【DA】リーンエスの耳
イヴェール・イリュジオン/ レテ・イリュジオン
『ノベルタイトル:落日忌譚』弓月 蒼
●朱月
『幻月』エリシオン子爵家は古い家系だ。始まりの百家に連なる貴族家の一つ。
武門として陰に日向に王家を支え、長く王国史に譜代の貴族家としてその名を刻んで来た。
しかしその研鑽が顧みられた事は無い。同家は何処までもただの下級貴族であり、下級貴族でしかなかった。
であれば『貴族派』と言う派閥の中であれば如何か、と言えばそちらもまた鳴かず飛ばず。
そもそも猫の額ほどの土地しか持たない辺境の地方領主など、社交界での存在感など有って無きが如し。
殆どの貴族家は『幻月』と言う家の存在を重視しないは愚か、強いて敵対する価値すら見出さない。
或いは何処かの大貴族にすり寄りでもすれば良かったのだろうか。否、その道も既に絶たれて久しい。
何せ、『幻月』はかつて自らの主家を“売り渡して”存続を図った家系である。
殆どの貴族に家名すら記憶されておらずとも。いざ関係を結ぶとなれば必然調査の手が回る。
――――袋小路だ。それはつまり、『幻月』は既に只管無為に時を重ね、いずれ衰退して行く他は無い。
その状況は現当主、アダム・エリシオンが家を継ぐよりずっと前から。二代、三代、四代前から。
いや、或いは主家の代用品と言う立場からの脱却を求め『貴族派』の甘言に乗った謀略の夜から。
何一つ突破口を見つけられないまま、今に至るまで続いている。
「こほ、こほ……」
アダムはただ広いだけの執務室の中。古い執務椅子に腰掛け手巾で口元を拭う。
今仕方吐き出したばかりの黒い鮮血がべったりとこびり付いていた。臓腑の病だ。回復魔法も通じない。
男は決して老齢ではない。病弱な訳でも無い。齢は四十を迎えたばかり。身体を壊すには余りに早過ぎる。
けれどアダムは既にその寿命の大半を使い果たしていた。“血の呪い”と呼ばれる家門特有の症状。
授恵者である男は、それでも未だ影響の少ない方だ。非授恵者だった実子は2人共が二十を前に夭逝した。
唯一の授恵者である継嗣は未だ十歳に満たず。此処でアダムが息絶える訳には行かない。
もしも彼がこのまま没したならば。祖父が。父が。そして彼が石にしがみ付いてでも存続させた家が潰える。
(……全く……忌々しいこの身体よ。もう少し保ってくれよ……)
だが。既にその名を失した全ての貴族家がそうであったように。
或いはかつて貴族間の生存競争に敗れた『幻日』もまた、やはりそうであったように。
前触れも無く響き渡る、角笛の音。
「――――子爵様! 敵襲です……!」
「! 敵……だと!?」
――――終わりは不意に、けれど必ずやって来る。
■
“この地図の通りに向かって下さい。入り組んでいるので迷わない様に”
『魔女の騎士』イヴェール・イリュジオン曰く。その領地は非常に狭く、外から入ればすぐ気付かれる。
乗合馬車など言うに及ばず。野山を駆けるのに慣れた馬でなければ危うい獣道同然の道を通らざるを得ず。
恐らく近くの村で一泊してから、徒歩で向かうのが最も賢明だろう。との事だったが――――
「山林1つ、村1つ。……見つからない訳だ」
王国内で庶民が手に取る様な、粗雑品の地図には記載すらされない小さな領地。
知る人ぞ知る。そして知らない者は先ず知る事の無い『幻月』領の全体像を双眼鏡で確認し、嘆息が零れる。
妹から伝え聞いた時は話を疑った物だが、まるで隠れ里の如きその領の規模を知った今となっては。
幾ら冒険者としての知見と情報網が生きたとは言え、この短い期間で良くぞ所在を突き止めた物だと思う。
(……或いは、これも運命か)
辺境都市群でその存在を掴んだ時は偶然だった。妹と連絡が付いたのは幸運だった。
だが、3度続けばそれは最早偶然や幸運で片付けて良い話ではない。時代が、血が必然を求めているのだ。
此処で終わる事を。穢れた『幻日』に――――今こそ正しく終止符が打たれる事を。
そうだとしか思えない符号に。赤の混じった銀髪の男、レテ・イリュジオンは愛剣を抜く。
幻影器イリュジオン。最初は同型の幻想器同様に白銀の刃を持つ美しい剣だった。
けれど同族の血を注ぐ度に黒に近しい色を帯びた刃は、レテの澱を帯びて既に限りなく漆黒に近い。
『幻月』を討ち、妹を殺し、自らを貫いたなら、漸く。
形すら残らぬ幻影の器は満ち、価値も意味も無い幻日の歴史は夜闇に消える。それで良い。それが良い。
「……始めよう」
躊躇なく崖下へ滑り落ちながら、黒い刃を靡かせ赤混じりの銀髪が宙に舞う。
何の奇も衒わぬ。だからこそ虚を突く正面突破。外観だけは領主邸と言うに相応しい大邸宅。
けれど全く手入れの行き届いていない正面門の扉へ向けて黒の刃を振るうと。一刀、両断され轟音が響いた。
「な、何だお前――――」
「名乗ったところで意味のない名だ」
飛び出してきた衛兵の練度も低い。命懸けの修練と地獄の様な研鑽を積んだレテには一挙一動が遅いと映る。
粗末な槍を斬り飛ばし、踏み込み、上段から袈裟斬り。踏みつけ先に進む。
返り血を振り払うと同時に、襲撃を告げる角笛が鳴り響いた。
■
「……ルシル」
男は、返り血に塗れ、ぐったりとした子供の遺体を引きずり謁見の間を訪れた。
