【DA】リーンエスの耳

●北境の残照

 ――――王国北方辺境、『城塞都市』ノストガルデン。
 王国と帝国の境界であり、天然の要害である同都市は、帝都崩壊以降度々難事に見舞われてきた。

 収穫祭を迎える時期は特にその傾向が顕著であり、帝都崩壊の影響を受けての不作。
 その緊急対応。『黒鋼竜』との取引。エーテル浄化者の探索から豊穣の雫が開発されるに至るまで。

 文字通り、紆余曲折と言うならこれ以上は無い。が、それももう間もなく終わりを告げる予定だ。
 帝都奪還遠征。その王国側の従軍指揮官として『アーチボルト辺境伯』メルヴィン・トマス・アーチボルト。

 そしてその麾下に在る北方辺境騎士団に白羽の矢が立った。決戦が、迫っている。
 そもそも王国北方が突然の不作に見舞われたのは帝都に出現した超大型這者『幽界樹』に根本原因が在る。

 これを伐採する事が叶えば、来年の同時期には王国の他の地方同様。豊かな自然の恵が戻る筈である。
 つまり王国の武門貴族、辺境伯としての役割と北方辺境領主としての役割。この遠征はその双方を兼ねる。

 この上は断じて、敗北は許されないという事を鑑みたならば。その準備には念を入れて入れ過ぎるという事はない。
 現在――――『城塞都市』内は収穫祭と並行した遠征の準備に、蜂の巣をつついた様な騒ぎの渦中に在った。

 ……にも、拘らず。

「――――『隠者』。あなたこの忙しい時期に何をしているの」

「おやおや、これは御同輩。どうしたのかなそんなに慌てて。少し落ち着いたらどうだい」

『城塞都市』中央――――辺境伯領執政府。屋根の上でどう見ても日向ぼっこに興じていたのは森人(エルフ)の魔法使い。
 北方辺境騎士団の第二位、『隠者』こと、ノイマン・アガスティア。文字通り騎士団の最高位幹部である。

 元々、北方辺境は人情に厚く実直な人間が多い。かつて『帝国』からの侵略の可能性に晒され続けた数百年。
 その間、隣人同志の小競り合いなどしている余裕はなかったからである。何せ此処は“国境”なのだから。

 結果、自然と生じた助け合いとお互い様の精神は、土地の人間の人格を鷹揚な物として育んでいった。
『北方辺境騎士団』は広く、大陸全土から優秀な人材を、種族を問わず取り込んでいる事で知られているが。

 そうは言ってもやはり、構成員の過半は地元民である。人情に厚く、正直で、真面目だ。
 ある意味兵士に必要な要素は既にして備えていると言って良いが。反面、それらを率いる者には彼らの不足部分。

 つまり奇を衒った。有る種人間的な歪みを抱えた。それでいて能力的には紛れもなく優れた人間が求められる。
 声を掛けた『銀嶺の旋律』リコリス・アデュラリアとて、その位のこと理解は出来る。

 理解は出来る――――が。

(流石に“これ”は、行き過ぎなのではないかしら……?)

 物事を極力冷淡に捉えるよう意図して心掛けている自身も、大概森人(エルフ)らしくはない……と。
 そう思っていたリコリスにとってすら。眼前の同族はちょっとした理解不能(パラダイムシフト)の産物だった。

 ■

 森人(エルフ)は良くも悪くも時の流れが唯人(ヒューマン)より遅い為、頭が固い人間が多い。
 変化への適応と精神的成長が遅く、その遅さを生来の聡明さと未成熟な理性で無理に覆い隠そうとする為だ。

 ……と、リコリスは分析している。経験則に則るならば、この『隠者(ノイマン)』は凡そその対極を行く。
 古式ゆかしい森人(エルフ)達が不必要と切り捨てて来た、世界への好奇心と探求心の権化。

