映山紅、咲くや
奇古譚
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シナリオID:2197
オープニング
●
リーンエス王国に春が来て久しく経つ。
桃が咲き、春を告げて散って。
梅が咲き、先触れて散って。
そして桜が咲き、春を謳歌して散った。
其の後に咲くのは、時折生垣として目につく躑躅である。
密集して競うように咲き誇る様は美しく、これを好む者も少なくない事だろう。
ところで、躑躅の蜜を吸った事はあるか?
躑躅の花をぷつんと摘んで、其の根元を吸う。すると僅かな甘みが広がって、舌を楽しませてくれる。
かつて――其の躑躅をこよなく愛した貴族がいた。
“他の花は、街に植わっている分で十分だ”と、まるで恋人を愛するように、子を愛するように、領地のあちこちには別の花を植え、己の邸宅で躑躅を愛し続けたという。
だからだろうか。
何の不思議か、彼の死後、使用人も去って空っぽになってしまった屋敷には、まるで屋敷ごと抱き締めるかのように躑躅が咲き誇るようになったのである。
好き放題に殖わった躑躅の茂みは、土地整備のために訪れた者の心をも震わせた。
――屋敷を整備するまえに、この場所を解放して観賞用に。
其れは数年間だけの植物園。
訪れて楽しむ者が多くいる中で、一つの噂がひっそりと、静かに広がって行った。
“紅い躑躅の蜜を吸うと、一番幸せだった頃の思い出が蘇る”
其れはあくまで噂でしかないが、……けれど。
かつての幸せをまた見たい、と訪れる者がいるのも事実である。
――其の赤さは薔薇の如く。
――其の甘さは、どこか悲しい。
君はいま、幸せだろうか。
其れなら君は、今の君を見る事になるだろう。
君はいま、泣いているのだろうか。
幸せだと笑った事はあるかい?
リーンエス王国に春が来て久しく経つ。
桃が咲き、春を告げて散って。
梅が咲き、先触れて散って。
そして桜が咲き、春を謳歌して散った。
其の後に咲くのは、時折生垣として目につく躑躅である。
密集して競うように咲き誇る様は美しく、これを好む者も少なくない事だろう。
ところで、躑躅の蜜を吸った事はあるか?
躑躅の花をぷつんと摘んで、其の根元を吸う。すると僅かな甘みが広がって、舌を楽しませてくれる。
かつて――其の躑躅をこよなく愛した貴族がいた。
“他の花は、街に植わっている分で十分だ”と、まるで恋人を愛するように、子を愛するように、領地のあちこちには別の花を植え、己の邸宅で躑躅を愛し続けたという。
だからだろうか。
何の不思議か、彼の死後、使用人も去って空っぽになってしまった屋敷には、まるで屋敷ごと抱き締めるかのように躑躅が咲き誇るようになったのである。
好き放題に殖わった躑躅の茂みは、土地整備のために訪れた者の心をも震わせた。
――屋敷を整備するまえに、この場所を解放して観賞用に。
其れは数年間だけの植物園。
訪れて楽しむ者が多くいる中で、一つの噂がひっそりと、静かに広がって行った。
“紅い躑躅の蜜を吸うと、一番幸せだった頃の思い出が蘇る”
其れはあくまで噂でしかないが、……けれど。
かつての幸せをまた見たい、と訪れる者がいるのも事実である。
――其の赤さは薔薇の如く。
――其の甘さは、どこか悲しい。
君はいま、幸せだろうか。
其れなら君は、今の君を見る事になるだろう。
君はいま、泣いているのだろうか。
幸せだと笑った事はあるかい?
解説
●目的
躑躅展を楽しもう
●立地
リーンエス王国の片隅、打ち捨てられたとある貴族の領地です。
彼は躑躅を愛する貴族として有名でしたが、愛し過ぎたが故に血脈は途絶えてしまいました。
現在はまるで家を覆うかのように、躑躅が咲き誇っています。
リーンエスの土地整備担当者は、これを黙って刈り取ってしまうのは失礼だろうと判断し、亡き貴族への弔いとして、数年の間この躑躅園を一般開放する事にしました。
躑躅は白、桃色、など様々な色がありますが――
時折現れる薔薇のように赤い躑躅。其の躑躅には魔法がかかっていると噂されるようになりました。
花をぷつんと摘んで、其の根元を吸う。そうすると甘い蜜と共に、過去に幸せだった時が蘇るというのです。
あくまで噂でしかありませんが、試してみるのはいかがでしょうか。
貴方の一番幸せな時は、いつですか? 今だと良いのですが。
●注意事項
迷子・描写漏れ防止のため、同行者様がいればその方のお名前(ID)、或いは判るように合言葉などを添えて下さい。
また、やりたいことは一つに絞って頂いた方が描写量は多くなります。
マスターより
こんにちは、奇古譚です。
躑躅が家の周りでものすごい勢いで咲いています。
競うように咲き誇る其の様は、僅かに怖い程でした。
躑躅とかいて「てきちょく」……脚を止め止め歩く、という意味もあるようですね。
たまには脚を止め、季節の花を楽しむのは如何でしょう。
●
イベントシナリオではアドリブ控えめとなります。
皆さまが気持ちよく過ごせるよう、マナーを守ってイベントを楽しみましょう。
では、いってらっしゃい。
リプレイ
●
さて、何を以てして“幸せ”と呼ぶのだろう?
サイラスは紅い躑躅の蜜を採取して小瓶に入れながら、考えていた。
蜜を呑んで幸せを見る。其れはあくまで噂であって、単に其の味に人々が郷愁を覚えるだけの一現象なのかもしれない。
何処まで行けば、今が見えるくらいに幸福だと定義できるのだろう。
サイラスは決して恵まれた生まれではなかった。幸せだと思った事などなかった。だから、村を焼いた。其れは確かに幸福だったのかもしれない。一つのしがらみを己の手で断ち切った喜びがあったのかもしれない。でもそんなものを幸せと呼ぶのもなんだか違う気がするのだ。
其れに、子どもは保護されてしまったから根こそぎ“狩り切った”訳でもない。まあ……今は好き勝手出来ているから其れも一種の幸福か? だけれど、嫌な事だって沢山あるし。
或いは、鍛冶の研鑽や新しい技法――……其れも精密には、幸せとはいえなくて。
蜜を一口舐めてはみたが、何も見えはしなかった。其れはつまり、幸福は未来にあるという事だろう。竜に成った時、きっと何にも代えがたい、何よりも素晴らしい幸福をサイラスは感じるのだ。
いつになる事やら。サイラスはいつかの幸せの一端になるかもしれない蜜を、ぽとり、と小瓶に集めるのだった。
●
「わあ、綺麗な躑躅……!」
リサ・ベイカーは廃墟を埋めつくすような桃色の群れに、碧い瞳を輝かせた。
歩いているだけで幸せになってしまいそう。でも、紅い躑躅の蜜を呑むと幸せだった過去を見られるとか。
ちょっと試してみようかな? 夢でもまた、あの頃を見られるなら。
紅い躑躅は案外直ぐに見つかった。リサはぷつりと華を摘むと、其の根元にあるという蜜を口に含む。――甘い。其れは、過去に母が「良い子ね」と撫でてくれた時の胸の暖かさに似ていた。
母の記憶は朧気だ。リサの実母は既に他界している。
まだ4、5歳だった己を置いて母は逝ってしまったけれど、其れでも、時折思い出す事があるのだ。
一緒に絵を描いたり、一人で描いた絵を褒めて貰ったり。
――これはリサで、これはお母さん!
――まあ。とても上手ね。
褒められて、嬉しくなって笑う。多分一番屈託なく、心から笑っていた頃の幸せ。
――でも。
リサは味わって閉じていた瞳を開く。
今だって、そんなに悪くない筈。
学園に入学して、生徒会役員になったり。王国の高位貴族の令息令嬢と友人になったりとか、大切な友人が出来たりとか。
不幸せか? って聞かれたら、迷わず頭を振るだろう。だから、お母さん。安心してね。
――あ! 絵を描く事も再開したんですよ! お母さんの絵に負けないように巧くなるから、待っててね!
