【DA】リーンエスの耳

レティシア・レインフィール/ ガレス・コーニッシュ

『ノベルタイトル:移り白、雨後の月』弓月 蒼
●痕

 手元には、ただ喪失だけが残った。

●白月夢

『夜に咲く白月』レティシア・レインフィールは最近つける様になった手帳に視線を落とす。
 其処には、後天的令嬢教育の賜物と言うべき几帳面な文字で予定がびっしりと綴られている。

 胸中には形を伴わない焦燥と、空虚が入り交じる。思考は只管に空回りを続けていた。
 時針が重なり重々しい音が響く。幼い頃、その音が恐ろしくどうにも苦手だった事を思い出す。

 不意に動かした手の甲が、淹れたばかりの陶杯(カップ )に当たり無慈悲に倒す。
 既に冷めた琥珀色の液体が机に延びていき、端から滴って落ちた。

 それを呆と目の当たりにしながら、手は胸ポケットへ伸び。摘んだ布の感触に震えるように立ち上がる。
 掌から、白い手巾(ハンカチ )が滑り落ち、慌てて両手でそれを拾うと唇を噛んで俯く。

 ――――情けない?

 膝を付き、床に座り込んだきり身動きが取れない。次に何かやる事がないと、何も出来ない。
 出来ない。何も出来ない。まるでそれを責められている様に、震える唇を無理矢理引き絞る。

 泣く権利も、気力も無い。だって何もかもを溢して来た。何一つ拾い上げられなかった。
 親しい友達の孤独も、救えた筈の女性の命も、捨てさせてしまった未来も、全部。全部。

 予定が無くなれば動けなくなる確信が有った。償いになるなら命だって喜んで捧げたろう。
 まるでずっと、ずっと悪い夢を見ている様で。何もかもまるで現実感がない。

 ――――苦しい?

 実家に帰れば、仕事がある。貴族令嬢として、日々すべきことがある。
 まるで逃げるよう。或いは、本当に逃げて来たのだろうか。もう動機すら定かではない。

 いつもの定期報告のつもりで。その実本当は、無責任に全て放り出したかったのだろうか。
 分からない。分からない。分からない分からない分からない。

 ただ、思考は何一つ形を得ず。地面に溢れた液体をじっと見つめたままで微動だに出来ない。
 また溢れていく。力が無くて。何も出来なくて。ああ、また溢れていく。

 ――――助けて欲しい?

 脳裏に浮かんだ問に、可笑しな衝動が込み上げて来るのが分かった。
 助けて? 誰に? 誰がこんな――――誰の役にも立たない女を助けてくれるというのでしょう。

 無力なだけならまだともかく、壊すことしか。失くすことしか。台無しにすることしか、出来なくて。
 それなのに都合の良い時だけ救いを求める。惨めで。生き汚い。無価値な私を?

 誰も助けられなかったのに、自分だけは助けて欲しいだなんて。何て浅ましい。
 ああ、間違いだった。やっぱり間違いだった。あの時、私だけが生き残ったのは間違いだった。

 ――――そこまで分かってるのに、どうして。

「……て」

 どうして、私は未だ生きているのでしょうか。

 ■

 雨が降っていた。しとしとと、雨音が近く、遠く響く。
 最寄りの街の冒険者ギルドまで出向き、話を聞いては帰る。勿論、特に何も変化はない。

 何の成果が得られるでもなく。どころか、何か目的がある訳でもなく。
 まるで人形か何かの様に、ギルドで今の仕事を確認しては視線を落とし、家へ戻る為に馬車を待つ。

 レティシアは、実家に帰ってから毎日のようにそんな事を続けていた。
 何かをしている気持ちになれる。ただそれだけの、気休めでしかない習慣作業(ルーティーン )。

 無駄な時間。無価値な浪費。焦燥感だけが心を乱す。何も得られない繰り返し。
 だからだろうか。先ず彼女はその人影が隣で傘を差し出した時、最初に自分の現実をこそ疑った。

 “彼”は今、傭兵として日々を忙しなく生き、多くの人々を救っている筈。

「濡れますよ」

 黙って見上げるレティシアに、差し出された傘は黒一色。纏った正装(タキシード )も、黒一色。
 強いて言えば珍しく“彼”が槍を背負っていないことが不思議だった。

「……え」

 数拍以上の空白があった。その間、飽きもせずじっと見上げるレティシアに。
 微動だにせず傘を差し出したまま、自らの正装を濡らして行く姿が不意に――――確かな像を結んだ。

