【DA】リーンエスの耳

ゲルダ・クライン/ アルベイル・ライゼンナクト
ギュミル・クライン/ アイリス・クライン

『ノベルタイトル:春光、そして叶えた夢の後』弓月 蒼
●新たな日常、新たな道

 りりりりり……と、鳥の声の様な、澄んだ金属を嘴が叩く音が響く。
 最近出回る様になった懐中時計と組み合わせる小鳥型の絡繰りで、銘を“小夜啼鳥(ナイチンゲール)”と言うのだとか。

 針が特定の位置まで来ると、歯車が噛み合い小鳥が嘴で鐘を叩く。と言う酷く単純な仕組みだが。
 以前『王都』へ出向いた時に見掛け、あまりに童話的(メルヘン)な見た目と実用性で衝動買いしてしまった。

 お陰で元々寝覚めは悪くない方だったが、毎日同じ時間に目を醒ませると予定が組み立て易く重宝している。
 今度お揃いの物を買って贈ろう。などと考えながら洋服棚(クローゼット)を開け、いつもの騎士制服を出す。

『竜』には他に小人(ハーフリング)の騎士は居ない。完全指定(フルオ―ダーメイド)のそれを、見誤る者も居ない。
 外套を止め紐に通し剣を佩くと、姿見の前で確認。最後に帯びる事を赦された『竜紋』の位置を調整する。

 黒と鋼。そして鮮血のような赤で彩られた彼女は、何処から見ても小さな騎士だった。
『黒鋼竜附護衛士』即ち『竜』の近衛騎士は、同家内でも特殊な立場だ。彼らは組織ではなくあくまで当主に仕える。

 その命は絶対であり、既存指示系統の外に居る“護衛士”の業務の約半分は『黒鋼竜』の身辺警護に当てられるが。
 残り半分は自己研鑽の名目の下ある程度自由裁量が認められている、と言う事からもその独自性が見て取れる。

 勿論。其処で僅かなりとでも手を抜く様な人間には務まらない職種であり、それは信頼の証だと言い換えても良い。
 であるなら、今はただその信に応えるだけだ。

(今なら食堂も空いている筈……そう言えば、手紙が届いていたんでした)

 愛用の鞄の中身を確認しながらも、思考は『湖都』で生活し始めてからの変遷を辿る。
『竜』は現在、その方針の大きな転換期――――或いは改革の過渡期にあると言って良い。

 構想段階より始まった『紫政館』は、正式な承認を得た協賛商会が“黒竜領紫政館”の建築に着手している。
 同時進行で“紫水領紫政館”の開館準備も始まっている為、どちらが先に運営段階に至るかは微妙な話ながら。

 それに伴い彼女の主、『黒鋼竜』アルベイル・ライゼンナクトの業務量が膨れ上がった事は承知するところだ。
 加えてかつて冒険者が介入するまでにまで至った『竜』内部の揉め事の爪痕の処理もある。

『竜』直属の女行商人が内部監査を進めている三大商会の一角もさる事ながら、麾下騎士団も未だ盤石ではない。
 四人で運営されていた組織の長が三人になれば、当然その分管理体制に歪みが出て来る。

 後任の査定は進めているが、その間日々の警邏や鍛錬と言った定常業務に穴が開く事は避けねばならない。
 確かに護衛士の職分とはやや外れている事は否めないが、そういった雑務で主の手を煩わせる事は避けたい。

 そうして彼女は自発的に朝と夕、二度の領都内警邏を買って出た。幸い、領民達から好意的に受け取られている。
 未だ十分とは言い難い物の、『湖都』での新生活にも漸く少し慣れて来た――――そんな時節。

「……、……。お父様……」

 ゲルダ・クライン様。と記されたその書簡は見慣れた筆致。見慣れた送り主。そろそろだろう、とは思っていたけれど。
 食堂に向きかけていた足を、急遽主の執務室へ向け直す。予定を確認して早馬で手紙を送り返さなくてはいけない。

 ただでさえ、こうと決めたら即行動する節のある両親のこと。既に『湖都』へと向かっている可能性すらあった。
 平時であれば母が制止もしようが、今回はゲルダ絡みであるのみならず、商談絡みと言う話でもある。

 元々貴族であるアイリスは常識人だが、だからこそ話がこと商売となると夫を信じ一歩引く事をゲルダは知っている。
 そうなった時のギュミルは制御弁の外れた暴走馬車だ。ゲルダは、断固制止しなければならないと決意した。

 家族の所為で主の執務が滞るなど、そんなこと万が一にも決してあってはならないのだから。

 ■

 専門の業者を手配する。行商人に預けるなど、手紙を目的地に送る方法は数あれど。
 現地へ届ける。と言う点で冒険者ギルドに勝る物は無いと、元冒険者でもあるゲルダは強い信頼を置いている。

