磨かれ輝く蒼玉
キャラクターノベル(グループ)制作 影絵 企鵝納品 2024年07月22日 13時13分30秒
蒼玉の青薔薇は、カペル家の歴史に名を刻む若き才媛、シルヴィア・A・カペルに託された。心預ける事の出来る伴侶も迎え、彼女の名の下で由緒正しき名家は更なる発展を遂げることが約束された。
となれば、これまで家を支えてきた英傑の荷も少しは軽くなるというものだ。イザベラ・カペルは今なおも爵位に就いた孫娘の後見として様々な政務に取り組む毎日を送っているが、それでも、先代侯爵――息子のエクスリオ・カペルがそれを担う場面も増えた。
そのお陰もあって、イザベラは数十年ぶりに時間が余るようになった。寝ても醒めても国王と領民の為力を尽くしてきた彼女だったが、たまには自分の思うまま時間を使ってみようと思い至ったのである。
カペル家居城の中庭。シルヴィアとディヴァンス・ファルヴェントは共に訓練用の剣を構えて向かい合っていた。かつては捻じれた事もある師弟関係だったが、今では何の憂いも無く組手が出来る。
二人は一斉に踏み込み、胸元目掛けて細身の刃を繰り出す。同じ姿勢、同じ速度で繰り出された一撃は、互いに火花を散らして脇へと反れた。二人は剣を握り直すと、舞踏会のように足を差し合い、刃をぶつけ合う。ディヴァンスは鍔迫り合いしながら頬を緩める。
「剣の鋭さは変わらないな。戦いが終わって久しいが、腕は未だ鈍っていないようだ」
「蒼玉を受け継いだ者として、臣下領民の鑑たるべし。それは剣の腕とて例外ではありません。今も時間がある時には剣を取るようにしています」
シルヴィアは鋭く三度剣を突き出す。
「お祖父様が生きていれば、きっと私にもそう説いたでしょうから」
ディヴァンスは彼女の剣を流れるような足さばきで捌き切り、眼を細めた。
「……アルヴィンが聞けば喜ぶだろうな」
かつて親友を喪い、己も仇の毒に脅かされシルヴィアに酷な仕打ちをしたこともあった。それ故に己自身の進むべき道を見出し、また変わらず尊敬の念を抱いてくれる彼女に、ディヴァンスは少なからず救われていた。
「変わらず精が出るわね、シルヴィア」
落ち着き払った声色。その口調の端々にも美が行き届いている。二人が剣を交える手を止めて振り返ると、イザベラが中庭に出てくるところだった。身なりは簡素な訓練服だが、彼女の気品を損ないはしない。
「お祖母様、その御恰好は?」
「シルヴィアや皆のお陰で少し時間が出来たのよ。だから稽古をつけて貰おうと思って」
側の従者から細身の訓練用剣を受け取るイザベラ。その背後からまた一人、赤髪の偉丈夫がやってくる。
「イザベラ様も熱心な事で。せっかく出来た余暇なんですから、ゆっくりすればよいものを」
偉丈夫――ジェレムス・ローギリアンは肩を竦める。イザベラは柔らかな笑みを浮かべた。
「今まで時間を忘れて責務を果たしてきたからこそ、こうして若くいられたと思うの。今更無聊を持て余していたら、あっという間に老け込んでしまう気がして」
「イザベラ様がそう仰るのなら、こちらも協力は惜しみませんがね」
ジェレムスはその場で腰を落とし、肩を捻って筋を伸ばす。
「して、如何様な稽古をお望みですか。やり方はそちらにお任せしますよ」
「あら、お優しいこと。ではどうしようかしら」
イザベラは片手を頬に寄せてわざとらしく考え込む。ディヴァンスはそんな知己を見遣って苦笑した。
「油断しない方が身のためだぞ、ジェレムス。彼女を何者と心得る。蒼玉の舵取りを一手に担ってきた女傑だぞ」
「そうは言ってもな、俺もこれで王国騎士なんだ。つい最近剣を取るようになった方と本気で組み合うわけにもいかないだろうよ。……こればかりは私の矜持でもあります故、どうかご容赦を」