 律儀な人だった。誠実な人だった。けれど、見た目ほどには生真面目とは言い難い人だった。
 優しい人だった。意地悪な人だった。けれど、とても危なっかしくて、放っておけない人だった。

「傘を、受け取って頂けると予備が取り出せるのですが」

 なんで、とか。どうして、とか。きっと、本当はもっと沢山の言葉が有った筈だ。
 貴方の方が濡れてます、とか。せめて予備から渡して下さい、とか。

 もっと。もっと。もっと。もっと――――きっと、言葉に出来ないほど沢山の。
 けれど何も出て来なかった。何も拾えなかったから。何も返せないから。何も、渡せないから。

 だから。

「ガレ……ス、様」

「はい。今日はまた、一段と顔色が白く在らせられる」

 名前を呼んだら、消えてしまうのではないか。全部夢で、今も自室の寝台の上なのではないか。
 恐怖を押し殺して必死に声を紡いだというのに。その黒一色の青年は、困ったように笑ってそう応えた。

 そんな、レティシアではどう足掻いても浮かんでこない――――意地悪で応じて来るものだから。
 これが夢でも、幻でもない。まるで嘘のような本物だと、もう。認めない訳にはいかなかった。

 ■

「なるほど、良い案ですね」

「――――良い案ですね、ではないです……っ!」

 ずっと雨の中傘を差し出していたガレスは当然の様に濡れ鼠となっていた。
 何故、予備の傘があるのに予備の方を差し出さなかったのか疑問は絶えないものの。

 彼が天然で自分事を後回しにしたお陰で、自分の心中に沈み込んでいる訳にもいかず。
 とは言え流石のレティシアも、仕事でもないのに日常的に手拭(タオル )を持ち歩いたりはしていない。

 天候の影響もあって、冒険者ギルド併設の酒場が殆ど開店休業状態だったのは僥倖だった。

「過日、貴女のお話を御聞きするとの約定を果たしに参りました」

 かくて、借り受けた手拭(タオル )で髪を拭っていた黒い青年だが。
 何故彼がこんな所に、と言う問を投げる機会は至極あっさりと。そして永遠に失われた。

 恐らく、それほど酷い顔色だったのだろうとは察するも。思えば少なからず自覚は有る。
 最近、自分がどう生活して来たか。はっきりと語れる事が何も無い。

 それは改めて考えてみれば信じ難い位に、自分の行動を自分が管理出来ていない証左と言えた。
 それでいて、自分では毎日同じ様に生活していた心算なのだから恐怖しか無い。

 バツが悪そうに黙り込んだレティシアを見て、ガレスの視線が殊更細くなるも。
 今彼女が抱えている事情を鑑みれば、自分語りの方が幾らか気持ちが楽なのもまた、事実。

 勿論、いずれ“彼女の死”については伝え、どんな罵倒も甘んじて受け入れよう。
 けれど、これで最後なら。せめてほんの少しの時間だけでも以前の様に言葉を交わしたかった。

 (……縋って、甘えて――――本当に、情けない)

 自虐の言葉なら幾らでも浮かぶ。それでも、約束は約束だからと。
 言い訳に言い訳を被せながら、血塗れの。ただ失くして、失くして、失くし続けた半生を語る。

 そうだ。思えば何も得られたことなんて無い。何となく感謝されたことはあっても。
 ただ与えられた物を受け取っていただけで、傍に居て欲しいと心から願った人は皆、離れて行った。

 なのにどうして――――彼はこんな。益体もない女の昔話など知りたいのだろうと。
 頭の片隅で浮かび上がろうとするそんな問には、そっと蓋を被せながら。

●遣らずの雨

 語り始めた時は昼前だった筈が、気付けば時針が三周巡っていた。
 顔見知りの、酒場の店主が差し入れてくれたお茶は温かく。漸く。ほう、と一息吐く。

 その間。幾らかの相槌以外は聴くに徹していた青年は、レティシアのその様を見て僅か視線を落とす。
 当の彼女自身はと言えば。最早刑台を一歩ずつ上がる死刑囚の心境に至っている。