 久々に訪れる受付カウンターは、何処かしら“お客様感”を感じ。ああ、ここはもう私の場所ではないんだ――――と。
 若干の寂寥感をこそ憶えた物の。返事の手紙を手渡しし、頼まれたのでついでにサインを記すと外に出る。

 ぽかぽかと暖かい陽射し。元々『王国』南方は国土の中でも一際温暖だ。人々も大らかで余り細かい事を気にしない。
 領主の気質も影響するのだろうが、『湖都』はその土台に実力主義が根付いており種族差別の少ない都市だ。

 警邏に歩いても狼藉を働く者は決して多くない。勿論観光都市の側面もある為、外部客狙いの詐欺などは存在するが。
 騎士団の練度が高く、何より『竜』のお膝元と言う事実はただそれだけで抑止力として機能するのだと。

 何故彼の家が王国社交界に於いて広く“恐怖”と共に語られるのか――――と言うその理由の一端を垣間見る。
 文化としての遡上は異なれど、その在り様はある種ゴールディの“ブラックデス(マフィア)”ともほど近い。

 この『王国(くに)』にとって、『竜』とは楔の一つなのだ。揺らぎ、曲がれば、国が傾くと言ったもの。
 畏怖されていた方が都合が良く、そうである事を求められる存在。ゲルダも、中に入らなければ分からなかった事だ。

「あの……」

 物思いに耽っていると、湖畔区の端で声を掛けられる。見れば自分より更に低い身長。小人(ハーフリング)ではない。
 唯人(ヒューマン)の女の子だ。見覚えは無い。恐らく、初対面……の、筈。

「何でしょうか、何か困り事でも?」

「ゲルダ様、ですよね。領主様のお屋敷の、騎士様の」

「はい、そうですが……ああ――――……」

 彼女が後ろ手に隠している物が見えて、納得と共に困惑の色が僅かに滲む。果たして上手く隠せているだろうか。
 相手の期待を裏切ってはならないと思う一方で、どうしたものか……と思わないでもない。

 事の発端は、警邏を始めて僅か一週間ほどと言ったまだ地図を漸く頭に入れた、位の頃に訪れた。
 大通りでのひったくりである。比較的治安の良い『湖都』では珍しい“分かり易い犯罪行為”だった。

 勿論、ゲルダは職務を遂行する為に表通りを駆け抜け剣を抜き放ち、一足飛びに背中より組み伏せこれを制圧。
 一瞬と言える捕り物劇で事は収まり、犯人は騎士団の詰め所に連れられて行った。それ自体は、ままある話だ。

 ――――が。一見子供の様に見える体躯の少女。言っては何だが『湖都』では他に類例の無いその風貌に。
 加えひったくり被害にあった女性が貴族夫人であった事も作用して、彼女の大立ち回りを領民達は大いに喝采した。

 いや。喝采、で済めばまだ良かった。過日、同都市が大型の魔獣(界砂蟲)に襲われた一件がこれを助長する。
 騒動の中でも目敏い人間は居る物だ。件の魔獣を討伐した冒険者に彼女に良く似た者が居た。と誰かが言い出した。

 ゲルダである。間違いなく心当たりが有ったため表立って人違いとは言えない。噂は尾鰭羽鰭を付けて広まった。
 そうして。彼女は気付けば就任僅か一カ月を待たず、『湖都』を救った英雄。そういう偶像と成り果てた。

 女の子が向けるきらきらした瞳には、その偶像がどういう作用を齎しているかが一発で分かる。
 それは憧憬だ。ゲルダにも憶えがある。憶えがあるからこそ――――それを否定するのは、出来れば避けたかった。

「ゲルダ様、応援してます! その、サインを頂けませんでしょうか……!」

「はい……分かりました、どちらに」

 差し出された真新しい色紙と、羽根筆(ペン)。どちらも庶民にはあまり用の無い物だ。
 恐らく貴族の末端か、商家の子女。まるで昔の自分を見ている様な気持ちになり、何とも言えず居心地が悪い。

 ただ、此処で刻んだ自分の軌跡が。もしかすると彼女の人生の指針にすらなるかもしれないと。
 そう思えば無碍には出来ない。受け取った筆記具で望む望まざると大分慣れてしまったサインを記す訳なのだが。

 ■

「あり、ありがとうございますっ! 大切に、家宝にします……!」

(それは止めて下さい……)

 思うに留め笑顔で手を振ると、ゲルダはまた警邏へ戻り『湖都』の主だった通りを一周して竜館へ帰る。
 街を見回って気付いたこと。今後注意すべきこと。都市としての改善点などを書類に直し提出。

