【DA】リーンエスの耳
●変化
例えば、の話だ。
泥で汚れた手で、綺麗な宝石をその手で持ち上げるとする。
こんな時どうすれば宝石を汚さずに済むだろう。洗う、拭う、或いは擦り落とす。
布を被せたらどうだろう。いっそ他の人間に持ち上げて貰っては。手段は幾らもある。
けれどあくまで“汚れたまま”であることを前提とし、“その手で”持ち上げる事に拘るなら。
宝石は汚れる。綺麗なままではいられない。場合によっては泥と擦れて傷が付き、価値も落ちる。
ナハティガル=ラーは最近とみに考える。『王国』において。亜人 とは“汚泥”だ。
賤民。被差別種。代わりの効く命。知性を得た獣――――“ヒトならざる者”
例え。名も知れぬ祖神の加護を受けたことで、“ヒト”に含まれるようになったと言われても。
知識と経験が異なるよう。伝聞と実態が乖離するよう。事実は往々にして、感情や認知に優先されない。
“自分は穢れている”と、他の誰でもない。自分で認めてしまった者にとって。
“これからはヒトとして生きろ”と言うことがどれほど残酷な事か。全く、笑えない冗談だ。
生きるために罪もない無辜の人間を一山幾らで殺して来た者が、無辜を装い幸せに生きて良い物か。
少しでも、世間を知る者であれば誰もが一様にこう応えるに違いない。
罪は贖うべきであり、罰は苦痛と不幸を以て下されるべきだ――――と。
その点について、ナハティガルに異論はない。全面的に支持しても良いとすら考える。
でなければ、真実罪無く生きようとしている者たちに示しがつかない。
少なくとも、社会に。文化に。ヒトの世界に庇護されて生きて良い者とはそういう人種の筈。
――――それは断じて、自分ではない。
■
『王都』グランスパーダ――――表通り。
「御食事、ごちそうさまでしたっ!」
「いや……遅くなってしまったな。送ろう」
ナハティガルが先導するのを、盛装 姿の『天剣』ゲルダ・クラインが追いかけ、並ぶ。
食事を終えた後も随分と話し込んでしまったからだろう。日はすっかりと暮れ、それでも闇夜とは程遠い。
『王都』の夜とはそういう物だ。まるで何かに抗うように、夜の帳を拒むように。
ぼんやりと無数の街灯に照らされた薄明かりの下、男女2人で歩くとなれば多少周囲には気を使う。
『王国』最大の街の、更に最も大きな通りであろうとも。人通りは徐々にではあれ減って行く。
別邸を抱える貴族達は態々夜中に表通りまで出て来ない。そしてそれ以外の一期一会の人々はと言えば。
冒険者にせよ旅行者にせよ、逐一男女の2人連れ に注意を払ったりなどしない。
都市と言うのは大きさに比例して他者への関心を希釈していく。これもやはり、そういう物なのだろう。
ナハティガルは元々泥酔するほど飲むクチではないが。火照った頬を夏の風が撫でていく。
祝いの席に丁度良い心地の良い夜だった。強いて気を抜いた心算は無くとも、心は普段に無く穏やかに凪ぎ。
「――――銀髪鬼だな」
だからこそ。四頭立ての馬車が走る事すらある広い通りで、一人の男が眼前に立ちはだかった時。
彼は何処か納得と共に間髪入れず白顎 を抜いた。珍しい話では、ない。
対面でも抜き放たれた剣身が月光を照り返す。ダマスカス鋼、庶民が手にするのは中々困難な業物だ。
笑い話として流すには、手が込み過ぎている。
「弟の……敵――――!」
ナハティガルは殺して来た。大勢殺して来た。これまで幾つもの屍を自らの為だけに築いて来た。
そんな自分が、今だけまるで普通の冒険者の如く振る舞いたい等と。叶わぬ夢を見ても、虚しいだけだ。
男が誰だかなど知らない。“弟”とやらに心当たりもない。だが、恐らく殺したのだろう。
ナハティガルは一呼吸で距離を詰め、腕を軸に背を取ると横倒しの刃で急所を一突き。刺して、抜いた。
返り血すら殆ど無い。振り返るとゲルダも慌てて剣を抜いた所だった。傷はない。
そこまで確認し、ようやっと遅れて周囲から悲鳴が上がった。これでは遠からず巡回兵がやって来る。
