【DA】リーンエスの耳
レティシア・レインフィール/
ガレシウス・アルヴァ・クラティアス
ジークリッド・レインフィール/
オルファレナ・アルヴァ・クラティアス
『ノベルタイトル:恋空遥か、月一夜』弓月 蒼
●かいしんの いちげき
夜。夕暮れはとうに過ぎ行き、そろそろ宵の帳が落ちる頃。2人の男が向き合っていた。
「なるほど、貴殿は確かに約束を果たした。であれば将来の義兄として私もまた約束を守ろう」
「……はい」
「以前言った事は憶えているね」
「何時なりと、何処からでもどうぞ」
先ず、相手は授恵者。それも堅牢強固で知られる歴戦の近接戦闘従事者である。
翻って自分はどうか。鍛錬を欠かした事こそ無い物の。実戦経験では比較にすらならない射手だ。
矢で射掛けて良い、と言うなら少しばかり話が変わって来るが、素手。それも拳と言う手段を考慮すれば。
余程奇跡的な渾身の一撃でも入らない限り、さしたる痛痒の一つも与えられないに違いない。
彼我の距離は大きく踏み込んで凡そ3歩。互いに距離を詰めた、腕の長さを考えたなら僅かに1歩。
止めるならば今を於いて他に無い。だがジークリッド・レインフィールは退路を断つよう無造作に半歩詰めた。
勿論、これはあくまでけじめの為。つまり儀礼的行為であり其処に相手に痛打を与えなければならない。
などと言った事項は必須項目として含まれない。今後の付き合いを考えれば避けた方が良いとすら言える。
――――が、しかし。それはそれ、これはこれ。仮にこのやりとりが儀礼的な物であったとして。
少なくとも。自分だけは断じてそれを認めてはならないのではないか。と、彼。
ジークリッドは考える。これは最早理屈でなく、さりとて心情だけの問題でもない。
未練は断ち切った心算だが、今この拳には亡き妹の想い人の。元婚約者である親友の無念も込められているのだ。
(既に、是非を問う時間は終わっている)
ジークリッドが思い切り踏み込む。身体が、視界が加速する。一歩、そして二歩。
相手は無防備だ。いや、無防備である事を自分に課している可能性まである。だとしても、手加減はしない。
私情が0であるなどと高潔ぶる気も更々無い。だが此処まで様々に絡まった柵もまた背負う覚悟で以て。
彼は兼ねての約束通り、義妹の婚約者。
ガレシウス・アルヴァ・クラティアスの顔を助走を付けて全身全霊で撃ち抜いた。
「~~~~――――っ!?」
振り被りから振り抜きまで綺麗な曲線を描く、腰と遠心力が乗った殴打にガレシウスの体躯が浮き、吹っ飛ぶ。
これには柱の陰から覗いていたレティシア・レインフィールも流石に声なき悲鳴を上げ想い人に駆け寄る。
荒事には然程縁の無い貴公子であるジークリッドだが、振り抜いた拳には過去類を見ない手応えがあった。
それはもう一度再現しろと言われても二度と不可能だろう。奇跡の如き直線拳打だったと言う。
●その後、の話
「なるほど、良く調べてくれた。下がってくれ」
『慈涙』伯爵領、領主邸。その主たるレインフィール伯爵家は他貴族の様に“騎士団”を有さない。
それは『中立派』と言う他派閥に比べ寄る辺の無い立場を維持する為、必要不可欠な処置だった訳だが。
一方で、表向きの名目では武力を用いずに領内の治安を維持する為“衛兵”に資本を投じていた。
彼らは常時武装する“制圧機構”である騎士と異なり、あくまで外敵に対する“防衛機構”として機能する。
特性上、彼らの基本業務は領内自治体の警邏ではなく領境界内外の情報収集に充てられていた。
その本質は領主直属の特殊諜報員であると言え。必然、戦闘よりも索敵や調査、追跡に長ける者が多い。
(……『女傑』フォルトゥナ・アルヴァ・クラティアス。これは大物が干渉して来たか)
此度、ジークリッドが私的な“調べ物”に際し利用した面々も、そんなある種の専属技能者たちであり。
事が起きてしまえば既に詰み、となり兼ねない『慈涙』にとっては、彼らが齎す情報は命綱にも等しい。
だが、そうして提出された報告書に記された文面は完全にジークリッドの想像の外を行っていた。
何せ動いていたのは彼も良く知る『王党派』の要人だ。『学園』の長とは並大抵の貴族が座れる椅子ではない。
確かに、件の騎士崩れを家門に入れると言う決定であれば、『北境』も『黒槍』も。
これは矛を納めざるを得まい。何せ額面上では『白銀』だけが汚名を被った形となる。
名誉を何より重んじる貴族に在って、フォルトゥナは自らの名声を傷付けてでも孫の名誉を挽回した。
美談とばかりは言えない。しかし内実を知れば“上手くやった”――――ことは、明らかだった。
現白銀侯は最早引退したも同然。次期後継者は生まれつき病弱と聞く。この状況、“万が一”が起きれば家が傾く。
其処に来て、精強な授恵者の。しかし脛に傷を持つ長兄の存在は途方もなくメリットが多い。
余程愚かでもなければ家臣団も、これを担いで家の実権を握ろうとは思わず。最悪の場合の代役にも丁度良い。
長姉が『集権派』盟主の側室に収まり自家は『王党派』盟主直系。妻候補は歴史ある『中立派』の一角。
四派閥の内三派閥、そして王家にまで顔が利くとなれば、“跡継ぎ問題さえ片付いたなら”家門は当分安泰と言えた。
幾ら『集権派』が派閥として台頭し、遠い将来貴族家が衰退していく可能性が見えていたとしても。
ここまで多方面に血縁を持ち、周到に準備を進めた家がそうそう傾くとも思えない。誰であれそう判断しよう。
流石に。『慈涙』としてももしここまで好条件の婚姻を断ったとあれば、無能の謗りは先ず免れまい。
(……――――参ったな、役者が違う)
母、グレイローネは如何にも貴族派貴族らしい権力指向だが。彼女はあくまで貴族令嬢の延長線上に居る。
だが、『白銀』の最高権力者は同じ貴族令嬢ながら、ほぼ一代で此処まで自家の地盤を固めて見せた。
当然その為の『学園長』就任でもあったのだろうし、相当危うい綱渡りもしているに違いないが……だからこそ。
尋常の手腕と胆力ではない。自らもいずれ領主たる自覚を持つジークリッドですら、思わず震えが来る程だ。
母は喜び勇んで義妹を家を繋ぐ道具に仕立てるだろう。これは流石に――――認めざるを、得ない。
ジークリッドは愛用の椅子に深く腰掛け嘆息を零す。貴族社会には時折居るのだ。こういった“怪物”の類が。
■
『白銀』侯爵領――――領都『白銀の古城』シルファリオ。
婚姻話が本決まりになるより一足早く、正式に同領領主家『白銀』の専属騎士団。
『白銀』騎士団の指南役を賜ったガレシウスは、現在同都市の騎士団詰め所で就業している。
そして同都市には彼の婚約者として、『白銀』の別邸を仮住まいとしてるレティシアも滞在していた。
冒険者を辞してより以来、本来貴族令嬢である彼女に役目らしい役目は何一つ無い。
婚約は決まったも同然とは言え現状“他家の人間”のレティシアに、『白銀』本家の内情に口出す権利は無く。
今後を見越した勉強の合間も、ここ暫く脳裏に過ぎるのは想い人のことばかり。彼女は悩んでいた。
急転を遂げたガレシウスの立ち位置の変遷は然程問題ではない。何処へ行くにせよどんな立場になるにせよ。
彼女はもともと最初から一緒に行く心算で居たし、今もその気持ちに全く変わりはなかった。
つまり彼が『白銀』の第一子として義祖母直々に認められた事は、勿論喜ばしい物の。
レティシアの人生設計を左右する様な事柄ではなかった。彼が『白銀』に帰ると言うなら付いて行くだけ。
強いて言えば、その場所が“名のある貴族家”であった事で義母や義兄を心配させる事が無くなった点は望ましく。
そして『王党派』でも屈指の高位貴族に嫁入りすると言う事実については、流石に些か気負う所も有った訳だが。
実の所。彼女の悩みはそういった輿入れ前のいざこざとは完全に関係のない場所を向いていた。
「同じ屋敷に居るのに、あの方は今日も朝からとても忙しそう……」
窓辺に横たわり薄手の硝子に手を触れる。ガレシウスが今、自らに課せられた役割に一生懸命なのは分かる。
それを応援したい気持ちはあるし、一緒に居られる時間が減ってしまうこと自体はまだ我慢出来る。
加えて、彼女とてこの先“侯爵家”へ入るとなれば断じて、彼に恥をかかせてはならない、と。
過去の領政や税収の傾向、出入りする商人や他貴族との交流網や取引の顛末などの諸々を。
ガレシウス当人から提供を受けた分厚い資料を基に、今まさに頭に叩き込んでいる最中である。
地頭は悪く無く、『学園』での経験から暗記は特に得手とするレティシアでもそれほど暇な訳では無かった。
けれどレインフィールの姫君として、母親の読み聞かせる絵物語と、義兄と婚約者とに護られて育ち。
冒険者になって社会の闇や世間の仄昏さに触れ、様々な権謀術数と疑心暗鬼とに苛まれて来たレティシアであるが。
その根幹は温室育ちの箱入りであり、彼女の恋愛観は極めつけに純粋かつ狂気一歩手前の一途さで成り立っている。
自分は幸せになってはいけない、と言う先入観が今までは強固な枷として働き抑止力として機能して来たが。
その枷を自力で解き一歩を踏み出した彼女に恐れる物など何も無く。そして晴れて両想いの確認も取れた。
婚約に至るまでの問題も概ね片付いた今、レティシアは過去類を見ない程に無敵であり――――
(……あれから全然触れてくれないのは、私に女性的魅力が欠けているからなのでしょうか……)
思考が完全に恋する乙女に侵されていた。と、評したとて。こればかりは些かも間違いではなかったろう。
■
“――――え、あの……お父様も一緒に此方にいらっしゃるのですか?”
