【DA】リーンエスの耳
イヴェール・アーチボルト/ マリエン・D・カーネェジ
『ノベルタイトル:紅染めの百合が微笑うなら』弓月 蒼
●彼女と彼女の秘密の話
それは長くも短く、短くも長い。命懸けの戦いだった。
『帝都』奪還。そして凱旋。帝国崩壊より続く『王国』北境の臨戦態勢は解かれ、平和な日常が戻って来た。
遠征に従軍し、死地を越えて戻って来たイヴェール・イリュジオンもまた。
兼ねてより熱烈にアプローチを受けていた『北方辺境伯』メルヴィン・トマス・アーチボルトの求婚を受け。
この春よりイヴェール・アーチボルトとして。新たな生き方を模索している真っ最中だ。
元々没落貴族とは言え貴族教育とは殆ど無縁の生き方を選んで来た。これから学ぶべきことは数多い。
最近は料理にも凝り始め、日課の素振りこそ欠かしていない物の冒険者時代と比して基本的な運動量が大きく減少。
対して質素倹約指向とは言え“王国最高峰”の貴族家へ入った事で、日常的な食事事情は大きく向上。
特に『北境』の領都は国境の要衝。流通の大動脈だけあり方々の美味珍味の類が何もせずとも自然と集まって来る。
正直なところ、最近少々お腹周りなどが気になりつつも――――あった――――訳だが。
「――――妊娠後4カ月、と言った所ですね。安静にして下さい」
月の頭。定例の健康診断で北方辺境伯家の御典医より告げられた無慈悲な事実に、イヴェールは指を折り数えた。
なるほど、流石に心当たりが無ければ子供は出来ない。そしてまあ……若さゆえの過ちではないが。
彼女には心当たりがあった。あったが、まさか一発必中とは思ってもみなかった。一周回って恐れ入る。
少し計算が出来る人であれば結婚式の日と妊娠発覚が近過ぎる事に気付くだろうが、貴族ならままある話である。
そも、彼女は今でこそ若さと鍛錬で補っているがそれほど身体が丈夫な方ではないし、近年は心労も重なっていた。
そういったことも、起こり難いのではないか……などと、漠然と思ってはいたのだが。
流石射手……やりますね。などと年頃の女子にしてはややアレな方向に思考が逃避しつつも。
既に眼前にある現実は如何ともし難く。何より驚きの後にやって来たのは自分でも予想もしていなかった感情だった。
「………………私に……子供――――が?」
「はい、おめでとうございます奥様。あまりお体に無理を掛けませんよう」
「……、……えぇ!?」
実感は、あまり無かった。けれど、それほど混乱はしないで済んだ。
“この子”にも、自分と同じ宿痾が受け継がれてしまうかもしれないと、そこだけは確かに心配はあったが。
“だから幸せになれない”訳では無い――――し、“だから幸せになってはいけない”訳でも無いことを。
イヴェールはその経験から良く理解している。それを、伝えていければ良いと――――そう思う。
意識すれば分かる程度に少し膨らんだお腹を撫でる。未来は不確実で、どう転ぶかなんて分からないけれど。
良くも悪くもなるし、自分の力だけでどうにか出来る事はごくごく僅かだとも知っているけれど。
好きな人が出来て、その人と結ばれ、家族となって、子供が出来る。そんな、ありふれた幸せの偶像。
無縁だと思っていたそんな人々の中に自分が含まれていることが。不思議で、驚きで、まるで現実味が無くて。
それでも、じわじわと喜びが込み上げて来ることにこそ驚いた。自分にもこんな感情があったのだと。
幸せを掴もうとしたことは――――あの日、復讐に生きた兄ではなく、あの人の手を取る事を選んだことは。
決して間違ってはいなかったのだと。……そう、思った。
■
――――北方辺境伯領、領都。『城塞都市』ノストガルデン郊外。
「……!? はああああぁー……っ!?」
限りなく責めるのに近い大いに呆れた声が響く。安静を命じられ深層の令嬢生活を余儀なくされたイヴェールだが。
彼女は今、護衛も付けずに街の外まで出て来ていた。勿論、安全性と彼女の状態を考えれば完全アウトである。
帝都の『幽界樹』が消滅してよりこちら目撃例は大幅に減ったとは言え、元々『王国』国境は危険地帯だ。
旅人を襲う事を目的とした這者や魔獣、東や西から流れて来た蛮族が出没することすらある。
幾ら優れた剣士であっても妊婦がうろうろするのは余りに不用心である筈なのだが。
今に限っては。イヴェールは正直街の中より遥かに安全な環境下に在ると言えた。
お洒落な食卓布の掛かった丸机の上には、緻密な装飾の茶器が一組乗っている。
そうして対面に腰掛けるのは裾に行くに従い白く色相変化する独特な色の赤い髪を持った一見少女じみた娘だ。
彼女こそは反社会組織の代表格『メドゥの指先』の幹部『赤の薬指』。名をマリエン・D・カーネェジ。
大量虐殺犯として『王国』から指名手配されている文字通りの“大犯罪者”……な、わけだが。
「あの男……真面目だ堅物だと聞いていましたがとんだ色惚けですわね!? くっ……一体どうしてやろうかしら」
「あー……えっと、マリィ、少し落ち着いて」
「これが落ち着いていられる物ですか……っ! 私の庇護する私の可愛い騎士を横から掻っ攫っておいて!