ジェレムスはイザベラへ恭しく頭を垂れる。そのお陰で、彼女の瞳がほんの僅か、悪戯っぽく光った事に気付けない。
「そうね。なら貴方の好意に甘えて……鬼ごっこにでもしようかしら」
「鬼ごっこ?」
「私が享けたのはシーフの権能。正面からの切り合いとなってはウォーリアたる貴方に敵いやしない。でも、足の速さなら面白い勝負にならないかしら?」
「成程。悪くない試みだ」
ディヴァンスはジェレムスとイザベラを見比べ頷く。イザベラは彼に目配せした。
「でしょう。ディヴァンス、貴方達も混ざらない?」
「ふむ……」
彼は弟子を一瞥する。シルヴィアは切っ先こそ下ろしているが、剣気は未だ満ちている。久方振りに師弟で組み合う機会。それをふいにしてしまうのも惜しい気がした。
「なら、我々はこのまま組手を続けよう。勝った者が望む側に味方するというのはどうか」
「異論ありません。変わらず全力で組ませて頂きます」
シルヴィアは唇を結んで剣を構え直す。ジェレムスは一頻り二人の組手を眺め、イザベラへと再び向き直った。
「それでは、しばらく私とイザベラ様が一対一で追いかけっこということになりますな」
「ええ。十数えるうちに貴方がこの城の中を逃げて、それから私が追いかけて貴方を捕まえる。給仕が紅茶を淹れてくるまでの十分間逃げきれれば貴方の勝ち。逆は言うまでもないわね?」
立て板に水を流すように条件を並べるイザベラ。彼女が中庭の隅に待機する給仕に視線を送ると、給仕はいそいそと中へ引っ込んでいった。
「あと……ただ追いかけっこをするだけというのも面白みに欠けるわね。もし私がジェレムスを捕まえられたら、今度の夜会で私の知り合いの気立ての良いお嬢さんと踊ってね」
「それでイザベラ様の興が乗るのでしたら喜んで」
二つ返事するジェレムス。イザベラの政治的な手腕がいかに卓越していると言っても、授恵者としての鍛錬を始めてからは日が浅い。万一にも負けるとは思えなかった。
「あくまで逃げてもいいのは城とこの中庭だけ。いいかしら」
「ええ。では始めますよ」
ジェレムスは軽く屈伸してから城の中へと飛び込んだ。最初はお手並み拝見、いつでも全力疾走できるように足を温めながら廊下をゆっくり周回する。すると、軽やかな足音が背後から迫ってきた。振り返ると、イザベラが風のような足取りでジェレムス目掛けて突っ込んでくるところだった。今年で齢六十五になるとは思えない足取り。ただでさえやたらと若作りだが、授恵者になって一層拍車がかかっている。ジェレムスも一気に足を速め、大広間へと向かった。
「簡単には振り切れそうにありませんな。ですが……」
大広間へと踏み込んだジェレムス。ちょうど大広間は掃除中。モップを手にした使用人達が掃除に取り掛かっているところだった。ジェレムスはわざとそんな使用人達の間を突っ切り、イザベラを振り切ろうとする。
「さあ、如何にいたしますか」
得意げに振り返ったジェレムスだったが、彼が目の当たりにしたのは大広間の柱を蹴って軽やかに跳び、彼の眼前まで迫るイザベラの姿だった。
「侮られたものね」
イザベラは鋭く手を突き出す。ジェレムスは咄嗟にその身を捻ってその手を避け、脚にエーテルをみなぎらせて一気に石畳を蹴る。強引に加速して間合いを取り直したジェレムスは、階段を駆け上ってイザベラを引き離そうとする。
「これはこれは! どうやら私は随分と意地の悪い事をされているかもしれませんな!」
ジェレムスは二階の廊下に繋がる扉を力任せに締め切ると、再び加速し廊下の端まで一気に辿り着く。振り返るとイザベラの姿はない。
(イザベラ様も恐ろしい方だ。まだ隠す爪があったなんて)
彼は真っ直ぐ三階へ続く階段を駆け上ると、そのまま彼が最も信頼する部屋へと飛び込んだ。