 遅めの昼食を摂った後、主の護衛を同僚の護衛士と交代する傍ら家臣団と主との連携の手伝いを行う。
 鈴の音に気付いたら執務室の扉を開ける。謁見の予定が有れば侍女団を呼び入れる等、その役割は秘書に近い。

 少なくとも竜館の中枢に在る間は『黒鋼竜』を害する様な事態は先ず起きない。
 並の騎士の一個中隊を動員しても凡そ傷一つ付けること適わないとされるほど、この屋敷は堅牢不可侵だ。

 逆を返せば、其処までの防衛網を必要とするほど過去歴代の『竜』は命を狙われ続けた、と言う事でもあるが。
 その全てを捻じ伏せ、信賞必罰で応じたからこそ。現在、恐怖を代名詞とする黒の貴族家が生まれたとも言える。

「アルベイル様、少し休憩なされませんか」

「ゲルダか。今何時頃だ」

「遠からず夕餉の支度が始まる頃かと」

 彼女の主は勤勉だ。放っておけば朝から晩まで執務に没頭する。『学園』に通う日も夜は竜館へ戻る事が多い。
 幸い、『湖都』は広い侯爵領内でも北端に近く、最新の馬車なら王国中央の『王都』まで四半日ほどで着く。

 その間を睡眠に充てている事も承知しているが、それでも。まるで生き急ぐ様な日々だと思う。
 アルベイルには求心力がある。彼の為に何かしてあげたいとして、人が集まるのは貴族でも稀有な資質だ。

 代わりは効かない。少なくとも、『学園』で見て来た限りゲルダはそう確信している。
 だからこそ、彼に倒れられてしまっては困る。当人が自分の健康に無頓着ならば尚更だ。

「分かった。侍女長を呼んでくれるか」

「そう仰ると思って既に用意を進めさせています」

「……俺は、普段からそれほど同じことを言っているか?」

「はい。少なくともわたしが予測出来るくらいには」

 ――――この人が築くと約束した未来を、斬り拓く剣であること。
 それが、騎士になると誓った彼女が新たに見出した目標だ。それは、全く心安らかな、平坦な道には程遠い。

 誰かを護る存在で居たいと。かつてそう思い描いた世界とは、それは全く異なる地平の先。
 時に血塗られ、時に手を穢す。綺麗事だけでは片付けられない問題が、その途上には立ち塞がっている。

 きっと、これから先も。愉しい事ばかりではないだろう。傷付く事も、苦しむ事だってある筈だ。
 例えば今ゲルダが憶えている戸惑いにも似た。自分ではない偶像である“誰か”が尊ばれる事と同じ位。

 恨まれる事だってあるに違いないと。その現実が、彼女には既にまざまざと想像出来てしまう。
 それでもこの道を進むと決めた。その先に彼女が望む、胸を張って誇れる『王国(そこく)』があると信じて。

「それと、父の事なのですが――――」

 ゲルダは今、新たな都市(ばしょ)で、新たな夢(ねがい)を描いて生きている。

●黒鉛の描いた可能性

「……なるほど、確かにこれは……“可能”とは言い難いな」

 ギュミル・クラインは商人である。“大商会”とは呼ばれずとも中堅よりは上の地位に在る。
 王国商人でも上澄みとされる“大商人”の一人だ。そんな彼の手元には一本の筆記具。

 仮称――――黒鉛筆の試作品。とした“魔法加工品”が存在していた。
 以前、冒険者から集った意見を元に『学術都市』ヴェルクリエにて燻ぶっていた芸術家らを集め。

 発案(アイディア)を元に試しに造らせてみた中で、最も出来の良かったもの。
 つまり“木材を研ぐ紋具を使い、先端を摩擦で溶かした黒鉛を屑木と膠(にかわ)で包んだ物”――――だ。

 少々習熟に時間は掛かるが、とりあえず筆記具としてギリギリ使い物に“なる”水準ではある。
 書けるし消せる。羽根筆(ペン)や付け筆の代用品とするには余りにお粗末と言う他は無いが必要は満たせる。

 しかし紋具を使った精密作業を必須とするその工程は、お世辞にも安価で大量生産(コストパフォーマンスが良い)とは行かない。
 “生産”だけなら専属の技術者を育成する事でいずれ賄えたとしても。触媒の代金は揺るがない。