“流石に彼の『白銀』侯爵家と付き合いが生まれるとなれば、挨拶をしない訳にもいかないからね”
“白銀侯も奥方様も、決して状態が安定しているとは言い切れないのですが”
“であれば、猶更此方から出向くのが筋と言う物だよ。極力負担を掛けないよう配慮はするけれど……”
“……分かりました。であれば、せめて宿泊は現在お借りしている別邸をお使い下さい。
家令長のエドワーズ様には事情を説明して了解を取っておきますから”
“分かった。であれば出来るだけ仰々しくならないように、此方も気を付けるとしよう”
以上が――――この一カ月で『白銀』と『慈涙』間を行き交った密書。
それらに基く兄妹の会話である。これほどこまめな内容となると文を認めるのも楽ではないが。
自分の輿入れの話となれば手を抜く訳にも行かない。レティシアの見る限り、侯爵夫人はまだともかくも。
白銀候が健康体を取り戻すのは凡そ絶望的と言って良い。多少改善したとて病床から出る事は先ず適うまい。
と言って、次期白銀候と見做されるエミール・クラティアスは未だ弱冠13歳だ。
社交界に出るまですらもう暫く時が要る。領主業となれば尚更、若過ぎるとなれば侮る者も居るだろう。
恐らく。彼女の想い人にはその補佐の役割が期待されている。勿論レティシアも他人事ではいられない。
少し話をしただけで理解したが、『白銀』の筆頭家令長エドワーズ・ヴァレンティノは非常に有能だ。
あのフォルトゥナ学園長の腹心の家臣だけはあり、家臣団関連の処務は殆ど彼に任せっ放しでも回っていく。
だが、対外対応までは流石にそうは行かない。貴族の応対はあくまで貴族の役割だ。
幸い。『白銀』は“強い貴族家”だ。その『白銀』の長兄、と言う肩書きは相当に重い。
初見で侮られない程度の立場は以前の公開謝罪で以て、『王党派』内では強固に保証されている。
余程の無知や無能を晒しでもしない限り、少なくとも女傑フォルトゥナの威光が通じる間は問題ない筈だが。
その時間的猶予が果たして何時まで続くかは読めない。少なくとも、永続するような物ではないのだから。
(いつ、何が起きてもあの方を護れる様に……準備すべきことは沢山あります)
領主業についても独自に勉強を始めてはいるものの、例えば『王党派』内外の貴族同士の関係性など。
これまでレティシアが一切触れなくて良かった知識は多岐に渡り、憶える事に終わりは見えない。
一方殆ど外様の状態から家に入る都合上。『白銀』既存の家臣団との交流も必要不可欠だ。
信頼関係無くして家門の安泰は無い。だから今日もレティシアは愛用の鞄を提げ『白銀』本邸へと出向いて行く。
●『白銀』と『慈涙』
領都『白銀の古城』シルファリオ、『白銀』本邸一階。
忙しなく動き回る侍女に混ざって困惑顔で書類を捲るのは、結婚式も間近に迫る将来的に義妹となる相手。
『王国』社交界では広く『白銀の薔薇』の異名で知られる令嬢オルファレナ・アルヴァ・クラティアスだ。
現在の彼女は輿入れ先、バデーニ公爵家へ持ち込む私物の荷造りで、正しく大わらわと言った所。
「あ、レティシア義姉様。いつもあまりお構い出来ないでごめんなさいっ!」
「いえ……オルファレナ様は今日も御輿入れの御準備でしょうか?」
「そうなんです。持ち出しておきたい物……特に書物が多くて。1度の馬車で運ぶのは無理かしら……」
視線の先、二階にある彼女の私室は全体的に可愛らしい小物で纏めつつも綺麗に整えられた部屋だったが。
実はその隣室には、領主もかくやと言った規模の書斎を有している。レティシアも最近知った事実である。
遠くヴェルクリエでは外出の自由も少なく、家庭教師が付きっ切りで礼儀作法や基礎教養を教えていた為。
彼女にとっての娯楽は本を読むくらいしか無かったのだとか。好きが嵩じての典型と言える。
幸い、側室として入るバデーニの本邸も公爵家の家格に違わず部屋にはそれなりの余裕が有るらしい。
結婚に当たり彼女がウィリアム・バデーニ公に希望した事が、その一室を書斎とする事だったとか。
「何か私もお手伝いすることが出来れば良かったのですが」
「まさか! 将来の御義姉様にそんな事はさせられません……!」
慌てた様に両手を振るオルファレナ同様、荷物を運んでいた『白銀』の侍従達も驚いた様に足を止める。
本来、貴族令嬢と言うのは何の例え話でも無く“銀食器より重い物は持った事がない”者が少なくない。
元冒険者のレティシアは幾ら何でもそこまで世間知らずではないが、その提案が異常な事は良く知っている。
荷運びは愚か荷造りだって、貴族が手を汚す様な仕事では断じてないのだから。
「私は……あまり良い先輩ではなかったかもしれませんが。これから家族になる皆様の御力になりたいのです」
「うぅん……御気持ちはとても嬉しいのですが……あ! そうですね。
では出来たらエミールの勉強を見て頂けると助かります。今は本当に色々と手が足りなくて……」
言葉を濁してこそいるが、彼女の言は本当にそのままの意味で何一つ間違ってはいない。
現在、『白銀』は長兄、長姉の2件の結婚話が同時並行で進んでいる状態である。
お構いなく、とは言っても貴族の範例として遥々遠征して来る『慈涙』の領主とその継嗣を出迎える準備。
結婚式が終われば正式にバデーニの人間になるオルファレナが『白銀』の家を出る為の用意。
本来こういった事を取り仕切る侯爵は病態で、実質的指導者たるフォルトゥナは多忙である。
こういう場合に備え2人居る家令長が協力・連携して事に当たっているが、その忙しなさは想像に難くない。
貴族の家内が此処まで激動する事も流石にそうはないだろう。唯一此度の騒動とは何の関係もない。
けれど今後家族構成が大きく替わる、と言う難しい年頃の少年にはやや厳しい環境変化に見舞われた次男。
ただでさえ『白銀』の後継者である重圧と戦っている筈のエミールの心境たるや――――如何程ものか。
■
上質紙の上を羽ペンが辿って行く。カリカリと記述の音が静寂の中響いていく。
順調に思えた筆致は、けれど暫く続くとぴたりと止まる。更に暫しの空白。対面の少年が顔を上げた。
「……先生、この領主権の恣意的運用を禁ず、と言うのは具体的にどういった場合に適応されるんですか?」
「これはですね、王国法規の適応範例の項を見て下さい。教書の後ろの方の頁に記載が有る……筈です」
何だか全然平気そうだった。と言うより、物心付いてよりほぼ家族は母親と自分だけだったエミールにとって。
ずっと遠方で生活していた姉も、突然増えた義兄も似たような物。
勿論其処には更に増えた義姉も含まれる。押し並べて“家族”と呼べる程の縁がない。
これもやはり、貴族社会では良くある――――までは行かない物の。それほど珍しい話でもない。
幸い、彼は消極的で身体が弱くこそある物の、同年代の令息らと比し能力が大きく劣っている訳では無い。
教育方針を“領主教育中心”に切り替えたのは、オルファレナの婚約話が出て来てからだった筈だが。
レティシアの知る程度の知識で彼の家庭教師が務まるのは精々あと1年が関の山だろう。
それは彼女が無知であるからではなく、『白銀』の“次期侯爵”に求められる水準の高さを意味する。
元々の学習能力が決して低くない以上に、詰め込まれる知識の精度が非常に高いのだ。
細かい事例まで含めると、『学園』を正攻法で卒業したレティシアも知らない話が幾つも出て来る。
勿論彼女自身その間の努力を欠かす心算はないけれど。“伯爵家”とは及第点の線引きから変わって来るのだ。
元より家督を継承する意思も予定も殆ど無かったレティシアにそれを埋めろと言うのは些か無理が有った。
(それでも……頼って下さる限りは、出来るだけ力になってあげたい)
妹や弟とは縁遠いレティシアにとって、突然出来た年下の妹弟はあくまで庇護すべき相手だ。
そしてそれ以上に。あくまで“妹”として扱われる事の長かった彼女にとってみれば。
手を取り教え導く相手、と言うのは新鮮な感動を憶える対象だと言えた。ついつい甘やかしたくなる。
幸い、エミールは真面目な生徒だった為、杓子定規のきらいがあるレティシアとの相性は悪く無い。