「また何だか騒がしくなったな。何をしている?」
エクスリオ・カペル。当代蒼玉侯の後見人。彼は羽根ペンをインク壺に浸すと、息を切らした親友を出迎える。
「イザベラ様とかけっこさ。負ける理由もねえと思って二つ返事で引き受けたら、案外……脚が速くて」
「ジェレムスともあろうものが相手の実力を測り間違ったか。シルヴィアが結婚してから向こう、すっかり気が抜けてるんじゃないか」
エクスリオは戸棚から酒瓶を一本取り出す。シャルガネから取り寄せた白米酒だ。小机のグラスに並々注いでやると、ジェレムスはしかめ面でグラスを呷る。
「んなことはない。イザベラ様の爪が多すぎるだけだ。……リオの方は相変わらず忙しそうだな? 嫁御も今日は実家に帰ってるんだったか」
「ああ。彼女の家も集権派への合流を検討しているところだ。アスター家の血縁で集権派にいる彼女が橋渡し役としてこれ以上なく適任というわけだよ」
「成程な。いよいよ世の中が変わるんだな、って気がしてくるよ」
「いずれはこの辺りの仕事もシルヴィア達に任せるつもりだ。外交こそ政治の基礎で、最も難しい所だが……二人なら上手くやるだろう」
「お手並み拝見だな」
ジェレムスは肩を竦める。シルヴィアの心を手に入れた婿殿に対して、彼は妙に刺々しい。まるで自分の娘が嫁に行ってしまったかのようだ。エクスリオはくすりと笑う。
「君も婿殿を認めていないわけではないはずだ。まだシルヴィアが自分の手を離れてしまったのが寂しいのかい?」
「別にそんなんじゃねえや」
口を尖らせ立ち上がるジェレムス。エクスリオはそれに合わせて指を鳴らす。扉に取り付けられていた紋具は反応し、いきなり扉に鍵をかけてしまった。
「……おい、リオ! 何してる!」
ジェレムスがはっとして振り返ると、エクスリオは面白そうに笑みを浮かべた。
「おいおい、君は自分で教えてくれたじゃないか。当家に無二の政治家を相手にしているんだって。君と母上がどんな稽古をするか、聞いていないとでも思ったかな」
エクスリオの柔らかな笑みを見て、ようやくジェレムスは事態を察した。彼はグラスに注がれた清酒を一気に飲み干すと、げんなりと溜め息をついた。
「もしかすると……稽古をつけられていたのは俺の方だったか?」
「母上らしいやり方だろうに」
鍵のかかった扉がこんこんと鳴る。振り返ったジェレムスは顔をしかめた。
「ええい、こっちにだって意地がある。降参なんていくもんかよ」
ジェレムスは窓目掛けて駆け出した。大きく窓を開け放ち、彼は迷わず飛び降りる。彼は下の階の窓の縁を掴み、そのまま開け放たれた部屋へと潜り込む。エクスリオは窓から身を乗り出し、そんな彼の姿を見下ろす。
「……これからは戦場の計略ばかりじゃいられないかもしれないな」
エクスリオが扉の鍵を外すと、入ってきたのは茶菓子を持ってきた給仕だった。
下階に活路を見出し、窓から二階の客間に飛び降りたジェレムス。しかし、そんな彼の目の前には既にイザベラが待ち構えていた。その手を確かに掴んで、イザベラは得意げに目を細める。
「やはり油断したでしょう、ジェレムス。貴方がどう動くか、手に取るようにわかったわ」
「返す言葉もありませんな」
ジェレムスは床にどっかりと腰を下ろし、頬杖ついて口を尖らせる。部屋の扉が開いて、シルヴィアとディヴァンスがやってくる。シルヴィアを一瞥したジェレムスは、一層眉間に皺を寄せてその身を縮める。すっかり勝負が決してしまった事を悟ったシルヴィアは、そっと肩を落とす。
「これは……私達が加勢するよりも先に決着がついてしまったのですね」
「お嬢。これは恥ずかしいとこを見せたもんで」
ジェレムスはバツが悪そうに頭を掻く。イザベラはくすりと笑い、種明かしを始めた。