それが彼。アダムは目に入れても痛くない程可愛がって来た我が子である事など一目見れば瞭然だった。
同時に。男が手にしている黒い刃が『幻日』由来の物である事も。
その時点で、襲撃者を討ち果たす心算で携えた宝剣を持つ手からは、既に力が失われてしまった。
人は悲しみが許容を越えると何も感じなくなるらしい。呆然としたアダムの手から、古びた鞘が滑り落ちる。
「――――名乗る必要は無い様だな」
レテの問に。アダムの感情が再起する。それは怒りだ。吹き上がる様な怒りが一瞬悲しみを凌駕する。
「必要、だと。『幻日』の亡霊が、今更! ……何を! ルシルが、一体何をしたと言うのだ!!」
「今更、何を? そうか。お前達の中では既に終わった事だったんだな……」
静かに呟いたレテの瞳が次の瞬間、赤味を増す。何時でもそうだ。非道を為した者はそれを忘れる。
大義の為。悲願の為。理想の為と嘯いて自らが踏みつけにして来た者の事など顧みない。反省もしない。
只管に同じことを繰り返す。悪鬼の如く。家畜の如く。獣の如く。妄執に憑かれた曾祖父のように。
「何もしなかった。お前達は自らの過ちを認めないまま事此処まで至ってしまった。愚物だ。生きる価値は無い。
だから殺す。一族郎党老若男女唯一人逃さず鏖殺ずる。穢れた血に制裁を下し、俺もまたこの命を終えよう」
「きょ……狂人め……!」
「狂っているか。狂っているだろうとも。こんな血に縛られるお前も、俺も、どうして狂わずいられよう……!」
「そんな理由で……ふざけるなあああああああああああああああ!!」
最後に残ったのが“生きたい”と言う意思であったとして。それを指して生き汚いとは言うまい。
レテとて、それを理解不能だと感じるほど壊れてはいない。自分に当て嵌めても心当たりがある程に。
だが、遅かった。それはあまりに遅い決断だった。アダムが落とした古い宝剣の鞘を掴んだ瞬間。
その頃には既にレテは間合いを詰め、手にした幻影器を振り上げていた。
鍔を持ち上げ鞘走らせるのと、黒い刃が振り下ろされるのは同時。
ごとん、と大玉大の物体が地面に落ちる音と共に鮮血が埃を被った装飾燈を赤く染める。
愛剣を一振りし鞘に納めようとしたレテは、手の甲に痛みを感じてはじめて、自らが負った手傷に気付く。
(……腐っても武門の長、か)
最後の一瞬。確実に有利な立ち位置から剣を振るった彼に、それでも一矢報いて見せた。
或いはそれこそが、『幻月』が此処まで積み上げ、その最後に残した痕と言えたのかもしれない。
●白日夢
レテ・イリュジオンに『幻月』の所在を伝えて数日。
イヴェールもまた、遅れ馳せながら同子爵領を目指し旅立っていた。旅立たざるを得なかったとも言える。
伝えた当時は何一つ疑っていなかったが、よくよく考えたら当たり前の話ではある。
レテは確かに研鑽を積んだのだろうし、その実力はイヴェールに匹敵するのだろう。
しかし、世界は広いのだ。それを彼女は良く。ある種嫌と言う程思い知らされていた。
イヴェールとて決して弱い授恵者だと自分を卑下する気はないが、それはそれとして。
世間には彼女より強い授恵者など幾らも居る。北方辺境で見た化け物の様な老人とか赤い薬指の魔女だとか。
大抵の相手であればレテが後れを取る事など有り得ないにせよ。例外はどんな事でも起き得ること。
もしもその備えを怠ったとしたなら、自分の身の回りの大切な人たちにどんな災いが降り注いだとしても。
文句は言えないのだと言うことを。何せ似たような事情が高じて罪人にまでなったのだ、説得力が違う。
「それに、縦しんば首尾良く行ったとしても無駄にはなりませんからね」
改めて、旅行具などを詰めた背負い鞄を背負い直す。
『幻月』の件が片付いたとしたなら。次は兄妹で決着を付ける番が巡って来るだけの話。
勿論、兄からは別に何の指示も受けていない以上、座して待っていた所で文句を言われる筋合いはない。
彼我の実力に殆ど差が無い事を考えれば、“備えて待つ”方が有利だと言う考え方も有るだろう。
ただ、この辺りは非常に感覚的な話になってしまう物の。戦いには得手不得手と言う物がある。
イヴェールは冒険者として防戦で結果を残した事も有るが、どちらかと言うと攻め手の方が得意な性だ。
特に今回の様な、自らの意思で何かを選択しなければならないような場面において。
下がれば負ける、と思う。それは彼女の人生観であり勝負勘。“戦術眼”とも言い換えられるだろう。
(勝ちたい、のでしょうか)
勿論負けるのは決して趣味ではない。ただ、趣味とかいう話とは全く別の次元で。
勝てばイヴェールは実の兄をこの手に掛ける必要がある。そうでもなければレテはもう止まらない。
止めるのは、同じ血を継いだイヴェールの務めであるべきだ。
そこに違和感はない。けれど、そうまでして。この手で家族を殺してでも生きたいのか。
答えは出ていない。答えが出ないまま、けれど勝つ為の算段を講じている。滅茶苦茶な話だと思う。
けれど積み上げた経験。研鑽と言うのは、時折残酷なほどそれを為した当人を裏切らない。
■
(……私は、未だ迷っている)
