浄夜の棘、君の足に傷
奇古譚
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シナリオID:1670
オープニング
●
其処は、とても静かだった。
まるで今にも空気が凍りそうなほどの静寂が佇んでいた。
時はユールフェス。聖霊節と呼ばれるこの時期は、かつての英雄“ジド・ルウ”が、其の身をエーテルと為して世界に穿たれた大穴を塞いだ時期と言われている。ジド・ルウだけではない。小さな神々が其れに続いた事で、マテリアル界への大型クリーパーの侵入は激減、今日の平和の礎となった。
神話における転換点だからだろうか。其れとも、年末年始という空気がそうさせるのか。この時期は兎に角、煩悩を落とそうとするものが増え始める季節でもある。あるものは滝に打たれ、あるものは火を熾し、まるでこの年に穢れを置いていこうとするかのように、様々な事を試みる。
――其れが現れたのは、唐突だった。
水上都市アキュアリスタ、辛うじて其の統治が届くくらいの外れ。
中心部から船と徒歩で向かった先、本来なら静かな湖に連なる道いっぱいににざわざわと茂む透き通った棘。人は其れを「浄夜の棘」と呼ぶ。
数年に一度、冬にだけ現れる不思議な茨。道を塞ぐように立ち塞がる其れ等は鋭く、後悔の分だけ増え伸びるとも言われている。
まるで誰をも拒むかのよう。しかし其の棘を越えた者は、穢れを祓い落とせるという。
今までも何度か現れ、踏み越えた者は数知れぬ。しかし其の誰もが、思い出を大事な箱に仕舞ったかのように、踏み越えた後の景色を語らない。其れはまるでイニシエーションめいた「君も超えてみろ」という意思表示。
戦役、そして不作。
困難な年だったからこそ、来年に希望を望む者もいるだろう。
ならば、この棘を越えてみてはどうだろうか。
優しいテラリウムの灯りに見守られながら、今年の後悔を削ぎ落すのもまた、一つの思い出作りに良いかもしれない。
其処は、とても静かだった。
まるで今にも空気が凍りそうなほどの静寂が佇んでいた。
時はユールフェス。聖霊節と呼ばれるこの時期は、かつての英雄“ジド・ルウ”が、其の身をエーテルと為して世界に穿たれた大穴を塞いだ時期と言われている。ジド・ルウだけではない。小さな神々が其れに続いた事で、マテリアル界への大型クリーパーの侵入は激減、今日の平和の礎となった。
神話における転換点だからだろうか。其れとも、年末年始という空気がそうさせるのか。この時期は兎に角、煩悩を落とそうとするものが増え始める季節でもある。あるものは滝に打たれ、あるものは火を熾し、まるでこの年に穢れを置いていこうとするかのように、様々な事を試みる。
――其れが現れたのは、唐突だった。
水上都市アキュアリスタ、辛うじて其の統治が届くくらいの外れ。
中心部から船と徒歩で向かった先、本来なら静かな湖に連なる道いっぱいににざわざわと茂む透き通った棘。人は其れを「浄夜の棘」と呼ぶ。
数年に一度、冬にだけ現れる不思議な茨。道を塞ぐように立ち塞がる其れ等は鋭く、後悔の分だけ増え伸びるとも言われている。
まるで誰をも拒むかのよう。しかし其の棘を越えた者は、穢れを祓い落とせるという。
今までも何度か現れ、踏み越えた者は数知れぬ。しかし其の誰もが、思い出を大事な箱に仕舞ったかのように、踏み越えた後の景色を語らない。其れはまるでイニシエーションめいた「君も超えてみろ」という意思表示。
戦役、そして不作。
困難な年だったからこそ、来年に希望を望む者もいるだろう。
ならば、この棘を越えてみてはどうだろうか。
優しいテラリウムの灯りに見守られながら、今年の後悔を削ぎ落すのもまた、一つの思い出作りに良いかもしれない。
解説
●目標
浄夜の棘を越えてみよう
●立地
アキュアリスタの外れ、静かな湖へと続く道に「浄夜の棘」と呼ばれる茨が現れました。
数年に一度ではありますが、この時期特有の現象です。
棘は硝子のように透き通り、見た目の通り鋭いです。
しかしこの棘を乗り越えた時、人は煩悩と辛苦を捨て去り、見える景色は澄み渡り、悟りに一つ近付くと言われています。
人によって鋭さが変わる不思議な棘です。噂では後悔の数ほど棘が増え、悲しみの分だけ鋭くなるとか。
靴で越えても、裸足で越えても、越えずに棘を観察しても、全然OKです。
●棘を越えると
棘を生成するために水分が減ったからか、何故か湖底に都市を見られるようになっています。エーテルが凝ってそう見えるとも言われていますが、詳細は明らかになっていません。
冬、水は澄み渡り、遠くに見える山々は雪景色。
そしてまるで湖底から見上げる星明りのように、輝かんばかりの白い蓮が咲き広がっています。
これは浄夜の棘を越えた者にしか見られない景色です。浄夜の棘が消える頃には、白い蓮も枯れ、湖底の都市も見えなくなってしまいます。
●注意事項
迷子・描写漏れ防止のため、同行者様がいればその方のお名前(ID)、或いは判るように合言葉などを添えて下さい。
また、やりたいことは一つに絞って頂いた方が描写量は多くなります。
マスターより
こんにちは、奇古譚です。
メリーユールフェス! という事で初シナリオはイベントです。
テラリウムのランタンに照らされる、硝子のような鋭い棘。
ちょっと暗めかもしれませんが、どうか宜しくお願い致します。
●
イベントシナリオではアドリブ控えめとなります。
皆さまが気持ちよく過ごせるよう、マナーを守ってイベントを楽しみましょう。
では、いってらっしゃい。
リプレイ
●
静かに、棘は佇んでいる。
どれぐらい鋭いか、どれくらい長いのか、其れは見るものの悲しみと後悔に任される。
キオルティスがほう、と息を吐くと、白く凍った。
寒空の下、湖面はきっと静かに君たちを待っているだろう。