「独力で成し遂げられることは少ないの。裏を返せば、他人の協力を得て、良き時流を見極めることが出来れば、個人の力量の差は幾らでもひっくり返せるということ。だから今回、私は事前にエクスリオの協力を取り付けて、シルヴィアがディヴァンスと稽古しているところを狙って貴方に勝負を挑んだのよ。貴方の事を頼りにしているシルヴィアなら、貴方の味方をしてしまうでしょうから」
「成程。私に勝つための準備は一通り済ませておいた、というわけですか。流石のお手並みです」
ジェレムスはうなだれる。蒼玉の流儀に学び、勝利は兵を動かす前に定まるという信念で戦略を組み上げてきたジェレムスだったが、さすがに本家本元の手前には敵わない。イザベラはそんな落ち込んでいるジェレムスに手を差し伸べた。
「さて、色々根回ししてしまったけれど私の勝ちは勝ちよ。先に言った約束の件は憶えているかしらね?」
「やれやれ……憶えておりますとも」
ジェレムスは恭しくイザベラの手を取って立ち上がる。彼は気取らずへらりと笑った。
「しかし私の年頃も考えて頂きたい。私はもう夜会で令嬢と踊るような歳ではないし、私などの相手をさせられるお嬢様もかわいそうだ」
「もちろん無理強いはしないわ。少し揶揄ってみようと思っただけよ。まあでも――」
実の息子のように接してきたジェレムスの、その子供の顔も見てみたい。そう言いかけた時、ジェレムスは手を掲げてイザベラの言葉を制した。
「いや、皆まで仰られますな。……まあ一本取られてしまったのは事実。約束を果たさぬのもまた騎士の名折れ。次の夜会では精一杯に踊らせていただきますよ」
「そう? じゃあ……心当たりあるところに声をかけておくわね」
「ええ。よろしくお願いします。お嬢。少し踊りについて手ほどきしてくれ」
ジェレムスはイザベラに深々頭を下げると、そのままシルヴィアへと向き直る。意外な申し出に、シルヴィアは思わず目を白黒させる。
「踊りを、ですか?」
「ああ。今までこの時分には関係ない事と思って踊りの稽古なんてしてこなかったからな。男の俺が下手を晒したら付き合ってくれたお嬢さんにまで恥をかかせるからな。やるからには万全にしとかねえとな」
ジェレムスが目配せする。シルヴィアは無意識のうちに口端が綻んでいた。お兄さんのような存在として、ずっと頼りにしてきた。些細な事でも、そんな兄貴分に頼られるのは嬉しいものだ。シルヴィアは目を細めて頷いた。
「わかりました。喜んで指南致します」
かくして、今日の稽古は未だ衰えるところを知らないイザベラがジェレムスをやり込める形で終幕した。夜会でジェレムスが娘御を相手にして踊ることなど滅多になく、その理由はイザベラとの稽古に負けたからというのだから、女傑の底知れなさを誰もが思い知ることになった。
負けてしまった当人や、新たな当主として人生の晴れ舞台に立ったシルヴィアもまた、偉大な先達と同じ高みに至るにはこれからも修練せねばならぬと痛感した。
大きな苦難を乗り越えて後、人はしばしばその達成感と安心感に浴し、穏やかな現状に満足して凡庸に時を過ごしてしまうきらいがある。
そんな平和な時代にあってなお、蒼玉の一族とそれを支える臣下達は、互いに尊敬を失わぬよう研鑽を続ける。
その不断の努力が、これから先も王国を守り導く宝玉としてカペル家を輝かせるのであった。
磨かれ輝く蒼玉 終わり
となれば、これまで家を支えてきた英傑の荷も少しは軽くなるというものだ。イザベラ・カペルは今なおも爵位に就いた孫娘の後見として様々な政務に取り組む毎日を送っているが、それでも、先代侯爵――息子のエクスリオ・カペルがそれを担う場面も増えた。
そのお陰もあって、イザベラは数十年ぶりに時間が余るようになった。寝ても醒めても国王と領民の為力を尽くしてきた彼女だったが、たまには自分の思うまま時間を使ってみようと思い至ったのである。