もし、そう今の心中を吐露したとしたら。兄は呆れるだろうか。怒るだろうか。失望するだろうか。
一度は確かに、覚悟を決めた筈だった。全てを振り捨てて、孤独の道を往く。
それで良いと思っていた。こんな血を継いでしまった自分には、そんな人生しか選べないと思っていた。
けれど、思った以上にイヴェール・イリュジオンと言う娘は往生際が悪いらしい。
蓋をしたと思っていた反抗心が。最早後悔はない筈だった妥協と諦観の底で暴れている。
それは小さな。本当に小さな篝火かもしれないが。決して消える事無く声を上げ続けている。
その衝動は、きっと怒りに近い。自らの道を自ら閉ざす。そんな不甲斐ない自分への怒り。
何もかも全てを放り投げて、今代の彼女の役割であると押し付ける『幻日』と言う家門への怒り。
そして何より、もう良いのだと。終わりにすると決めたのだと、幾ら真摯に、誠実に伝えても。
その全てを台無しにして彼女の手を引こうとする人々への。そんな理不尽に対する怒りだ。
彼女には迷いがある。その迷いは、きっと正しくはない。イヴェールの正義はその迷いを認めない。
誰かの意見に左右されて迷う位なら、最初から何もしなければ良かったのに。
彼女の決断の為に傷付いた者達は、失われた者達は今の自分を見て何と言うだろう。
正しくなければならない。あるべき結末に辿り着かなければならない。
それが、彼女が生かされ、彼女が殺してきた者へのせめてもの償いの筈だ――――と。
そう思っている事に、決して嘘は無い。嘘は無かった。そうでなければ、ならなかった。
気付けば日は傾きつつあった。視線の先に見えたのは家宝の宝剣と良く似た剣を携える人影。
別に待ち合わせた訳では無いが、その一方で。きっとここを通ると確信していた。
昔から、時に全くの感性に従って動き、如何にも不合理な妹に対し。
兄は効率的な合理主義者だった。特に理由が無いなら、近場で一番大きな通りに出る。
どれほど容貌が変わろうとも。その行動理由が歪もうとも。根幹の部分は変わらない。
彼は彼女の兄で在り。彼女は、彼の妹だった。
「兄さん」
声に気付いて、足を止めた男との距離は彼我の踏み込みで凡そ六歩。
歩幅と腕と剣身の長さを加味したなら。それは剣で相対する場合必殺必死の決戦距離となる。
●落日
「終わった、みたいですね」
『幻月』子爵領と王国を縦横に走る商路との境界線。
或いは野盗などが身を隠すのであれば適当と言えただろう、山林と街道との間に存在する死角。
日も落ちようと言う時間にそんな場所を通過する命知らずの旅人は、大陸ではそれほど長くは生きられない。
イヴェールが敢えて先に声を掛けたのは、そんな命知らずの一人である彼の足を止める為だ。
「ああ、終わった……イル。お前も未練は片付いたのか」
「……どうでしょう」
夏の終わりに再会し、冬の終わりに雌雄を決する。出来過ぎだと思う一方で、そういう物かと思わないでもない。
レテとイヴェール。兄と妹。互いに抜いた武器は、鏡写しの様に良く似ていた。
今更問答は必要ない。その為に待っていた。その為に帰って来た。決着を付けなければもう何処にも進めない。
其処は袋小路だった。『幻日』と言う家系は、最早決定的なほど終わっている。
「イル、苦しまないよう逝かせてやる」
「それ最悪な殺し文句ですよ、兄さん」
虹色の花弁と漆黒の破片。幻想の剣と幻影の刃。打ち合わされた二つが鍔競る度に互いの命を削り合う。
いずれも同じ命喰らいの魔剣。短命の血族故、その幻想で鍛えられた剣は最も重い対価によって輝きを増す。
失う物の無いレテの幻影器の一閃は鋭く重い。一合、二合、三合と、剣を合わせる度にイヴェールが押されていく。
授恵者としての経験の差ではない。純粋に、自らの身を顧みないが故の捨て身の剣撃。
毒牙の如き影が蝕むように、舞い散る虹色の花弁を枯らして行く。
「――――どうした。こんなものがお前の全力か」
「そうですよ……! これが。この程度が、私に出来る精一杯です……っ!」
全身全霊を賭して首元に迫る漆黒の刃を跳ね除ける。身を翻したレテには傷一つ無い。
一方、イヴェールは既に息を切らしている。身体を緊張させたまま、ずっと力を込め続けた弊害だ。
力量、と言う部分では大きな差は無い。ただ、覚悟と言う点でレテはイヴェールを大きく上回っていた。
彼には死に対する有って当たり前の忌避感が無い。故に余裕があり、故に柔軟で在り続けられる。
翻ってイヴェールはそうではない。その差が、彼我の疲労度合いに如実に現れていた。
■
汗が大気で急激に冷やされていく。張り付いた髪で表情すら見えず、イヴェールは両手で幻想器を握った。
勝てないかもしれない。此処で自分は死ぬのかもしれない。その事実に直面し、其処には恐怖があった。
「そうか。なら、これで終わりにし」
「――――生きろって、言うんです」
恐怖があった。
「……何?」
「生きろって言うんです。何も知らない癖に、私が、どれだけ泣いて、苦しんで、辛くて、痛くて。
それでもそうしなくてはいけないと。決めるまでどんなに心細くて、恐かったか何て知らない癖に」
恐怖があったことに安心した。恐かった。恐ろしかった。まだ死にたくないと思えた。
