冒険者の日常〜霖雨彩傘〜
炙りとろ左門
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シナリオID:2202
オープニング
ぽつぽつ。しとしと。ぱたぱた。
雨音ひとつとっても、特にシャルガネ近辺では、多彩な表現がある――ということをシュゼットが知ったのは、つい最近のことだ。
「霖雨、ですか」
シュゼットは、先ほどこの街の傘職人から教えてもらった言葉を呟いた。雨自体を示す言葉も膨大だ。それはこの街だからこそかもしれない。
シャルガネ近郊に傘職人たちが住まう街がある。シュゼットは偶然の雨天によりその街に引き止められて、ここで一旦休息をとることにしたのだ。
「一度降り出すと長くてね」
というのは、この街の住人の言である。飽き飽きだよと言葉の上ではいうが、表情は柔らかい。きっと雨が好きな人なのだろう。
同じように冒険者たちもまた、この街に引き止められていた。依頼の行き帰り、旅の途中、理由はさまざまだが――いずれにせよ、君たちにとっては久々の休息であった。
一度立ち止まってしまえば、疲れに圧されてしまう。君は宿帳に宿泊記録を残すと、さてと空を見上げた。
曇天。しかし重苦しさは感じられない。降る雨の穏やかさと空の明るさのお陰だろう。
静かな雨音に耳をすませてゆっくり過ごすのも、悪くはないかもしれない。
「シュゼットはせっかくですので街を見て回りますよ!」
君が一考を挟んでいる間に、この小柄ですばしこい冒険者ギルドの新米受付嬢は情報収集を終えていたらしい。目を輝かせて、「こういう場所がある」と君に語るのだった。
雨音ひとつとっても、特にシャルガネ近辺では、多彩な表現がある――ということをシュゼットが知ったのは、つい最近のことだ。
「霖雨、ですか」
シュゼットは、先ほどこの街の傘職人から教えてもらった言葉を呟いた。雨自体を示す言葉も膨大だ。それはこの街だからこそかもしれない。
シャルガネ近郊に傘職人たちが住まう街がある。シュゼットは偶然の雨天によりその街に引き止められて、ここで一旦休息をとることにしたのだ。
「一度降り出すと長くてね」
というのは、この街の住人の言である。飽き飽きだよと言葉の上ではいうが、表情は柔らかい。きっと雨が好きな人なのだろう。
同じように冒険者たちもまた、この街に引き止められていた。依頼の行き帰り、旅の途中、理由はさまざまだが――いずれにせよ、君たちにとっては久々の休息であった。
一度立ち止まってしまえば、疲れに圧されてしまう。君は宿帳に宿泊記録を残すと、さてと空を見上げた。
曇天。しかし重苦しさは感じられない。降る雨の穏やかさと空の明るさのお陰だろう。
静かな雨音に耳をすませてゆっくり過ごすのも、悪くはないかもしれない。
「シュゼットはせっかくですので街を見て回りますよ!」
君が一考を挟んでいる間に、この小柄ですばしこい冒険者ギルドの新米受付嬢は情報収集を終えていたらしい。目を輝かせて、「こういう場所がある」と君に語るのだった。
解説
シャルガネ近郊のとある街に、雨天により引き止められたあなたは、ひとまずこの街で宿をとることにしました。
今日一日は、『あなたにとっては久しぶりの休息』です。宿で休むもよし、街を巡ってみるもよし。思い思いにお過ごしください。
受付嬢シュゼット「そうそう、この街には傘職人さんが多く住んでいるのですが、『彩傘通り』の情景をネタに町おこしをしたいんだそうです。ですので、皆さんの報告に期待しているとか。よろしくお願いしますね」
■傘職人の街
▶︎『雨宿り』
冒険者にも開放されている宿で、この街では1番大きなものです。趣のあるシャルガネ建築に、主人の趣味で個室や玄関広間に多数の本を所蔵しており、雨天の暇を読書で潰すことができます。読書のお供には、東方茶の数々と甘いシャルガネ菓子をどうぞ。
▶︎彩傘通り
土産屋の立ち並ぶ通りです。色とりどりに染め抜いた番傘が開いて吊るされており、雨除けになっていると同時に、大変色鮮やかな情景となっています。傘職人たちはこれを観光スポットにできないかと考えているようです。
▶︎東屋「紫陽花」
街の中に点在する、紫陽花に囲まれた東屋です。そばにある古い手水舎の水盤にも手毬のような紫陽花が浮かべられ、明かりが灯される夜などは特に幻想的なひとときを演出します。
■特記
プレイングで指定しなければ、モブ含むNPCの描写は最低限か、登場しません。
字数の都合でNPCとのやりとりがカットされる場合もございます。ご了承ください。
マスターページは参照しなくても判定に影響はありませんが、上記の他、描写やマスタリングに関する項目があります。
マスターより
一週間近く雨が続くとのことで、そろそろ梅雨がやってくるのかな〜と思いカレンダーを二度見しました、炙りとろ左門です。あれ?
というわけで、気分的には少し早いのですが、梅雨のひとときをお届けします。長雨の続く季節、冒険者さんたちはどのように一日を過ごしていらっしゃるのでしょうか?
本シナリオにはNPC「シュゼット」が関連づけられており、挨拶をしたり、必要に応じて応答します。質問の際はコメント冒頭に【Q】をつけてください。
※NPCによる質疑応答については、OPや解説において判断に迷う表現があった場合のみで、基本的にはOPや解説に書かれていることが全てとなります。
それでは皆様のご参加&プレイング、お待ちしております!
リプレイ
足を止めるには軽いが、走り抜けられるほど小雨ではない。ヨル・スレイマンはそんな空模様を前に散々悩んだ挙句、番傘を購入した。この雨は長いよと住人が口ぐちに言うからだ。このあたりにはよく来るという冒険者からも同じ情報が得られ、ヨルは「まあシャルガネの小物は粋なものが多いからね」だのなんだのと自分の財布に言い訳をしつつ、空色の傘を手に軒先に出た。
その時である。見知った人物が軽く濡れたなりで隣に飛び込んできた。
「ナハシュ。奇遇だね」
「ん、ヨルじゃんか」
ナハシュは濡れた髪を鬱陶しそうにかきあげる。ヨルは一度傘を脇に立てかけると、カバンの中からタオルを取り出してナハシュの頭に被せた。
「拭きなよ。風邪ひくから。それからほら、君も買ったら? 傘」
「傘だぁ?」
ナハシュはわしわしと髪を雑に拭きながら、ヨルの買った傘をちらりと見る。
「ふーん。シャルガネの道具か」
シャルガネにしか傘がないわけではないが、この辺りの傘は作り方も構造も他とは異なる。ナハシュはヨルが出てきた店の中を覗き込んだ。
「おー」
店の中に飾られる色とりどりの傘。柄物もあるが少し高い。ナハシュは興味を引かれたようで、体を拭き終わると店に入り、そしてほどなくして灰色の傘を手に戻ってきた。
「これで濡れねえから文句ねえよな!」
「文句はつけてないって。雨に打たれたままでいて欲しくはないとは言うけどね。体温を奪われるから。……それにしても、もっと派手な色もたくさんあっただろう?」
「お前は相変わらず派手な色してんな」
ナハシュは言いながら傘を開く。雨雲に溶け込むような灰色の傘が、雨を受けてばたばたと鳴った。
「おお」
ナハシュはしばらく傘をさしかけたまま、やがておもむろに傘の柄を回転させる。傘がうけていた雨が遠心力によって飛び散り、そばにいたヨルを襲った。
「おおー!」
「っわぷ。……まったく」
ヨルは苦笑を浮かべたが、これでナハシュが今後も傘を使ってくれるのならば上々である。
しかし拭いたとはいえ、濡れた服がすぐ乾くわけではない。このままどこかにほっつき歩かれては風邪をひくかもしれない――ヨルは少し考えた後、歩き出したナハシュの背中に声をかけた。
「ねえナハシュ。宿でシャルガネ菓子が食べられるらしいよ。もう行ったかい?」
「ん? いや? 菓子か……そうだな、行こう。ついでに部屋も取ろう。朝まで止まねえかも、だってよ」
「そうだね。それがいい」
ヨルも先ほど買った傘をさし、少し早足に歩き出した。
● 『雨宿り』
リンタロウ・イナバは本棚から一冊の本を抜き出した。ただでさえ書物は貴重なものだというのに、この宿には至る所に本棚があり、ぎっしりと書物が詰め込まれている。宿の主人が長年かけて蒐集したもので、時には自ら筆を取って写したこともあるという。