 で、ありながらその基本姿勢は怠惰にして無責任。人情や実直といった概念を有しているかは相当に怪しい。
 仕事で縛り付ける北方辺境伯の対応は間違いなく正しかった……と。今更ながら思い知らされる。

 事実として、主人であるメルヴィンが騎士団と遠征軍の調整に手が取られ、留守にした途端これだ。

「私は辺境伯に忠誠を誓った者の一人として、苦言を呈する義務があります『隠者』ノイマン。
 直ちに執務室へ戻って職務を再開して下さい。行政資料など読み解けるのはあなた位でしょう?」

「ああ、なるほど何か有ったね。王都からの物資補給経路の検討と責任者の選定だっけ?」

「はい。貴族社会の常識については少しずつ学んでいますが、『王国』の書類文言には専門用語が多過ぎます」

「うんうん、分かるよお。あれ明らかに読んだ人に理解させる気が無いよね。
 貴族なんて苔生した連中はね、出来るだけ難しい言葉を使うことこそを伝統と格式だと勘違いしているんだ」

 へらっと笑うその頭に、無数の知恵と知識が詰まっている事を、リコリスは知っている。
 事務書類の読解・処理速度に於いて、彼と辺境伯は北方辺境のツートップであり他の追随を一切許さない。

 だが、だからこそ解せない。その能力を天下万民の為に十全に揮ったなら、きっと多くの人を救えるだろう。
 そして大抵の旅する森人(エルフ)なら、それを特別厭いはしないだろう――――と。

「あなたは、どうして何時も“そう”なんですか?」

「“そう”? どうかなあ。人の振る舞いに何かと理由を付けたがるのは若者の悪い癖だよね。
 ただあるがままの自分に理由なんて無い筈なのに、何がそれほど恐いのかな。そっちの方が分からないなあ」

 故郷や同族のことを然程好ましく思ってはいない彼女ですら、そう思う。
 にも関わらず。この眼前の賢人は事更にその能力を発揮する事を面倒くさがり、隙あらば逃走する。

 理由も明確にせずに仕事を後回しにし、いよいよ以て首が回らなくなってから処理に移るのだ。
 あまりに頭が悪い。今日出来ることを明日に回して明日すべきことが出来なくなるなど、道化の所業だ。

 リコリスには彼が同族の恥である以上に同じ森人(エルフ)であることが信じられない。
 一体どんな間違いを冒したら――――こんな人格が育まれるのだろうか。

 ■

「私には、辺境伯が戻り次第提出しなければならない調査書類の準備があるんです。
 いつまでもあなた1人に関わっている訳には行かないの……そんなこと、とっくに分かってますよね」

「うん、だから行っておいで? 今日は陽射しが良くてさあ……最高でねえ……こう……ぽかぽかぁーっと」

「……ノイマン」

 自分でも少し驚く位に極低温の声が響いた。一体何が、彼女を苛立たせるのかは良く、分からない。
 けれど。伝統への盲信、無責任な予言、論拠不明な掟、不運などという偶発的事故に人生を弄ばれて来た。

 そんなリコリスにとって、『隠者』の度の外れた“自由”は憧憬を超え不快感を喚起するのかもしれない。
 そんな彼女の表情を見て――――性別不明の森人(エルフ)は薄く嗤って漸く屋根から身を起こした。

「そんな風に僕に怒っても、君の喪った物が戻る訳ではないよ?」

 ――――『隠者』と彼女はそれほど親しい訳ではない。接点など同じ職場に居る同族、程度のものだ。
 当然、リコリスの側からその過去と経歴について詳らかに語った事など無い筈だ。

 にも関わらず、彼女の語り口調とその態度から一体何を見抜いてみせたのか。
 ノイマンの一言に、縫われた様に凍月の森人(エルフ)の動きが止まる。無自覚に瞬き、視線が泳ぐ。