 該当の紋具にしても類似機能の物を指定(オーダーメイド)で作らせるとなれば。
 相当数の山人(ドワーフ)と、同じ数だけ熟達した“紋具師”の手が必要となるだろう。

 工期を度外視するにしても材料費と人件費(ランニングコスト)からは逃れられない事は、既に想像に難くない。

(屑宝石を大量仕入れで買い叩いたとしても、常時供給出来ない物を竜侯に提示すれば恐らく。
 発想から“持って行かれる”。少なくとも……竜の三大商会は、そこまで甘えの通じる相手ではない)

 “出来の良い試作品”――――が出来た事で。其処に商機を見出したギュミルの慧眼は証明されたと言って良い。
 筆記具としての黒鉛の長所はその脆さ。そして加工品としての黒鉛の短所もまた、その脆さであった。

 ……が、“一定の同じ強度で研磨する”部分を紋具で片付ける(スキップする)ならば。
 10年。いや――――20年掛ければ、『王国内』位には行き渡る程度の量産の目度であれば付く……と思いたい所だが。

 問題は、全てが順調に行ったとしても、其処から始めて事業を軌道に乗せる。では余りに時間が足りない事だ。
 本来の筋を通すなら、事業とは“生産が可能になった段階”で初めてその展開条件を満たす。

 空手形で出資者を集うなど馬鹿者のやる事だ。もしそれで“想定外”が起きれば詐欺師の謗りは免れまい。
 そんな危ない橋を、愛する一人娘を抱えたままで渡れない。ギュミルが深く嘆息を零す傍らで。

「まあまあ、あなたもそんなに気ばかり揉んで、それで事業が進む訳でもありませんし……あら?」

 同じ芸術家から一緒に送られて来た包みを開けていたアイリス・クラインがその一つで綿紙に文字を書き、瞬いた。
 それは丁寧に紙を巻いた黒い“棒状の何か”であり、手触りも書き心地もどう考えても“黒鉛”ではない。

 けれど黒鉛より遥かに加工が簡単であり、安価で、生産に向くが一般市場は殆ど見向きもされなかった物。
 それはあくまで画材だった。画材と言う認識でしか見なければ、手に取る者の殆どは画家か芸術家志望の者でしかない。

 その画材の書き口に、それほど――――文字を描くに資する程の種類がある事も、やはり知られていなかった。
 黒鉛を加工して筆記具にしよう、などと考えなければまず結び付かなかったろう、発想の隙間に零れていた産物。

『王国』でもそれなりに取り扱われているにも関わらず、その画材を“筆記具”と捉えた者は遂ぞ居なかった。
 “絵描き”の間では古来より相応の知名度を持つ、多彩な“黒”を特徴とする彩筆記具の1つである。

 ――――“木炭筆(チャコールペン)”、と言う。

 ■

 “大陸の食物庫”。“餓死するものなし”、とまで謳われる『王国』において。
 内税のみで賄われる食品の価値は総じて低く、外税が課せられる『同盟』や『帝国』に比して遥かに安価である。

 例外は『王侯貴族』か『諸外国』が絡んだ場合に限り、例えば“領主家御用達の品”は値と質が極端に上げられる。
 しかし庶民に範囲を限定する場合、食べるだけなら平均的な賃金でまず困らない。それが『王国』と言う国家だ。

 かつて帝都に出現した『幽界樹』の影響を受け北方が大凶作に陥った時も、中央からの輸送で年を越せた。
 と言う事実がこの、豊穣と言う他ない土壌の強みを如実に示している。で、ある以上は――――

「問題は、輸送費か」

 筆記具を小麦(パン)より安く用立てる事は、溢した水を器に戻すくらいに困難だと言える。
 どこまで低価格(コスト)化を計ったとしても、最低品質の食品の価格はそれを大きく下回る。

 一方で、元々考えていた黒鉛筆の一次代用品と見做した”木炭筆(チャコールペン)”はと言えば。
『王国』内では一部貴族や豪商、その縁者や趣味人の芸術家達が用いる事がある……程度の流通しかしておらず。

 加えてその書き口の種類は圧倒的に『学術都市』の方が多種多様――――その一部は文字を記するに値する事が分かった。
 つまり、輸送の都合上国内で主に用いられ、工房の存在する羽根筆(ペン)の方が低価格(コスト)化が為されているとは言え。

『学術都市(ヴェルクリエ)』産の、それもある程度工房を絞った“木炭筆(チャコールペン)”ならばより安価に。
 そしてギュミルが望んだより劣るにせよ、及第点程度には筆記具としての用途を満たし得る――――事になる。

「それと、“黒鉛筆”と比較すると少し脆過ぎるような……?」

「そうだな。この書き口に慣れると羽根筆(ペン)に持ち替えた時に難が出る可能性はある。
 あくまで時間稼ぎの為の代用品だな。用途としての本筋は全く異なると言っても良い」

