【DA】リーンエスの耳
ナハティガル=ラー/ アルベイル・ライゼンナクト
『ノベルタイトル:蒼穹の向こう、黄昏の彼方』弓月 蒼
●黒と銀
――――夢を見た。
その銀の鳥は一羽だった。生まれ落ちた時から一羽であり、一羽である事を不思議とも思っていなかった。
孤独とは自由であり、何者にも縛られないで空を飛ぶ。銀の鳥はただそれだけで幸福だった。
けれど、銀の鳥はある時巨大な鳥籠に囚われた黒の鳥と出会う。その鳥は銀の鳥に良く似て見えた。
黒の鳥は自由ではなかった。生まれ落ちた時から鳥籠の内であり、一羽で居る事を赦されなかった。
多くの好奇の眼差しが籠の鳥を苛み、時にその翼の色を揶揄し、時にその翔び方を一方的に批判した。
銀の鳥は自分こそが自由であるという自負が有った。だから何とかその鳥籠を払ってやりたいと思った。
それが誤った気遣いであると気付くのに、それほど時間は必要無かった。
黒の鳥は決して他者に阿る事無く、頼る事無く、ただ一羽で鳥籠の中に在り続けた。
自らこそがその鳥籠の王であるとでも言うように、如何な好奇も、如何な悪意も、その翼を傷付け得ない。
其処に自由はない。其処に遠く遥かな空はない。その翼は、何処までも高く羽撃くことを許容されない。
けれど黒の鳥は自由だった。彼の鳥もまた、自ら由としてその戦場を選んだのだと分かった。
――――その眼には、この空はどう映るのだろうか
知るには、自らも鳥籠の内に入るしかない。それは彼の誇りである自由を損なうという事だ。
自由とは孤独であり、何者にも縛られないで空を飛ぶ。銀の鳥はただそれだけで幸福だった。
それなのに銀の鳥は想ってしまった。空を飛ぶことも望めない黒の鳥が一体何を見て、何を目指し、何を望むのか。
何故独り、鳥籠の内側で戦うことを選んだのか。彼の翼は、一体何処を目指しているのだろう。
望まなければ幸福でいられた。求めなければ自由でいられた。それなのに銀の鳥は望んでしまった。
自由な空よりも、孤独な外の世界よりも。この鳥籠がここからどう変化していくのか――――
■
ライゼンナクトの乱――――と、名付けられたらしい。『王国』貴族の一大事件より数日。
『竜の半身』ナハティガル=ラーは『王都』内、『黒鋼竜』の別邸に呼び出されていた。
同家の騎士に推挙を受けているとは言えあくまで内定の身。公的な身分はあくまで『冒険者』に過ぎない訳だが。
これまで自身もまたその立場を散々利用してきた以上、用が有ると言われて受けない訳にもいかない。
到着するや通された当主の間で腰掛けていたのは、『黒の後継』アルベイル・ライゼンナクト。
もう遠からず当代の『竜』と呼び称される立場の青年だ。最早“後継”とは呼べまい。
「爵位継承が思いの外順調に進みそうでな。少し時間が空いた。付き合うが良い」
冷めた眼差しでそう告げるアルベイルの声に応じる様に、彼に良く付き添っている初老の紳士が机を運ぶ。
それが盤上遊戯の類であると気付いて、ナハティガルは一瞬驚き、次いで笑みで応じた。
「『学園』は良いのか」
「今は自主登校という事になっている。……まあ、それ以上にそれ所ではない。とも言えるか」
恐らく。先代『黒鋼竜』こと、『黒竜公』ダミアンが画策した“死の茶会”には一定の罰則が下る。
それはこの一連の“反逆劇”に介入するに当たってのアルベイルとナハティガル。両者の共通見解である。
例えアルベイルが実父を討つことで事態を最悪の手前で修めたとは言え。
これによって謀殺された『過激派貴族』達の手前、少なくとも目に見える“厳罰”を下さない訳にはいかない。
ライゼンナクトの乱で領主を失った貴族の家は、これから当分自領の掌握に地獄を見る羽目になる。
領主しか有さない家門の内実というのは多岐に渡り、それが突発的に喪われたに等しいからだ。
自業自得と言えばその通りだが、ここに来て首謀者である『竜』が罰を下されなければ収まりが付かない。
一方。『貴族派』の纏め役である同家にまで倒れられては、これもまた面倒な話になることは瞭然だ。
この沙汰が下るまではアルベイルも自由には動けない。歯痒くとも外聞上、自粛のフリは必要だ。
彼が別邸に滞在し続けているのはそんな理由であり、多少暇を持て余すのも理解出来なくはない。
軍棋同様、互いに白と黒で歩兵、騎馬、槍、盾、弓、魔法使いと間者、最後に王と近衛を並べ終える。
交互手番で駒を動かす古式ゆかしい王国将棋。魔物使いと英雄が省かれた基本規定。
敵の駒を取れば、職種を問わず自軍で“歩兵”として扱う事が出来る一方、“貴族”の駒は唯一つとしてない。
『王国』戦史の偶像化と考えれば実に“らしい”悪趣味さだと言える。殆どの貴族は自ら前線に出たりはしない。
例え――――“王家”が前線に出ることが在ろうとも。
■
「歩兵を2の6」「同じく8の4」「7の6」「近衛を3の2」「では近衛を7の8だ」「歩兵を8の5」
「騎馬を7の7」「歩兵を3の4」「盾兵を8の8」「――――騎馬を7の7。一番槍だ」「……、……」
黒の騎馬が奇襲同然に自陣に踏み込んで来て白の騎馬を討ち取った。
一番槍だ。アルベイルが自陣色、黒い硬貨を握る。硬貨は戦果を指し膠着に陥った場合の優勢判定に寄与する。
仮想戦術遊戯では実力が近い場合は戦果の奪い合いになる。
勿論どちらかが王を取ればそれまでだが、王を討てる駒は限られる。弓、騎馬、近衛、間者の4種のみ。
拡張規定であればこれに英雄が加わるが、いずれにせよ最強の駒である。
王には天運が有り、雑兵で王は討てない。加え、殆どの場合盾と近衛に護られた王を取るのは容易ではない。
弓が例外に在るのは、過去実際に流れ矢で死んだ王族が居るからだ、等と聞いた時には失笑したものだ。
「盾兵を7の7」「盾兵を2の2」「もう一体を4の8」「同じく6の2だ」「4の6歩兵」「歩兵を7の4」