●
妻も娶らず、子も持たず。ただ躑躅を愛し抜いた貴族をレティシア・レインフィールは思う。
紅い躑躅を桃色の中から選び、ぷつりと取ると蜜を躊躇いなく口にした。
記憶から鮮やかに蘇るのは帝国にいた頃。
大きな悲しみも、世の波の厳しさも知らず、母様とあの人。そして隠された小さな部屋と中庭だけが世界の全てだった時だ。
母と共に歌い、抱き締められて其の温もりに埋もれる。
確かに、愛されていた。
――庭師だったあの人をお兄ちゃんと呼び、慕っていた。
母が読み聞かせてくれた絵本の姫君と騎士のように、彼が騎士となって護ってくれるのだと約束した。
三人で過ごせるだけで、幼いレティシアは幸福だった。
知らなかったのだ。
其れは恩義ある人々を盾に取られて、愛妾として領主に囲われた母の犠牲の上で成り立っていたという事を。
母は其の笑顔の裏に、どれだけの悲しみと苦しみを隠していたのだろう。苦しい、助けて欲しいという感情を押し殺して、其れだけの哀愁を優しさに変えて、レティシアを愛してくれていたのだ。
――私は
あとどれだけ努力を重ねれば、其れに報いる事が出来るのだろう?
多くの犠牲の上に成り立ったこの命を、一体どうすれば――
●
「躑躅。つーつーじ。懐かしいですねぇ」
ギーゼラは躑躅園と称された躑躅が支配する園を楽しそうに笑う。
うちの庭にも咲いていて、小さい頃は蜜を吸ったものです。フフフ、吸い過ぎて庭師に怒られましたっけねぇ!
流石にこの年になって蜜を吸う事は――ありませんけど。
そう、だから紅い躑躅を見付けても、ギーゼラは蜜を吸わない。
幸せな記憶なんて要らないのだ。
ギーゼラが追い求めるのは幸せなんてものじゃない、圧倒的な力! 僕が私が生きているという証をこの世に刻む事。
「まあ、昔を見せられただけで鈍るような、やわな覚悟はしていませんが……二度と手に入らない幸せを見せつけられるのは、拷問に近いと思うんですよねぇ」
貴方も難儀な恩返しをしますねぇ。
ギーゼラは躑躅にそう話しかけて、にこと笑う。
僕はね、躑躅。
傷付いた人が僕の癒しを待っている時が、一番幸せですよ?
だって僕を必要としてくれてますもんね。僕しか頼れる人がいないんですから。
――ああ、そうだ。そんな拷問に引っ掛かっている人がいるかもしれません。
一応癒しの術は用意しておきましょうか。
●
ラーナフは子ウサギのモネを連れて、躑躅の園を歩く。
「とても美しいね、モネ。絵に描いてみようか。好きに歩いてみるかい?」
きゅ、とモネが鳴く。この子はきっと、記憶だとか美しさより、其の緑がどんな味をしているのかという方に興味がありそうだけれど。
許可は既に取ってある。モネを下ろすと、競うように生い茂る躑躅と子ウサギをスケッチする。あまり遠くには行っちゃ駄目だよ、という言葉に従うように、子ウサギは降ろされた辺りを少しうろつく。すんすんと躑躅の葉の香りを嗅ぐモネ。まだ怖いのか、其の葉を食む事はしない。
あらかたスケッチを終えたラーナフは、紅い躑躅へと歩み寄る。
「此れかな? 噂の躑躅というものは」
ぷつり、と花を一輪摘んで、其の蜜を流し込む。
――甘いわね!
亡き妻が、笑ったような気がした。
妻は色んな顔で笑う人だった。はにかんだり、照れながら笑ったり。時に少女のように目を輝かせたかと思えば、美しく幸せそうに笑ったり。女性のようで、少女のような人だった。でもいつだって、其の笑顔は綺麗だったんだ。
「――笑顔が一つじゃない事を、君から教えて貰ったね」
一時たりとも忘れた事なんてないけれど、少しだけほっとした。
一番幸せな時は一つじゃなかったと確信できたから。妻と過ごした時間そのものが、幸せな時だったのだと。
「おいで、モネ」
そっと子ウサギを抱き上げる。暖かく鼓動する小さないのちを愛おし気に見詰めると。
「おいで、モネ。君との思い出もたくさん作って、彼女の土産話にしよう」
いつか彼女と出会う時には。
とびきり沢山の話をするんだ。
そう、例えば、モネは躑躅の葉に最初、怯えていたんだよ。とかね。
●
「もうすぐなくなってしまう景色、か」
シルヴィア・A・カペルは躑躅園を歩く。躑躅の色に、彼女の白と青はよく映える。
「一つの花をのみ愛でるのもまた美しいものだね。――かの貴族は、きっと躑躅こそが運命だったのだろう」
祈りを捧げるように僅か黙し、片手を胸元に当てる。
そうして僅かな祈りを済ませた後、まるで迷宮のような躑躅園を歩む。あちこちに咲いている、桃色に白、そして深紅の躑躅。幸せだった頃を思い出すなんていわれがあるから珍しいのかと思いきや、案外其の辺に咲いているのだね。
これも躑躅の気紛れか、と。シルヴィアは其のお誘いに乗る事にした。
ぷつり、と一輪摘んで、其の蜜を口に運ぶ。薄い唇を僅かに濡らして、蜜が喉を通り――思い出したのは、この躑躅のように“紅い”薔薇。そして“故郷の青薔薇”と“青い双眸”。……そうだ、あの顔を引き寄せた時の驚いた顔といったら!
つい思い出し笑いをしてしまって、シルヴィアは襟を正す。――そうだ。冬に結ばれた彼に、春を届けに行こうか。
紅い躑躅を栞にすれば、丁度いいだろうか。蜜を失くしてもなお美しい花を見ながら、シルヴィアは笑った。彼はどんな顔をするだろう。君の顔を見たよ、と言ったら。
●
「躑躅……ですか 美しいですね」
ミア=リゼルはじっ……と躑躅を見ている。薔薇のように赤い躑躅は、よく咲いている赤い躑躅とは違うのでしょうか。其れとも紅ければ大丈夫なのでしょうか。
過去の幸せを蘇らせるのなら、やっぱり特別な色をしているのでしょうか。
ミアは試しに、とばかりに紅い躑躅を摘まむ。薔薇のように赤いような、道端で見かける赤色のような。
ミアが思い出す幸せは、無数にあった。
親友との交流、恋人とのあたたかな時間。ミアのこれまでの歩みには、沢山の幸せな時があって、どれか一つなんて選べない。
どれもが幸せで、とっても、とても、幸せなんです。
だから。
ミアはそっと手を離した。この幸せを信じられているうちは、躑躅を見て楽しむ事にしようと。
そして願わくば。
あの二人がもし此処に居て、魔法の躑躅の蜜を吸ったとして。
見る幸せが“今”でありますようにと。
●
セラフィナ・M・ベイリーはホムンクルスだ。
一度死した身体に、特別な方法で生成された“賢者の石”を埋め込んで新しく命を迎える。そうして生まれた命だ。
そんな命にも、幸せな過去はあるのか?
幸せな記憶を、見る事は出来るのか?
探し求めていたはずなのに、いざ目の前にあると少し躊躇ってしまう。
幸せな記憶なんてなかったら?
本当は“死んだ方がマシだった人生”なんだって証明されてしまったら?
噂は噂と切り捨てられるほど、セラフィナは強くなかったけれど。
けれど求めずに背を向けられるほど、矢張りセラフィナは強くなかった。少し震える手でそっと躑躅を取り、蜜を吸う。其れはまるで、薬を煽るに似て。
――豪快に笑う男性がいた。
――優しく微笑む女性が見えた。
――遠くから楽しそうにこちらを呼ぶ人。
――そして、嬉しそうに私の手を引く姿が見えた。
父。母。兄。そしてきょうだい。
ああ。私にも幸せな家族がいたんですね。こうして父母の元に駆け寄って、嬉しそうに歓談するような時間が、私にもあった。そう信じていいんですよね?
――でも。
見えた景色は、きっと失われたもの。
もう父母も兄も、何処にもいないのだろう。
じゃあ、私はどうすれば良いのでしょうか? 私一人だけ残されたこの世界で、どうやって生きていくのが正解なのでしょう?