 元々が彩筆記具だ。筆圧は殆ど無くとも“色は着く”が、何処までも文字を記すのに“適した”素材ではない。
 あくまで木炭である為黒鉛より消耗が激しいし、強く擦れば線が滲んでしまい、こうなると読み解くのも容易ではない。

 しかし“墨(インク)”を必要とせず、送られて来た試供品はギュミルが思う以上に紙の汚れも少ない。
『王国』内の、特に庶民の“教育意識”は低い。それは識字教育が一向に進まない状況からも伺える。

 その根底にはそもそも、“学ばずとも食うには困らない(ハングリー精神の欠如)”と言う背景がある訳だが。
 そこを考慮し、かつ彼ら庶民相手に商売すると考えた場合。量産筆記具で最も重要な点は“販売価格”に他ならない。

「庶民の意識改革は、短期的には先ず不可能だと言って良いだろう。
 そして長期的視野で考えるなら、いずれ黒鉛筆が間に合う可能性はある。だが――――」

「そうね。これは何処まで行っても“間を繋ぐ物”……よね」

「そうだ。そして今は、それこそが必要だ」

『紫政館』構想は既に動き出している。“机上の空論”ではなく運営母体を持つ組織として。
 設備設営が進んでいる中、当初筆記具は『紫政館』内での貸し出しで賄うと言う予定だったが。

 各個人が筆記具を携帯出来る様になれば、教育面での相乗効果と商業面での広告効果は計り知れない。
 あとは如何に値段を落とすか。庶民が気軽に手が出せる価格帯まで近付けるか……と言う点だが。

(こればかりは、先ず『学術都市』から現品を取り寄せない事には始まらないな)

 当面の仕入れ先を確保するにした所で。こうなるといよいよ先じて竜侯の認可が必要だ。
 一商会は独自裁量で抱え込むには話が大きくなり過ぎる。――――商機来たれり、とは正にこの事だろう。

「――――アイリス、『湖都』のゲルダに手紙を。『竜』に面会を申し入れる」

 そして、優れた商人は自らが掴み得る機を決して見逃しはしない。

 ■

『黒鋼竜』ライゼンナクト侯爵領、領都――――『湖都』ラヴェルギア。竜邸一階最奥、謁見の間。
 王国貴族に二公在り。王家を担ぐ『白』、貴家を統べる『黒』。並べて王国の双璧と人の呼ぶ。

 かつてそう謳われていた一方。乱の責を負い降爵の憂き目に合った王国は『竜』の若き長――――こと。
『黒鋼竜』アルベイル・ライゼンナクトは、商人ギュミルが持って来たその“試作品”を前に。

 まるで面白い物を見たと言う様に瞳を細め、鷹揚に一度頷いた上でかくの如く応じた。

「率直に言って、興味深い提案である事は認めよう」

 普段であれば、その商品が如何に相手にとって有益な物かを弁舌滑らかに語っておかしくない場面。
 しかし、ギュミルは膝を付いた姿勢のままただ只管に続く言葉を待つのみだった。

 現在、施設稼働準備中の私塾、『紫政館』の発起人にして総責任者を兼任するアルベイルは多忙だ。
 領都に居ても常に某らの仕事を抱えている。先代より領の規模こそ狭まったとは言え、『竜』の領地は広い。

 “始まりの百家”に匹敵する歴史を持った領政は、良くも悪くも利権の坩堝だ。調整を怠れば衝突は免れない。
 未だ清濁併せ呑んだ先代の印象に引きずられがちな、領内有力者の支持を束ねるだけでも大事業なのである。

 適切に処理するには並ならぬ辣腕が必要だが、それとて『竜』ならば出来るのが“当たり前の水準”とされる。
 本来ならば。新米領主の身の上で更に並行して別の事業を抱えるなど、文字通り狂気の沙汰だと言えよう。

 余程。例えば領主業そのものに熟達した信用出来る家臣が身内に居る、などの極めて例外的状況を除き。
 彼個人に課せられ、正常に達成しなければ文字通り領民の生活に直接影響する判断事項は数限りない。

 其処に来て、家臣の縁者であるとは言えギュミルは“外様”の商人である。
 自家と結び付きの深い大商会を直下に抱える『竜』にとってその面会の優先順位は通常、必然的に低い。

 である以上、その数少ない機会で“利用価値”を見出されなければ商機が巡って来る事は無い。
 高位貴族の家を訪れる事が決して少ない訳でもないギュミルが、緊張を余儀なくされているのはその為だ。

「絵画の下書きに使う筆記具か。盲点だったが……確かにそれならば元々比較的安価な物なのだろう。
 だが量産性は担保出来るのか。そもそも現品を十分数買い付けるのにどの程度かかる」