返す刃で黒の騎馬を白の盾兵が討ち取るが、一番槍を取られた以上形勢は不利。
2体の盾兵がじわりと戦線を押し上げる。戦果を取られた状態で護りを固められると後々面倒になる。
「盾を4の7――――」
そう手を打った段階で、ふとアルベイルの視線が自身へ向いている事に気付く。
ついつい盤面に集中してしまったが、ナハティガルとて余興で態々呼び出しを受けた訳ではない。
「一つ聞いて良いか」
「好きにせよ。歩兵を6の4」
「以前も聞いたかと思うが……何故アンタはそれほど変化を急ぐ。……歩兵を3の6」
「急いでいる心算はない。が、そうだな。ラー、貴公はおかしいとは思わないか」
「おかしい、とは?」
「この国に生きている者の大半が、この国で今何が起きているのかを知らん。
学ぶ場所も無ければ、学ばせようとする姿勢も無い。弓を7の3」
王を討てる弓が動き、盤面が変わる。思わず黙ったナハティガルに、黒の公子は透徹した瞳で問う。
「疑問をすら持てない。民にはその権利がない。
それを当然と、当たり前として歩んで来たのがこの国だ。――――6の8に王」
「……」
淡々と告げられた言葉に、二の句が続かぬまま。守りを固めた黒の王に銀の鬼が熟考し始める。
「そんな事をもう五百年以上続けて来た。急ぐ? 否。己が生きて死ぬ国への無関心を千年王国と呼ばれるまで続ける気か」
「――――何故アンタが態々それを担う必要がある。6の3に盾」
「誰もが他者に預けようとするからだ。その無責任が集権化などと言う戯言へと走らせる。3の7に弓。
イダ妃の混迷を、ヨゼフ帝の妄執を知れば次に狂うのが王家でないと、果たして誰が保証出来る」
「だが、その一端を民に預ければその問題は本当に解決するのか。4の2に王」
「生きる権利を得るには責が伴う。ならば民もまた、当然の責を負うべき時代が来ているのだ。さもなくば――――」
「――――さもなくば?」
「この国もまた、いずれ帝都の二の舞になろうよ。2の9に魔法使い」
動き出した白の王への応手は、最も広大な射程を誇る魔法使い。竜は既にしてナハティガルの隙を伺っている。
●半身
序盤を越えて中盤へ。そしてアルベイルの語りもまた、彼個人の価値観へと移り変わる。
それは盤面が煮詰まるに従い、より深く。自らの半身に、自身の見る世界を伝えるように。
「盾兵を5の6。俺は以前、個人が5m近い巨体の獣ごと山を断ち斬る姿を見たことがある」
「……? 何の冗談だ」
「冗談であれば良かったのだがな。その所業は明らかに人の域を超えていた。
子供心にも合点が行ったとも。力こそ全ての世界ならば、それは増長し、視野が狭くもなる……とな」
見て来た様に語るアルベイルの促しに応じ、ナハティガルの手は魔法使いを8の1。
一番槍以降、相互に距離を詰め続けた兵達は接敵寸前。本格的な開戦も最早秒読みと言った所か。
「時代と状況が赦したならば、その凶刃は王城の外壁ごと中身をも断ち切れたろう。6の6歩兵」
「5の4盾。馬鹿げた仮定だ……とも、言えない訳か」
「事実。それで城ごと滅んだ帝都の例が在る。そんな物が存在し得るのがこの大陸だ。
逆に問おう。皇家が“そう”なった。何故王家は“そう”ならないと盲目的に信じられる。7の9、王」
中央集権その制度には一つ絶対の前提がある。その治世は“王家”に依存するという前提が。
「“そう”なった時――――“政の事など何も知らない”と、そう言う事を民に許す国に未来など無い」
勿論、王家とてそういった緊急事態に備えて二重三重の安全策を講じてはいるだろう。
が、それは皇家とて同じであった筈。結果、全ては幽界樹という弩級の脅威に喰われて果てた。
「……民に政を知らしめるのは、負荷分散の一貫だ……と?」
「或いはそれにより王家が倒れるやもしれん。が、それとて些事だ。ヒトが滅ぶのに比すればな」
何故、件の竜の仔は帝都崩壊まで沈黙を続けていたのか。
何故、彼の黒の後継は『学園』に於いて突然と言って良い唐突さで以てあれほど精力的に動き出したのか。
彼の少年が“どんな未来を見ていた”のか――――此処に来て、漸くナハティガルにも薄っすら理解出来た。
「ヒトが、滅ぶ?」
「思考を止めるな。ラー」
「……っ、歩兵を4の4」
「王を8の8。この大陸に於いて、秩序を生んだのが神々ならば混沌を齎したのが這者だ。
これまではそうだった。だが、帝都を滅ぼしたのは断じて、神々でも這者でもない」
「だが、あれらは限りなく神にも近しい……」
ここに来て、銀の鬼は自らが“呑まれて”いる事に気付く。何に。“世界観”にだ。
眼前の青年の怪物じみた眼差しに、恐怖にも近い寒気を憶える。にも、拘らず――――
何故、自分は彼の真紅の瞳から目を逸らす事が出来ないのか。
■
「例え神に近しくとも、神で無い以上はあくまでヒトだ。イダ妃やヨゼフ帝が恐らくは未だそうである様に。
そしてヒトの到達点がその域に至ったたならば、遠からずヒトの時代が来る。これは最早決定事項だ」
ヒトの時代。魅力的な響きではあるが、それは決して良い話ばかりではあるまい。
ナハティガルは知っている。ヒトが弱者に対しどれほど残酷になれるかを。
「……魔法使いを4の1」「間者を1の8」
自らが正義という立場にたったヒトが畜生にも劣る非道を行う様を、嫌という程その眼に刻んで来た。
つまりはアルベイルはこう言っているのだろう。それはヒトが自由に生きられる時代であり。
――――同時に。ヒトが、ヒトを殺す時代だと。
「魔法使いを8の1。……それは、これまで以上の地獄がやって来る、と言いたいのか?」
「貴公は悲観が過ぎるな。強ち間違っているとも言い難いが……そうしない為に、我らが居る」
盤面の手が止まる。眼差しが対峙し、けれど折れたのはやはりというべきか――――銀の鬼の側だった。
何という口説き文句だろう。彼の竜の仔の普段の在り様を良く良く見知っていればこそ。