 八つ当たりの、つもりはなかった。故郷を出奔した時の事は既にリコリスの中で割り切った出来事だ。
 最早二度と森へ戻ることは無いと思うが。寂寞の想いもなく、未練も――――であるにも、関わらず。

「我が君の誠実さを見て、放っておけなかったのは君の生来持つ善良さ故だろう。
 忠誠心を疑う訳じゃないが我武者羅が過ぎるよ御同輩。安心して良い、僕らは君を追い出したりしない」

 背に冷たいものが走る。森人(エルフ)は総じて閉鎖的であり、故郷は中でも特別その傾向が強い。
 知られる事など無い筈だ。リコリス自身が語り聞かせでもしなければ、彼女の過去など。

 にも関わらず、告げる『隠者』の眼差しには揺らぎがない。まるで自らの言が事実と確信する様に。
 ここまで来て、やっと彼女は自分が感じていた違和感の正体に気が付いた。これは――――

 ――――この感情は、苛立ちではない。畏れだ。理解不能の怪物に対する畏れ。
 その眼差しは何時でも人の探られたくない部分まで見透す様に、異常な深度でその心性を洞察する。

 特異な才能。有る種の“異常者”。或いは――――人の域を超えかけている――――“何か”、か。

「……あなたは、何なの」

「何って? 僕はご覧の通り、辺境の『隠者』さ御同輩。
 さてしかし、僕も君の勇気に少しは報いようじゃないか。面倒だしやりたくはないけど、少しはね」

 口笛を吹きながら階下の露台(バルコニー)へ滑り落ちていく『隠者』を見送りながら。
 リコリスもまた漠然と、悟る。あれは、好奇心や探究心なんて生易しい物では断じて無い。

 強いて言うなら度の過ぎた開明思考。恐らくあの森人(エルフ)には自分には見えない物が見えている。
 今此処からの世界を革新させる為なら――――どんな犠牲も厭わないほど“深く”まで。

●忠義の条件

「どうにも、世話を掛けた様だね。貴女は未だ私の臣下ではないと言うのにノイマンの奴と来たら……」

「全くです。あれは痴れ者です。今すぐ矯正するべきだと思います」

「そうしたいのは山々なのだが、なかなか……ね」

 あれから数日。北方辺境伯が中央より戻る直前書類仕事をギリギリ完了させたノイマンは。
 今は精も根も尽き果て何処かに行方を晦ませている。“辺境伯が居るなら自分は要らない”という事だろう。

 自らも昨今王都で起きた聖剣の封印に端を発するメドゥの大幹部の暗躍と戦いについて。
 独自に調べておいた資料を揃えて提出しながら。リコリスは自ら忠を捧げた主人の様相を伺う。

 少なくとも。『隠者』は現時点、表立って北方辺境伯に逆らう様な素振りは見せていない。
 彼の存在は王国軍編成。引いては帝都奪還の大きな一要因だと考えると。その辺に理由が在るのだろう。

 帝都に出現したと言う超大型這者『幽界樹』。その存在を恐らく、ノイマンは是としていない。
 一方で、王国中央で起きた戦いには一切干渉していなかった事。同様に各地の乱を起こる侭にしていた事。

 これらを総合して考えると、“戦い”や“争い”そのものはむしろ推奨し、後押ししているように見える。

「そう言えば『王都』まで出向かれていたんですよね。第二王子の様子は如何でしたか」

「いや、流石に婚姻前で忙しい男を捕まえる訳にも行かなかったよ。
 恐らく彼も帝都奪還には従軍する筈。言葉を交わす機会であれば、今焦らずともまた得られるだろう」

『王国』の唯人(ヒューマン)、それも高位貴族の常識で言うなら。辺境伯は既に結婚適齢期を超えている。
 第二王子の臣籍降下とその影響を加味すれば、王党派の若手筆頭であり第二王子の親友でもある彼。

 メルヴィン・トマス・アーチボルトの婚姻は遠からず周囲から強く求められる事だろう。
 今、これほど軍務が重なっているのは『帝国崩壊』というまるで予期出来なかった歴史的大事件。