「試算では三……いえ、二ヶ月頂ければ」

『王国』から見て『学術都市(ヴェルクリエ)』は遠い。旅程の準備まで考えた場合、二ヶ月では精々往復出来て二度。
 商談を取りまとめる時間と買い付けた結果の商品か、最悪契約書を持って戻ろうとするなら一往復。

 つまり、その期間ではたった一度の破談も見立て違いも赦されない綱渡りだと言う事にならざるを得ず。
 余りにリスキーな。恐らくこれまでのクライン商会であれば考え難い“危ない橋”に他ならない訳だが……

「学術都市(ヴェルクリエ)にはコネも販路もあるまい? 現地商人との衝突などは我らが望む所ではない。
 本当にその期間で確実に用立てられると、『竜』の眼下で宣言出来るか。ギュミル・クライン」

 何処の都市国家でも言える事ではあるが。学術都市には学術都市に属する商人が居る。
 そして商人の多くは自らの領分。縄張りを侵される事を酷く嫌う。大抵の場合益より損の方が多いからだ。

 初めての“仕入れ”には綿密な品質調査と価格交渉、販路確立、契約の精査と言った処務が膨大に発生する。
 慣れない土地柄ならばその土地の法規の把握から始めなければならない。時間は幾ら有っても足りない筈だ。

 淡々と、感情の色も無く“詰め”るアルベイルの指摘は鋭く、甘えを赦さない。だが……しかし、だ。
 ギュミルとて生ける伝説、『小さな巨人(リトルビッグマン)』と呼ばれる豪商である。商談で人後に落ちる気は更々ない。

「必ず、用意してみせましょう」

 胸に手を当て、笑みすら浮かべ頷く小人(ハーフリング)の顔に、最早当初の緊張の色は伺えなかった。

●その地平線の向こう側

 一方その頃、応接室では父親の動向に気が気でないゲルダが馴染みの女行商人とお茶に興じていた。

「父がアルベイル様に無礼を働いたりしないか心配で……」

「なるほど、御心痛まことにお察し致します」

「分かって……頂けますか?」

「ええそりゃあもう。行商人なんてしていれば、息子娘可愛さに物言いを付けて来る御父兄の多い事多い事。
 北に詐欺被害が起こればやって来て、同じ商品を扱っていたなんて理由で関係無いのに槍玉に上げ。
 南に喧嘩や訴訟が有れば見ていて止めなかったなんていちゃもんで、商談ひっくり返すのが名家の御家族って奴ですよ?」

「何ですかそれ恐い……そういう時はどうするんですか?」

「証文の写しを突き付けて慰謝料を請求するか、契約書の写しを突き付けて不平等契約を押し通します」

「何故全部写しなんでしょう……」

「目の前で破ろうとする馬鹿が絶えないからですよおおおおお! ばーかぶああああーっか!」

 明後日の方に向かって叫ぶシズルは随分と不平不満(フラストレーション)が溜まっている様だったが。
 流石に彼女の父親とてそういった、いわゆる怪物父兄(モンスター)ではないと信じてる。信じたい。多分大丈夫。

 けれど、かつて帰郷した際のやり取りを考えると。何かこう余計な一言をぽろっと漏らさないか。
 文字通り娘可愛さに“当人の自覚無く”何かとんでもない失礼を働かないかについてギュミルは全く信用がない。

 幾ら何でも、相手は今代の『竜』。その恐しさについては彼女以上に理解しているとは思うものの。
 いざ両親が自らの主と対面する。と考えるだけで意味不明な焦りと困惑を憶える事までは流石のゲルダにも避け難い。

 仕方なく、高級なお茶で唇を湿らせる。僅かな時間が引き延ばされて、随分長くこうして座っている様に感じるが。

「そう言えば、シズル様は御両親は?」

「あ、言ってませんでしたっけ。私孤児なんですよ。こう見えて『竜』領内の孤児院では一等優秀でして。
 かつては神童なんて呼び称されたりした物ですよぉ、凄くないですか?」

 にこにこと微笑んで応じる彼女の振る舞いからは、あまり重く受け止めないで欲しいと言う心遣いが強く伝わる。
 良し悪しはともかく、それを汲めるだけの洞察力を持つゲルダは。だからそっと触れない事に決めた。

 少なくとも。ゲルダにとって家族は紛れもなく、大切な物の一つだから。
 それを最初から持っていないと言う人の前で、そんなことを誇るべきではないことも、やはり分かるのだ。

「凄いですね、其処を先代に見込まれて『竜』へ?」

「いえいえ、お恥ずかしながら以前は少々調子に乗っていまして。色々やんちゃをした訳です。
 そうしたら勿論いつかはバレる訳で――――処刑される直前命を“買われた”わけですよ」