書物のジャンルは多岐に渡り、リンタロウはその中から商学に関連する学術書を手に取った。表題を確認し、著者の名をなぞる。内容はやや古いが、いずれもどこかで聞いたことのあるようなセオリーだ――つまりこれは、今なお語り継がれる商業知識の源であるのだろう。
リンタロウは一度本を閉じると、それを手に空席を探した。雨で宿に留め置かれている者は多く、みな思い思いに過ごしている。本が珍しい者もいると見え、同席者に読んでもらっている光景も見られた。
まあ、何が言いたいかというとつまり、席が足らない。
「よければ座るのだ」
席を探すリンタロウに気づいたストレガ・L・リベルガストラが、机を挟んだ向かいの席を示す。リンタロウは「助かる」と短く礼を言うと、椅子を引いて腰掛けた。
「ずいぶん読んでるな」
リンタロウは読書に入る前に、机の上に積まれた書物の多さについて指摘した。見れば、薬学や薬膳といった題が目につく。
「日々是精進、どこにでも研鑽の種はあるもの……そしてあらゆる知識は、何かの未来に役立つのだ」
【ストレガ】は研鑽の徒である。知識を得、もっともっと遠くを見渡すために。
リンタロウはすでにストレガが読み終えた本を一冊手に取り、ぱらぱらとめくってみる。
「……小難しいな」
「知識があれば読むのは容易くなる。だから知識を求める」
「そうだな」
会話の途中、机の空いたスペースに、従業員が緑茶と白餡餅を載せた盆を置いて去っていった。ストレガは澄んだ色の茶をちらりと見やる。
「その茶も……薬といえば薬だろう。毒を持つ植物も、少量であれば薬として使えるかもしれないのだ」
「ああ、薬毒ってやつだな」
どこの誰だったか、「薬か毒かは、含む量で決まる」と言ったのは。ストレガなら即座に言い当てるだろうが、リンタロウは尋ねなかった。お互いこれ以上のお喋りは読書の邪魔になる。
リンタロウは緑茶を一口啜り、東方にルーツを持つという故郷に想いを馳せた――。
サイラスは丸椅子に腰掛け一息ついた。リザードマン用に設られた机と椅子は堅くも滑らかな手触りの木でできていて、サイラスはついその職人技に感心する。
サイラスはつい先日まで山積みにされた仕事を片付けていた。冒険者という肩書きもあり、方々に顔出して鍛冶場を留守にするので、なんとかサイラスを留め置こうとして発注されたものだ。当然、そんな仕事はサイラスにとっては取るにたらぬつまらぬ量産発注でしかない。
それをとにかくなんとか片付けて、サイラスは羽を伸ばしにこの宿までやってきた。この宿には多くの書物が集められていると耳にしたからだ。なんでも店の主人の趣味らしいが、そういう場所には稀少本が眠っていることも多いのだ。蒐集者の慧眼たるや、というものである。
サイラスが手に取ったのは、『まじない集』と書かれた本だった。シャルガネに伝わる――口さがない言い方をすれば子供騙しの――おまじないをまとめた民俗学の論考である。
どんな知識も、無駄にはならない。暗示や呪文が今に存在することを思えばこれも、何かの役に立つであろう。
軒先からぽたぽたと垂れる露が、雨桶に落ちて高い音を立てる。しかしサイラスはそれに煩わされることなく、すでに書のの世界に入り込んでいた。
ベルク・オスマットは茶を一口啜り、五臓六腑に染み渡るほのかな甘みと苦み、そして暖かさにほうと息をついた。先ほど口にしたあんころ餅の強い甘みがすうっと流れていき、緑茶の慎ましい香りの余韻に浸る。
「良きひとときであるな」
ベルクは静かな雨音に耳を澄ませた。それに、ページを繰る音、潜めた話し声、茶器の触れ合う気配が混ざり、なんとも心地よい。
昔はここに、頭がいた。今はもう亡いが、ベルクは頭と並んで過ごした時間に想いを馳せる。姐さまには老人くさいと言われたものだが――ああ、懐かしき。もう戻らぬ過去となればこそ。
ベルクは、茶を飲み干したことでからになった湯呑みを見つめる。
――チンチロリン、だ。やるか?
仲間たちの間でそう呼ばれていた遊びは、手頃な茶碗や丼を使っていた。
からから、ころころ。ひふみにおわかれ、笑い声。
ベルクはしばらくの間、眼裏の情景に囚われていた。
細い指が本棚に詰め込まれた書物の背表紙を滑る。求めるのはシャルガネに関するもの。シルヴィア・A・カペルの恋人はどうやら、その血筋に東方の血が流れている……かもしれないのだ。
それは先日判明したことだが、かもしれないというのは、恋人の一族が王国に移住したと仮定すると、その途中で他の種族の血も当然混ざることもあるだろうということだ。
シルヴィア自身、彼がどのような血筋であろうと、種族であろうと、その愛は変わらないと自負している。これはあくまで二人の将来に横たわる問題を解決するために必要なことだ。
(東方から漂着した人々は、黒い髪が特徴的なヒューマンであった、と……)
この大陸において、黒髪は必ずしも純血のヒューマンであることを意味しない。しかし、二人の婚姻をよく思わないものたちを丸め込む材料の一つとしては、使えることもあるかもしれない。
この希薄な事実を、彼の純血性を証明するためにいかに脚色するか。シルヴィアは頭を働かせながら、はるか東にあるという国についての考察を深めていった。
(外に出たらカップルにあてられそうとか思ってませんよ)
ジト目のトーラの視線の先には、色とりどりの相合傘の二人組がひとつ、ふたつ、みっつ。いや多くない? トーラは外を見るのをやめ、ごろりと長椅子に転がった。若干行儀が悪いかもしれないが、これはそのための椅子なのだ。座面は硬いがこれがシャルガネ風というやつで、竹を編んで作られたそれは通気性がよくひんやりと心地よい。
春も過ぎて初夏、そして霖雨を経てあっという間に夏になる。季節の移ろいは早い。嵐は苦手だが、このような穏やかな恵の雨ならばトーラとしても歓迎である。畑に植えたものたちは、天の恵みなしには育たないのだから。
……雑草も繁茂するし、処理をするのは大変だが、それはそれである。
(そういえば、去年は西瓜を育ててましたね)
また何か植えようか。植物の成長は、我が子の成長のように嬉しいものである……子供がいたことは、まだないが。やはり愛情や手間をかけて育てた植物が美しい花を咲かせ結実すると、やりがいを感じるのだ。
(少しお昼寝したら、植物の本を探してみましょう……)
雨、宿、窓辺にて。マリィ・スノードロップは静かな雨音に耳を傾け、雨露を受け止める紫陽花の葉が揺れるのを見つめていた。
シャルガネ方面にくるのは初めてである。ゆえに、できるなら彩傘通りや紫陽花の東屋など、歩き巡ってみたいものだが……。
「くしゅっ、」
マリィは小さくくしゃみをした。やはり、冷える。
妙な気恥ずかしさを覚えて、誰かに聞かれていなかったかと辺りを見回せば、ちょうど白い影が上階から降りてきたところだった。
「あ……ザスキアさん」
マリィは思わず小さくつぶやき、ザスキアの耳がぴくりと動いてそれを拾う。ぱちりと紫色の瞳と目が合い、マリィは挨拶がわりに軽く手を振った。よくよく見れば、片手には傘。どうやら出かけるようで――何故だか自然と、手招いていた。
「どうしたのかな、マリィ」
ザスキアの軽やかに転がる声を聞くと、マリィは嬉しいような楽しいような、不思議な気持ちに満たされた。雨が降っているのに、雲の切れ間から陽の光が射し込んだようだ。
「……えへへ。えと、ザスキアさんも……お出かけですか?」
胸中を誤魔化すように話を振れば、ザスキアは菫色の傘を軽く持ち上げる。
「ああ。雨の中の色彩を楽しむのも、また趣があると思ってね。……湿気はあまり好きではないが」
「そう……」
マリィは言葉を探す。間が開けば、ザスキアは行ってしまうだろう。それがなんだか残念に思われた。
「雨が止むまで、いっしょにおはなししませんか」
これから傘を持って出かけようという相手を引き止めるには拙い誘い文句だ。マリィは恐る恐るザスキアの顔色を窺うが、ザスキアは気を悪くした様子もなく頷いた。
