【DA】リーンエスの耳
レティシア・レインフィール/
ガレス・コーニッシュ
ヴィルフリード・レインフィール/
ジークリッド・レインフィール
『ノベルタイトル:暁月夜、恋時雨』弓月 蒼
●陥穽
――――どうして、と言う想いが心の何処かにあった。
ずっと、そのしこりは消えることなく深い場所に沈殿し続けた。
冒険者と言う道。仮初の自由。突然拓かれたもう1つの選択肢。
諦めていた筈だった。納得した筈だった。吞み込んだ、筈だった。
であれば、ただ粛々と貴族の令嬢としての役割に殉じてしまえば良かった。
別に、それで無くす物など無かった筈。其処で、躓く理由すら持ち合わせていなかった筈。
それでも。最後にそんないずれ絶えるに決まっている隘路に縋った理由が、分からなかった。
何を求めていた訳でもない。何を欲しがっていた訳でもない。
持っていたのは杖一本と、ささやかな癒しの魔法だけ。女の細腕で何が出来る訳でもない。
決められた運命に抗っても、無意味よりもっと酷い結末を迎えるだけだ。
それなのに――――どうして、そんな選択をしてしまったのだろう。
■
「……あの、もう一度、仰って頂けますか」
元はと言えば、以前誕生日のお祝いに故郷まで遠征して来てくれた際に醜態を晒した挙句寝てしまい。
その時世話を掛けたことを謝りたいと態々時間を作って貰った筈が、何故そんな冷えた声が上がる状況に着地するのか。
当人であるレティシア・レインフィールにも分からない。となれば、対峙する黒槍の傭兵であれば尚更だろう。
「自分はこれより帝都へ向かいます。王国が遠征に兵を出すとなれば傭兵の出番も在りましょう。
或いは仮にも主と仰いだ人間が死地に赴こうと言う可能性もあれば。向かわないと言う選択肢は有りません」
『白銀』侯爵領領都、『白銀の古城』シルファリオ。
その中央に存在する『白銀』本邸にて生じていた問題に決着が付いたのが草樹が色付き始める時節のこと。
結果的に眼前の黒槍の傭兵はその事後処理の大半を受け持ち、全て片付いた頃には一つの季節が過ぎ去ろうとしている。
その間、随分足繫く『白銀』へと通っていたレティシアはと言えば。
件の騒動に最初から関わっていながらこれと言った成果を挙げられなかった恥をせめて少しでも注ぐべく。
彼の傭兵が忙殺されそうになる、主に本邸内の人事異動などを影日向となり支えていた訳だが。
果てが無いような苦行にも漸く光明が射し、少しは話をする余裕も出来たかと思えば――――“これ”である。
「自ら死のうとはしない、と。以前お約束頂いた事を憶えていますか」
「勿論。片時も忘れたことは有りません」
「それでも、死地に赴くと。ガレス様はそう仰られるのですか」
「はい。矛盾して聴こえるかもしれませんが、受けた恩義は返さねばなりません」
「そうは言いますけれど…… ~~~~っ……っ」
――――こういう人であることは、分かっていた。元々器用な性質の男性ではない。
けれどその結果、これまで何度死の淵にまで立たされて来たか。流石に忘れている訳ではないだろう。
確かに彼、『黒槍の守り人』ガレス・コーニッシュは一対一であれば世に在る大抵の授恵者より強い。
だが世の中にはそんな、授恵者と言う枠組みをも易々と超えていく怪物達が居ることをレティシアは知っている。
そういった者達と対峙した時、多くの場合彼はその背に護るべき者を抱えていることも。
その度彼女がどれほど心を痛ませて来たか。何度眠れない夜を過ごしたか何て、彼の傭兵はきっと知らない。
「……あの約束を、大切に想っていたのは……私だけですか」
「レティシア殿、それは違います。――――失礼」
言って、自ら羽織った外套の左胸の辺りを探る。怪訝そうにそれを見ていたレティシアに。
ガレスが取り出したのは彼女が以前渡した形見の耳飾り。その片割れだ。
確か、彼女の実父。現レインフィール伯が彼女の母親と婚約した際に贈ったもの。
ガレスとレティシアは別に婚約している訳では無いけれど、それに負けない位に大切な、約束の証。
「願を掛けていたのですが、侮れませんね。事実、こうして生きて再会が叶いました」
胸に未練を秘める。それが傭兵界隈に伝わる生還の慣習であると言う話は、以前古い冒険譚で読んだ事がある。
まさか現実にそんなお祈りめいた事を本当にする人が居るとは、今目の当たりにするまで思っても見なかったが。
瞳を細めた表情はまるで少年の様で、胸に降り募っていた怒りとも哀しみとも言えない感情は。
その行き先を見失い続く言葉を留まらせる。――――それなら、どうして。そういう気持ちが確かにある。
同時に、こうも思うのだ。例え彼女の約束を大切にしてくれているのが事実であるとして。
その優先順は一番ではない。彼にはもっと大切に想う物が他に幾つもある。
(狡い考え)
そんな事を考えてしまう自分が、嫌だった。相手の大切にしている物と比較して。どうして、と言いたくなる衝動。
我儘に過ぎる気持ちの押し付け。けれど、そんな狡い自分が確かに居る事を彼女はもう自覚している。
命を救って貰った。沢山の景色を見せて貰った。多くの戦いを一緒に潜り抜けた。知らない自分とも何度も向き合った。
こんなに沢山の物を受け取っていて、何も返せてなどいないのに。それでも、一瞬でも長く傍に居たいなんて。
泣いて、怒って、癇癪を起こして、酷い顔も多く誰より見せて来た。名前で呼ばれると……今でも落ち着かなくなる。
「……っ、そんな風に言えば、私が静かになると思われましたか……!」
「どうでしょう。そうかもしれませんし、そうでないかもしれません」
不意に、いつでも沈んでいる様な眼差しが、ふっと緩む瞬間が好きだった。
時々、レティシアの事を見る眼差しがとても優しくなる事に、本当はずっと前から気付いていた。
特別なのだ――――と、思う。生と死の狭間で、これほど濃密な時間を異性と過ごした記憶はない。
携えた旅行鞄には、今も羽ペンと便箋が布に包まれ大切に仕舞われている。想いはしんしんと、降り積もる。
そんな日々の決定的な終わりは、思うよりずっとずっと呆気なく訪れた。
■
「レティシア。俺は多分、貴女の事が好きなのだと思います」
、
。
――――、
――――――――。
実際に面と向かってそう告げられた時。それを“どうして”とは思わなかった。ただ頭が真っ白になった。
笑ってしまうような話だ。だって、こんな場面を思い描いたことが一度もないと言ったら噓になる。
そんな自分の浅ましさに、どうにか必死に目を逸らして。傍に居られる限られた時間を宝物のように大切にして来た。
帝都崩壊から此方。王国内の騒乱は各地に混乱と戦場を生み、それらを転々とすることで思いの外長くなったが。
元より旅暮らしは一時の腰掛け。いずれ家に戻り、伯爵家令嬢としての役割を全うする事は既に決まった運命。
レティシアにはそれに抗う心算はなく。未練など引き摺って行っても辛いだけだと分かっていた。
毀れ出さないように、厳重に封をして。目線すら逸らして気付かないようにしていた気持ちはいつしか膨らみ過ぎて。
だからこそこんなにも簡単に罅割れてしまうのだと。――――そんな酷い矛盾を抱えていた事に、今ようやく気が付いた。
「……それ、は」
「与太話の心算はありません。流石に俺も、友誼を指してこんなことは言わない」
「でも……そんな、素振り」
――――無かったか。いいや、それは嘘だ。彼はレティシアに親切だった。
それは彼が恩義に厚い人だから。未だ命を拾う手助けをした事実を引き摺っているからだ何て、酷い欺瞞だ。
知っていた。気付いていた。それなのに、見て見ないまま時を重ねて来た。何故? どうして? ああ、答えは明白だ。
(私は――――私、も――――ああ……)
直視してしまえばこれほど簡単な理由も無い。その気持ちは、自分でも驚くくらい自然と腑に落ちた。
(そう、なんだ――――)
今まさに、怒涛の混乱の最中に居るレティシアへ。差し出されるのは形見の耳飾り。婚約の、証。
そう、そうだ。婚約者が居る。故郷に、ずっと待たせている婚約者が、居る。だから、その気持ちには応えられない。
そう伝えなければいけない。けれど彼の目を見て気付く。知っている。知っていたのだと。
思えば伝えた事も無い故郷の最寄りの街まで独力で訪れる位だ。実家の抱えた事情など疾うに承知の上でも不思議はない。
「不作法者ですから、驚かせたかもしれませんね」
けれど、だとしたらどうして――――と。耳飾りを掌に載せられる段になって、漸くその行為が酷くおかしいと気が付いた。
だって、これは無事の再会を約束する物だ。つい先ほども確認した。彼と彼女が結んだ、約束の証……なのに。
「――――これ」
「お返しします。流石に、預かったままには出来ません」
さっぱりと。まるで一人勝手に納得したような振る舞いに、途端胸に沸いた不安が揺り返す。
これを返すと言う事は、次に会う気はないということ。そして彼は帝都遠征に赴くと、確かに言っていた。
「ガレス様っ!」
「死ぬ気はありません。貴女が生きている限り、岩に噛り付いてでも生きましょう」
瞳には覚悟があった。これから死に行く者の眼差しではない。その位は、レティシアにだって分かる。
分かってしまう程一緒に居た。伝わってしまう程ずっと見て来た。一瞬を何度も切り取って、思い返せるくらい。
「ですがこれで、いずれにせよ時代は一つの区切りを迎える。そして貴女には、帰る場所がある」
視線は、右掌の蒼い宝石の耳飾りへと落ちたまま。動かない。動けない。声すら出ない。