 そう言って、微笑む彼女はやはり商人だ。どう言ったら彼女が少し落ち着けるか。
 それをよくよく理解している。確かにそんな重い過去と比べれば、自分の心配などちっぽけにすら思える。

「だから大丈夫です。彼の『小さな巨人(リトルビッグマン)』は、私なんかめじゃない大商人なんですから」

 そう言って片目を閉じたシズルに対し感謝を込めて笑顔を返すと、壁に掛かった鳩時計が鳴いた。
 商談の時間が終わった事に気付いて席を立ち、慌てて駆け出すゲルダの背を女行商人が瞳を細め見送った。

 その眼差しは相も変わらずその人の振る舞いを測る様に。けれど、何処かに一抹の羨ましさを滲ませながら。

 ■

「アルベイル様に失礼な事とかしませんでしたか、お父様!」

「ゲルダは私の事を一体何だと思っているんだい……?」

 開口一番。放たれた愛娘からの一言は、彼の大商人をして肩を落とさせるに十分な破壊力を秘めていたが。
 少なくとも。もしも何某か商談に失敗していたとしたならこれ程の余裕は保っていられないだろう。

 ゲルダは自分の人を見る目を信じているし、何よりよくよく見知った父親の事でもある。
 どうにもやはり心配する程のことは無かったのだと。ゲルダがほっと安心するに足る反応だったとも言えた。

「今日はお休みを取ってますけど、これからどうするんですか?」

「何でそんなに他人行儀なんだゲルダちゃん。何時ものようにパパと呼んでも良いんだよ」

「何歳頃の話をしてるんですかお父様」

 連れ立って竜館を出た親娘は、街道に出るとアイリスの待つ宿へと足を向ける。
『湖都』の治安は『王国』内でも“良い方”ではあるが。授恵者でもない女の一人歩きを許すほどではない。

 元々家族に対して過保護の極みと言って良いギュミルである。商談の間は護衛を雇う計画も有ったが。
 これは他所の土地で無駄に周囲を騒がせたくはないとして、アイリスの側が固辞した。

 結果、宿泊に専属護衛が付いた高級宿の一室に待機。となったのは流石の落し所だと。
 ゲルダの中で母親の評価が上がった一方で、父親の評価がイマイチのままである事をギュミルは知らない。

「それで、商談の方は上手く運んだんですか」

「そうだね、今日初めて御目に掛かったが……中々に“厳しい”方だ。今の所及第点といった所だな」

 ギュミルにしては随分を抑えた表現に、ゲルダが思わず苦笑いを嚙み殺す。
 実の所、彼女が事前に散々父親の事を警戒するよう上申しなければもう少し高い評価を受け取れたかもしれない。

 けれど、ゲルダは少なくとも父親の商才に関しては信じていたし、主に迷惑を掛けるのも避けたい。
 さんざん悩んだ結果、折衷案として警告に留めた自分を褒めてあげたいくらいだった。

「だが切っ掛けは掴んだ」

「であれば、半分は終わったような物ですわね」

 穏やかな声は開かれた扉の向こう側。宿の待合場(ロビー)に腰掛けていたアイリスのもの。
 今日はこれからゲルダは非番を取ってあるし、クライン夫妻もまた先の商談以上の仕事も抱えてはいない。

 何せ、何が起きるか全く読めない『竜』との初対面である。流石の『小さな巨人』も最悪には備えている。
 もし不興を買ったなら即夜逃げする程度の構えはあって然るべき相手なのだ。最高位貴族などと言う物は。

「そう簡単な話でもない。ゲルダちゃんの雇い主の手前見栄を張ってしまったからな、明日からが大変だ」

「え……本当に大丈夫なんですかお父様、何であればわたしからアルベイル様に報告しておいた方が……」

「いや、私にも面子という物があってだな……大丈夫、大丈夫だから。パパを信じなさい」

「そういう所が信用出来ないんですが……」

 何故、娘が夫に対して矢鱈と辛辣なのか。そこの複雑な娘心は良く分からない物の。
 何にせよ親娘で言いたいことが言えるのは良い事に違いないと。微笑みながらアイリスが手を打ち合わせる。