うぅぅ……やっぱりあの時麾下騎士団ごと郎党澱に変換しておけば良かったのですわぁ……ごめんなさいねイヴっ」
「それは勘弁して欲しいですねー……」
しくしくと手巾で顔を覆う赤い魔女は傍目にも情緒不安定にしか見えない。
元々彼女は外観に精神を引っ張られているとの自己評通り、二百歳を優に超えるとは思えない程感受性豊かである。
お互いに“マリィ”、“イヴ”と呼びだしたのは最近の話ではあるものの。
両者の関係は思う以上に長く、イヴェールは眼前の彼女が時に感情のまま暴挙を振るう類の人間だと知っている。
それでもどうにも憎めないのは。彼女の自分に正直な部分には、確かに愛情や愛着も含まれるからだろう。
悪と断じるには人間らし過ぎて。どちらかと言うと感情表現が不器用なイヴェールには羨ましく感じる事も、ままある。
今も、彼女が義憤に駆られているのはあくまでイヴェールを大切に想えばこそだ。
確かに。その力は外から制御出来る様な代物ではなく、気分屋で、酷く危なっかしく、気位も高く、社会生活は甚だ難しい。
けれど見捨てる気にはなれなくて。現王家に対する敬意や忠誠心なども廃れて久しいイヴェールから見れば。
被害者とも思える彼女を一方的に断罪する気にも――――やはり、なれなかった。
「あっ、もしかして今からでも遅くはなかったりするかしら?」
「まだ生まれてもいない子を、片親にするのは可哀想だとは思いませんか?」
「ぐぅぅぅ……それは、確かに、貴族らしくありませんけ゛れ゛と゛お゛お゛お゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ!!」
丸机に突っ伏したマリエンへ、持って来た手作りの焼き菓子の編み篭を押しだしご機嫌を取る。
子供の様に表情を変える彼女は、きっとこういった“誰か”と一緒に過ごす時を殆ど経ずに生きて来たに違いない。
そして既に遠い昔に“ヒト”の枠組みを超えて久しい以上、その命運は誰かに摘まれない限り当分の所潰える事は無い。
心配だった。この新しい友人はどれほど釘を刺しても一人になればまた、容易に超えていけない一線を踏み越えると分かる。
でも、孤独と言うのはそういうものかもしれない。誰かが手を繋ぎ留めてくれなければ。
自らも真っ直ぐ堕ちて行こうとしていたと言う心当たりがあるからこそ、分かったこともある。
理や法では縛れない。それが“欠落”であるのだと、それもまた全く理解出来ないでも無いからこそ。
酷く哀しみに暮れながら焼き菓子を頬張る紅い魔女を一瞥し。イヴェールは、そっと嘆息を零す。
■
「マリィは、まだ理想の王子様を探していくんですか?」
「必然、粛然、当然ですわ。先の一件は少しばかり焦り過ぎました。ですが可能性の芽は見えましたわ。
這者を人の容に留めるには鋳型が必要、と言うのが今の私の仮説ですの。なので先ず実験を――――」
「でも、それでも駄目だったら?」
「……何が仰りたいんですの? それはまあ、イヴは御相手も見つかった様ですけれど。
それについては言いたい事も不平不満も沢山沢山沢山有りますけれど。それと私の王子様捜しは全く別の……」
紅茶で唇を湿らせる。流石元最高位貴族。彼女が何処からか用意するお茶は『王国』でもそうはない品質のものだ。
重層的で豊潤、何処か甘い風味が鼻孔を抜ける。文句無しの高級茶葉と言えたろう。
そしてこの茶葉などがまさに端的に表している様に……マリエンの理想は、高い。
望んで手に入らなかった。裏切られ切り捨てられた“幸せ”の象徴なのだから当然と言えば当然の話ではあるが。
彼女自身、生まれながらの高嶺の花であり、元“王子の婚約者”とあっては恋愛経験も皆無と言って良いだろう。
と言って、血筋にせよ家格にせよ授恵者としての力量にせよ生来の美貌にせよ。自尊心を育む土壌は十分に過ぎる。
結果これ以上ないほど“拗らせた”淑女の権化とも言えるのが眼前の赤い魔女である。
並大抵の男が彼女の眼鏡に適うとは思えず、事実適ってこなかったから『メドゥの指先』などしているのであるが。
「例えば――――の話なんですが。1から育ててみると言うのはどうでしょう?」
「……? 1から? 造人的な手法ならもう見切りを付けた後ですけれど……」
そう言って、指を立てたイヴェールに魔女から向けられた眼差しは怪訝の色、それ一色。
けれど彼女は至って冷静に、楽しげに、無茶と言う他ない未来を口遊む。
「男女の相性何て時間を掛けないと分からないじゃないですか。付き合ってみたら何か違う……とか。
それなら幼い頃から一緒に過ごし、お互いの事を深く知った上で全て受け入れてくれる相手を育ててみては、と」
「それは乳母の役割じゃ……いえ、それ以前にそもそもそんな好都合な相手が何処に居ますの?