全く、こういう手練手管を血肉とする程馴染ませているから貴族などと言う人種は心底碌でもない。
それは人を動かす言葉だ。紡がれた側に“動かねばならない”と思わせるに足る確固たる意思だ。
「理性で以て、知性を研ぎ澄まし、拒む術を教えねばならない。
それが貴族という立場の人間が失われ行く、その最後の時代を生きる者の果たすべき務めだと俺は信ずる」
地獄まで付いて来いと言われたに等しいにも関わらず、ナハティガルはくつくつと笑って椅子に身を預けた。
泥沼の底を生きてきた。地を這いずり、両手を汚し、穢れに身を浸して、屍を築いて生きて来た。
生まれながらに高貴の頂点を極め、国家の支配者の一角を担う為生きてきた者とは、何一つ共通項など無い。
そんな相手に対し、“未来を照らす為に手を貸せ”――――と、言うのだ。馬鹿げた、心底馬鹿げた依頼だ。
かつての銀髪鬼であれば“余所に頼め”と一言の内に切り捨てていたろう。それが当然の応対だ。
彼の居た暗闇には光など射しては来なかった。これからもその筈だった。その筈だった――――にも関わらずだ。
「アンタは楽観が過ぎる。それとも、買い被りと言った方が良いか。人は想うよりずっと愚かだ」
「俺はそうは思わん。故、貴公もそう思うが良い」
盤面を見つめる。形勢は五分。そう、互いの実力は伯仲している。決して、勝てない盤上ではない。
だが、これは勝てまい。どう足掻こうが他でもないナハティガルの真意が認めてしまっている。
かつて、ウィリアム・リーンエスとチェス盤を挟んだ時。ナハティガルは確かに思った筈だ。
願わくば、この男を敵に回したくはないと。その感情は、今でもまざまざと思い起こせる。
しかし万が一、この未来の先で彼の竜の仔が放蕩王子と相見える事が在ったとしたなら。
「全く、無理難題を突き付けてくる」
「でなければ、この先張り合いが有るまいよ」
――――戦う他はないだろう。結局の所、その結論しかないのであれば。
■
戦いという物は先ず心が離れた者から脱落していく。
「2の2に王」
「では同位置に5の4に親衛隊で歩兵を討つとしよう」
「6の6に騎馬」「3の3に捕虜を放つ」
「では3の1に親衛隊を動かす」「7の7に弓だ」
一見熱戦に見えるが、しかしその間もずっとナハティガルは考えていた。
眼前の青年の道は、銀の鬼には自己犠牲の類にしか見えない。
勿論、そんな謙虚な性とは程遠い事は百も承知。でなければ彼は今代の『竜』等とは呼ばれていない。
その名に相応しい欲があり、それは対する者を駆逐して押し通す類の情念だ。
事実として、アルベイルの盤上の進め方は“攻め手”を得手として成る。
相手を誘い込み徹底的に討ち滅ぼす。逃げ場を残さず徹底した鏖殺を為すのが彼の黒の公子の本質だ。
それは暴力を厭うその心性とは相容れないが、それが損失を減らす術と有れば躊躇はない。
感情を合理で割り切り結果を優先する。そんな彼が、何故自己犠牲同然の道を進もうとするのか。
「腑に落ちんな……4の5に盾」
「同位置に歩兵。……何がだ?」
「8の6に捕虜を放つ。動機は分かった。手段も理解した。納得は出来ないが呑み込もう。
だが、その方針とアンタの生き方は上手く合致しない。何故、そんな向きもしない志向に至った」
沈黙が落ちる。盤面を黙考する様で居て、けれどその沈黙には今までとは違う何かが滲んでいた。
恐らく、これまでの様な“外向け”の言葉ではない。いや、親しさ故の吐露もあれば全てが建前とは思わないが。
それでも、ナハティガルの降って湧いた疑問は、よりアルベイルの深層を暴き出す。
言いたくないならば黙っていれば良いだろうに。こういった場合、彼の竜の仔は沈黙を卑怯と見る。
或いは、人に晒せぬ内心を以て信を得ようなど愚の骨頂とでも思っているのか。
決して真っ正直とは言い難い。或いは奸物とすら言えように。何故こういった部分だけが不器用なのか。
「8の3に騎馬。『黒鋼竜』の領都には大きな湖が有ってな。
陽が射すと、湖面が透き通った淡い翠に染まる」
聞き齧って知ってはいる。かつて『黒鋼竜』と呼ばれるよりも遥か以前の話。
『竜喰らい』なる異形を討つに当たり無名の剣士に助勢したオアシスの主。それが黒の公爵家の前身であると。
であれば、その湖とはかつてのオアシスの名残りだろう。合点は行くも、話は続く。
「……かつて、両親はその湖が好きだった。幼い頃は良く手を引かれ、湖畔まで共に散歩したことを憶えている」
銀の鬼が瞬く。まさか――――そんな理由か。それは、人が未練と。或いは郷愁と呼ぶ物だろう。
そんな物に、命を賭す価値が有るのか。いや、しかし……その言には、確かな真意が垣間見える。
「8の7に王……っ」
それを、油断と呼ぶならばそう呼ぶべきだろう。その一手は明らかな失着である。
王の眼前に捕虜。其処は騎馬の攻撃圏にして弓の射程圏。弓が捕虜を打てば騎馬が一気に詰めて来る。
さりとて王が道を譲ろうにも右と後ろは近衛と槍が塞いでいる。つまり――――
「らしくもないな。8の6に弓。王手だ」
淡々と勝負を決する。先の言の真偽は最早霧散し、問い詰められる空気でもない。
或いは彼の竜の仔の内面に迫る千載一遇の好機であったかもしれないが。
此度は、どうにも上手く誤魔化されてしまったようだった。
●空を仰ぐ
「さて、少し庭に出るか」
『王都』と言う王国に於ける超一等地であれ、『竜』の別邸には小さな中庭がある。
先導する竜の仔が客間から玄関部を抜け、両開き扉を押し開けると、雲間に陰った陽射しが降り注ぐ。
其処に置かれていた木製の腰掛は酷く古い物に見えた。如何にも公爵家と言う肩書とは見合わない。
けれどアルベイルは何か想う様にその腰掛の背凭れに触れ、黙って瞳を伏せる。まるで死者を悼むように。
「ラー。貴公は以前汚れ仕事は自分の役割だ、と言ったな。どうも誤解がある様なので此処で訂正しておく」