風は凪。とても静かな、寒い日の事。
●
「悟りに一歩近付ける! 行こう。」
俺は興味があるし、君には特に必要なものだよ。
そう言ってヨルは半ば強引にナハシュを連れ出したのだった。
果たして、其の棘はあった。道を塞ぐように絡み合った棘は透き通り、水晶のような棘が見える。
ナハシュはへえ、と声を上げ、己の前にある棘の鋭さを見た。後悔なんてしていない。悲しみなんてない。まあ、この時期にしか見られない代物だから一目見ておこうと思う、それくらいのもの。だから見たところ、そんなに棘は痛そうには見えなかった。厚手の靴であれば充分に踏み折れるだろう。
「ううん……結構鋭いな……」
対して隣は、はて、どんな人生を送ってきたのやら。ヨルの向かい合う棘は長く長く伸び、きらりと鋭く針のよう。
思わず吹き出さずにはいられなかった。だから大声で笑ってやった。ヨルは笑うなよ、と言いながらも裸足で果敢に挑戦する。……直ぐに靴を履いた。痛すぎたらしい。其れがまた、ナハシュの笑いを誘い出す。
二人で棘を越えていく。ほんの少しナハシュのふくらはぎを棘が掠めれば、ヨルは其れを癒した。そんなに過保護にならなくても、お前の方がどう見ても傷付いてるのにな。
ナハシュはヨルの肩にひょいと乗ると、エーテルの力を借りてひとっとび。お先に、とばかりに棘を越える。
そうして其の先に、湖底都市の景色はあった。
えっちらおっちらと越えてきたヨルに、お疲れ、と差し出す盃。
「……これは?」
「火酒だよ。こんだけ良い景色なら、当然良い酒がいるだろ?」
「……確かに」
ヨルは盃を受け取って、乾杯、と盃を揺らす。乾杯、とナハシュも盃を掲げた。
耳が痛くなるほどの静寂の中、火酒の度数に煽られてか、ぽつり、とヨルが呟いた。
「――君と見られてよかった」
●
コルネリウスとイズレンディルは、裸足で棘を越えよう、と頷き合う。痛かろう。辛かろう。けれども、其の先にある景色はきっと綺麗だろうと。
「今の時期が過ごしやすいのですね。生命力に溢れています」
イズレンディルは植物と対話しながら棘を越える。棘は容赦なく彼の足を傷付けるけれど、其れは生命力の現れ、花にたとえるなら今こそが満開なのだという証。
コルネリウスもまた、彼に続いて棘を越える。鋭くて痛い。でも、痛いのは平気。大丈夫か、というイズレンディルの問いかけに何度も、大丈夫です、と答える。
後悔。悲しみ。其の分だけ伸び尖る棘。其れは二人の足を傷だらけにしたけれども、其れでも二人は越えようと歩む。其の先に、光り輝く景色があると信じているから。
「す、すみません……」
「痛みは我慢するものではなく、癒すものですよ」
棘を越えて景色を楽しむ前に、と、イズレンディルはコルネリウスの足を癒している。相手も傷付いているのに。なんだか申し訳ない、とコルネリウスの耳が揺れる。
でも、相手が自分を想ってくれているのは判るから。
「……ありがとうございます」
お礼の言葉を、コルネリウスは返すのだ。
「さあ、もう大丈夫です。……素晴らしい景色ですね」
イズレンディルが立ち上がり、コルネリウスの手を引く。湖底に見える都市は、本物だろうか。其れともエーテルが見せる、一時の悪戯だろうか。其れはまるで――
「……私も、……ディル。少しは貴方に近付けているでしょうか」
いつもあちこちを巡る貴方。ずっと貴方の傍にいたくて、少しでも釣り合う人になりたくて、背伸びをしている。……背伸びがしたいんです、とコルネリウスは笑う。
「世界の動きを見通すのが私の役目ですから、世界中を駆け回っていますが……」
――氏族の事、そしてネリーの事をいつも想いながら周っています。想いはいつだって近くに。
「……はい」
手が触れ合う。この暖かさこそが、今の全てだと思う。例え離れていても、想いは傍に。
●
突然だが、サイラスは水着で現れた。……何で?
何でかというと、防具や痛覚遮断を用いるとご利益がないような気がしたからである。寒中水泳的な感じ。
ついでに棘を二つ三つばかり持って帰れないかなあ、と、道を塞ぐ棘に近寄る。其の棘は軽い気持ちに反して、長く鋭かった。沢山の棘だ、此れなら持って帰れそうだ。一つ掴んで、ぱきりと折ってみる。氷のような感覚だ。とても興味深い。
故郷なんて知らない。幼いうちに攫われて、気付けば旅の群れの中にいた。関係を断つときに、髪は白く染まった。其れを悲しみと呼ぶのだろう。後悔とは呼ばないけれど。
勇敢なるリザードマンは、折った棘を持って、裸足で越える。突き刺さり、掠め、刺し傷や切り傷が出来るけれども、そんなの、何てことない。おれには夢がある。其の夢のための痛みに比べれば、これくらい、何てことない。
ただ、ただ、竜になりたい。狂おしいほどの衝動が、今のサイラスを動かしている。其の為に自らに様々なものを刻み込んでいる、其の痛みに比べれば、この茨の痛みなんて僅かなものなのだ。
「……」
悟りに、近付いたのだろうか。
茨の一番高い所から見た湖底都市を見て、サイラスは己に問う。竜になりたい、その純然たる願いは今も心の裡で燃えている。
其れを悟りと呼ぶのなら、おれはきっと、既に其れを得ているのだろう。
ああ、これは何かに使えるかもしれない。傷だらけの足も厭わず、彼はメモになるものはないかと荷物を探り始める。インスピレーションが消えてしまう前に、刻んでおかないと。
●
エルナ、ナタリア、エデルの三人は、硝子のような棘を前にしてわあ、と白い吐息を零した。
「本当に尖ってますね……」
「そうだな。これは刺さったら痛そうだ」
エデルの見ている鋭さと、ナタリアの見ている鋭さは違う。ナタリアは景色にも興味はあれど、この棘を越えるという禊とも言える行為に意味を見出していた。如何に傲慢であるかを示すものなのか? 後悔や心の闇に応じて刺さるものなのか?