「そうだね、それもいい。むしろ、花のような君のそばでゆっくり過ごせるのなら、その方が素敵かな?」
歌うように滑らかに、心地よい抑揚で紡がれる言葉。マリィは自然と頬を綻ばせた。
「ザスキアさんには、好きなお花ってありますか?」
そう話題を提供しつつ、マリィは机の上の急須を手に取る。珍しい、ガラス製のそれの中に咲くのは芍薬だ。
「私は……薔薇が好きだな。親友との思い出の花なんだ。マリィは?」
「お花ならなんでも好きですが……今は、クルクマの花で」
しとしと。ぽつぽつ。雨音に声を編むように――あなたを少しでも引き留めておきたくて――マリィはゆったりと言葉を紡いだ。
エイル・ビュセファスは羊皮紙にペンを走らせる。『時は金なり』――エイルにとって金儲けは何よりも重要なことだ。雨によって生まれた予定外の休息であっても、無駄にはできない。
エイルが書き連ねるのは、儲けるための計画だ。例えばこの街であれば、職人の技術からいかに金を産むか、である。顔を合わせた傘職人たちには欲のない者が多かったが、それではいずれ先細る。
金は市場の潤滑油だ。そしてそれを手にするためには、実力以上に時勢と運がものを言う。だからこそ、エイルは決して手を休めることがない。常に頭を回す。計画もひとつではなく複数、どれが役に立つかなんてその時になって見ないとわからない、そんな悪戯な運命の上で踊るのならば、準備はし過ぎて損はない。
作業に没頭するエイルの背中にもたれかかるのは、シャルロット・エクレールとフリューリングスルフト=ティエラだ。ペン先が紙の繊維を引っ掛ける音を聞きながら、シャルロットは読書を、フリューは膝の上にうさぎのイュンを乗せて、ブラシで毛繕いをしてやっている。
雨音を聴きながら思い思いに過ごしていた二人は、最初こそ互いの背中を支えにしていたのだが、それもバランスが取りにくく疲れてくると、エイルの背中を半分ずつ利用することにした。
「重い」
当然、エイルからは抗議の声が上がるが知らんぷりである。
とはいえエイルも二人を跳ね除けようとしないので、そんな姿勢がしばらく続いていた。
鉄瓶で沸かした水が湯気を立てている。ゆらめく湯気の向こうには、窓越しに色とりどりの傘。それは紫陽花のように色鮮やかで、しっとりとした雨音がそれらに降り注いでは、小さく音を立てている。
「それ、何の本?」
シャルロットが借りてきた少女小説を横から覗き込んで、フリューが尋ねた。
「いわゆる、少女小説? 恋愛もの。……フリューには、好きな人はいる?」
シャルロットはそれに小さく答えつつ、聞き返す。フリューは「んー」と間伸びした声で考え込んだ後、「気になっとる人はおるかな」と曖昧に答えた。本人もまだ掴みきれていない関係性なのだろう。
「ふわぁ〜……あぅ」
時たま取り止めのない言葉を交わしていると、段々と眠くなってきた。二人してあくびをすると、エイルの背中をずり落ちていく。エイルも二人に多少体重を預けていた分、支えがなくなり後ろに倒れた。
「エイル〜。一儲けできたら、おいしいもの食べたいさぁ」
「あー……そうだな」
エイルはペンを置いて、仰向けになった状態で書き物を読み返しているために、生返事になった。フリューはそんなエイルの腹を枕にする。
「……重い」
「あ、私も」
「もっと重い」
そこにシャルロットも参戦し、二人してエイルの腹を枕にする。
「……ふふ」
フリューは小さく笑った。甘えて、甘えられて――兄妹がいたらこのような気持ちなのだろうか。
時間は緩慢に流れていく。二人が寝息を立て始めると、エイルもまた、やれやれと羊皮紙を放り出して目を閉じた。
● 彩傘通りにて
打ち捨てられた社へ続く階段の上からなら、その通りを一望できる。色とりどりの番傘が差し掛けられ、色を失った空とは対照的に鮮やかに映る。
気まぐれに足を向けた土地であったが、それもまた良い。Alexandra・Hexe・Claudiaはしばらくその情景を見つめていた。ここに来るまでにすれ違った見知った面々は、この景色をもう見ただろうか。忘れ去られ寂れた社の存在に気づいただろうか。あるいは声をかけて、ここへ誘うのも?
Alexandraはしばし悩んだ。……いや、よそう。静謐を無理に暴く必要はない。それにもし、ここが立ち入り禁止だとしたら気まずい。
そばで、ぽちゃんと音がした。不恰好な硝子の器。そこに落ちた雨露が音を立てたのだ。ふと思いついて閃光塗弾の液を加えると、淡い輝きを放ちながら、対流に逆らわずに踊る。
その様子を、Alexandraは膝を抱えて見つめ続けた。自分以外は誰もいない静寂の中、揺らめく光が濡れた石階段を照らしていた。
ルベア・ベルニは紫色の傘を手に彩傘通りを出た。妙に印象に残る色だと思って購入した傘だが、東屋に咲く紫陽花を見たせいかもしれない。
「……?」
と、宿へ戻る道すがら、ルベアの耳が弱々しい鳴き声を拾った。声がする方を探すと、裏手に仔犬が打ち捨てられていた。あるいは親とはぐれたのか。雨に濡れ、震えている。
ルベアはすぐに仔犬に傘を差し掛けてやり、辺りを見回した。親犬の姿は見えず、気配も感じ取れない。
「……ひとりぼっちなのね」
ルベアは仔犬に語りかける。それは小さく鼻を鳴らした。
「昔の私なら、そう……アナタも、と言っていたかも」
ルベアは自分が汚れることも厭わず、仔犬を抱き上げる。そのまま、冷え切った体を温めるように懐に招き入れた。
ルベアは今、ひとりではない。気にかけてくれる人たちがいることを知っている。
「アナタにも……そういう人が居てほしい」
ルベアは今、寮生活だ。寮監の判断にもよるだろうが、おそらく連れてはいけないだろう。さてどうしたものか――仔犬をあやしながら考えていると、通りの方からこちらを不思議そうに覗き込んでいる人影に気づいた。
「やあ。どうしたの?」
セヴラン・クアルトはルベアと目が合うと、軽く手を上げて歩み寄る。片手には楽器があり、おそらく直前まで演奏をしていたのだろう。セヴランは楽器が濡れないようにしまうと、地面に置いてあったルベアの傘をとり、両手が塞がっているルベアに差しかける。
「仔犬?」
「ひとりぼっちで濡れていたの」
「それは大変だ」
セヴランのフードの中に隠れていた栗鼠が、興味深そうに鼻をひくつかせる。
「この通り、僕にはこの子がいるから引き取れないんだけど……どうかな、お客さんの中にはいるかもしれない。聞いてみよう」
セヴランはルベアをふたたび彩傘通りへと導くと、軒先を借り、雨音に合わせて弦を弾く。雨音に混じる、跳ねるような軽快な音楽を楽しもうと、徐々に人が集まってきた。そして当然、ルベアにも視線が集中する。
「あ、え……と。あの」
好奇の視線に晒され、ルベアは言葉を詰まらせる。しかしここで怯んでしまっては、仔犬を助けられない。ルベアは勇気を出して、人々に語りかけた。
幸い、飼育経験があるという客のひとりが仔犬を引き取ろうと名乗り出た。老犬に先立たれ、落ち込んでいたところだという。
「幸せにしてもらってね」
セヴランが最後に仔犬に語りかけた言葉を、ルベアは考える。
(しあわせ、か……)
優しく抱きあげられた仔犬の安堵の表情に、ルベアは一抹の羨望を覚えつつ……ほっと胸を撫で下ろすのだった。
浴衣を着込んだナキルとエフィルミアは、並んで彩傘通りを歩いていた。エフィルミアは、ふわりと広がる長い髪を浴衣に合わせて結い上げている。
「雨の日は髪が広がるから憂鬱なんだけど……たまにはこういうのも悪くないかもね」
恋人であるナキルと一緒にいられる時間であれば、雨の日でもなんでも、きっと楽しいと思える。
「ん、そうだな」
ナキルも言外に含まれる好意を感じ取り、はにかむ。そしてエフィルミアに手を差し出した。
「……むむ? ナキルくん、なんだか前より紳士的かも!」
「俺だって成長してるってこと」
エフィルミアのために学んだ、多くのことのひとつだ。ナキルが少し胸を張ると、エフィルミアは微笑ましく目を細める。
「……いや、そうじゃなくてだな」
そういう視線ではなくて、とナキルがなんともいえない顔をする。エフィルミアは「わかってるよ!」とくすくす笑うと、傘の屋根が途切れるところで手持ちの傘を差した。
