【DA】リーンエスの耳
ゲルダ・クライン/
アルベイル・ライゼンナクト
ギュミル・クライン/
アイリス・クライン
『ノベルタイトル:To My Dear Family』弓月 蒼
●彼女の辿る道
――――それは、何処までも価値の話なのだ。
……と、その認識の発端は本当に、本当に些細な切っ掛けだったと言って良い。
『王都』グランスパーダ内、パンクリアース学園。王国貴族とその縁者が通う選ばれし者の園。
そこに彼女。『天剣』ゲルダ・クラインが通うことになったことが幸運か、不運だったのかは分からない。
けれど入学式を終え、分けられた教室に入り、自らの学友達を漸く一瞥する機会が得られた時。
彼女はそこで初めて、同じ部屋の中に“視線が合う”人間と“合わない”人間が居る事に気が付いた。
クライン商会と言えば王国でも相応に名の知られた規模の商会である。
その令嬢と呼んで差し支えないゲルダは、それまで何だかんだと父親の威光に護られていた。
そんな薄幕一枚が剥がれた事で、世界は劇的な変貌を遂げた。“自分”は“貴族”にとって人間では無い。
即言語化出来た訳ではなくとも。まるで天啓の如く降って湧いた実感はどう足掻いても消せない物だった。
(――――それが不思議、だとは思わなかった)
故郷に居た頃。両親の庇護下に居た頃からも薄っすら感じ続けて来た事だった。
『貴族』と『それ以外』は違う。それが、この国の常識であると誰も口にせずとも自ずと気付いていく。
『商人』という立場は『王国』では絶妙な位置にあり、庶民と貴族。そのどちらとも関わりを持つ。
けれど応対が、視線の動きが、周囲の抱える緊張感が、動く金額の多寡が。繰り返し繰り返し告げてくるのだ。
『貴族』と『それ以外』は同じではない。それが当たり前だ。受け入れろ。順応しろ。と何度でも何度でも。
眼を逸し続けたそんな真実に、けれど『学園』の内側に踏み入った事でゲルダは遂に気付いてしまった。
気付いた結果心の深い深い場所に、『貴族』と言う人種に対する苦手意識が根付いてしまったのは。
彼女自身思ってもみなかった出来事だった。それまでは自分でも好き嫌いはあまり無い方だと思っていたのだ。
しかしその“苦手”と言う印象は『学園』で生活を送るに当たり四六時中、時刻印を更新していく。
これではいけない、と気付いた頃には。貴族全般に対する忌避感は取り返しが付かない所まで来ていた。
ゲルダもまた、自らを守る処世術の一環として彼らに敬意を払ったフリをする事に慣れてしまった。
どうにもならないまま1年が過ぎ、2年が過ぎ、3年が過ぎ――――
――――これもやはり繰り言になる。発端は本当に、本当に些細な切っ掛けだったと言って良い。
■
(……あれ)
その黒一色の服に黒竜紋を刻んだ下級生は、『王国』貴族でも最上位に位置する。
そう、悪名高い“黒の公爵家”の次期後継者である筈だった。最初はやはり、苦手意識を持っていた。
けれど、彼と対面し言葉を交わす時。その視界には間違いなくただのゲルダが居た。
修練を積んだ冒険者でも、有力商人の一人娘でも、ましてや『庶民』でもない、ただのゲルダが。
(……この人は、わたしを見てくれている気がする)
勘違いかとも思った。相手は貴族の最高位。物の見方も他の『貴族』とは違うのだろうか、と。
会話を繰り返し、その意思を、覚悟を受け取るに至り――――“そうではない”、のだと思い知った。
公爵家だからではない。彼、『黒の後継』アルベイル・ライゼンナクト。その在り方が異質、なのだ。
他で代用が効く類の問題ではない。と、漸く理解が至ったのはその主催する夜会でのこと。
――――一歩引いて見ていた者の言葉は、軽い
そう言われ、一言も反論出来なかった。その見ている未来を確かめる為、自ら覚悟を以て頂に挑んだ。
その過程に於いてゲルダは思い知ったのだ。“前へ進む為に戦う事”の尊さと、難しさを。
それに挑み続け――――或いは、この『貴族』と『それ以外』という垣根を壊そうとしている人が居る。
自分が“そういう物であるなら仕方がない”と諦めた事に真っ向挑もうなんて人が本当に――“居る”――のだと。
驚きがあった。新たな発見を経て、ゲルダの世界はまた一歩広がった。
広がったことで見えていなかったと気づけたこともある。彼女の類稀な洞察眼はそうして研ぎ澄まされていった。
――――で、あるならば。そんな彼女をして“この人の力になりたい”と思えた『貴族』など他には居なかった。
その想いは今も変わらず。ゲルダという娘の背を押し続けている。
騎士になりたかった。誰かを。護りたい者を護り抜ける自分になりたかった。
そんな願いを実現する事がどんなに難しいかは、何時しか現実に直面し嫌が応にも思い知ったけれど。
夢を諦めたことはなかった。その夢を――――叶えるべきだと思える場所をやっと見つけたのだ。
彼女は、『黒の後継』の見る未来の先に、『誰も』が同じく自らの意思で立ち、進める祖国の姿を見た。
自らの理想を託すのに――――それ以上の理由が必要だろうか。
■
――――さて。ここまでがゲルダ・クラインという女性冒険者の事情。
そして此処からが、その実父。『小さな巨人』ことギュミル・クラインの事情である。
「……『黒鋼竜』、か」
クライン商会は王国内に広く版図を広げており、中にはいわゆる“『竜』の三大商会”と接点を持つ店もある。
この『王国』において『貴族』と無縁である事が難しい様に、『商人』という立場に在り続けるならば。
『白薔薇』はともかく『竜』と一切関係を持たないと言うのも、確かにそれほど容易な事ではない。
そういった国の背景事情を鑑みた場合、全く無しではない。或いは思いの外益の有り得る、選択肢では有った。
敏腕で知られる商人としてギュミルは頭の片隅で常に算盤を弾いている。だが――――しかし。しかしである。
「――――何でそうなった?」
「さあ……? ゲルダからの手紙にはそれ以上のことは何も……」
クライン夫人――――こと、ギュミルの妻。アイリス・クラインが首を傾げ、丁寧に手紙を便箋へ仕舞い直した。
どうせ2人の愛娘は遠からず一度帰郷する予定だ。その時確認すれば良いだろう、程度の意味だったのだろう。
けれど彼はそう受け取らなかった。何せ『竜』には後ろ暗い噂が付いて回る。
これまでギュミルはそういった危険な相手との取引は一切避けてきたのだ。これも家族を愛すればこそ……!