しかし心中で問えども、棘は鋭く其処にあるばかりだった。越えてみろとも、越えるべからずとも言わない。
ただ、三者三様の悲しみと後悔の分だけ、鋭く尖っていた。其の先をエデルは見る。彼女の診療所には、大病を患った者や大怪我を負った者が来ることは少ない。だけれども彼女は此処で生きるにつれ、傷病で苦しむ者を見てきた。病の苦しみ、怪我の痛みに喘ぎながら散っていく命とて、ある。
「行きましょう」
だからこそ、エデルはゆく。悔恨を忘れるのではなく、断ち切るために。明日の糧にするために、靴の底に棘が刺さる感触を覚えながら棘を渡り始める。頼りにして掴んだ棘の棘が刺さり、掌が痛む。其の手を取ってくれたのは、友人だった。
「……生きている限り挑戦は続く。挑まぬものに勝利は訪れない。されども、手を取り合って進む事は許される筈だ」
「そうです! どうせ越えるなら一緒に、ですよ! うわあすごい、ばきぼき言ってます」
エデルの両掌をナタリアとエルナが取って、三人で支え合いながら茨の道を行く。時に転びかけて前のめりに皆を引っ張って、時に前に進もうとした者を棘に引っかかって引き留めてしまっても。でも、乙女三人は進む。前に征く。其れが生きる事なのだと、三人とも知っているから。
「わあ……!」
そうして越えた茨の先。凍り付いたように静かな湖面を覗くと、其の下には都市のような影が揺らめいている。
「ふむ、……素晴らしい景色だ。冬の凍てついた空気だからこそ、だな」
「ええ、本当に」
波紋を作る事すら躊躇ってしまう其の風景は、朧げに、けれど確かに其処に在る。よーし、と声を上げたのはエルナだった。
「素敵な景色も堪能しましたし、悟りも開いたところで、暖かいココアを飲みましょう! 帰る場所へ、待っている人たちの所へ」
「ああ。帰ろう。……だが……」
ふと、ナタリアが疑問を口にする。
「帰る時もあの棘を渡っていくべきなのだろうか」
「……。あーー!!」
そうですねー! と嘆くように叫ぶエルナを見て、思わずエデルは笑ってしまった。この友人たちとなら、茨の道をもう一度踏み越える事なんてきっと簡単な事なのだ。
●
スィーリーンは一歩、茨の道に踏み出した。
棘は長く、鋭かった。後悔がないように生きようと思っても、過ぎてみないと気付かない事なんて山ほどあった。悲しみたくないのに、悲しみは押しては寄せる波のように気付けば隣人のように其処にいた。後悔と悲しみなく生きられる人というのは、どのような人なのだろう。そんな人、きっといやしないのだ。
棘の先が肌を裂いて、痛みが走る。其れでも進み出したら前に行くしかないと、スィーリーンは前に行く。痛い。足元は見ない。きっと傷だらけだろうけれど、傷に構っていたら前へ行けないから。
少しでも強くなりたかった。かの智者のように在りたかった。どうして、という疑問が心に渦巻いて、けれど考えたってきっとどうしようもなくて。
まるで誰かの背を追うように、棘を乗り越えていく。でも、追えば追うほど其の影は遠く遠くへ消えていくようで――
「……っ、はぁ……はぁ……」
棘を越えて湖に到る頃、スィーリーンの息はすっかり上がっていた。まるで急かされるように、最後には半ば駆け出すように棘を越えたせいで、見下ろしてみれば足は傷だらけだ。けれどどれもが浅いもの。既に血は止まっていて、ひりひりと痛みを残すばかり。
ああ、きっと人生も同じ事。癒えない傷はないけれど、たまに痛むもの。
この湖に映る景色を救いというのは、少し違う気がする。けれど、其れで良い。
傷を忘れられるくらいの景色で、私は“救われた気がした”。其れで良い。
小さな湖の底に広がる都市の面影を見ながら、スィーリーンはやっと、大きく息を吸った、冷たくて清浄な空気が、とても心地良かった。
●
ベルクにとって、棘は踏んだら痛いものではあるけれども、障害と呼ぶほどのものではなかった。
ただ、其の棘は長く、尖っていた。其の理由くらい判っている。
奴隷として使役された過去。僅かな平和、奪われた主の命。そして己の役割と、使命。其れを悲しみと呼ぶのか、後悔と言うべきなのかはベルクには判らない。悲しみだというのなら、この人生は悲しみばかりだ。後悔があるというなら、主を失ったあの日くらいだ。
まるで「君の人生はこうだよ」とばかりに佇む棘を、ベルクは踏み抜いて進んでいく。数が多い。鋭い。掠めただけで切り傷が滲む。其れでも進むのを止めなかった。
「我はオスマットのベルクぞ」
そう。誇り高き防人の民だ。己の悔恨程度踏み越えられずに、どうしてオスマットの名を名乗れようか。帝臣として、そして一人の生きる人として、越えなければならないのだ。
「――」
真っ青だった。
蒼く凍り付いたように凪いだ湖面に、都市が映っている。時折吹く寒風が、僅かに湖面に波紋を齎して、都市の影を燻らす。
美しい、と思った。こんなに美しいものが此処にあったのか、と。ベルクは棘からぴょんと飛び降りて、湖の際まで行く。入る事も、触れる事も躊躇われた。血の汚れがどうとかいう理由ではない。純粋に、これはこのままであるべきだ、と判断したまでの事。
本当に湖底都市はあるのだろうか。あるのだとしたら、此処にはどのような民が住んでいたのだろうか。或いは、己らと同じ封じられた――
「……いや、考えても仕方のない事だ」
