カペルと吸血鬼の前哨戦

キャラクターノベル(グループ)制作 紀藤トキ納品 2023年11月30日 13時04分39秒

●
 イザベラ・カペル先代侯爵夫人は、実質的なカペルの最高権力者である。領内で起きた出来事で、彼女の目から逃れうる事はそう多くはない。だが、息子であるエクスリオ・カペルが、ノアとの遭遇とそこで交わした約定(ゲーム)について伝えたのは、秘密には出来なさそうだという消極的な理由では無かった。

「自分が倒れようと、私が居ればカペルは崩れないとリオは言ったわ。あの吸血鬼との因縁を、シルヴィアにまで引き継ぐ訳にはいかないわね。……また、待つ側になるのは気分の良い物では無いけれど」

 聞いてしまえば、イザベラは動けない。カペル家とノアの暗闘の為に、カペル領の民を巻き込み滅ぼすことは許されない。施政の滞りも許されない。蒼玉候とイザベラを共に失うことは出来ない理由があった。そして、スペアがあるという意味ではもう一組、お互いの職分を完全にカバーしうる二人が存在する。誰かと問われれば、イザベラの私的な庭園の東屋で、卓を囲む相手はそう多くはないというのが答えになるだろうか。

「二人とも。お話の前に、お茶でもどうかしら」
「落ち着いてはいるが、頂こうか」

 ディヴァンス・ファルヴェントにすれば公的な場であれば主と仰ぐ相手ではある。が、旧主であり親友の妻でもあり、人払いをした内輪の場ではそこまで気も言葉も使わないらしい。さすがにアーカネラ・ユルヴェウスは同性としても、多少は遠慮があったようだ。

「申し訳ありません、私が気がつくべきでした」
「構わないわ。けれども、そう……。二人で共に向かいたいでしょうに、感謝するわ。相談は、どちらが私と共に残るか選んで欲しい、という事かしら」

 侍女も下げたイザベラは、自身で作った薔薇の砂糖漬けと共に紅茶を手ずから淹れ、二人に着座を促した。ディヴァンスとアーカネラの二人は、花匠(マイスター)というカペルの諜報部門のトップの先代と当代であり、長命種族たるエルフでもあり、かつ年齢の割に初々しい恋人同士でもあった。私的立場から言えば、共に戦いに赴きたいだろう。が、新旧の花匠(マイスター)二人が共にカペルから失われることは、もしかしたら領主母子以上に、この困難な時代には許されまい。

「いや。……私は、ノアに手の内を知られている。あるいは何かを仕込まれている可能性すらある。アーカネラの方が相応しい」
「そう言って、納得したはずなのになかなか割り切れないようね。まったく」

 恋人が自分の身を不器用に案じる事が嫌なはずも無く、口調と裏腹にアーカネラは微笑を浮かべている。ディヴァンスは居住まいを正し、イザベラへ一礼した。

「長らく、時間を頂いた。ようやく、あの時のことを話す覚悟ができた」
「……あの時」

 ディヴァンスが亡夫であるアルヴィン・カペルと共に歩んだ日々は妻たるイザベラよりも長く、しかもアルヴィンがノアに殺された際には同行もしていた。シルヴィア・A・カペルとの問題が解決したことは、彼にとりようやく傷を直視することが出来たと言うだけで、傷が癒えたというには程遠い。頭を下げたままのディヴァンスの声は平静だが、恋人だからこそ、アーカネラはディヴァンスの癒えざる傷の有り様を感じ取っている。アーカネラはそれ以上は口を挟まないと示すようにお茶菓子を口に入れた。彼が好むこの味を、彼女はまだ再現できていない。

「そう。アルヴィンが、帰らぬ人となった時のことですね」
「そうだ。シルヴィアに目を覚まされ、ようやく思い出した。もう30年は前になる、あの吸血鬼との戦いの最後の顛末だ」

 声は震えてはいない。視線を上げ、イザベラの目を見た。これまでディヴァンズが真の意味では直視できず、そして親友の妻や子、孫へと語れなかったある事を、口にする覚悟を秘めた目で。