振り返った青年は、感情の一つすら動かす事無く淡々と告げる。其処に気負いの色など欠片も感じられない。
「俺は12の頃、母をこの手で殺した。俺だけではない。『竜』の後継者候補は皆、誰かしらの屍を踏み越えている。
愚兄は友を。次兄は乳母を。直上の兄は想い人を。その手で血に沈め、生き続けたが故に我らは『竜』の名乗りを赦されている」
しかし、本当にそうだろうか。ナハティガルにすら未だ、その深奥は見通せない。
或いはそれが『竜』であるという事なのか。其処までして、人は“人”を棄てねばならないのか。
「必要な時、必要な物を切り捨てられぬ人間に支配者は務まらん。それが『竜』の理。黒の公爵家が積み上げた帝王学だ。
俺はあの男を断じて侮蔑し恥じる所も無い。が、この一点についてのみ我らの意見は同意を見ていた」
理解し、合意の上で、母親を斬ったと仔竜は言う。であれば、父親を斬るに躊躇いが無かった事にも合点は行くが。
不意に。ナハティガルは何故自分がアルベイルの生き様に興味が引かれたのか理解出来た気がした。
彼は最初から人を喰わねば生きる事を赦されぬ怪物の類であり。ナハティガルもまた、その同類であったからだ。
「故、あまり俺を甘やかすな。武威で以て事を為すは下策。だが時に、犠牲を生む覚悟くらいとうに出来ている」
「その手で殺し続ければ命の重さは天井知らずに軽くなる。その業を受け入れた者に人はついて来ない」
「……道理だな。良い、ならば必要と思えば貴公が諫めよ」
殺し続け汚泥に塗れ地に伏せる事を受け入れた銀の鬼を前に、それでも尚黒き竜の仔はただ一心に空をのみ見上げていた。
その眼差しが何を映しているのか――――少なくとも、かつてはまるで分からなかったが。
「血に穢れた手で誰かを救うなど傲慢極まる。無論俺もまた誰一人救う気などない。
だが百年先の未来、世界は人の手で変わり得る事を証明する。その為幾千万の屍を積もうとも、我ら『竜』が地に墜ちようとも」
今であれば、少しは。ほんの少しは、彼が何を見据えているのかが分かる。
それは恐らく。“自らの手を血で穢したが故”――――もう誰も、血に塗れる事無き次代を望むのだろうと。
■
現実は、救われる人々の数と同じだけ。世界を変革する事で弾かれる。軋みを上げて歪む者達を生み出そう。
それは“変化”の代償であり、例えば王家はその代償を抑える為に酷く気の長い時間を費やし集権化を為そうとしている。
アルベイルは違う。代償を恐れていては“間に合わない”と断じた上で、自らの代で変化の筋道を組み立てる心算でいる。
この停滞を誰かが進めなければならない、と。その萌芽となる人々を集わせ、育て、ばら撒こうとしている。
それは場合によっては、既存の枠組みへの反逆と取られても仕方ない暴挙の類と言って良い。
「この国は王の物に非ず。貴族の物に非ず。地に足を着け日々を営む全ての人々の物であると。
自ら負う国をこそ祖国と呼ぶのだと。それを今一度思い出させる為に、俺はこれより天意に臨む」
それは遠大とも言える野心であり、『竜』の名に相応しい大業であろうが、現時点。理解を求めるのは極めて難しいに違いない。
未だ誰もその行為に価値を見出していない。それがいずれ金の卵を産み得る雌鶏であると説明されて、一体何人が信じる物か。
そんな稀有壮大な妄言に自身の総てを賭して挑むと言う。
「愚者の黄金だな」
「如何にも。だが、これこそ金であると信じた男が此処に2人も居る」
「時流を読める人間であれば王家に付くだろう。勝算があるようには思えん」
「如何にも。勝算など無い。最善を尽くし全てが天意を得た所で、拓かれた未来を目の当たりにするのは長命種たる貴公だけだ」
「そんな空想にも程近い絶世の愚策を担いだ挙句、その結果を看取る為にこれからの生を託せと言うのか」
「如何にも。何だラー、貴公俺を稀代の賢人だとでも思っていたのか? であれば今の内に認識を修正しておくと良かろう」
どう考えても賢い選択ではない。誰も、彼に感謝などするまい。命を懸けて未来に一筋光を足そうと言う真正の狂人になど。
見返りを求めず利害を問わず。誰も救わず幸福にもせず、ただこの『王国』の人々に、誇りを取り戻させるのだと言う。
「――――誰がそんな空手形を切ると言うんだ。そいつは正気か」
「――――如何にも。貴公が切らねば、次を探すのは容易では無いだろうな」
差し出された『黒鋼竜』の手に、銀の鬼の――――彼の『竜の半身』の手が重なる。嗚呼、全く愚行に違いない。
孤独であれば、自由でいられた。責任を背負いさえしなければ、義務を課せられることもない。それはそれで一つの幸福に違いない筈だ。
それなのに銀の鳥は想ってしまった。どうしようもなく、心を惹かれてしまった。
誰もが正しい選択肢ばかり選べる訳ではない。況や正義にすら程遠い。それなのに――――であれば、これはもう仕方の無いことだ。
「ふん、今更そんな脅し文句で畏れを為すものか。結構だ。いずれ血塗られた道ならばその罪、俺が半分背負おう」
「酔狂なことだ。正気の沙汰とは思えん……」
紅の瞳が交わり、口元だけが笑みを結ぶ。彼の者は『黒鋼竜』。その心に黒き鋼を纏い、天へと臨む王国唯一の竜。
彼はただ、見たいと思ってしまった。ただそれだけだ。誰一人描いた事すら無い遥かな未来を、実現すると嘯くそんな竜の一声に。
「が、悪くはない」
もしも同じ空へと飛翔いたならば――――その果ての景色は、一体どんな色をしているのだろう、と。
「ならば心して同道せよ。後悔はさせん」
いつかと同じ文句に、ナハティガルが肩を竦めると。翻る外套。黒き竜の軌跡を銀の鬼が辿る。
それは蒼穹の向こう側、今未だ遥か見えざる黄昏の彼方。
――――――――前人未到の暁の色はきっと、誰も見た事がないほど鮮やかであるに違いない。
――――夢を見た。