ふるり、と頭を振った。そうしてベルクは地面に座る。
もう少し。もう少し、湖底を眺めていくくらい、赦されるだろう。
●
レティシアは棘を覗き込み、其の数の多さと鋭さに、ああ噂は真実であったかと自嘲の笑みを浮かべた。
裸の脚が棘を踏む。靴を脱ぐなど、貴族令嬢という立場では本来してはならぬ事だが――其れでも。其れでもレティシアは、己の皮膚で、肉で、其の鋭さと齎される痛みを確かめたかった。
雪が降り出した。寒くて痛くて、悲しい雪。母が死んだいつかの日を、そして、あの人が死んだいつかの日を思い出す。
この棘の先には湖底都市があって、其れは救いのようなものなのかもしれない。でも、レティシアは己に其れを望む事を禁じた。求めてはならぬと。幸福になりたいなどと想ってはいけない。己は痛みの中で生き、痛みの中で戦うのだと。愛されたいなどと思ってはいけない。望まざる婚姻、其の先にも何も望んではならぬと。
レティシアは茨の中、立ち尽くしていた。脚は傷だらけだった。鋭い棘を選び、踏みつけて、痛みを身に受ける。
痛みの中で生き続けなければ。
死が迎えてくれるまで、痛みを受けなければ。
幸福や優しさなど求めてはいけない。
だって、ああ。
母様もあの人も、私が殺したようなものなのだから。
●
「穢れを祓い落とせる、か」
サマエラは棘を前にして、鋭さを確かめた。ああ、確かに鋭く長い。私の人生は順風満帆とは言い難いものだった。これはきっと其の象徴なのだと。母を失い、信じる神を見付けたあの旅を思い出す。悲しみの旅だった。後悔は――どうだったろう。己の生まれを悔いた事は、あったかもしれない。
サマエラは誰に言われるでもなく靴を脱ぎ、素足で棘を踏みしめる。其処にはきっと躊躇が小さく滲んでいたが、其れごと一気に踏みしめた。冷たい。鋭い。痛い。けれど、サマエラは次の一歩を踏み出す。
痛いのは当然だ。悲しみと後悔が其処にはある。だが、“痛いだけ”だ。其れで止まる足だったならば、
「とうに全て諦めているさ。……そうだろう?」
己に問いかける。己は答える。そうだと。こんな処では止まれないと。
何歩あるいただろう。
ほんの少しだった気がするし、とても長い道程だったような気もする。
気付けば湖が目の前に広がっていて、蒼く澄み渡っていた。僅かな風が波紋を立てて、湖の底に佇む都市を揺るがせる。
「ああ」
感嘆の吐息が漏れた。けれど、サマエラは同時に、これはまだ自分には早いものだ、とも思った。まだ、まだ、此処に至るには早い。
いつか、素直に浸れると思えた時に来れたらいい。そんな日がいつか来ることを信じた。どんなに遠いかも知れないが、きっと、素直にこの景色を綺麗だと言える日が来るはずだと。
●
振り返れば――
嘆きに満ちた毎日だった。Alexandraが“帝国実力派”となったあの日から、ずっと。
体に力を定着させる。其の為に贄とされた者たちは少なくない。何人の両手指を使っても、きっと数えられない。
そして、其の力を使ってAlexandraが屠ってきた者たち。忘れた事はないが、きっとこれも数え切れない。
最後に、彼女が逃げた後、代わりにあの苦痛を背負わされた者たち。
名を知る者もいる。名を知らぬ者もいる。もしかしたら、名さえ無かった者もいるかもしれない。彼らの嘆きは、一体どれほどのものだろう。
学園で見過ごした、かの女教師への地獄。口先だけで哀れんできた、『侵食感染者』の烙印を押された彼女の孤独。
どうしてこの棘は、刃ではなかったのだろう。刺さって痛みはするけれど、命を奪うほどではない。どうせなら長く伸びて鋭く光り、矮小な己を存分に八つに割いてくれればとさえ思う。ああ、願えども棘は棘で、其れ以上伸びる事はない。或いは其れは、痛みの中で生きよと、赦されてはならぬという暗示なのかもしれない。
「……それでも、私は」
Alexandraは踏み出す。振り返らずに、靴の底で棘を踏み折る。
贖う術など、進む以外に持っていないのだ。止まってしまえば、己が背負う無数の嘆きが泡沫と帰す事になる。其れだけは許されない。赦されないのだ。前へ進み、掴まねばならない。何を? ――判らない。何かを。
●
――兄貴のような、帝国騎士になりたかった。
――其の夢はあの日、兄貴の命と共に消えた。
――壊れた心を愛してくれる人と出会った。
――幸せは、朝露のように儚く落ちた。
アーシェルはずっと、後悔を抱いている。其の贖罪をずっと捜している。敵の返り血には見当たらなかった。女の温もりにも見当たらなかった。満たされるのは一時だけで、結局罪は罪だといっそ明らかにされるだけ。
でも、アーシェルは出会った。大切だと呼べる者たちに出会って、初めて其の時、生まれ変われた気がしたのだ。
長く鋭い棘は罪。裂かれ刺される痛みは罰。
アーシェルは其の端正な顔を歪ませながら進む。止まるな。止まるな。進め。そう己に言い聞かせながら。
重兵11番隊。
其の部下。大事な仲間たち。
とても大切だと愛せば愛すほど、“失ってしまったら?”の恐怖も強くなる。恐怖は後悔と混ざり合って、己の弱さをむき出しにする。
兄の愛を受け入れていたら、何か変わっていたのだろうか。
代わりに己が命を散らしたら、何か変わっていたのだろうか。
彼女の嘘(あい)に気付けていたら、何か変わっていたのだろうか?