嫌ですわよ見目の良い赤子を捜して攫うとか、幾ら私が外道に手を染めたと言っても、そこまで堕ちていませんわ」
傍から聞いたら立派な犯罪教唆であり、品行方正の化身の様に語られる北方辺境伯の妃とは思えない訳だが。
流石にイヴェールもそんな滅茶苦茶な提案はしない。ゆっくり頭を振ると優しげに自らのお腹を撫でてこう続けた。
「うちの子とかどうでしょう。まだ産まれていませんけれど」
「妊娠欝か何かですの? 偶にあると聞きますけれど」
「まさか……! 本気ですよ!!」
拳を握って言い切ったイヴェールの言に、『王国』史上に名を残す魔女が見るからに引いていた。
そんな子供の尊厳や人格を一体何だと……と言った眼差しだった。大量虐殺した魔女が言うな案件ではある。
「まあ、未来は不確実な物なので性別すら未知数ではありますが」
「不確実性が要塞の如く立ちはだかっている様に感じるのは私の気の所為かしら?」
「もしかすると理想の王子様に育つかもしれないではないですか……!」
「御自分とあの男の才能に期待寄せ過ぎではありませんの……!?」
ガバガバ理論に突っ込みが追い付かない。胎児に脳の栄養を吸われているのでは、とマリエンが(失礼な)戦慄をする一方。
イヴェールはイヴェールで、きちんとこの友人を心配しての言葉でもあるのだ。
何せ、彼女はそれほど長くは生きられない。殆ど永遠を生きる紅百合の魔女とは訳が違う。
――――だからこそ、自分が生きている内に。彼女に現世との縁を繋いでおきたい。
それはもう十分幸せと言えるイヴェールにとってただ一つ、未だ果たし切れていない心残りだった。
●魔女と騎士とその後の話
その日はそこで解散となり、領都に戻ったイヴェールは先ず如何にして夫を説得するかを考えながら床に就いた。
妊娠が発覚してより数日は、執政府内でもちょっとした混乱と騒ぎが巻き起こったものだが。
今となってはそれも落ち着いている。何せ男児であれ女児であれ、アーチボルト辺境伯家の第一子である。
母体の安全と安静は領政に匹敵するだけの重みが置かれており、今も室外には護衛の騎士が配備されている。
メルヴィンはとても喜んでくれた。喜んでくれたことが嬉しいとは。まあ、想っても直接伝えられてはいないが。
それはそれとしてこの厳戒態勢を見るに。産まれて来る“世継ぎ”が貴族に於いてどれほど特別な存在か。
没落貴族では知識でしか得られなかった感覚を、嫌が応にも思い知らされる。これは今だけの話ではないだろう。
当然今後も、その交流関係すらある程度の精査と振るい分けがされるに違いない。
『赤の薬指』或いは『呪殺公主』――――マリエンは魔女である。『王国』内では指名手配されている大犯罪者だ。
イヴェールにとっては放っておけない相手だが、殆どの『王国』の人々にとってはそうではない。
『王国』法の体現者にして国境の守護者たる『北方辺境伯』からすれば“見逃す”事すらも容易には頷けまい。
特大の攻性魔法陣を自領に抱え込む様な物だ。何がきっかけで起動するかも分からない危険分子を見逃せば。
領主は無能の謗りを免れず、当然に王家から罰を被る。そんな人間を大切な世継ぎに近付ける事を由とするか。
答えが分からない程――――イヴェールとて、子供ではない。
(……本来なら、私がどうにか出来る範疇はとっくに超えてる)
だとしても。彼女の命を救った事を。縁を結んだ事を。後悔する気はまるでない。
きっと、あれはイヴェールにとっても必要な決断だった。それが彼女にとってもであれば嬉しく思う。
だから此処で見捨てるなんてことは出来ない。それが例えどれほど無理難題であったとしても。
家族となった夫の事は勿論大切だし愛しているけれど、それと友人の大切さはまた別の物なのだ。
そこまで考えて――――ふと。寝台から身を起こし今月の予定を記した手帳を確認する。
そう言えば、先日手紙で応じた予定の日取りはそろそろではなかったか。と思えばまさに。
遠方から彼女にとって冒険者時代に縁を刻んだ友人がやって来る日が、もう数日後まで迫っていた。
幸いにして。彼女とマリエンには面識が有る。被害者であり、恩人でもあると言う複雑さはあるものの。
相手は生粋の貴族令嬢。恐らくこういった難題への対応では、自分よりずっと頼りになる筈だ。
まあ、そもそもにして。件の赤い魔女について相談出来る相手……と言うのが貴重な訳であるが。
あまり余計な心労は掛けたくないけれど。相談、してみるべきだろうか。
「……でも先生なら、何か名案を授けてくれるかもしれません」
他力本願とは言うなかれ。そもそもにしてイヴェールは余り難しい事を考えるのは苦手である。
元より家族にすら大雑把だと評されていたその気質は、冒険者稼業を経て強化され今に至る。
前衛が後衛の真似事をしても限界があるし、守勢が得意な者は護り攻勢が得意な者が攻めれば良い。
如何なる依頼であれ最も大切なのは……適材適所、であると。
■
かくして月の中頃。城塞都市『ノストガルデン』北方辺境伯領領主邸――――伯妃の私室。
「――――と、言う訳なんです」
「なるほど、あのマリアさんがそんな……その……えっと……」
面白いことに。と言うのは流石に憚られたのか。遥々『王国』中央から遠征して来た旅する治療師。
こと、元ウェザーランス子爵家令嬢クリスティン・ウェザーランスはその柳眉を深く寄せて首を傾げた。
イヴェールより年齢では一回り年上である彼女は、正式に『学園』を辞め冒険者になった。
本来貴族令嬢としては有り得ない選択だったが、“帝都奪還遠征”に参戦した事が何かの契機となったらしい。
そんな彼女が国境である『北境』を訪れるのも然程珍しい事ではなく。自室で話をするのも初めてではない。
そして幸か不幸かはさておき。彼女は数少ないイヴェール、マリエンのいずれもと面識を持つ相談相手だと言えた。
「正直、私はマリィにも幸せになって欲しいと思っています」
「罪人もまた人……ですか。難しいですね……ただ、お気持ちは私にも良く分かります」