未練があった。理由があった。手を引かれて、髪を引かれた。振り解くには重荷過ぎた。
「仲の良い友達が。救いたかったお姫様が。好きになった人が私に。生きろって言うんです。
無責任な事を臆面も無く、生きて欲しいと言うんです。勝手過ぎます。そうは思いませんか、兄さん」
沈黙が落ちた。赤い、醒めた眼差しが痛々しさすら伴ってイヴェールに注がれていた。
未練を片付ける何てとんでもない話だった。何も上手く行かなかった。そもそも片付けは苦手なのだ。
彼女が紡いだ絆はとっちらかったままだ。けれど唯一つ、その全てが彼女に強いる。生きて欲しいと。
「私が傷付けてしまった恩人と、再会の約束をしたんです。私の答えを、待っていると言う人が居るんです。
そうしたら、私まで恐くなってしまいました。死にたくないと――――いいえ、違いますね」
迷惑だ。もう決めたのだ。天秤に掛けて選んだ。それが正しいと信じた。それなのに――――
「まだ生きたい、と」
そう願ってしまうことが。どうしていけないのだろう。
「馬鹿げた願いだ。イル、お前も知っているだろうこの穢れた血は」
「嫌ってくらい知っています。私たちは、終わるべき。ここで、おしまいにするべきだって」
「であればなぜ――――」
「そうであるべきなんて理由で――――生きる事を、諦めたくないからですよ!」
虹色の花弁が幻想器から吹き荒れ、それらは次から次へと赤へと変じる。
まるでその血肉まで捧げるよう。魂すらも焼き尽くすように。鮮やかな真紅の澱が剣を象る。
踏み込み一足で間合いを詰めたレテの漆黒の刃と真紅の剣身が衝突し、イヴェールが更に一歩前へ出る。
「――――イル……ッ!!」
「私は、まだもう少し――――大好きな人達の傍らに居たい……!」
イヴェールが進んだ分、レテが下がる。幻想が幻影を上回る。体躯が限界を訴え関節が裂け血が流れる。
女はそれでも退かない。男もまた押し返せない。片手の痛みに気が取られたのは、一瞬だった筈だ。
その一瞬で十分だった。稲妻のように、あるいは風のように。逆巻く澱は剣身を覆い――――
「だから、此処では死ねません―――――――!!!」
幻影の刃諸共に命の肯定と言う幻想を。縦一文字に振り下ろす。
■
特に致命傷など負わずとも。自らの武器を失ってしまえば授恵者の実力は半減する。
技巧の多くは携えた武器に依存し、そうでなくとも戦闘の自由が大きく損なわれるからだ。
「……何故殺さない」
幻想器を喉元に突き付けられたレテから零れる問い掛けに。
イヴェールは大きく嘆息した。理由は幾つも思い浮かぶ。けれど、どれもしっくり来ない。
強いて言うならば、幻影器を真っ正面から破壊されたイルは見た所最早丸腰だったからだろうか。
徒手の人間に剣を振るったとなれば、それは彼女の考える正義に反する。
「世界は意外と広いんですよ、兄さん」
「……後悔するだろう」
「そうかもしれません。でも、今はそれでも良いと思っています」
生きていなければ後悔すら出来ない。もしこれが間違いであったとしても。もう間違える事を恐れはしない。
散々な目にあって来たのだ。突然寿命が延びたりもしない。ならもう、これからは好きにさせて貰おうと思う。
そうして踵を返したイヴェールの背にはまだ、レテの呟きが届いた。
「愚かな選択だ」
「兄さんは、自分の妹がそれほど賢いと思っていたのですか」
それは幻想の見過ぎだと。イヴェールはレテを残し歩み出す。何処に繋がっているとも知れない街道を。
とりあえず、自分の血で汚れた体躯を洗い流したかった。それと、とても眠くもあった。
暮れなずむ夕日の赤い陽射しは、その前途を黄金よりも明るく地平一帯照らしていた。
「たとえ何度落日を迎えようと、明日はもしかすると良い日かもしれないと思う。
その位には、私はあまり頭が良くはないんですよ」
何より此処から例え何処に辿り着こうとも、今より悪いと言う事も無いだろう。
それは“行くべき”だから辿る道程ではない。彼女が選び、掴んだ道なのだから。
「……全く、本当に甘過ぎる」
そうして一人残されたレテは自らの懐剣を探る。それは彼が幻影器を振るえなくなった場合の当然の備えだ。
『幻日』は滅びなくてはならない。命を繋ぐのは生き残った、最後の一人だけの特権だ。
何れが死してもそれは同じ。であれば既に、彼が果たすべき事は成ったと言って良い。
曾祖父の。祖父母の。父の、母の。そして彼の復讐は、此処にその本懐を遂げたのだ。
「イル。だったら、お前は精一杯生きてみろ」
体は酷く疲れていたし。それと、とても眠くもあった。
光を失いつつあるその瞳は金色を帯び。彼方へ歩み行く妹の影をずっと映し続けていた。
■
後日。街道脇で喉を突き息絶えている男を見つけた行商人の連絡によって、その屍は大衆墓地に葬られた。
男の素性を知る者はなく、心中を遂げた者について深く問い質す者も居らず。
発見者である行商人すら、そんな記憶は時と共に風化し消えて行く。まるでそんな人間は居なかったかのように。
ただ彼が手の甲に残していた深い傷の痕跡の印象だけは、なぜか暫く消えることは無かったと言う。
その後、レテ・イリュジオンと言う青年の姿を見た者は居ない。新暦1224年、冬の終わりの事である。