今、彼がどんな表情をしているのか、確かめるのが恐かった。
ガレスとて、紆余曲折はあれど元々侯爵家の令息である。貴族が生まれながらに負う役割は良く分かっている。
それは正しい。レティシアだって認めている。この『王国』に於いては、絶対的に正しい。
けれど――――それでも――――
「こうして一時を過ごす事が出来て良かった。伝えられて良かった。
貴女と出会えた事で、俺はこんな自分が生きていても良い理由を見つけました」
(――――でも私は、まだ、何も)
納得するしかない。納得するしかないことだ。例え胸が、息が出来ない程苦しくても。
自分を説き伏せるのも。騙すのも。誤魔化すのも得意だった。子供の頃からずっと培って来たことだ。
それなのに、全然上手く行かない。どうしたら良いのかも分からない。ただ、無性に哀しかった。
分からないなら分からないなりに取り繕えたら良かったのに。
「幸せになって下さい。今はただそれだけが、俺の願いです」
立ち上がろうとした黒衣の傭兵の外套の裾を、まるで条件反射のように左手の指先が摘まんでいた。
感情が追い付かないまま、ぽろぽろと涙が毀れる。思考はぐるぐる空回る。ただ感情だけが毀れて落ちる。
このまま離れ離れになったら。絶対に後悔すると言う確信があった。
「っ、だったら……一つ、お願いを、しても良いですか」
震える唇で、それでも必死の言葉を紡ぐ。思考は最早千々に乱れて、何一つ纏まらない。
ただ想ったまま。感じたまま。心のままに声を振り絞っていた。
「――――私のことを、抱いて下さい」
●夜闇
本当は、逃げたかっただけなのではないか、と思う事がある。
貴族の令嬢として振る舞う自分を、何処か他人事のように見ているわたしが居る。
そこには喜びも幸せも怒りも哀しみも無い代わり、痛みも無ければ失望も無い。
それで良いと納得した筈だった。でなければ、私はまた周囲の人達を傷付けてしまう。
私とわたしの乖離は時を重ねる事に広がっていった。いつしか気にすらしなくなった。
けれどいつでも最後に足を止めるのが私で、手を引こうとするのはわたしなのだ。
家族を。思い出を裏切るような気持ちを抱いた。もう、それを誤魔化せない。
どうするのが正解なのだろう。もう、あの人は行ってしまったのに。
逃げるように故郷へ戻って、今更何が出来るというのだろう。
そう思うのに――――わたしは、ずっと私の手を引き続ける。
“嘘吐き”
――――そう。どうせ私は、嘘吐きです。だからもう黙っていて。
■
「……なるほど」
重く。ただ、重く。レインフィール伯爵家当主、ヴィルフリード・レインフィールは我が子からの報告を受け取り息を吐いた。
現在、同家は混迷の只中に在る。レインフィールは長く続く『中立派』の家系だ。
『中立派』は派閥盟主である『紅百合』を失ってより殆どの家は凋落の一途を辿ったが。
狡猾とすら言える外交戦術で以て家格を保った同家の血統は、社交界でも一定敬意を以て受け入れられている。
だが、だからこそこの王国貴族界の大転換期に於いて一歩出遅れていることもまた、否めない。
目端の利く家は早々に派閥を移る準備を進め。或いは決断の早い幾つかの家は既に第二王子に娘を嫁がせようとしたと聞く。
こうなると。レインフィールもまた旧態依然とした振る舞いで、座して見守るという訳にもいかない。
何かしら手を打つべき時流であり、其処まではヴィルフリードも重々承知している。
が、しかし。その駒として最愛の人の娘が使われるとなれば。まるで話は変わってくる。
「それで、その『黒槍』の長男……か。それと、レティシアの関係は何処まで進んでいる」
「其処までは何とも。ですが、調べの限りに於いて互いに想いあっている事は間違えようも無いかと思います」
もう一つの声の主。血の繋がらない息子であるジークリッド・レインフィールの言に。
ヴィルフリードは困惑を押し殺す様に椅子の背凭れに身を預ける。軋む音がまるで悲鳴の如く仄暗い私室へ響く。
「血は争えない……か」
「どうしますか、父上。必要であれば相応の手段を取る事も出来ますが」
ジークリッドの手勢は武門のそれではない。戦場で真っ向勝負となれば正規の騎士には歯が立つまい。
しかし秘密裏の暗殺であればその限りではない。其処まで知った上で、ヴィルフリードは確り一分ほど点を仰いだ。
「同格の伯爵家との婚姻。それも此方の都合で延期させている縁談を一方的に切るとなれば、社交界での信用は地に墜ちるな」
「多少は揉めるでしょうが、それでも最終的には納得するでしょう。アレンはそう言う男です」
親友を、尚も客観的に評し判断を下す。妹には決して見せられない、けれどそれもジークリッドの確かな一面である。
こういった時、彼は自分の情動を意識的に切り捨てる。感情が判断を鈍らせる事を、彼は母親から良く学んでいた。
「当人が納得しようとも、世論はそうはいかない。何せ『黒槍』の長男はあの北方辺境伯が罰した男だ」
「家の信用とレティシアの貴族としての未来。いずれも傷付けた上で認める程の男かは、疑問の余地が有りますが」
否。本来であれば一考の余地すらない。まるで比較にならないとすら言って良い。
それを“疑問”の位置まで留めているのは、彼ら両名に共通する我が娘と息子への“罪悪感”だ。
今のレインフィールは、レティシアを犠牲にすると言う前提の上で成り立っている。
それを許容すべきか、と言う点に於いて。現伯爵とその後継。いずれもが首を縦に振り切れないでいるのだから。
「……レティシアは」
「『白銀』領から戻り次第塞ぎ込んだまま、今日も部屋から出て来ませんでした」
(そんな所まで、良く似ている)
だからこそ、放ってはおけない。後悔ならこの15年ずっとし続けて来た。これ以上喪うのは御免だ。
視線を伏せて何らかの決意を固めるヴィルフリードを一瞥し、ジークリッドは気付かれない程そっと息を吐く。
全く――――世話の掛かる父だ。手間が掛かるのは妹だけで十分だと言うのに。
それでも、ずっとすれ違っていた家族が対峙出来るのは、きっとこれが最後の機会だろうと思えた。
葛藤は有る。納得が出来ている訳でもない。けれど――――どうせ次代この家を背負うのは自らの役割だ。
であるならば。妹の幸せを優先することに、躊躇いなど有るわけが無い。
■
三度、扉が鳴る。ずっと寝台に顔を伏せたままだったレティシアが、乱れた髪で身を起こす。
今は侍女にすら見せられる状態ではない。風体も、衣類も、乱れに乱れてとても人前に姿を晒せない。
家臣達は、レティシアが黙ってさえいれば無理に部屋に入っては来ない。嵐が過ぎ去るのを待つ様に、視線を落とす。
「――――レティシア」
……お父様。その意外過ぎる人選に、ずっと澱みに沈んでいた意識が途端浮かび上がる。
流石に家長が直接部屋を訪れたとなれば過ぎるままにもしておけない。姿見に映った自分を見て悲鳴が上がりそうになった。
まるで乱暴でもされた様な装いだ。これは駄目だ。例え家族であっても――――家族だからこそ、駄目だ。
「少し、待って下さい」
自暴自棄と言って良い気持ちであるのに、貴族令嬢の振りだけは欠かさない。
そんな自分にほとほと愛想が尽きる。借り物の身分。偽りの振る舞い。張りぼての笑顔。何て薄っぺらい。
着替えを終えて、薄い化粧で目の下に浮かんだ隈を隠して。無理に繕った表情を張り付けて……扉を開ける。
「どう為されたんですか、お父様。執務は……」
「話をしないか、これからの」
ヴィルフリードの言葉に、心が凍り付く。これからの。つまり……嫁ぎ先の、と言う事だろう。
ずっと覚悟はしていた。今の婚約者に不満など無かったし、そもそも逃げ場何て一つも無かった。
分かっていたこと。だからいつもの様に振る舞えた。来るべき時がやって来た。それだけの話だ。
「分かりました、執務室でお待ち下さい。準備を整えてから伺います」
言葉を探す様に黙り込んだヴィルフリードを余所に、扉が閉まる。そこには寒々しい断絶だけがあった。
かつて、レティシアには好きな人が居た。けれどその人は平民で、身分の差から結ばれる事はないと分かっていた。
“お母様”には酷く叱責された。それだけに飽き足らず、貴族の社会は当然に身の程知らずの平民を弾いた。
恐ろしかった。人は、“違う”立場の人間には何処までも残酷になれる事を知った。
無理難題を突き付けられ、無能の烙印を押された騎士見習いの青年は、何一つ成し遂げられず彼女に看取られ逝った。
そんな“人間の選別”を、当たり前行うのが社交界と言う名の華やかで煌びやかな伏魔殿だ。
その中では身分の低い人間の命など娯楽の一環で潰えるのだと思い知った。その事実に心底恐怖した。
(あの時も、そう。例え誰かに嫁いでも――――気持ちは、貴方と共にと。そう誓った筈なのに)
“彼”が死んだ時。その瞬間の気持ちは、間違いなく真実だった。
それなのに、先日黒衣の傭兵から別れを告げられた時。その事実は一瞬たりと脳裏を過ぎりはしなかった。
あまりにも薄情な話だ。自分はこれほど不義理な人間だっただろうかと愕然とする。
何が酷いかと言えば、事ここに至ってすら。命すら懸けてくれた彼の事より、自分の気持ちの事を考えていること。
人は最初に香りを忘れると言う。次に声を。姿を。最後に顔を。幸い、姿と顔は未だはっきり思い出せる。
けれど、香りと声は既にして曖昧だ。これが、こんなものが人を好きになる、と言う事なのであれば。
(――――私は、また、忘れられる……?)