クリスティンにとって、マリエンは恩人だ。少なくとも、今の彼女が在るのは件の魔女の御蔭、ではある。
其処には複雑な気持ちも有る物の……誰かへの罪と自分への恩を、相殺してはいけないとも、思う。
人の幸不幸を他人が一概にどうと言う事は出来ないが、少なくとも。
イヴェールの目から見て、先生――――クリスティン元女教師は心身共に随分と強くなった。
勿論、或いは彼女には別の幸せも有ったのかもしれないと、思う部分も無い訳では無いにせよ。
恐らくそれを口に出したとしたら彼女は頭を横に振る事だろう。だから、イヴェールは消えない罪悪感を押し殺す。
「でもそれが難しいのであれば、せめて」
「御子さんとの縁を刻むことでそれが楔となるなら……ですか。では、こうしてはどうでしょう?」
昔取った杵柄と言うのはなかなかどうして侮れない物で、クリスティンのアドバイスには無理が無い。
相手を動かそうとはせず、あくまで当人の自主性を後押しする形で投げられる言葉は耳に心地良い。
イヴェールはなるほど……と首肯すると同時に。やはりこの人は人を教導する人なのだな、との想いを新たにする。
紆余曲折はあったものの。彼女が漸くそんな自分を取り戻せたのだとしたら、これほど嬉しい事は無いのだから。
――――そうして、月の終わりのこと。
「嫌ですの」
定例となったお茶会で、魔女はとても良い笑顔でそう応じた。
にべもない、とはこの事だった。多分マリィはそういうだろうなあ、とはイヴェールも薄々思っていたが。
「何で、私が、あの、男の、住居に、態々、居を構えないといけませんの? 灰燼に帰しても良いなら考えますわ」
何故か、と問うまでも無くマリエンと彼女の夫。『北方辺境伯』メルヴィンとは仲が悪い。
まあ……片や王国を護る北境の英雄で、片や反社会組織幹部である大犯罪者。仲が良くなる要素は微塵も無いが。
「産まれて来る子供にとって、貴女はきっと良いお姉さんになってくれると思うからです」
けれど。ここまで明確な拒絶を受けて尚。イヴェールは真摯に語り掛けた。
彼女は知っている。この魔女がどれだけ裏切られて来たか。家に。友に。想い人に。そして描いた理想に。
最初からこうではなかった筈だ。マリエンには才能が有った。力が有った。誰もそんな物望んではいなかった。
ただ、幸せになりたいと。そう訴える眼前の魔女が実は寂しがりである事を。イヴェールだけは知っている。
放っておけなかった。放っておきたくは、なかった。
「魔法に、興味を持つ子かもしれません。貴女を、護ってくれる子かもしれません」
「……私はそんな事頼んでいませんの。それに、別に独りでも――――」
「――――独りでも平気、だなんて。寂しいこと言わないで」
善でも、正義でもない。きっと、昔の自分なら問答無用で剣の錆にしようと考えただろう。
彼女には罪がある。情状酌量の余地が十分とは言えない。けれど、罰なら受けた。二百年が無為に潰えた。
もう良いじゃないかと思うのは、きっと贔屓目だろう。迷いを瞳に宿す魔女をイヴェールは抱きしめる。
女性的な丸みを帯びた、けれども華奢な体躯。彼女を護ると、あの日、約束したのだから。
「……、……。」
不満の色をはっきり残しながらも黙り込んだ赤い魔女は。けれど、それ以上拒否する事はしなかった。
■
「そもそも、貴女がどれほどそれを望んだ所であの男が許容しないでしょう?」
「何とか言い含めて説得します」
「イヴに言い包められる人間がそれほど多いとは、私思っていないのですけれど」
半目で応じた魔女の言は、正直割と的を射ていた。イヴェールは自分を辺境の田舎娘と定義している。
学問的な分野は殆ど接点を持たずに生きて来たし、然程口論が強いタイプでもない。
恐らく、生まれ育ちはともかく生粋の高位貴族として研鑽を積んできた北方辺境伯たるメルヴィンと。
真っ向勝負で口論となったとしたなら言い負かされるのはイヴェールの側だろう事は想像に難くない。
まあ……実の所メルヴィンはそれほど強固に自分の意見を通そうとする事そのものが殆ど無いし。
何であればイヴェールの意見を断固拒否する様な性格でないこともまた、ある程度承知してはいるのだが。
「……最悪、剣なら負けませんし」
「本当に最悪ですわねえ!? しかも貴女妊婦ですのよ……!?」
「そうでした……」
最後の手段も禁じられたイヴェールは無力であった。そもそも物理決着に持ち込むな、と言う話ではある。
しょんぼりと項垂れた自らの騎士を前にして、赤い魔女は困惑と懊悩が半分ずつと言う顔で傾くと。
暫し手段を探る様に黙り込む。本意でないことに、彼女がこれほど譲歩することはとても珍しい。
基本、したくないことはしない、と断じて憚らないのがマリエンと言う娘である。
それは、イヴェールも重々承知している。承知しているからこそ――――こうして申し出ているのだ。
彼女が条件を問うて来た時点で、それは決して。“したくないこと”ではない事の、筈だから。
「……でも、私は、多分ずっと一緒には居られませんから。産まれたら是非、一緒に遊んであげて下さい」
それは、不意に毀れた言葉だった。意識していた訳ではないけれど。それでも何一つ誤り無く。
それは切なる願いだった。自分が居なくなった後、託したい物。託したい人。どちらもを一纏めにして。
一緒に歩いて行って欲しいと言う、イヴェールの我儘だ。先に逝く者の、とてもずるい、我儘だ。
聞かなければいけない理由も無い。跳ね除けられても文句なんて唯一つも言う資格はない。
沈黙が落ちた。日が暮れつつある北方辺境に影が伸びる。お互いの表情すら見えない静けさの中。
そうして魔女はただ深く、深く。本当に世話の掛かる妹にするように、それでも確かに吐息を溢した。
「……馬鹿な子」
「知っているでしょう?」
それでも良いと、思ったのだ。正しくなくて良い。真っ直ぐでなくて良い。賢くなくて、良い。