 其処から端を発する大陸全体の騒乱があればこそ。落ち着きを取り戻した平時であればそうはいかない筈。
 リコリスの見る限り、メルヴィンは領民から慕われる名君であるのみならず貴族としての振る舞いも卒がない。

 いざ結婚相手を募集すれば引く手数多であるだろうに……或いは、既に誰か心に決めた相手でも居るのか。

「……? どうかされたかな」

「辺境伯は、あまり結婚生活に興味の無い方なのでしょうか」

「……また率直な問だね。どうしてそう思われたのだろう」

「今後必要であると考えて、私もこの『王国』の貴族の生き方について個人的に調べてみました。
 領主の義務には領民の安寧と国家秩序の維持は勿論ですが、次代へこれを継承する、なる物も含まれるとか」

 淡々と応じるリコリスではあるが、正直、彼女自身恋愛や結婚に深い造詣がある訳ではない。
 彼女の代わりに犠牲となった双子の姉には婚約者が居たが、其処には性格や嗜好なども関係した様に思う。

 要するに、彼女はあまり社交的な性質ではなく。自分を曝け出すのに強い恐怖を感じる事が先日。
『隠者』とのやりとりで漠然と分かった。恋愛にも結婚にも、向いている気がまるでしない。

 対して。辺境伯はそうではない。少なくとも日々の訪問者やそれらとの折衝を見る限り。
 正直に過ぎ、謀略や腹芸が下手過ぎると言う欠点こそあるが、個人として見れば十分社交的な部類だ。

 何処かの同族の様に性格的歪みを抱えている様にも見えず、家族となれば相応に大切にもするだろう。
 恋愛対象としての面白みには欠けるかもしれないが――――結婚対象として見るならば。

 ――――と、其処まで考えて。まるで値踏みするかのように見つめたまま沈黙していた自分に気付く。

「辺境伯ほど立場があり、人格者と知られる名君であれば王国社交界でも引く手数多ではないかと」

 焦って言葉を紡ぐ事を優先した為、思ったことをそのまま出力してしまったが。
 結局の所リコリスの抱いた疑問とはそういった物だ。

 流石に、不意を突かれたか。メルヴィンが一瞬目を丸くすると堪え来れなかった様に笑いを零す。
 その足元。毛繕いしていた灰色の猫がにゃあ、と鳴いた。

 ■

「お褒めに預かり光栄だが、私はそれほど大した人間ではないよ。
 学生時代はそれなりに声も掛けられたが、あれはウィリアムのついで。だったのだろうしね」

 ――――うん? それは彼女の洞察眼が捉えた確かな引っ掛かりだった。
 彼は嘘を言っていない。謙遜でもない。恐らく、まさか? いや、しかし本気でそんな事を考えている。

 公爵家に次ぐ家格を持つ辺境伯家の当主。中でも名声と言うならば最高峰と言えるアーチボルト辺境伯家だ。
 それだけでも、真剣に婚姻を望む貴族令嬢など幾らでも居そうだと、リコリスでも分かる。

 にも関わらず? 第二王子のついで? それは……事実誤認ではないだろうか。
 確かに浮名の激しい――――その割に醜聞には乏しい――――第二王子に声を掛ける子女は居ようが。

 どちらかと言えばそちらは擬装(カムフラージュ)であり本命は辺境伯だったのでは……?
 と、内心激しく動揺したが。普段から表情を殺す事に慣れているリコリスはそれを気取らせなかった。

 随分長く沈黙していた為辺境伯が怪訝そうに首を傾げていたが、この認識齟齬どう修正したら良いのだろう。

「……気になる、女性。とかは」

「……、……。なるほど、森人(エルフ)というのはいずれも古老の如き聡き者だと聞く。
 誰も彼もがあのノイマンの様にふらふらしている訳ではない……と言うか、アレが例外で当然か」