●
『ならば私の心が折れるまで、イザベラには手出ししないで貰うよ』
『……ははは。いいよ、アル。僕は君の事も気に入っているからね。先に君を迎え入れてからの方が、イザベラも気持ちよく僕の所に来てくれそうだし。でも、いいのかな。イザベラの前で、僕に跪くことになるよ?』

 男としてかっこ悪くはないかい、などと妙な気遣いを見せる吸血鬼に、ありし日のアルヴィンは肩をすくめ、そのような日は決して来ない、と微笑した。彼にはこの吸血鬼が、嗤いながらも泣いているようにも思えていたのだ。決して、油断をしたわけでも情けを掛けたわけでもないけれども。その涙を、止めてあげたいと思った。――あるいは、思わされて、相手の誘いに乗った。


「それからの二年は、酷い物だった。関連は抹消された故にアーカネラは知らないだろうが、領主たるイザベラは知っている」
「……まさか、記録にあった飢饉は?」
「あの吸血鬼の仕業だ。デイウォーカーの厄介さを、私もアルヴィンも理解は出来ていなかった」

 アルヴィンと遊戯(ゲーム)の約束を交わしてから、ノアは姿を現すことが無くなった。ただ、月に一度。人では無くなったメッセンジャーが送られてくるだけだ。そのメッセンジャーは「折れる気になった?」と問い、それにアルヴィンが首を振ればカペル領へ災害が起きた。

「……その因果関係を正確に理解しているのは当時ですら殆ど居なかった。アルヴィンはイザベラにも、遊戯(ゲーム)の中身については語らずに死んでいる。全てを知り、今も生きているのは私だけだ」

 そして、今や遊戯(ゲーム)の差し手を引き継いだエクスリオもルールについては知っているだろう。


 悲惨な二年間。カペルの領民は、苦しくなっていく生活に耐え、アルヴィン(領主の良人)へ変わらぬ信頼を向けた。カペル領の畑が記録的な不作を出し、街道には虚ろな目の山賊が現れ、暴走する魔獣に襲われ潰えた村が幾つか出始めてもなお。彼らは己に降りかかった不幸が、領主一人の身を購う賭けの代償と知っても、同じ顔を向けるだろうか。イザベラ自身が遊戯(ゲーム)の中身を知ったとして、良人へ変わらぬ愛を向けてくれるだろうか。疑問がアルヴィンの心を苛んでいく。

『たまたま、運が悪かったんでしょう』
『儂らは大丈夫です。カペル侯爵の領地に生まれて良かった。後悔はしとりませんぞ』
『俺、大きくなったらイザベラ様の騎士になるんだ。そして父さんと母さんの敵を討つ!』

 故郷を失った兵士が。妻子を失った夫が。親を亡くした子が。やつれた笑顔でアルヴィンを迎える。それが彼の心をすり減らしていった。「折れる気になった?」と囁く声に、首を振る顔にはもう笑みはない。その間、当時の青薔薇(ディヴァンスら)も無策だったわけではない。以前の記録を当たり、ノアが薬物を使うことを知り、不作や諸々の不具合の原因へ辿り着いた。妨害に動くノアの配下との暗闘を繰り返しつつカペルを蝕む災禍が広まったルートを絞り込み、やがてカペル領の小さな村へと行き着く。

『元の住人は一人も残っていなかったんだね。年に数度くる行商人や徴税官を誤魔化せば、確かに気づきにくい場所だよ』
『徴税官は、入れ替わったことを認識してすらいなかった。薬物に加えて、催眠術のような物を仕掛けられた形跡もある』

 動かせる戦力を全て用いて包囲、精兵のみで踏み込んだ。『村長』に成り代わっていたのは、貴族家に生まれながら獣人の特徴が出たために角を折られ愛玩動物扱いをされ、最後は放逐された男の吸血鬼(成れの果て)。彼だけでは無い。ノアの信奉者の共通点は、当時の王国で受け入れられなかった者達だった。