怖いのだ。アーシェルは。また大切な人を失ってしまったら、其の恐怖に耐えられる自信がない。
もう一人になりたくない。
アーシェルは膝から下を真っ赤に染めて、棘道の中ほどで座り込んでしまった。
怖かった。どうしようもなく怖かった。
戻る事も出来ず、アーシェルは求めるように手を伸ばし――そのまま倒れ込んだ。
――春風は遠い。季節を越えても、出会えない人がいる。
●
嵐丸の兄弟は、クリーパーの毒牙にかかり逝った。其の痛みはいかばかりだったろうと、長く鋭い棘を嵐丸は裸足で越えていく。
正直に言うと痛い。めちゃくちゃに痛い。でも、この痛みよりもっと強い痛みを受けて、死んだ人がいるんだ。
凄く痛かっただろう。なのに、最後の最期まで笑っていた人(あに)がいるんだ。
――オレがもっと強ければ、もっともっと強ければ、背に庇われるだけじゃなくて共に戦えたかもしれない。
――もっともっと、もっと……
求めるように、嵐丸は棘を踏みしめる。痛みが脚から頭へと走り抜ける。其れでも乗り越えられない後悔がある。
でも其れで良いんだと、嵐丸は後悔を抱いたまま、棘に委ねずに進む。踏み越えるのではなく、抱いて共に行くのだ。きっとこれは、捨てちゃいけない後悔だから。嵐丸がもっと強くなるために。誰かと肩を並べて戦って、護れるようになるための後悔だから。
だから、嵐丸は棘の道を越えた時、己の未来を其処に見た。
仲間と肩を並べて戦い、勝ち、オレたちの勝ちだと祝杯を挙げる未来を。
そんな自分を笑って許せるようになる未来を、見た。
●
「此れ以上お嫁に行けなくなるようなやんちゃは控えた方が良いと思うけど?」
裸足で棘を乗り越えているローザリカを見たジュストは、嫌味混じりに引き留めるように其の言葉を紡いだ。
薔薇色の髪を揺らして振り返ったローザリカは、うんざりとした顔をする。
「君という奴は何処にでも現れるな。余計な口のお届けもどうも」
ローザリカが棘を裸足で越えようとしたのは、いわゆる一つの気紛れだった。傷を厭わずに自分の道というものを切り拓いてみたかったのかもしれないし、悩みだとかいう余計なものを、棘で伝う血と共に流し去ってしまいたかったのかも知れない。まあつまるところ、ローザリカだって色々と思い悩む事もあるのだ。この棘を越えたら其れが消え去るかもしれない。そんな希望は、ジュストの一言で砕けて落ちた。この従弟はきっと、己の事を放っておかないから。
「大体なんで裸足なんだ」
ほら。そう言いながら手を差し出して来る。だからローザリカは伯爵家の娘然として、其の手を取るのだ。そうされるのが当然だという顔をして。
――あの日。病んだ兄に謝罪を告げられたあの日。もっと憎たらしい弟を演じておけば良かったろうか。
――ロゼの事を頼まれたとき、頷かなければよかったろうか。
ジュストが思い返せども、もう遅い。
彼は兄の願いを受け入れ、頷いてしまったのだから。だから君の面倒を見るんだという顔で、ローザリカを抱き上げて棘を渡るのだ。
ばきり、と折れる棘は、ローザリカが越えていたものよりずっと長く鋭かった。そうされるのが当然だという顔をして、でも、ローザリカは従弟に掛ける言葉を探しあぐねていた。顔を合わせればいがみ合う関係ではあるが、だが、……けれど。
「本当に救えない従姉だよ、君は」
そう、彼が言うから。
「……どちらが」
心の底から同情を込めて、ローザリカはそう返してやったのだった。
静かに、棘は佇んでいる。
どれぐらい鋭いか、どれくらい長いのか、其れは見るものの悲しみと後悔に任される。
キオルティスがほう、と息を吐くと、白く凍った。
寒空の下、湖面はきっと静かに君たちを待っているだろう。
風は凪。とても静かな、寒い日の事。
●
「悟りに一歩近付ける! 行こう。」
俺は興味があるし、君には特に必要なものだよ。
そう言ってヨルは半ば強引にナハシュを連れ出したのだった。
果たして、其の棘はあった。道を塞ぐように絡み合った棘は透き通り、水晶のような棘が見える。
ナハシュはへえ、と声を上げ、己の前にある棘の鋭さを見た。後悔なんてしていない。悲しみなんてない。まあ、この時期にしか見られない代物だから一目見ておこうと思う、それくらいのもの。だから見たところ、そんなに棘は痛そうには見えなかった。厚手の靴であれば充分に踏み折れるだろう。
「ううん……結構鋭いな……」
対して隣は、はて、どんな人生を送ってきたのやら。ヨルの向かい合う棘は長く長く伸び、きらりと鋭く針のよう。
思わず吹き出さずにはいられなかった。だから大声で笑ってやった。ヨルは笑うなよ、と言いながらも裸足で果敢に挑戦する。……直ぐに靴を履いた。痛すぎたらしい。其れがまた、ナハシュの笑いを誘い出す。
二人で棘を越えていく。ほんの少しナハシュのふくらはぎを棘が掠めれば、ヨルは其れを癒した。そんなに過保護にならなくても、お前の方がどう見ても傷付いてるのにな。
ナハシュはヨルの肩にひょいと乗ると、エーテルの力を借りてひとっとび。お先に、とばかりに棘を越える。
そうして其の先に、湖底都市の景色はあった。
えっちらおっちらと越えてきたヨルに、お疲れ、と差し出す盃。
「……これは?」
「火酒だよ。こんだけ良い景色なら、当然良い酒がいるだろ?」
「……確かに」
ヨルは盃を受け取って、乾杯、と盃を揺らす。乾杯、とナハシュも盃を掲げた。
耳が痛くなるほどの静寂の中、火酒の度数に煽られてか、ぽつり、とヨルが呟いた。
「――君と見られてよかった」
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コルネリウスとイズレンディルは、裸足で棘を越えよう、と頷き合う。痛かろう。辛かろう。けれども、其の先にある景色はきっと綺麗だろうと。
「今の時期が過ごしやすいのですね。生命力に溢れています」
イズレンディルは植物と対話しながら棘を越える。棘は容赦なく彼の足を傷付けるけれど、其れは生命力の現れ、花にたとえるなら今こそが満開なのだという証。
コルネリウスもまた、彼に続いて棘を越える。鋭くて痛い。でも、痛いのは平気。大丈夫か、というイズレンディルの問いかけに何度も、大丈夫です、と答える。
後悔。悲しみ。其の分だけ伸び尖る棘。其れは二人の足を傷だらけにしたけれども、其れでも二人は越えようと歩む。其の先に、光り輝く景色があると信じているから。
「す、すみません……」
「痛みは我慢するものではなく、癒すものですよ」
棘を越えて景色を楽しむ前に、と、イズレンディルはコルネリウスの足を癒している。相手も傷付いているのに。なんだか申し訳ない、とコルネリウスの耳が揺れる。
でも、相手が自分を想ってくれているのは判るから。
「……ありがとうございます」
お礼の言葉を、コルネリウスは返すのだ。
「さあ、もう大丈夫です。……素晴らしい景色ですね」
イズレンディルが立ち上がり、コルネリウスの手を引く。湖底に見える都市は、本物だろうか。其れともエーテルが見せる、一時の悪戯だろうか。其れはまるで――
「……私も、……ディル。少しは貴方に近付けているでしょうか」
いつもあちこちを巡る貴方。ずっと貴方の傍にいたくて、少しでも釣り合う人になりたくて、背伸びをしている。……背伸びがしたいんです、とコルネリウスは笑う。
「世界の動きを見通すのが私の役目ですから、世界中を駆け回っていますが……」
――氏族の事、そしてネリーの事をいつも想いながら周っています。想いはいつだって近くに。
「……はい」
手が触れ合う。この暖かさこそが、今の全てだと思う。例え離れていても、想いは傍に。
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突然だが、サイラスは水着で現れた。……何で?