『幻月』エリシオン子爵家は古い家系だ。始まりの百家に連なる貴族家の一つ。
武門として陰に日向に王家を支え、長く王国史に譜代の貴族家としてその名を刻んで来た。
しかしその研鑽が顧みられた事は無い。同家は何処までもただの下級貴族であり、下級貴族でしかなかった。
であれば『貴族派』と言う派閥の中であれば如何か、と言えばそちらもまた鳴かず飛ばず。
そもそも猫の額ほどの土地しか持たない辺境の地方領主など、社交界での存在感など有って無きが如し。
殆どの貴族家は『幻月』と言う家の存在を重視しないは愚か、強いて敵対する価値すら見出さない。
或いは何処かの大貴族にすり寄りでもすれば良かったのだろうか。否、その道も既に絶たれて久しい。
何せ、『幻月』はかつて自らの主家を“売り渡して”存続を図った家系である。
殆どの貴族に家名すら記憶されておらずとも。いざ関係を結ぶとなれば必然調査の手が回る。
――――袋小路だ。それはつまり、『幻月』は既に只管無為に時を重ね、いずれ衰退して行く他は無い。
その状況は現当主、アダム・エリシオンが家を継ぐよりずっと前から。二代、三代、四代前から。
いや、或いは主家の代用品と言う立場からの脱却を求め『貴族派』の甘言に乗った謀略の夜から。
何一つ突破口を見つけられないまま、今に至るまで続いている。
「こほ、こほ……」
アダムはただ広いだけの執務室の中。古い執務椅子に腰掛け手巾で口元を拭う。
今仕方吐き出したばかりの黒い鮮血がべったりとこびり付いていた。臓腑の病だ。回復魔法も通じない。
男は決して老齢ではない。病弱な訳でも無い。齢は四十を迎えたばかり。身体を壊すには余りに早過ぎる。
けれどアダムは既にその寿命の大半を使い果たしていた。“血の呪い”と呼ばれる家門特有の症状。
授恵者である男は、それでも未だ影響の少ない方だ。非授恵者だった実子は2人共が二十を前に夭逝した。
唯一の授恵者である継嗣は未だ十歳に満たず。此処でアダムが息絶える訳には行かない。
もしも彼がこのまま没したならば。祖父が。父が。そして彼が石にしがみ付いてでも存続させた家が潰える。
(……全く……忌々しいこの身体よ。もう少し保ってくれよ……)
だが。既にその名を失した全ての貴族家がそうであったように。
或いはかつて貴族間の生存競争に敗れた『幻日』もまた、やはりそうであったように。
前触れも無く響き渡る、角笛の音。
「――――子爵様! 敵襲です……!」
「! 敵……だと!?」
――――終わりは不意に、けれど必ずやって来る。
■
“この地図の通りに向かって下さい。入り組んでいるので迷わない様に”
『魔女の騎士』イヴェール・イリュジオン曰く。その領地は非常に狭く、外から入ればすぐ気付かれる。
乗合馬車など言うに及ばず。野山を駆けるのに慣れた馬でなければ危うい獣道同然の道を通らざるを得ず。
恐らく近くの村で一泊してから、徒歩で向かうのが最も賢明だろう。との事だったが――――
「山林1つ、村1つ。……見つからない訳だ」
王国内で庶民が手に取る様な、粗雑品の地図には記載すらされない小さな領地。
知る人ぞ知る。そして知らない者は先ず知る事の無い『幻月』領の全体像を双眼鏡で確認し、嘆息が零れる。
妹から伝え聞いた時は話を疑った物だが、まるで隠れ里の如きその領の規模を知った今となっては。
幾ら冒険者としての知見と情報網が生きたとは言え、この短い期間で良くぞ所在を突き止めた物だと思う。
(……或いは、これも運命か)
辺境都市群でその存在を掴んだ時は偶然だった。妹と連絡が付いたのは幸運だった。
だが、3度続けばそれは最早偶然や幸運で片付けて良い話ではない。時代が、血が必然を求めているのだ。
此処で終わる事を。穢れた『幻日』に――――今こそ正しく終止符が打たれる事を。
そうだとしか思えない符号に。赤の混じった銀髪の男、レテ・イリュジオンは愛剣を抜く。
幻影器イリュジオン。最初は同型の幻想器同様に白銀の刃を持つ美しい剣だった。
けれど同族の血を注ぐ度に黒に近しい色を帯びた刃は、レテの澱を帯びて既に限りなく漆黒に近い。
『幻月』を討ち、妹を殺し、自らを貫いたなら、漸く。
形すら残らぬ幻影の器は満ち、価値も意味も無い幻日の歴史は夜闇に消える。それで良い。それが良い。
「……始めよう」
躊躇なく崖下へ滑り落ちながら、黒い刃を靡かせ赤混じりの銀髪が宙に舞う。
何の奇も衒わぬ。だからこそ虚を突く正面突破。外観だけは領主邸と言うに相応しい大邸宅。
けれど全く手入れの行き届いていない正面門の扉へ向けて黒の刃を振るうと。一刀、両断され轟音が響いた。
「な、何だお前――――」
「名乗ったところで意味のない名だ」
飛び出してきた衛兵の練度も低い。命懸けの修練と地獄の様な研鑽を積んだレテには一挙一動が遅いと映る。
粗末な槍を斬り飛ばし、踏み込み、上段から袈裟斬り。踏みつけ先に進む。
返り血を振り払うと同時に、襲撃を告げる角笛が鳴り響いた。
■
「……ルシル」
男は、返り血に塗れ、ぐったりとした子供の遺体を引きずり謁見の間を訪れた。
それが彼。アダムは目に入れても痛くない程可愛がって来た我が子である事など一目見れば瞭然だった。