「すまないが、野暮用が出来てしまったらしい。一人で帰れそうか」
「はい、あの。ナハティガル様、また……!」
ゲルダは何かを言い募ろうとしていたが、それを聞き届けていては彼女が巻き込まれる可能性がある。
ナハティガルは直ぐ様裏通りへの細道へ進路を変えると、ゲルダを置き去りに姿を晦ませる。
せっかくの祝宴の最後の最後のでケチが付いてしまったと。謝罪の念こそ心に浮かぶも。
その頃には既に、如何に状況を収拾するかの方に思考が向かう。何せこんな事はただの“日常”だ。
早足で入り組んだ裏通りを複雑に曲がりながら中空を仰ぐ。
或いは、以前であれば。今日の様なことがあれば“今すぐにでも距離を置くべきだ”と考えたに違いない。
いや、今でもその想いは心の何処かにある。だが同時に。それを一方的に決めるべきではない、とも思うのだ。
思えば。自分がそんな風に変わったのは一体いつからだったろうか――――
●破綻
北境武闘祭2週間前――――『王都』冒険者ギルド。
一つの仕事が終わり、報告を終え、未だ日が沈むには幾ばくかの猶予が有る。そんな時節。
「ナハティガル様、今日もお疲れ様でしたっ!」
そう、ゲルダが告げた声に。何処か物思いに沈んでいたナハティガルが顔を上げる。
視線が合うと、ゲルダは先ず一命に平静を装う。真っ正直に表情に出てしまいそうになるからだ。
彼女の父は大商人として知られる人物だが、ゲルダ当人は決して仮面を被るの が上手くはない。
今の自分の気持ちが伝わってはいないとは思うが。それとて隠し通せる自信が有る訳でなく。
「最近、俺達は良く2人で居るな」
だからこそ。ぽつりと呟いたナハティガルの言に。思い掛けずゲルダの心臓が跳ねる。
それはそうだ。まさか指摘が有るとは思わなかったが、少なくとも偶然ではない。
ゲルダがナハティガルと話がしたくて駆け寄っているのだから、当然自覚だってある。
「そ、うですね?」
もしかして迷惑だったろうか、と心中不安が浮かぶものの。意図が読めず首を傾げて先を促す。
もちろん、大丈夫ではない。心が頑丈だとか、精神が強いだとか方々で言われることもあるが。
少なくともゲルダ当人は普通の範疇だと思っているし、誰にせよ――――“好きな人は特別枠”だ。
「……今後は、距離を置いた方が良いのではないか」
だから破綻は、思いがけないほど呆気なく。突然訪れた。
■
3日後。ナハティガルへ送った手紙が受け取り拒否で手元に戻った時。
何となくの納得と共にその手紙を丁寧に折り畳んで引き出しへ戻し、寝台に伏せて少しだけ泣いた。
そうなるとは思っていた。ゲルダの想い人は、すると決めたら徹底するタイプだ。
どうして彼がそういう結論に至ったのかは知れずとも。曖昧な、その場限りの感情ではないだろう。
何かしらナハティガルなりの是非が有り、それが非に傾く理由があった筈。
そしてそれが“何なのか分からない”――――程度の関係性。それが、ゲルダの手を止めていた。
あの場で直ぐに、縋り付けば良かったのだろうか。泣き喚いて困らせるのが正しかったろうか。
けれど、ゲルダの過剰に強固な理性と良心は、それを“すべきでない”と判断を下してしまった。
足元が抜けたようにすら感じたのに、涙一つ出なかった。今更泣いても、誰も見ていないだろうに。
もう逢えないのかなと思うと、世界が少し昏くなった様だった。これと言った解決策も浮かばない。
いや、これも。言い訳だろう。ゲルダも自覚している悪い癖だ。
理屈を付けて感情を抑え込み、是非で判断して衝動を後回しにする。きっと、今のゲルダは、正しい。
けれど正しいだけだ。寂しい。痛い。苦しい。逢いたい。そういった気持ちは置き去りのまま。
それで良いのか――――と、以前問われた言葉がふと頭を過ぎった。あの時も、確かにそうだった。
本当に、今のままで良いのか。正しいだけの観測者で良いのか。善良な誰かで後悔しないか。
「……良くない」
良くない。良いわけがない。こんなのは臆病なだけだ。自分の弱さに理由を付けているだけ。
(だってわたしは、まだ――――何も)