この別れも。胸を割く様な痛みも。身を苛む寂しさも。時と共に掠れて消えて行くのだろうか。
自分の腕を撫でる。外套越しでは体温すら感じられなかったのに、抱き留められた感触が消えない。
「……意気地なし」
紛らわしい言い方をしたとは声に出してから気付いたが、誤解されても良いと。本気でそう思ったのだ。
もう子供ではない。例え結果自分が酷く傷付くとしても……今なら甘んじて受け入れられると。
それなのに、込み上げて来た涙の衝動を抑える為には膝を付いて手を握り、呼吸すら止める必要があった。
これからお父様と顔を合わせるのに、涙の筋など残してはいけない。泣いては駄目。泣いては――――駄目。
●対峙
諦めるのは得意だと思っていた。
沢山の物を棄ててきた。大勢の人を犠牲にしてきた。だから、誰も傍には居てくれない。
当たり前の話だった。大切な筈のものを何一つ守れない、傷付けるばかりの女なんて。
自分が紳士の立場であっても願い下げだ。そんなのは、きっと誰であっても同じこと。
貴族は謝るべきではない。軽々しく謝ることを赦せば、民草はそれに倣うものだからと。
以前そう叱られた事を憶えている。強く、鋭い、けれど何処か優しい、丁寧に研がれた武具の様な方。
その叱責に驚いて、けれどその指摘は至極正しいと納得出来た。簡単に決めた気は無かったけれど。
それでもきっと、私は諦め過ぎていた。自分が黙れば上手く行く。それは、多分間違いだった。
直そうと思ったのだ、その悪癖を。簡単に下がらないように。謝らないように。諦めない……ように。
“嘘吐き”
そう。結局自分が可愛かった。言葉にするのが恐かった。最後の最後で、また一人だけ、逃げた。
なのに――――私は、まだ。
■
レインフィール邸執務室。ヴィルフリードは実の娘と対峙するや、開口一番こう告げた。
「単刀直入に伝えよう。レティシア、お前に『集権派』への嫁ぎ話が出ている」
――――そういう事か、と。辻斬り同然に切り出された婚姻話に、レティシアの心は静かに凪いでいた。
“お母様”の考えそうなことだった。今、貴族社会は文字通りの大転換期に在る。
『貴族派』が傾き、『王党派』が纏まり切らない中、“王家の方針”と言う後ろ盾を持つ新興の第三派閥。
『集権派』は如何にもこれから時代の中核を為して行く様に思える。帝都奪還が成れば尚更に。
何せ派閥盟主となる予定のウィリアム・リーンエス“公爵”は次代皇帝の義兄にして王家の直系だ。
これだけ強固な土台が揃えば先ず当分安泰と言える。“元白薔薇系”の『貴族派』よりずっと魅力的だろう。
「アレンヴァルト様との婚約はどう為される御心算ですか」
「事が上手く運べば破談となるだろう。当然、事が此処まで進んだ上での破談となれば家名にも傷が付く。
が、当家の誠意としてローゼングランツに一切の瑕疵は無かったと説明する予定だ」
断定的に告げるヴィルフリードは、けれど伺う様な視線をレティシアへ向ける。
レティシアとその婚約者であるアレンヴァルトは学生時分からの付き合いだ。その縁故も大概長い。
まさかレティシア個人の意見を確認しているのだろうか。今更? これまで何一つ聞いてくれなかったのに?
何処かささくれた、捨て鉢の様な気持ちが無かったと言えば噓になる。感情を抑える箍の幾つかが罅割れる。
「……、……。……分かりました。では、その様に」
「それで本当に良いのか」
真っ直ぐ見つめるヴィルフリードの問に。胸中で幾つもの反論が浮かんで消える。
良くはなかった。ずっと、ずっと、良くなんてなかった。それでも押し殺して頷いて来たのだ。
お父様もお母様も、私の犠牲になったのだから。私が、全て奪ってしまったのだから。
だから――――仕方ない。そう、自分に言い聞かせて。何を奪われても、喪くしても、仕方ない、と。
“幸せになって下さい”
(―――― これで 私は 幸せ?)
――――幸せに――――なんて。なって良いのだろうか。と、ただ漠然と。そんな忌避感があった。
お母さんは、幸せになりたかった筈。お父様だって、幸せになりたかった筈。お母様だって、そう。
お母様に殺された彼だって、今も闘病を続ける先生だって、禁忌と呼ばれた彼女だって、皆が皆。幸せになりたかった筈。
それなのに、私だけが幸せになるなんて出来ない。そんな我儘を言っては駄目。そんな狡い事をしてはいけない。
レティシア・レインフィールはあくまで、レインフィール伯爵家の礎とならなければならない。
それが貴族令嬢としての。生きることを赦された私の、義務。
“――――今はただそれだけが”
(あの人が ただそれだけを 望んでくれたのに)
―――――――――――――――て。
――――――――どうして。
――――どうして。
どうして、どうして、どうして、どうして。
おかあさんは、あなたがくるしいほうがうれしいの?
おとうさんは、あなたがないてるすがたをみたがるの?
あなたのすきだったひとは――――あなたのふこうをのぞむの?