●
「躑躅園が解放されるそうだから、花見に行こうよ」
そう言いだしたのはヨル・スレイマンの方だったが……実際、花を見たかったのはヨルの方かもしれない。ナハシュはヨルの作るお弁当につられて付いてきたようなものだったから。
「わあ……本当に、躑躅がこの屋敷の主人みたいだ」
廃墟を覆うように咲き誇る躑躅。我が、我が、と競うように咲き誇る様は、花言葉とは少し違って見えたかもしれない。
花は綺麗で、ナハシュと出かけられるのも嬉しい。思わずヨルの顔に浮かぶ笑顔。
「一個貰うぞ」
ナハシュは早速ヨルのバスケットからサンドイッチを一つ頂戴して、ぱくりと食みながら躑躅の園を見回していた。
「そうだ。……紅い躑躅の噂があるんだ、ナハシュは知ってるかい?」
「もぐ、紅い躑躅?」
「そう。蜜を飲むと、幸せだった過去を思い出せるとか」
「……幸せな過去、ねえ」
ナハシュは然程興味はなかった。幸せな過去なんて、自分にはないと思っていたからだ。悪魔憑きだと言われて、両親には愛されなかったし……
しかしヨルは其れを知らない。出会うまでのナハシュの過去を一つも知らないから、彼が何を見るのだろう、と人の良い笑みを浮かべて見ているのだ。
……無言で二人は歩き、やがて「あ」とナハシュが声をあげた。
「あった。紅い躑躅」
「群れるように咲いているね。此れなら2輪くらいとっても判らないかな」
ぷちりと取って、花の付け根から蜜を吸う。
じわり、と甘みが広がって――ナハシュが思い浮かべたのは夜空だった。そうだ、両親を殺めて初めて見た夜空。灰色の天井なんかじゃなくて、何処までも広くて、“己は独りきり”だから“この世全てが遊び場なんだ”と理解したあの日。其の時の喜びと、楽しさといったら!
思わず二口目の蜜を口にしていた。嗅覚に掠めるのは、美味しそうな肉の香り。テールスープに香草焼き。ローストに……何か名前の知らないおいしそうな奴!
「肉!!!」
「うわっ」
思わず叫んだナハシュに、ヨルはびくっと身を竦ませた。
どうしたんだい、と問うヨルに、ナハシュは今日は香草焼きが食いたいと言い募る。
……己が手がけた料理を美味しく食べるナハシュ。其れはヨルが見た幸せな光景を想起させて、だから。
「仕方ないなー。今日の夕飯は美味しいの作るね」
ナハシュは優しく、嬉しそうに笑ったのだった。
●
「幸せだった頃の想い出、ですか」
リディリディ・トゥラ・イェレミースとコルネリウス・アーラは二人、桃色に彩られた躑躅園を歩く。
「故郷の大森林に住んでいる時は……余りそういったものは意識した事はありませんでした」
静かにリディリディは語る。ほんの少し、寂しそうに。
「でも、一人だけ友人はいたんです。……其の時は確かに、幸せだったんだろうと思います。ただ」
酷い別れをしたので、余り思い出したくはありません。
コルネリウスはリディリディの言葉に何も差し挟めないまま、彼女の端正な横顔を見ていた。こんなに温和に見える彼女が“酷い別れをした”と言うのなら、其れは本当に酷いものだったのだろう。何か言おう、と思うのだけれど、乾いた舌は巧く回らなくて。
「……ひとの思い出は、複雑ですね。幸せだったはずの時間も、ほんのり苦い記憶になったり……」
そう呟くので精一杯だった。
己を嫌悪するコルネリウスに、リディリディはふと脚を止める。
「……私なんかの話よりも、コルネさんはどうですか?」
「え?」
リディリディが差し出した躑躅は薔薇のように赤く。誘われるように白皙の指が受け取ると、コルネリウスは其の蜜を呑み込んでいた。
「……私の幸せだった思い出は、故郷……実家で過ごした時間です」
ぽつり。吐き出す。
「まだ兄さんも姉さんも生きていて、私がとても小さかった頃。色んな種族の兄妹4人、そして父さんと一緒に過ごした毎日が……当たり前にあった、暖かい家族の空気が。本当に私は、果報者だったと」
色んなものを手にして。失くして。そうして経験を経て、知ることが出来たのだとコルネリウスは言う。
「きっとそうした経験と気付きこそ、未来の幸せへ繋がる大切な宝ですよ、って……父さんなら言ってくれると思うんです。でも」
過去に戻れるなら。そう思う事もある。でも過去には、リディリディや今笑い合う人々はいないのだ。
複雑です、と困ったように笑ったコルネリウスに、複雑ですね、とリディリディは笑みを返した。
過去に戻りたいような。今に佇んでいたいような。そんな二人のエルフ。
●
「わーい、花いっぱい!」
「まあまあ。はしゃぎすぎて転ばないようにね、マルミット」
ナジクは演技をしている。
何かと便利だからとドレスを着ていたら、目の前のマルミットにお姫様だって言われたから。其の幻想を壊してしまわないように、言葉だけでもと繕っているのだ。マルミットが哀れだっただけで、優しさなんかじゃあない。
――王国貴族の庭園か。落ち着かねえな。下賤なゴブリンが来る場所じゃねえぞ
とはいえ、マルミットと過ごす日々は其れなりに幸せだ。
紅い躑躅の蜜を飲んだって、きっと今の光景を見るくらいにはこの“ごっこ遊び”も悪くはないのだ。
「ねえねえ、紅い躑躅は特別なんだって! このマルミットが必ずや見つけ出してしんぜましょー!」
「あらあら。紅い躑躅の噂は本当なのかしら? 私には良く判りませんわ。今この瞬間があるだけですもの」
ほんの少し真実を含ませればほら、慣れ親しんだお姫様言葉も真実味を帯びて来る。
「ナジク! 姫さま! 紅い躑躅、見付けたよ!」
「まあ、本当? じゃあ一緒に蜜を吸いましょう」
ナジクの指が、マルミットの手にある躑躅を一輪取る。二人はにっこりと笑い合って、蜜を吸った。
――ナジクはやっぱり、何も見なかった。
今が一番幸せ、そういう事なのだろう。
マルミットはどうだろう? 今を幸せと言ってくれるだろうか。
「ねえねえ、姫さま。ボクね、母さんを見たよ」
――……。
「母さんの大きな胸にもたれて、うとうとしてるの。小さい頃の記憶だね。思い出して、とっても幸せになったんだ! ボクの母さんは樹海近くの村出身でね、でも、悪いお金持ちがシルバードに連れて行って、其処でボクが生まれたんだって」
「……そうかよ」
なんでだろう。ナジクの胸にはぽっかりと穴が開いたかのような心地だった。
不愉快だった。なんで私じゃないんだという気持ちと、相手の一番幸せな時が小さい頃だなんていう物悲しい話に心がぐちゃぐちゃになりそうだった。
同情を示すのも好きなやりかたではない。
「そうかそうか、テメエなんざこうだ」
「わあ! ボクの姫さまが不良になっちゃった。どしたのナジク?」
柔らかなマルミットの頬をぐにぐにと揉んでやる。疑う事を知らない彼女は、其れでも何処か嬉しそうだ。きっと“不良ごっこ”だと思っているんだろう。
「花のおしゃぶりがよく似合う顔だな。取ってきてやろうか」
「やだよー。ボク、もう子どもじゃないもん。姫さまの騎士だもん」
●
ジュスト・ヴェルジーはローザリカ・L・ディオールをエスコートして、躑躅園を散策する。
「噂通り見事な躑躅だね」
「何かと蜜には縁があるような気がするけれど……気のせいかな」
「さあ。けれど、君が思うならきっと縁があるんだろう」
二人は手を繋いで、躑躅を見て回る。ほんの少し前まではこの大きな手を振り払っていたのだろうなと思うと、何処か遠くへ来たようにもローザリカは思う。
ふと脚を止め、紅い躑躅を見止めた。ぷつり、と細い指先でつまみ取って、くるりと花弁を回してみる。
「……気になるかい? 例の噂」
「いいや。一番幸せだった時だなんて、“何ら変わりのない景色”を見ても面白みはなさそうだからね」
「そうだね……俺も蜜を吸う気にはなれないな。一番幸せなのは今だし」
似たような事を考えていたね、とジュストが肩を揺らして笑う。それをローザリカの黄昏色した瞳が、きろりと睨みつけて。
「――最近の君は、どうにも口が過ぎる」
逸らした視線。そしてフラワーホールに差し込んだのは、蜜の落ちた躑躅の花弁。其の花言葉が意味するところは、「慎み」、そして赤となるとそれは「恋の喜び」である。
其れを知らぬジュストではない。ふふ、と婚約者(仮)の愛らしいアプローチを嬉しくもさえ思う。躑躅を見ているようで見ていない薔薇色の彼女を、そっと背後から抱き寄せた。其の薄い耳朶に唇を当てるように囁く。
「其れは、言葉の代わりに行動で示せという意味で受け取っても?」
「……」
「躑躅の蜜より欲しい蜜があるんだけれど。これでもまだ我慢しているんだよ」
其れは誰より愛しい彼女の為。我欲で貪る事はしたくないという、なけなしのジュストの理性だった。
「……我慢?」
するり、柔らかな肢体が腕をすり抜けていく。君はいつだってそうだ。
「勇気が出ないの間違いでは?」
減らず口を叩いて、きっと我慢しているのだろうけれど、残念。目元が紅いんだ。
可愛いロゼ。簡単には捕まらない、捕まえても捕まっていないふりをする。そんなところがとても愛しい。まだ追い掛けるのはやめておこう。君がひらりと舞うのを見たいから。
●
「また会えて嬉しいよ、マリィ。誘ってくれてありがとう」
「いいえ、こちらこそ会えて嬉しいです」
マリィ・スノードロップとザスキアは、待ち合わせ場所で無事に会えた事に喜び合う。
「リーンエス王国にも、このような場所があるんですね」
マリィが振り返ると、其処には躑躅の、躑躅による、躑躅の為の園がある。賑やかに咲いているのに、なんだか寂しそうだと思った。
「そうだな。近くを通りがかった事はあったが、こうして中に入るのは初めてだな……本当に慈しまれていたんだろう」
踏み入るのを躊躇してしまいそうなくらい、とても綺麗だ。
二人で勇気を出して踏み入った躑躅の園。マリィはそわそわと躑躅を見て。
「……躑躅の花の蜜を吸う。わたしの故郷では、躑躅を見た事がなくて」
やった事ありますか?