そんな男であるから、当然この国で『貴族』と真っ向矛を交える事のリスクなど重々承知している。
しかし以前の愛娘の態度から察するに、ゲルダは『貴族』そのものに苦手意識を持っている様だったのだ。
(一体、私が何も知らされない間にゲルダちゃんの身に一体何が……まさか――――!)
『黒鋼竜』とはまさにそんな貴族の筆頭格。『貴族派』の盟主だ。
貴族of貴族と呼んで差し支えない。そんな場所に自ら赴き忠を誓う? そんな事が現実的に有り得るだろうか。
あの、断固冒険者になると言って大喧嘩の末家を出ていった頑固者のゲルダが? 有り得ない……様に思える。
劇的な変節を遂げた。よりは未だ弱みを握られ脅された可能性の方が高いと――――そちらに天秤が傾くほどに。
「……っ、どうする、考えろ私。戦うのは余りに無謀だ。国外へ一旦脱しほとぼりが冷めるのを待つべきか……」
「あなた、とりあえずゲルダが帰るのを待って話を聞きませんか?」
「そ……そうか、そうだな。急いては事を仕損じると言う。今は娘を信じ……信じて……」
後にアイリス夫人曰く。この時、夫は覚悟を決めた男の目をしていた……と言う。
●現在から未来へ
「お父様が懸念している様な事は、何一つありません」
故郷の生家の談話室で、ゲルダは実父に敬語でそう応じた。その眼差しは諦めと呆れが半々だった。
ある種の覚悟を固めて娘を招き入れ、機を伺って恐る恐る話題を切り出したギュミルは。
愛娘の辛辣な眼差しと冷めきった言葉の槍に突き刺され、既に致死寸前だった。
思えば以前の家出の時も、最終的にはそんな眼をしていた気がする。おかしい、私は確かに和解した筈……
「という事は、貴方は納得の上『黒鋼竜』侯爵家に臣従すると決めた、という事ね?」
間に入ったアイリスの言に、ゲルダが頷く。其処には後ろめたい所がある人間特有の虚勢めいた物は感じない。
となれば、正しく言葉通りなのだろう。そしてそれを、この国でも最高位にある『貴族』。
今代の『竜』が認めた――――という事。これは、今後の商談に直接影響する大問題だった。
何せ現在の『王国』は“王家主導”で動くよう体制が整えられつつある――――なんて話は耳の早い商人である。
当然のように聞き及んでおり、時流もまたそれに沿って動いている。『貴族』と言う立場は危うい。
数年でどうこうはならずとも、十数年であれば読み切るのも容易ではない。
(リスクとリターンは……やや、前者の方が重いか)
そんな貴族達の一大派閥のトップとこれから面識を持ち、或いは交流を深めていくとなると。
周囲の商人たちも“クライン商会にはそういう背景があるもの”として関係を再考せざるを得ない。
「ゲルダはその、『竜』の若様の何処にそれほど惹かれたのかしら」
「……あの方が築くと言った未来には、偏りが無かったんです。それは、誰もが1人と数えられる国でした」
「誰もが、1人。それは……凄い事を考える人が居るものねぇ……」
其処には尊敬の念があった。となれば此処で『竜』との関係を一切断ち切ると言うのも宜しくない。
そんな事をしたなら、この大切な愛娘は一切躊躇せず自ら忠を預けた捧げた家へと身を寄せるだろう。
(――――ッッッ!!! いかん! いかんぞこれは。一家離散の危機! 何とかしなければ……っ!!)
凄腕商人ギュミルは考えた。考えて、考えて、近年かつて無いほど知恵を絞った。
確かにこれまで“危険を避けた商売”をして来た商家だ。その安定感をこそ評価し取引して来た者も居る。
それが突然リスクを取った選択をしたとしたなら、商会の方針変更。或いは変節と捉える者も居よう。
大規模商会はともかく。個人の采配に依存する部分の大きい中小商会との関係は少なからず変わって来る。
だが、これは已むを得ない損失として計上すべきだ。ならば取り戻す程の利益によって上書きすれば良い。
少なくとも。『竜』と縁を結ぶことが叶えば使える販路は爆発的に拡大する。
『王国』内であればこれまで想像するだけでしかなかった商売プランを試す事も叶うだろう。
マイナスばかりではない。そこは――――はっきりと認めて行かなければならない。後は、決断するだけだ。
「……もう、自分で決めたことなんだな」
「わたしは……わたしも。この『王国』がどう変わっていくか見てみたい。
そう思えた場所でなら、この先も。自分自身の決断を、胸を張って誇れると思うんです」
であるなら、如何な反論が出来よう。ギュミルにも心当たりがある。決めた道は違えられないのだ。
愛娘は既に選んだ。ならばどうして――――父親である自分が日和ったことなど言えるだろう。
■
「分かった。なら私から言うべき事は何もない。但し――――後悔だけはしないように」
「はい、お父様」
――――さて。しかし、とは言ってもである。
ゲルダが語るには、今『竜』の領内は諸々事情が重なり混乱の最中にある。一般人が踏み入れる環境ではない。
加えて大陸中央では現在進行形で“帝都奪還戦”が進行中だ。確かに『王国』内は比較的安定し、安全でもあるが。
さりとて熟達の冒険者である彼女の戦場は多い。急ぎ報告の為故郷へ戻ったとて、翌日にはトンボ返りだ。
となれば、いざ直接会談に出向くと言ってもそれは“今すぐ”ではない。最低、帝都奪還の戦いが終結しなければ。
逆を返せば、それだけ時間に猶予が有るという事でもある。『商人』にとって、“準備期間”は立派な武器だ。
ゲルダもその辺りは勝手知ったる何とやら。伊達に生まれてよりこの方商談の隣で育ってはいない。
そも彼女が急遽緊急帰郷に踏み切ったのも、委細万端整えて両家の関係を円満に動かす為である可能性が高い。
一体誰に似たのか、と言えばギュミル以外無い訳だが。ともあれクライン商会はこうして千載一遇の好機を得た。
「今日は家に居られるのでしょう? 久々に家族水入らずで食事でもどうかしら」
「はい、お母様。明日の朝一番の馬車で出ようと思っています」
母娘のやり取りをきちんと聞きながら、ギュミルはすっかり冷めた琥珀色の液体を啜った。