 刻一刻と迫る別れ。これ以上彼の時を浪費させても仕方がない……と。
 漸く固まりつつあった筈の覚悟は、不意に上向いた眼差し。そして続いたガレスの言葉で霧散した。

「……では」

 ――――なんて。

「次は、自分の話を聞いて貰えますか」

 なんて瞳で、問うのだろう。

「俺は、一夜の過ちで生まれた不義の子です。それでも、母には未練があったのでしょうね。
 或いは少しでも近くに居たかったのか。物心付いた頃は下町で、喰うや喰わずの生活をしていました」

「母は世間知らずの。苦労知らずの女性でした。心が何処か、地に足を付けていなかった。
 生きるに向かない。騙されやすく絆されやすい、弱い女性。それでも、俺は好きでした……だから」

 ――――ずっと“どうして”という気持ちがありました。
 その言葉の向こうに、土砂降りの中佇む冷えた目の子供を幻視する。

「母は、決して父を悪く言いませんでした。だから尚更納得が行かなかった。
 いえ……これは言い訳ですね。俺はただ、あの人だけが傷付き続けていることが、嫌だった」

「ある日、白一色で清められた様な城壁近くまで意を決して行ってみたんです。
 格子から覗く中庭はまるで夢物語の舞台で。聞いていた妹は、両親に愛されとても幸せそうでした」

 傷付いて、来たのだろう。隠し続けて、来たのだろう。誰にも話さないで、来たのだろう。
 視線が交わった一瞬で、レティシアにはその痛みを察するに余りあった。

「嫉妬しました。憎しみすら抱いた。その光景がずっと忘れられませんでした。
 問い糾したかった。お前が棄てて来た物が今どんな場所を這い蹲って生きているか知っているか、と」

「子供でした。貴族の何たるかも知らない、愚かで、浅はかな。
 本当はただ確かめたかったのだと思います。どうしても、父に。それでも俺は……」

 “望まれて生まれてきたのか”

 ■

 息が止まるような静寂があった。呼吸の音が、いつもよりずっと大きく聞こえた。
 自分の瞳が揺れるのが分かった。耐えないと――――と、唇を強く噛む。

「だから、試しました。幸いその筋のツテには事欠かなかった。
 貴族を一方的に恨んでいる人間は少なくない。俺には一度だけ使える切り札(ジョーカー )もあった」

「母の名で、父を呼び出しました。軽く痛めつけるだけだと聞いていた。
 けれど複数の誤算が重なりました。メドゥの指先が一枚噛んでいたと知ったのは、随分後の話です」

「父は、俺を庇って特殊な毒にやられ、生死を彷徨った挙げ句二度と立てなくなりました。
 妹の母親は今も自責で心を病んだまま。俺が、妹の命を救えたのもただの間の悪い偶然でしかなく」

「――――……どうして」

 どうして、貴女が泣くのですか、と。彼は心から不思議そうに問い掛けた。
 そうだ。辛かったのも、苦しかったのも、痛かったのも、この人で。自分では、ない。

 それでも、呑まれるように心が揺さぶられるのが分かった。だって、そんな酷い問はない。
 失くしてきた。ずっとずっと失くしてきた。掬えず、救えず、溢して来た。

 けれど、それでも。自分が愛されて、求められて、此処に在る事を疑ったことだけは、無い。
 大好きだった。大切だった。だから一緒に居たかった。居られないなら連れて行って欲しかった。

 ――――それを。それだけは、疑ったことはない。
 例え、此処に在る事が。生き残ってしまった事がそもそもの“間違い”だったとしても。

 そんな事を疑わなければいけないのだとしたら、誰かが悪いに違いないのに。
 彼は手段を誤ったのかもしれない。方法を間違えたのかもしれない。失敗したのかもしれない。

 けれど、何でそんな子供がずっと――――命の全てを贖罪に捧げ続けないといけないと言うのだろう。
 そんな人から、私は。

 私が、家族のような人まで奪ってしまったとしたなら。


「アストリッド様を、救えませんでした」

 漸く紡ぎ出せた一言は。彼女が自分自身に下せる唯一の断罪だった。

 ■

 息を吐き、空を仰ぐように視線を上向けたガレスから、感じ取れたのは何かしらの納得だった。
 騎士。それも、北方辺境の騎士とは護国の為、最前線で命を削る事を生業とする者。