―――― そんなこと ないでしょう レティ
■
おかあさん。また、ご本読んで
レティは本当に、その物語が好きね
うん、だって――――最後は皆が――――
■
「――――好きな人が、居ます」
――――執務室に、空白が生まれた。
娘から毀れたその言葉からきっかり一拍置いて、ヴィルフリードは瞳を閉じ。静かに頷いた。
「それは、どこの貴族かな」
「貴族ではありません。元々は騎士でしたが、今は傭兵をしています。
血筋は貴族の生まれと聞いています。でも、あの方はきっと、もう貴族として生きる気は無いのではないかと」
「そんな何処の馬の骨とも知れない男に誑かされた、と?」
「はい、ごめんなさいお父様。貴方の娘は“そんな何処の馬の骨とも知れない男に誑かされ”ました」
真っ直ぐに、ヴィルフリードを見つめて応じたレティシアの言に。
それが世迷言の類“ではない”ことをはっきりと悟り、執務机から天井を仰ぐ。
冒険者をしてみたい、と言い出した時。正直に言えばヴィルフリードは余りそれを肯定的に捉えていなかった。
何せレティシアは箱入りだ。これでもかと言う程に深窓の令嬢であり、『学園』での矯正など高が知れている。
世俗には誘惑も多い。私生活で身を持ち崩す貴族の令嬢令息など枚挙に暇が無い。
妻の視界から外れる事が娘の安全に繋がるとは言え、道を踏み外しはしないかと。不安があった事は否めない。
結果が、これだ。良き出会いが有ったのだろう。多くの経験を経たのだろう。喜びも哀しみも積み重ねたのだろう。
彼の知らない間に、彼の娘は随分としなやかに、強かに育っていた。瞠目するほどに。
「それは家族より大切な相手かい」
「家族とは比べられません。それでも、私にとって一番大切な……失くせない男性です」
「それがどういう意味を持つか、分かっていない訳では無いね。彼女はさぞ激昂するだろう」
「はい、分かっている心算です」
調べた限り、件の男。ガレス・コーニッシュとやらは大した腕前の傭兵であると聞く。
或いは、以前の如く妻が怒り狂ったとしても。そうそう容易に殺されるような実力ではあるまい。
愛娘を一時預ける相手としては……内心の憂慮は無論あれども、比較的適切寄りの人材だと言って良い。
究極的な見極めは、いずれ自分で行えば良いだけの話だ。
「これまで御世話に――――「待ちなさい、レティ」
遮った父の声に、驚いたのはレティシアの側だ。この十数年。ヴィルフリードが彼女を愛称で呼んだ事など無い。
数度瞬いて黙り込んだ彼女へ、指を組み替えてその父親は大きく。大きく溜息を溢した。
「一度決めたら静止の暇すら無い。君は、本当にお母さんに良く似ている」
「……お父……様?」
「妻には私から話そう。どちらにせよ激昂はするだろうが、こればかりは夫の役目だ。
君と、その想い人には実害を齎さないと、『慈涙伯』の名に於いて誓約する」
『慈涙』それは慈悲の雨を意味する“中立派の調停者”に与えられた二つ名である。
かつて『貴族派』と『王党派』が泥沼の消耗戦をしていた時代。その両者に私財を投げ売って対話の場を設けた。
その慈愛の精神を評しての称号で有り、『中立派』そのものが傾いてより呼ばれる事も無くなって久しい。
さりとて。その家門の性質は仲裁と調整に向き、時に恫喝をも含めた対話による休戦交渉をこそ得手とする。
今代『慈涙伯』もまたその多聞に漏れず――――帝都の花を口説き落とした弁舌は決して鈍ってはいない。
「でも、それではお父様が……」
「レティはほとぼりが冷めるまで旅に戻りなさい。こちらが落ち着いたら、いずれ手紙でも出すとしよう」
本当は、もう二度と実家の敷居を跨がない覚悟で反発した。けれど、ヴィルフリードにはそんな気は更々無いらしい。
であれば、良いのだろうか。何も捨てる事なく、こんな我儘を通してしまっても。
「但し、アレンヴァルト君とジークにはいずれ自分で謝ること。義理を欠いてはいけない」
「……はい、分かりました。あの、でもお父様。お母様は本当に恐い方で――――」
「大丈夫、心配はいらない。お父さんを信じなさい。と、今更言っても説得力に欠けるかもしれないが。
知らないだろうが、私にもこういう時の為に温めておいた切り札があるんだよ」
「切……り、札……?」
重々しく頷く父親の仕草に、義母の恐ろしさを心から思い知るレティシアはおずおず疑惑の眼差しを向けるも……
「そう。男女の戦いは惚れた方の負け、と言うね」
そう言って、何処かさっぱりと片目を閉じたヴィルフリードは、まるで幾つかも若返ったようで。
レティシアも思わず。父親には未だかつて見せた事も無い、苦笑いを浮かべたのだった。
●旅立ち
――――どうして、と言う想いが心の何処かにあった。
ずっと、そのしこりは消えることなく深い場所に沈殿し続けた。
冒険者と言う道。仮初の自由。突然拓かれたもう1つの選択肢。
諦めていた筈だった。納得した筈だった。吞み込んだ、筈だった。
けれど、そんなのは嘘だ。お母さんは、最期まで私の事を気に掛けてくれていた。
お父さんとは、ずっと擦れ違ってしまっていたけれど。
私はお父さんのこと。お父さんは私のこと。漸くお互いが見える様になったように思う。
好きだったあの人の墓前には、いつか必ず謝りに行こう。
それでももう、後悔はしない。失くした分。間違えた分。幸せにならないといけない。
“そうね、レティ そうなったら素敵ね”
人は、最初に香りを忘れると言う。次に声を。姿を。最後に顔を。
その声はいつでも手を引こうとしていた。忘れていたのは、私の方。
だって、わたしは大好きだった筈だ。あの声で紡がれる物語が。何故なら
“だって――――最後は皆が、めでたしめでたしで終わるもの”
それは私とお母さんの。一番最初の願いだった筈だから。
■
羽ペンと便箋。対となる蒼い宝石の耳飾り。それらを手巾に包んで鞄に仕舞う。
自室を出ると、家は普段と比べてずっと静か。まるでこの広い屋敷の中に誰も居ないかのよう。
何でもお父様が、お母様を誘って街に出たと聞いている。戻った後が今から恐い。
勿論、これがささやかな気遣いの類だと気付かない程には、レティシアももう世間知らずではない。
今のうちに家を出ないと。と、以前はあれほど恐ろしかった家の境界を超えると――――両開きの扉の外。
普段であれば家臣たちが控えている様な位置に、昨日は見掛けなかったジークリッドが待ち構えていた。
「もう行くのかい、レティ」
その問い掛けだけで、ヴィルフリードからジークリッドへ昨日の話は伝わっている事が分かる。
婚約者との間を取り持ってくれたのは兄だった。酷い不義理を働いている。その自覚はレティシアにもある。
けれど、そこで何だかんだと理由をつけて足を竦ませていては。“これから変わる事”なんて、出来ない。
「お兄様、私は……」
「父上から話は聞いている。アレンには、僕からも謝っておこう」
「そんな、お兄様は何も悪くありません! 悪いのは全部――――っ」
思わず強く言い募りそうになったレティシアの唇に、ジークリッドの人差し指が向けられる。
当たるか当たらないかの距離に、思わず言葉を途切れさせない訳にもいかないが。
「別れ話で、好きな女性に謝られるほど辛いことも無い物だよ。
大丈夫。アレンは僕が認めた男だ。今時あれほど一途で、けれど我慢強い奴もそうは居ない」
果たして、割と酷い批評を聞きながら。けれどもレティシアにも心当たりが全く無いでも無い。
結局、数年単位の付き合いが有りながら。アレンヴァルトは結婚の時期を延ばし続ける彼女を待ち続けた。
それは或いは――――彼女の幸せを願うからこそ。
(……本当に、私は。ここまで多くの人に見守られて……それに気付かないで生きて来たのですね)
背を伸ばし、大きく頭を下げる。貴族は謝るべきではないと教え、諭された事を忘れた訳では無いが。
同時に。人は真意から悪いことをしたと思ったなら自然と頭が下がる物だ。それは多分、間違いではない。
「お兄様、ありがとうございます。アレン様に、次に御逢い出来た時には必ず謝罪と、償いを」
「償いはいらないよ。代わりに」
確りと言葉を切ると。ジークリッドは瞳を伏せ、笑う。深く、深く、理解と納得を込めて。
「話に聞くレティの想い人に“一回全力で殴らせろ”と伝えておいて欲しいな」
「――――もう、お兄様ったら。では、逢えたら伝えておきますね」
この兄には珍しい類の冗談だと、レティシアは思わず笑いを溢す。これも男同士ならでは、と言う奴だろう。
微笑んで妹を見送る兄の瞳の奥の奥には諧謔の色など一片も浮かんでいない訳だが、思い込みとはかくも強固な物。
レティシアにとってのジークリッドはあくまで優しいお兄様であり、ジークリッドにとっては世話の掛かる妹。
それがレティシアの側だけの認識であると彼女自身が気付かなかったことは、恐らく幸運の類だったのだろう。
「いってらっしゃい、気を付けて」
「はい、お兄様……行ってきます」
兄妹はそうして別れた。それは一人にとっての区切りであり、一人にとっての旅立ち。
――――或いは随分と長く掛かってしまった、一つの初恋の終わりだった。
かくて夜闇の穂先を追い求め、銀月の娘は今一度涙雨の郷を発つ。
時に中原の趨勢を決める帝都奪還の大遠征を間近に控えた――――枯れ葉舞い散る、秋の末のことである。
――――どうして、と言う想いが心の何処かにあった。