 もし標準値があの『隠者』だったとしたら、森人(エルフ)は滅んでいるか大陸の覇権を握っていたでしょう。
 一瞬目眩を憶えながらそんな事を考えていたリコリスに、辺境伯の視線は足元の灰猫へと向く。

 シエル、と名付けられたそれを抱き上げると――――暫し難しそうに眉根を寄せた後。
 改めて正面へと視線を戻す。其処には、何がしかの納得の色が浮かんでいた。

「心配を掛けた様ですまない。そうだな。私にも高位貴族家の領主として果たすべき義務がある。
 遠征を終えた時この身が無事であったなら、真剣に向き合わなければならないと――――そう、思っているよ」

 これは、洞察力に依存しない。いわゆる“女の勘”という奴だろう。
 恋愛経験も結婚願望とも無縁を貫いて来たリコリスにして。彼の素振りは分かり易過ぎた。

 恐らく。誰かしら想う相手が居るのだ。けれどそれは、決して手放しで祝福される様な物ではないのだろう。
 そう考えた時。書物からでは伝わらない“貴族”という人種の難しさが何となく掴めて来た。

 特に、譜代の武門の長ともなれば、何時まで自分が五体満足で居られるかも分からない。
 回復魔法が在るとは言っても、魔法が常に万能ではないことは魔法使い(キャスター)である彼女も知る所だ。

 そんな不安定な立場で、自らの感情に正直であることは無責任だとも言えよう。
 彼の生真面目が過ぎる辺境伯であれば。それを是とは受け止めまい。如何にも面倒な精神性とは思うが――――

 ――――同様に生真面目な性質のリコリスの感性で言えば。その葛藤が理解出来なくも、ない。
 少なくとも『隠者』の如き異常者よりは遥かに深く共感出来る。主の不足は、臣下が補えば良いのだ。

(……この人に忠を捧げるとした私の、人を見る目は強ち間違ってはいなかった)

 その点にほっとしたのは良いが。さて――――しかし問題はもう一つ、ある。

 ■

「辺境伯、不躾ながら申し上げます」

「……何と言うか、貴女の諫言には古い友人を思い出すよ」

「? 古い友人、ですか? まさか第二王子ではなく」

「ああ、いや。ウィリアムは確かに私にとって最も古い友人の1人だが。彼と比べては流石に失礼という物だろう」

 臣籍降下するとは言っても王室の一員を指して、“比べては失礼”とは何方に対してだろう。
 と、そんな事を頭の片隅で考えるも。“古い友人”と聞いて彼女にも幾つか思い当たる節が有った。

 かつて、辺境伯が執政府に居る時は必ず傍に侍っていた2人。黒い鎧の騎士と、白い鎧の女騎士はもう居ない。
 いずれも、あまり円満では無い結末で以て騎士団を離れたと聞いている。殉職の類――――とも。

 自身が属する段階で居ないのでは縁故が生じる余地も無い為、あまり深くは調べなかったが。
 側近と見込んだ人間が続けざまに失われるのは、果たしてどんな喪失感だろう……と考えた時。

 リコリスの思考には嫌が応にも母の。そして姉の記憶が想起される。
 それ以来、人と深く縁を結ぶことを極力避けてきたのは彼女自身の意志だ。煩わしさ、が有った事は認める。

 けれど、それ以上に。過度に踏み込むのも、踏み込まれるのも嫌だった。どうせ置き去りにされるなら。
 森人(エルフ)の時は他の長寿種族と比しても特別に長い。見送る側になるのは定命の必然だ。

 置いていく側は良い。どう足掻こうと、良くも悪くも其処で終わりだ。
 けれど、見送る側はそうは行かない。時の遅さは成長の遅さであり、それは劣化の遅さでもある。

 憶えているのだ。長い時間。少しずつ、少しずつ、香りを、声を、表情を、顔を、断片断片で忘れていっても。
 その名と思い出は。記憶は長く、永く。まるで残滓の様にこびり付いて残り続ける。