マリィが不安そうに聞くと、ザスキアは頷いた。親友と小さい頃に何度かやったことがあるのだという。
白と、赤。並んだ躑躅をふたつ摘んで、何の気なしにマリィがザスキアに差し出したのは紅い躑躅。
「ありがとう。……ふふ。君は本当に花が似合うね」
「え」
春の妖精みたいだ。
ザスキアが言葉を重ねると、マリィの頬がぶわっと紅くなって。
「か、からかうのはやめてください……!」
「本気なのになぁ」
こうだよ、とザスキアが根元を口に咥えて、蜜を吸う。
マリィは照れ隠しに真似をして、白い躑躅の蜜を吸う。……蜜? あるのかな? なんとなく青臭い、植物特有の味しかしないような気もして、首を傾げてしまう。
「どう? 蜜の味はしたかい」
あなたは蜜を飲んだのだろうか。過去の幸せを、見たのだろうか?
「よく……判らないです。ザスキアさんはどうですか、美味しかったですか?」
――過去の日。
――家族に迎え入れられたあの日の事。
「ああ。……とても暖かい味、だったかな」
「暖かい味。どんな味ですか? 甘いですか?」
色とりどりの躑躅の中で、マリィはザスキアに訊いた。暖かな会話は続く。
●
「ふーん、紅いのを吸うと幸せだった記憶が蘇る、ねぇ」
眉唾だな。
桃色に紅色、様々な躑躅が咲き誇る中に、黒が一輪。ベルク・オスマットである。
「成る程ぉ。躑躅と書いててきちょく。脚を止め止め歩くって意味なんだって! 私の脚を止められるものなら止めてみやがれってんだ! どんどん行こ!」
フレイヤ・サンライズはベルクの傍をうろちょろしている。本当に足を止めるつもりはないらしい。
ベルクはそんなフレイヤを見ながら、紅い躑躅の頸をぷつんと“刈る”。そうして花の奥にしまわれていた蜜を、一息に飲み込んだ。
「あ! ベルク、蜜飲んだ!」
――幸せだったころ。
そういや、夢駆路商会の暗部組が一丸となって、今は亡き先代頭をイカサマ賭博でハメようとしたっけ。丸裸にしてやろう、って言ってさ。
でも其れは呆気なくバレて、全員頭にフルボッコにされたっけ。ボコボコにされた痛みさえもおかしくて、皆で笑ってた。
暗部だなんだといっても、やっぱり皆楽しい事が好きなんだよなぁって思ったな。
先代頭は半分呆れて、でも発想と度胸は評価してくれて、酒とお菓子を振舞ってくれたっけ。“ガキンチョにはこれやるよ”って、甘いお菓子を貰った。
でも……結局其の頭も、“舎弟の悪戯に大人げない、其れでも組を率いる頭の器か”って奥さんに張り倒されてて。何か結局、皆で大笑いした。
――楽しかったなぁ。
――あの時、賊さえ入らなきゃ、ずっと幸せだったのかな。
ベルクの心中の問いに、応える者はいない。
けれど、6代目が落命しなければ得られなかったものも山ほどあるのだ。
過去と未来のバランスを取ることは、とてもとても難しい。
けれど判っている事は、“過去には戻れない”。ただ一つの真実のみ。
だから人はこうして思い出して、ほんの少し笑うのだろう。
ベルクは笑みを浮かべた。花に呼ばれるなんて、皆、柄じゃないよって。
ふと頭上に温もりを感じて、ベルクは頭を触る。
「ふっふー! ベルクってやっぱり、ピンクとかよく似合うよね!」
フレイヤが花を頭にのせていた。黒にピンクはよく似合うんだよ、と晴れやかな笑顔で。
「今日は照り焼きチキンのサンドイッチを作ってみたんだ! どうどう? 見晴らし良さそうな場所で食べてみない?」
「……そうだな」
「わあ、やったあ! じゃあ早速行こう! ……ところで、みんな躑躅を口に咥えてるけど……あれって何なんだろ?」
「……案内を読んでなかったのか?」
話しながら二人は歩む。こうして何気なく言葉を交わせる幸せも、此処にはある。
●
「うわぁ、すげぇな」
レオネベルは緑の瞳を輝かせ、これでもかと咲き茂る躑躅を見ていた。
「そうね。凄く綺麗、甘い匂いがするわ」
リーザヴェールはしどけなく頷くと、躑躅に鼻を寄せる。
「――甘い匂いがするわ。とても幸せな香り。この子たち、沢山愛されたのねぇ」
「人が丁寧に育てたからの綺麗さとか、そういうのは判るよ。ただ自然に茂ったのなら、此処までにはならない」
レオネベルは遊牧民の生まれだ。だから自然に茂っているのか、人為的に茂っているのかの違いなんて植物を見れば直ぐ判る。彼女が躑躅を見て思ったのは――愛された慣れの果て、という一言だった。
きっと貴族の生前は丁寧に剪定されていたのだろう。其の跡がいまだに所々に見て取れる。けれど、好き放題に伸びた形跡もあって。
「自然の美しさは何物にも代えがたいものだけれど、私は少しばかり人から愛(手入れ)された貴方達が好きよ」
そっと、リーザヴェールが囁く。あ、でも、と何かに思い付いたようにレオネベルに向き直り。
「レオネベルちゃんの太陽の匂いは別格よぉ?」
なんて笑うから。レオネベルは照れ臭くなって、なんだよそれって顔を逸らす。
「それよりさリーザヴェール。躑躅の蜜、飲んでみないのか?」
「そうねぇ……じゃあちょっとだけ。私に愛(蜜)を分けて下さいな」
リーザヴェールの白魚の指が、真っ赤な躑躅をぷつんと摘み取る。豊かな蜜をそっと吸う其の様は、まるで毒酒を煽るにも似て。
――私は、いつだって今が幸せなの。
――取っては楽しんで、いずれ飽きてしまうけれど。
――楽しんでいる間は、確かに幸せなのよ。
――ああ、でも。
貴族として嫁ぐ前の一時、学園で叶わない恋をしたあの頃。
あの頃の記憶が、もう随分とのんびりしていた心の鼓動を速めてしまう。
一方でレオネベルは、躑躅に手を出せないでいた。
今だって幸せだけど、もしかしたら……もしかしたら、まだ家族や一団の皆が生きていた光景が見えるんじゃないかって、少しだけ躊躇していたのだ。
ぼうっとしているリーザヴェールを見て、矢張り飲まない方が良いんだ、とレオネベルは思う。兄を探してもいる。兄はきっと何処かにいる。だから、大事な思い出は胸にしまっておいた方がいいのだと。
「なあ、何か見えたか?」
この謎の多い貴婦人に、何か見えたものはあったのだろうか。
問うてみると、あら、と彼女は笑みを返した。
「レオネベルちゃんは飲まなかったのね。――ふふ。これは私とこの子の秘め事なの」
躑躅を振って、リーザヴェールは笑う。
其れから、次の読み書きは恋のお話にしましょうか、と。何もかもを、鼓動の速さすらも笑みの裏に隠してしまうのだった。
●
「ふーん……家が丸ごと躑躅で包まれてるとはねえ」
パドは家を覆う程に覆い茂った躑躅を見て、へえ、と呟いた。
家ごと持って行って、今度の演目で見せびらかせば儲かるかしら? 問題はどうやって運ぶかだけど。
「此処を興行場所にすれば良いのでは」
シファーはぶっちぶっちと躑躅の花を千切っては、其の蜜を飲み下す。そういえば昔、飢えを誤魔化す為に花の蜜を吸っていたのを思い出したのだ。
「……お花、あんまり美味しくない」
不満げなシファーを、まあまあ、とアウレーリウスが宥める。
「あんまりぶちぶち千切るのも良くないよ、シファーくん。でも、花の盛んな時期にこういう場所に拠点を構えたら楽しそうだね」
「ふうん?」
シファーが花を摘んでいるのを見て、パドも真似をしてみる。ぷつり、と摘んで一口。ん、と舌なめずりをして。
「甘ーい! でも、ちょっぴりしかないから満足できないわ……」
「……二人は何かみた?」
「「え?」」
アウレーリウスは知っている。紅い躑躅の蜜を吸うと……という噂を。けれど、二人は一様に首を傾げた。
「ナニソレ、何にも感じないわよ?」
「何も、みなかった。……昔はごちそうだと思ったのに……」
一方は不思議そうに、一方は残念そうに。
そんな二人の様子を見て、何処か安堵する自分がいる事にアウレーリウスは気付く。無意識に手が左耳のカフスを弄っているのにも気付いて、慌てて手を下ろした。きっと二人は、今が一番幸せなのだろう。
“幸福ではない人間が、他者を幸せにするのは難しい”
アステール一座に来る前に教わった事を思い出す。
余った分の幸せを分けてあげられるような才能は、まだ自分にはないという事か。
「あ! いーこと思い付いた。白いのもピンクのも紅いペンキで塗って、籠一杯に詰め込んだら、みんな欲しがるから売って大儲けできるわ!」
「紅い躑躅……みんな欲しがる?」
「そうよ! ほら、シファーも手伝いなさい!」
「流石に其れは不味いって……!!」
勿論、スタッフに即止められました。
さて、何を以てして“幸せ”と呼ぶのだろう?