ずっと、そのしこりは消えることなく深い場所に沈殿し続けた。
冒険者と言う道。仮初の自由。突然拓かれたもう1つの選択肢。
諦めていた筈だった。納得した筈だった。吞み込んだ、筈だった。
であれば、ただ粛々と貴族の令嬢としての役割に殉じてしまえば良かった。
別に、それで無くす物など無かった筈。其処で、躓く理由すら持ち合わせていなかった筈。
それでも。最後にそんないずれ絶えるに決まっている隘路に縋った理由が、分からなかった。
何を求めていた訳でもない。何を欲しがっていた訳でもない。
持っていたのは杖一本と、ささやかな癒しの魔法だけ。女の細腕で何が出来る訳でもない。
決められた運命に抗っても、無意味よりもっと酷い結末を迎えるだけだ。
それなのに――――どうして、そんな選択をしてしまったのだろう。
■
「……あの、もう一度、仰って頂けますか」
元はと言えば、以前誕生日のお祝いに故郷まで遠征して来てくれた際に醜態を晒した挙句寝てしまい。
その時世話を掛けたことを謝りたいと態々時間を作って貰った筈が、何故そんな冷えた声が上がる状況に着地するのか。
当人であるレティシア・レインフィールにも分からない。となれば、対峙する黒槍の傭兵であれば尚更だろう。
「自分はこれより帝都へ向かいます。王国が遠征に兵を出すとなれば傭兵の出番も在りましょう。
或いは仮にも主と仰いだ人間が死地に赴こうと言う可能性もあれば。向かわないと言う選択肢は有りません」
『白銀』侯爵領領都、『白銀の古城』シルファリオ。
その中央に存在する『白銀』本邸にて生じていた問題に決着が付いたのが草樹が色付き始める時節のこと。
結果的に眼前の黒槍の傭兵はその事後処理の大半を受け持ち、全て片付いた頃には一つの季節が過ぎ去ろうとしている。
その間、随分足繫く『白銀』へと通っていたレティシアはと言えば。
件の騒動に最初から関わっていながらこれと言った成果を挙げられなかった恥をせめて少しでも注ぐべく。
彼の傭兵が忙殺されそうになる、主に本邸内の人事異動などを影日向となり支えていた訳だが。
果てが無いような苦行にも漸く光明が射し、少しは話をする余裕も出来たかと思えば――――“これ”である。
「自ら死のうとはしない、と。以前お約束頂いた事を憶えていますか」
「勿論。片時も忘れたことは有りません」
「それでも、死地に赴くと。ガレス様はそう仰られるのですか」
「はい。矛盾して聴こえるかもしれませんが、受けた恩義は返さねばなりません」
「そうは言いますけれど…… ~~~~っ……っ」
――――こういう人であることは、分かっていた。元々器用な性質の男性ではない。
けれどその結果、これまで何度死の淵にまで立たされて来たか。流石に忘れている訳ではないだろう。
確かに彼、『黒槍の守り人』ガレス・コーニッシュは一対一であれば世に在る大抵の授恵者より強い。
だが世の中にはそんな、授恵者と言う枠組みをも易々と超えていく怪物達が居ることをレティシアは知っている。
そういった者達と対峙した時、多くの場合彼はその背に護るべき者を抱えていることも。
その度彼女がどれほど心を痛ませて来たか。何度眠れない夜を過ごしたか何て、彼の傭兵はきっと知らない。
「……あの約束を、大切に想っていたのは……私だけですか」
「レティシア殿、それは違います。――――失礼」
言って、自ら羽織った外套の左胸の辺りを探る。怪訝そうにそれを見ていたレティシアに。
ガレスが取り出したのは彼女が以前渡した形見の耳飾り。その片割れだ。
確か、彼女の実父。現レインフィール伯が彼女の母親と婚約した際に贈ったもの。
ガレスとレティシアは別に婚約している訳では無いけれど、それに負けない位に大切な、約束の証。
「願を掛けていたのですが、侮れませんね。事実、こうして生きて再会が叶いました」
胸に未練を秘める。それが傭兵界隈に伝わる生還の慣習であると言う話は、以前古い冒険譚で読んだ事がある。
まさか現実にそんなお祈りめいた事を本当にする人が居るとは、今目の当たりにするまで思っても見なかったが。
瞳を細めた表情はまるで少年の様で、胸に降り募っていた怒りとも哀しみとも言えない感情は。
その行き先を見失い続く言葉を留まらせる。――――それなら、どうして。そういう気持ちが確かにある。
同時に、こうも思うのだ。例え彼女の約束を大切にしてくれているのが事実であるとして。
その優先順は一番ではない。彼にはもっと大切に想う物が他に幾つもある。
(狡い考え)
そんな事を考えてしまう自分が、嫌だった。相手の大切にしている物と比較して。どうして、と言いたくなる衝動。
我儘に過ぎる気持ちの押し付け。けれど、そんな狡い自分が確かに居る事を彼女はもう自覚している。
命を救って貰った。沢山の景色を見せて貰った。多くの戦いを一緒に潜り抜けた。知らない自分とも何度も向き合った。
こんなに沢山の物を受け取っていて、何も返せてなどいないのに。それでも、一瞬でも長く傍に居たいなんて。
泣いて、怒って、癇癪を起こして、酷い顔も多く誰より見せて来た。名前で呼ばれると……今でも落ち着かなくなる。
「……っ、そんな風に言えば、私が静かになると思われましたか……!」
「どうでしょう。そうかもしれませんし、そうでないかもしれません」
不意に、いつでも沈んでいる様な眼差しが、ふっと緩む瞬間が好きだった。
時々、レティシアの事を見る眼差しがとても優しくなる事に、本当はずっと前から気付いていた。
特別なのだ――――と、思う。生と死の狭間で、これほど濃密な時間を異性と過ごした記憶はない。
携えた旅行鞄には、今も羽ペンと便箋が布に包まれ大切に仕舞われている。想いはしんしんと、降り積もる。
そんな日々の決定的な終わりは、思うよりずっとずっと呆気なく訪れた。
■
「レティシア。俺は多分、貴女の事が好きなのだと思います」
、
。
――――、
――――――――。
実際に面と向かってそう告げられた時。それを“どうして”とは思わなかった。ただ頭が真っ白になった。
笑ってしまうような話だ。だって、こんな場面を思い描いたことが一度もないと言ったら噓になる。
そんな自分の浅ましさに、どうにか必死に目を逸らして。傍に居られる限られた時間を宝物のように大切にして来た。
帝都崩壊から此方。王国内の騒乱は各地に混乱と戦場を生み、それらを転々とすることで思いの外長くなったが。
元より旅暮らしは一時の腰掛け。いずれ家に戻り、伯爵家令嬢としての役割を全うする事は既に決まった運命。
レティシアにはそれに抗う心算はなく。未練など引き摺って行っても辛いだけだと分かっていた。
毀れ出さないように、厳重に封をして。目線すら逸らして気付かないようにしていた気持ちはいつしか膨らみ過ぎて。
だからこそこんなにも簡単に罅割れてしまうのだと。――――そんな酷い矛盾を抱えていた事に、今ようやく気が付いた。
「……それ、は」
「与太話の心算はありません。流石に俺も、友誼を指してこんなことは言わない」
「でも……そんな、素振り」
――――無かったか。いいや、それは嘘だ。彼はレティシアに親切だった。
それは彼が恩義に厚い人だから。未だ命を拾う手助けをした事実を引き摺っているからだ何て、酷い欺瞞だ。
知っていた。気付いていた。それなのに、見て見ないまま時を重ねて来た。何故? どうして? ああ、答えは明白だ。
(私は――――私、も――――ああ……)
直視してしまえばこれほど簡単な理由も無い。その気持ちは、自分でも驚くくらい自然と腑に落ちた。
(そう、なんだ――――)
今まさに、怒涛の混乱の最中に居るレティシアへ。差し出されるのは形見の耳飾り。婚約の、証。
そう、そうだ。婚約者が居る。故郷に、ずっと待たせている婚約者が、居る。だから、その気持ちには応えられない。
そう伝えなければいけない。けれど彼の目を見て気付く。知っている。知っていたのだと。
思えば伝えた事も無い故郷の最寄りの街まで独力で訪れる位だ。実家の抱えた事情など疾うに承知の上でも不思議はない。
「不作法者ですから、驚かせたかもしれませんね」
けれど、だとしたらどうして――――と。耳飾りを掌に載せられる段になって、漸くその行為が酷くおかしいと気が付いた。
だって、これは無事の再会を約束する物だ。つい先ほども確認した。彼と彼女が結んだ、約束の証……なのに。
「――――これ」
「お返しします。流石に、預かったままには出来ません」
さっぱりと。まるで一人勝手に納得したような振る舞いに、途端胸に沸いた不安が揺り返す。
これを返すと言う事は、次に会う気はないということ。そして彼は帝都遠征に赴くと、確かに言っていた。
「ガレス様っ!」
「死ぬ気はありません。貴女が生きている限り、岩に噛り付いてでも生きましょう」
瞳には覚悟があった。これから死に行く者の眼差しではない。その位は、レティシアにだって分かる。
分かってしまう程一緒に居た。伝わってしまう程ずっと見て来た。一瞬を何度も切り取って、思い返せるくらい。
「ですがこれで、いずれにせよ時代は一つの区切りを迎える。そして貴女には、帰る場所がある」
視線は、右掌の蒼い宝石の耳飾りへと落ちたまま。動かない。動けない。声すら出ない。
今、彼がどんな表情をしているのか、確かめるのが恐かった。