「……どうしましたか、先生?」
「いえ、何でもありません。次の頁に進みましょう。分からない事が有ったら何でも先生に聞いて下さいね」
勿論。これが跳梁跋扈とも言われる貴族の学び舎。『学園』であれば流石に話も変わったのだろう――――が。
「お疲れ様でした。今日はここまでとしましょう。教書も次の巻に進んで大丈夫そうですね」
「……はい。あの、先生」
「……? 何でしょう? あ、何か分からない部分が――――」
何か少しでも彼とその家族の力になれたらと、自らかって出て手に取った教鞭ではあったものの。
望む望まざるはさておき、その役割は案外彼女の性格に合っていた。
教える事で自らも学び、けれどあまり想い人との蜜月とは言い難い。文字通りに方々忙しない日々。
「……いえ。明日も……宜しくお願いします」
「! こちらこそ、宜しくお願いしますね」
慌ただしい時は瞬く間に過ぎ――――そうして、更に一カ月ほど。その時は、遂にやって来た。
■
オルファレナが結婚式を控えている以上、外来客の応対は勿論家主か、その代理人に任せられる。
「いらっしゃいませ、『白銀』へようこそ。『慈涙伯』ヴィルフリード様。それに、ジークリッド様」
『白銀侯夫人』セラフィアナ・アルヴァ・クラティアスは以前より深い心の病を抱えてはいる物の。
心身に沁みついた“貴族令嬢”としての立ち振る舞いは、客をもてなす様な場では鉄壁の仮面として作用した。
彼女の中に、ガレシウスやオルファレナ、と言った存在は自らの子として存在はしていないものの。
縁戚の子供を某かの理由で家族同然の扱いで預かっている、と言う程度の認識はある。
故に、対外的な場面では彼女は極力年下である彼や彼女の名誉に傷が付かないよう振る舞う。
過剰に心的負荷を掛けたりしない限り、長年培われた“貴族的所作”が崩れる事はそうは無い。
と言う点は、彼女に歓待役を預けるに当たり御典医より告げられた心強い太鼓判である。
逆を返せば――――それほど強固に自らを偽りの現実で騙さねば程彼女は深く傷付いた、と言う事でもあるが。
「レティシア様には私達も多岐に渡りお世話になっております。此度の婚姻心から歓迎致しますわ」
朗らかに、少女の如く微笑むセラフィアナ妃の表情はやはり実際の年齢相応とは言い難い物の。
『王国』貴族は文字通り変わり者に事欠かない。こういった高位貴族の夫人もまた、珍しくなかった。
何より。古い『中立派』貴族である『慈涙』の当主は表情を取り繕うのに慣れている。
加えて言えば、次期当主であり英才として知られるジークリッドとて『白銀』についての事前調査は十分だ。
少なくとも初対面の様な“表面を撫でる”程度のやり取りであればどんな角度からの内容にも対応し得る。
次期領主、として積み重ねられた典雅な儀礼と天性の話術は伊達ではない。
「流石、『白銀』の刺繍は細工が繊細で在らせられる。これ程の品は『王国』広しと言えどそうは有りません」
「まあ、御上手。『慈涙』の清酒も素晴らしい物と存じております。是非次は当家にも訪問させて下さいまし」
「勿論父共々喜んで歓迎致します。その時は当家秘蔵の品を御賞味頂く事を約束致しましょう」
互いに、“異なる派閥の、けれど長い付き合いになる貴族”対応に徹するという形で恙無く対話は運び。
同席したガレシウスやレティシアの緊張の色を他所に、至って和気藹々と良家の面通しは過ぎ去っていった。
――――そしてここまでが、『白銀』と『慈涙』についての表向きである家同士の話。
「坊ちゃまが御立派になられて、このエドワーズ心より安堵致しました。
おまけにこの様に美しい未来の奥方様との縁も結ばれ、これで漸く私も肩の荷を下ろす事が適います……」
「エドワーズ卿、飲み過ぎかと。『白銀』にはまだまだ貴方の存在が必要なのですから」
「そうは仰られてもあの小さかった坊ちゃまが……」
「何時の話かと……レティシア、ここは笑う所ではありませんからね?」
歓待の食事会を終え、見送りを仰せ付かった家令長エドワーズの与太話を聞きながらの帰路。
同道していたジークリッドが意を決して足を止める。
何かと思い振り返れば、其処には決意を込めた眼差しが夜天の月を映し輝いていた。
「ガレシウス卿。以前の約束、今日果たさせて頂きたい」
ここからが――――『白銀』と『慈涙』の個人的な話、である。
●銀の空に昇る月
かくして、状況は漸く現在まで舞い戻る。
『白銀の古城』シルファリオ内、『白銀』別邸――――その中庭。
躊躇無く振り抜き大の男を宙に浮かしたジークリッドの一撃は、場所が場所なら賞賛されて然るべき物。
しかしこれは名誉無き私闘とも呼べない“けじめ”であり、互いの遺恨の解消でしかない。
ジークリッド自身も二度と再現出来そうにない英雄的殴打は、恐らく此処に至るまでの数多の未練。
その無数の想いの欠片がこの一瞬、拳に宿ったに違い無いと後に彼は述懐する。
とは言え、両者の間には歴然とした実力差が存在し、どれ程の奇跡が放たれたとて。
それによって歴戦の勇にして幾多の戦場を駆けた熟達の騎士でもある、ガレシウスの意識を刈るには遠い。
一度は悲鳴を上げかけたレティシアだが、身を起こす彼の頬に確り付いた拳打の跡はともかくも。
幽界樹の仔跋扈する戦場でも最後まで立ち続けた彼が、義兄の拳でどうにかなる、と思った訳ではない。
「良い一撃でした。戦士の才能があらせられる」
「まさか、“戦う者”としての才覚で私が貴殿に劣るだろう事は私と私の親友が一番良く理解している」
「戦巧者と言う意味ではそうかもしれません。ですが、戦士に最も求められる才能とは強さではない。
真実必要とされる時に、自分の本来持つ力以上の成果を出す事が出来るか、です」
その戦士がどの程度の力量を持ち、何処に配属したならば最も効果的に力を示す事が出来るか。
それを考えるのは指揮官であって戦士ではない。その責任を取るのも、やはり指揮官である。
指摘を受けて、ジークリッドは僅かに笑った。生真面目に今必要でないだろう事を説明してまで賞賛する。
そういった所は、彼の親友とも似通ったものを感じさせる。悪い男ではないのだ、決して。
ジークリッドとて、義妹の男を見る目を疑っている訳では無い。納得出来ていないとも、違う。
ただ此処に至るまで失われたもの。その最後の1人として、決着は、付けなければならなかった。
「まさか妹の肩を借りなければ立てない訳では無いだろう。来ると良い、次は貴殿の番だ」
「や――――やめて下さい、お義兄様も、ガレシウス様も! こんな事は必要ない筈です!!」
「敢えて問いますが、自分もこれ以上続ける理由を持ちません。応手は本当に必要でしょうか」
「必要だとも。でなければ、私はいつまでも貴殿を義弟と認める事が適わない」
それは、レティシアが知る所では何時も穏やかで優しかった義兄の見知らぬ一面だった。
挑発する様に掌を自らに向けて手招く仕草には不敵さと、静かではあれ確かな闘志が滲む。
戦士として。そして男として。ガレシウスはこの挑発を“受けない”訳にはいかない。
背に愛する者を控えさせていればこそ。此処までされて矛を納めると言う選択肢は、もう何方にも無かった。
「後悔なされませんよう」
「構わない。来い」
まるで互いしか見えていない。その事実にどうしてだろう。そんな場合ではないと分かっているのに。
何故だか寂しいような、哀しいような気持ちが沸き立つのは。
■
制止の声を上げる暇もあればこそ。黒い疾風と化したガレシウスがジークリッドに肉薄するまで瞬き一つ。
引かれた右腕は弓の様に撓り、拳には“一般人なら優に撲殺し得る”澱が宿る。
それは鍛錬を積んだ授恵者にとっては最低限の“攻撃行為”だ。武器を持たない以上これ以下は無い。
その一撃は肉と骨で出来た生物を十分に殺傷し得るもの。恐るべき凶器として拳が振り抜かれる。
風が――――吹き抜けた。ガレシウスの本気の一撃がジークリッドの頬を掠めその先、虚空へ振り抜かれる。
何者を打ち滅ぼす事もなく。さりとて“けじめ”を成就させるでもなく。ただ約定を果たす形で以て。