サイラスは紅い躑躅の蜜を採取して小瓶に入れながら、考えていた。
蜜を呑んで幸せを見る。其れはあくまで噂であって、単に其の味に人々が郷愁を覚えるだけの一現象なのかもしれない。
何処まで行けば、今が見えるくらいに幸福だと定義できるのだろう。
サイラスは決して恵まれた生まれではなかった。幸せだと思った事などなかった。だから、村を焼いた。其れは確かに幸福だったのかもしれない。一つのしがらみを己の手で断ち切った喜びがあったのかもしれない。でもそんなものを幸せと呼ぶのもなんだか違う気がするのだ。
其れに、子どもは保護されてしまったから根こそぎ“狩り切った”訳でもない。まあ……今は好き勝手出来ているから其れも一種の幸福か? だけれど、嫌な事だって沢山あるし。
或いは、鍛冶の研鑽や新しい技法――……其れも精密には、幸せとはいえなくて。
蜜を一口舐めてはみたが、何も見えはしなかった。其れはつまり、幸福は未来にあるという事だろう。竜に成った時、きっと何にも代えがたい、何よりも素晴らしい幸福をサイラスは感じるのだ。
いつになる事やら。サイラスはいつかの幸せの一端になるかもしれない蜜を、ぽとり、と小瓶に集めるのだった。
●
「わあ、綺麗な躑躅……!」
リサ・ベイカーは廃墟を埋めつくすような桃色の群れに、碧い瞳を輝かせた。
歩いているだけで幸せになってしまいそう。でも、紅い躑躅の蜜を呑むと幸せだった過去を見られるとか。
ちょっと試してみようかな? 夢でもまた、あの頃を見られるなら。
紅い躑躅は案外直ぐに見つかった。リサはぷつりと華を摘むと、其の根元にあるという蜜を口に含む。――甘い。其れは、過去に母が「良い子ね」と撫でてくれた時の胸の暖かさに似ていた。
母の記憶は朧気だ。リサの実母は既に他界している。
まだ4、5歳だった己を置いて母は逝ってしまったけれど、其れでも、時折思い出す事があるのだ。
一緒に絵を描いたり、一人で描いた絵を褒めて貰ったり。
――これはリサで、これはお母さん!
――まあ。とても上手ね。
褒められて、嬉しくなって笑う。多分一番屈託なく、心から笑っていた頃の幸せ。
――でも。
リサは味わって閉じていた瞳を開く。
今だって、そんなに悪くない筈。
学園に入学して、生徒会役員になったり。王国の高位貴族の令息令嬢と友人になったりとか、大切な友人が出来たりとか。
不幸せか? って聞かれたら、迷わず頭を振るだろう。だから、お母さん。安心してね。
――あ! 絵を描く事も再開したんですよ! お母さんの絵に負けないように巧くなるから、待っててね!
●
妻も娶らず、子も持たず。ただ躑躅を愛し抜いた貴族をレティシア・レインフィールは思う。
紅い躑躅を桃色の中から選び、ぷつりと取ると蜜を躊躇いなく口にした。
記憶から鮮やかに蘇るのは帝国にいた頃。
大きな悲しみも、世の波の厳しさも知らず、母様とあの人。そして隠された小さな部屋と中庭だけが世界の全てだった時だ。
母と共に歌い、抱き締められて其の温もりに埋もれる。
確かに、愛されていた。
――庭師だったあの人をお兄ちゃんと呼び、慕っていた。
母が読み聞かせてくれた絵本の姫君と騎士のように、彼が騎士となって護ってくれるのだと約束した。
三人で過ごせるだけで、幼いレティシアは幸福だった。
知らなかったのだ。
其れは恩義ある人々を盾に取られて、愛妾として領主に囲われた母の犠牲の上で成り立っていたという事を。
母は其の笑顔の裏に、どれだけの悲しみと苦しみを隠していたのだろう。苦しい、助けて欲しいという感情を押し殺して、其れだけの哀愁を優しさに変えて、レティシアを愛してくれていたのだ。
――私は
あとどれだけ努力を重ねれば、其れに報いる事が出来るのだろう?
多くの犠牲の上に成り立ったこの命を、一体どうすれば――
●
「躑躅。つーつーじ。懐かしいですねぇ」
ギーゼラは躑躅園と称された躑躅が支配する園を楽しそうに笑う。
うちの庭にも咲いていて、小さい頃は蜜を吸ったものです。フフフ、吸い過ぎて庭師に怒られましたっけねぇ!
流石にこの年になって蜜を吸う事は――ありませんけど。
そう、だから紅い躑躅を見付けても、ギーゼラは蜜を吸わない。
幸せな記憶なんて要らないのだ。
ギーゼラが追い求めるのは幸せなんてものじゃない、圧倒的な力! 僕が私が生きているという証をこの世に刻む事。
「まあ、昔を見せられただけで鈍るような、やわな覚悟はしていませんが……二度と手に入らない幸せを見せつけられるのは、拷問に近いと思うんですよねぇ」
貴方も難儀な恩返しをしますねぇ。
ギーゼラは躑躅にそう話しかけて、にこと笑う。
僕はね、躑躅。
傷付いた人が僕の癒しを待っている時が、一番幸せですよ?
だって僕を必要としてくれてますもんね。僕しか頼れる人がいないんですから。
――ああ、そうだ。そんな拷問に引っ掛かっている人がいるかもしれません。
一応癒しの術は用意しておきましょうか。
●
ラーナフは子ウサギのモネを連れて、躑躅の園を歩く。
「とても美しいね、モネ。絵に描いてみようか。好きに歩いてみるかい?」
きゅ、とモネが鳴く。この子はきっと、記憶だとか美しさより、其の緑がどんな味をしているのかという方に興味がありそうだけれど。
許可は既に取ってある。モネを下ろすと、競うように生い茂る躑躅と子ウサギをスケッチする。あまり遠くには行っちゃ駄目だよ、という言葉に従うように、子ウサギは降ろされた辺りを少しうろつく。すんすんと躑躅の葉の香りを嗅ぐモネ。まだ怖いのか、其の葉を食む事はしない。
あらかたスケッチを終えたラーナフは、紅い躑躅へと歩み寄る。
「此れかな? 噂の躑躅というものは」
ぷつり、と花を一輪摘んで、其の蜜を流し込む。
――甘いわね!