『まさか、ここを見つけるとは思わなかったなあ。ちょっとアルを甘く見ていたかもね』

 村にいたのはノアを除いて吸血鬼が2体、信奉者が29名。『村人』達がその身を挺してカペルの騎士や青薔薇の戦闘要員を防ぐ中、『村長の息子』であったノアは地下室へ逃げだす。

『この玩具箱(カペル)なら、この子(玩具)達も楽しく生きられると思ったんだよ。だから、ここ(カペル)が欲しかったし、ここ(カペル)を作ったイザベラも欲しかった』

 地下室へ踏み込んだのはディヴァンスとアルヴィン。迎え撃ったのは『村長の妻』だった。ノアは手出しせず、二対一。生まれは貴族とはいえ女性の分際で貴族子弟よりも強かったが為に闇討ちを受け、殺され掛けた所を拾われたという吸血鬼(成れの果て)は強かった。彼女が稼いだ時間で、地下室という密閉空間に充満していた薬物とノアの赤い瞳が二人の精神を溶かしていく。そうと気づいたときには既に遅く、ディヴァンスは床を舐め、アルヴィンの腕はだらりと下がったまま上がらない。惹き寄せられるように、アルヴィンがノアの前へ一歩、また一歩と進むのを、ディヴァンスは見上げることしか出来なかった。

『どうかな。僕の家族になる気になった?』

 抗いがたい誘惑に、血が出るほどに噛みしめた口をアルヴィンが開く。絞り出した言葉は、友人への懇願であった。あるいは、叱咤であったのかもしれない。

『……わ、たしを、撃て。膝を、折る前に』

 そうなった時には、そうする約束であった。朦朧とした意識の中、もはや弓も引けぬディヴァンスはナイフを投じた……、筈だ。追ってきた部下に手当を受けて意識を取り戻したときには、全てが終わっていたという。ノアの姿は無く、整えられたアルヴィンの遺体だけが残されていた。

●
「その時、アルヴィンは既に傷を負ってはいた。だが、おそらくは私がその命を絶ったのだろうと思っている」

 彼の死後、ノアがイザベラを狙って蠢動する事は久しく絶えた。それはこの戦いで手駒を失った彼が傷を癒やしていた為だと、思われていたのだが。

「媚毒に侵されても、最期までアルヴィンの心は折れなかった。それを遊戯(ゲーム)に負けたとノアは認識したのだろう」
「そうでしたか。……よく、話してくれたわね」

 意識が混濁したディヴァンスの不確実な証言であり、当時を知る者で生き残った者はいない。今さら思い出した記憶を、内に抱えたまま口にしない選択をしても、誰も気づきはしなかっただろう。自分の知らなかった良人の姿を想い、目を閉じるイザベラを置いて二人は庭園を後にする。彼らのすべき事のために。

「……今回は、領内に巣くわせる事はない。住み着けるとしたら、山間の廃村あたりだろうが」
「ディヴァンスから聞いたノアのやり口であれば、人が全く動けない場所には拠点を作らないでしょう。近隣領が怪しいわね」

 歩きながら思考を切り替え、新旧の花匠(マイスター)は敵についての分析を始めた。アルヴィンが討たれた時と同じ轍を踏むつもりはなく、領内の町村の監視に怠りはない。以前のように村ごと乗っ取られる事態は起きないはずだ。が、何事にも油断は禁物だとディヴァンスは気を引き締める。

「いや、まだ領内という可能性を否定はするまい。青薔薇で追い切れないような場所……。人の入れ替わりが激しい下町辺りに潜んでいる可能性もある」
「領外から入り込んでも気づきにくい場所というならば、孤児院や独立商会も可能性がありそう。さすがにカペル領へ流しの劇団として入り込んでくる、と言うことは無いでしょうけれど……」

 思いつく可能性を浮かべては、配下の者を確認に向かわせるべく脳内で付箋をつけた。一人では敵の手に落ちる可能性もある。行動は二人一組で、定時連絡も徹底させていた。それでもまだ、何か見落としがあるかもしれない。色気の欠片もないやり取りだが、なまじ恋人らしい会話をするよりも余程話が弾んでいるように見えるのは、奥手の二人らしいと言えばらしいのかもしれなかった。