当たり前だが――――『商人』、と一口に言ってもその声質は様々である。
あくまで利益追求に重点を置き、一気に稼げるだけ稼いで適当な所で稼業を丸ごと売り払う様なのは別として。
商家として身を立てようと思えば持続的かつ安定的に機能する販路を開拓し、常連相手に取引を繰り返す。
というのが、世間一般で考えた所の商売の王道である。皮肉なことに、まさに死の商人などがそうだ。
しかし『竜』麾下には有名な三大商会。特に巨大な資本力を武器とする正統派商人『竜商』ロックベルトが居る。
これと同じ路線で競い合うのは如何にも悪手だ。今後の物流需要を考えても武器が伸びる可能性は低い。
確実消費が見込めるのは戦後需要を見込んだ食品及び消耗品だが、これは同業商会と大競合を起こすだろう。
そこに来て、ゲルダの見立てでは今代の『竜』が重点を置いていた調査対象は『学園』であると言う。
確かに“教育機関”というのは一種独特な局地消費が安定的に発生するが、同時に利権の坩堝でもある。
ではそれが――――“全く新しい教育機関”、であればどうだろう。
(……学問。識字率……文具、か)
これまでには無かった観点だ。何せ教育に金を掛けられる庶民と言うのはある程度以上裕福である。
押し並べて『王国民』と括った場合、一部の上澄みと言う事が出来、逆説総数は決して多くない。
だが――――或いは。それ自体が狭い物の見方だったのかもしれないと。ギュミルは気付き始めていた。
今現在存在していない顧客だから0と数えるのか。潜在的顧客であると考え1と数えるのか。
それによって市場規模というのは変動する。そして見るべきは……あくまでここから未来の話だ。
もし愛娘の見立て通り。もし次代の『竜』が本当に、未完の大器であるとしたならば――――
●たった一つの冴えた決断
「でも、そうなると商会の後継者を探さないといけなくなるわね?」
「――――うん? それはゲルダの御相手を引き取って私がみっちり1から教えれば」
「お父様、長らくお世話にな」「――――というのは勿論冗談だ。そうだな、早速見極めが必要だな」
軽口は急転直下で死を招く、即断即決の合理主義者ゲルダ・クラインが其処に居た。
相手の居る話でそんな無茶苦茶は無い。ギュミルもまあ、恐らく言ってみただけと言うのは分かるが。
しかし一方で、ゲルダが固辞しなければ何かさらっと冗談を実現しそうな危険性が彼にはある。
机の上で組まれた手はさり気なく口元を隠しているが、流石に聞き流すのには無理がある。
元々昔から人誑しな部分が見え隠れしているのだ。彼女の優れた洞察力は其処を見逃しはしなかった。
「あなた、何方か心当たりはありますの?」
「薄々、いずれこうなるのではないかとは思っていた。本音を言えば、半生を掛け育てた商会だ。
愛娘に引き継いで欲しい想いが無いではない。ないが……これは、私の我儘だろう」
「お父様……」
親にとって、子供はいつまでも子供だ。その認識が揺らぐ事はない。例え小人であれ。
自らにとって価値有るものを子に譲りたいと願うのが親の愛情であれば。その一方でこうも言える。
自らの手で価値有ると信じた物を積み上げて行く覚悟を以て、子は親から巣立っていくのだと。
ゲルダとて、木の股から生まれた訳ではない。反抗期を経て衝突することも少なく無かった両名だが。
けれど、其処には確かな家族の絆が有り、親愛が有った事を疑ったことは――――それだけは、無いのだから。
「ただし、それはそれとして時間が出来たら一度家へ戻って来なさい」
「? それは、まあ……はい」
「これから先、お世話になるのであれば一度こちらから挨拶に出向くのが、筋と言う物だろう。
何せ遥か目上の、『貴族』の括りで考えたとしても礼を欠くべからざる御家柄だ。下手は打てない」
「そうねぇ。『黒鋼竜』侯爵家と商売をするなら、礼儀作法は今まで以上に気を付けないと」
頬に手を当て頭を傾かせるアイリスには緊張感の欠片もないが。彼女は貴族生まれ、貴族育ちである。
『王国貴族』の在り方は、この場の誰より身に沁みて分かっている。で、あればこそ――――
「――――御挨拶」
この時、ゲルダは漠然と嫌ぁな予感を憶えたが。その心情は親に職場訪問される。と言う事象への物に近い。
近いからこそ、彼女の優れた洞察眼を以てしても気付けなかった。そもそも警戒していなかったからだ。
切り出したギュミルの瞳の奥に静かに燻る。まるで熾火のような小さな焔のことを。
そうして、ゲルダが席を辞し私室へ引っ込むと。場にはギュミルとアイリスだけが残される。
「少し、構わないか」
「……だと、思いましたわ」
顔を合わせて笑い合う。でなければ、娘を溺愛する彼がゲルダだけの退室を見送るわけがない。
使用人達には部屋に踏み入らないよう、事前に指示を出してある。もう少し時間に余裕はある筈だった。
■
……落ち着かない。私室に戻ったゲルダの心情はこれに尽きる。
今、各国の連合軍は大陸中央、『帝都』に迫っている。『幽界樹』伐採までには速やかに戻らなければいけない。
加えて『竜』の領内も決して安定しているとは言い難い状態だ。こちらも何時まで保つか分からない。
優先順位の結果として、『学園』での生活が後回しにされるのはやむを得ないこと。
やむを得なくとも――――講義の出席数が維持出来るか。課題消化が間に合うかなど気になるのは別の問題だ。
彼女にはすべきこと、しなければならないこと、今しておきたいことが並行して存在する。
生活は多忙、と言って相違無いが、それを苦痛に思ったことは無かった。ただ、心は急く。
冒険者稼業は過酷だ。これまでにも、一緒に仕事を受けた人間が姿を消すことなど幾らもあった。
目の前で人の生き死にを見届けたことだって。それで1つでも。1人でも多く守る為に戦ってきた。
これまでも。これからも。それは自分でも変えようのない、ゲルダの根幹だ。
(それは――――もし戦いが終わっても変わらない)
いずれ。剣を筆に置き換え別の戦いに挑むこともあるかもしれない。かつての生徒会総選挙の様に。