「……何故、当てなかった?」
「目算が外れました。いけませんね。戦いは、少しでも離れると途端に勘が鈍り始めますから」
それでも。その拳閃を見ただけでジークリッドには分かった。彼がどれほど研鑽を積み上げて来たか。
戦う者として、その欠け甲斐の無い若い時を如何に我武者羅に“戦う事”に注いで来たか。
そうまでして研ぎ澄ました力を振るう場を奪われて尚、彼はあくまでそれを国を護る為使い続けたと言う。
今もきっとそうなのだろう。自分が傷付けば、レティシアが哀しむ事を眼前の男は気付いていた。
不器用な――――酷く不器用な男だった。決して、策謀を講じられないタイプでもあるまいに。
けれどそういった一つ一つが、或いは義妹の……レティシアの傷を癒し、心を融かしたのであれば。
止むを得ない。認めざるを得まい。例え、どれほど悔しくとも。これがガレシウスと言う男なのだと。
何せ――――初恋の女性が、見染めた男だ。
「……分かった。僕の完敗だ」
嘆息を一つ。ジークリッドが諦めたように両手を挙げる。
ガレシウスが拳を下ろすのを見て、漸くレティシアがほっとした様に中庭へ駆け寄って来る。
両者に深い確執があったわけでは無い。そもそもがそれほど長い付き合いでもない。
けれどこれからは話が別だ。義妹が『白銀』へ嫁ぐ以上は彼もまた、家族と言う事になる。
ジークリッドの事前調査は告げている。ガレシウスは“秘密主義者”だ。その内面まで含め。
自らの事を余り語らず、明かしたがらない。しかし、家族となる以上それでは困る。
拳で語り合った間柄だ、そろそろ腹を割って互いの事を知るべき時が来た、と言う事だろう。
一人安心して踵を返そうとする彼を、ジークリッドが後ろから駆け寄り肩を組む。
突然捕まえられぎょっとした様にガレシウスが動きを止めた。その距離感は想定外だったのだろう。
漸くこの仏頂面の騎士の虚を付けたと。彼はその反応に大いに満足すると共に更に手を進める。
さて、空振りの件はこれからどう意趣返ししてやろうか。
「なら次は、未来の家族として親睦を深める番だね。義弟よ」
「……は!?」
ジークリッドが楽しそうにガレシウスを捉え、応接室へと無理矢理気味に連れて行くのを。
漸く彼と2人の時間を取り戻せたと信じていたレティシアは、梯子を外された様な想いで見送るしかなかった。
■
「……俺は何かしてしまっただろうか」
「……御自分の御心に尋ねてみては如何でしょう」
こうして、レティシアは拗ねた。それはもう盛大に拗ねていた。
その未だかつてない拗ね具合は、無表情を滅多に崩さないガレシウスが明確に困惑する程だ。
しかし、それには理由がある。少なくともレティシアの側にはその度重なる裏切りは十二分な理由足り得た。
応接室での宴会ではヴィルフリードが寝室へ向かった後も、義兄は近年珍しく羽目を外していた。
何か心のつっかえが取れたのか。心配事でも片付いたのか。ジークリッドはとても楽しそうだった。
そして彼は結局宴も酣となり自然解散するまで、ガレシウスの隣に在り続けた。
その間、何だかとても楽しそうな義兄を前に場所を変わって欲しいとも言えず。
父と、義兄と、婚約者の貴族談義を聞きに徹していたレティシアが果たしてどんな心境だったのか。
きっと説明した所で伝わるまい。そこが伝わらないのは譲って仕方ないにせよ、不満は大いにある。
その大半がレティシアの我儘であることは横に置いておいて、不満は、それはもう、大いにあるのだ。
「どうせガレシウス様はお義兄様と一緒の方が楽しいのでしょう?」
「断じてそんな事はありません」
「ほら、そうやってすぐ敬語になる……」
「そんなことはない! ただ、ジークリッド殿にも恐らく色々と思う所は……」
「私は、ただ私だけ見ていて欲しいのに」
呟くようにそう口にすると。レティシアとて自分でも、何だか面倒な事を言っている自覚は有る。
ガレシウスが彼女の家族が極力納得出来るように振る舞っていることも。
それがレティシアの事を思えばこそであることも、実のところきちんと分かっている。
分かっているけれど、家族とばかり仲良くされて自分との距離だけずっと据え置きなのは寂しいのも。
結果、自分に女性としての魅力が足りないから彼は求めてくれないのでは……と不安になるのも。
どれだけ理屈が分かっていてもどうしようもない物なのだ。頭で考えるだけでは、何も解決しない。
「俺は、レティシアだけを見ている心算だ」
「でも、ガレシウス様はあれから全然私に触れてすらくれません」
「それは――――! 婚前である以上、貴女の家族に正式に認められない事には――――」
「――――だったら、もう、問題は無いではありませんか……!」
じっと見上げる眼差しの。その全てが彼で占められている。
それで良い。それが良い。ただそれだけを望んで、願って、欲して。漸く得られたのだから。
彼に大切な物が沢山あるように、彼を大切に想う人も沢山居るのだろうけれど。
その中の1つで良いだなんて。物分かりの良いレティシアはもう、何処にも居ない。
一緒に居たい。離れたくない。何処であっても。唯一時であっても。ずっと傍に居たい。
夜闇の眼差しに浮かぶのは、銀の月だけで在って欲しいと。だってそう望んでしまったから。
「……俺はそれほど我慢強い方ではないよ、レティシア」
「以前もお願いしました。私を永遠に、貴方だけのものにして欲しいと」
そっぽを向いたまま抱き竦められ、顎に人差し指が添えられるや強引に視線を奪われると。
傾いた世界は、ただ夜空で染められる。
■
それは今を過ぎ去り行く御伽噺。至貴き『白銀』の血に継がれる一組の男女の物語。
かつて夜と月は一つではなく。夜闇の騎士と銀月の姫には互いに生きるべき道が敷かれていた。
月無き夜空はただ孤独で、けれど孤独だからこそただ鋭く、寒々しいほどに冴えた黒で居られた。
けれど、夜も闇も移ろうように。天の巡りは永遠ではない。望む望もうと、変化の時はやって来る。
夜無き銀月はただ一人で、けれど一人だからこそただ優しく、穏やかに安らぐ白で居られた。
けれど、月も星も満ちては欠けるように。いずれは擦り切れ摩耗して、虚ろう未来が待っていた。
それは不幸では無かったかもしれない。それは絶望には程遠いのかもしれない。
けれど、幸福ではなかったろう。唯一人で、流されるままに、ただ至るべき結末へ向けて落ちて行く。
だがそうはならなかった。偶然か、必然か、運命か、或いは互いが互いに惹かれたが所以か。
夜と月は出逢い、諍い、擦れ違い、和解と共感を以て、自らの道標を選び始める。
それは決して平坦な道のりではなかった。それは断じて、最初から決まっていた終わりではなかった。
けれど、彼と彼女はそうして結ばれ同じ路を歩き始めた。もう二度と、互いを見失わない様に。
――――ああ、故に銀の天。染まる夜闇に今宵も、真白き月が昇る。
夜。夕暮れはとうに過ぎ行き、そろそろ宵の帳が落ちる頃。2人の男が向き合っていた。
「なるほど、貴殿は確かに約束を果たした。であれば将来の義兄として私もまた約束を守ろう」
「……はい」
「以前言った事は憶えているね」
「何時なりと、何処からでもどうぞ」
先ず、相手は授恵者。それも堅牢強固で知られる歴戦の近接戦闘従事者である。
翻って自分はどうか。鍛錬を欠かした事こそ無い物の。実戦経験では比較にすらならない射手だ。
矢で射掛けて良い、と言うなら少しばかり話が変わって来るが、素手。それも拳と言う手段を考慮すれば。
余程奇跡的な渾身の一撃でも入らない限り、さしたる痛痒の一つも与えられないに違いない。
彼我の距離は大きく踏み込んで凡そ3歩。互いに距離を詰めた、腕の長さを考えたなら僅かに1歩。
止めるならば今を於いて他に無い。だがジークリッド・レインフィールは退路を断つよう無造作に半歩詰めた。
勿論、これはあくまでけじめの為。つまり儀礼的行為であり其処に相手に痛打を与えなければならない。
などと言った事項は必須項目として含まれない。今後の付き合いを考えれば避けた方が良いとすら言える。