身長差があるため、高い方のエフィルミアが傘を持っているのだが、ナキルはそれを少し歯痒く、そして噛み締める愛おしさとして感じる。
エフィルミアはずっと、ナキルに合わせて歩いてくれていた。それは多くを学んで、視点が変わって気づいたことだ。
「俺が代わるよ」
ナキルはエフィルミアから傘を受け取ると、腕をいっぱいに天に伸ばした。それを見たエフィルミアは、何か思いついたようにナキルの後ろにまわると、ナキルにそっと抱きついた。
「こうやってくっついてた方が濡れなくて良いでしょ?」
「いや、歩きにくくないか?」
「いいじゃない。ほら、」
エフィルミアは紫陽花の咲く垣根を指差す。
「綺麗だね。少し眺めていこうよ」
だがナキルは紫陽花を見つめた後、エフィルミアを見上げて呟いた。
「ミアも、また綺麗になった気がするな」
「当然でしょ、恋する女の子は綺麗なの。好きな人の前では最強なんだから」
いつもはナキルに対して年長者ぶるエフィルミアだが、今この時は華やかに笑って素直に言葉を贈る。
「ナキル君のこと、大好きだよ」
「俺も」
ひとつの傘の中、ふたりは温もりと互いの想いを確かめ合うのだった。
物思いに耽るだわの、フードに隠れる横顔を、サラはちらちらと伺う。
サラは、雨の日は嫌いではない。ぽつぽつ、ぱたぱた、とん、かん。雨音による音楽と濡れた土の匂い。しかし――勢いこそ強くはないが、止まない雨というのはやはり、だわに何かしらの情景を思い起こさせるようであった。
「……しんぱい、ごと?」
サラはおずおずと尋ねた。心配事、というものとは少し違う顔色だが、だわの憂鬱を表すことができる言葉がうまく見つからない。
だわは浅く息をついた。思惟の海から浮かび上がり、呼吸をするように。
「いや……」
遅れて返答。曖昧に濁された答えに、サラは並んでいるはずの距離を思う。
「……きれいな、とこが……あるんだ、って。その……一緒に、行ってみない……?」
ね、だわおにいちゃん。
ねだるように袖をそっと引けば、だわは静かにサラに視線を向けた。
「ああ」
サラが見に行きたいのなら。それを示すように、だわはサラが一歩を踏み出してからようやく歩き出す。
そうして訪れた彩傘通り。サラは空に差し掛けられた色とりどりの傘を見上げ、目を輝かせる。
「お花が、たくさんさいてる、みたい……。音も、お部屋にいる時と、違うよ。賑やか」
サラは頭上の傘を追いかける。そのサラが転ばないよう、だわは小さな手を取った。
「転ぶぞ」
「あ、う、うん。そうだね。足元、ちゃんと、見るの」
サラは視線を戻し、そして雨樋の下にある石の器に目を留めた。その縁に置かれている2匹のかえるの置物と目があった気がしたのだ。
「……っだわおにいちゃん! 見て見て、かえるさん! 傘に入ってて、かわいい」
大きいかえるが傘を差し、小さなカエルがその下に寄り添う。
「おっきいかえるさんが、だわおにいちゃん。ちいさいのは……わたし。なんて、えへへ……」
「俺と、サラ? ……そうか」
だわも一緒になってかえるの置物を見つめる。寄り添う2匹のかえるは仲睦まじく、親子のようにも見えた。
「俺もあんなふうに……なんてな」
ふと漏れた言葉を、だわは軽く茶化した。深い意味はない。だが、サラが上げる楽しげな声が、はにかんだ笑顔が、だわを穏やかな気持ちにさせてくれるのだ。
「茶屋でも覗いて行くか。少し、ゆっくりしよう」
「あ、うん! 甘いの、食べたい、な」
サラは何度も頷いた。先ほどのだわの言葉が、声音が温かく、心にぽっと火が灯るようで。どきどきとした気持ちに、サラは小さく首を傾げた。
アルト=ミルドレッド=バ・ロッサは、強引にならない程度にやんわりと、サニー・フォン・オルライトの腕を引く。
「サニー、もっとこっち来ないと濡れちゃうよ。靴だって汚れちゃう」
「っとと」
二人はひとつの傘に入っている。大きめの傘だが、まあ、体の良い言い訳というやつだ。サニーは気づいているのかいないのか、アルトのほうに身を寄せる。
彩傘通りに入ってしまえば、傘は畳まねばならない。景色は美しいが、それが少し惜しかった。ゆえにゆっくりと歩を進める。
「シャルガネのほうにはあまりきたことがなかったし、少し新鮮な気分ね」
雨さえ降ってなかったら、ともアルトは思ったが、こうしてサニーと共にひとつ傘の下にいられるのは雨のおかげとも思うと、もごもごと言葉を濁す。
「私は何回か来たことがあるけど、やっぱりこういうのんびりできる依頼が多いかな」
「ふ、ふうん……」
多少なり土地勘があるから、とアルトをエスコートするサニー。やがてふたりは彩傘通りに到着し、傘を畳む。色とりどりの傘が差し掛けられた通りは、色鮮やかで美しい。二人はしばらくそれを眺めた後、店先を覗きながら通りを練り歩いた。
「サニー、これ……焼きまんじゅう? 雨で体が冷えたでしょう、温かいものを食べるのはどうかしら」
「いいね。あ、餡以外にも具材がある。どれにしよう?」
傘の焼き印が押された饅頭はどれも美味しそうだ。ひとしきり悩んだ後、二人はまずは基本の餡子と、野沢菜やチーズをつつんだ焼きまんじゅうを買い、二人で分けることにした。
「ふふ。おいしい! 半分こって、素敵だね」
柔らかく笑うサニーに、アルトもつられて笑顔になる。アルトは紙袋にそれぞれ半分ずつに分けた焼きまんじゅうを入れ、ふと辺りを見回し、一軒の土産屋に目を留めた。
「アクセサリー屋さんみたいだね。お土産に何か買って帰ろうか?」
アルトの視線に気づいたサニーが店先に近づいていく。そして少し悩んだ後、赤いガーベラのイヤリングを手に取ると、アルトに見せた。
「これ、どうかな?」
「似合うと思うわよ。髪色に映えて……」
「じゃあアルト君にも似合うね!」
二人は同じ金髪だ。サニーは迷わずそれを購入すると、右耳用のそれをアルトに贈る。
「おそろい!」
そう言って花咲くように笑うサニーに対し、アルトは気恥ずかしそうにもじもじと視線を逸らす。
「あ、あれ? やっぱり気に入らなかった?」
「ち、違うわよ! その……先越されちゃったから」
アルトは鞄の中から小さな紙袋を取り出し、サニーに差し出した。中身は空色の珠がついたシャルガネの簪だ。あらかじめ購入しておいたのである。
「……ありがとう!」
サニーは目を瞬いたあと、嬉しそうにはにかむ。そしてその簪で器用に髪を纏めると、もう一度笑って見せるのだった。
● 紫陽花に囲まれて
海神・江流は東屋の椅子に腰掛け、雨露を受ける鮮やかな紫陽花をぼうっと見つめていた。雨に濡れた青い番傘もそろそろ乾く頃、それほど長居していたが、頭に浮かぶのは取り止めもないものばかり。いやそれでもやはり、いずれもあの娘に関することだ。青に紫、桃色に白。そんな紫陽花の彩りの中に彼女の色を見つけては考える。
紫陽花の花言葉は、一説には「高嶺の花」。その通りだなと思えば笑みが浮かぶ。相手は侯爵令嬢、貴族の中の貴族である。
青い紫陽花は「辛抱強い愛情」。これは耳が痛い。
紫陽花は土壌の質により色が変わると言われている。また、時間の経過によっても。青から赤へ、白から緑へ。
であれば、そう。紫に染められているのはもしかしたら――。
「やめだやめだ」
江流は首を振って思考を打ち消した。何でもかんでも自分に結びつけてしまうのは、あまりよくない兆候だ。
惑わされている、囚われている――あの手紙はどんな想いで綴られたのか。
「まーた考えてるな」
呆れ混じりのため息まで、聞くものもいまいが。
夜、ほのかに照らし出された東屋に向かう影がふたつ。ローザリカ・L・ディオールは、自分に歩幅を合わせ、あまつさえ自分が多少濡れるのも厭わずローザリカ側にやや傘を差し掛けている――ジュスト・ヴェルジーの表情を盗み見た。
「もう少し寄ってくれないと、濡れてしまうよ?」
ちらりと窺ったはずなのにばっちり目があってしまった。どういうことだ。
「これ以上寄れというのか、くっついてしまうじゃないか」
ローザリカはふいと視線を逸らすが、言われた通りに身を寄せる。触れ合った腕の、服越しに伝わる体温が思ったよりも高いと感じたのは、気のせいだろうか。