あれに比べれば槍剣や防具を駆使して激戦をくぐり抜ける方が幾らかマシとすら思える。人の期待は、重い。
そして『竜』に臣従するとはそういった、人々の期待を背負って行くことなのだと分かっていた。
政治には詳しくない為憶測しかないが、遠からず彼の家は元の地位を取り戻すだろう。
この『王国』では地位と“出来ること”は概ね比例する。領民も、臣民も、『公爵家』に期待する者は多い。
その荷を分けて持つと約束したに等しいゲルダには、その“格”に相応しい振る舞いが求められる。
今回、まさに決戦を控えた佳境の真っ只中に在って。それでも緊急的に帰郷したのは退路を断つ意味もある。
ゲルダの意思は固いが。けれど自分の中で一つ区切りを付けておく必要があった。
迷いは、真に生死を分つ様な戦場では天秤を大きく揺らす要因になる。覚悟も伝えた。家族の顔も見れた。
あとは後悔無く進むだけだ。――――いや。迷い、とは違うものの。未練があるとすればもう一つ。
けれどその気持ちを伝えるのは今ではない。これは……“死ねない理由”と、するべきだろう。
「……約束、しましたから」
夕食に備え、やや正規寄りの盛装に袖を通しなら独りつぶやく。
簡単ではないのだ。いつだって、どんな時だって。自分の気持ち一つすら思い通りになどなりはしない。
子供でいられたら良かった。少なくとも、まだ学園生でいられるあいだ位は。
だが彼女は既に選んだ。進む道を。支えるべき人を。向かうべき未来を……自らの意思で。
巣立ちを望んだ以上、此処は故郷ではあっても。もう、彼女の居場所ではない。
部屋の窓の外を見つめながら、静かに息を吐く。思い出があった。懐かしさがあった。寂しさがあった。
それらを目一杯に抱えて。ただ一つも捨てる事無く前へ進もう。その為に戻って来たのだから。
夕暮れに烟り沈みいく王国の丘陵を見つめ。ゲルダは瞳を伏せる。長い一日が終わろうとしていた。
■
「それにしても、あなた。何だかとても楽しそうですのね」
「そうか? ……いや、そうだな。今、そうと言われるまで気付かなかったが」
けれど口元を隠すように組んでいた手で確かめてみれば。ギュミルは確かに笑っていた。自覚すら無いほど自然に。
ああ――――そうだ。クライン商会は長く軌道に乗っていた。家族を。愛する妻と娘を守る為にそうした。
商会と言う組織は、ある程度の拡張均衡点が存在する。それは競争原理に基く需要と供給の曲線交差点である。
それ以上規模を大きくするにはある程度リスクを背負うか、只管地道に販路を広げ顧客の裾野を広げる他ない。
納得していた。自発的に諦めていた、と言い換えても良い。今現在を上限として、その境界線以上を望む道。
それは人が野心だとか欲望だとか呼ぶ物に近い。若い頃はそんな願いを原動力に商売に打ち込んだ時代も有った。
でなければ、『商人』と言う道を選んだりはしない。商売とは残酷なほどに勝敗が決する適者生存の世界だ。
ただ善人、なだけでは務まらない。ただ悪人、である方が余程適性が高い。そういった業種だ。
そんな世界で凄腕と呼ばれる以上は、少なからず他人に不幸を。損失を押し付けた事がある。
積極的悪意は無くとも、競合した商材を先に売り捌けば後追いの業者は必然的に行き詰まるのだから。
先着順であり、椅子取りゲームであり、気持ちの良い、良心的な取り引きばかりではない。
どれほど商売の才覚が優れていようと“分け合えるパイには限りが有る”と言うルールまでは捻じ曲げられないのだ。
(――――既に諦めた、と思っていたのだが)
――――そうして彼の眼前には家庭を持ち、親になった時確かに切り捨てた筈の道が拓けていた。
『竜』直下とは、『王国』における商人の最高位の1つだ。その上位3つ。三大商会などは言うに及ばない。
ギュミルは彼らと同じ商談の席で競い合った事はない。資本の多寡はそのまま立場の優劣に直結する。
明らかに不利な立場から、幾らでも不利を押し付けられる相手に挑むなど愚者の選択に他ならない。
しかし、同じ販路を用いて。全く新規参入する商材で。自らの才覚を頼りに一から積み上げるなら話は別だ。
いや、当然土地柄と言うのはある。土着の商会の方が強い。と言うのは義理や人情的に止むを得ない差として在る。
とは言っても全く無縁の立場から真っ向挑むのに比べれば、互いの格差は大きく。大いに縮まる。
つまり、期せずして彼は手に入れた訳だ――――この国の商売の最高峰で、殿上人達と商才を競い合う権利を。
誰しも。自ら道を一つに定め、あくまでそれを貫く覚悟を決めたなら。望む先は常に“頂点”だろう。
競り合い、敗れたなら納得も出来る。が、挑まずして諦める事を賢明と呼ぶかは、審議の余地がある。
それは――――愛する娘が一人立ちを決めたからこそ選び得る。ギュミルにとっての“未練”だった。
「……では、早速準備を始めましょうか」
「良いのだろうか、アイリス。君に要らない苦労を掛ける事になるかもしれないが……」
「勿論。私はそんなあなたの妻ですもの」
ふわふわと微笑む彼女が。実家と関係を絶ってまで一人の男を選んだ女が。そんな理由で揺らぐ筈もない。
アイリスはギュミルを愛していたし、ギュミルもまた、アイリスを愛している。
だからこそ、2人は互いに合意の上で愛娘が価値在ると見込んだ未来に投資すると決めたのだ。
その為に綿密な事前計画が必要だ。商人とは無から利益を生み出す資本の魔法使いなのだから。
「――――であれば。少し忙しくなりそうだな」
とある小人の少女が夢を叶えた。けれどそれは、一度途切れた夢の続きでもあった。
そんな出来事を発端として、『小さな巨人』と呼ばれた男もまた、己が望みの為に動き出す。
それはたった一つの冴えた決断。例え時代が転換期を越えようと、人の営みは続いていく。
少しずつ変わりながら。少しずつ受け入れながら――――それでも。人の願いに終わりはないのだ。
――――それは、何処までも価値の話なのだ。
……と、その認識の発端は本当に、本当に些細な切っ掛けだったと言って良い。