何でかというと、防具や痛覚遮断を用いるとご利益がないような気がしたからである。寒中水泳的な感じ。
ついでに棘を二つ三つばかり持って帰れないかなあ、と、道を塞ぐ棘に近寄る。其の棘は軽い気持ちに反して、長く鋭かった。沢山の棘だ、此れなら持って帰れそうだ。一つ掴んで、ぱきりと折ってみる。氷のような感覚だ。とても興味深い。
故郷なんて知らない。幼いうちに攫われて、気付けば旅の群れの中にいた。関係を断つときに、髪は白く染まった。其れを悲しみと呼ぶのだろう。後悔とは呼ばないけれど。
勇敢なるリザードマンは、折った棘を持って、裸足で越える。突き刺さり、掠め、刺し傷や切り傷が出来るけれども、そんなの、何てことない。おれには夢がある。其の夢のための痛みに比べれば、これくらい、何てことない。
ただ、ただ、竜になりたい。狂おしいほどの衝動が、今のサイラスを動かしている。其の為に自らに様々なものを刻み込んでいる、其の痛みに比べれば、この茨の痛みなんて僅かなものなのだ。
「……」
悟りに、近付いたのだろうか。
茨の一番高い所から見た湖底都市を見て、サイラスは己に問う。竜になりたい、その純然たる願いは今も心の裡で燃えている。
其れを悟りと呼ぶのなら、おれはきっと、既に其れを得ているのだろう。
ああ、これは何かに使えるかもしれない。傷だらけの足も厭わず、彼はメモになるものはないかと荷物を探り始める。インスピレーションが消えてしまう前に、刻んでおかないと。
●
エルナ、ナタリア、エデルの三人は、硝子のような棘を前にしてわあ、と白い吐息を零した。
「本当に尖ってますね……」
「そうだな。これは刺さったら痛そうだ」
エデルの見ている鋭さと、ナタリアの見ている鋭さは違う。ナタリアは景色にも興味はあれど、この棘を越えるという禊とも言える行為に意味を見出していた。如何に傲慢であるかを示すものなのか? 後悔や心の闇に応じて刺さるものなのか?
しかし心中で問えども、棘は鋭く其処にあるばかりだった。越えてみろとも、越えるべからずとも言わない。
ただ、三者三様の悲しみと後悔の分だけ、鋭く尖っていた。其の先をエデルは見る。彼女の診療所には、大病を患った者や大怪我を負った者が来ることは少ない。だけれども彼女は此処で生きるにつれ、傷病で苦しむ者を見てきた。病の苦しみ、怪我の痛みに喘ぎながら散っていく命とて、ある。
「行きましょう」
だからこそ、エデルはゆく。悔恨を忘れるのではなく、断ち切るために。明日の糧にするために、靴の底に棘が刺さる感触を覚えながら棘を渡り始める。頼りにして掴んだ棘の棘が刺さり、掌が痛む。其の手を取ってくれたのは、友人だった。
「……生きている限り挑戦は続く。挑まぬものに勝利は訪れない。されども、手を取り合って進む事は許される筈だ」
「そうです! どうせ越えるなら一緒に、ですよ! うわあすごい、ばきぼき言ってます」
エデルの両掌をナタリアとエルナが取って、三人で支え合いながら茨の道を行く。時に転びかけて前のめりに皆を引っ張って、時に前に進もうとした者を棘に引っかかって引き留めてしまっても。でも、乙女三人は進む。前に征く。其れが生きる事なのだと、三人とも知っているから。
「わあ……!」
そうして越えた茨の先。凍り付いたように静かな湖面を覗くと、其の下には都市のような影が揺らめいている。
「ふむ、……素晴らしい景色だ。冬の凍てついた空気だからこそ、だな」
「ええ、本当に」
波紋を作る事すら躊躇ってしまう其の風景は、朧げに、けれど確かに其処に在る。よーし、と声を上げたのはエルナだった。
「素敵な景色も堪能しましたし、悟りも開いたところで、暖かいココアを飲みましょう! 帰る場所へ、待っている人たちの所へ」
「ああ。帰ろう。……だが……」
ふと、ナタリアが疑問を口にする。
「帰る時もあの棘を渡っていくべきなのだろうか」
「……。あーー!!」
そうですねー! と嘆くように叫ぶエルナを見て、思わずエデルは笑ってしまった。この友人たちとなら、茨の道をもう一度踏み越える事なんてきっと簡単な事なのだ。
●
スィーリーンは一歩、茨の道に踏み出した。
棘は長く、鋭かった。後悔がないように生きようと思っても、過ぎてみないと気付かない事なんて山ほどあった。悲しみたくないのに、悲しみは押しては寄せる波のように気付けば隣人のように其処にいた。後悔と悲しみなく生きられる人というのは、どのような人なのだろう。そんな人、きっといやしないのだ。
棘の先が肌を裂いて、痛みが走る。其れでも進み出したら前に行くしかないと、スィーリーンは前に行く。痛い。足元は見ない。きっと傷だらけだろうけれど、傷に構っていたら前へ行けないから。
少しでも強くなりたかった。かの智者のように在りたかった。どうして、という疑問が心に渦巻いて、けれど考えたってきっとどうしようもなくて。
まるで誰かの背を追うように、棘を乗り越えていく。でも、追えば追うほど其の影は遠く遠くへ消えていくようで――
「……っ、はぁ……はぁ……」
棘を越えて湖に到る頃、スィーリーンの息はすっかり上がっていた。まるで急かされるように、最後には半ば駆け出すように棘を越えたせいで、見下ろしてみれば足は傷だらけだ。けれどどれもが浅いもの。既に血は止まっていて、ひりひりと痛みを残すばかり。
ああ、きっと人生も同じ事。癒えない傷はないけれど、たまに痛むもの。
この湖に映る景色を救いというのは、少し違う気がする。けれど、其れで良い。
傷を忘れられるくらいの景色で、私は“救われた気がした”。其れで良い。
小さな湖の底に広がる都市の面影を見ながら、スィーリーンはやっと、大きく息を吸った、冷たくて清浄な空気が、とても心地良かった。
●
ベルクにとって、棘は踏んだら痛いものではあるけれども、障害と呼ぶほどのものではなかった。
ただ、其の棘は長く、尖っていた。其の理由くらい判っている。
奴隷として使役された過去。僅かな平和、奪われた主の命。そして己の役割と、使命。其れを悲しみと呼ぶのか、後悔と言うべきなのかはベルクには判らない。悲しみだというのなら、この人生は悲しみばかりだ。後悔があるというなら、主を失ったあの日くらいだ。