「……綺麗だ」
ローザリカは誤魔化すように言葉を紡ぐ。だが、その場凌ぎで言ったわけではない。事実、東屋を囲む紫陽花の美しさは息を呑むほどだ。
ふと、脳裏に紫陽花の花言葉が浮かぶ。移り気、無常、あなたは冷淡――あまり良くない言葉ばかり浮かんでしまうのは、不安だからなのか。
「手紙、」
ローザリカが少し責めるように口にすれば、ジュストは肩をすくめた。
「いったいどれほどの花にうつつを抜かせば、あんなものが書けるのかな?」
薔薇の棘は鋭いものだ。だからローザリカは、それを向ける状況も相手も選ぶ。しかしどうしてもっと、素直に喜べないものかとも――口から出た言葉が戻るはずもなく、ローザリカはするりとジュストの差し掛けた傘から抜けて、東屋へと上がろうと。
その手をやんわりと引いて、ジュストが微笑む。
「君への言葉は、君のことだけ考えて、君にしか贈ったことのないものだ」
白い紫陽花の花言葉は、寛容、そしてひたむきな愛情。それぞれをお互いに持ち寄ることができたなら。
ジュストは再びローザリカを傘の中に引き込むと、ローザリカの頬に軽く口づけを落とした。
「……これでも信じて貰えないなら、次はここにするしかないのだけど」
ジュストはそっとローザリカの色づく唇を指でなぞる。しかしローザリカは目を瞬いたあと、挑発的に微笑んだ。
「それなら、信じない方が得をしそうだ」
「おやおや」
迂遠に過ぎる言い方は避けるローザリカらしいといえばらしいが、そのような反応は珍しい。ジュストはそれが、今のローザリカにできる精一杯と知って踏み込む。
「そのままの意味と受け取るけど、いいんだね?」
雨に淡く霞む景色の中、繋いだ手から伝わる体温だけが、はっきりと――。
その時である。見知った人物が軽く濡れたなりで隣に飛び込んできた。
「ナハシュ。奇遇だね」
「ん、ヨルじゃんか」
ナハシュは濡れた髪を鬱陶しそうにかきあげる。ヨルは一度傘を脇に立てかけると、カバンの中からタオルを取り出してナハシュの頭に被せた。
「拭きなよ。風邪ひくから。それからほら、君も買ったら? 傘」
「傘だぁ?」
ナハシュはわしわしと髪を雑に拭きながら、ヨルの買った傘をちらりと見る。
「ふーん。シャルガネの道具か」
シャルガネにしか傘がないわけではないが、この辺りの傘は作り方も構造も他とは異なる。ナハシュはヨルが出てきた店の中を覗き込んだ。
「おー」
店の中に飾られる色とりどりの傘。柄物もあるが少し高い。ナハシュは興味を引かれたようで、体を拭き終わると店に入り、そしてほどなくして灰色の傘を手に戻ってきた。
「これで濡れねえから文句ねえよな!」
「文句はつけてないって。雨に打たれたままでいて欲しくはないとは言うけどね。体温を奪われるから。……それにしても、もっと派手な色もたくさんあっただろう?」
「お前は相変わらず派手な色してんな」
ナハシュは言いながら傘を開く。雨雲に溶け込むような灰色の傘が、雨を受けてばたばたと鳴った。
「おお」
ナハシュはしばらく傘をさしかけたまま、やがておもむろに傘の柄を回転させる。傘がうけていた雨が遠心力によって飛び散り、そばにいたヨルを襲った。
「おおー!」
「っわぷ。……まったく」
ヨルは苦笑を浮かべたが、これでナハシュが今後も傘を使ってくれるのならば上々である。
しかし拭いたとはいえ、濡れた服がすぐ乾くわけではない。このままどこかにほっつき歩かれては風邪をひくかもしれない――ヨルは少し考えた後、歩き出したナハシュの背中に声をかけた。
「ねえナハシュ。宿でシャルガネ菓子が食べられるらしいよ。もう行ったかい?」
「ん? いや? 菓子か……そうだな、行こう。ついでに部屋も取ろう。朝まで止まねえかも、だってよ」
「そうだね。それがいい」
ヨルも先ほど買った傘をさし、少し早足に歩き出した。
● 『雨宿り』
リンタロウ・イナバは本棚から一冊の本を抜き出した。ただでさえ書物は貴重なものだというのに、この宿には至る所に本棚があり、ぎっしりと書物が詰め込まれている。宿の主人が長年かけて蒐集したもので、時には自ら筆を取って写したこともあるという。
書物のジャンルは多岐に渡り、リンタロウはその中から商学に関連する学術書を手に取った。表題を確認し、著者の名をなぞる。内容はやや古いが、いずれもどこかで聞いたことのあるようなセオリーだ――つまりこれは、今なお語り継がれる商業知識の源であるのだろう。
リンタロウは一度本を閉じると、それを手に空席を探した。雨で宿に留め置かれている者は多く、みな思い思いに過ごしている。本が珍しい者もいると見え、同席者に読んでもらっている光景も見られた。
まあ、何が言いたいかというとつまり、席が足らない。
「よければ座るのだ」
席を探すリンタロウに気づいたストレガ・L・リベルガストラが、机を挟んだ向かいの席を示す。リンタロウは「助かる」と短く礼を言うと、椅子を引いて腰掛けた。
「ずいぶん読んでるな」
リンタロウは読書に入る前に、机の上に積まれた書物の多さについて指摘した。見れば、薬学や薬膳といった題が目につく。
「日々是精進、どこにでも研鑽の種はあるもの……そしてあらゆる知識は、何かの未来に役立つのだ」
【ストレガ】は研鑽の徒である。知識を得、もっともっと遠くを見渡すために。
リンタロウはすでにストレガが読み終えた本を一冊手に取り、ぱらぱらとめくってみる。
「……小難しいな」
「知識があれば読むのは容易くなる。だから知識を求める」
「そうだな」
会話の途中、机の空いたスペースに、従業員が緑茶と白餡餅を載せた盆を置いて去っていった。ストレガは澄んだ色の茶をちらりと見やる。
「その茶も……薬といえば薬だろう。毒を持つ植物も、少量であれば薬として使えるかもしれないのだ」
「ああ、薬毒ってやつだな」
どこの誰だったか、「薬か毒かは、含む量で決まる」と言ったのは。ストレガなら即座に言い当てるだろうが、リンタロウは尋ねなかった。お互いこれ以上のお喋りは読書の邪魔になる。
リンタロウは緑茶を一口啜り、東方にルーツを持つという故郷に想いを馳せた――。
サイラスは丸椅子に腰掛け一息ついた。リザードマン用に設られた机と椅子は堅くも滑らかな手触りの木でできていて、サイラスはついその職人技に感心する。
サイラスはつい先日まで山積みにされた仕事を片付けていた。冒険者という肩書きもあり、方々に顔出して鍛冶場を留守にするので、なんとかサイラスを留め置こうとして発注されたものだ。当然、そんな仕事はサイラスにとっては取るにたらぬつまらぬ量産発注でしかない。
それをとにかくなんとか片付けて、サイラスは羽を伸ばしにこの宿までやってきた。この宿には多くの書物が集められていると耳にしたからだ。なんでも店の主人の趣味らしいが、そういう場所には稀少本が眠っていることも多いのだ。蒐集者の慧眼たるや、というものである。
サイラスが手に取ったのは、『まじない集』と書かれた本だった。シャルガネに伝わる――口さがない言い方をすれば子供騙しの――おまじないをまとめた民俗学の論考である。
どんな知識も、無駄にはならない。暗示や呪文が今に存在することを思えばこれも、何かの役に立つであろう。
軒先からぽたぽたと垂れる露が、雨桶に落ちて高い音を立てる。しかしサイラスはそれに煩わされることなく、すでに書のの世界に入り込んでいた。
ベルク・オスマットは茶を一口啜り、五臓六腑に染み渡るほのかな甘みと苦み、そして暖かさにほうと息をついた。先ほど口にしたあんころ餅の強い甘みがすうっと流れていき、緑茶の慎ましい香りの余韻に浸る。
「良きひとときであるな」
ベルクは静かな雨音に耳を澄ませた。それに、ページを繰る音、潜めた話し声、茶器の触れ合う気配が混ざり、なんとも心地よい。
昔はここに、頭がいた。今はもう亡いが、ベルクは頭と並んで過ごした時間に想いを馳せる。姐さまには老人くさいと言われたものだが――ああ、懐かしき。もう戻らぬ過去となればこそ。
ベルクは、茶を飲み干したことでからになった湯呑みを見つめる。
――チンチロリン、だ。やるか?