「それじゃあ、折角だからこれからゲルダの護る街を案内して貰いましょうか」

「それは名案だ。お世話になっている人達に一言挨拶もしておかないとな」

「……えっと……何かサインとか頼まれていても、何も言わず見ないふりして下さいね」

「サイン!? ゲルダはもうそんな人気者なのか!? アイリスどうする。遂に時代が追い付いて来ているぞ……!?」

「あらあら……商品(グッズ)化も考えた方が良いのかしら?」

「すわ天才か……! 今すぐ予算を計上しよう」

「止めて下さい」

 冗談か本気かも分からないやりとりを続けながら、親子は笑いを交え大通りを歩いていく。
 それは彼ら家族が踏み出した、新しい一歩だと言って良いだろう。

 ■

 ギュミルが場を辞した謁見の間。侍女団が片付けた後の確認(チェック)をしながら『竜』の家令長。
 セバスティアンが書類を捲りながら黙考するアルベイルに声を掛けるのは、然程珍しい事でも無い。

「なかなか覚悟の決まった、今時珍しい良い商人ですな」

「ゲルダ・クラインの父親だ。最低限あの程度の器量は、持ち合わせて貰わねば困る」

 声に何処か薄く笑いの色が滲む。これがアルベイルが興味関心を憶えた相手を評する声音であると。
 長い付き合いである家令長は良く知っている。逆を返せば、彼の商人はその評価を上手く引き出した、と言う事だ。

 その一つだけを汲み取っても非凡と言えたろう。彼が自らの傘下以外の商人をここまで評価するのは。
 以前対面したエスト・ポーラの商会令嬢以来である。“上手く取り入った”と言うのも商人ならば誉め言葉だろう。

「ふむ……いずれはクライン商会に“三大商会”の名をお与えになる御積もりで?」

「どうだろうな。彼らがそれを望むのであれば考えないでも無いが、『竜』の名には利もあれば不利もある」

「左様に御座いますな。特に今代は若様の采配次第で、如何様にも荒れましょう」

 かつて先代『黒鋼竜』(ダミアン)が当主であった時代、家内で頼れるのは“絶対中立”であるセバスティアンだけだった。
 自らの支持層に弱みなど見せられないし、誰が対立派閥に属しているのかも分からない。それが『竜』だ。

 結果。彼のその誠実な仕事ぶりに信を置き、アルベイルは彼を家令長として先代より続けて使っている。
 その分、幼い頃の彼を知るセバスティアンからの距離も必然的に近しい物とならざるを得ない訳であるが。

「貴公はそう見るか。であれば貴族派の動きはどうだ」

「若様もご存知の通り、現状小康状態……と言った所でしょうな。
 少なくとも今の所は成否不明故の様子見。ですが今後、隙を見せれば存分に反発を示しましょう」

「……五年はどうにか保つか。長くとも十年を前に火が点くな」

「火を点ける、の間違いでは有りませんか。次は家が潰されましょう」

 徹底した実力主義を貫いたダミアン・ライゼンナクトが傍に置いた。と言う時点でその力量は知れた物。
『竜』の家令長はただの実務責任者ではない。“主の相談役”を兼ねる文字通り家門の屋台骨である。

 特に、抱えた事業に注力しがちな主に代わって派閥盟主としての組織内調整には彼の手も入っている。
 並の王国貴族よりも社交界に精通していなければ、その様な立場が務まる筈もない。

「俺は父(ダミアン)とは違う。自ら蜂起し後世に禍根を残す様な真似はしない。
 ……だが、この国の火種は未だ多い。特に“侯爵以上”の高位貴族の動向変化に注意を怠るな」

「は、仰せのままに」

 今現在、『竜』に恭順を示す家はその大半が穏健派筆頭である『夜鷹(ファルゲン)』侯爵家の管轄にある。
 だが一方で、『夜鷹』はアルベイルが提唱する『紫政館』構想に賛意を表明してはいない。

 これは同家が『集権派』へ移籍した“元貴族派”の貴族家にも影響力を持ち続けている為であるが。
 現『夜鷹』当主ジルワードはそれほど遠からず『校長』ではなく『学園長』と呼び称される事になるだろう。

 そうなった場合に。『貴族派』の内部勢力図がどう分断されるかについては未だ、予断を許す状況にない。
 場合によっては、過激派と穏健派以上の決定的断裂が生じる可能性を否定しきれない。

「まだまだ、描くべき絵図に果ては無し……か」

 竜杖を携えまだ見ぬ地平線へと向かう。その眼差しは遠く、遥か遠くを見つめるように。
 暁天は暗く、未だ陽射しの陰すら見えてはいない。けれどその傍らを歩む者も含め、既に退路は失って久しい。

 拓くべき未来の。その理想の叶うべきかは知れずとも、刻一刻と時は過ぎ行き、立ち止まる暇は無い。
 今はただ愚直に。進むべき道を定め一歩一歩積み上げる他無い。それが、未だ臨まぬ地平を超えると信じて。

『竜』のこれより長きに渡る戦いは、未だ、始まったばかりである。

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