――――が、しかし。それはそれ、これはこれ。仮にこのやりとりが儀礼的な物であったとして。
少なくとも。自分だけは断じてそれを認めてはならないのではないか。と、彼。
ジークリッドは考える。これは最早理屈でなく、さりとて心情だけの問題でもない。
未練は断ち切った心算だが、今この拳には亡き妹の想い人の。元婚約者である親友の無念も込められているのだ。
(既に、是非を問う時間は終わっている)
ジークリッドが思い切り踏み込む。身体が、視界が加速する。一歩、そして二歩。
相手は無防備だ。いや、無防備である事を自分に課している可能性まである。だとしても、手加減はしない。
私情が0であるなどと高潔ぶる気も更々無い。だが此処まで様々に絡まった柵もまた背負う覚悟で以て。
彼は兼ねての約束通り、義妹の婚約者。
ガレシウス・アルヴァ・クラティアスの顔を助走を付けて全身全霊で撃ち抜いた。
「~~~~――――っ!?」
振り被りから振り抜きまで綺麗な曲線を描く、腰と遠心力が乗った殴打にガレシウスの体躯が浮き、吹っ飛ぶ。
これには柱の陰から覗いていたレティシア・レインフィールも流石に声なき悲鳴を上げ想い人に駆け寄る。
荒事には然程縁の無い貴公子であるジークリッドだが、振り抜いた拳には過去類を見ない手応えがあった。
それはもう一度再現しろと言われても二度と不可能だろう。奇跡の如き直線拳打だったと言う。
●その後、の話
「なるほど、良く調べてくれた。下がってくれ」
『慈涙』伯爵領、領主邸。その主たるレインフィール伯爵家は他貴族の様に“騎士団”を有さない。
それは『中立派』と言う他派閥に比べ寄る辺の無い立場を維持する為、必要不可欠な処置だった訳だが。
一方で、表向きの名目では武力を用いずに領内の治安を維持する為“衛兵”に資本を投じていた。
彼らは常時武装する“制圧機構”である騎士と異なり、あくまで外敵に対する“防衛機構”として機能する。
特性上、彼らの基本業務は領内自治体の警邏ではなく領境界内外の情報収集に充てられていた。
その本質は領主直属の特殊諜報員であると言え。必然、戦闘よりも索敵や調査、追跡に長ける者が多い。
(……『女傑』フォルトゥナ・アルヴァ・クラティアス。これは大物が干渉して来たか)
此度、ジークリッドが私的な“調べ物”に際し利用した面々も、そんなある種の専属技能者たちであり。
事が起きてしまえば既に詰み、となり兼ねない『慈涙』にとっては、彼らが齎す情報は命綱にも等しい。
だが、そうして提出された報告書に記された文面は完全にジークリッドの想像の外を行っていた。
何せ動いていたのは彼も良く知る『王党派』の要人だ。『学園』の長とは並大抵の貴族が座れる椅子ではない。
確かに、件の騎士崩れを家門に入れると言う決定であれば、『北境』も『黒槍』も。
これは矛を納めざるを得まい。何せ額面上では『白銀』だけが汚名を被った形となる。
名誉を何より重んじる貴族に在って、フォルトゥナは自らの名声を傷付けてでも孫の名誉を挽回した。
美談とばかりは言えない。しかし内実を知れば“上手くやった”――――ことは、明らかだった。
現白銀侯は最早引退したも同然。次期後継者は生まれつき病弱と聞く。この状況、“万が一”が起きれば家が傾く。
其処に来て、精強な授恵者の。しかし脛に傷を持つ長兄の存在は途方もなくメリットが多い。
余程愚かでもなければ家臣団も、これを担いで家の実権を握ろうとは思わず。最悪の場合の代役にも丁度良い。
長姉が『集権派』盟主の側室に収まり自家は『王党派』盟主直系。妻候補は歴史ある『中立派』の一角。
四派閥の内三派閥、そして王家にまで顔が利くとなれば、“跡継ぎ問題さえ片付いたなら”家門は当分安泰と言えた。
幾ら『集権派』が派閥として台頭し、遠い将来貴族家が衰退していく可能性が見えていたとしても。
ここまで多方面に血縁を持ち、周到に準備を進めた家がそうそう傾くとも思えない。誰であれそう判断しよう。
流石に。『慈涙』としてももしここまで好条件の婚姻を断ったとあれば、無能の謗りは先ず免れまい。
(……――――参ったな、役者が違う)
母、グレイローネは如何にも貴族派貴族らしい権力指向だが。彼女はあくまで貴族令嬢の延長線上に居る。
だが、『白銀』の最高権力者は同じ貴族令嬢ながら、ほぼ一代で此処まで自家の地盤を固めて見せた。
当然その為の『学園長』就任でもあったのだろうし、相当危うい綱渡りもしているに違いないが……だからこそ。
尋常の手腕と胆力ではない。自らもいずれ領主たる自覚を持つジークリッドですら、思わず震えが来る程だ。
母は喜び勇んで義妹を家を繋ぐ道具に仕立てるだろう。これは流石に――――認めざるを、得ない。
ジークリッドは愛用の椅子に深く腰掛け嘆息を零す。貴族社会には時折居るのだ。こういった“怪物”の類が。
■
『白銀』侯爵領――――領都『白銀の古城』シルファリオ。
婚姻話が本決まりになるより一足早く、正式に同領領主家『白銀』の専属騎士団。
『白銀』騎士団の指南役を賜ったガレシウスは、現在同都市の騎士団詰め所で就業している。
そして同都市には彼の婚約者として、『白銀』の別邸を仮住まいとしてるレティシアも滞在していた。
冒険者を辞してより以来、本来貴族令嬢である彼女に役目らしい役目は何一つ無い。
婚約は決まったも同然とは言え現状“他家の人間”のレティシアに、『白銀』本家の内情に口出す権利は無く。
今後を見越した勉強の合間も、ここ暫く脳裏に過ぎるのは想い人のことばかり。彼女は悩んでいた。
急転を遂げたガレシウスの立ち位置の変遷は然程問題ではない。何処へ行くにせよどんな立場になるにせよ。
彼女はもともと最初から一緒に行く心算で居たし、今もその気持ちに全く変わりはなかった。
つまり彼が『白銀』の第一子として義祖母直々に認められた事は、勿論喜ばしい物の。
レティシアの人生設計を左右する様な事柄ではなかった。彼が『白銀』に帰ると言うなら付いて行くだけ。
強いて言えば、その場所が“名のある貴族家”であった事で義母や義兄を心配させる事が無くなった点は望ましく。
そして『王党派』でも屈指の高位貴族に嫁入りすると言う事実については、流石に些か気負う所も有った訳だが。
実の所。彼女の悩みはそういった輿入れ前のいざこざとは完全に関係のない場所を向いていた。
「同じ屋敷に居るのに、あの方は今日も朝からとても忙しそう……」
窓辺に横たわり薄手の硝子に手を触れる。ガレシウスが今、自らに課せられた役割に一生懸命なのは分かる。
それを応援したい気持ちはあるし、一緒に居られる時間が減ってしまうこと自体はまだ我慢出来る。
加えて、彼女とてこの先“侯爵家”へ入るとなれば断じて、彼に恥をかかせてはならない、と。
過去の領政や税収の傾向、出入りする商人や他貴族との交流網や取引の顛末などの諸々を。
ガレシウス当人から提供を受けた分厚い資料を基に、今まさに頭に叩き込んでいる最中である。
地頭は悪く無く、『学園』での経験から暗記は特に得手とするレティシアでもそれほど暇な訳では無かった。
けれどレインフィールの姫君として、母親の読み聞かせる絵物語と、義兄と婚約者とに護られて育ち。
冒険者になって社会の闇や世間の仄昏さに触れ、様々な権謀術数と疑心暗鬼とに苛まれて来たレティシアであるが。
その根幹は温室育ちの箱入りであり、彼女の恋愛観は極めつけに純粋かつ狂気一歩手前の一途さで成り立っている。
自分は幸せになってはいけない、と言う先入観が今までは強固な枷として働き抑止力として機能して来たが。
その枷を自力で解き一歩を踏み出した彼女に恐れる物など何も無く。そして晴れて両想いの確認も取れた。
婚約に至るまでの問題も概ね片付いた今、レティシアは過去類を見ない程に無敵であり――――
(……あれから全然触れてくれないのは、私に女性的魅力が欠けているからなのでしょうか……)
思考が完全に恋する乙女に侵されていた。と、評したとて。こればかりは些かも間違いではなかったろう。
■
“――――え、あの……お父様も一緒に此方にいらっしゃるのですか?”
