内容でもある。
(セニャは王国を出奔してから活発になったからな……)
活発という表現で納得できるとしたら、アルベルト達冒険者のような実力者だけである。
「許可していただけるなら、セニャの……代官の思いを1人1人に説明したいと思っています」
アルベルトの要望は「貴方ほどの人物が言うなら」という反応で受け入れられた。
●
アルベルトの遊説はまだ始まったばかりだ。
人が大勢亡くなったとはいえ侯爵領は広大。
再建中のものを含めれば村は十以上あり、最も大きな居住地は小さな町ほどもある。
しわがれた声がアルベルトに呼びかける。
依頼中にお互いの顔を認識はしたが依頼 のためお互い目礼するだけにしていた知人が、杖を使っているとは思えない速度でアルベルトに近づいて来る。
老人はアルベルトの無事を喜び騎士叙任を知らされ熱い涙を流す。
そのままだと日が暮れても話が終わらないと判断したアルベルトは、知人を黒汗馬に乗せて知人の住む村へ向かい、そこでも熱狂的な歓迎を受けた。
最初の村のように体力と腕力を示す必要もなく歓迎されたのは時間の節約の意味で幸運だった。
が、最初の村に無い大きな障害に直面する。
「だから本当だ。セニアーラ……今はセニャと名乗っているが、彼女とは結婚の約束をしている」
元家臣は他の住民と比べて教養も知識も多い。
真っ直ぐに育った若様が悪い王国貴族令嬢に騙されているのではと、主家への忠誠心もあるが若者を心底心配する大人としての良識から、アルベルトに苦言を呈する。
「それは悪い面に注目しすぎだ。セニャは……」
婚約者の良いところを語るのは何時間でも可能ではあるのだが、欠点を否定するのはアルベルトでも難しい。
非常に荒っぽく残酷な面があるのも事実なのだ。
夜が更けるまで話し込み、短時間の睡眠をとって次の村へ向かうことになった。
その途中で知ってはいるが顔は知らない人物に出会う。
「初めまして。帝国騎士アルベルト・V・シュタールシュヴェーアトと申します」
馬を下りて丁寧に挨拶する。
相手が帝国軍高官なので妥当な態度だ。
高官は何故かとても友好的で友人や親類の子に対するように距離が近い。
途惑っても礼節を保つアルベルトに気付いて、高官は咳払いをして真面目な表情になる。それから始まったのは軍に戻って欲しいという勧誘だ。
「いえ、帝国騎士に叙されたとはいえ今の私は冒険者です。長期間帝国のためだけに動くことはできません」
授恵者として力をつけ、冒険者として活躍するアルベルトにも弱みはある。
あの日から始まった騒乱が解決しない限り、冒険者は正式に仕官できないのだ。
「そう言われましても……」
熱烈に誘われても、みっともなく哀願されてもできないものはできない。
できるならとっくに各国が 冒険者を引き抜いている。
それでも高官は諦めきれない。
アルベルトはシュタールシュヴェーアト侯爵の子だが侯爵位を継承できるかどうかは未定だ。
シュタールシュヴェーアトの地の代官も、今は一時的にセニャが担当しているだけでセニャの後を誰が引き継ぐかもまだ決まっていない。
前侯爵とその一族の献身 を知る高官は、アルベルトを今すぐにでも帝国軍に戻して功績を得る機会を与えてどちらも継承させたいのだ。
警護と測量を担当する兵士達もアルベルトに対する優遇に反発はしない。
先祖代々の活躍も大きな理由だが最大の理由は冒険者としてのアルベルトの活躍だ。その活躍を帝国軍でして欲しいという気持ちは非常に強い。
「ありがとうございます。戻る目処が立ち次第、必ず」
アルベルトの立場ではこう返事するしかない。もちろん本心から感謝しているのは間違いない。
高官を含む少数の軍人達はアルベルトのことをとても気にしながら調査に戻る。
他国出身の貴族令嬢という出自も本人 の評判も、警戒されるのに十分以上の理由であった。
●
心身とも頑健なアルベルトも、牛馬数等分の働きをした後で軍高官の相手まですると疲労する。
(父上達は統治だけでなく軍や中央との折衝も行っていた、か)
成長するほど先達の苦労と能力の高さを痛感する。
(後いくつ回れる?)