 友など、要らない。そう結論付けるには十分なほど。痛みだけを残す追憶ならば。

「それで何だったろう。私は貴女を臣下に迎え入れる事に承諾した。その責は果たす心算でいるが」

「……それです」

「……それ、とは?」

「辺境伯。いえ……敢えて今だけは“メルヴィン様”と御呼びさせて頂いても?」

「? 構わないが」

 その時点で、辺境伯という立場を除いた。私人としての彼に物言いが在る。と言っているも同然であり。
 そしてそれが、“臣下”という枠組みを逸する物であることは、彼も。彼女も理解している訳だが。

 元より手抜きの下手な所があるリコリスにとって、主人の過ちとは即ち自分の過ちである。
 それを糾さねばならない義務など微塵もなく、何であれば権利すら無いが。言わない訳には行かなかった。

「メルヴィン様。貴方は御自分を低く評価し過ぎています。過度な謙遜は士気にも関わるのではないですか」

 ――――人に深入りする事を避けてきた悪影響がこんな所で表出している自覚など無く。

●秋風の残滓

 かつて、彼女が果たした役割は黒鎧の騎士が担っていた。
 主の不足を補い、逸り足を諌め、影となり、日向となり。献身が過ぎる程に務めてきた忠臣が居た。

 それを“赦す”事が出来なかったことは――――メルヴィンと言う男の心奥に、確かな痕を残している。
 貴族家の領主としては不可欠な裁定だった。正しく罰を下せない指揮官は綱紀を糾す事も出来ない。

 信賞必罰。それはあらゆる秩序の基本原則だ。貴族である以上、この原則を任意で崩す事も無論有るが。
 それは軽微な事象に尽きる。忠に叛せば是死すべし。王家に反逆すれば、それは死罪であるように。

 其処を曲げて、追放で済ませたのは最大限の情状酌量と言えた。だが、それは本当に最善だったか。
 もっと上手くは出来なかったか。彼の忠義の士が叛逆の徒などと蔑まされぬ様に計らえなかったか。

 その問は、未だ残ったまま。いや、正解など無い以上永久に消え失せる事など無いのだろう。
 ならば向き合い続けることこそ自らに課すべき罰であり、当然の報いだと。そう――――思っていた。

「先にも言ったろう。私は、貴女が考えているほど大した人間では――――」

「――――あなたが大した人間かどうか、見定めるのはこれからの私の仕事ではありませんか」

 驚いたように、メルヴィンが動きを止める。傲慢とも聞こえるが、それが間違い。とは言い切れまい。
 主人が臣下を選ぶように、臣下にもまた、主人を選ぶ権利がある。その点、両者は平等だ。

『王国』という国土においてそれは断じて事実ではない。立ち場の上下は血筋と身分が決める。
 雇用者の圧倒的優位を認めるのが、この国の貴族社会という統治制度である。

 だが。こと対象を『アーチボルト辺境伯』に絞って言うならば。彼女の言は正鵠を射ていた。

「……その通りだ。貴女には、私が主に相応しいか見定める権利がある」

「ではその上で――――メルヴィン様。私はあなたがいずれその命尽きるまで。
 “忠義を捧げるに相応しい”――――と、考えているから今。此処に居続けているのです」

 流されて、此処に居る訳ではない。彼女も彼女なりに自分の居場所を探して来た。
 為政者を観測するのも彼が初めてではない。その半生を旅に費やして来たのだから。

 けれど。ほんの少しでも共感出来た相手はこれが初めてだ。
 為政者とは、民草から政を取り上げ私腹を肥やし、望むまま支配するしかしない物だと。

 そう諦めかけていた。何時でも苦しむのは力無き弱者であり、犠牲を強いるのは強者の側なのだと。
 誰より率先して“苦しむ”道を選ぶ――――そんな人間が、貴族などという立ち場に居る筈がないと。