同時に。男が手にしている黒い刃が『幻日』由来の物である事も。
その時点で、襲撃者を討ち果たす心算で携えた宝剣を持つ手からは、既に力が失われてしまった。
人は悲しみが許容を越えると何も感じなくなるらしい。呆然としたアダムの手から、古びた鞘が滑り落ちる。
「――――名乗る必要は無い様だな」
レテの問に。アダムの感情が再起する。それは怒りだ。吹き上がる様な怒りが一瞬悲しみを凌駕する。
「必要、だと。『幻日』の亡霊が、今更! ……何を! ルシルが、一体何をしたと言うのだ!!」
「今更、何を? そうか。お前達の中では既に終わった事だったんだな……」
静かに呟いたレテの瞳が次の瞬間、赤味を増す。何時でもそうだ。非道を為した者はそれを忘れる。
大義の為。悲願の為。理想の為と嘯いて自らが踏みつけにして来た者の事など顧みない。反省もしない。
只管に同じことを繰り返す。悪鬼の如く。家畜の如く。獣の如く。妄執に憑かれた曾祖父のように。
「何もしなかった。お前達は自らの過ちを認めないまま事此処まで至ってしまった。愚物だ。生きる価値は無い。
だから殺す。一族郎党老若男女唯一人逃さず鏖殺ずる。穢れた血に制裁を下し、俺もまたこの命を終えよう」
「きょ……狂人め……!」
「狂っているか。狂っているだろうとも。こんな血に縛られるお前も、俺も、どうして狂わずいられよう……!」
「そんな理由で……ふざけるなあああああああああああああああ!!」
最後に残ったのが“生きたい”と言う意思であったとして。それを指して生き汚いとは言うまい。
レテとて、それを理解不能だと感じるほど壊れてはいない。自分に当て嵌めても心当たりがある程に。
だが、遅かった。それはあまりに遅い決断だった。アダムが落とした古い宝剣の鞘を掴んだ瞬間。
その頃には既にレテは間合いを詰め、手にした幻影器を振り上げていた。
鍔を持ち上げ鞘走らせるのと、黒い刃が振り下ろされるのは同時。
ごとん、と大玉大の物体が地面に落ちる音と共に鮮血が埃を被った装飾燈を赤く染める。
愛剣を一振りし鞘に納めようとしたレテは、手の甲に痛みを感じてはじめて、自らが負った手傷に気付く。
(……腐っても武門の長、か)
最後の一瞬。確実に有利な立ち位置から剣を振るった彼に、それでも一矢報いて見せた。
或いはそれこそが、『幻月』が此処まで積み上げ、その最後に残した痕と言えたのかもしれない。
●白日夢
レテ・イリュジオンに『幻月』の所在を伝えて数日。
イヴェールもまた、遅れ馳せながら同子爵領を目指し旅立っていた。旅立たざるを得なかったとも言える。
伝えた当時は何一つ疑っていなかったが、よくよく考えたら当たり前の話ではある。
レテは確かに研鑽を積んだのだろうし、その実力はイヴェールに匹敵するのだろう。
しかし、世界は広いのだ。それを彼女は良く。ある種嫌と言う程思い知らされていた。
イヴェールとて決して弱い授恵者だと自分を卑下する気はないが、それはそれとして。
世間には彼女より強い授恵者など幾らも居る。北方辺境で見た化け物の様な老人とか赤い薬指の魔女だとか。
大抵の相手であればレテが後れを取る事など有り得ないにせよ。例外はどんな事でも起き得ること。
もしもその備えを怠ったとしたなら、自分の身の回りの大切な人たちにどんな災いが降り注いだとしても。
文句は言えないのだと言うことを。何せ似たような事情が高じて罪人にまでなったのだ、説得力が違う。
「それに、縦しんば首尾良く行ったとしても無駄にはなりませんからね」
改めて、旅行具などを詰めた背負い鞄を背負い直す。
『幻月』の件が片付いたとしたなら。次は兄妹で決着を付ける番が巡って来るだけの話。
勿論、兄からは別に何の指示も受けていない以上、座して待っていた所で文句を言われる筋合いはない。
彼我の実力に殆ど差が無い事を考えれば、“備えて待つ”方が有利だと言う考え方も有るだろう。
ただ、この辺りは非常に感覚的な話になってしまう物の。戦いには得手不得手と言う物がある。
イヴェールは冒険者として防戦で結果を残した事も有るが、どちらかと言うと攻め手の方が得意な性だ。
特に今回の様な、自らの意思で何かを選択しなければならないような場面において。
下がれば負ける、と思う。それは彼女の人生観であり勝負勘。“戦術眼”とも言い換えられるだろう。
(勝ちたい、のでしょうか)
勿論負けるのは決して趣味ではない。ただ、趣味とかいう話とは全く別の次元で。
勝てばイヴェールは実の兄をこの手に掛ける必要がある。そうでもなければレテはもう止まらない。
止めるのは、同じ血を継いだイヴェールの務めであるべきだ。
そこに違和感はない。けれど、そうまでして。この手で家族を殺してでも生きたいのか。
答えは出ていない。答えが出ないまま、けれど勝つ為の算段を講じている。滅茶苦茶な話だと思う。
けれど積み上げた経験。研鑽と言うのは、時折残酷なほどそれを為した当人を裏切らない。
■
(……私は、未だ迷っている)
もし、そう今の心中を吐露したとしたら。兄は呆れるだろうか。怒るだろうか。失望するだろうか。
一度は確かに、覚悟を決めた筈だった。全てを振り捨てて、孤独の道を往く。