ガレスとて、紆余曲折はあれど元々侯爵家の令息である。貴族が生まれながらに負う役割は良く分かっている。
それは正しい。レティシアだって認めている。この『王国』に於いては、絶対的に正しい。
けれど――――それでも――――
「こうして一時を過ごす事が出来て良かった。伝えられて良かった。
貴女と出会えた事で、俺はこんな自分が生きていても良い理由を見つけました」
(――――でも私は、まだ、何も)
納得するしかない。納得するしかないことだ。例え胸が、息が出来ない程苦しくても。
自分を説き伏せるのも。騙すのも。誤魔化すのも得意だった。子供の頃からずっと培って来たことだ。
それなのに、全然上手く行かない。どうしたら良いのかも分からない。ただ、無性に哀しかった。
分からないなら分からないなりに取り繕えたら良かったのに。
「幸せになって下さい。今はただそれだけが、俺の願いです」
立ち上がろうとした黒衣の傭兵の外套の裾を、まるで条件反射のように左手の指先が摘まんでいた。
感情が追い付かないまま、ぽろぽろと涙が毀れる。思考はぐるぐる空回る。ただ感情だけが毀れて落ちる。
このまま離れ離れになったら。絶対に後悔すると言う確信があった。
「っ、だったら……一つ、お願いを、しても良いですか」
震える唇で、それでも必死の言葉を紡ぐ。思考は最早千々に乱れて、何一つ纏まらない。
ただ想ったまま。感じたまま。心のままに声を振り絞っていた。
「――――私のことを、抱いて下さい」
●夜闇
本当は、逃げたかっただけなのではないか、と思う事がある。
貴族の令嬢として振る舞う自分を、何処か他人事のように見ているわたしが居る。
そこには喜びも幸せも怒りも哀しみも無い代わり、痛みも無ければ失望も無い。
それで良いと納得した筈だった。でなければ、私はまた周囲の人達を傷付けてしまう。
私とわたしの乖離は時を重ねる事に広がっていった。いつしか気にすらしなくなった。
けれどいつでも最後に足を止めるのが私で、手を引こうとするのはわたしなのだ。
家族を。思い出を裏切るような気持ちを抱いた。もう、それを誤魔化せない。
どうするのが正解なのだろう。もう、あの人は行ってしまったのに。
逃げるように故郷へ戻って、今更何が出来るというのだろう。
そう思うのに――――わたしは、ずっと私の手を引き続ける。
“嘘吐き”
――――そう。どうせ私は、嘘吐きです。だからもう黙っていて。
■
「……なるほど」
重く。ただ、重く。レインフィール伯爵家当主、ヴィルフリード・レインフィールは我が子からの報告を受け取り息を吐いた。
現在、同家は混迷の只中に在る。レインフィールは長く続く『中立派』の家系だ。
『中立派』は派閥盟主である『紅百合』を失ってより殆どの家は凋落の一途を辿ったが。
狡猾とすら言える外交戦術で以て家格を保った同家の血統は、社交界でも一定敬意を以て受け入れられている。
だが、だからこそこの王国貴族界の大転換期に於いて一歩出遅れていることもまた、否めない。
目端の利く家は早々に派閥を移る準備を進め。或いは決断の早い幾つかの家は既に第二王子に娘を嫁がせようとしたと聞く。
こうなると。レインフィールもまた旧態依然とした振る舞いで、座して見守るという訳にもいかない。
何かしら手を打つべき時流であり、其処まではヴィルフリードも重々承知している。
が、しかし。その駒として最愛の人の娘が使われるとなれば。まるで話は変わってくる。
「それで、その『黒槍』の長男……か。それと、レティシアの関係は何処まで進んでいる」
「其処までは何とも。ですが、調べの限りに於いて互いに想いあっている事は間違えようも無いかと思います」
もう一つの声の主。血の繋がらない息子であるジークリッド・レインフィールの言に。
ヴィルフリードは困惑を押し殺す様に椅子の背凭れに身を預ける。軋む音がまるで悲鳴の如く仄暗い私室へ響く。
「血は争えない……か」
「どうしますか、父上。必要であれば相応の手段を取る事も出来ますが」
ジークリッドの手勢は武門のそれではない。戦場で真っ向勝負となれば正規の騎士には歯が立つまい。
しかし秘密裏の暗殺であればその限りではない。其処まで知った上で、ヴィルフリードは確り一分ほど点を仰いだ。
「同格の伯爵家との婚姻。それも此方の都合で延期させている縁談を一方的に切るとなれば、社交界での信用は地に墜ちるな」
「多少は揉めるでしょうが、それでも最終的には納得するでしょう。アレンはそう言う男です」
親友を、尚も客観的に評し判断を下す。妹には決して見せられない、けれどそれもジークリッドの確かな一面である。
こういった時、彼は自分の情動を意識的に切り捨てる。感情が判断を鈍らせる事を、彼は母親から良く学んでいた。
「当人が納得しようとも、世論はそうはいかない。何せ『黒槍』の長男はあの北方辺境伯が罰した男だ」
「家の信用とレティシアの貴族としての未来。いずれも傷付けた上で認める程の男かは、疑問の余地が有りますが」
否。本来であれば一考の余地すらない。まるで比較にならないとすら言って良い。
それを“疑問”の位置まで留めているのは、彼ら両名に共通する我が娘と息子への“罪悪感”だ。
今のレインフィールは、レティシアを犠牲にすると言う前提の上で成り立っている。
それを許容すべきか、と言う点に於いて。現伯爵とその後継。いずれもが首を縦に振り切れないでいるのだから。
「……レティシアは」
「『白銀』領から戻り次第塞ぎ込んだまま、今日も部屋から出て来ませんでした」
(そんな所まで、良く似ている)
だからこそ、放ってはおけない。後悔ならこの15年ずっとし続けて来た。これ以上喪うのは御免だ。
視線を伏せて何らかの決意を固めるヴィルフリードを一瞥し、ジークリッドは気付かれない程そっと息を吐く。
全く――――世話の掛かる父だ。手間が掛かるのは妹だけで十分だと言うのに。
それでも、ずっとすれ違っていた家族が対峙出来るのは、きっとこれが最後の機会だろうと思えた。
葛藤は有る。納得が出来ている訳でもない。けれど――――どうせ次代この家を背負うのは自らの役割だ。
であるならば。妹の幸せを優先することに、躊躇いなど有るわけが無い。
■
三度、扉が鳴る。ずっと寝台に顔を伏せたままだったレティシアが、乱れた髪で身を起こす。
今は侍女にすら見せられる状態ではない。風体も、衣類も、乱れに乱れてとても人前に姿を晒せない。
家臣達は、レティシアが黙ってさえいれば無理に部屋に入っては来ない。嵐が過ぎ去るのを待つ様に、視線を落とす。
「――――レティシア」
……お父様。その意外過ぎる人選に、ずっと澱みに沈んでいた意識が途端浮かび上がる。
流石に家長が直接部屋を訪れたとなれば過ぎるままにもしておけない。姿見に映った自分を見て悲鳴が上がりそうになった。
まるで乱暴でもされた様な装いだ。これは駄目だ。例え家族であっても――――家族だからこそ、駄目だ。
「少し、待って下さい」
自暴自棄と言って良い気持ちであるのに、貴族令嬢の振りだけは欠かさない。
そんな自分にほとほと愛想が尽きる。借り物の身分。偽りの振る舞い。張りぼての笑顔。何て薄っぺらい。
着替えを終えて、薄い化粧で目の下に浮かんだ隈を隠して。無理に繕った表情を張り付けて……扉を開ける。
「どう為されたんですか、お父様。執務は……」
「話をしないか、これからの」
ヴィルフリードの言葉に、心が凍り付く。これからの。つまり……嫁ぎ先の、と言う事だろう。
ずっと覚悟はしていた。今の婚約者に不満など無かったし、そもそも逃げ場何て一つも無かった。
分かっていたこと。だからいつもの様に振る舞えた。来るべき時がやって来た。それだけの話だ。
「分かりました、執務室でお待ち下さい。準備を整えてから伺います」
言葉を探す様に黙り込んだヴィルフリードを余所に、扉が閉まる。そこには寒々しい断絶だけがあった。
かつて、レティシアには好きな人が居た。けれどその人は平民で、身分の差から結ばれる事はないと分かっていた。
“お母様”には酷く叱責された。それだけに飽き足らず、貴族の社会は当然に身の程知らずの平民を弾いた。
恐ろしかった。人は、“違う”立場の人間には何処までも残酷になれる事を知った。
無理難題を突き付けられ、無能の烙印を押された騎士見習いの青年は、何一つ成し遂げられず彼女に看取られ逝った。
そんな“人間の選別”を、当たり前行うのが社交界と言う名の華やかで煌びやかな伏魔殿だ。
その中では身分の低い人間の命など娯楽の一環で潰えるのだと思い知った。その事実に心底恐怖した。
(あの時も、そう。例え誰かに嫁いでも――――気持ちは、貴方と共にと。そう誓った筈なのに)
“彼”が死んだ時。その瞬間の気持ちは、間違いなく真実だった。
それなのに、先日黒衣の傭兵から別れを告げられた時。その事実は一瞬たりと脳裏を過ぎりはしなかった。
あまりにも薄情な話だ。自分はこれほど不義理な人間だっただろうかと愕然とする。
何が酷いかと言えば、事ここに至ってすら。命すら懸けてくれた彼の事より、自分の気持ちの事を考えていること。
人は最初に香りを忘れると言う。次に声を。姿を。最後に顔を。幸い、姿と顔は未だはっきり思い出せる。
けれど、香りと声は既にして曖昧だ。これが、こんなものが人を好きになる、と言う事なのであれば。
(――――私は、また、忘れられる……?)