カペル家居城の中庭。シルヴィアとディヴァンス・ファルヴェントは共に訓練用の剣を構えて向かい合っていた。かつては捻じれた事もある師弟関係だったが、今では何の憂いも無く組手が出来る。
二人は一斉に踏み込み、胸元目掛けて細身の刃を繰り出す。同じ姿勢、同じ速度で繰り出された一撃は、互いに火花を散らして脇へと反れた。二人は剣を握り直すと、舞踏会のように足を差し合い、刃をぶつけ合う。ディヴァンスは鍔迫り合いしながら頬を緩める。
「剣の鋭さは変わらないな。戦いが終わって久しいが、腕は未だ鈍っていないようだ」
「蒼玉を受け継いだ者として、臣下領民の鑑たるべし。それは剣の腕とて例外ではありません。今も時間がある時には剣を取るようにしています」
シルヴィアは鋭く三度剣を突き出す。
「お祖父様が生きていれば、きっと私にもそう説いたでしょうから」
ディヴァンスは彼女の剣を流れるような足さばきで捌き切り、眼を細めた。
「……アルヴィンが聞けば喜ぶだろうな」
かつて親友を喪い、己も仇の毒に脅かされシルヴィアに酷な仕打ちをしたこともあった。それ故に己自身の進むべき道を見出し、また変わらず尊敬の念を抱いてくれる彼女に、ディヴァンスは少なからず救われていた。
「変わらず精が出るわね、シルヴィア」
落ち着き払った声色。その口調の端々にも美が行き届いている。二人が剣を交える手を止めて振り返ると、イザベラが中庭に出てくるところだった。身なりは簡素な訓練服だが、彼女の気品を損ないはしない。
「お祖母様、その御恰好は?」
「シルヴィアや皆のお陰で少し時間が出来たのよ。だから稽古をつけて貰おうと思って」
側の従者から細身の訓練用剣を受け取るイザベラ。その背後からまた一人、赤髪の偉丈夫がやってくる。
「イザベラ様も熱心な事で。せっかく出来た余暇なんですから、ゆっくりすればよいものを」
偉丈夫――ジェレムス・ローギリアンは肩を竦める。イザベラは柔らかな笑みを浮かべた。
「今まで時間を忘れて責務を果たしてきたからこそ、こうして若くいられたと思うの。今更無聊を持て余していたら、あっという間に老け込んでしまう気がして」
「イザベラ様がそう仰るのなら、こちらも協力は惜しみませんがね」
ジェレムスはその場で腰を落とし、肩を捻って筋を伸ばす。
「して、如何様な稽古をお望みですか。やり方はそちらにお任せしますよ」
「あら、お優しいこと。ではどうしようかしら」
イザベラは片手を頬に寄せてわざとらしく考え込む。ディヴァンスはそんな知己を見遣って苦笑した。
「油断しない方が身のためだぞ、ジェレムス。彼女を何者と心得る。蒼玉の舵取りを一手に担ってきた女傑だぞ」
「そうは言ってもな、俺もこれで王国騎士なんだ。つい最近剣を取るようになった方と本気で組み合うわけにもいかないだろうよ。……こればかりは私の矜持でもあります故、どうかご容赦を」
ジェレムスはイザベラへ恭しく頭を垂れる。そのお陰で、彼女の瞳がほんの僅か、悪戯っぽく光った事に気付けない。
「そうね。なら貴方の好意に甘えて……鬼ごっこにでもしようかしら」
「鬼ごっこ?」
「私が享けたのはシーフの権能。正面からの切り合いとなってはウォーリアたる貴方に敵いやしない。でも、足の速さなら面白い勝負にならないかしら?」
「成程。悪くない試みだ」
ディヴァンスはジェレムスとイザベラを見比べ頷く。イザベラは彼に目配せした。
「でしょう。ディヴァンス、貴方達も混ざらない?」
「ふむ……」
彼は弟子を一瞥する。シルヴィアは切っ先こそ下ろしているが、剣気は未だ満ちている。久方振りに師弟で組み合う機会。それをふいにしてしまうのも惜しい気がした。