それで良いと思っていた。こんな血を継いでしまった自分には、そんな人生しか選べないと思っていた。
けれど、思った以上にイヴェール・イリュジオンと言う娘は往生際が悪いらしい。
蓋をしたと思っていた反抗心が。最早後悔はない筈だった妥協と諦観の底で暴れている。
それは小さな。本当に小さな篝火かもしれないが。決して消える事無く声を上げ続けている。
その衝動は、きっと怒りに近い。自らの道を自ら閉ざす。そんな不甲斐ない自分への怒り。
何もかも全てを放り投げて、今代の彼女の役割であると押し付ける『幻日』と言う家門への怒り。
そして何より、もう良いのだと。終わりにすると決めたのだと、幾ら真摯に、誠実に伝えても。
その全てを台無しにして彼女の手を引こうとする人々への。そんな理不尽に対する怒りだ。
彼女には迷いがある。その迷いは、きっと正しくはない。イヴェールの正義はその迷いを認めない。
誰かの意見に左右されて迷う位なら、最初から何もしなければ良かったのに。
彼女の決断の為に傷付いた者達は、失われた者達は今の自分を見て何と言うだろう。
正しくなければならない。あるべき結末に辿り着かなければならない。
それが、彼女が生かされ、彼女が殺してきた者へのせめてもの償いの筈だ――――と。
そう思っている事に、決して嘘は無い。嘘は無かった。そうでなければ、ならなかった。
気付けば日は傾きつつあった。視線の先に見えたのは家宝の宝剣と良く似た剣を携える人影。
別に待ち合わせた訳では無いが、その一方で。きっとここを通ると確信していた。
昔から、時に全くの感性に従って動き、如何にも不合理な妹に対し。
兄は効率的な合理主義者だった。特に理由が無いなら、近場で一番大きな通りに出る。
どれほど容貌が変わろうとも。その行動理由が歪もうとも。根幹の部分は変わらない。
彼は彼女の兄で在り。彼女は、彼の妹だった。
「兄さん」
声に気付いて、足を止めた男との距離は彼我の踏み込みで凡そ六歩。
歩幅と腕と剣身の長さを加味したなら。それは剣で相対する場合必殺必死の決戦距離となる。
●落日
「終わった、みたいですね」
『幻月』子爵領と王国を縦横に走る商路との境界線。
或いは野盗などが身を隠すのであれば適当と言えただろう、山林と街道との間に存在する死角。
日も落ちようと言う時間にそんな場所を通過する命知らずの旅人は、大陸ではそれほど長くは生きられない。
イヴェールが敢えて先に声を掛けたのは、そんな命知らずの一人である彼の足を止める為だ。
「ああ、終わった……イル。お前も未練は片付いたのか」
「……どうでしょう」
夏の終わりに再会し、冬の終わりに雌雄を決する。出来過ぎだと思う一方で、そういう物かと思わないでもない。
レテとイヴェール。兄と妹。互いに抜いた武器は、鏡写しの様に良く似ていた。
今更問答は必要ない。その為に待っていた。その為に帰って来た。決着を付けなければもう何処にも進めない。
其処は袋小路だった。『幻日』と言う家系は、最早決定的なほど終わっている。
「イル、苦しまないよう逝かせてやる」
「それ最悪な殺し文句ですよ、兄さん」
虹色の花弁と漆黒の破片。幻想の剣と幻影の刃。打ち合わされた二つが鍔競る度に互いの命を削り合う。
いずれも同じ命喰らいの魔剣。短命の血族故、その幻想で鍛えられた剣は最も重い対価によって輝きを増す。
失う物の無いレテの幻影器の一閃は鋭く重い。一合、二合、三合と、剣を合わせる度にイヴェールが押されていく。
授恵者としての経験の差ではない。純粋に、自らの身を顧みないが故の捨て身の剣撃。
毒牙の如き影が蝕むように、舞い散る虹色の花弁を枯らして行く。
「――――どうした。こんなものがお前の全力か」
「そうですよ……! これが。この程度が、私に出来る精一杯です……っ!」
全身全霊を賭して首元に迫る漆黒の刃を跳ね除ける。身を翻したレテには傷一つ無い。
一方、イヴェールは既に息を切らしている。身体を緊張させたまま、ずっと力を込め続けた弊害だ。
力量、と言う部分では大きな差は無い。ただ、覚悟と言う点でレテはイヴェールを大きく上回っていた。
彼には死に対する有って当たり前の忌避感が無い。故に余裕があり、故に柔軟で在り続けられる。
翻ってイヴェールはそうではない。その差が、彼我の疲労度合いに如実に現れていた。
■
汗が大気で急激に冷やされていく。張り付いた髪で表情すら見えず、イヴェールは両手で幻想器を握った。
勝てないかもしれない。此処で自分は死ぬのかもしれない。その事実に直面し、其処には恐怖があった。
「そうか。なら、これで終わりにし」
「――――生きろって、言うんです」
恐怖があった。
「……何?」
「生きろって言うんです。何も知らない癖に、私が、どれだけ泣いて、苦しんで、辛くて、痛くて。
それでもそうしなくてはいけないと。決めるまでどんなに心細くて、恐かったか何て知らない癖に」
恐怖があったことに安心した。恐かった。恐ろしかった。まだ死にたくないと思えた。
未練があった。理由があった。手を引かれて、髪を引かれた。振り解くには重荷過ぎた。
「仲の良い友達が。救いたかったお姫様が。好きになった人が私に。生きろって言うんです。