気持ちに真正面から向き合ってみれば、今の状態に全く納得が行っていない自分が居た。
これがギルドの依頼なら、足掻いた筈だ。ギリギリまで、悪足掻きを模索した筈だ。
負ければ背に負った誰かが犠牲になると思えば、必死になって手段を手繰った筈だ。
これまでもそうして来た。であれば――――どうして今、そうしないのか。
寝台から跳ね起きると、意を決して私室から抜け出す。学園寮の門限までもうそれほど無い。
何処の宿を取っているかは知っているが、流石にそこまで素直には逢ってくれないだろう。
そして、手掛かりはあった。先の手紙は受取り手不在ではなく受取拒否で戻って来たのだ。
であれば、配達員がナハティガルを探している時間は殆ど無い。少なくとも未だ、『王都』に居る。
――――明日は、お説教を覚悟しなければいけないのかもしれなかった。
●再起
「――――見つけました」
「……ゲルダ……何故だ、門限はとっくに」
「はい、過ぎています。……過ぎているから、来たんですよね」
――――『王都』、冒険者ギルド。
日はすっかり暮れ、夜。冒険者も疎らで、依頼の受付もそろそろ閉まろうかという時間。
“距離を置く”という言葉を徹底するなら、冒険者で居続けるのは難しい。
今でなくとも、今後一体何処のギルドで偶発的遭遇が発生するか知れない。それは避けたい筈。
最悪他の街のギルドで手続きをする可能性も有ったが、ゲルダがナハティガルの宿の位置を知るように。
ナハティガルもまた、ゲルダの“学園生”としての生活サイクルを把握している。
そして冒険者ギルドの閉店時間は、学園寮の門限よりずっと遅い。
ギルドに張り付かれ捕捉されることを厭うなら、門限後に訪問すればほぼノーリスクだ。
其処まで考えて、懸命に頭を捻って、もしも間違っていたらという不安と戦って。
簡単ではなかった。全くちっとも簡単ではなかったけれど――――それでもゲルダは、賭けに勝った。
「恐いんですか?」
問いに、足を止めていたナハティガルが迷うのが分かった。
彼我の間には十分な距離がある。あるいは、もしも彼が踵を返し本気で撒こうと試みたなら――――
……恐らくゲルダは、都市内でナハティガルを捕らえる事は、出来ない。
「そっちは恐くないのか。いや……恐くないんだろうな。アンタは、俺とは違う」
「わたしだって恐いです。ナハティガル様はいつも“違う”ことばかりを言います。
違うなんて当たり前じゃないですか。わたしと貴方の知る世界は、どうしたって埋まりません」
ゲルダが一歩近付く。ナハティガルが、一歩退きそうになり、踏み止まった。
「そこまで分かっているなら、何故俺などに構う。分からないのか?
清流で生きてきた者と汚泥で生きてきた者が同じ場所に居れば、結局いずれも傷付くだけ――――」
「――――でも、今此処にいるじゃないですかっ!!」
上げた声に、道行く人々が驚いた様に振り返ったのが分かった。
羞恥で朱が射す。それでも、もう止まれない。今止まったら、きっと後悔すると確信出来た。
「わたしも、ナハティガル様も、此処に居るじゃないですか。
わたしの言葉が、――――想いが、貴方に届いてる。その事実が、わたしは、とても嬉しくて……!」
人前で。こんなに一生懸命何かを伝えようとするのなんて、いつ以来だろう。
学園生として、静かに過ごして来た数年間。こんなに感情に振り回された事なんて遂に無かった。
「違うから。わたしと、貴方は違うから! お互いに傷付くことだって、あるかもしれない。
それでも、わたしはその痛みごと受け止めたい……受け止めて、進みたくて、傍に居たんです!!」
一瞬。確かに圧倒されたナハティガルは、互いの距離があと数歩という所まで近付いていると気付く。
けれど、退かなかった。彼女の言葉は光に満ちて目も明けてはいられない。
「俺は――――大勢傷付け、殺し、踏み付けて来た。それを――――」
「受け止めます。どんなに違っても、離れていても、遠くても! 貴方がそれを望んでくれるなら!