“流石に彼の『白銀』侯爵家と付き合いが生まれるとなれば、挨拶をしない訳にもいかないからね”
“白銀侯も奥方様も、決して状態が安定しているとは言い切れないのですが”
“であれば、猶更此方から出向くのが筋と言う物だよ。極力負担を掛けないよう配慮はするけれど……”
“……分かりました。であれば、せめて宿泊は現在お借りしている別邸をお使い下さい。
家令長のエドワーズ様には事情を説明して了解を取っておきますから”
“分かった。であれば出来るだけ仰々しくならないように、此方も気を付けるとしよう”
以上が――――この一カ月で『白銀』と『慈涙』間を行き交った密書。
それらに基く兄妹の会話である。これほどこまめな内容となると文を認めるのも楽ではないが。
自分の輿入れの話となれば手を抜く訳にも行かない。レティシアの見る限り、侯爵夫人はまだともかくも。
白銀候が健康体を取り戻すのは凡そ絶望的と言って良い。多少改善したとて病床から出る事は先ず適うまい。
と言って、次期白銀候と見做されるエミール・クラティアスは未だ弱冠13歳だ。
社交界に出るまですらもう暫く時が要る。領主業となれば尚更、若過ぎるとなれば侮る者も居るだろう。
恐らく。彼女の想い人にはその補佐の役割が期待されている。勿論レティシアも他人事ではいられない。
少し話をしただけで理解したが、『白銀』の筆頭家令長エドワーズ・ヴァレンティノは非常に有能だ。
あのフォルトゥナ学園長の腹心の家臣だけはあり、家臣団関連の処務は殆ど彼に任せっ放しでも回っていく。
だが、対外対応までは流石にそうは行かない。貴族の応対はあくまで貴族の役割だ。
幸い。『白銀』は“強い貴族家”だ。その『白銀』の長兄、と言う肩書きは相当に重い。
初見で侮られない程度の立場は以前の公開謝罪で以て、『王党派』内では強固に保証されている。
余程の無知や無能を晒しでもしない限り、少なくとも女傑フォルトゥナの威光が通じる間は問題ない筈だが。
その時間的猶予が果たして何時まで続くかは読めない。少なくとも、永続するような物ではないのだから。
(いつ、何が起きてもあの方を護れる様に……準備すべきことは沢山あります)
領主業についても独自に勉強を始めてはいるものの、例えば『王党派』内外の貴族同士の関係性など。
これまでレティシアが一切触れなくて良かった知識は多岐に渡り、憶える事に終わりは見えない。
一方殆ど外様の状態から家に入る都合上。『白銀』既存の家臣団との交流も必要不可欠だ。
信頼関係無くして家門の安泰は無い。だから今日もレティシアは愛用の鞄を提げ『白銀』本邸へと出向いて行く。
●『白銀』と『慈涙』
領都『白銀の古城』シルファリオ、『白銀』本邸一階。
忙しなく動き回る侍女に混ざって困惑顔で書類を捲るのは、結婚式も間近に迫る将来的に義妹となる相手。
『王国』社交界では広く『白銀の薔薇』の異名で知られる令嬢オルファレナ・アルヴァ・クラティアスだ。
現在の彼女は輿入れ先、バデーニ公爵家へ持ち込む私物の荷造りで、正しく大わらわと言った所。
「あ、レティシア義姉様。いつもあまりお構い出来ないでごめんなさいっ!」
「いえ……オルファレナ様は今日も御輿入れの御準備でしょうか?」
「そうなんです。持ち出しておきたい物……特に書物が多くて。1度の馬車で運ぶのは無理かしら……」
視線の先、二階にある彼女の私室は全体的に可愛らしい小物で纏めつつも綺麗に整えられた部屋だったが。
実はその隣室には、領主もかくやと言った規模の書斎を有している。レティシアも最近知った事実である。
遠くヴェルクリエでは外出の自由も少なく、家庭教師が付きっ切りで礼儀作法や基礎教養を教えていた為。
彼女にとっての娯楽は本を読むくらいしか無かったのだとか。好きが嵩じての典型と言える。
幸い、側室として入るバデーニの本邸も公爵家の家格に違わず部屋にはそれなりの余裕が有るらしい。
結婚に当たり彼女がウィリアム・バデーニ公に希望した事が、その一室を書斎とする事だったとか。
「何か私もお手伝いすることが出来れば良かったのですが」
「まさか! 将来の御義姉様にそんな事はさせられません……!」
慌てた様に両手を振るオルファレナ同様、荷物を運んでいた『白銀』の侍従達も驚いた様に足を止める。
本来、貴族令嬢と言うのは何の例え話でも無く“銀食器より重い物は持った事がない”者が少なくない。
元冒険者のレティシアは幾ら何でもそこまで世間知らずではないが、その提案が異常な事は良く知っている。
荷運びは愚か荷造りだって、貴族が手を汚す様な仕事では断じてないのだから。
「私は……あまり良い先輩ではなかったかもしれませんが。これから家族になる皆様の御力になりたいのです」
「うぅん……御気持ちはとても嬉しいのですが……あ! そうですね。
では出来たらエミールの勉強を見て頂けると助かります。今は本当に色々と手が足りなくて……」
言葉を濁してこそいるが、彼女の言は本当にそのままの意味で何一つ間違ってはいない。
現在、『白銀』は長兄、長姉の2件の結婚話が同時並行で進んでいる状態である。
お構いなく、とは言っても貴族の範例として遥々遠征して来る『慈涙』の領主とその継嗣を出迎える準備。
結婚式が終われば正式にバデーニの人間になるオルファレナが『白銀』の家を出る為の用意。
本来こういった事を取り仕切る侯爵は病態で、実質的指導者たるフォルトゥナは多忙である。
こういう場合に備え2人居る家令長が協力・連携して事に当たっているが、その忙しなさは想像に難くない。
貴族の家内が此処まで激動する事も流石にそうはないだろう。唯一此度の騒動とは何の関係もない。
けれど今後家族構成が大きく替わる、と言う難しい年頃の少年にはやや厳しい環境変化に見舞われた次男。
ただでさえ『白銀』の後継者である重圧と戦っている筈のエミールの心境たるや――――如何程ものか。
■
上質紙の上を羽ペンが辿って行く。カリカリと記述の音が静寂の中響いていく。
順調に思えた筆致は、けれど暫く続くとぴたりと止まる。更に暫しの空白。対面の少年が顔を上げた。
「……先生、この領主権の恣意的運用を禁ず、と言うのは具体的にどういった場合に適応されるんですか?」
「これはですね、王国法規の適応範例の項を見て下さい。教書の後ろの方の頁に記載が有る……筈です」
何だか全然平気そうだった。と言うより、物心付いてよりほぼ家族は母親と自分だけだったエミールにとって。
ずっと遠方で生活していた姉も、突然増えた義兄も似たような物。
勿論其処には更に増えた義姉も含まれる。押し並べて“家族”と呼べる程の縁がない。
これもやはり、貴族社会では良くある――――までは行かない物の。それほど珍しい話でもない。
幸い、彼は消極的で身体が弱くこそある物の、同年代の令息らと比し能力が大きく劣っている訳では無い。
教育方針を“領主教育中心”に切り替えたのは、オルファレナの婚約話が出て来てからだった筈だが。
レティシアの知る程度の知識で彼の家庭教師が務まるのは精々あと1年が関の山だろう。
それは彼女が無知であるからではなく、『白銀』の“次期侯爵”に求められる水準の高さを意味する。
元々の学習能力が決して低くない以上に、詰め込まれる知識の精度が非常に高いのだ。
細かい事例まで含めると、『学園』を正攻法で卒業したレティシアも知らない話が幾つも出て来る。
勿論彼女自身その間の努力を欠かす心算はないけれど。“伯爵家”とは及第点の線引きから変わって来るのだ。
元より家督を継承する意思も予定も殆ど無かったレティシアにそれを埋めろと言うのは些か無理が有った。
(それでも……頼って下さる限りは、出来るだけ力になってあげたい)
妹や弟とは縁遠いレティシアにとって、突然出来た年下の妹弟はあくまで庇護すべき相手だ。