『王都』グランスパーダ内、パンクリアース学園。王国貴族とその縁者が通う選ばれし者の園。
そこに彼女。『天剣』ゲルダ・クラインが通うことになったことが幸運か、不運だったのかは分からない。
けれど入学式を終え、分けられた教室に入り、自らの学友達を漸く一瞥する機会が得られた時。
彼女はそこで初めて、同じ部屋の中に“視線が合う”人間と“合わない”人間が居る事に気が付いた。
クライン商会と言えば王国でも相応に名の知られた規模の商会である。
その令嬢と呼んで差し支えないゲルダは、それまで何だかんだと父親の威光に護られていた。
そんな薄幕一枚が剥がれた事で、世界は劇的な変貌を遂げた。“自分”は“貴族”にとって人間では無い。
即言語化出来た訳ではなくとも。まるで天啓の如く降って湧いた実感はどう足掻いても消せない物だった。
(――――それが不思議、だとは思わなかった)
故郷に居た頃。両親の庇護下に居た頃からも薄っすら感じ続けて来た事だった。
『貴族』と『それ以外』は違う。それが、この国の常識であると誰も口にせずとも自ずと気付いていく。
『商人』という立場は『王国』では絶妙な位置にあり、庶民と貴族。そのどちらとも関わりを持つ。
けれど応対が、視線の動きが、周囲の抱える緊張感が、動く金額の多寡が。繰り返し繰り返し告げてくるのだ。
『貴族』と『それ以外』は同じではない。それが当たり前だ。受け入れろ。順応しろ。と何度でも何度でも。
眼を逸し続けたそんな真実に、けれど『学園』の内側に踏み入った事でゲルダは遂に気付いてしまった。
気付いた結果心の深い深い場所に、『貴族』と言う人種に対する苦手意識が根付いてしまったのは。
彼女自身思ってもみなかった出来事だった。それまでは自分でも好き嫌いはあまり無い方だと思っていたのだ。
しかしその“苦手”と言う印象は『学園』で生活を送るに当たり四六時中、時刻印を更新していく。
これではいけない、と気付いた頃には。貴族全般に対する忌避感は取り返しが付かない所まで来ていた。
ゲルダもまた、自らを守る処世術の一環として彼らに敬意を払ったフリをする事に慣れてしまった。
どうにもならないまま1年が過ぎ、2年が過ぎ、3年が過ぎ――――
――――これもやはり繰り言になる。発端は本当に、本当に些細な切っ掛けだったと言って良い。
■
(……あれ)
その黒一色の服に黒竜紋を刻んだ下級生は、『王国』貴族でも最上位に位置する。
そう、悪名高い“黒の公爵家”の次期後継者である筈だった。最初はやはり、苦手意識を持っていた。
けれど、彼と対面し言葉を交わす時。その視界には間違いなくただのゲルダが居た。
修練を積んだ冒険者でも、有力商人の一人娘でも、ましてや『庶民』でもない、ただのゲルダが。
(……この人は、わたしを見てくれている気がする)
勘違いかとも思った。相手は貴族の最高位。物の見方も他の『貴族』とは違うのだろうか、と。
会話を繰り返し、その意思を、覚悟を受け取るに至り――――“そうではない”、のだと思い知った。
公爵家だからではない。彼、『黒の後継』アルベイル・ライゼンナクト。その在り方が異質、なのだ。
他で代用が効く類の問題ではない。と、漸く理解が至ったのはその主催する夜会でのこと。
――――一歩引いて見ていた者の言葉は、軽い
そう言われ、一言も反論出来なかった。その見ている未来を確かめる為、自ら覚悟を以て頂に挑んだ。
その過程に於いてゲルダは思い知ったのだ。“前へ進む為に戦う事”の尊さと、難しさを。
それに挑み続け――――或いは、この『貴族』と『それ以外』という垣根を壊そうとしている人が居る。
自分が“そういう物であるなら仕方がない”と諦めた事に真っ向挑もうなんて人が本当に――“居る”――のだと。
驚きがあった。新たな発見を経て、ゲルダの世界はまた一歩広がった。
広がったことで見えていなかったと気づけたこともある。彼女の類稀な洞察眼はそうして研ぎ澄まされていった。
――――で、あるならば。そんな彼女をして“この人の力になりたい”と思えた『貴族』など他には居なかった。
その想いは今も変わらず。ゲルダという娘の背を押し続けている。
騎士になりたかった。誰かを。護りたい者を護り抜ける自分になりたかった。
そんな願いを実現する事がどんなに難しいかは、何時しか現実に直面し嫌が応にも思い知ったけれど。
夢を諦めたことはなかった。その夢を――――叶えるべきだと思える場所をやっと見つけたのだ。
彼女は、『黒の後継』の見る未来の先に、『誰も』が同じく自らの意思で立ち、進める祖国の姿を見た。
自らの理想を託すのに――――それ以上の理由が必要だろうか。
■
――――さて。ここまでがゲルダ・クラインという女性冒険者の事情。
そして此処からが、その実父。『小さな巨人』ことギュミル・クラインの事情である。
「……『黒鋼竜』、か」
クライン商会は王国内に広く版図を広げており、中にはいわゆる“『竜』の三大商会”と接点を持つ店もある。
この『王国』において『貴族』と無縁である事が難しい様に、『商人』という立場に在り続けるならば。
『白薔薇』はともかく『竜』と一切関係を持たないと言うのも、確かにそれほど容易な事ではない。
そういった国の背景事情を鑑みた場合、全く無しではない。或いは思いの外益の有り得る、選択肢では有った。
敏腕で知られる商人としてギュミルは頭の片隅で常に算盤を弾いている。だが――――しかし。しかしである。
「――――何でそうなった?」
「さあ……? ゲルダからの手紙にはそれ以上のことは何も……」
クライン夫人――――こと、ギュミルの妻。アイリス・クラインが首を傾げ、丁寧に手紙を便箋へ仕舞い直した。
どうせ2人の愛娘は遠からず一度帰郷する予定だ。その時確認すれば良いだろう、程度の意味だったのだろう。
けれど彼はそう受け取らなかった。何せ『竜』には後ろ暗い噂が付いて回る。
これまでギュミルはそういった危険な相手との取引は一切避けてきたのだ。これも家族を愛すればこそ……!