償いたいなら、幾らでも手伝いますっ! だって――――」
そんな簡単な話ではないのだ。世界はもっと醜く、絶望に満ち、遥かに不条理で、残酷なのだから。
大切な者など抱えて生きてはいけない。出来ると慢心出来る程――――ナハティガルは、強くはない。
けれどであれば何故、もっと早く切り捨てなかったのか。その答えは出ないまま。
「――――こうして手を伸ばせば。今ならちゃんと、触れ合えるんですから」
――――汚れたその手を掴もうと伸ばされた指先は、確かに温かく。思うより、ずっと小さく。
「……そうかも、しれないな」
捕まえられた銀髪鬼は、年貢の納め時とばかりに力なく笑った。
■
例えば、の話だ。
既に壊れてしまったガラス細工を元通りに戻そうとしたとする。
強く触れれば余計に壊れてしまうし、時に自分の手の方を傷付ける。優しく触れては糊も付かない。
小さな鉄嘴で摘んではどうだろう。いっそ一度溶かして型に嵌め直せば。手段は幾らか浮かぶ。
けれどあくまで“壊れている”ことを前提とし、“元通り”である事に拘るとするなら。
それは不可能でなくとも極めて困難だ。貼り付けても、溶かして固めても、元と同じには戻らない。
であれば、傷付くことを恐れても何一つ前には進まない。進まないものなのだと言うならば。
必要なものは、傷付ける覚悟。傷付け、傷付こうと決して止めないという想いなのだろう。
――――裏通りを抜けると、朧気に瞬く街灯の光。
復讐者らしき者たちは全て“捌いた”と確認し、漸く息を吐くナハティガルの視界の先に。
まるで先回りしていたとでも言う様に、小さな影が。頼りないひらひらとした服装で佇んでいた。
「……女の一人歩きは危ないだろう」
「大丈夫です。わたし、殿堂入りですから」
何処と無く拗ねた様な声色でそう返されては、ナハティガルに最早応手などありはしない。
何より……恐らくは心配してくれたのだろうと思えば。一体どんな苦言が投げられよう。
「寮まで送ろう」
「はいっ!」
満面の笑顔はまるで夜を裂くが如く。そうした仕草の一つ一つから、住む世界の違いを思い知らされる。
けれど、差し出した手に置かれた掌はすぐ間近。思うほどには――――遠くはないのかもしれない。
かくて臆病者の銀鬼は、光輝く剣を持った少女騎士に捕縛され。御伽噺は一つの文句で幕を閉じる。
すなわち――――めでたしめでたし、と。
例えば、の話だ。
泥で汚れた手で、綺麗な宝石をその手で持ち上げるとする。
こんな時どうすれば宝石を汚さずに済むだろう。洗う、拭う、或いは擦り落とす。
布を被せたらどうだろう。いっそ他の人間に持ち上げて貰っては。手段は幾らもある。
けれどあくまで“汚れたまま”であることを前提とし、“その手で”持ち上げる事に拘るなら。
宝石は汚れる。綺麗なままではいられない。場合によっては泥と擦れて傷が付き、価値も落ちる。
ナハティガル=ラーは最近とみに考える。『王国』において。亜人 とは“汚泥”だ。
賤民。被差別種。代わりの効く命。知性を得た獣――――“ヒトならざる者”
例え。名も知れぬ祖神の加護を受けたことで、“ヒト”に含まれるようになったと言われても。
知識と経験が異なるよう。伝聞と実態が乖離するよう。事実は往々にして、感情や認知に優先されない。
“自分は穢れている”と、他の誰でもない。自分で認めてしまった者にとって。
“これからはヒトとして生きろ”と言うことがどれほど残酷な事か。全く、笑えない冗談だ。
生きるために罪もない無辜の人間を一山幾らで殺して来た者が、無辜を装い幸せに生きて良い物か。
少しでも、世間を知る者であれば誰もが一様にこう応えるに違いない。
罪は贖うべきであり、罰は苦痛と不幸を以て下されるべきだ――――と。
その点について、ナハティガルに異論はない。全面的に支持しても良いとすら考える。
でなければ、真実罪無く生きようとしている者たちに示しがつかない。
少なくとも、社会に。文化に。ヒトの世界に庇護されて生きて良い者とはそういう人種の筈。
――――それは断じて、自分ではない。
■
『王都』グランスパーダ――――表通り。
「御食事、ごちそうさまでしたっ!」
「いや……遅くなってしまったな。送ろう」
ナハティガルが先導するのを、盛装 姿の『天剣』ゲルダ・クラインが追いかけ、並ぶ。