 レティシアの中にも、それは知識として存在していたが。予期せぬその反応に戸惑いが先に立つ。
 彼がどれほど、あの場所に。あの自由闊達とした女騎士に心を許していたか、知っていればこそ。

「……そうですか」

 漏らしたその一言に。レティシアは、自分が心の均衡を崩していることをやっと自覚した。

「……何で、ですか」

 冒険者になって、気持ちを押し殺すのも上手くなった。普段なら呑み込めたろう。
 貴族は感情を表に出さないもの。心の機微を晒せば隙を点かれるし作法にも反する――――なんて。

「期待していないからですか」

 そんな、何もかもがどうでも良くなる程に、全てが全て赦せなかった。

「私には分不相応な望みだと思っていたからですか」

 どうしてだろう、気持ちが抑えられないのは。自分で、自分が止められないのは。

「いえ、違「分かっています、そんなこと誰より私が一番分かっているんですでも何とかしたかった!」

 一度回りだした歯車は、明滅する視界と共に感情の枷という枷を破綻させる。
 軋む音が聞こえた。それは心の。或いは理性の。ずっと、ずっと、無意識が抑えていたものが、溢れる。

「私はその場に居ました。助けられた筈、救えた筈なんです! でも何も出来ませんでした!
 貴方の居場所も、貴方の大切な人も、貴方を救った主も、全部奪ってしまった! 私が――――!!」

「レインフィールど「家名で呼ばないで下さい!!!」

 ――――一体、いつ以来だろう。こんな風に激したのは。
 言っていることはまるで滅茶苦茶で、自分でももう良く分からない。けれど、ただ哀しかった。

 諦めることに慣れ切っているこの人が。どれほど失くしても泣けないこの人が。
 自分のことを責めてさえくれないことが。大人ぶって、自分を偽って、納得しようとしていることが。

 それ位なら裁いてくれた方が。罰を下してくれた方がずっと良かった。
 そうすれば、彼の中で。大切な主と、妹と、戦友と、その次くらいには記憶に残れるかもしれないと。

 ああ、何でそんな。馬鹿なことを思ってしまったのだろう。分かっていたのに。
 折角約束を果たしに来てくれたのに、まただ。全部、全部。

 ――また――――台無しに、して――――――しま――――――――

●八十八夜

「……以前も伝えましたが。俺は、貴女に何も奪われてなどいません」

 不意に落ちた沈黙の中。一頻り考え込んだ末。彼は先ず其処から切り出す事にした。
 彼女――レティシア――が、此度の事を事更に気に病んでいたのだろうこと。

 重圧に押し潰されそうになりながらも、約束を果たす為に自分に付き合ってくれたのだろうこと。
 そういった事はある程度汲んだ上で、加えてその心身の不調にも気付いていた。

 少なくとも、久々に顔を合わせて直ぐに察せる程度には。彼女の顔色は蒼白に過ぎた。
 元々色白で加えて曇天であるにせよ、それだけで片付けられないほどに。

 とは言え。元々異性と対面で何かをする。と言う経験には乏しい身。
 此度のように激した女性を諌める術など心当たりも無く。結局、彼としては誠実に応じる他はない。

「そして、貴女が俺の失態を気に留めて尽力してくれた事も分かっている心算です。
 ですから感謝こそあれ、貴女に非などある訳がなく。その……先日は、少し言い過ぎました」

 そうして、彼は漸く酒場の主人から出されたほんのりと温かなお茶に唇を付ける。
 騎士の頃の癖が抜け切って居らず、こういった店から出される飲食物はつい警戒してしまうが。