そしてそれ以上に。あくまで“妹”として扱われる事の長かった彼女にとってみれば。
手を取り教え導く相手、と言うのは新鮮な感動を憶える対象だと言えた。ついつい甘やかしたくなる。
幸い、エミールは真面目な生徒だった為、杓子定規のきらいがあるレティシアとの相性は悪く無い。
「……どうしましたか、先生?」
「いえ、何でもありません。次の頁に進みましょう。分からない事が有ったら何でも先生に聞いて下さいね」
勿論。これが跳梁跋扈とも言われる貴族の学び舎。『学園』であれば流石に話も変わったのだろう――――が。
「お疲れ様でした。今日はここまでとしましょう。教書も次の巻に進んで大丈夫そうですね」
「……はい。あの、先生」
「……? 何でしょう? あ、何か分からない部分が――――」
何か少しでも彼とその家族の力になれたらと、自らかって出て手に取った教鞭ではあったものの。
望む望まざるはさておき、その役割は案外彼女の性格に合っていた。
教える事で自らも学び、けれどあまり想い人との蜜月とは言い難い。文字通りに方々忙しない日々。
「……いえ。明日も……宜しくお願いします」
「! こちらこそ、宜しくお願いしますね」
慌ただしい時は瞬く間に過ぎ――――そうして、更に一カ月ほど。その時は、遂にやって来た。
■
オルファレナが結婚式を控えている以上、外来客の応対は勿論家主か、その代理人に任せられる。
「いらっしゃいませ、『白銀』へようこそ。『慈涙伯』ヴィルフリード様。それに、ジークリッド様」
『白銀侯夫人』セラフィアナ・アルヴァ・クラティアスは以前より深い心の病を抱えてはいる物の。
心身に沁みついた“貴族令嬢”としての立ち振る舞いは、客をもてなす様な場では鉄壁の仮面として作用した。
彼女の中に、ガレシウスやオルファレナ、と言った存在は自らの子として存在はしていないものの。
縁戚の子供を某かの理由で家族同然の扱いで預かっている、と言う程度の認識はある。
故に、対外的な場面では彼女は極力年下である彼や彼女の名誉に傷が付かないよう振る舞う。
過剰に心的負荷を掛けたりしない限り、長年培われた“貴族的所作”が崩れる事はそうは無い。
と言う点は、彼女に歓待役を預けるに当たり御典医より告げられた心強い太鼓判である。
逆を返せば――――それほど強固に自らを偽りの現実で騙さねば程彼女は深く傷付いた、と言う事でもあるが。
「レティシア様には私達も多岐に渡りお世話になっております。此度の婚姻心から歓迎致しますわ」
朗らかに、少女の如く微笑むセラフィアナ妃の表情はやはり実際の年齢相応とは言い難い物の。
『王国』貴族は文字通り変わり者に事欠かない。こういった高位貴族の夫人もまた、珍しくなかった。
何より。古い『中立派』貴族である『慈涙』の当主は表情を取り繕うのに慣れている。
加えて言えば、次期当主であり英才として知られるジークリッドとて『白銀』についての事前調査は十分だ。
少なくとも初対面の様な“表面を撫でる”程度のやり取りであればどんな角度からの内容にも対応し得る。
次期領主、として積み重ねられた典雅な儀礼と天性の話術は伊達ではない。
「流石、『白銀』の刺繍は細工が繊細で在らせられる。これ程の品は『王国』広しと言えどそうは有りません」
「まあ、御上手。『慈涙』の清酒も素晴らしい物と存じております。是非次は当家にも訪問させて下さいまし」
「勿論父共々喜んで歓迎致します。その時は当家秘蔵の品を御賞味頂く事を約束致しましょう」
互いに、“異なる派閥の、けれど長い付き合いになる貴族”対応に徹するという形で恙無く対話は運び。
同席したガレシウスやレティシアの緊張の色を他所に、至って和気藹々と良家の面通しは過ぎ去っていった。
――――そしてここまでが、『白銀』と『慈涙』についての表向きである家同士の話。
「坊ちゃまが御立派になられて、このエドワーズ心より安堵致しました。
おまけにこの様に美しい未来の奥方様との縁も結ばれ、これで漸く私も肩の荷を下ろす事が適います……」
「エドワーズ卿、飲み過ぎかと。『白銀』にはまだまだ貴方の存在が必要なのですから」
「そうは仰られてもあの小さかった坊ちゃまが……」
「何時の話かと……レティシア、ここは笑う所ではありませんからね?」
歓待の食事会を終え、見送りを仰せ付かった家令長エドワーズの与太話を聞きながらの帰路。
同道していたジークリッドが意を決して足を止める。
何かと思い振り返れば、其処には決意を込めた眼差しが夜天の月を映し輝いていた。
「ガレシウス卿。以前の約束、今日果たさせて頂きたい」
ここからが――――『白銀』と『慈涙』の個人的な話、である。
●銀の空に昇る月
かくして、状況は漸く現在まで舞い戻る。
『白銀の古城』シルファリオ内、『白銀』別邸――――その中庭。
躊躇無く振り抜き大の男を宙に浮かしたジークリッドの一撃は、場所が場所なら賞賛されて然るべき物。
しかしこれは名誉無き私闘とも呼べない“けじめ”であり、互いの遺恨の解消でしかない。
ジークリッド自身も二度と再現出来そうにない英雄的殴打は、恐らく此処に至るまでの数多の未練。
その無数の想いの欠片がこの一瞬、拳に宿ったに違い無いと後に彼は述懐する。
とは言え、両者の間には歴然とした実力差が存在し、どれ程の奇跡が放たれたとて。
それによって歴戦の勇にして幾多の戦場を駆けた熟達の騎士でもある、ガレシウスの意識を刈るには遠い。
一度は悲鳴を上げかけたレティシアだが、身を起こす彼の頬に確り付いた拳打の跡はともかくも。
幽界樹の仔跋扈する戦場でも最後まで立ち続けた彼が、義兄の拳でどうにかなる、と思った訳ではない。
「良い一撃でした。戦士の才能があらせられる」
「まさか、“戦う者”としての才覚で私が貴殿に劣るだろう事は私と私の親友が一番良く理解している」
「戦巧者と言う意味ではそうかもしれません。ですが、戦士に最も求められる才能とは強さではない。
真実必要とされる時に、自分の本来持つ力以上の成果を出す事が出来るか、です」
その戦士がどの程度の力量を持ち、何処に配属したならば最も効果的に力を示す事が出来るか。
それを考えるのは指揮官であって戦士ではない。その責任を取るのも、やはり指揮官である。
指摘を受けて、ジークリッドは僅かに笑った。生真面目に今必要でないだろう事を説明してまで賞賛する。
そういった所は、彼の親友とも似通ったものを感じさせる。悪い男ではないのだ、決して。
ジークリッドとて、義妹の男を見る目を疑っている訳では無い。納得出来ていないとも、違う。
ただ此処に至るまで失われたもの。その最後の1人として、決着は、付けなければならなかった。
「まさか妹の肩を借りなければ立てない訳では無いだろう。来ると良い、次は貴殿の番だ」
「や――――やめて下さい、お義兄様も、ガレシウス様も! こんな事は必要ない筈です!!」
「敢えて問いますが、自分もこれ以上続ける理由を持ちません。応手は本当に必要でしょうか」
「必要だとも。でなければ、私はいつまでも貴殿を義弟と認める事が適わない」
それは、レティシアが知る所では何時も穏やかで優しかった義兄の見知らぬ一面だった。
挑発する様に掌を自らに向けて手招く仕草には不敵さと、静かではあれ確かな闘志が滲む。
戦士として。そして男として。ガレシウスはこの挑発を“受けない”訳にはいかない。
背に愛する者を控えさせていればこそ。此処までされて矛を納めると言う選択肢は、もう何方にも無かった。
「後悔なされませんよう」
「構わない。来い」
まるで互いしか見えていない。その事実にどうしてだろう。そんな場合ではないと分かっているのに。
何故だか寂しいような、哀しいような気持ちが沸き立つのは。
■