食事を終えた後も随分と話し込んでしまったからだろう。日はすっかりと暮れ、それでも闇夜とは程遠い。
『王都』の夜とはそういう物だ。まるで何かに抗うように、夜の帳を拒むように。
ぼんやりと無数の街灯に照らされた薄明かりの下、男女2人で歩くとなれば多少周囲には気を使う。
『王国』最大の街の、更に最も大きな通りであろうとも。人通りは徐々にではあれ減って行く。
別邸を抱える貴族達は態々夜中に表通りまで出て来ない。そしてそれ以外の一期一会の人々はと言えば。
冒険者にせよ旅行者にせよ、逐一男女の2人連れ に注意を払ったりなどしない。
都市と言うのは大きさに比例して他者への関心を希釈していく。これもやはり、そういう物なのだろう。
ナハティガルは元々泥酔するほど飲むクチではないが。火照った頬を夏の風が撫でていく。
祝いの席に丁度良い心地の良い夜だった。強いて気を抜いた心算は無くとも、心は普段に無く穏やかに凪ぎ。
「――――銀髪鬼だな」
だからこそ。四頭立ての馬車が走る事すらある広い通りで、一人の男が眼前に立ちはだかった時。
彼は何処か納得と共に間髪入れず白顎 を抜いた。珍しい話では、ない。
対面でも抜き放たれた剣身が月光を照り返す。ダマスカス鋼、庶民が手にするのは中々困難な業物だ。
笑い話として流すには、手が込み過ぎている。
「弟の……敵――――!」
ナハティガルは殺して来た。大勢殺して来た。これまで幾つもの屍を自らの為だけに築いて来た。
そんな自分が、今だけまるで普通の冒険者の如く振る舞いたい等と。叶わぬ夢を見ても、虚しいだけだ。
男が誰だかなど知らない。“弟”とやらに心当たりもない。だが、恐らく殺したのだろう。
ナハティガルは一呼吸で距離を詰め、腕を軸に背を取ると横倒しの刃で急所を一突き。刺して、抜いた。
返り血すら殆ど無い。振り返るとゲルダも慌てて剣を抜いた所だった。傷はない。
そこまで確認し、ようやっと遅れて周囲から悲鳴が上がった。これでは遠からず巡回兵がやって来る。
「すまないが、野暮用が出来てしまったらしい。一人で帰れそうか」
「はい、あの。ナハティガル様、また……!」
ゲルダは何かを言い募ろうとしていたが、それを聞き届けていては彼女が巻き込まれる可能性がある。
ナハティガルは直ぐ様裏通りへの細道へ進路を変えると、ゲルダを置き去りに姿を晦ませる。
せっかくの祝宴の最後の最後のでケチが付いてしまったと。謝罪の念こそ心に浮かぶも。
その頃には既に、如何に状況を収拾するかの方に思考が向かう。何せこんな事はただの“日常”だ。
早足で入り組んだ裏通りを複雑に曲がりながら中空を仰ぐ。
或いは、以前であれば。今日の様なことがあれば“今すぐにでも距離を置くべきだ”と考えたに違いない。
いや、今でもその想いは心の何処かにある。だが同時に。それを一方的に決めるべきではない、とも思うのだ。
思えば。自分がそんな風に変わったのは一体いつからだったろうか――――
●破綻
北境武闘祭2週間前――――『王都』冒険者ギルド。
一つの仕事が終わり、報告を終え、未だ日が沈むには幾ばくかの猶予が有る。そんな時節。
「ナハティガル様、今日もお疲れ様でしたっ!」
そう、ゲルダが告げた声に。何処か物思いに沈んでいたナハティガルが顔を上げる。
視線が合うと、ゲルダは先ず一命に平静を装う。真っ正直に表情に出てしまいそうになるからだ。
彼女の父は大商人として知られる人物だが、ゲルダ当人は決して仮面を被るの が上手くはない。
今の自分の気持ちが伝わってはいないとは思うが。それとて隠し通せる自信が有る訳でなく。
「最近、俺達は良く2人で居るな」
だからこそ。ぽつりと呟いたナハティガルの言に。思い掛けずゲルダの心臓が跳ねる。
それはそうだ。まさか指摘が有るとは思わなかったが、少なくとも偶然ではない。
ゲルダがナハティガルと話がしたくて駆け寄っているのだから、当然自覚だってある。
「そ、うですね?」
もしかして迷惑だったろうか、と心中不安が浮かぶものの。意図が読めず首を傾げて先を促す。
もちろん、大丈夫ではない。心が頑丈だとか、精神が強いだとか方々で言われることもあるが。
少なくともゲルダ当人は普通の範疇だと思っているし、誰にせよ――――“好きな人は特別枠”だ。
「……今後は、距離を置いた方が良いのではないか」
だから破綻は、思いがけないほど呆気なく。突然訪れた。
■