 けれど、それは間違いだと分かった。分かったことは、彼女にとって大きな救いだった。
 リコリスを救おうとした母は、姉は、血の繋がった家族だった。家族は、もう居ない。

 そして家族以外の誰も、彼女を救ってはくれなかった。ただ奪おうとする者しか居なかった。
 けれどもしも。その場にこの眼前の、不器用だが誠実な青年が為政者として居たならば。

 古い風習や黴の生えた掟など物ともせず、己の領民の為に進んで骨を折ったろう。
 諦めはしなかったろう。見棄てることもなかったろう。何も捨てずに済んだかもしれない。

 それは――――リコリスには出来なかった事だ。

 ■

 沈黙が降った。それは、額面通りに受け取ったなら称賛の言葉だったろう。
 けれどリコリスの言にはそんな柔らかな色はなく。硬質的な、抜身の刃の様な響きだけがあった。

 彼女はこう言っているのだ。自分が“忠義を向ける主”を、低く見積もる事など許さない。
 例え――――“その主当人であったとしても”――――それは、彼女に対する侮辱であると。

 なかなかに無理がある申し出だと言える。自己評価など人の諫言でそうそう左右される物ではない。
 何と言っても、メルヴィン自身が自分という存在に其処まで重きを置いていない。

 北の英雄と。護国の名将と。王国軍指揮官だなどと幾ら持て囃されようとも。
 自分の代わりなど幾らでも居る。幼き日、半身の喪失と共に深く思い知った実感が、薄れた事はない。

 だが。彼女はそうではないと言うのだ。そうであってはならないし、認める気もないと。
 先じてリコリスを指し、流石に『隠者』ほど常識を忘れた森人(エルフ)もはいないだろうと思ったが。

 それとはまた別の方向性(ベクトル)で以て、彼女の論も大概に理解の障害(ハードル)が高い物だった。
 何せメルヴィンの側から補正出来る部分が殆ど無い。観測と裁定は彼女の一存に委ねられている。

 普通の貴族ならば不敬の極みと怒り狂ってもおかしくはあるまい。メルヴィンですら呆気に取られた。
 ――――取られた、が。しかし。一転考えてみれば。それは彼の覚悟が足りていなかっただけの話だ。

「私は、この先の帝都奪還で死ぬ気は毛頭ない。領民の幸福と安寧を維持する為生き続ける心算だ」

「はい、そうして下されば私も助かります」

「森人(エルフ)は長命だ。が、私の生の最期まで付き合うとなればそれは決して一瞬とはなるまい。
 必然、貴女の時間をそれだけ損なう事になる。それだけの価値を、私に保証出来る訳ではない」

「はい、重々存じ上げています」

「それでも、貴女は“そうするに相応しい”と、私を評した訳かな」

「――――ええ。でなければ、私は早々にあの同族の恥を雪いでこの地を後にしたでしょう」

 これまでと同じ様に、深入りすることなく。その方が、彼女にとって楽だった事は間違いもない。
 けれど今回は、そうではなかった。そうしないだけの価値を――――彼女は漸く見出したのだ。

「……重いな。今の私にはあまりにも過分な申し出だ」

「私も、何時までも“従騎士(スクワイア)”に甘んじる心算もありませんから。
 重く受け止めて頂かなくては困ります……森人(エルフ)女1人の覚悟も、背負えないの? 辺境伯」

 あいも変わらず感情の乗らない問い掛けであるにも関わらず。
 柄にも無い挑発めいた語を態と選んだからか。何処か幼い。辿々しさが滲んでしまったが。

 それを笑うことはなく。北方の英雄は瞳を伏せて深く頷いた。今更と言えば今更だ。
 将とは兵を能く生かし、能く殺す者を言う。臣下の命などとうの昔に背負っている。背負い、歩いて来た。