そんな男であるから、当然この国で『貴族』と真っ向矛を交える事のリスクなど重々承知している。
しかし以前の愛娘の態度から察するに、ゲルダは『貴族』そのものに苦手意識を持っている様だったのだ。
(一体、私が何も知らされない間にゲルダちゃんの身に一体何が……まさか――――!)
『黒鋼竜』とはまさにそんな貴族の筆頭格。『貴族派』の盟主だ。
貴族of貴族と呼んで差し支えない。そんな場所に自ら赴き忠を誓う? そんな事が現実的に有り得るだろうか。
あの、断固冒険者になると言って大喧嘩の末家を出ていった頑固者のゲルダが? 有り得ない……様に思える。
劇的な変節を遂げた。よりは未だ弱みを握られ脅された可能性の方が高いと――――そちらに天秤が傾くほどに。
「……っ、どうする、考えろ私。戦うのは余りに無謀だ。国外へ一旦脱しほとぼりが冷めるのを待つべきか……」
「あなた、とりあえずゲルダが帰るのを待って話を聞きませんか?」
「そ……そうか、そうだな。急いては事を仕損じると言う。今は娘を信じ……信じて……」
後にアイリス夫人曰く。この時、夫は覚悟を決めた男の目をしていた……と言う。
●現在から未来へ
「お父様が懸念している様な事は、何一つありません」
故郷の生家の談話室で、ゲルダは実父に敬語でそう応じた。その眼差しは諦めと呆れが半々だった。
ある種の覚悟を固めて娘を招き入れ、機を伺って恐る恐る話題を切り出したギュミルは。
愛娘の辛辣な眼差しと冷めきった言葉の槍に突き刺され、既に致死寸前だった。
思えば以前の家出の時も、最終的にはそんな眼をしていた気がする。おかしい、私は確かに和解した筈……
「という事は、貴方は納得の上『黒鋼竜』侯爵家に臣従すると決めた、という事ね?」
間に入ったアイリスの言に、ゲルダが頷く。其処には後ろめたい所がある人間特有の虚勢めいた物は感じない。
となれば、正しく言葉通りなのだろう。そしてそれを、この国でも最高位にある『貴族』。
今代の『竜』が認めた――――という事。これは、今後の商談に直接影響する大問題だった。
何せ現在の『王国』は“王家主導”で動くよう体制が整えられつつある――――なんて話は耳の早い商人である。
当然のように聞き及んでおり、時流もまたそれに沿って動いている。『貴族』と言う立場は危うい。
数年でどうこうはならずとも、十数年であれば読み切るのも容易ではない。
(リスクとリターンは……やや、前者の方が重いか)
そんな貴族達の一大派閥のトップとこれから面識を持ち、或いは交流を深めていくとなると。
周囲の商人たちも“クライン商会にはそういう背景があるもの”として関係を再考せざるを得ない。
「ゲルダはその、『竜』の若様の何処にそれほど惹かれたのかしら」
「……あの方が築くと言った未来には、偏りが無かったんです。それは、誰もが1人と数えられる国でした」
「誰もが、1人。それは……凄い事を考える人が居るものねぇ……」
其処には尊敬の念があった。となれば此処で『竜』との関係を一切断ち切ると言うのも宜しくない。
そんな事をしたなら、この大切な愛娘は一切躊躇せず自ら忠を預けた捧げた家へと身を寄せるだろう。
(――――ッッッ!!! いかん! いかんぞこれは。一家離散の危機! 何とかしなければ……っ!!)
凄腕商人ギュミルは考えた。考えて、考えて、近年かつて無いほど知恵を絞った。
確かにこれまで“危険を避けた商売”をして来た商家だ。その安定感をこそ評価し取引して来た者も居る。
それが突然リスクを取った選択をしたとしたなら、商会の方針変更。或いは変節と捉える者も居よう。
大規模商会はともかく。個人の采配に依存する部分の大きい中小商会との関係は少なからず変わって来る。
だが、これは已むを得ない損失として計上すべきだ。ならば取り戻す程の利益によって上書きすれば良い。
少なくとも。『竜』と縁を結ぶことが叶えば使える販路は爆発的に拡大する。
『王国』内であればこれまで想像するだけでしかなかった商売プランを試す事も叶うだろう。
マイナスばかりではない。そこは――――はっきりと認めて行かなければならない。後は、決断するだけだ。
「……もう、自分で決めたことなんだな」
「わたしは……わたしも。この『王国』がどう変わっていくか見てみたい。
そう思えた場所でなら、この先も。自分自身の決断を、胸を張って誇れると思うんです」
であるなら、如何な反論が出来よう。ギュミルにも心当たりがある。決めた道は違えられないのだ。
愛娘は既に選んだ。ならばどうして――――父親である自分が日和ったことなど言えるだろう。
■
「分かった。なら私から言うべき事は何もない。但し――――後悔だけはしないように」
「はい、お父様」
――――さて。しかし、とは言ってもである。
ゲルダが語るには、今『竜』の領内は諸々事情が重なり混乱の最中にある。一般人が踏み入れる環境ではない。
加えて大陸中央では現在進行形で“帝都奪還戦”が進行中だ。確かに『王国』内は比較的安定し、安全でもあるが。
さりとて熟達の冒険者である彼女の戦場は多い。急ぎ報告の為故郷へ戻ったとて、翌日にはトンボ返りだ。
となれば、いざ直接会談に出向くと言ってもそれは“今すぐ”ではない。最低、帝都奪還の戦いが終結しなければ。
逆を返せば、それだけ時間に猶予が有るという事でもある。『商人』にとって、“準備期間”は立派な武器だ。
ゲルダもその辺りは勝手知ったる何とやら。伊達に生まれてよりこの方商談の隣で育ってはいない。
そも彼女が急遽緊急帰郷に踏み切ったのも、委細万端整えて両家の関係を円満に動かす為である可能性が高い。
一体誰に似たのか、と言えばギュミル以外無い訳だが。ともあれクライン商会はこうして千載一遇の好機を得た。
「今日は家に居られるのでしょう? 久々に家族水入らずで食事でもどうかしら」
「はい、お母様。明日の朝一番の馬車で出ようと思っています」
母娘のやり取りをきちんと聞きながら、ギュミルはすっかり冷めた琥珀色の液体を啜った。
当たり前だが――――『商人』、と一口に言ってもその声質は様々である。