 傭兵となった今、市井に馴染む事も大切なことなのだとこの数ヶ月で学んでいる。
 はたして此方の地方性だろうか。果実の風味が混じる珍しいお茶だったが。

「アストリッドさんについては、思う所がないと言えば嘘になります。
 ですが同時に……自分の知る彼女であれば。悼む暇があるなら、もっと強くなれと言うでしょう」

 護りたい者を護れるように。そう締め括ると、改めて。
 ガレスは腰に括っていた革袋を机の上へと置く。どちらかと言えば、此方が今日の本題だ。

 俯き、落ち込んだ風のレティシアを一瞥すれば。何と間の悪い男だと自嘲しないでもないが。

「……如何せん、無精者につき貴女を元気付ける当ても無いのですが。
 落ち着いたら、手紙でもお送りすると……こちらも、約束しましたので」

 差し出したのは一包みの封筒。特別な材質ではないが、表には黒槍を模した刻印。
 それに文を認めて冒険者ギルドを通せば、自分へと届くと告げては暫し。

「地盤は整えました。例え何処に居ても、貴女の文は自分に届く筈です。
 貴女の心を護るには、余り甲斐がないかもしれませんが。意思は示さねば伝わりませんから」

 さて。そこに来て、ようやくガレスも何かおかしいと気が付いた。
 俯いた様に見えていたレティシアは、よく観察すれば完全に目を閉ざしているし。すぅすぅ寝息もする。

 改めてお茶に唇を寄せてみれば、どうも僅かに蒸留酒(ブランデー )の香り。

「――――レティシア殿?」

 そして、傭兵となったガレスには――――“酒気で身体を温める”という文化に心当たりがあった。

 ■

 ――――

 ――――――――

 ――――――――――――揺れていた。

 ゆらゆら。ぐらぐら。揺れていた。緩やかに、けれど確かに。雨音は、既に小さく、遠く、遠く。
 ……寒い。濡れた手を、何も掴めない手を、握る。

 “ああ――――――これは――――――……駄目、ですね”

 遠く、遠く、声。世界はゆらゆら。それとも、ふわふわ。皮の感触。仄かに温かな人の気配。
 ぐっと強い力に引っ張られて、身体が浮き上がるような。何処か不安を煽られる、浮遊感。

 虹の極彩色。そして暗幕が落ちる。揺れる。また、揺れる。何処かへ、運ばれていく。
 出来ることはなにもない。一生懸命に、自分なりに、一生懸命に。精一杯頑張って来た。

 けれど、駄目だった。だからもう――――仕方ない。全部、全部、無駄だった。
 仕方ない。手を離されても。見捨てられても。独りぼっちでも。仕方ない。仕方ない、から。

 その欠落は、そこでは埋まらないと。誰かが言っていた。ああ、そうなんだ。と、何処か腑に落ちた。
 だから溢れていくんだろう。だから掬い上げられないんだろう。穴が、空いているのだから。

 それなら仕方ない。情けなくても、哀しくても、苦しくても――――助けて、欲しくても。
 誰も、傍になんて居てくれない。落ちていく。揺れて、運ばれて、底から落ちていく。

 どうせ、全部落ちていく。

「たすけて」

 重荷になんて、なりたくない。足枷になんて、なりたくない。
 記憶の奥の深い深い場所。真っ白な世界に赤が滲んでいる。その赤い獣は簡単に。

 本当に本当に簡単に、レティシアの大切なものを奪っていくのだと知っているから。
 手を掴んだら、失くしてしまう。足を引っ張ったら、亡くしてしまう。

 重荷になったら、また、居なくなってしまう。それは嫌。それは――――いや。

 “ええ、助けますとも”

 ――――声。

「うそ」

 ――――うそつき。

 みんな、いなくなる。てをのばしてくれたひとも。まもろうとしてくれたひとも。
 みんなみんな、いなくなる。あかいけものにつれていかれる。まもれない。すくえない。

 “嘘ではありません。今度こそは”

 ――――こんどこそ。

 そうおもって、そうねがって、なんど。なんど。なんどだって、てをのばして。
 でも、こぼれて。こぼれて。こぼすことしかできなくて。いや。それは、もう、いや。

「いかないで」

 おかあさん。おかあさん。わたしは――――どうしたらよかったの。

 “お呼び頂けるなら、いつなりと”