「なら、我々はこのまま組手を続けよう。勝った者が望む側に味方するというのはどうか」
「異論ありません。変わらず全力で組ませて頂きます」
シルヴィアは唇を結んで剣を構え直す。ジェレムスは一頻り二人の組手を眺め、イザベラへと再び向き直った。
「それでは、しばらく私とイザベラ様が一対一で追いかけっこということになりますな」
「ええ。十数えるうちに貴方がこの城の中を逃げて、それから私が追いかけて貴方を捕まえる。給仕が紅茶を淹れてくるまでの十分間逃げきれれば貴方の勝ち。逆は言うまでもないわね?」
立て板に水を流すように条件を並べるイザベラ。彼女が中庭の隅に待機する給仕に視線を送ると、給仕はいそいそと中へ引っ込んでいった。
「あと……ただ追いかけっこをするだけというのも面白みに欠けるわね。もし私がジェレムスを捕まえられたら、今度の夜会で私の知り合いの気立ての良いお嬢さんと踊ってね」
「それでイザベラ様の興が乗るのでしたら喜んで」
二つ返事するジェレムス。イザベラの政治的な手腕がいかに卓越していると言っても、授恵者としての鍛錬を始めてからは日が浅い。万一にも負けるとは思えなかった。
「あくまで逃げてもいいのは城とこの中庭だけ。いいかしら」
「ええ。では始めますよ」
ジェレムスは軽く屈伸してから城の中へと飛び込んだ。最初はお手並み拝見、いつでも全力疾走できるように足を温めながら廊下をゆっくり周回する。すると、軽やかな足音が背後から迫ってきた。振り返ると、イザベラが風のような足取りでジェレムス目掛けて突っ込んでくるところだった。今年で齢六十五になるとは思えない足取り。ただでさえやたらと若作りだが、授恵者になって一層拍車がかかっている。ジェレムスも一気に足を速め、大広間へと向かった。
「簡単には振り切れそうにありませんな。ですが……」
大広間へと踏み込んだジェレムス。ちょうど大広間は掃除中。モップを手にした使用人達が掃除に取り掛かっているところだった。ジェレムスはわざとそんな使用人達の間を突っ切り、イザベラを振り切ろうとする。
「さあ、如何にいたしますか」
得意げに振り返ったジェレムスだったが、彼が目の当たりにしたのは大広間の柱を蹴って軽やかに跳び、彼の眼前まで迫るイザベラの姿だった。
「侮られたものね」
イザベラは鋭く手を突き出す。ジェレムスは咄嗟にその身を捻ってその手を避け、脚にエーテルをみなぎらせて一気に石畳を蹴る。強引に加速して間合いを取り直したジェレムスは、階段を駆け上ってイザベラを引き離そうとする。
「これはこれは! どうやら私は随分と意地の悪い事をされているかもしれませんな!」
ジェレムスは二階の廊下に繋がる扉を力任せに締め切ると、再び加速し廊下の端まで一気に辿り着く。振り返るとイザベラの姿はない。
(イザベラ様も恐ろしい方だ。まだ隠す爪があったなんて)
彼は真っ直ぐ三階へ続く階段を駆け上ると、そのまま彼が最も信頼する部屋へと飛び込んだ。
「また何だか騒がしくなったな。何をしている?」
エクスリオ・カペル。当代蒼玉侯の後見人。彼は羽根ペンをインク壺に浸すと、息を切らした親友を出迎える。
「イザベラ様とかけっこさ。負ける理由もねえと思って二つ返事で引き受けたら、案外……脚が速くて」
「ジェレムスともあろうものが相手の実力を測り間違ったか。シルヴィアが結婚してから向こう、すっかり気が抜けてるんじゃないか」
エクスリオは戸棚から酒瓶を一本取り出す。シャルガネから取り寄せた白米酒だ。小机のグラスに並々注いでやると、ジェレムスはしかめ面でグラスを呷る。
「んなことはない。イザベラ様の爪が多すぎるだけだ。……リオの方は相変わらず忙しそうだな? 嫁御も今日は実家に帰ってるんだったか」