3日後。ナハティガルへ送った手紙が受け取り拒否で手元に戻った時。
何となくの納得と共にその手紙を丁寧に折り畳んで引き出しへ戻し、寝台に伏せて少しだけ泣いた。
そうなるとは思っていた。ゲルダの想い人は、すると決めたら徹底するタイプだ。
どうして彼がそういう結論に至ったのかは知れずとも。曖昧な、その場限りの感情ではないだろう。
何かしらナハティガルなりの是非が有り、それが非に傾く理由があった筈。
そしてそれが“何なのか分からない”――――程度の関係性。それが、ゲルダの手を止めていた。
あの場で直ぐに、縋り付けば良かったのだろうか。泣き喚いて困らせるのが正しかったろうか。
けれど、ゲルダの過剰に強固な理性と良心は、それを“すべきでない”と判断を下してしまった。
足元が抜けたようにすら感じたのに、涙一つ出なかった。今更泣いても、誰も見ていないだろうに。
もう逢えないのかなと思うと、世界が少し昏くなった様だった。これと言った解決策も浮かばない。
いや、これも。言い訳だろう。ゲルダも自覚している悪い癖だ。
理屈を付けて感情を抑え込み、是非で判断して衝動を後回しにする。きっと、今のゲルダは、正しい。
けれど正しいだけだ。寂しい。痛い。苦しい。逢いたい。そういった気持ちは置き去りのまま。
それで良いのか――――と、以前問われた言葉がふと頭を過ぎった。あの時も、確かにそうだった。
本当に、今のままで良いのか。正しいだけの観測者で良いのか。善良な誰かで後悔しないか。
「……良くない」
良くない。良いわけがない。こんなのは臆病なだけだ。自分の弱さに理由を付けているだけ。
(だってわたしは、まだ――――何も)
気持ちに真正面から向き合ってみれば、今の状態に全く納得が行っていない自分が居た。
これがギルドの依頼なら、足掻いた筈だ。ギリギリまで、悪足掻きを模索した筈だ。
負ければ背に負った誰かが犠牲になると思えば、必死になって手段を手繰った筈だ。
これまでもそうして来た。であれば――――どうして今、そうしないのか。
寝台から跳ね起きると、意を決して私室から抜け出す。学園寮の門限までもうそれほど無い。
何処の宿を取っているかは知っているが、流石にそこまで素直には逢ってくれないだろう。
そして、手掛かりはあった。先の手紙は受取り手不在ではなく受取拒否で戻って来たのだ。
であれば、配達員がナハティガルを探している時間は殆ど無い。少なくとも未だ、『王都』に居る。
――――明日は、お説教を覚悟しなければいけないのかもしれなかった。
●再起
「――――見つけました」
「……ゲルダ……何故だ、門限はとっくに」
「はい、過ぎています。……過ぎているから、来たんですよね」
――――『王都』、冒険者ギルド。
日はすっかり暮れ、夜。冒険者も疎らで、依頼の受付もそろそろ閉まろうかという時間。
“距離を置く”という言葉を徹底するなら、冒険者で居続けるのは難しい。
今でなくとも、今後一体何処のギルドで偶発的遭遇が発生するか知れない。それは避けたい筈。
最悪他の街のギルドで手続きをする可能性も有ったが、ゲルダがナハティガルの宿の位置を知るように。
ナハティガルもまた、ゲルダの“学園生”としての生活サイクルを把握している。
そして冒険者ギルドの閉店時間は、学園寮の門限よりずっと遅い。
ギルドに張り付かれ捕捉されることを厭うなら、門限後に訪問すればほぼノーリスクだ。
其処まで考えて、懸命に頭を捻って、もしも間違っていたらという不安と戦って。
簡単ではなかった。全くちっとも簡単ではなかったけれど――――それでもゲルダは、賭けに勝った。
「恐いんですか?」
問いに、足を止めていたナハティガルが迷うのが分かった。
彼我の間には十分な距離がある。あるいは、もしも彼が踵を返し本気で撒こうと試みたなら――――
……恐らくゲルダは、都市内でナハティガルを捕らえる事は、出来ない。
「そっちは恐くないのか。いや……恐くないんだろうな。アンタは、俺とは違う」
「わたしだって恐いです。ナハティガル様はいつも“違う”ことばかりを言います。
違うなんて当たり前じゃないですか。わたしと貴方の知る世界は、どうしたって埋まりません」
ゲルダが一歩近付く。ナハティガルが、一歩退きそうになり、踏み止まった。
「そこまで分かっているなら、何故俺などに構う。分からないのか?