仲間たちの間でそう呼ばれていた遊びは、手頃な茶碗や丼を使っていた。
からから、ころころ。ひふみにおわかれ、笑い声。
ベルクはしばらくの間、眼裏の情景に囚われていた。
細い指が本棚に詰め込まれた書物の背表紙を滑る。求めるのはシャルガネに関するもの。シルヴィア・A・カペルの恋人はどうやら、その血筋に東方の血が流れている……かもしれないのだ。
それは先日判明したことだが、かもしれないというのは、恋人の一族が王国に移住したと仮定すると、その途中で他の種族の血も当然混ざることもあるだろうということだ。
シルヴィア自身、彼がどのような血筋であろうと、種族であろうと、その愛は変わらないと自負している。これはあくまで二人の将来に横たわる問題を解決するために必要なことだ。
(東方から漂着した人々は、黒い髪が特徴的なヒューマンであった、と……)
この大陸において、黒髪は必ずしも純血のヒューマンであることを意味しない。しかし、二人の婚姻をよく思わないものたちを丸め込む材料の一つとしては、使えることもあるかもしれない。
この希薄な事実を、彼の純血性を証明するためにいかに脚色するか。シルヴィアは頭を働かせながら、はるか東にあるという国についての考察を深めていった。
(外に出たらカップルにあてられそうとか思ってませんよ)
ジト目のトーラの視線の先には、色とりどりの相合傘の二人組がひとつ、ふたつ、みっつ。いや多くない? トーラは外を見るのをやめ、ごろりと長椅子に転がった。若干行儀が悪いかもしれないが、これはそのための椅子なのだ。座面は硬いがこれがシャルガネ風というやつで、竹を編んで作られたそれは通気性がよくひんやりと心地よい。
春も過ぎて初夏、そして霖雨を経てあっという間に夏になる。季節の移ろいは早い。嵐は苦手だが、このような穏やかな恵の雨ならばトーラとしても歓迎である。畑に植えたものたちは、天の恵みなしには育たないのだから。
……雑草も繁茂するし、処理をするのは大変だが、それはそれである。
(そういえば、去年は西瓜を育ててましたね)
また何か植えようか。植物の成長は、我が子の成長のように嬉しいものである……子供がいたことは、まだないが。やはり愛情や手間をかけて育てた植物が美しい花を咲かせ結実すると、やりがいを感じるのだ。
(少しお昼寝したら、植物の本を探してみましょう……)
雨、宿、窓辺にて。マリィ・スノードロップは静かな雨音に耳を傾け、雨露を受け止める紫陽花の葉が揺れるのを見つめていた。
シャルガネ方面にくるのは初めてである。ゆえに、できるなら彩傘通りや紫陽花の東屋など、歩き巡ってみたいものだが……。
「くしゅっ、」
マリィは小さくくしゃみをした。やはり、冷える。
妙な気恥ずかしさを覚えて、誰かに聞かれていなかったかと辺りを見回せば、ちょうど白い影が上階から降りてきたところだった。
「あ……ザスキアさん」
マリィは思わず小さくつぶやき、ザスキアの耳がぴくりと動いてそれを拾う。ぱちりと紫色の瞳と目が合い、マリィは挨拶がわりに軽く手を振った。よくよく見れば、片手には傘。どうやら出かけるようで――何故だか自然と、手招いていた。
「どうしたのかな、マリィ」
ザスキアの軽やかに転がる声を聞くと、マリィは嬉しいような楽しいような、不思議な気持ちに満たされた。雨が降っているのに、雲の切れ間から陽の光が射し込んだようだ。
「……えへへ。えと、ザスキアさんも……お出かけですか?」
胸中を誤魔化すように話を振れば、ザスキアは菫色の傘を軽く持ち上げる。
「ああ。雨の中の色彩を楽しむのも、また趣があると思ってね。……湿気はあまり好きではないが」
「そう……」
マリィは言葉を探す。間が開けば、ザスキアは行ってしまうだろう。それがなんだか残念に思われた。
「雨が止むまで、いっしょにおはなししませんか」
これから傘を持って出かけようという相手を引き止めるには拙い誘い文句だ。マリィは恐る恐るザスキアの顔色を窺うが、ザスキアは気を悪くした様子もなく頷いた。
「そうだね、それもいい。むしろ、花のような君のそばでゆっくり過ごせるのなら、その方が素敵かな?」
歌うように滑らかに、心地よい抑揚で紡がれる言葉。マリィは自然と頬を綻ばせた。
「ザスキアさんには、好きなお花ってありますか?」
そう話題を提供しつつ、マリィは机の上の急須を手に取る。珍しい、ガラス製のそれの中に咲くのは芍薬だ。
「私は……薔薇が好きだな。親友との思い出の花なんだ。マリィは?」
「お花ならなんでも好きですが……今は、クルクマの花で」
しとしと。ぽつぽつ。雨音に声を編むように――あなたを少しでも引き留めておきたくて――マリィはゆったりと言葉を紡いだ。
エイル・ビュセファスは羊皮紙にペンを走らせる。『時は金なり』――エイルにとって金儲けは何よりも重要なことだ。雨によって生まれた予定外の休息であっても、無駄にはできない。
エイルが書き連ねるのは、儲けるための計画だ。例えばこの街であれば、職人の技術からいかに金を産むか、である。顔を合わせた傘職人たちには欲のない者が多かったが、それではいずれ先細る。
金は市場の潤滑油だ。そしてそれを手にするためには、実力以上に時勢と運がものを言う。だからこそ、エイルは決して手を休めることがない。常に頭を回す。計画もひとつではなく複数、どれが役に立つかなんてその時になって見ないとわからない、そんな悪戯な運命の上で踊るのならば、準備はし過ぎて損はない。
作業に没頭するエイルの背中にもたれかかるのは、シャルロット・エクレールとフリューリングスルフト=ティエラだ。ペン先が紙の繊維を引っ掛ける音を聞きながら、シャルロットは読書を、フリューは膝の上にうさぎのイュンを乗せて、ブラシで毛繕いをしてやっている。
雨音を聴きながら思い思いに過ごしていた二人は、最初こそ互いの背中を支えにしていたのだが、それもバランスが取りにくく疲れてくると、エイルの背中を半分ずつ利用することにした。
「重い」
当然、エイルからは抗議の声が上がるが知らんぷりである。
とはいえエイルも二人を跳ね除けようとしないので、そんな姿勢がしばらく続いていた。
鉄瓶で沸かした水が湯気を立てている。ゆらめく湯気の向こうには、窓越しに色とりどりの傘。それは紫陽花のように色鮮やかで、しっとりとした雨音がそれらに降り注いでは、小さく音を立てている。
「それ、何の本?」
シャルロットが借りてきた少女小説を横から覗き込んで、フリューが尋ねた。
「いわゆる、少女小説? 恋愛もの。……フリューには、好きな人はいる?」
シャルロットはそれに小さく答えつつ、聞き返す。フリューは「んー」と間伸びした声で考え込んだ後、「気になっとる人はおるかな」と曖昧に答えた。本人もまだ掴みきれていない関係性なのだろう。
「ふわぁ〜……あぅ」
時たま取り止めのない言葉を交わしていると、段々と眠くなってきた。二人してあくびをすると、エイルの背中をずり落ちていく。エイルも二人に多少体重を預けていた分、支えがなくなり後ろに倒れた。
「エイル〜。一儲けできたら、おいしいもの食べたいさぁ」
「あー……そうだな」
エイルはペンを置いて、仰向けになった状態で書き物を読み返しているために、生返事になった。フリューはそんなエイルの腹を枕にする。
「……重い」
「あ、私も」
「もっと重い」
そこにシャルロットも参戦し、二人してエイルの腹を枕にする。
「……ふふ」
フリューは小さく笑った。甘えて、甘えられて――兄妹がいたらこのような気持ちなのだろうか。
時間は緩慢に流れていく。二人が寝息を立て始めると、エイルもまた、やれやれと羊皮紙を放り出して目を閉じた。
● 彩傘通りにて
打ち捨てられた社へ続く階段の上からなら、その通りを一望できる。色とりどりの番傘が差し掛けられ、色を失った空とは対照的に鮮やかに映る。
気まぐれに足を向けた土地であったが、それもまた良い。Alexandra・Hexe・Claudiaはしばらくその情景を見つめていた。ここに来るまでにすれ違った見知った面々は、この景色をもう見ただろうか。忘れ去られ寂れた社の存在に気づいただろうか。あるいは声をかけて、ここへ誘うのも?