この別れも。胸を割く様な痛みも。身を苛む寂しさも。時と共に掠れて消えて行くのだろうか。
自分の腕を撫でる。外套越しでは体温すら感じられなかったのに、抱き留められた感触が消えない。
「……意気地なし」
紛らわしい言い方をしたとは声に出してから気付いたが、誤解されても良いと。本気でそう思ったのだ。
もう子供ではない。例え結果自分が酷く傷付くとしても……今なら甘んじて受け入れられると。
それなのに、込み上げて来た涙の衝動を抑える為には膝を付いて手を握り、呼吸すら止める必要があった。
これからお父様と顔を合わせるのに、涙の筋など残してはいけない。泣いては駄目。泣いては――――駄目。
●対峙
諦めるのは得意だと思っていた。
沢山の物を棄ててきた。大勢の人を犠牲にしてきた。だから、誰も傍には居てくれない。
当たり前の話だった。大切な筈のものを何一つ守れない、傷付けるばかりの女なんて。
自分が紳士の立場であっても願い下げだ。そんなのは、きっと誰であっても同じこと。
貴族は謝るべきではない。軽々しく謝ることを赦せば、民草はそれに倣うものだからと。
以前そう叱られた事を憶えている。強く、鋭い、けれど何処か優しい、丁寧に研がれた武具の様な方。
その叱責に驚いて、けれどその指摘は至極正しいと納得出来た。簡単に決めた気は無かったけれど。
それでもきっと、私は諦め過ぎていた。自分が黙れば上手く行く。それは、多分間違いだった。
直そうと思ったのだ、その悪癖を。簡単に下がらないように。謝らないように。諦めない……ように。
“嘘吐き”
そう。結局自分が可愛かった。言葉にするのが恐かった。最後の最後で、また一人だけ、逃げた。
なのに――――私は、まだ。
■
レインフィール邸執務室。ヴィルフリードは実の娘と対峙するや、開口一番こう告げた。
「単刀直入に伝えよう。レティシア、お前に『集権派』への嫁ぎ話が出ている」
――――そういう事か、と。辻斬り同然に切り出された婚姻話に、レティシアの心は静かに凪いでいた。
“お母様”の考えそうなことだった。今、貴族社会は文字通りの大転換期に在る。
『貴族派』が傾き、『王党派』が纏まり切らない中、“王家の方針”と言う後ろ盾を持つ新興の第三派閥。
『集権派』は如何にもこれから時代の中核を為して行く様に思える。帝都奪還が成れば尚更に。
何せ派閥盟主となる予定のウィリアム・リーンエス“公爵”は次代皇帝の義兄にして王家の直系だ。
これだけ強固な土台が揃えば先ず当分安泰と言える。“元白薔薇系”の『貴族派』よりずっと魅力的だろう。
「アレンヴァルト様との婚約はどう為される御心算ですか」
「事が上手く運べば破談となるだろう。当然、事が此処まで進んだ上での破談となれば家名にも傷が付く。
が、当家の誠意としてローゼングランツに一切の瑕疵は無かったと説明する予定だ」
断定的に告げるヴィルフリードは、けれど伺う様な視線をレティシアへ向ける。
レティシアとその婚約者であるアレンヴァルトは学生時分からの付き合いだ。その縁故も大概長い。
まさかレティシア個人の意見を確認しているのだろうか。今更? これまで何一つ聞いてくれなかったのに?
何処かささくれた、捨て鉢の様な気持ちが無かったと言えば噓になる。感情を抑える箍の幾つかが罅割れる。
「……、……。……分かりました。では、その様に」
「それで本当に良いのか」
真っ直ぐ見つめるヴィルフリードの問に。胸中で幾つもの反論が浮かんで消える。
良くはなかった。ずっと、ずっと、良くなんてなかった。それでも押し殺して頷いて来たのだ。
お父様もお母様も、私の犠牲になったのだから。私が、全て奪ってしまったのだから。
だから――――仕方ない。そう、自分に言い聞かせて。何を奪われても、喪くしても、仕方ない、と。
“幸せになって下さい”
(―――― これで 私は 幸せ?)
――――幸せに――――なんて。なって良いのだろうか。と、ただ漠然と。そんな忌避感があった。
お母さんは、幸せになりたかった筈。お父様だって、幸せになりたかった筈。お母様だって、そう。
お母様に殺された彼だって、今も闘病を続ける先生だって、禁忌と呼ばれた彼女だって、皆が皆。幸せになりたかった筈。
それなのに、私だけが幸せになるなんて出来ない。そんな我儘を言っては駄目。そんな狡い事をしてはいけない。
レティシア・レインフィールはあくまで、レインフィール伯爵家の礎とならなければならない。
それが貴族令嬢としての。生きることを赦された私の、義務。
“――――今はただそれだけが”
(あの人が ただそれだけを 望んでくれたのに)
―――――――――――――――て。
――――――――どうして。
――――どうして。
どうして、どうして、どうして、どうして。
おかあさんは、あなたがくるしいほうがうれしいの?
おとうさんは、あなたがないてるすがたをみたがるの?
あなたのすきだったひとは――――あなたのふこうをのぞむの?