その銀の鳥は一羽だった。生まれ落ちた時から一羽であり、一羽である事を不思議とも思っていなかった。
孤独とは自由であり、何者にも縛られないで空を飛ぶ。銀の鳥はただそれだけで幸福だった。
けれど、銀の鳥はある時巨大な鳥籠に囚われた黒の鳥と出会う。その鳥は銀の鳥に良く似て見えた。
黒の鳥は自由ではなかった。生まれ落ちた時から鳥籠の内であり、一羽で居る事を赦されなかった。
多くの好奇の眼差しが籠の鳥を苛み、時にその翼の色を揶揄し、時にその翔び方を一方的に批判した。
銀の鳥は自分こそが自由であるという自負が有った。だから何とかその鳥籠を払ってやりたいと思った。
それが誤った気遣いであると気付くのに、それほど時間は必要無かった。
黒の鳥は決して他者に阿る事無く、頼る事無く、ただ一羽で鳥籠の中に在り続けた。
自らこそがその鳥籠の王であるとでも言うように、如何な好奇も、如何な悪意も、その翼を傷付け得ない。
其処に自由はない。其処に遠く遥かな空はない。その翼は、何処までも高く羽撃くことを許容されない。
けれど黒の鳥は自由だった。彼の鳥もまた、自ら由としてその戦場を選んだのだと分かった。
――――その眼には、この空はどう映るのだろうか
知るには、自らも鳥籠の内に入るしかない。それは彼の誇りである自由を損なうという事だ。
自由とは孤独であり、何者にも縛られないで空を飛ぶ。銀の鳥はただそれだけで幸福だった。
それなのに銀の鳥は想ってしまった。空を飛ぶことも望めない黒の鳥が一体何を見て、何を目指し、何を望むのか。
何故独り、鳥籠の内側で戦うことを選んだのか。彼の翼は、一体何処を目指しているのだろう。
望まなければ幸福でいられた。求めなければ自由でいられた。それなのに銀の鳥は望んでしまった。
自由な空よりも、孤独な外の世界よりも。この鳥籠がここからどう変化していくのか――――
■
ライゼンナクトの乱――――と、名付けられたらしい。『王国』貴族の一大事件より数日。
『竜の半身』ナハティガル=ラーは『王都』内、『黒鋼竜』の別邸に呼び出されていた。
同家の騎士に推挙を受けているとは言えあくまで内定の身。公的な身分はあくまで『冒険者』に過ぎない訳だが。
これまで自身もまたその立場を散々利用してきた以上、用が有ると言われて受けない訳にもいかない。
到着するや通された当主の間で腰掛けていたのは、『黒の後継』アルベイル・ライゼンナクト。
もう遠からず当代の『竜』と呼び称される立場の青年だ。最早“後継”とは呼べまい。
「爵位継承が思いの外順調に進みそうでな。少し時間が空いた。付き合うが良い」
冷めた眼差しでそう告げるアルベイルの声に応じる様に、彼に良く付き添っている初老の紳士が机を運ぶ。
それが盤上遊戯の類であると気付いて、ナハティガルは一瞬驚き、次いで笑みで応じた。
「『学園』は良いのか」
「今は自主登校という事になっている。……まあ、それ以上にそれ所ではない。とも言えるか」
恐らく。先代『黒鋼竜』こと、『黒竜公』ダミアンが画策した“死の茶会”には一定の罰則が下る。
それはこの一連の“反逆劇”に介入するに当たってのアルベイルとナハティガル。両者の共通見解である。
例えアルベイルが実父を討つことで事態を最悪の手前で修めたとは言え。
これによって謀殺された『過激派貴族』達の手前、少なくとも目に見える“厳罰”を下さない訳にはいかない。
ライゼンナクトの乱で領主を失った貴族の家は、これから当分自領の掌握に地獄を見る羽目になる。
領主しか有さない家門の内実というのは多岐に渡り、それが突発的に喪われたに等しいからだ。
自業自得と言えばその通りだが、ここに来て首謀者である『竜』が罰を下されなければ収まりが付かない。
一方。『貴族派』の纏め役である同家にまで倒れられては、これもまた面倒な話になることは瞭然だ。
この沙汰が下るまではアルベイルも自由には動けない。歯痒くとも外聞上、自粛のフリは必要だ。
彼が別邸に滞在し続けているのはそんな理由であり、多少暇を持て余すのも理解出来なくはない。
軍棋同様、互いに白と黒で歩兵、騎馬、槍、盾、弓、魔法使いと間者、最後に王と近衛を並べ終える。
交互手番で駒を動かす古式ゆかしい王国将棋。魔物使いと英雄が省かれた基本規定。
敵の駒を取れば、職種を問わず自軍で“歩兵”として扱う事が出来る一方、“貴族”の駒は唯一つとしてない。
『王国』戦史の偶像化と考えれば実に“らしい”悪趣味さだと言える。殆どの貴族は自ら前線に出たりはしない。
例え――――“王家”が前線に出ることが在ろうとも。
■
「歩兵を2の6」「同じく8の4」「7の6」「近衛を3の2」「では近衛を7の8だ」「歩兵を8の5」
「騎馬を7の7」「歩兵を3の4」「盾兵を8の8」「――――騎馬を7の7。一番槍だ」「……、……」
黒の騎馬が奇襲同然に自陣に踏み込んで来て白の騎馬を討ち取った。
一番槍だ。アルベイルが自陣色、黒い硬貨を握る。硬貨は戦果を指し膠着に陥った場合の優勢判定に寄与する。
仮想戦術遊戯では実力が近い場合は戦果の奪い合いになる。
勿論どちらかが王を取ればそれまでだが、王を討てる駒は限られる。弓、騎馬、近衛、間者の4種のみ。
拡張規定であればこれに英雄が加わるが、いずれにせよ最強の駒である。
王には天運が有り、雑兵で王は討てない。加え、殆どの場合盾と近衛に護られた王を取るのは容易ではない。
弓が例外に在るのは、過去実際に流れ矢で死んだ王族が居るからだ、等と聞いた時には失笑したものだ。
「盾兵を7の7」「盾兵を2の2」「もう一体を4の8」「同じく6の2だ」「4の6歩兵」「歩兵を7の4」
返す刃で黒の騎馬を白の盾兵が討ち取るが、一番槍を取られた以上形勢は不利。
2体の盾兵がじわりと戦線を押し上げる。戦果を取られた状態で護りを固められると後々面倒になる。