Alexandraはしばし悩んだ。……いや、よそう。静謐を無理に暴く必要はない。それにもし、ここが立ち入り禁止だとしたら気まずい。
そばで、ぽちゃんと音がした。不恰好な硝子の器。そこに落ちた雨露が音を立てたのだ。ふと思いついて閃光塗弾の液を加えると、淡い輝きを放ちながら、対流に逆らわずに踊る。
その様子を、Alexandraは膝を抱えて見つめ続けた。自分以外は誰もいない静寂の中、揺らめく光が濡れた石階段を照らしていた。
ルベア・ベルニは紫色の傘を手に彩傘通りを出た。妙に印象に残る色だと思って購入した傘だが、東屋に咲く紫陽花を見たせいかもしれない。
「……?」
と、宿へ戻る道すがら、ルベアの耳が弱々しい鳴き声を拾った。声がする方を探すと、裏手に仔犬が打ち捨てられていた。あるいは親とはぐれたのか。雨に濡れ、震えている。
ルベアはすぐに仔犬に傘を差し掛けてやり、辺りを見回した。親犬の姿は見えず、気配も感じ取れない。
「……ひとりぼっちなのね」
ルベアは仔犬に語りかける。それは小さく鼻を鳴らした。
「昔の私なら、そう……アナタも、と言っていたかも」
ルベアは自分が汚れることも厭わず、仔犬を抱き上げる。そのまま、冷え切った体を温めるように懐に招き入れた。
ルベアは今、ひとりではない。気にかけてくれる人たちがいることを知っている。
「アナタにも……そういう人が居てほしい」
ルベアは今、寮生活だ。寮監の判断にもよるだろうが、おそらく連れてはいけないだろう。さてどうしたものか――仔犬をあやしながら考えていると、通りの方からこちらを不思議そうに覗き込んでいる人影に気づいた。
「やあ。どうしたの?」
セヴラン・クアルトはルベアと目が合うと、軽く手を上げて歩み寄る。片手には楽器があり、おそらく直前まで演奏をしていたのだろう。セヴランは楽器が濡れないようにしまうと、地面に置いてあったルベアの傘をとり、両手が塞がっているルベアに差しかける。
「仔犬?」
「ひとりぼっちで濡れていたの」
「それは大変だ」
セヴランのフードの中に隠れていた栗鼠が、興味深そうに鼻をひくつかせる。
「この通り、僕にはこの子がいるから引き取れないんだけど……どうかな、お客さんの中にはいるかもしれない。聞いてみよう」
セヴランはルベアをふたたび彩傘通りへと導くと、軒先を借り、雨音に合わせて弦を弾く。雨音に混じる、跳ねるような軽快な音楽を楽しもうと、徐々に人が集まってきた。そして当然、ルベアにも視線が集中する。
「あ、え……と。あの」
好奇の視線に晒され、ルベアは言葉を詰まらせる。しかしここで怯んでしまっては、仔犬を助けられない。ルベアは勇気を出して、人々に語りかけた。
幸い、飼育経験があるという客のひとりが仔犬を引き取ろうと名乗り出た。老犬に先立たれ、落ち込んでいたところだという。
「幸せにしてもらってね」
セヴランが最後に仔犬に語りかけた言葉を、ルベアは考える。
(しあわせ、か……)
優しく抱きあげられた仔犬の安堵の表情に、ルベアは一抹の羨望を覚えつつ……ほっと胸を撫で下ろすのだった。
浴衣を着込んだナキルとエフィルミアは、並んで彩傘通りを歩いていた。エフィルミアは、ふわりと広がる長い髪を浴衣に合わせて結い上げている。
「雨の日は髪が広がるから憂鬱なんだけど……たまにはこういうのも悪くないかもね」
恋人であるナキルと一緒にいられる時間であれば、雨の日でもなんでも、きっと楽しいと思える。
「ん、そうだな」
ナキルも言外に含まれる好意を感じ取り、はにかむ。そしてエフィルミアに手を差し出した。
「……むむ? ナキルくん、なんだか前より紳士的かも!」
「俺だって成長してるってこと」
エフィルミアのために学んだ、多くのことのひとつだ。ナキルが少し胸を張ると、エフィルミアは微笑ましく目を細める。
「……いや、そうじゃなくてだな」
そういう視線ではなくて、とナキルがなんともいえない顔をする。エフィルミアは「わかってるよ!」とくすくす笑うと、傘の屋根が途切れるところで手持ちの傘を差した。
身長差があるため、高い方のエフィルミアが傘を持っているのだが、ナキルはそれを少し歯痒く、そして噛み締める愛おしさとして感じる。
エフィルミアはずっと、ナキルに合わせて歩いてくれていた。それは多くを学んで、視点が変わって気づいたことだ。
「俺が代わるよ」
ナキルはエフィルミアから傘を受け取ると、腕をいっぱいに天に伸ばした。それを見たエフィルミアは、何か思いついたようにナキルの後ろにまわると、ナキルにそっと抱きついた。
「こうやってくっついてた方が濡れなくて良いでしょ?」
「いや、歩きにくくないか?」
「いいじゃない。ほら、」
エフィルミアは紫陽花の咲く垣根を指差す。
「綺麗だね。少し眺めていこうよ」
だがナキルは紫陽花を見つめた後、エフィルミアを見上げて呟いた。
「ミアも、また綺麗になった気がするな」
「当然でしょ、恋する女の子は綺麗なの。好きな人の前では最強なんだから」
いつもはナキルに対して年長者ぶるエフィルミアだが、今この時は華やかに笑って素直に言葉を贈る。
「ナキル君のこと、大好きだよ」
「俺も」
ひとつの傘の中、ふたりは温もりと互いの想いを確かめ合うのだった。
物思いに耽るだわの、フードに隠れる横顔を、サラはちらちらと伺う。
サラは、雨の日は嫌いではない。ぽつぽつ、ぱたぱた、とん、かん。雨音による音楽と濡れた土の匂い。しかし――勢いこそ強くはないが、止まない雨というのはやはり、だわに何かしらの情景を思い起こさせるようであった。
「……しんぱい、ごと?」
サラはおずおずと尋ねた。心配事、というものとは少し違う顔色だが、だわの憂鬱を表すことができる言葉がうまく見つからない。
だわは浅く息をついた。思惟の海から浮かび上がり、呼吸をするように。
「いや……」
遅れて返答。曖昧に濁された答えに、サラは並んでいるはずの距離を思う。
「……きれいな、とこが……あるんだ、って。その……一緒に、行ってみない……?」
ね、だわおにいちゃん。
ねだるように袖をそっと引けば、だわは静かにサラに視線を向けた。
「ああ」
サラが見に行きたいのなら。それを示すように、だわはサラが一歩を踏み出してからようやく歩き出す。
そうして訪れた彩傘通り。サラは空に差し掛けられた色とりどりの傘を見上げ、目を輝かせる。
「お花が、たくさんさいてる、みたい……。音も、お部屋にいる時と、違うよ。賑やか」
サラは頭上の傘を追いかける。そのサラが転ばないよう、だわは小さな手を取った。
「転ぶぞ」
「あ、う、うん。そうだね。足元、ちゃんと、見るの」
サラは視線を戻し、そして雨樋の下にある石の器に目を留めた。その縁に置かれている2匹のかえるの置物と目があった気がしたのだ。
「……っだわおにいちゃん! 見て見て、かえるさん! 傘に入ってて、かわいい」
大きいかえるが傘を差し、小さなカエルがその下に寄り添う。
「おっきいかえるさんが、だわおにいちゃん。ちいさいのは……わたし。なんて、えへへ……」
「俺と、サラ? ……そうか」
だわも一緒になってかえるの置物を見つめる。寄り添う2匹のかえるは仲睦まじく、親子のようにも見えた。