―――― そんなこと ないでしょう レティ
■
おかあさん。また、ご本読んで
レティは本当に、その物語が好きね
うん、だって――――最後は皆が――――
■
「――――好きな人が、居ます」
――――執務室に、空白が生まれた。
娘から毀れたその言葉からきっかり一拍置いて、ヴィルフリードは瞳を閉じ。静かに頷いた。
「それは、どこの貴族かな」
「貴族ではありません。元々は騎士でしたが、今は傭兵をしています。
血筋は貴族の生まれと聞いています。でも、あの方はきっと、もう貴族として生きる気は無いのではないかと」
「そんな何処の馬の骨とも知れない男に誑かされた、と?」
「はい、ごめんなさいお父様。貴方の娘は“そんな何処の馬の骨とも知れない男に誑かされ”ました」
真っ直ぐに、ヴィルフリードを見つめて応じたレティシアの言に。
それが世迷言の類“ではない”ことをはっきりと悟り、執務机から天井を仰ぐ。
冒険者をしてみたい、と言い出した時。正直に言えばヴィルフリードは余りそれを肯定的に捉えていなかった。
何せレティシアは箱入りだ。これでもかと言う程に深窓の令嬢であり、『学園』での矯正など高が知れている。
世俗には誘惑も多い。私生活で身を持ち崩す貴族の令嬢令息など枚挙に暇が無い。
妻の視界から外れる事が娘の安全に繋がるとは言え、道を踏み外しはしないかと。不安があった事は否めない。
結果が、これだ。良き出会いが有ったのだろう。多くの経験を経たのだろう。喜びも哀しみも積み重ねたのだろう。
彼の知らない間に、彼の娘は随分としなやかに、強かに育っていた。瞠目するほどに。
「それは家族より大切な相手かい」
「家族とは比べられません。それでも、私にとって一番大切な……失くせない男性です」
「それがどういう意味を持つか、分かっていない訳では無いね。彼女はさぞ激昂するだろう」
「はい、分かっている心算です」
調べた限り、件の男。ガレス・コーニッシュとやらは大した腕前の傭兵であると聞く。
或いは、以前の如く妻が怒り狂ったとしても。そうそう容易に殺されるような実力ではあるまい。
愛娘を一時預ける相手としては……内心の憂慮は無論あれども、比較的適切寄りの人材だと言って良い。
究極的な見極めは、いずれ自分で行えば良いだけの話だ。
「これまで御世話に――――「待ちなさい、レティ」
遮った父の声に、驚いたのはレティシアの側だ。この十数年。ヴィルフリードが彼女を愛称で呼んだ事など無い。
数度瞬いて黙り込んだ彼女へ、指を組み替えてその父親は大きく。大きく溜息を溢した。
「一度決めたら静止の暇すら無い。君は、本当にお母さんに良く似ている」
「……お父……様?」
「妻には私から話そう。どちらにせよ激昂はするだろうが、こればかりは夫の役目だ。
君と、その想い人には実害を齎さないと、『慈涙伯』の名に於いて誓約する」
『慈涙』それは慈悲の雨を意味する“中立派の調停者”に与えられた二つ名である。
かつて『貴族派』と『王党派』が泥沼の消耗戦をしていた時代。その両者に私財を投げ売って対話の場を設けた。
その慈愛の精神を評しての称号で有り、『中立派』そのものが傾いてより呼ばれる事も無くなって久しい。
さりとて。その家門の性質は仲裁と調整に向き、時に恫喝をも含めた対話による休戦交渉をこそ得手とする。
今代『慈涙伯』もまたその多聞に漏れず――――帝都の花を口説き落とした弁舌は決して鈍ってはいない。
「でも、それではお父様が……」
「レティはほとぼりが冷めるまで旅に戻りなさい。こちらが落ち着いたら、いずれ手紙でも出すとしよう」
本当は、もう二度と実家の敷居を跨がない覚悟で反発した。けれど、ヴィルフリードにはそんな気は更々無いらしい。
であれば、良いのだろうか。何も捨てる事なく、こんな我儘を通してしまっても。
「但し、アレンヴァルト君とジークにはいずれ自分で謝ること。義理を欠いてはいけない」
「……はい、分かりました。あの、でもお父様。お母様は本当に恐い方で――――」
「大丈夫、心配はいらない。お父さんを信じなさい。と、今更言っても説得力に欠けるかもしれないが。
知らないだろうが、私にもこういう時の為に温めておいた切り札があるんだよ」
「切……り、札……?」
重々しく頷く父親の仕草に、義母の恐ろしさを心から思い知るレティシアはおずおず疑惑の眼差しを向けるも……
「そう。男女の戦いは惚れた方の負け、と言うね」
そう言って、何処かさっぱりと片目を閉じたヴィルフリードは、まるで幾つかも若返ったようで。
レティシアも思わず。父親には未だかつて見せた事も無い、苦笑いを浮かべたのだった。
●旅立ち
――――どうして、と言う想いが心の何処かにあった。
ずっと、そのしこりは消えることなく深い場所に沈殿し続けた。
冒険者と言う道。仮初の自由。突然拓かれたもう1つの選択肢。
諦めていた筈だった。納得した筈だった。吞み込んだ、筈だった。
けれど、そんなのは嘘だ。お母さんは、最期まで私の事を気に掛けてくれていた。
お父さんとは、ずっと擦れ違ってしまっていたけれど。
私はお父さんのこと。お父さんは私のこと。漸くお互いが見える様になったように思う。
好きだったあの人の墓前には、いつか必ず謝りに行こう。
それでももう、後悔はしない。失くした分。間違えた分。幸せにならないといけない。
“そうね、レティ そうなったら素敵ね”
人は、最初に香りを忘れると言う。次に声を。姿を。最後に顔を。
その声はいつでも手を引こうとしていた。忘れていたのは、私の方。
だって、わたしは大好きだった筈だ。あの声で紡がれる物語が。何故なら
“だって――――最後は皆が、めでたしめでたしで終わるもの”
それは私とお母さんの。一番最初の願いだった筈だから。
■
羽ペンと便箋。対となる蒼い宝石の耳飾り。それらを手巾に包んで鞄に仕舞う。
自室を出ると、家は普段と比べてずっと静か。まるでこの広い屋敷の中に誰も居ないかのよう。
何でもお父様が、お母様を誘って街に出たと聞いている。戻った後が今から恐い。
勿論、これがささやかな気遣いの類だと気付かない程には、レティシアももう世間知らずではない。
今のうちに家を出ないと。と、以前はあれほど恐ろしかった家の境界を超えると――――両開きの扉の外。
普段であれば家臣たちが控えている様な位置に、昨日は見掛けなかったジークリッドが待ち構えていた。
「もう行くのかい、レティ」
その問い掛けだけで、ヴィルフリードからジークリッドへ昨日の話は伝わっている事が分かる。
婚約者との間を取り持ってくれたのは兄だった。酷い不義理を働いている。その自覚はレティシアにもある。
けれど、そこで何だかんだと理由をつけて足を竦ませていては。“これから変わる事”なんて、出来ない。
「お兄様、私は……」
「父上から話は聞いている。アレンには、僕からも謝っておこう」
「そんな、お兄様は何も悪くありません! 悪いのは全部――――っ」
思わず強く言い募りそうになったレティシアの唇に、ジークリッドの人差し指が向けられる。
当たるか当たらないかの距離に、思わず言葉を途切れさせない訳にもいかないが。
「別れ話で、好きな女性に謝られるほど辛いことも無い物だよ。
大丈夫。アレンは僕が認めた男だ。今時あれほど一途で、けれど我慢強い奴もそうは居ない」
果たして、割と酷い批評を聞きながら。けれどもレティシアにも心当たりが全く無いでも無い。
結局、数年単位の付き合いが有りながら。アレンヴァルトは結婚の時期を延ばし続ける彼女を待ち続けた。
それは或いは――――彼女の幸せを願うからこそ。
(……本当に、私は。ここまで多くの人に見守られて……それに気付かないで生きて来たのですね)
背を伸ばし、大きく頭を下げる。貴族は謝るべきではないと教え、諭された事を忘れた訳では無いが。
同時に。人は真意から悪いことをしたと思ったなら自然と頭が下がる物だ。それは多分、間違いではない。
「お兄様、ありがとうございます。アレン様に、次に御逢い出来た時には必ず謝罪と、償いを」
「償いはいらないよ。代わりに」
確りと言葉を切ると。ジークリッドは瞳を伏せ、笑う。深く、深く、理解と納得を込めて。
「話に聞くレティの想い人に“一回全力で殴らせろ”と伝えておいて欲しいな」
「――――もう、お兄様ったら。では、逢えたら伝えておきますね」
この兄には珍しい類の冗談だと、レティシアは思わず笑いを溢す。これも男同士ならでは、と言う奴だろう。
微笑んで妹を見送る兄の瞳の奥の奥には諧謔の色など一片も浮かんでいない訳だが、思い込みとはかくも強固な物。
レティシアにとってのジークリッドはあくまで優しいお兄様であり、ジークリッドにとっては世話の掛かる妹。
それがレティシアの側だけの認識であると彼女自身が気付かなかったことは、恐らく幸運の類だったのだろう。
「いってらっしゃい、気を付けて」
「はい、お兄様……行ってきます」
兄妹はそうして別れた。それは一人にとっての区切りであり、一人にとっての旅立ち。
――――或いは随分と長く掛かってしまった、一つの初恋の終わりだった。
かくて夜闇の穂先を追い求め、銀月の娘は今一度涙雨の郷を発つ。
時に中原の趨勢を決める帝都奪還の大遠征を間近に控えた――――枯れ葉舞い散る、秋の末のことである。
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メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。