まるで「君の人生はこうだよ」とばかりに佇む棘を、ベルクは踏み抜いて進んでいく。数が多い。鋭い。掠めただけで切り傷が滲む。其れでも進むのを止めなかった。
「我はオスマットのベルクぞ」
そう。誇り高き防人の民だ。己の悔恨程度踏み越えられずに、どうしてオスマットの名を名乗れようか。帝臣として、そして一人の生きる人として、越えなければならないのだ。
「――」
真っ青だった。
蒼く凍り付いたように凪いだ湖面に、都市が映っている。時折吹く寒風が、僅かに湖面に波紋を齎して、都市の影を燻らす。
美しい、と思った。こんなに美しいものが此処にあったのか、と。ベルクは棘からぴょんと飛び降りて、湖の際まで行く。入る事も、触れる事も躊躇われた。血の汚れがどうとかいう理由ではない。純粋に、これはこのままであるべきだ、と判断したまでの事。
本当に湖底都市はあるのだろうか。あるのだとしたら、此処にはどのような民が住んでいたのだろうか。或いは、己らと同じ封じられた――
「……いや、考えても仕方のない事だ」
ふるり、と頭を振った。そうしてベルクは地面に座る。
もう少し。もう少し、湖底を眺めていくくらい、赦されるだろう。
●
レティシアは棘を覗き込み、其の数の多さと鋭さに、ああ噂は真実であったかと自嘲の笑みを浮かべた。
裸の脚が棘を踏む。靴を脱ぐなど、貴族令嬢という立場では本来してはならぬ事だが――其れでも。其れでもレティシアは、己の皮膚で、肉で、其の鋭さと齎される痛みを確かめたかった。
雪が降り出した。寒くて痛くて、悲しい雪。母が死んだいつかの日を、そして、あの人が死んだいつかの日を思い出す。
この棘の先には湖底都市があって、其れは救いのようなものなのかもしれない。でも、レティシアは己に其れを望む事を禁じた。求めてはならぬと。幸福になりたいなどと想ってはいけない。己は痛みの中で生き、痛みの中で戦うのだと。愛されたいなどと思ってはいけない。望まざる婚姻、其の先にも何も望んではならぬと。
レティシアは茨の中、立ち尽くしていた。脚は傷だらけだった。鋭い棘を選び、踏みつけて、痛みを身に受ける。
痛みの中で生き続けなければ。
死が迎えてくれるまで、痛みを受けなければ。
幸福や優しさなど求めてはいけない。
だって、ああ。
母様もあの人も、私が殺したようなものなのだから。
●
「穢れを祓い落とせる、か」
サマエラは棘を前にして、鋭さを確かめた。ああ、確かに鋭く長い。私の人生は順風満帆とは言い難いものだった。これはきっと其の象徴なのだと。母を失い、信じる神を見付けたあの旅を思い出す。悲しみの旅だった。後悔は――どうだったろう。己の生まれを悔いた事は、あったかもしれない。
サマエラは誰に言われるでもなく靴を脱ぎ、素足で棘を踏みしめる。其処にはきっと躊躇が小さく滲んでいたが、其れごと一気に踏みしめた。冷たい。鋭い。痛い。けれど、サマエラは次の一歩を踏み出す。
痛いのは当然だ。悲しみと後悔が其処にはある。だが、“痛いだけ”だ。其れで止まる足だったならば、
「とうに全て諦めているさ。……そうだろう?」
己に問いかける。己は答える。そうだと。こんな処では止まれないと。
何歩あるいただろう。
ほんの少しだった気がするし、とても長い道程だったような気もする。
気付けば湖が目の前に広がっていて、蒼く澄み渡っていた。僅かな風が波紋を立てて、湖の底に佇む都市を揺るがせる。
「ああ」
感嘆の吐息が漏れた。けれど、サマエラは同時に、これはまだ自分には早いものだ、とも思った。まだ、まだ、此処に至るには早い。
いつか、素直に浸れると思えた時に来れたらいい。そんな日がいつか来ることを信じた。どんなに遠いかも知れないが、きっと、素直にこの景色を綺麗だと言える日が来るはずだと。
●
振り返れば――
嘆きに満ちた毎日だった。Alexandraが“帝国実力派”となったあの日から、ずっと。
体に力を定着させる。其の為に贄とされた者たちは少なくない。何人の両手指を使っても、きっと数えられない。
そして、其の力を使ってAlexandraが屠ってきた者たち。忘れた事はないが、きっとこれも数え切れない。
最後に、彼女が逃げた後、代わりにあの苦痛を背負わされた者たち。
名を知る者もいる。名を知らぬ者もいる。もしかしたら、名さえ無かった者もいるかもしれない。彼らの嘆きは、一体どれほどのものだろう。
学園で見過ごした、かの女教師への地獄。口先だけで哀れんできた、『侵食感染者』の烙印を押された彼女の孤独。
どうしてこの棘は、刃ではなかったのだろう。刺さって痛みはするけれど、命を奪うほどではない。どうせなら長く伸びて鋭く光り、矮小な己を存分に八つに割いてくれればとさえ思う。ああ、願えども棘は棘で、其れ以上伸びる事はない。或いは其れは、痛みの中で生きよと、赦されてはならぬという暗示なのかもしれない。
「……それでも、私は」
Alexandraは踏み出す。振り返らずに、靴の底で棘を踏み折る。
贖う術など、進む以外に持っていないのだ。止まってしまえば、己が背負う無数の嘆きが泡沫と帰す事になる。其れだけは許されない。赦されないのだ。前へ進み、掴まねばならない。何を? ――判らない。何かを。
●
――兄貴のような、帝国騎士になりたかった。
――其の夢はあの日、兄貴の命と共に消えた。
――壊れた心を愛してくれる人と出会った。
――幸せは、朝露のように儚く落ちた。
アーシェルはずっと、後悔を抱いている。其の贖罪をずっと捜している。敵の返り血には見当たらなかった。女の温もりにも見当たらなかった。満たされるのは一時だけで、結局罪は罪だといっそ明らかにされるだけ。
でも、アーシェルは出会った。大切だと呼べる者たちに出会って、初めて其の時、生まれ変われた気がしたのだ。
長く鋭い棘は罪。裂かれ刺される痛みは罰。
アーシェルは其の端正な顔を歪ませながら進む。止まるな。止まるな。進め。そう己に言い聞かせながら。
重兵11番隊。
其の部下。大事な仲間たち。
とても大切だと愛せば愛すほど、“失ってしまったら?”の恐怖も強くなる。恐怖は後悔と混ざり合って、己の弱さをむき出しにする。
兄の愛を受け入れていたら、何か変わっていたのだろうか。
代わりに己が命を散らしたら、何か変わっていたのだろうか。
彼女の嘘(あい)に気付けていたら、何か変わっていたのだろうか?