●
 偶然にも、時を同じくして本邸の庭園も客人を迎えていた。

「メッセンジャーに君自身が来るとは、ずいぶん恐れ知らずだな、ノア」
「回りに人を配さないでくれたからね。誘いに乗らせて貰ったよ。もっとも、人間(吸血鬼)にしたいほど気に入る子も最近はなかなか少ないんだけどね」

 ああ、君達(カペルの者)は別だよ、と少年は言う。

「イザベラはもちろん。リオの事も、アルの分まで愛してあげるよ。だから、安心して?」

 ことりと顔を傾けたノアに、エクスリオの反応はほんの僅かな時間だけ遅れた。漏れ出しそうな殺意を抑え、蒼玉候は会話を繋げる。

「……悪趣味なオブジェをメッセンジャー代わりにするのを止めてくれたことには感謝する。座ると良い。母ほどでは無いが、私も紅茶を淹れる事は出来る」
「僕が淹れた方が美味しいんじゃ無いかな? まあ、せっかくだし頂くよ」

 表面だけを見れば、古くからの友であるかの如き表情と声音で、エクスリオとノアは言葉を交わす。選んだ場所は気体の薬物を撒くには不向きな開けた庭であり、冗談であっても茶道具に触れさせはしない程度の緊張感はあった。肌を刺す直接的な殺気を交わすのはまだ早い。あくまでもこれはルールに則った遊戯(ゲーム)なのだ。外交のターンで武力を用いては、遊戯(ゲーム)では無くなる。それは差し手の双方が望んでいない事態だった。少なくとも、今はまだ。

「二つ、理由が思いつくんだ。父との遊戯(ゲーム)で手駒を失った筈の君が、簡単に眷属を増やせなかった理由を」

 アーカネラの調べてきた情報によれば、吸血鬼は偏食家である。人間を玩具と呼ぶノアが、自分と同じ吸血鬼(人間)に迎え入れたいと思う程に気に入る条件がどこにあるのか、父が斃れて以後、青薔薇の調べた情報を元にエクスリオはずっと考えてきた。

「一つは、今の陛下に変わってからというもの、王国が良き国に向かっているということだ」

 男女の別なく、種族の別なく、差別を無くす方向へと王国はゆっくり変わりつつある。貴族社会で清冽であったイザベラに惹かれたように、彼が汚泥の中で綺麗な様子を見せる玩具に美しさを見出す偏食家なのだとしたら。狩り場である汚泥を目にする機会そのものが減りつつあった。使い捨てにする程度ならともかく、眷属とする相手を見いだす機会が減っているのでは無いかと彼は推測する。

「……へぇ。もう一つがあっていたら点数を上げようかな」

 牽制の一打には正解とも間違いとも答えずに、ノアは楽しげに笑った。口をつけた紅茶が熱すぎたのか目を丸くする幼気な様子は恐らく擬態で、正体を知らぬ者であれば欺されるほどには洗練されていた。演技に掛けては優れた『青薔薇』の密偵達ですら、容易に見抜けまい。しかし、エクスリオはその演技の裏にある彼の正体にあえて踏み込む。

「ノア、君と思われる吸血鬼の記録を遡れば、400年前に辿り着く。その時点で既に力ある吸血鬼であったようだから、実際はもっと年長なのだろう。通常の吸血鬼の記録を遙かに超えている」
「そうだろうね。僕は慎重で長生きな血統なんだよ」

 血統。よもや自分は神に近いという牽制であろうかとエクスリオは眉をひそめた。アーカネラは遊戯(ゲーム)を好むノアの特質を見て、吸血鬼の神たるメドゥの右腕に近いのでは、と推測を立てたようだが、そうだとしても孫以降の筈だ。血の親への偏愛が全てに優先する吸血鬼の習性から言えば、親が活動している時に自分の楽しみにここまで注力出来るはずもない。