我儘で良い。自分の手で護れないのは無念だけれど、きっと貴女は最後まで看取ってくれるだろうから。
「ええ」
そうして誰知れず、誰にも見えない場所で。全部が全部終わって、何一つ取り戻せなくなった後で。
どうせたった独りで泣くのが、分かってしまうから。
「よぉく、知っていますわ」
仕方なさそうに呟いた魔女の声音に、イヴェールは嬉しそうに瞳を閉じた。
もしもそんな我儘一つで――――いつか紅染めの百合が微笑ってくれるなら。
■
――――後に。北方辺境伯領領主邸には魔女が出る。と言う噂が侍女の間で広まった。
曰く、魔女は甘い百合の香りと共に現れ出て、気付けば何処とも無く姿を晦ますのだと。
『北境』に居着いて長く、騎士団の重鎮である森人はその不気味な出来事を相談されると。
長い人生だ。不思議な事の一つや二つ有った方が楽しいでしょ? と笑って応じたそうだ。
当の屋敷の主である北方辺境伯は深刻そうに眉を寄せたが、その妃は実に楽しげに微笑んだと言う。
いかにも辺境にありがちな。怪談じみた四方山話である。
それは長くも短く、短くも長い。命懸けの戦いだった。
『帝都』奪還。そして凱旋。帝国崩壊より続く『王国』北境の臨戦態勢は解かれ、平和な日常が戻って来た。
遠征に従軍し、死地を越えて戻って来たイヴェール・イリュジオンもまた。
兼ねてより熱烈にアプローチを受けていた『北方辺境伯』メルヴィン・トマス・アーチボルトの求婚を受け。
この春よりイヴェール・アーチボルトとして。新たな生き方を模索している真っ最中だ。
元々没落貴族とは言え貴族教育とは殆ど無縁の生き方を選んで来た。これから学ぶべきことは数多い。
最近は料理にも凝り始め、日課の素振りこそ欠かしていない物の冒険者時代と比して基本的な運動量が大きく減少。
対して質素倹約指向とは言え“王国最高峰”の貴族家へ入った事で、日常的な食事事情は大きく向上。
特に『北境』の領都は国境の要衝。流通の大動脈だけあり方々の美味珍味の類が何もせずとも自然と集まって来る。
正直なところ、最近少々お腹周りなどが気になりつつも――――あった――――訳だが。
「――――妊娠後4カ月、と言った所ですね。安静にして下さい」
月の頭。定例の健康診断で北方辺境伯家の御典医より告げられた無慈悲な事実に、イヴェールは指を折り数えた。
なるほど、流石に心当たりが無ければ子供は出来ない。そしてまあ……若さゆえの過ちではないが。
彼女には心当たりがあった。あったが、まさか一発必中とは思ってもみなかった。一周回って恐れ入る。
少し計算が出来る人であれば結婚式の日と妊娠発覚が近過ぎる事に気付くだろうが、貴族ならままある話である。
そも、彼女は今でこそ若さと鍛錬で補っているがそれほど身体が丈夫な方ではないし、近年は心労も重なっていた。
そういったことも、起こり難いのではないか……などと、漠然と思ってはいたのだが。
流石射手……やりますね。などと年頃の女子にしてはややアレな方向に思考が逃避しつつも。
既に眼前にある現実は如何ともし難く。何より驚きの後にやって来たのは自分でも予想もしていなかった感情だった。
「………………私に……子供――――が?」
「はい、おめでとうございます奥様。あまりお体に無理を掛けませんよう」
「……、……えぇ!?」
実感は、あまり無かった。けれど、それほど混乱はしないで済んだ。
“この子”にも、自分と同じ宿痾が受け継がれてしまうかもしれないと、そこだけは確かに心配はあったが。
“だから幸せになれない”訳では無い――――し、“だから幸せになってはいけない”訳でも無いことを。
イヴェールはその経験から良く理解している。それを、伝えていければ良いと――――そう思う。
意識すれば分かる程度に少し膨らんだお腹を撫でる。未来は不確実で、どう転ぶかなんて分からないけれど。
良くも悪くもなるし、自分の力だけでどうにか出来る事はごくごく僅かだとも知っているけれど。
好きな人が出来て、その人と結ばれ、家族となって、子供が出来る。そんな、ありふれた幸せの偶像。
無縁だと思っていたそんな人々の中に自分が含まれていることが。不思議で、驚きで、まるで現実味が無くて。
それでも、じわじわと喜びが込み上げて来ることにこそ驚いた。自分にもこんな感情があったのだと。
幸せを掴もうとしたことは――――あの日、復讐に生きた兄ではなく、あの人の手を取る事を選んだことは。
決して間違ってはいなかったのだと。……そう、思った。
■
――――北方辺境伯領、領都。『城塞都市』ノストガルデン郊外。
「……!? はああああぁー……っ!?」
限りなく責めるのに近い大いに呆れた声が響く。安静を命じられ深層の令嬢生活を余儀なくされたイヴェールだが。
彼女は今、護衛も付けずに街の外まで出て来ていた。勿論、安全性と彼女の状態を考えれば完全アウトである。
帝都の『幽界樹』が消滅してよりこちら目撃例は大幅に減ったとは言え、元々『王国』国境は危険地帯だ。
旅人を襲う事を目的とした這者や魔獣、東や西から流れて来た蛮族が出没することすらある。
幾ら優れた剣士であっても妊婦がうろうろするのは余りに不用心である筈なのだが。
今に限っては。イヴェールは正直街の中より遥かに安全な環境下に在ると言えた。
お洒落な食卓布の掛かった丸机の上には、緻密な装飾の茶器が一組乗っている。
そうして対面に腰掛けるのは裾に行くに従い白く色相変化する独特な色の赤い髪を持った一見少女じみた娘だ。
彼女こそは反社会組織の代表格『メドゥの指先』の幹部『赤の薬指』。名をマリエン・D・カーネェジ。
大量虐殺犯として『王国』から指名手配されている文字通りの“大犯罪者”……な、わけだが。
「あの男……真面目だ堅物だと聞いていましたがとんだ色惚けですわね!? くっ……一体どうしてやろうかしら」
「あー……えっと、マリィ、少し落ち着いて」
「これが落ち着いていられる物ですか……っ! 私の庇護する私の可愛い騎士を横から掻っ攫っておいて!