「俺もあんなふうに……なんてな」
ふと漏れた言葉を、だわは軽く茶化した。深い意味はない。だが、サラが上げる楽しげな声が、はにかんだ笑顔が、だわを穏やかな気持ちにさせてくれるのだ。
「茶屋でも覗いて行くか。少し、ゆっくりしよう」
「あ、うん! 甘いの、食べたい、な」
サラは何度も頷いた。先ほどのだわの言葉が、声音が温かく、心にぽっと火が灯るようで。どきどきとした気持ちに、サラは小さく首を傾げた。
アルト=ミルドレッド=バ・ロッサは、強引にならない程度にやんわりと、サニー・フォン・オルライトの腕を引く。
「サニー、もっとこっち来ないと濡れちゃうよ。靴だって汚れちゃう」
「っとと」
二人はひとつの傘に入っている。大きめの傘だが、まあ、体の良い言い訳というやつだ。サニーは気づいているのかいないのか、アルトのほうに身を寄せる。
彩傘通りに入ってしまえば、傘は畳まねばならない。景色は美しいが、それが少し惜しかった。ゆえにゆっくりと歩を進める。
「シャルガネのほうにはあまりきたことがなかったし、少し新鮮な気分ね」
雨さえ降ってなかったら、ともアルトは思ったが、こうしてサニーと共にひとつ傘の下にいられるのは雨のおかげとも思うと、もごもごと言葉を濁す。
「私は何回か来たことがあるけど、やっぱりこういうのんびりできる依頼が多いかな」
「ふ、ふうん……」
多少なり土地勘があるから、とアルトをエスコートするサニー。やがてふたりは彩傘通りに到着し、傘を畳む。色とりどりの傘が差し掛けられた通りは、色鮮やかで美しい。二人はしばらくそれを眺めた後、店先を覗きながら通りを練り歩いた。
「サニー、これ……焼きまんじゅう? 雨で体が冷えたでしょう、温かいものを食べるのはどうかしら」
「いいね。あ、餡以外にも具材がある。どれにしよう?」
傘の焼き印が押された饅頭はどれも美味しそうだ。ひとしきり悩んだ後、二人はまずは基本の餡子と、野沢菜やチーズをつつんだ焼きまんじゅうを買い、二人で分けることにした。
「ふふ。おいしい! 半分こって、素敵だね」
柔らかく笑うサニーに、アルトもつられて笑顔になる。アルトは紙袋にそれぞれ半分ずつに分けた焼きまんじゅうを入れ、ふと辺りを見回し、一軒の土産屋に目を留めた。
「アクセサリー屋さんみたいだね。お土産に何か買って帰ろうか?」
アルトの視線に気づいたサニーが店先に近づいていく。そして少し悩んだ後、赤いガーベラのイヤリングを手に取ると、アルトに見せた。
「これ、どうかな?」
「似合うと思うわよ。髪色に映えて……」
「じゃあアルト君にも似合うね!」
二人は同じ金髪だ。サニーは迷わずそれを購入すると、右耳用のそれをアルトに贈る。
「おそろい!」
そう言って花咲くように笑うサニーに対し、アルトは気恥ずかしそうにもじもじと視線を逸らす。
「あ、あれ? やっぱり気に入らなかった?」
「ち、違うわよ! その……先越されちゃったから」
アルトは鞄の中から小さな紙袋を取り出し、サニーに差し出した。中身は空色の珠がついたシャルガネの簪だ。あらかじめ購入しておいたのである。
「……ありがとう!」
サニーは目を瞬いたあと、嬉しそうにはにかむ。そしてその簪で器用に髪を纏めると、もう一度笑って見せるのだった。
● 紫陽花に囲まれて
海神・江流は東屋の椅子に腰掛け、雨露を受ける鮮やかな紫陽花をぼうっと見つめていた。雨に濡れた青い番傘もそろそろ乾く頃、それほど長居していたが、頭に浮かぶのは取り止めもないものばかり。いやそれでもやはり、いずれもあの娘に関することだ。青に紫、桃色に白。そんな紫陽花の彩りの中に彼女の色を見つけては考える。
紫陽花の花言葉は、一説には「高嶺の花」。その通りだなと思えば笑みが浮かぶ。相手は侯爵令嬢、貴族の中の貴族である。
青い紫陽花は「辛抱強い愛情」。これは耳が痛い。
紫陽花は土壌の質により色が変わると言われている。また、時間の経過によっても。青から赤へ、白から緑へ。
であれば、そう。紫に染められているのはもしかしたら――。
「やめだやめだ」
江流は首を振って思考を打ち消した。何でもかんでも自分に結びつけてしまうのは、あまりよくない兆候だ。
惑わされている、囚われている――あの手紙はどんな想いで綴られたのか。
「まーた考えてるな」
呆れ混じりのため息まで、聞くものもいまいが。
夜、ほのかに照らし出された東屋に向かう影がふたつ。ローザリカ・L・ディオールは、自分に歩幅を合わせ、あまつさえ自分が多少濡れるのも厭わずローザリカ側にやや傘を差し掛けている――ジュスト・ヴェルジーの表情を盗み見た。
「もう少し寄ってくれないと、濡れてしまうよ?」
ちらりと窺ったはずなのにばっちり目があってしまった。どういうことだ。
「これ以上寄れというのか、くっついてしまうじゃないか」
ローザリカはふいと視線を逸らすが、言われた通りに身を寄せる。触れ合った腕の、服越しに伝わる体温が思ったよりも高いと感じたのは、気のせいだろうか。
「……綺麗だ」
ローザリカは誤魔化すように言葉を紡ぐ。だが、その場凌ぎで言ったわけではない。事実、東屋を囲む紫陽花の美しさは息を呑むほどだ。
ふと、脳裏に紫陽花の花言葉が浮かぶ。移り気、無常、あなたは冷淡――あまり良くない言葉ばかり浮かんでしまうのは、不安だからなのか。
「手紙、」
ローザリカが少し責めるように口にすれば、ジュストは肩をすくめた。
「いったいどれほどの花にうつつを抜かせば、あんなものが書けるのかな?」
薔薇の棘は鋭いものだ。だからローザリカは、それを向ける状況も相手も選ぶ。しかしどうしてもっと、素直に喜べないものかとも――口から出た言葉が戻るはずもなく、ローザリカはするりとジュストの差し掛けた傘から抜けて、東屋へと上がろうと。
その手をやんわりと引いて、ジュストが微笑む。
「君への言葉は、君のことだけ考えて、君にしか贈ったことのないものだ」
白い紫陽花の花言葉は、寛容、そしてひたむきな愛情。それぞれをお互いに持ち寄ることができたなら。
ジュストは再びローザリカを傘の中に引き込むと、ローザリカの頬に軽く口づけを落とした。
「……これでも信じて貰えないなら、次はここにするしかないのだけど」
ジュストはそっとローザリカの色づく唇を指でなぞる。しかしローザリカは目を瞬いたあと、挑発的に微笑んだ。
「それなら、信じない方が得をしそうだ」
「おやおや」
迂遠に過ぎる言い方は避けるローザリカらしいといえばらしいが、そのような反応は珍しい。ジュストはそれが、今のローザリカにできる精一杯と知って踏み込む。
「そのままの意味と受け取るけど、いいんだね?」
雨に淡く霞む景色の中、繋いだ手から伝わる体温だけが、はっきりと――。
マスターコメント
ごちそうさまでした。
ぶりとろはよくお気に入りの傘を置き去りにします。ごめんね。
今のところ失くしてはいないんですがいつか失くしそうです。
みんなも大切なものは手放さずにな……(いい感じのことをを言って締め
それではまた、お会いしましょう〜!
イベントシナリオ易しい 報酬:少ない25 / 4〜25人
2022年06月04日 20時54分49秒 公開
大成功