怖いのだ。アーシェルは。また大切な人を失ってしまったら、其の恐怖に耐えられる自信がない。
もう一人になりたくない。
アーシェルは膝から下を真っ赤に染めて、棘道の中ほどで座り込んでしまった。
怖かった。どうしようもなく怖かった。
戻る事も出来ず、アーシェルは求めるように手を伸ばし――そのまま倒れ込んだ。
――春風は遠い。季節を越えても、出会えない人がいる。
●
嵐丸の兄弟は、クリーパーの毒牙にかかり逝った。其の痛みはいかばかりだったろうと、長く鋭い棘を嵐丸は裸足で越えていく。
正直に言うと痛い。めちゃくちゃに痛い。でも、この痛みよりもっと強い痛みを受けて、死んだ人がいるんだ。
凄く痛かっただろう。なのに、最後の最期まで笑っていた人(あに)がいるんだ。
――オレがもっと強ければ、もっともっと強ければ、背に庇われるだけじゃなくて共に戦えたかもしれない。
――もっともっと、もっと……
求めるように、嵐丸は棘を踏みしめる。痛みが脚から頭へと走り抜ける。其れでも乗り越えられない後悔がある。
でも其れで良いんだと、嵐丸は後悔を抱いたまま、棘に委ねずに進む。踏み越えるのではなく、抱いて共に行くのだ。きっとこれは、捨てちゃいけない後悔だから。嵐丸がもっと強くなるために。誰かと肩を並べて戦って、護れるようになるための後悔だから。
だから、嵐丸は棘の道を越えた時、己の未来を其処に見た。
仲間と肩を並べて戦い、勝ち、オレたちの勝ちだと祝杯を挙げる未来を。
そんな自分を笑って許せるようになる未来を、見た。
●
「此れ以上お嫁に行けなくなるようなやんちゃは控えた方が良いと思うけど?」
裸足で棘を乗り越えているローザリカを見たジュストは、嫌味混じりに引き留めるように其の言葉を紡いだ。
薔薇色の髪を揺らして振り返ったローザリカは、うんざりとした顔をする。
「君という奴は何処にでも現れるな。余計な口のお届けもどうも」
ローザリカが棘を裸足で越えようとしたのは、いわゆる一つの気紛れだった。傷を厭わずに自分の道というものを切り拓いてみたかったのかもしれないし、悩みだとかいう余計なものを、棘で伝う血と共に流し去ってしまいたかったのかも知れない。まあつまるところ、ローザリカだって色々と思い悩む事もあるのだ。この棘を越えたら其れが消え去るかもしれない。そんな希望は、ジュストの一言で砕けて落ちた。この従弟はきっと、己の事を放っておかないから。
「大体なんで裸足なんだ」
ほら。そう言いながら手を差し出して来る。だからローザリカは伯爵家の娘然として、其の手を取るのだ。そうされるのが当然だという顔をして。
――あの日。病んだ兄に謝罪を告げられたあの日。もっと憎たらしい弟を演じておけば良かったろうか。
――ロゼの事を頼まれたとき、頷かなければよかったろうか。
ジュストが思い返せども、もう遅い。
彼は兄の願いを受け入れ、頷いてしまったのだから。だから君の面倒を見るんだという顔で、ローザリカを抱き上げて棘を渡るのだ。
ばきり、と折れる棘は、ローザリカが越えていたものよりずっと長く鋭かった。そうされるのが当然だという顔をして、でも、ローザリカは従弟に掛ける言葉を探しあぐねていた。顔を合わせればいがみ合う関係ではあるが、だが、……けれど。
「本当に救えない従姉だよ、君は」
そう、彼が言うから。
「……どちらが」
心の底から同情を込めて、ローザリカはそう返してやったのだった。
マスターコメント
お疲れ様でした。
悲しみと後悔、其れはきっと誰にしもある感情だと思います。
其処に強弱の区別は本来あるべきではないのです。
が、其れは悲しみを慰める時の話。棘は慰めてなどくれません。
そういうお話でした。
ご参加ありがとうございました!
イベントシナリオ易しい 報酬:無し18 / 4〜25人
2021年12月18日 18時48分21秒 公開
成功
参加者
相談掲示板
No.1
サイラスだ、とりま乗り越えに行くよ。
スィーリーンと申します。 よろしくお願いします。 棘を越えに参りますね。
アーシェルだ。よろしく頼む。 湖の景色を見られるように茨に挑んでみようと思ってる。 全員が乗り越えられたらいいな。