うぅぅ……やっぱりあの時麾下騎士団ごと郎党澱に変換しておけば良かったのですわぁ……ごめんなさいねイヴっ」
「それは勘弁して欲しいですねー……」
しくしくと手巾で顔を覆う赤い魔女は傍目にも情緒不安定にしか見えない。
元々彼女は外観に精神を引っ張られているとの自己評通り、二百歳を優に超えるとは思えない程感受性豊かである。
お互いに“マリィ”、“イヴ”と呼びだしたのは最近の話ではあるものの。
両者の関係は思う以上に長く、イヴェールは眼前の彼女が時に感情のまま暴挙を振るう類の人間だと知っている。
それでもどうにも憎めないのは。彼女の自分に正直な部分には、確かに愛情や愛着も含まれるからだろう。
悪と断じるには人間らし過ぎて。どちらかと言うと感情表現が不器用なイヴェールには羨ましく感じる事も、ままある。
今も、彼女が義憤に駆られているのはあくまでイヴェールを大切に想えばこそだ。
確かに。その力は外から制御出来る様な代物ではなく、気分屋で、酷く危なっかしく、気位も高く、社会生活は甚だ難しい。
けれど見捨てる気にはなれなくて。現王家に対する敬意や忠誠心なども廃れて久しいイヴェールから見れば。
被害者とも思える彼女を一方的に断罪する気にも――――やはり、なれなかった。
「あっ、もしかして今からでも遅くはなかったりするかしら?」
「まだ生まれてもいない子を、片親にするのは可哀想だとは思いませんか?」
「ぐぅぅぅ……それは、確かに、貴族らしくありませんけ゛れ゛と゛お゛お゛お゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ!!」
丸机に突っ伏したマリエンへ、持って来た手作りの焼き菓子の編み篭を押しだしご機嫌を取る。
子供の様に表情を変える彼女は、きっとこういった“誰か”と一緒に過ごす時を殆ど経ずに生きて来たに違いない。
そして既に遠い昔に“ヒト”の枠組みを超えて久しい以上、その命運は誰かに摘まれない限り当分の所潰える事は無い。
心配だった。この新しい友人はどれほど釘を刺しても一人になればまた、容易に超えていけない一線を踏み越えると分かる。
でも、孤独と言うのはそういうものかもしれない。誰かが手を繋ぎ留めてくれなければ。
自らも真っ直ぐ堕ちて行こうとしていたと言う心当たりがあるからこそ、分かったこともある。
理や法では縛れない。それが“欠落”であるのだと、それもまた全く理解出来ないでも無いからこそ。
酷く哀しみに暮れながら焼き菓子を頬張る紅い魔女を一瞥し。イヴェールは、そっと嘆息を零す。
■
「マリィは、まだ理想の王子様を探していくんですか?」
「必然、粛然、当然ですわ。先の一件は少しばかり焦り過ぎました。ですが可能性の芽は見えましたわ。
這者を人の容に留めるには鋳型が必要、と言うのが今の私の仮説ですの。なので先ず実験を――――」
「でも、それでも駄目だったら?」
「……何が仰りたいんですの? それはまあ、イヴは御相手も見つかった様ですけれど。
それについては言いたい事も不平不満も沢山沢山沢山有りますけれど。それと私の王子様捜しは全く別の……」
紅茶で唇を湿らせる。流石元最高位貴族。彼女が何処からか用意するお茶は『王国』でもそうはない品質のものだ。
重層的で豊潤、何処か甘い風味が鼻孔を抜ける。文句無しの高級茶葉と言えたろう。
そしてこの茶葉などがまさに端的に表している様に……マリエンの理想は、高い。
望んで手に入らなかった。裏切られ切り捨てられた“幸せ”の象徴なのだから当然と言えば当然の話ではあるが。
彼女自身、生まれながらの高嶺の花であり、元“王子の婚約者”とあっては恋愛経験も皆無と言って良いだろう。
と言って、血筋にせよ家格にせよ授恵者としての力量にせよ生来の美貌にせよ。自尊心を育む土壌は十分に過ぎる。
結果これ以上ないほど“拗らせた”淑女の権化とも言えるのが眼前の赤い魔女である。
並大抵の男が彼女の眼鏡に適うとは思えず、事実適ってこなかったから『メドゥの指先』などしているのであるが。
「例えば――――の話なんですが。1から育ててみると言うのはどうでしょう?」
「……? 1から? 造人的な手法ならもう見切りを付けた後ですけれど……」
そう言って、指を立てたイヴェールに魔女から向けられた眼差しは怪訝の色、それ一色。
けれど彼女は至って冷静に、楽しげに、無茶と言う他ない未来を口遊む。
「男女の相性何て時間を掛けないと分からないじゃないですか。付き合ってみたら何か違う……とか。
それなら幼い頃から一緒に過ごし、お互いの事を深く知った上で全て受け入れてくれる相手を育ててみては、と」
「それは乳母の役割じゃ……いえ、それ以前にそもそもそんな好都合な相手が何処に居ますの?
嫌ですわよ見目の良い赤子を捜して攫うとか、幾ら私が外道に手を染めたと言っても、そこまで堕ちていませんわ」
傍から聞いたら立派な犯罪教唆であり、品行方正の化身の様に語られる北方辺境伯の妃とは思えない訳だが。
流石にイヴェールもそんな滅茶苦茶な提案はしない。ゆっくり頭を振ると優しげに自らのお腹を撫でてこう続けた。
「うちの子とかどうでしょう。まだ産まれていませんけれど」
「妊娠欝か何かですの? 偶にあると聞きますけれど」
「まさか……! 本気ですよ!!」
拳を握って言い切ったイヴェールの言に、『王国』史上に名を残す魔女が見るからに引いていた。
そんな子供の尊厳や人格を一体何だと……と言った眼差しだった。大量虐殺した魔女が言うな案件ではある。
「まあ、未来は不確実な物なので性別すら未知数ではありますが」
「不確実性が要塞の如く立ちはだかっている様に感じるのは私の気の所為かしら?」
「もしかすると理想の王子様に育つかもしれないではないですか……!」
「御自分とあの男の才能に期待寄せ過ぎではありませんの……!?」
ガバガバ理論に突っ込みが追い付かない。胎児に脳の栄養を吸われているのでは、とマリエンが(失礼な)戦慄をする一方。
イヴェールはイヴェールで、きちんとこの友人を心配しての言葉でもあるのだ。