清流で生きてきた者と汚泥で生きてきた者が同じ場所に居れば、結局いずれも傷付くだけ――――」
「――――でも、今此処にいるじゃないですかっ!!」
上げた声に、道行く人々が驚いた様に振り返ったのが分かった。
羞恥で朱が射す。それでも、もう止まれない。今止まったら、きっと後悔すると確信出来た。
「わたしも、ナハティガル様も、此処に居るじゃないですか。
わたしの言葉が、――――想いが、貴方に届いてる。その事実が、わたしは、とても嬉しくて……!」
人前で。こんなに一生懸命何かを伝えようとするのなんて、いつ以来だろう。
学園生として、静かに過ごして来た数年間。こんなに感情に振り回された事なんて遂に無かった。
「違うから。わたしと、貴方は違うから! お互いに傷付くことだって、あるかもしれない。
それでも、わたしはその痛みごと受け止めたい……受け止めて、進みたくて、傍に居たんです!!」
一瞬。確かに圧倒されたナハティガルは、互いの距離があと数歩という所まで近付いていると気付く。
けれど、退かなかった。彼女の言葉は光に満ちて目も明けてはいられない。
「俺は――――大勢傷付け、殺し、踏み付けて来た。それを――――」
「受け止めます。どんなに違っても、離れていても、遠くても! 貴方がそれを望んでくれるなら!
償いたいなら、幾らでも手伝いますっ! だって――――」
そんな簡単な話ではないのだ。世界はもっと醜く、絶望に満ち、遥かに不条理で、残酷なのだから。
大切な者など抱えて生きてはいけない。出来ると慢心出来る程――――ナハティガルは、強くはない。
けれどであれば何故、もっと早く切り捨てなかったのか。その答えは出ないまま。
「――――こうして手を伸ばせば。今ならちゃんと、触れ合えるんですから」
――――汚れたその手を掴もうと伸ばされた指先は、確かに温かく。思うより、ずっと小さく。
「……そうかも、しれないな」
捕まえられた銀髪鬼は、年貢の納め時とばかりに力なく笑った。
■
例えば、の話だ。
既に壊れてしまったガラス細工を元通りに戻そうとしたとする。
強く触れれば余計に壊れてしまうし、時に自分の手の方を傷付ける。優しく触れては糊も付かない。
小さな鉄嘴で摘んではどうだろう。いっそ一度溶かして型に嵌め直せば。手段は幾らか浮かぶ。
けれどあくまで“壊れている”ことを前提とし、“元通り”である事に拘るとするなら。
それは不可能でなくとも極めて困難だ。貼り付けても、溶かして固めても、元と同じには戻らない。
であれば、傷付くことを恐れても何一つ前には進まない。進まないものなのだと言うならば。
必要なものは、傷付ける覚悟。傷付け、傷付こうと決して止めないという想いなのだろう。
――――裏通りを抜けると、朧気に瞬く街灯の光。
復讐者らしき者たちは全て“捌いた”と確認し、漸く息を吐くナハティガルの視界の先に。
まるで先回りしていたとでも言う様に、小さな影が。頼りないひらひらとした服装で佇んでいた。
「……女の一人歩きは危ないだろう」
「大丈夫です。わたし、殿堂入りですから」
何処と無く拗ねた様な声色でそう返されては、ナハティガルに最早応手などありはしない。
何より……恐らくは心配してくれたのだろうと思えば。一体どんな苦言が投げられよう。
「寮まで送ろう」
「はいっ!」
満面の笑顔はまるで夜を裂くが如く。そうした仕草の一つ一つから、住む世界の違いを思い知らされる。
けれど、差し出した手に置かれた掌はすぐ間近。思うほどには――――遠くはないのかもしれない。
かくて臆病者の銀鬼は、光輝く剣を持った少女騎士に捕縛され。御伽噺は一つの文句で幕を閉じる。
すなわち――――めでたしめでたし、と。
assignment【DA】史実ノベル 関連特設ページ
メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。