「吸血鬼とは死者。死霊術士に言わせれば、死者の魂は時を経て壊れることはあっても癒えることは無いというが……」

 空気が冷えたが、エクスリオは言葉の刃を止めなかった。再びノア本人が交渉の場に出てくる機会があるかはわからない。流される血を最小限に留めた上でこの遊戯(ゲーム)に勝つには、揺さぶれる時に揺さぶり、相手の軽挙妄動を誘うしかないのだから。

「もしかして君は、老いて衰えつつあるのでは無いかな?」

 差し込んだ問いかけに、数秒の沈黙。続いたのは、高い笑い声だった。花が開く様のように可憐で、そして生気の無い笑い。

「ふふふっ、おかしな事を言うなあ。僕らは寿命がない、不老の存在だよ?」
「身体はそうだろう。けれども、心は?」
「見ての通り、記憶も感覚もまだまだはっきりしているよ」

 もはや無邪気な少年の顔は、表面だけの物と化した。果たしてエクスリオが化けの皮を剥いだのか、これすらもノアの演技の内なのか。エクスリオは更なる言葉の刺突を放つ。これが刺さらなければ、今回は彼の負けとなるかもしれない、が。

「本当に? 去年見た花の色を覚えているかな? その時感じた驚きを? 人は老化するごとに、感性が衰えていくそうだ。……君は、父や、それ以前に気に入って眷属とした者達の顔や声を、今も覚えているのだろうか?」

 しんと再び静けさが庭園を覆う。風が木の葉を揺らす音と、遠くで鳴く鳥の声が僅かに耳を騒がせ、そして大きな溜息をノアが発した。

「無くしてしまった物の事なんて、忘れるさ。何を当たり前のことを言うんだ。そんな詰まらない言い掛かりをつけるなんて、なんだか興ざめだな」
「帰るのかな?」
「そうだね。今日のところは、引き分けにしておいてあげる」

 引き分け(現状維持)。つまり今回はエクスリオが勝ちを拾った。これで、少しの間はカペル領に禍は起きないだろう。領内に騒動を起こし、死者を出すたびに『玩具箱を綺麗にしただけだよ』とノアは言う。その綺麗さの判断基準は、アルヴィンが対していた時の記録に比して、狂いつつあるようにエクスリオには思えた。数百年という長寿のみならず、予測とのその狂いも、現在のノアの正気を疑う理由である。更に一つ、二つと意味の無いやり取りを繰り返してから、ノアは姿と気配を消した。

「……まったく。これはあの子には遺せない遺産だな、母上」

 強く育った。しかし、強く育ちすぎた娘のことを思い、エクスリオは微笑する。彼女の真っ直ぐな思考では、思考の裏は読めても、裏の裏までは見通せぬ。その更に裏となれば、想像だに難しかろう。それは知識よりも性質の問題だ。実際に接し、言葉を交わす回数が増えれば増えるほど、理解する。長く歴史の裏に淀んできた怪物は、三回裏返ってもまだ考えの底が知れない。

●
 鈍い音と共に、訓練用の木剣が宙を舞う。ジェレムス・ローギリアンは油断なく残心しつつも、止めていた息をゆっくりと吐いた。シルヴィアが両手を挙げて降参の意を示す。

「参った。私の負けだな、団長。もう一つ勝てるかと思ったのだけど」
「何とか面目を保てたか。訓練でなくば(授恵者として戦えば)、もうお嬢の方が上かもしれんな」
「どうだろう。私には経験がまだまだ足りないからね」

 結果だけを見れば、5戦してシルヴィアが取ったのは4戦目のみ。しかし、両者の力量に大きな差があると言うよりは、ジェレムスの対人経験に一日の長があったというべきだろう。授恵者としての経験に関しては、騎士団という守りを職とするジェレムスよりも、王国や世界の存亡に関わる激戦への参戦を繰り返したシルヴィアの方が上というのも、然り。帝国滅亡と共に授恵者の階梯の伸びが加速している事も踏まえれば、ジェレムスの見立ても的外れとは言えまい。