何せ、彼女はそれほど長くは生きられない。殆ど永遠を生きる紅百合の魔女とは訳が違う。
――――だからこそ、自分が生きている内に。彼女に現世との縁を繋いでおきたい。
それはもう十分幸せと言えるイヴェールにとってただ一つ、未だ果たし切れていない心残りだった。
●魔女と騎士とその後の話
その日はそこで解散となり、領都に戻ったイヴェールは先ず如何にして夫を説得するかを考えながら床に就いた。
妊娠が発覚してより数日は、執政府内でもちょっとした混乱と騒ぎが巻き起こったものだが。
今となってはそれも落ち着いている。何せ男児であれ女児であれ、アーチボルト辺境伯家の第一子である。
母体の安全と安静は領政に匹敵するだけの重みが置かれており、今も室外には護衛の騎士が配備されている。
メルヴィンはとても喜んでくれた。喜んでくれたことが嬉しいとは。まあ、想っても直接伝えられてはいないが。
それはそれとしてこの厳戒態勢を見るに。産まれて来る“世継ぎ”が貴族に於いてどれほど特別な存在か。
没落貴族では知識でしか得られなかった感覚を、嫌が応にも思い知らされる。これは今だけの話ではないだろう。
当然今後も、その交流関係すらある程度の精査と振るい分けがされるに違いない。
『赤の薬指』或いは『呪殺公主』――――マリエンは魔女である。『王国』内では指名手配されている大犯罪者だ。
イヴェールにとっては放っておけない相手だが、殆どの『王国』の人々にとってはそうではない。
『王国』法の体現者にして国境の守護者たる『北方辺境伯』からすれば“見逃す”事すらも容易には頷けまい。
特大の攻性魔法陣を自領に抱え込む様な物だ。何がきっかけで起動するかも分からない危険分子を見逃せば。
領主は無能の謗りを免れず、当然に王家から罰を被る。そんな人間を大切な世継ぎに近付ける事を由とするか。
答えが分からない程――――イヴェールとて、子供ではない。
(……本来なら、私がどうにか出来る範疇はとっくに超えてる)
だとしても。彼女の命を救った事を。縁を結んだ事を。後悔する気はまるでない。
きっと、あれはイヴェールにとっても必要な決断だった。それが彼女にとってもであれば嬉しく思う。
だから此処で見捨てるなんてことは出来ない。それが例えどれほど無理難題であったとしても。
家族となった夫の事は勿論大切だし愛しているけれど、それと友人の大切さはまた別の物なのだ。
そこまで考えて――――ふと。寝台から身を起こし今月の予定を記した手帳を確認する。
そう言えば、先日手紙で応じた予定の日取りはそろそろではなかったか。と思えばまさに。
遠方から彼女にとって冒険者時代に縁を刻んだ友人がやって来る日が、もう数日後まで迫っていた。
幸いにして。彼女とマリエンには面識が有る。被害者であり、恩人でもあると言う複雑さはあるものの。
相手は生粋の貴族令嬢。恐らくこういった難題への対応では、自分よりずっと頼りになる筈だ。
まあ、そもそもにして。件の赤い魔女について相談出来る相手……と言うのが貴重な訳であるが。
あまり余計な心労は掛けたくないけれど。相談、してみるべきだろうか。
「……でも先生なら、何か名案を授けてくれるかもしれません」
他力本願とは言うなかれ。そもそもにしてイヴェールは余り難しい事を考えるのは苦手である。
元より家族にすら大雑把だと評されていたその気質は、冒険者稼業を経て強化され今に至る。
前衛が後衛の真似事をしても限界があるし、守勢が得意な者は護り攻勢が得意な者が攻めれば良い。
如何なる依頼であれ最も大切なのは……適材適所、であると。
■
かくして月の中頃。城塞都市『ノストガルデン』北方辺境伯領領主邸――――伯妃の私室。
「――――と、言う訳なんです」
「なるほど、あのマリアさんがそんな……その……えっと……」
面白いことに。と言うのは流石に憚られたのか。遥々『王国』中央から遠征して来た旅する治療師。
こと、元ウェザーランス子爵家令嬢クリスティン・ウェザーランスはその柳眉を深く寄せて首を傾げた。
イヴェールより年齢では一回り年上である彼女は、正式に『学園』を辞め冒険者になった。
本来貴族令嬢としては有り得ない選択だったが、“帝都奪還遠征”に参戦した事が何かの契機となったらしい。
そんな彼女が国境である『北境』を訪れるのも然程珍しい事ではなく。自室で話をするのも初めてではない。
そして幸か不幸かはさておき。彼女は数少ないイヴェール、マリエンのいずれもと面識を持つ相談相手だと言えた。
「正直、私はマリィにも幸せになって欲しいと思っています」
「罪人もまた人……ですか。難しいですね……ただ、お気持ちは私にも良く分かります」
クリスティンにとって、マリエンは恩人だ。少なくとも、今の彼女が在るのは件の魔女の御蔭、ではある。
其処には複雑な気持ちも有る物の……誰かへの罪と自分への恩を、相殺してはいけないとも、思う。
人の幸不幸を他人が一概にどうと言う事は出来ないが、少なくとも。
イヴェールの目から見て、先生――――クリスティン元女教師は心身共に随分と強くなった。
勿論、或いは彼女には別の幸せも有ったのかもしれないと、思う部分も無い訳では無いにせよ。
恐らくそれを口に出したとしたら彼女は頭を横に振る事だろう。だから、イヴェールは消えない罪悪感を押し殺す。
「でもそれが難しいのであれば、せめて」
「御子さんとの縁を刻むことでそれが楔となるなら……ですか。では、こうしてはどうでしょう?」
昔取った杵柄と言うのはなかなかどうして侮れない物で、クリスティンのアドバイスには無理が無い。
相手を動かそうとはせず、あくまで当人の自主性を後押しする形で投げられる言葉は耳に心地良い。
イヴェールはなるほど……と首肯すると同時に。やはりこの人は人を教導する人なのだな、との想いを新たにする。
紆余曲折はあったものの。彼女が漸くそんな自分を取り戻せたのだとしたら、これほど嬉しい事は無いのだから。
――――そうして、月の終わりのこと。
「嫌ですの」