あくまで利益追求に重点を置き、一気に稼げるだけ稼いで適当な所で稼業を丸ごと売り払う様なのは別として。
商家として身を立てようと思えば持続的かつ安定的に機能する販路を開拓し、常連相手に取引を繰り返す。
というのが、世間一般で考えた所の商売の王道である。皮肉なことに、まさに死の商人などがそうだ。
しかし『竜』麾下には有名な三大商会。特に巨大な資本力を武器とする正統派商人『竜商』ロックベルトが居る。
これと同じ路線で競い合うのは如何にも悪手だ。今後の物流需要を考えても武器が伸びる可能性は低い。
確実消費が見込めるのは戦後需要を見込んだ食品及び消耗品だが、これは同業商会と大競合を起こすだろう。
そこに来て、ゲルダの見立てでは今代の『竜』が重点を置いていた調査対象は『学園』であると言う。
確かに“教育機関”というのは一種独特な局地消費が安定的に発生するが、同時に利権の坩堝でもある。
ではそれが――――“全く新しい教育機関”、であればどうだろう。
(……学問。識字率……文具、か)
これまでには無かった観点だ。何せ教育に金を掛けられる庶民と言うのはある程度以上裕福である。
押し並べて『王国民』と括った場合、一部の上澄みと言う事が出来、逆説総数は決して多くない。
だが――――或いは。それ自体が狭い物の見方だったのかもしれないと。ギュミルは気付き始めていた。
今現在存在していない顧客だから0と数えるのか。潜在的顧客であると考え1と数えるのか。
それによって市場規模というのは変動する。そして見るべきは……あくまでここから未来の話だ。
もし愛娘の見立て通り。もし次代の『竜』が本当に、未完の大器であるとしたならば――――
●たった一つの冴えた決断
「でも、そうなると商会の後継者を探さないといけなくなるわね?」
「――――うん? それはゲルダの御相手を引き取って私がみっちり1から教えれば」
「お父様、長らくお世話にな」「――――というのは勿論冗談だ。そうだな、早速見極めが必要だな」
軽口は急転直下で死を招く、即断即決の合理主義者ゲルダ・クラインが其処に居た。
相手の居る話でそんな無茶苦茶は無い。ギュミルもまあ、恐らく言ってみただけと言うのは分かるが。
しかし一方で、ゲルダが固辞しなければ何かさらっと冗談を実現しそうな危険性が彼にはある。
机の上で組まれた手はさり気なく口元を隠しているが、流石に聞き流すのには無理がある。
元々昔から人誑しな部分が見え隠れしているのだ。彼女の優れた洞察力は其処を見逃しはしなかった。
「あなた、何方か心当たりはありますの?」
「薄々、いずれこうなるのではないかとは思っていた。本音を言えば、半生を掛け育てた商会だ。
愛娘に引き継いで欲しい想いが無いではない。ないが……これは、私の我儘だろう」
「お父様……」
親にとって、子供はいつまでも子供だ。その認識が揺らぐ事はない。例え小人であれ。
自らにとって価値有るものを子に譲りたいと願うのが親の愛情であれば。その一方でこうも言える。
自らの手で価値有ると信じた物を積み上げて行く覚悟を以て、子は親から巣立っていくのだと。
ゲルダとて、木の股から生まれた訳ではない。反抗期を経て衝突することも少なく無かった両名だが。
けれど、其処には確かな家族の絆が有り、親愛が有った事を疑ったことは――――それだけは、無いのだから。
「ただし、それはそれとして時間が出来たら一度家へ戻って来なさい」
「? それは、まあ……はい」
「これから先、お世話になるのであれば一度こちらから挨拶に出向くのが、筋と言う物だろう。
何せ遥か目上の、『貴族』の括りで考えたとしても礼を欠くべからざる御家柄だ。下手は打てない」
「そうねぇ。『黒鋼竜』侯爵家と商売をするなら、礼儀作法は今まで以上に気を付けないと」
頬に手を当て頭を傾かせるアイリスには緊張感の欠片もないが。彼女は貴族生まれ、貴族育ちである。
『王国貴族』の在り方は、この場の誰より身に沁みて分かっている。で、あればこそ――――
「――――御挨拶」
この時、ゲルダは漠然と嫌ぁな予感を憶えたが。その心情は親に職場訪問される。と言う事象への物に近い。
近いからこそ、彼女の優れた洞察眼を以てしても気付けなかった。そもそも警戒していなかったからだ。
切り出したギュミルの瞳の奥に静かに燻る。まるで熾火のような小さな焔のことを。
そうして、ゲルダが席を辞し私室へ引っ込むと。場にはギュミルとアイリスだけが残される。
「少し、構わないか」
「……だと、思いましたわ」
顔を合わせて笑い合う。でなければ、娘を溺愛する彼がゲルダだけの退室を見送るわけがない。
使用人達には部屋に踏み入らないよう、事前に指示を出してある。もう少し時間に余裕はある筈だった。
■
……落ち着かない。私室に戻ったゲルダの心情はこれに尽きる。
今、各国の連合軍は大陸中央、『帝都』に迫っている。『幽界樹』伐採までには速やかに戻らなければいけない。
加えて『竜』の領内も決して安定しているとは言い難い状態だ。こちらも何時まで保つか分からない。
優先順位の結果として、『学園』での生活が後回しにされるのはやむを得ないこと。
やむを得なくとも――――講義の出席数が維持出来るか。課題消化が間に合うかなど気になるのは別の問題だ。
彼女にはすべきこと、しなければならないこと、今しておきたいことが並行して存在する。
生活は多忙、と言って相違無いが、それを苦痛に思ったことは無かった。ただ、心は急く。
冒険者稼業は過酷だ。これまでにも、一緒に仕事を受けた人間が姿を消すことなど幾らもあった。
目の前で人の生き死にを見届けたことだって。それで1つでも。1人でも多く守る為に戦ってきた。
これまでも。これからも。それは自分でも変えようのない、ゲルダの根幹だ。
(それは――――もし戦いが終わっても変わらない)
いずれ。剣を筆に置き換え別の戦いに挑むこともあるかもしれない。かつての生徒会総選挙の様に。
あれに比べれば槍剣や防具を駆使して激戦をくぐり抜ける方が幾らかマシとすら思える。人の期待は、重い。