「盾を4の7――――」
そう手を打った段階で、ふとアルベイルの視線が自身へ向いている事に気付く。
ついつい盤面に集中してしまったが、ナハティガルとて余興で態々呼び出しを受けた訳ではない。
「一つ聞いて良いか」
「好きにせよ。歩兵を6の4」
「以前も聞いたかと思うが……何故アンタはそれほど変化を急ぐ。……歩兵を3の6」
「急いでいる心算はない。が、そうだな。ラー、貴公はおかしいとは思わないか」
「おかしい、とは?」
「この国に生きている者の大半が、この国で今何が起きているのかを知らん。
学ぶ場所も無ければ、学ばせようとする姿勢も無い。弓を7の3」
王を討てる弓が動き、盤面が変わる。思わず黙ったナハティガルに、黒の公子は透徹した瞳で問う。
「疑問をすら持てない。民にはその権利がない。
それを当然と、当たり前として歩んで来たのがこの国だ。――――6の8に王」
「……」
淡々と告げられた言葉に、二の句が続かぬまま。守りを固めた黒の王に銀の鬼が熟考し始める。
「そんな事をもう五百年以上続けて来た。急ぐ? 否。己が生きて死ぬ国への無関心を千年王国と呼ばれるまで続ける気か」
「――――何故アンタが態々それを担う必要がある。6の3に盾」
「誰もが他者に預けようとするからだ。その無責任が集権化などと言う戯言へと走らせる。3の7に弓。
イダ妃の混迷を、ヨゼフ帝の妄執を知れば次に狂うのが王家でないと、果たして誰が保証出来る」
「だが、その一端を民に預ければその問題は本当に解決するのか。4の2に王」
「生きる権利を得るには責が伴う。ならば民もまた、当然の責を負うべき時代が来ているのだ。さもなくば――――」
「――――さもなくば?」
「この国もまた、いずれ帝都の二の舞になろうよ。2の9に魔法使い」
動き出した白の王への応手は、最も広大な射程を誇る魔法使い。竜は既にしてナハティガルの隙を伺っている。
●半身
序盤を越えて中盤へ。そしてアルベイルの語りもまた、彼個人の価値観へと移り変わる。
それは盤面が煮詰まるに従い、より深く。自らの半身に、自身の見る世界を伝えるように。
「盾兵を5の6。俺は以前、個人が5m近い巨体の獣ごと山を断ち斬る姿を見たことがある」
「……? 何の冗談だ」
「冗談であれば良かったのだがな。その所業は明らかに人の域を超えていた。
子供心にも合点が行ったとも。力こそ全ての世界ならば、それは増長し、視野が狭くもなる……とな」
見て来た様に語るアルベイルの促しに応じ、ナハティガルの手は魔法使いを8の1。
一番槍以降、相互に距離を詰め続けた兵達は接敵寸前。本格的な開戦も最早秒読みと言った所か。
「時代と状況が赦したならば、その凶刃は王城の外壁ごと中身をも断ち切れたろう。6の6歩兵」
「5の4盾。馬鹿げた仮定だ……とも、言えない訳か」
「事実。それで城ごと滅んだ帝都の例が在る。そんな物が存在し得るのがこの大陸だ。
逆に問おう。皇家が“そう”なった。何故王家は“そう”ならないと盲目的に信じられる。7の9、王」
中央集権その制度には一つ絶対の前提がある。その治世は“王家”に依存するという前提が。
「“そう”なった時――――“政の事など何も知らない”と、そう言う事を民に許す国に未来など無い」
勿論、王家とてそういった緊急事態に備えて二重三重の安全策を講じてはいるだろう。
が、それは皇家とて同じであった筈。結果、全ては幽界樹という弩級の脅威に喰われて果てた。
「……民に政を知らしめるのは、負荷分散の一貫だ……と?」
「或いはそれにより王家が倒れるやもしれん。が、それとて些事だ。ヒトが滅ぶのに比すればな」
何故、件の竜の仔は帝都崩壊まで沈黙を続けていたのか。
何故、彼の黒の後継は『学園』に於いて突然と言って良い唐突さで以てあれほど精力的に動き出したのか。
彼の少年が“どんな未来を見ていた”のか――――此処に来て、漸くナハティガルにも薄っすら理解出来た。
「ヒトが、滅ぶ?」
「思考を止めるな。ラー」
「……っ、歩兵を4の4」
「王を8の8。この大陸に於いて、秩序を生んだのが神々ならば混沌を齎したのが這者だ。
これまではそうだった。だが、帝都を滅ぼしたのは断じて、神々でも這者でもない」
「だが、あれらは限りなく神にも近しい……」
ここに来て、銀の鬼は自らが“呑まれて”いる事に気付く。何に。“世界観”にだ。
眼前の青年の怪物じみた眼差しに、恐怖にも近い寒気を憶える。にも、拘らず――――
何故、自分は彼の真紅の瞳から目を逸らす事が出来ないのか。
■
「例え神に近しくとも、神で無い以上はあくまでヒトだ。イダ妃やヨゼフ帝が恐らくは未だそうである様に。
そしてヒトの到達点がその域に至ったたならば、遠からずヒトの時代が来る。これは最早決定事項だ」
ヒトの時代。魅力的な響きではあるが、それは決して良い話ばかりではあるまい。
ナハティガルは知っている。ヒトが弱者に対しどれほど残酷になれるかを。
「……魔法使いを4の1」「間者を1の8」
自らが正義という立場にたったヒトが畜生にも劣る非道を行う様を、嫌という程その眼に刻んで来た。
つまりはアルベイルはこう言っているのだろう。それはヒトが自由に生きられる時代であり。
――――同時に。ヒトが、ヒトを殺す時代だと。
「魔法使いを8の1。……それは、これまで以上の地獄がやって来る、と言いたいのか?」
「貴公は悲観が過ぎるな。強ち間違っているとも言い難いが……そうしない為に、我らが居る」
盤面の手が止まる。眼差しが対峙し、けれど折れたのはやはりというべきか――――銀の鬼の側だった。
何という口説き文句だろう。彼の竜の仔の普段の在り様を良く良く見知っていればこそ。
全く、こういう手練手管を血肉とする程馴染ませているから貴族などと言う人種は心底碌でもない。