無責任な事を臆面も無く、生きて欲しいと言うんです。勝手過ぎます。そうは思いませんか、兄さん」
沈黙が落ちた。赤い、醒めた眼差しが痛々しさすら伴ってイヴェールに注がれていた。
未練を片付ける何てとんでもない話だった。何も上手く行かなかった。そもそも片付けは苦手なのだ。
彼女が紡いだ絆はとっちらかったままだ。けれど唯一つ、その全てが彼女に強いる。生きて欲しいと。
「私が傷付けてしまった恩人と、再会の約束をしたんです。私の答えを、待っていると言う人が居るんです。
そうしたら、私まで恐くなってしまいました。死にたくないと――――いいえ、違いますね」
迷惑だ。もう決めたのだ。天秤に掛けて選んだ。それが正しいと信じた。それなのに――――
「まだ生きたい、と」
そう願ってしまうことが。どうしていけないのだろう。
「馬鹿げた願いだ。イル、お前も知っているだろうこの穢れた血は」
「嫌ってくらい知っています。私たちは、終わるべき。ここで、おしまいにするべきだって」
「であればなぜ――――」
「そうであるべきなんて理由で――――生きる事を、諦めたくないからですよ!」
虹色の花弁が幻想器から吹き荒れ、それらは次から次へと赤へと変じる。
まるでその血肉まで捧げるよう。魂すらも焼き尽くすように。鮮やかな真紅の澱が剣を象る。
踏み込み一足で間合いを詰めたレテの漆黒の刃と真紅の剣身が衝突し、イヴェールが更に一歩前へ出る。
「――――イル……ッ!!」
「私は、まだもう少し――――大好きな人達の傍らに居たい……!」
イヴェールが進んだ分、レテが下がる。幻想が幻影を上回る。体躯が限界を訴え関節が裂け血が流れる。
女はそれでも退かない。男もまた押し返せない。片手の痛みに気が取られたのは、一瞬だった筈だ。
その一瞬で十分だった。稲妻のように、あるいは風のように。逆巻く澱は剣身を覆い――――
「だから、此処では死ねません―――――――!!!」
幻影の刃諸共に命の肯定と言う幻想を。縦一文字に振り下ろす。
■
特に致命傷など負わずとも。自らの武器を失ってしまえば授恵者の実力は半減する。
技巧の多くは携えた武器に依存し、そうでなくとも戦闘の自由が大きく損なわれるからだ。
「……何故殺さない」
幻想器を喉元に突き付けられたレテから零れる問い掛けに。
イヴェールは大きく嘆息した。理由は幾つも思い浮かぶ。けれど、どれもしっくり来ない。
強いて言うならば、幻影器を真っ正面から破壊されたイルは見た所最早丸腰だったからだろうか。
徒手の人間に剣を振るったとなれば、それは彼女の考える正義に反する。
「世界は意外と広いんですよ、兄さん」
「……後悔するだろう」
「そうかもしれません。でも、今はそれでも良いと思っています」
生きていなければ後悔すら出来ない。もしこれが間違いであったとしても。もう間違える事を恐れはしない。
散々な目にあって来たのだ。突然寿命が延びたりもしない。ならもう、これからは好きにさせて貰おうと思う。
そうして踵を返したイヴェールの背にはまだ、レテの呟きが届いた。
「愚かな選択だ」
「兄さんは、自分の妹がそれほど賢いと思っていたのですか」
それは幻想の見過ぎだと。イヴェールはレテを残し歩み出す。何処に繋がっているとも知れない街道を。
とりあえず、自分の血で汚れた体躯を洗い流したかった。それと、とても眠くもあった。
暮れなずむ夕日の赤い陽射しは、その前途を黄金よりも明るく地平一帯照らしていた。
「たとえ何度落日を迎えようと、明日はもしかすると良い日かもしれないと思う。
その位には、私はあまり頭が良くはないんですよ」
何より此処から例え何処に辿り着こうとも、今より悪いと言う事も無いだろう。
それは“行くべき”だから辿る道程ではない。彼女が選び、掴んだ道なのだから。
「……全く、本当に甘過ぎる」
そうして一人残されたレテは自らの懐剣を探る。それは彼が幻影器を振るえなくなった場合の当然の備えだ。
『幻日』は滅びなくてはならない。命を繋ぐのは生き残った、最後の一人だけの特権だ。
何れが死してもそれは同じ。であれば既に、彼が果たすべき事は成ったと言って良い。
曾祖父の。祖父母の。父の、母の。そして彼の復讐は、此処にその本懐を遂げたのだ。
「イル。だったら、お前は精一杯生きてみろ」
体は酷く疲れていたし。それと、とても眠くもあった。
光を失いつつあるその瞳は金色を帯び。彼方へ歩み行く妹の影をずっと映し続けていた。
■
後日。街道脇で喉を突き息絶えている男を見つけた行商人の連絡によって、その屍は大衆墓地に葬られた。
男の素性を知る者はなく、心中を遂げた者について深く問い質す者も居らず。
発見者である行商人すら、そんな記憶は時と共に風化し消えて行く。まるでそんな人間は居なかったかのように。
ただ彼が手の甲に残していた深い傷の痕跡の印象だけは、なぜか暫く消えることは無かったと言う。
その後、レテ・イリュジオンと言う青年の姿を見た者は居ない。新暦1224年、冬の終わりの事である。
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