定例となったお茶会で、魔女はとても良い笑顔でそう応じた。
にべもない、とはこの事だった。多分マリィはそういうだろうなあ、とはイヴェールも薄々思っていたが。
「何で、私が、あの、男の、住居に、態々、居を構えないといけませんの? 灰燼に帰しても良いなら考えますわ」
何故か、と問うまでも無くマリエンと彼女の夫。『北方辺境伯』メルヴィンとは仲が悪い。
まあ……片や王国を護る北境の英雄で、片や反社会組織幹部である大犯罪者。仲が良くなる要素は微塵も無いが。
「産まれて来る子供にとって、貴女はきっと良いお姉さんになってくれると思うからです」
けれど。ここまで明確な拒絶を受けて尚。イヴェールは真摯に語り掛けた。
彼女は知っている。この魔女がどれだけ裏切られて来たか。家に。友に。想い人に。そして描いた理想に。
最初からこうではなかった筈だ。マリエンには才能が有った。力が有った。誰もそんな物望んではいなかった。
ただ、幸せになりたいと。そう訴える眼前の魔女が実は寂しがりである事を。イヴェールだけは知っている。
放っておけなかった。放っておきたくは、なかった。
「魔法に、興味を持つ子かもしれません。貴女を、護ってくれる子かもしれません」
「……私はそんな事頼んでいませんの。それに、別に独りでも――――」
「――――独りでも平気、だなんて。寂しいこと言わないで」
善でも、正義でもない。きっと、昔の自分なら問答無用で剣の錆にしようと考えただろう。
彼女には罪がある。情状酌量の余地が十分とは言えない。けれど、罰なら受けた。二百年が無為に潰えた。
もう良いじゃないかと思うのは、きっと贔屓目だろう。迷いを瞳に宿す魔女をイヴェールは抱きしめる。
女性的な丸みを帯びた、けれども華奢な体躯。彼女を護ると、あの日、約束したのだから。
「……、……。」
不満の色をはっきり残しながらも黙り込んだ赤い魔女は。けれど、それ以上拒否する事はしなかった。
■
「そもそも、貴女がどれほどそれを望んだ所であの男が許容しないでしょう?」
「何とか言い含めて説得します」
「イヴに言い包められる人間がそれほど多いとは、私思っていないのですけれど」
半目で応じた魔女の言は、正直割と的を射ていた。イヴェールは自分を辺境の田舎娘と定義している。
学問的な分野は殆ど接点を持たずに生きて来たし、然程口論が強いタイプでもない。
恐らく、生まれ育ちはともかく生粋の高位貴族として研鑽を積んできた北方辺境伯たるメルヴィンと。
真っ向勝負で口論となったとしたなら言い負かされるのはイヴェールの側だろう事は想像に難くない。
まあ……実の所メルヴィンはそれほど強固に自分の意見を通そうとする事そのものが殆ど無いし。
何であればイヴェールの意見を断固拒否する様な性格でないこともまた、ある程度承知してはいるのだが。
「……最悪、剣なら負けませんし」
「本当に最悪ですわねえ!? しかも貴女妊婦ですのよ……!?」
「そうでした……」
最後の手段も禁じられたイヴェールは無力であった。そもそも物理決着に持ち込むな、と言う話ではある。
しょんぼりと項垂れた自らの騎士を前にして、赤い魔女は困惑と懊悩が半分ずつと言う顔で傾くと。
暫し手段を探る様に黙り込む。本意でないことに、彼女がこれほど譲歩することはとても珍しい。
基本、したくないことはしない、と断じて憚らないのがマリエンと言う娘である。
それは、イヴェールも重々承知している。承知しているからこそ――――こうして申し出ているのだ。
彼女が条件を問うて来た時点で、それは決して。“したくないこと”ではない事の、筈だから。
「……でも、私は、多分ずっと一緒には居られませんから。産まれたら是非、一緒に遊んであげて下さい」
それは、不意に毀れた言葉だった。意識していた訳ではないけれど。それでも何一つ誤り無く。
それは切なる願いだった。自分が居なくなった後、託したい物。託したい人。どちらもを一纏めにして。
一緒に歩いて行って欲しいと言う、イヴェールの我儘だ。先に逝く者の、とてもずるい、我儘だ。
聞かなければいけない理由も無い。跳ね除けられても文句なんて唯一つも言う資格はない。
沈黙が落ちた。日が暮れつつある北方辺境に影が伸びる。お互いの表情すら見えない静けさの中。
そうして魔女はただ深く、深く。本当に世話の掛かる妹にするように、それでも確かに吐息を溢した。
「……馬鹿な子」
「知っているでしょう?」
それでも良いと、思ったのだ。正しくなくて良い。真っ直ぐでなくて良い。賢くなくて、良い。
我儘で良い。自分の手で護れないのは無念だけれど、きっと貴女は最後まで看取ってくれるだろうから。
「ええ」
そうして誰知れず、誰にも見えない場所で。全部が全部終わって、何一つ取り戻せなくなった後で。
どうせたった独りで泣くのが、分かってしまうから。
「よぉく、知っていますわ」
仕方なさそうに呟いた魔女の声音に、イヴェールは嬉しそうに瞳を閉じた。
もしもそんな我儘一つで――――いつか紅染めの百合が微笑ってくれるなら。
■
――――後に。北方辺境伯領領主邸には魔女が出る。と言う噂が侍女の間で広まった。
曰く、魔女は甘い百合の香りと共に現れ出て、気付けば何処とも無く姿を晦ますのだと。
『北境』に居着いて長く、騎士団の重鎮である森人はその不気味な出来事を相談されると。
長い人生だ。不思議な事の一つや二つ有った方が楽しいでしょ? と笑って応じたそうだ。
当の屋敷の主である北方辺境伯は深刻そうに眉を寄せたが、その妃は実に楽しげに微笑んだと言う。
いかにも辺境にありがちな。怪談じみた四方山話である。
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メアリー王女が冒険者達の協力を得て稼働させた「王家の耳」。メアリーは無作為に集まってくる情報を、余人に及びもつかぬ閃きを持って分析しながら、今日も世界の動きへ耳を傾けている。
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