それは人を動かす言葉だ。紡がれた側に“動かねばならない”と思わせるに足る確固たる意思だ。
「理性で以て、知性を研ぎ澄まし、拒む術を教えねばならない。
それが貴族という立場の人間が失われ行く、その最後の時代を生きる者の果たすべき務めだと俺は信ずる」
地獄まで付いて来いと言われたに等しいにも関わらず、ナハティガルはくつくつと笑って椅子に身を預けた。
泥沼の底を生きてきた。地を這いずり、両手を汚し、穢れに身を浸して、屍を築いて生きて来た。
生まれながらに高貴の頂点を極め、国家の支配者の一角を担う為生きてきた者とは、何一つ共通項など無い。
そんな相手に対し、“未来を照らす為に手を貸せ”――――と、言うのだ。馬鹿げた、心底馬鹿げた依頼だ。
かつての銀髪鬼であれば“余所に頼め”と一言の内に切り捨てていたろう。それが当然の応対だ。
彼の居た暗闇には光など射しては来なかった。これからもその筈だった。その筈だった――――にも関わらずだ。
「アンタは楽観が過ぎる。それとも、買い被りと言った方が良いか。人は想うよりずっと愚かだ」
「俺はそうは思わん。故、貴公もそう思うが良い」
盤面を見つめる。形勢は五分。そう、互いの実力は伯仲している。決して、勝てない盤上ではない。
だが、これは勝てまい。どう足掻こうが他でもないナハティガルの真意が認めてしまっている。
かつて、ウィリアム・リーンエスとチェス盤を挟んだ時。ナハティガルは確かに思った筈だ。
願わくば、この男を敵に回したくはないと。その感情は、今でもまざまざと思い起こせる。
しかし万が一、この未来の先で彼の竜の仔が放蕩王子と相見える事が在ったとしたなら。
「全く、無理難題を突き付けてくる」
「でなければ、この先張り合いが有るまいよ」
――――戦う他はないだろう。結局の所、その結論しかないのであれば。
■
戦いという物は先ず心が離れた者から脱落していく。
「2の2に王」
「では同位置に5の4に親衛隊で歩兵を討つとしよう」
「6の6に騎馬」「3の3に捕虜を放つ」
「では3の1に親衛隊を動かす」「7の7に弓だ」
一見熱戦に見えるが、しかしその間もずっとナハティガルは考えていた。
眼前の青年の道は、銀の鬼には自己犠牲の類にしか見えない。
勿論、そんな謙虚な性とは程遠い事は百も承知。でなければ彼は今代の『竜』等とは呼ばれていない。
その名に相応しい欲があり、それは対する者を駆逐して押し通す類の情念だ。
事実として、アルベイルの盤上の進め方は“攻め手”を得手として成る。
相手を誘い込み徹底的に討ち滅ぼす。逃げ場を残さず徹底した鏖殺を為すのが彼の黒の公子の本質だ。
それは暴力を厭うその心性とは相容れないが、それが損失を減らす術と有れば躊躇はない。
感情を合理で割り切り結果を優先する。そんな彼が、何故自己犠牲同然の道を進もうとするのか。
「腑に落ちんな……4の5に盾」
「同位置に歩兵。……何がだ?」
「8の6に捕虜を放つ。動機は分かった。手段も理解した。納得は出来ないが呑み込もう。
だが、その方針とアンタの生き方は上手く合致しない。何故、そんな向きもしない志向に至った」
沈黙が落ちる。盤面を黙考する様で居て、けれどその沈黙には今までとは違う何かが滲んでいた。
恐らく、これまでの様な“外向け”の言葉ではない。いや、親しさ故の吐露もあれば全てが建前とは思わないが。
それでも、ナハティガルの降って湧いた疑問は、よりアルベイルの深層を暴き出す。
言いたくないならば黙っていれば良いだろうに。こういった場合、彼の竜の仔は沈黙を卑怯と見る。
或いは、人に晒せぬ内心を以て信を得ようなど愚の骨頂とでも思っているのか。
決して真っ正直とは言い難い。或いは奸物とすら言えように。何故こういった部分だけが不器用なのか。
「8の3に騎馬。『黒鋼竜』の領都には大きな湖が有ってな。
陽が射すと、湖面が透き通った淡い翠に染まる」
聞き齧って知ってはいる。かつて『黒鋼竜』と呼ばれるよりも遥か以前の話。
『竜喰らい』なる異形を討つに当たり無名の剣士に助勢したオアシスの主。それが黒の公爵家の前身であると。
であれば、その湖とはかつてのオアシスの名残りだろう。合点は行くも、話は続く。
「……かつて、両親はその湖が好きだった。幼い頃は良く手を引かれ、湖畔まで共に散歩したことを憶えている」
銀の鬼が瞬く。まさか――――そんな理由か。それは、人が未練と。或いは郷愁と呼ぶ物だろう。
そんな物に、命を賭す価値が有るのか。いや、しかし……その言には、確かな真意が垣間見える。
「8の7に王……っ」
それを、油断と呼ぶならばそう呼ぶべきだろう。その一手は明らかな失着である。
王の眼前に捕虜。其処は騎馬の攻撃圏にして弓の射程圏。弓が捕虜を打てば騎馬が一気に詰めて来る。
さりとて王が道を譲ろうにも右と後ろは近衛と槍が塞いでいる。つまり――――
「らしくもないな。8の6に弓。王手だ」
淡々と勝負を決する。先の言の真偽は最早霧散し、問い詰められる空気でもない。
或いは彼の竜の仔の内面に迫る千載一遇の好機であったかもしれないが。
此度は、どうにも上手く誤魔化されてしまったようだった。
●空を仰ぐ
「さて、少し庭に出るか」
『王都』と言う王国に於ける超一等地であれ、『竜』の別邸には小さな中庭がある。
先導する竜の仔が客間から玄関部を抜け、両開き扉を押し開けると、雲間に陰った陽射しが降り注ぐ。
其処に置かれていた木製の腰掛は酷く古い物に見えた。如何にも公爵家と言う肩書とは見合わない。
けれどアルベイルは何か想う様にその腰掛の背凭れに触れ、黙って瞳を伏せる。まるで死者を悼むように。
「ラー。貴公は以前汚れ仕事は自分の役割だ、と言ったな。どうも誤解がある様なので此処で訂正しておく」
振り返った青年は、感情の一つすら動かす事無く淡々と告げる。其処に気負いの色など欠片も感じられない。