「その期待。背負い、生き続けてみせよう」

 ――――畏れなど、『王国』(このくに)の誰より長く飼い慣らして来たのがメルヴィンという男だった。

 ■

 はぐはぐと、灰猫が餌箱に顔を突っ込むのを眺めながら。
 執務室を辞したリコリスは背後に立った小柄な影に気が付いた。視線は、向けず問い掛ける。

「盗み聞きとは悪趣味でしょう。……何か用ですか『隠者』」

「いや、別にい? ただ随分面白い話をしていたなってね。何。ご同輩は我が君のことが好きなの?」

「何でも色恋に結びつけると頭が悪く見えますよ。そういった話ではありません」

 事実は、『隠者』は愚か彼女自身にすら分からない。分からないことは、如何な慧眼でも見透す事は叶うまい。
 これはそういった単純なものではないのだ。これまでの彼女の生の積み重ね。その断片断片が関わっている。

 彼女がアーチボルト辺境伯に見出した価値。それが彼女の中に在ってどういった物であるのか。
 その定義付けにはきっと決して短くはない時間がかかるだろう。ただ、間違いの無いことは一つ。

 彼がその誓いを言葉通りに守る限り。この『王国』北方辺境と、執政府とは長い付き合いになるだろうこと。
 そして――――恐らくは。背後に立つ、未だ底の見えない“怪物”との隣人関係も――――また。

「何でも自発的に事務仕事を請け負ったんだって? 未だ赴任もしてないのに酔狂だねえ」

「貴方とは違うんですよ、ノイマン・アガスティア。私はこれで、地道な事が嫌いではないんです」

 日々積み重ね、積み重ね、ひたすら積み重ねれば認めて貰えると言うのは。
 彼女の感覚では非常に容易な作業の一つと映る。信じられない……と瞬く『隠者』とは訳が違う。

 何せこれまで、居場所すら無く日々各地を転々として来たのだ。
 腰を据えて何かに従事し達成感を得る。と言うのは、思ったよりも決して悪くない経験だった。

 日がなふらふらしている放浪者には分かるまい。積み重ねた努力がいずれ、彼の立ち場を脅かす日も遠くはない。
 別に、特別嫌いという訳ではない筈だが。リコリスとノイマンは恐らくあまり相性が良くないのだろう。

 自分が“踏み込まれたくない”場所に一足飛びで踏み込まれた経験は、謎の反発心を生み出していた。
 そうでなくとも。『隠者』の存在が彼女の主(辺境伯)にとって決して益するばかり物ではないという事。

 或いは、何処かで災う可能性について。まるで察せないほど――――リコリスもまた、鈍くはない。

「ふぅーん……ま、良いけどね。精々励むが良いさ。その分、僕は僕で楽させて貰うからね!」

「同族の恥と一緒に、あなたの立ち位置も雪いであげましょう。覚悟なさい、第二位『隠者』」

 秋の終わり。冬の始まり。境界の季節に、一人の森人(エルフ)が居場所を見つけた。
 それは幸運か不運かはともかくも。巡り合わせであり、偶然の産物であることに間違いはあるまい。

 かつて、故郷を追われたその時と同様に。けれど一つだけ差異があるとするならば。
 彼女は周囲に強いられてではなく。今度こそ自分の意志と覚悟で以て、此処で生きていくと決めたのだ。

 にゃあ、と満足そうに灰猫が鳴く。それを眺めて、一度全てを失くした筈の女はほんの僅かに微笑んだ。
 帝国遠征を間近に控えた時節――――これはとある旅人の。一つの終わりと、始まりの記録である。

assignment【DA】史実ノベル 関連特設ページ

メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
集まった情報の中には、世界の情勢に影響はないかもしれないが興味深い個人の記録があるかもしれない。

墓標、白き追憶/弓月 蒼
トゥーリ/アストリッド・リーヴァイス
拝啓、星空のあなたへ/弓月 蒼
Alexandra・Hexe・Claudia/マリステラ・コナー

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