制止の声を上げる暇もあればこそ。黒い疾風と化したガレシウスがジークリッドに肉薄するまで瞬き一つ。
引かれた右腕は弓の様に撓り、拳には“一般人なら優に撲殺し得る”澱が宿る。
それは鍛錬を積んだ授恵者にとっては最低限の“攻撃行為”だ。武器を持たない以上これ以下は無い。
その一撃は肉と骨で出来た生物を十分に殺傷し得るもの。恐るべき凶器として拳が振り抜かれる。
風が――――吹き抜けた。ガレシウスの本気の一撃がジークリッドの頬を掠めその先、虚空へ振り抜かれる。
何者を打ち滅ぼす事もなく。さりとて“けじめ”を成就させるでもなく。ただ約定を果たす形で以て。
「……何故、当てなかった?」
「目算が外れました。いけませんね。戦いは、少しでも離れると途端に勘が鈍り始めますから」
それでも。その拳閃を見ただけでジークリッドには分かった。彼がどれほど研鑽を積み上げて来たか。
戦う者として、その欠け甲斐の無い若い時を如何に我武者羅に“戦う事”に注いで来たか。
そうまでして研ぎ澄ました力を振るう場を奪われて尚、彼はあくまでそれを国を護る為使い続けたと言う。
今もきっとそうなのだろう。自分が傷付けば、レティシアが哀しむ事を眼前の男は気付いていた。
不器用な――――酷く不器用な男だった。決して、策謀を講じられないタイプでもあるまいに。
けれどそういった一つ一つが、或いは義妹の……レティシアの傷を癒し、心を融かしたのであれば。
止むを得ない。認めざるを得まい。例え、どれほど悔しくとも。これがガレシウスと言う男なのだと。
何せ――――初恋の女性が、見染めた男だ。
「……分かった。僕の完敗だ」
嘆息を一つ。ジークリッドが諦めたように両手を挙げる。
ガレシウスが拳を下ろすのを見て、漸くレティシアがほっとした様に中庭へ駆け寄って来る。
両者に深い確執があったわけでは無い。そもそもがそれほど長い付き合いでもない。
けれどこれからは話が別だ。義妹が『白銀』へ嫁ぐ以上は彼もまた、家族と言う事になる。
ジークリッドの事前調査は告げている。ガレシウスは“秘密主義者”だ。その内面まで含め。
自らの事を余り語らず、明かしたがらない。しかし、家族となる以上それでは困る。
拳で語り合った間柄だ、そろそろ腹を割って互いの事を知るべき時が来た、と言う事だろう。
一人安心して踵を返そうとする彼を、ジークリッドが後ろから駆け寄り肩を組む。
突然捕まえられぎょっとした様にガレシウスが動きを止めた。その距離感は想定外だったのだろう。
漸くこの仏頂面の騎士の虚を付けたと。彼はその反応に大いに満足すると共に更に手を進める。
さて、空振りの件はこれからどう意趣返ししてやろうか。
「なら次は、未来の家族として親睦を深める番だね。義弟よ」
「……は!?」
ジークリッドが楽しそうにガレシウスを捉え、応接室へと無理矢理気味に連れて行くのを。
漸く彼と2人の時間を取り戻せたと信じていたレティシアは、梯子を外された様な想いで見送るしかなかった。
■
「……俺は何かしてしまっただろうか」
「……御自分の御心に尋ねてみては如何でしょう」
こうして、レティシアは拗ねた。それはもう盛大に拗ねていた。
その未だかつてない拗ね具合は、無表情を滅多に崩さないガレシウスが明確に困惑する程だ。
しかし、それには理由がある。少なくともレティシアの側にはその度重なる裏切りは十二分な理由足り得た。
応接室での宴会ではヴィルフリードが寝室へ向かった後も、義兄は近年珍しく羽目を外していた。
何か心のつっかえが取れたのか。心配事でも片付いたのか。ジークリッドはとても楽しそうだった。
そして彼は結局宴も酣となり自然解散するまで、ガレシウスの隣に在り続けた。
その間、何だかとても楽しそうな義兄を前に場所を変わって欲しいとも言えず。
父と、義兄と、婚約者の貴族談義を聞きに徹していたレティシアが果たしてどんな心境だったのか。
きっと説明した所で伝わるまい。そこが伝わらないのは譲って仕方ないにせよ、不満は大いにある。
その大半がレティシアの我儘であることは横に置いておいて、不満は、それはもう、大いにあるのだ。
「どうせガレシウス様はお義兄様と一緒の方が楽しいのでしょう?」
「断じてそんな事はありません」
「ほら、そうやってすぐ敬語になる……」
「そんなことはない! ただ、ジークリッド殿にも恐らく色々と思う所は……」
「私は、ただ私だけ見ていて欲しいのに」
呟くようにそう口にすると。レティシアとて自分でも、何だか面倒な事を言っている自覚は有る。
ガレシウスが彼女の家族が極力納得出来るように振る舞っていることも。
それがレティシアの事を思えばこそであることも、実のところきちんと分かっている。
分かっているけれど、家族とばかり仲良くされて自分との距離だけずっと据え置きなのは寂しいのも。
結果、自分に女性としての魅力が足りないから彼は求めてくれないのでは……と不安になるのも。
どれだけ理屈が分かっていてもどうしようもない物なのだ。頭で考えるだけでは、何も解決しない。
「俺は、レティシアだけを見ている心算だ」
「でも、ガレシウス様はあれから全然私に触れてすらくれません」
「それは――――! 婚前である以上、貴女の家族に正式に認められない事には――――」
「――――だったら、もう、問題は無いではありませんか……!」
じっと見上げる眼差しの。その全てが彼で占められている。
それで良い。それが良い。ただそれだけを望んで、願って、欲して。漸く得られたのだから。
彼に大切な物が沢山あるように、彼を大切に想う人も沢山居るのだろうけれど。
その中の1つで良いだなんて。物分かりの良いレティシアはもう、何処にも居ない。
一緒に居たい。離れたくない。何処であっても。唯一時であっても。ずっと傍に居たい。
夜闇の眼差しに浮かぶのは、銀の月だけで在って欲しいと。だってそう望んでしまったから。
「……俺はそれほど我慢強い方ではないよ、レティシア」
「以前もお願いしました。私を永遠に、貴方だけのものにして欲しいと」
そっぽを向いたまま抱き竦められ、顎に人差し指が添えられるや強引に視線を奪われると。
傾いた世界は、ただ夜空で染められる。
■
それは今を過ぎ去り行く御伽噺。至貴き『白銀』の血に継がれる一組の男女の物語。
かつて夜と月は一つではなく。夜闇の騎士と銀月の姫には互いに生きるべき道が敷かれていた。
月無き夜空はただ孤独で、けれど孤独だからこそただ鋭く、寒々しいほどに冴えた黒で居られた。
けれど、夜も闇も移ろうように。天の巡りは永遠ではない。望む望もうと、変化の時はやって来る。
夜無き銀月はただ一人で、けれど一人だからこそただ優しく、穏やかに安らぐ白で居られた。
けれど、月も星も満ちては欠けるように。いずれは擦り切れ摩耗して、虚ろう未来が待っていた。
それは不幸では無かったかもしれない。それは絶望には程遠いのかもしれない。
けれど、幸福ではなかったろう。唯一人で、流されるままに、ただ至るべき結末へ向けて落ちて行く。
だがそうはならなかった。偶然か、必然か、運命か、或いは互いが互いに惹かれたが所以か。
夜と月は出逢い、諍い、擦れ違い、和解と共感を以て、自らの道標を選び始める。
それは決して平坦な道のりではなかった。それは断じて、最初から決まっていた終わりではなかった。
けれど、彼と彼女はそうして結ばれ同じ路を歩き始めた。もう二度と、互いを見失わない様に。
――――ああ、故に銀の天。染まる夜闇に今宵も、真白き月が昇る。
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集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。