できることなら住民全員にセニャについて説明したい。
しかしそんな時間的余裕は存在しない。彼は活発に活動する冒険者なのだ。
最大の居住地で黒汗馬を休憩させているとアルベルトへ視線が集中した。
ある程度慣れている期待や羨望や嫉妬のそれではなく、純粋すぎて眩しく感じられる憧憬の視線だった。
「これかい?」
アルベルトは原因に気付く。
いつも携帯している木製のメダルが原因だ。
素材は安価な木材。
作ったのは職人ですらない普通の人間。
年金は付随せず戦闘用装備としての価値も皆無。
帝国難民キャンプに関わり助けたことを示すだけの勲章 だ。
だからこそキャンプとメダルの由来を知る帝国人からは厚く遇されることがある。
最も困難なときに助けてくれたか、最も困難なときに親類や友人を助けてくれたことを高確率で意味する勲章だからだ。
「そうか、君達は北側の村にいたのか」
純粋な憧憬と尊敬の視線を向けられた以上、それに相応しい人間として振る舞うのは義務に近い。
苦労話には共感する表情を見せて辛抱強く聞いてあげて、頼り甲斐のある騎士として振る舞う。
優れた体格に重厚な剣盾鎧という分かり易い強さを持つアルベルトは、武力を使わなくても治安と人心の安定に貢献できる。
人はどんどん集まってくるが、アルベルトは夕暮れの空をちらりと見上げてから散会を告げた。
肉体も精神も強靱なアルベルトが1日使って接した人間は多く、しかしこの地に暮らす人間の数は圧倒的だ。
(今日も大勢に会ったつもりだが……な)
この地に住む民の数は多い。
既に広がってしまったセニャの悪評を消し去るのは難しい。
それでもアルベルトは、帝国のため、侯爵領のため、そしてもちろん愛する人のため最期まで走り抜く覚悟だった。
●
セニャが滞在中の砦に到着したのは翌日の夜になってからだった。
既に風呂を済ませていたセニャは、ナイトキャップを被ったままアルベルトを出迎える。
「貴重な休日を使って何をしていたのよ」
言葉は冷たいが態度は温かい。
アルベルトの装備を外す手つきは危なげなくしかも丁寧だ。
「若いうちの無理は歳をとってから心身の不調という形で現れるの。分かってる?」
人生を長く共にする気があるから出てくる言葉だ。
いつもは 冷たく輝く紫と金の瞳も今はとても印象が柔らかい。
瑞々しい肌とそこから微かに立ち上る香りに、アルベルトは無意識に生唾を飲み込んでいた。
セニャの言葉が止まる。
艶やかな唇が最初は揶揄うように、次に少しずつ挑発的に歪んでいく。
彼女は現在17歳。
気力も体力も溢れていて自身の欲望にも忠実だ。
アルベルトを見上げる瞳は、食欲ではない欲で輝く肉食獣の瞳を思わせた。
(いけるか?)
内心雄叫びをあげかかったアルベルトではあるが現実はなかなかに厳しい。
アルベルトの紳士さが本能を抑えている間にセニャの理性 が欲望を抑え込んでしまう。彼女にとって今が功績を立てる最高の機会なのだ。
「今お湯とタオルを持って来させるわ。そこに座って頂戴」
ソファーを勧めて自身もアルベルトの隣に座る。
「改めてになるけど2日間も何をしてたのよ」
お互い忙しいことは十分理解しているが感情は別だ。
己 を最優先にして欲しいと思いは常にある。
「部下に調べさせなかったのかい?」
アルベルトはセニャを優しく宥めている。
「数が足りないの。分かってるでしょ」
唇を尖らせると年齢より幼く見える。
婚約者 かにしか見せない表情だ。
「君を誤解させたくなくてね。セニャの真意 を伝えていたんだ」
アルベルトはセニャを優しい目で見下ろす。
「勝手なことをしたことは申し訳ない。けど、セニャが民から恨みを買ったままなんて耐えられないんだ」
「別に、頼んでない、のに」
セニャが動揺し理性 も揺れている。
(私の真意 を……。アルベルトが私を見捨てる訳がないから、角が立たないよう装飾して伝えたのね。そこまでしてくれるなんて)
もう感情が制御できない。
かなり冷えていた体が急速に熱くなるだけでなく、普段は抑えているエーテルが体外に漏れるほど活発化している。
「いいんだ」
アルベルトが静かにうなずく。
セニャも勘違いしていることに気付いてはいないが、アルベルトがセニャを思って実際にセニャのためになることを実行し成功したのは紛れもない事実だ。
なお、セニャの思った通りの行動をしていたら高確率で暴動が起きていた。
「アルベルト」
「セニャ」
視線が交わったまま動かなくなる。
紫と金の瞳が潤んでいく。
アルベルトが両手を広げると、セニャはうっとりとした笑顔を浮かべて飛び込んだ。
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深夜に急報を受け取り飛び起きたセニャが、慣れた様子で戦装束に着替える。
「……危なかった」
急報が後10分遅ければセニャにとって未経験の領域に到達していた。
「落ち着けー、落ち着け私ー」
首筋についた痣を化粧で隠す。
胸についた痣も隠そうとして、下着と服と防具で隠されていることに気付きううむと唸る。
理性はこのまま賊退治に行くべきと判断しているのに心が別のことを強く希望している。
「セニャ、俺も行く」
武人らしく素早く武装を終えた婚約者 が執務室に入ってくる。
初めて会った頃より大きく力強く気配も強く、そしてセニャが己以外の全てを失ったときと同じように頼り甲斐がある。
「共同作業ね」
アルベルトはにやりと笑い、セニャ と共に賊討伐へ向かう。
闇の空に、2つの星がきらめいていた。
assignment【DA】史実ノベル 関連特設ページ
メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。