「俺は12の頃、母をこの手で殺した。俺だけではない。『竜』の後継者候補は皆、誰かしらの屍を踏み越えている。
愚兄は友を。次兄は乳母を。直上の兄は想い人を。その手で血に沈め、生き続けたが故に我らは『竜』の名乗りを赦されている」
しかし、本当にそうだろうか。ナハティガルにすら未だ、その深奥は見通せない。
或いはそれが『竜』であるという事なのか。其処までして、人は“人”を棄てねばならないのか。
「必要な時、必要な物を切り捨てられぬ人間に支配者は務まらん。それが『竜』の理。黒の公爵家が積み上げた帝王学だ。
俺はあの男を断じて侮蔑し恥じる所も無い。が、この一点についてのみ我らの意見は同意を見ていた」
理解し、合意の上で、母親を斬ったと仔竜は言う。であれば、父親を斬るに躊躇いが無かった事にも合点は行くが。
不意に。ナハティガルは何故自分がアルベイルの生き様に興味が引かれたのか理解出来た気がした。
彼は最初から人を喰わねば生きる事を赦されぬ怪物の類であり。ナハティガルもまた、その同類であったからだ。
「故、あまり俺を甘やかすな。武威で以て事を為すは下策。だが時に、犠牲を生む覚悟くらいとうに出来ている」
「その手で殺し続ければ命の重さは天井知らずに軽くなる。その業を受け入れた者に人はついて来ない」
「……道理だな。良い、ならば必要と思えば貴公が諫めよ」
殺し続け汚泥に塗れ地に伏せる事を受け入れた銀の鬼を前に、それでも尚黒き竜の仔はただ一心に空をのみ見上げていた。
その眼差しが何を映しているのか――――少なくとも、かつてはまるで分からなかったが。
「血に穢れた手で誰かを救うなど傲慢極まる。無論俺もまた誰一人救う気などない。
だが百年先の未来、世界は人の手で変わり得る事を証明する。その為幾千万の屍を積もうとも、我ら『竜』が地に墜ちようとも」
今であれば、少しは。ほんの少しは、彼が何を見据えているのかが分かる。
それは恐らく。“自らの手を血で穢したが故”――――もう誰も、血に塗れる事無き次代を望むのだろうと。
■
現実は、救われる人々の数と同じだけ。世界を変革する事で弾かれる。軋みを上げて歪む者達を生み出そう。
それは“変化”の代償であり、例えば王家はその代償を抑える為に酷く気の長い時間を費やし集権化を為そうとしている。
アルベイルは違う。代償を恐れていては“間に合わない”と断じた上で、自らの代で変化の筋道を組み立てる心算でいる。
この停滞を誰かが進めなければならない、と。その萌芽となる人々を集わせ、育て、ばら撒こうとしている。
それは場合によっては、既存の枠組みへの反逆と取られても仕方ない暴挙の類と言って良い。
「この国は王の物に非ず。貴族の物に非ず。地に足を着け日々を営む全ての人々の物であると。
自ら負う国をこそ祖国と呼ぶのだと。それを今一度思い出させる為に、俺はこれより天意に臨む」
それは遠大とも言える野心であり、『竜』の名に相応しい大業であろうが、現時点。理解を求めるのは極めて難しいに違いない。
未だ誰もその行為に価値を見出していない。それがいずれ金の卵を産み得る雌鶏であると説明されて、一体何人が信じる物か。
そんな稀有壮大な妄言に自身の総てを賭して挑むと言う。
「愚者の黄金だな」
「如何にも。だが、これこそ金であると信じた男が此処に2人も居る」
「時流を読める人間であれば王家に付くだろう。勝算があるようには思えん」
「如何にも。勝算など無い。最善を尽くし全てが天意を得た所で、拓かれた未来を目の当たりにするのは長命種たる貴公だけだ」
「そんな空想にも程近い絶世の愚策を担いだ挙句、その結果を看取る為にこれからの生を託せと言うのか」
「如何にも。何だラー、貴公俺を稀代の賢人だとでも思っていたのか? であれば今の内に認識を修正しておくと良かろう」
どう考えても賢い選択ではない。誰も、彼に感謝などするまい。命を懸けて未来に一筋光を足そうと言う真正の狂人になど。
見返りを求めず利害を問わず。誰も救わず幸福にもせず、ただこの『王国』の人々に、誇りを取り戻させるのだと言う。
「――――誰がそんな空手形を切ると言うんだ。そいつは正気か」
「――――如何にも。貴公が切らねば、次を探すのは容易では無いだろうな」
差し出された『黒鋼竜』の手に、銀の鬼の――――彼の『竜の半身』の手が重なる。嗚呼、全く愚行に違いない。
孤独であれば、自由でいられた。責任を背負いさえしなければ、義務を課せられることもない。それはそれで一つの幸福に違いない筈だ。
それなのに銀の鳥は想ってしまった。どうしようもなく、心を惹かれてしまった。
誰もが正しい選択肢ばかり選べる訳ではない。況や正義にすら程遠い。それなのに――――であれば、これはもう仕方の無いことだ。
「ふん、今更そんな脅し文句で畏れを為すものか。結構だ。いずれ血塗られた道ならばその罪、俺が半分背負おう」
「酔狂なことだ。正気の沙汰とは思えん……」
紅の瞳が交わり、口元だけが笑みを結ぶ。彼の者は『黒鋼竜』。その心に黒き鋼を纏い、天へと臨む王国唯一の竜。
彼はただ、見たいと思ってしまった。ただそれだけだ。誰一人描いた事すら無い遥かな未来を、実現すると嘯くそんな竜の一声に。
「が、悪くはない」
もしも同じ空へと飛翔いたならば――――その果ての景色は、一体どんな色をしているのだろう、と。
「ならば心して同道せよ。後悔はさせん」
いつかと同じ文句に、ナハティガルが肩を竦めると。翻る外套。黒き竜の軌跡を銀の鬼が辿る。
それは蒼穹の向こう側、今未だ遥か見えざる黄昏の彼方。
――――――――前人未到の暁の色はきっと、誰も見た事がないほど鮮やかであるに違いない。
assignment【DA】史実ノベル 関連特設ページ
メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。