亡き妻が、笑ったような気がした。
妻は色んな顔で笑う人だった。はにかんだり、照れながら笑ったり。時に少女のように目を輝かせたかと思えば、美しく幸せそうに笑ったり。女性のようで、少女のような人だった。でもいつだって、其の笑顔は綺麗だったんだ。
「――笑顔が一つじゃない事を、君から教えて貰ったね」
一時たりとも忘れた事なんてないけれど、少しだけほっとした。
一番幸せな時は一つじゃなかったと確信できたから。妻と過ごした時間そのものが、幸せな時だったのだと。
「おいで、モネ」
そっと子ウサギを抱き上げる。暖かく鼓動する小さないのちを愛おし気に見詰めると。
「おいで、モネ。君との思い出もたくさん作って、彼女の土産話にしよう」
いつか彼女と出会う時には。
とびきり沢山の話をするんだ。
そう、例えば、モネは躑躅の葉に最初、怯えていたんだよ。とかね。
●
「もうすぐなくなってしまう景色、か」
シルヴィア・A・カペルは躑躅園を歩く。躑躅の色に、彼女の白と青はよく映える。
「一つの花をのみ愛でるのもまた美しいものだね。――かの貴族は、きっと躑躅こそが運命だったのだろう」
祈りを捧げるように僅か黙し、片手を胸元に当てる。
そうして僅かな祈りを済ませた後、まるで迷宮のような躑躅園を歩む。あちこちに咲いている、桃色に白、そして深紅の躑躅。幸せだった頃を思い出すなんていわれがあるから珍しいのかと思いきや、案外其の辺に咲いているのだね。
これも躑躅の気紛れか、と。シルヴィアは其のお誘いに乗る事にした。
ぷつり、と一輪摘んで、其の蜜を口に運ぶ。薄い唇を僅かに濡らして、蜜が喉を通り――思い出したのは、この躑躅のように“紅い”薔薇。そして“故郷の青薔薇”と“青い双眸”。……そうだ、あの顔を引き寄せた時の驚いた顔といったら!
つい思い出し笑いをしてしまって、シルヴィアは襟を正す。――そうだ。冬に結ばれた彼に、春を届けに行こうか。
紅い躑躅を栞にすれば、丁度いいだろうか。蜜を失くしてもなお美しい花を見ながら、シルヴィアは笑った。彼はどんな顔をするだろう。君の顔を見たよ、と言ったら。
●
「躑躅……ですか 美しいですね」
ミア=リゼルはじっ……と躑躅を見ている。薔薇のように赤い躑躅は、よく咲いている赤い躑躅とは違うのでしょうか。其れとも紅ければ大丈夫なのでしょうか。
過去の幸せを蘇らせるのなら、やっぱり特別な色をしているのでしょうか。
ミアは試しに、とばかりに紅い躑躅を摘まむ。薔薇のように赤いような、道端で見かける赤色のような。
ミアが思い出す幸せは、無数にあった。
親友との交流、恋人とのあたたかな時間。ミアのこれまでの歩みには、沢山の幸せな時があって、どれか一つなんて選べない。
どれもが幸せで、とっても、とても、幸せなんです。
だから。
ミアはそっと手を離した。この幸せを信じられているうちは、躑躅を見て楽しむ事にしようと。
そして願わくば。
あの二人がもし此処に居て、魔法の躑躅の蜜を吸ったとして。
見る幸せが“今”でありますようにと。
●
セラフィナ・M・ベイリーはホムンクルスだ。
一度死した身体に、特別な方法で生成された“賢者の石”を埋め込んで新しく命を迎える。そうして生まれた命だ。
そんな命にも、幸せな過去はあるのか?
幸せな記憶を、見る事は出来るのか?
探し求めていたはずなのに、いざ目の前にあると少し躊躇ってしまう。
幸せな記憶なんてなかったら?
本当は“死んだ方がマシだった人生”なんだって証明されてしまったら?
噂は噂と切り捨てられるほど、セラフィナは強くなかったけれど。
けれど求めずに背を向けられるほど、矢張りセラフィナは強くなかった。少し震える手でそっと躑躅を取り、蜜を吸う。其れはまるで、薬を煽るに似て。
――豪快に笑う男性がいた。
――優しく微笑む女性が見えた。
――遠くから楽しそうにこちらを呼ぶ人。
――そして、嬉しそうに私の手を引く姿が見えた。
父。母。兄。そしてきょうだい。
ああ。私にも幸せな家族がいたんですね。こうして父母の元に駆け寄って、嬉しそうに歓談するような時間が、私にもあった。そう信じていいんですよね?
――でも。
見えた景色は、きっと失われたもの。
もう父母も兄も、何処にもいないのだろう。
じゃあ、私はどうすれば良いのでしょうか? 私一人だけ残されたこの世界で、どうやって生きていくのが正解なのでしょう?
●
「躑躅園が解放されるそうだから、花見に行こうよ」
そう言いだしたのはヨル・スレイマンの方だったが……実際、花を見たかったのはヨルの方かもしれない。ナハシュはヨルの作るお弁当につられて付いてきたようなものだったから。
「わあ……本当に、躑躅がこの屋敷の主人みたいだ」
廃墟を覆うように咲き誇る躑躅。我が、我が、と競うように咲き誇る様は、花言葉とは少し違って見えたかもしれない。
花は綺麗で、ナハシュと出かけられるのも嬉しい。思わずヨルの顔に浮かぶ笑顔。
「一個貰うぞ」
ナハシュは早速ヨルのバスケットからサンドイッチを一つ頂戴して、ぱくりと食みながら躑躅の園を見回していた。
「そうだ。……紅い躑躅の噂があるんだ、ナハシュは知ってるかい?」
「もぐ、紅い躑躅?」
「そう。蜜を飲むと、幸せだった過去を思い出せるとか」
「……幸せな過去、ねえ」
ナハシュは然程興味はなかった。幸せな過去なんて、自分にはないと思っていたからだ。悪魔憑きだと言われて、両親には愛されなかったし……
しかしヨルは其れを知らない。出会うまでのナハシュの過去を一つも知らないから、彼が何を見るのだろう、と人の良い笑みを浮かべて見ているのだ。
……無言で二人は歩き、やがて「あ」とナハシュが声をあげた。
「あった。紅い躑躅」
「群れるように咲いているね。此れなら2輪くらいとっても判らないかな」
ぷちりと取って、花の付け根から蜜を吸う。
じわり、と甘みが広がって――ナハシュが思い浮かべたのは夜空だった。そうだ、両親を殺めて初めて見た夜空。灰色の天井なんかじゃなくて、何処までも広くて、“己は独りきり”だから“この世全てが遊び場なんだ”と理解したあの日。其の時の喜びと、楽しさといったら!
思わず二口目の蜜を口にしていた。嗅覚に掠めるのは、美味しそうな肉の香り。テールスープに香草焼き。ローストに……何か名前の知らないおいしそうな奴!