そして『竜』に臣従するとはそういった、人々の期待を背負って行くことなのだと分かっていた。
政治には詳しくない為憶測しかないが、遠からず彼の家は元の地位を取り戻すだろう。
この『王国』では地位と“出来ること”は概ね比例する。領民も、臣民も、『公爵家』に期待する者は多い。
その荷を分けて持つと約束したに等しいゲルダには、その“格”に相応しい振る舞いが求められる。
今回、まさに決戦を控えた佳境の真っ只中に在って。それでも緊急的に帰郷したのは退路を断つ意味もある。
ゲルダの意思は固いが。けれど自分の中で一つ区切りを付けておく必要があった。
迷いは、真に生死を分つ様な戦場では天秤を大きく揺らす要因になる。覚悟も伝えた。家族の顔も見れた。
あとは後悔無く進むだけだ。――――いや。迷い、とは違うものの。未練があるとすればもう一つ。
けれどその気持ちを伝えるのは今ではない。これは……“死ねない理由”と、するべきだろう。
「……約束、しましたから」
夕食に備え、やや正規寄りの盛装に袖を通しなら独りつぶやく。
簡単ではないのだ。いつだって、どんな時だって。自分の気持ち一つすら思い通りになどなりはしない。
子供でいられたら良かった。少なくとも、まだ学園生でいられるあいだ位は。
だが彼女は既に選んだ。進む道を。支えるべき人を。向かうべき未来を……自らの意思で。
巣立ちを望んだ以上、此処は故郷ではあっても。もう、彼女の居場所ではない。
部屋の窓の外を見つめながら、静かに息を吐く。思い出があった。懐かしさがあった。寂しさがあった。
それらを目一杯に抱えて。ただ一つも捨てる事無く前へ進もう。その為に戻って来たのだから。
夕暮れに烟り沈みいく王国の丘陵を見つめ。ゲルダは瞳を伏せる。長い一日が終わろうとしていた。
■
「それにしても、あなた。何だかとても楽しそうですのね」
「そうか? ……いや、そうだな。今、そうと言われるまで気付かなかったが」
けれど口元を隠すように組んでいた手で確かめてみれば。ギュミルは確かに笑っていた。自覚すら無いほど自然に。
ああ――――そうだ。クライン商会は長く軌道に乗っていた。家族を。愛する妻と娘を守る為にそうした。
商会と言う組織は、ある程度の拡張均衡点が存在する。それは競争原理に基く需要と供給の曲線交差点である。
それ以上規模を大きくするにはある程度リスクを背負うか、只管地道に販路を広げ顧客の裾野を広げる他ない。
納得していた。自発的に諦めていた、と言い換えても良い。今現在を上限として、その境界線以上を望む道。
それは人が野心だとか欲望だとか呼ぶ物に近い。若い頃はそんな願いを原動力に商売に打ち込んだ時代も有った。
でなければ、『商人』と言う道を選んだりはしない。商売とは残酷なほどに勝敗が決する適者生存の世界だ。
ただ善人、なだけでは務まらない。ただ悪人、である方が余程適性が高い。そういった業種だ。
そんな世界で凄腕と呼ばれる以上は、少なからず他人に不幸を。損失を押し付けた事がある。
積極的悪意は無くとも、競合した商材を先に売り捌けば後追いの業者は必然的に行き詰まるのだから。
先着順であり、椅子取りゲームであり、気持ちの良い、良心的な取り引きばかりではない。
どれほど商売の才覚が優れていようと“分け合えるパイには限りが有る”と言うルールまでは捻じ曲げられないのだ。
(――――既に諦めた、と思っていたのだが)
――――そうして彼の眼前には家庭を持ち、親になった時確かに切り捨てた筈の道が拓けていた。
『竜』直下とは、『王国』における商人の最高位の1つだ。その上位3つ。三大商会などは言うに及ばない。
ギュミルは彼らと同じ商談の席で競い合った事はない。資本の多寡はそのまま立場の優劣に直結する。
明らかに不利な立場から、幾らでも不利を押し付けられる相手に挑むなど愚者の選択に他ならない。
しかし、同じ販路を用いて。全く新規参入する商材で。自らの才覚を頼りに一から積み上げるなら話は別だ。
いや、当然土地柄と言うのはある。土着の商会の方が強い。と言うのは義理や人情的に止むを得ない差として在る。
とは言っても全く無縁の立場から真っ向挑むのに比べれば、互いの格差は大きく。大いに縮まる。
つまり、期せずして彼は手に入れた訳だ――――この国の商売の最高峰で、殿上人達と商才を競い合う権利を。
誰しも。自ら道を一つに定め、あくまでそれを貫く覚悟を決めたなら。望む先は常に“頂点”だろう。
競り合い、敗れたなら納得も出来る。が、挑まずして諦める事を賢明と呼ぶかは、審議の余地がある。
それは――――愛する娘が一人立ちを決めたからこそ選び得る。ギュミルにとっての“未練”だった。
「……では、早速準備を始めましょうか」
「良いのだろうか、アイリス。君に要らない苦労を掛ける事になるかもしれないが……」
「勿論。私はそんなあなたの妻ですもの」
ふわふわと微笑む彼女が。実家と関係を絶ってまで一人の男を選んだ女が。そんな理由で揺らぐ筈もない。
アイリスはギュミルを愛していたし、ギュミルもまた、アイリスを愛している。
だからこそ、2人は互いに合意の上で愛娘が価値在ると見込んだ未来に投資すると決めたのだ。
その為に綿密な事前計画が必要だ。商人とは無から利益を生み出す資本の魔法使いなのだから。
「――――であれば。少し忙しくなりそうだな」
とある小人の少女が夢を叶えた。けれどそれは、一度途切れた夢の続きでもあった。
そんな出来事を発端として、『小さな巨人』と呼ばれた男もまた、己が望みの為に動き出す。
それはたった一つの冴えた決断。例え時代が転換期を越えようと、人の営みは続いていく。
少しずつ変わりながら。少しずつ受け入れながら――――それでも。人の願いに終わりはないのだ。
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メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。