 ――――ああ。それは、しってる。

 おかあさんがよんでくれたえほん。おかあさんが、おしえてくれたこと。
 おひめさまをまもってくれる、きしさまが。やってきて、みんな、しあわせになるんだよ。

 どうして、そうじゃないんだろう。
 どうして、そうはならなかったんだろう。

「いなくならないで」

 ぎゅうっと。一番側にある何かに縋り付く。今はもう、それしか出来ない。
 本当は穴に落ちてなんて行きたくない。本当は、独りでなんて居たくない。だって、本当は。

 寂しいのは嫌。辛いのは嫌。苦しいのは嫌。痛いのは嫌。でも、何も出来ない自分が、一番。
 一番、嫌。

 ――――だから。

「てをつないで」

 ただ、手を繋いでいて、欲しかった。護らせて、欲しかった。一緒に、居たかった。
 弱くても。足手まといでも。一人で決めないで。勝手に決めないで。綺麗なままで居させないで。

 震える手が、誰かの手に包まれる。温かい、誰かの。

 “ええ。貴女(レティシア )がそれを望むなら”

 繋がった手。雨の音も聞こえない。それでも、独りじゃないなら。
 良かった――――――もう――――――――――

 ――――もう、さむくないから。

 ■

 ――――翌朝。
 レティシアは自室の寝台で身を起こすと、奇妙な夢を見た。という体で姿見の前へ歩いて行った。

 何故か、目元がとても腫れぼったく。何故か、脳内に渦を巻いていた息苦しさが少しだけ晴れ。
 そして寝る直前までの記憶を辿り。自身の記憶が最寄りの街の酒場で途切れている事に気が付いた。

 何だか、漠然と。過去類を見ない勢いで、誰かの前で大泣きしたような。そんな、血の気の引く気配がする。
 まるでそれを証明するかの様に、愛用の化粧台の上には丁寧に梱包された黒い長四角の革袋。

 窓辺に駆け寄れば、昨日の雨は何だったのかという程燦々と降り注ぐ五月の陽。
 革袋を剥いた先の封筒に、一枚挟まれた便箋にある“生誕を祝して 親愛なる~”との一文と黒い槍の刻印に。

 いよいよ以て追い詰められた彼女は、自身が昨晩夢現の状態で自宅へと帰宅したこと。
 正門まで見送りとして付いてきたと言う傭兵風の男は、彼女を届けて直ぐに踵を返し行方も知れないこと。

 そして、未婚の淑女が前後不覚で男性に送り届けられた事について。義母からお説教が在るとの話を聞き。
 まるで魔物か幻術の類に騙されでもしたかの様な、混乱と困惑の坩堝へと突き落とされる事になる訳だが。

 けれど何故だろう。まだ、何かとても大切なことを忘れている気がするのは。
 それも心の何処かでずっとずっと引っ掛かっていた、棘のような何かがすっきりと抜けた様な。

 (……まだ、何も解決していない筈なのですが)

 まさか、良く寝たら気分が晴れた。などと、幾らなんでもそんな残酷な話は無い筈だと。
 それでも頭を振って、レティシアは先ずここから先の予定を思い返し愛用の手帳を取り出す。

 昨日よりは明晰になった思考で、先ず“お母様”へ謝りに行き、大切な友人の消息を探る。
 いや、それより前にお風呂に入って身嗜みを整えなければ――――と。そんな事を思いながら。

 ちらっと視界の端に映った封筒。慌てて記した様な筆跡の便箋末尾に“家名”が含まれていない。
 その文字を脳裏で辿った瞬間、それは確かに誰かの声として再生された。

 (――――――!)

 何も、思い出せない。思い出せないのに、何か途方も無い気恥ずかしさがあった。
 理性と、思考と、認識の外側で、込み上げるような羞恥心に襲われ顔に血が登る。

 レティシアの、一際強い規範意識がいち早く警鐘を鳴らす。それは、おかしい。こんなのは駄目だ。
 例え一片ならない恩義が有るとは言え、友人に。或いはほんの少し心を許されたのかもしれないとして。

 名前を呼ばれたくらいで、こんなに動揺する筈がない。
 ――――そう呼ばれることが、嬉しいなんて。そんな筈が、ない。あったらおかしい。

 雨の止んだ部屋で夜は未だ遠く、白月の娘が立ち竦む。前にも、後ろにも、踏み出せないまま。
 鼓動の音が、止まらない。

 摘んでいた手帳が、乾いた絨毯の上にするりと滑り落ちた。

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メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
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アーカイブ生成日時 2026年08月05日 14時56分25秒 ・ world0