「騎士団の長としては次期侯爵に負けるのは不甲斐ない限りだが、俺としては一安心ってところだな。カペルの強さは安泰だ」
「……ジェレムス?」
「いや、何でもねぇ。妙なことを言うとリオの奴に怒られそうだ」

 カペル領の統治者や花匠(マイスター)と違い、ジェレムスに替わる人材はいない。が、最悪の事態を迎えたとしても『カペル領の武力』に関しては何とかなりそうだ。ジェレムスは、汗を拭いながら話題を変えた。

「……で、俺に何を聞きたかったって?」
「ああ、そうだった。私は話を聞きたいだけだったのに、腕試しだとか言い出すのはどうなんだろうね」

 そんなことを言いつつも、年の離れた兄貴分に認められたのは嬉しくない筈もない。シルヴィアはその感情を素直に表情に出し、ジェレムスも端正な顔を綻ばせていた。

「剣術には心技体という言葉があるだろう。技と身体を鍛えることは出来るが、心構えとはどうすれば身につく物かと思ってね」
「何だ、藪から棒に。お嬢が伸び悩んでいる……って訳じゃあ無いんだろう?」

 シルヴィアの脳裏にあったのは、以前に出会った少年(ノア)の姿だった。学園で縁のあった後輩達に、剣術の技法を記した書を贈ろうとしていた時に出会った彼は、『技をどれだけ磨いても、心構えがなってなければ意味は無いと思うけど』と口にした。言葉だけ見れば、学園で学ぶだけの剣術に何の意味があるのか、と言っているようにも思える。

「……ということがあってね」
「そうか。その少年ってのは、出来る感じだったのか?」
「いや。冒険者だとは思うが、剣士として優れていると言うようには見えなかったよ。年の頃からしても、成長中なのではないかな」
「若くても強い奴ってのは居るが、そうではないか。だとすると、そいつはどこかで見たことがあるんだろうなあ。心技体調った本物の剣士って奴を」

 己の中に剣術の理想像があるのであれば、そういう物言いになるのも分かる、とジェレムスは言う。だが、心構えという物は鍛えて身につく物でも無い。大事な物を失うか、仕えるべき誰かに出会うか、越えるべき壁を見出すか。強くあるということに対する心構えとは、切っ掛けが無ければ芽吹く事が難しいだろう、とも。

「学園の部活で無理に身につけるようなもんじゃない。いざって時に、困らんように鍛えておけば十分だろう」
「それならば良かったよ。贈るべき物を間違えたかと思ってね?」
「あー、止めとけ止めとけ。お嬢が下手に口説いてそいつらの『心構え』にでもなったらややこしい。そいつら、王国騎士を目指すか家に場所がある奴らだろ?」

 ジェレムスは冗談半分、本気半分で主君の娘を止めた。思春期の少年の思い込みというのは馬鹿に出来ない。次代の王国の武を担う若者達が試合の前にぞろぞろとシルヴィアのハンカチを請うことにでもなればさぞ面白い光景だろうが、周囲は笑ってばかりも居られないだろう。

「にしても、『心技体調った剣士』か。ウィリアム王子のような人物かな?」
「ああ……。確かに調っちゃいるだろうが、アレは何か別物じゃないか?」

 ウィリアム第二王子(王国で強者といえば名の上がる人物)を思い浮かべたシルヴィアへ、ジェレムスは苦笑を返す。確かにあの王子の才は国内では突出していた。おそらく10年後には並ぶ物なき存在になるだろう。しかし、現時点で心技体を備えたというならば、帝国側の武の頂点、元近衛隊長の円熟した強さの方が相応しいかもしれない。

「そっちは見たことはないが、お嬢が言うなら余程の物なんだろうな」

 剣術部の若者の辿り着くべき頂があの人物だとすれば、ずいぶん高い目標になりそうだ。果たして、あの少年(ノア)が見たという理想がどのような剣士であったのか。次に会うことがあれば、聞いてみるのも面白そうだとシルヴィアは思う。不思議と、二度と会えないとは思わなかった。

登場キャラクター

アーカイブ生成日時 2026年08月05日 14時56分25秒 ・ world0