「肉!!!」
「うわっ」
思わず叫んだナハシュに、ヨルはびくっと身を竦ませた。
どうしたんだい、と問うヨルに、ナハシュは今日は香草焼きが食いたいと言い募る。
……己が手がけた料理を美味しく食べるナハシュ。其れはヨルが見た幸せな光景を想起させて、だから。
「仕方ないなー。今日の夕飯は美味しいの作るね」
ナハシュは優しく、嬉しそうに笑ったのだった。
●
「幸せだった頃の想い出、ですか」
リディリディ・トゥラ・イェレミースとコルネリウス・アーラは二人、桃色に彩られた躑躅園を歩く。
「故郷の大森林に住んでいる時は……余りそういったものは意識した事はありませんでした」
静かにリディリディは語る。ほんの少し、寂しそうに。
「でも、一人だけ友人はいたんです。……其の時は確かに、幸せだったんだろうと思います。ただ」
酷い別れをしたので、余り思い出したくはありません。
コルネリウスはリディリディの言葉に何も差し挟めないまま、彼女の端正な横顔を見ていた。こんなに温和に見える彼女が“酷い別れをした”と言うのなら、其れは本当に酷いものだったのだろう。何か言おう、と思うのだけれど、乾いた舌は巧く回らなくて。
「……ひとの思い出は、複雑ですね。幸せだったはずの時間も、ほんのり苦い記憶になったり……」
そう呟くので精一杯だった。
己を嫌悪するコルネリウスに、リディリディはふと脚を止める。
「……私なんかの話よりも、コルネさんはどうですか?」
「え?」
リディリディが差し出した躑躅は薔薇のように赤く。誘われるように白皙の指が受け取ると、コルネリウスは其の蜜を呑み込んでいた。
「……私の幸せだった思い出は、故郷……実家で過ごした時間です」
ぽつり。吐き出す。
「まだ兄さんも姉さんも生きていて、私がとても小さかった頃。色んな種族の兄妹4人、そして父さんと一緒に過ごした毎日が……当たり前にあった、暖かい家族の空気が。本当に私は、果報者だったと」
色んなものを手にして。失くして。そうして経験を経て、知ることが出来たのだとコルネリウスは言う。
「きっとそうした経験と気付きこそ、未来の幸せへ繋がる大切な宝ですよ、って……父さんなら言ってくれると思うんです。でも」
過去に戻れるなら。そう思う事もある。でも過去には、リディリディや今笑い合う人々はいないのだ。
複雑です、と困ったように笑ったコルネリウスに、複雑ですね、とリディリディは笑みを返した。
過去に戻りたいような。今に佇んでいたいような。そんな二人のエルフ。
●
「わーい、花いっぱい!」
「まあまあ。はしゃぎすぎて転ばないようにね、マルミット」
ナジクは演技をしている。
何かと便利だからとドレスを着ていたら、目の前のマルミットにお姫様だって言われたから。其の幻想を壊してしまわないように、言葉だけでもと繕っているのだ。マルミットが哀れだっただけで、優しさなんかじゃあない。
――王国貴族の庭園か。落ち着かねえな。下賤なゴブリンが来る場所じゃねえぞ
とはいえ、マルミットと過ごす日々は其れなりに幸せだ。
紅い躑躅の蜜を飲んだって、きっと今の光景を見るくらいにはこの“ごっこ遊び”も悪くはないのだ。
「ねえねえ、紅い躑躅は特別なんだって! このマルミットが必ずや見つけ出してしんぜましょー!」
「あらあら。紅い躑躅の噂は本当なのかしら? 私には良く判りませんわ。今この瞬間があるだけですもの」
ほんの少し真実を含ませればほら、慣れ親しんだお姫様言葉も真実味を帯びて来る。
「ナジク! 姫さま! 紅い躑躅、見付けたよ!」
「まあ、本当? じゃあ一緒に蜜を吸いましょう」
ナジクの指が、マルミットの手にある躑躅を一輪取る。二人はにっこりと笑い合って、蜜を吸った。
――ナジクはやっぱり、何も見なかった。
今が一番幸せ、そういう事なのだろう。
マルミットはどうだろう? 今を幸せと言ってくれるだろうか。
「ねえねえ、姫さま。ボクね、母さんを見たよ」
――……。
「母さんの大きな胸にもたれて、うとうとしてるの。小さい頃の記憶だね。思い出して、とっても幸せになったんだ! ボクの母さんは樹海近くの村出身でね、でも、悪いお金持ちがシルバードに連れて行って、其処でボクが生まれたんだって」
「……そうかよ」
なんでだろう。ナジクの胸にはぽっかりと穴が開いたかのような心地だった。
不愉快だった。なんで私じゃないんだという気持ちと、相手の一番幸せな時が小さい頃だなんていう物悲しい話に心がぐちゃぐちゃになりそうだった。
同情を示すのも好きなやりかたではない。
「そうかそうか、テメエなんざこうだ」
「わあ! ボクの姫さまが不良になっちゃった。どしたのナジク?」
柔らかなマルミットの頬をぐにぐにと揉んでやる。疑う事を知らない彼女は、其れでも何処か嬉しそうだ。きっと“不良ごっこ”だと思っているんだろう。
「花のおしゃぶりがよく似合う顔だな。取ってきてやろうか」
「やだよー。ボク、もう子どもじゃないもん。姫さまの騎士だもん」
●
ジュスト・ヴェルジーはローザリカ・L・ディオールをエスコートして、躑躅園を散策する。
「噂通り見事な躑躅だね」
「何かと蜜には縁があるような気がするけれど……気のせいかな」
「さあ。けれど、君が思うならきっと縁があるんだろう」
二人は手を繋いで、躑躅を見て回る。ほんの少し前まではこの大きな手を振り払っていたのだろうなと思うと、何処か遠くへ来たようにもローザリカは思う。
ふと脚を止め、紅い躑躅を見止めた。ぷつり、と細い指先でつまみ取って、くるりと花弁を回してみる。
「……気になるかい? 例の噂」
「いいや。一番幸せだった時だなんて、“何ら変わりのない景色”を見ても面白みはなさそうだからね」
「そうだね……俺も蜜を吸う気にはなれないな。一番幸せなのは今だし」
似たような事を考えていたね、とジュストが肩を揺らして笑う。それをローザリカの黄昏色した瞳が、きろりと睨みつけて。
「――最近の君は、どうにも口が過ぎる」
逸らした視線。そしてフラワーホールに差し込んだのは、蜜の落ちた躑躅の花弁。其の花言葉が意味するところは、「慎み」、そして赤となるとそれは「恋の喜び」である。
其れを知らぬジュストではない。ふふ、と婚約者(仮)の愛らしいアプローチを嬉しくもさえ思う。躑躅を見ているようで見ていない薔薇色の彼女を、そっと背後から抱き寄せた。其の薄い耳朶に唇を当てるように囁く。
「其れは、言葉の代わりに行動で示せという意味で受け取っても?」
「……」
「躑躅の蜜より欲しい蜜があるんだけれど。これでもまだ我慢しているんだよ」
其れは誰より愛しい彼女の為。我欲で貪る事はしたくないという、なけなしのジュストの理性だった。
「……我慢?」
するり、柔らかな肢体が腕をすり抜けていく。君はいつだってそうだ。
「勇気が出ないの間違いでは?」
減らず口を叩いて、きっと我慢しているのだろうけれど、残念。目元が紅いんだ。
可愛いロゼ。簡単には捕まらない、捕まえても捕まっていないふりをする。そんなところがとても愛しい。まだ追い掛けるのはやめておこう。君がひらりと舞うのを見たいから。
●
「また会えて嬉しいよ、マリィ。誘ってくれてありがとう」
「いいえ、こちらこそ会えて嬉しいです」
マリィ・スノードロップとザスキアは、待ち合わせ場所で無事に会えた事に喜び合う。
「リーンエス王国にも、このような場所があるんですね」
マリィが振り返ると、其処には躑躅の、躑躅による、躑躅の為の園がある。賑やかに咲いているのに、なんだか寂しそうだと思った。
「そうだな。近くを通りがかった事はあったが、こうして中に入るのは初めてだな……本当に慈しまれていたんだろう」
踏み入るのを躊躇してしまいそうなくらい、とても綺麗だ。
二人で勇気を出して踏み入った躑躅の園。マリィはそわそわと躑躅を見て。
「……躑躅の花の蜜を吸う。わたしの故郷では、躑躅を見た事がなくて」
やった事ありますか?
マリィが不安そうに聞くと、ザスキアは頷いた。親友と小さい頃に何度かやったことがあるのだという。
白と、赤。並んだ躑躅をふたつ摘んで、何の気なしにマリィがザスキアに差し出したのは紅い躑躅。
「ありがとう。……ふふ。君は本当に花が似合うね」
「え」
春の妖精みたいだ。
ザスキアが言葉を重ねると、マリィの頬がぶわっと紅くなって。
「か、からかうのはやめてください……!」
「本気なのになぁ」
こうだよ、とザスキアが根元を口に咥えて、蜜を吸う。
マリィは照れ隠しに真似をして、白い躑躅の蜜を吸う。……蜜? あるのかな? なんとなく青臭い、植物特有の味しかしないような気もして、首を傾げてしまう。
「どう? 蜜の味はしたかい」
あなたは蜜を飲んだのだろうか。過去の幸せを、見たのだろうか?
「よく……判らないです。ザスキアさんはどうですか、美味しかったですか?」
――過去の日。
――家族に迎え入れられたあの日の事。
「ああ。……とても暖かい味、だったかな」
「暖かい味。どんな味ですか? 甘いですか?」
色とりどりの躑躅の中で、マリィはザスキアに訊いた。暖かな会話は続く。
●
「ふーん、紅いのを吸うと幸せだった記憶が蘇る、ねぇ」
眉唾だな。
桃色に紅色、様々な躑躅が咲き誇る中に、黒が一輪。ベルク・オスマットである。
「成る程ぉ。躑躅と書いててきちょく。脚を止め止め歩くって意味なんだって! 私の脚を止められるものなら止めてみやがれってんだ! どんどん行こ!」
フレイヤ・サンライズはベルクの傍をうろちょろしている。本当に足を止めるつもりはないらしい。
ベルクはそんなフレイヤを見ながら、紅い躑躅の頸をぷつんと“刈る”。そうして花の奥にしまわれていた蜜を、一息に飲み込んだ。
「あ! ベルク、蜜飲んだ!」
――幸せだったころ。
そういや、夢駆路商会の暗部組が一丸となって、今は亡き先代頭をイカサマ賭博でハメようとしたっけ。丸裸にしてやろう、って言ってさ。
でも其れは呆気なくバレて、全員頭にフルボッコにされたっけ。ボコボコにされた痛みさえもおかしくて、皆で笑ってた。
暗部だなんだといっても、やっぱり皆楽しい事が好きなんだよなぁって思ったな。
先代頭は半分呆れて、でも発想と度胸は評価してくれて、酒とお菓子を振舞ってくれたっけ。“ガキンチョにはこれやるよ”って、甘いお菓子を貰った。
でも……結局其の頭も、“舎弟の悪戯に大人げない、其れでも組を率いる頭の器か”って奥さんに張り倒されてて。何か結局、皆で大笑いした。
――楽しかったなぁ。
――あの時、賊さえ入らなきゃ、ずっと幸せだったのかな。
ベルクの心中の問いに、応える者はいない。
けれど、6代目が落命しなければ得られなかったものも山ほどあるのだ。
過去と未来のバランスを取ることは、とてもとても難しい。
けれど判っている事は、“過去には戻れない”。ただ一つの真実のみ。
だから人はこうして思い出して、ほんの少し笑うのだろう。
ベルクは笑みを浮かべた。花に呼ばれるなんて、皆、柄じゃないよって。
ふと頭上に温もりを感じて、ベルクは頭を触る。
「ふっふー! ベルクってやっぱり、ピンクとかよく似合うよね!」
フレイヤが花を頭にのせていた。黒にピンクはよく似合うんだよ、と晴れやかな笑顔で。
「今日は照り焼きチキンのサンドイッチを作ってみたんだ! どうどう? 見晴らし良さそうな場所で食べてみない?」
「……そうだな」
「わあ、やったあ! じゃあ早速行こう! ……ところで、みんな躑躅を口に咥えてるけど……あれって何なんだろ?」
「……案内を読んでなかったのか?」
話しながら二人は歩む。こうして何気なく言葉を交わせる幸せも、此処にはある。
●
「うわぁ、すげぇな」
レオネベルは緑の瞳を輝かせ、これでもかと咲き茂る躑躅を見ていた。
「そうね。凄く綺麗、甘い匂いがするわ」
リーザヴェールはしどけなく頷くと、躑躅に鼻を寄せる。
「――甘い匂いがするわ。とても幸せな香り。この子たち、沢山愛されたのねぇ」
「人が丁寧に育てたからの綺麗さとか、そういうのは判るよ。ただ自然に茂ったのなら、此処までにはならない」
レオネベルは遊牧民の生まれだ。だから自然に茂っているのか、人為的に茂っているのかの違いなんて植物を見れば直ぐ判る。彼女が躑躅を見て思ったのは――愛された慣れの果て、という一言だった。
きっと貴族の生前は丁寧に剪定されていたのだろう。其の跡がいまだに所々に見て取れる。けれど、好き放題に伸びた形跡もあって。
「自然の美しさは何物にも代えがたいものだけれど、私は少しばかり人から愛(手入れ)された貴方達が好きよ」
そっと、リーザヴェールが囁く。あ、でも、と何かに思い付いたようにレオネベルに向き直り。
「レオネベルちゃんの太陽の匂いは別格よぉ?」
なんて笑うから。レオネベルは照れ臭くなって、なんだよそれって顔を逸らす。
「それよりさリーザヴェール。躑躅の蜜、飲んでみないのか?」
「そうねぇ……じゃあちょっとだけ。私に愛(蜜)を分けて下さいな」
リーザヴェールの白魚の指が、真っ赤な躑躅をぷつんと摘み取る。豊かな蜜をそっと吸う其の様は、まるで毒酒を煽るにも似て。
――私は、いつだって今が幸せなの。
――取っては楽しんで、いずれ飽きてしまうけれど。
――楽しんでいる間は、確かに幸せなのよ。
――ああ、でも。
貴族として嫁ぐ前の一時、学園で叶わない恋をしたあの頃。
あの頃の記憶が、もう随分とのんびりしていた心の鼓動を速めてしまう。
一方でレオネベルは、躑躅に手を出せないでいた。
今だって幸せだけど、もしかしたら……もしかしたら、まだ家族や一団の皆が生きていた光景が見えるんじゃないかって、少しだけ躊躇していたのだ。
ぼうっとしているリーザヴェールを見て、矢張り飲まない方が良いんだ、とレオネベルは思う。兄を探してもいる。兄はきっと何処かにいる。だから、大事な思い出は胸にしまっておいた方がいいのだと。
「なあ、何か見えたか?」
この謎の多い貴婦人に、何か見えたものはあったのだろうか。
問うてみると、あら、と彼女は笑みを返した。
「レオネベルちゃんは飲まなかったのね。――ふふ。これは私とこの子の秘め事なの」
躑躅を振って、リーザヴェールは笑う。
其れから、次の読み書きは恋のお話にしましょうか、と。何もかもを、鼓動の速さすらも笑みの裏に隠してしまうのだった。
●
「ふーん……家が丸ごと躑躅で包まれてるとはねえ」
パドは家を覆う程に覆い茂った躑躅を見て、へえ、と呟いた。
家ごと持って行って、今度の演目で見せびらかせば儲かるかしら? 問題はどうやって運ぶかだけど。
「此処を興行場所にすれば良いのでは」
シファーはぶっちぶっちと躑躅の花を千切っては、其の蜜を飲み下す。そういえば昔、飢えを誤魔化す為に花の蜜を吸っていたのを思い出したのだ。
「……お花、あんまり美味しくない」
不満げなシファーを、まあまあ、とアウレーリウスが宥める。
「あんまりぶちぶち千切るのも良くないよ、シファーくん。でも、花の盛んな時期にこういう場所に拠点を構えたら楽しそうだね」
「ふうん?」
シファーが花を摘んでいるのを見て、パドも真似をしてみる。ぷつり、と摘んで一口。ん、と舌なめずりをして。
「甘ーい! でも、ちょっぴりしかないから満足できないわ……」
「……二人は何かみた?」
「「え?」」
アウレーリウスは知っている。紅い躑躅の蜜を吸うと……という噂を。けれど、二人は一様に首を傾げた。
「ナニソレ、何にも感じないわよ?」
「何も、みなかった。……昔はごちそうだと思ったのに……」
一方は不思議そうに、一方は残念そうに。
そんな二人の様子を見て、何処か安堵する自分がいる事にアウレーリウスは気付く。無意識に手が左耳のカフスを弄っているのにも気付いて、慌てて手を下ろした。きっと二人は、今が一番幸せなのだろう。
“幸福ではない人間が、他者を幸せにするのは難しい”
アステール一座に来る前に教わった事を思い出す。
余った分の幸せを分けてあげられるような才能は、まだ自分にはないという事か。
「あ! いーこと思い付いた。白いのもピンクのも紅いペンキで塗って、籠一杯に詰め込んだら、みんな欲しがるから売って大儲けできるわ!」
「紅い躑躅……みんな欲しがる?」
「そうよ! ほら、シファーも手伝いなさい!」
「流石に其れは不味いって……!!」
勿論、スタッフに即止められました。
マスターコメント
お疲れ様でした。
思ったより「幸せな時は今」という方がいて、良かったねえ…とご近所のおばあちゃんみたいな心情になってしまう奇古譚でした。
良かったねえ……良かったねえ……
いっぱいいろんな形の幸せを描かせて頂きました。みんな幸せになーれ!
ご参加ありがとうございました!
イベントシナリオ易しい 報酬:標準25 / 4〜25人
2022年05月28日 08時08分08秒 公開
大成功
参加者
相談掲示板
セラフィナ・M・ベイリーです。よろしくお願いします。 記憶のないホムンクルスの身なので、過去の幸せな記憶が一つでも取り戻せる可能性があるなら、試してみたいと思います。 こんな私にも幸せな記憶があったと知れたら嬉しいです。 皆様が幸せなひと時を過ごせますように。