「ああ。彼女の家も集権派への合流を検討しているところだ。アスター家の血縁で集権派にいる彼女が橋渡し役としてこれ以上なく適任というわけだよ」
「成程な。いよいよ世の中が変わるんだな、って気がしてくるよ」
「いずれはこの辺りの仕事もシルヴィア達に任せるつもりだ。外交こそ政治の基礎で、最も難しい所だが……二人なら上手くやるだろう」
「お手並み拝見だな」
ジェレムスは肩を竦める。シルヴィアの心を手に入れた婿殿に対して、彼は妙に刺々しい。まるで自分の娘が嫁に行ってしまったかのようだ。エクスリオはくすりと笑う。
「君も婿殿を認めていないわけではないはずだ。まだシルヴィアが自分の手を離れてしまったのが寂しいのかい?」
「別にそんなんじゃねえや」
口を尖らせ立ち上がるジェレムス。エクスリオはそれに合わせて指を鳴らす。扉に取り付けられていた紋具は反応し、いきなり扉に鍵をかけてしまった。
「……おい、リオ! 何してる!」
ジェレムスがはっとして振り返ると、エクスリオは面白そうに笑みを浮かべた。
「おいおい、君は自分で教えてくれたじゃないか。当家に無二の政治家を相手にしているんだって。君と母上がどんな稽古をするか、聞いていないとでも思ったかな」
エクスリオの柔らかな笑みを見て、ようやくジェレムスは事態を察した。彼はグラスに注がれた清酒を一気に飲み干すと、げんなりと溜め息をついた。
「もしかすると……稽古をつけられていたのは俺の方だったか?」
「母上らしいやり方だろうに」
鍵のかかった扉がこんこんと鳴る。振り返ったジェレムスは顔をしかめた。
「ええい、こっちにだって意地がある。降参なんていくもんかよ」
ジェレムスは窓目掛けて駆け出した。大きく窓を開け放ち、彼は迷わず飛び降りる。彼は下の階の窓の縁を掴み、そのまま開け放たれた部屋へと潜り込む。エクスリオは窓から身を乗り出し、そんな彼の姿を見下ろす。
「……これからは戦場の計略ばかりじゃいられないかもしれないな」
エクスリオが扉の鍵を外すと、入ってきたのは茶菓子を持ってきた給仕だった。
下階に活路を見出し、窓から二階の客間に飛び降りたジェレムス。しかし、そんな彼の目の前には既にイザベラが待ち構えていた。その手を確かに掴んで、イザベラは得意げに目を細める。
「やはり油断したでしょう、ジェレムス。貴方がどう動くか、手に取るようにわかったわ」
「返す言葉もありませんな」
ジェレムスは床にどっかりと腰を下ろし、頬杖ついて口を尖らせる。部屋の扉が開いて、シルヴィアとディヴァンスがやってくる。シルヴィアを一瞥したジェレムスは、一層眉間に皺を寄せてその身を縮める。すっかり勝負が決してしまった事を悟ったシルヴィアは、そっと肩を落とす。
「これは……私達が加勢するよりも先に決着がついてしまったのですね」
「お嬢。これは恥ずかしいとこを見せたもんで」
ジェレムスはバツが悪そうに頭を掻く。イザベラはくすりと笑い、種明かしを始めた。
「独力で成し遂げられることは少ないの。裏を返せば、他人の協力を得て、良き時流を見極めることが出来れば、個人の力量の差は幾らでもひっくり返せるということ。だから今回、私は事前にエクスリオの協力を取り付けて、シルヴィアがディヴァンスと稽古しているところを狙って貴方に勝負を挑んだのよ。貴方の事を頼りにしているシルヴィアなら、貴方の味方をしてしまうでしょうから」
「成程。私に勝つための準備は一通り済ませておいた、というわけですか。流石のお手並みです」
ジェレムスはうなだれる。蒼玉の流儀に学び、勝利は兵を動かす前に定まるという信念で戦略を組み上げてきたジェレムスだったが、さすがに本家本元の手前には敵わない。イザベラはそんな落ち込んでいるジェレムスに手を差し伸べた。
「さて、色々根回ししてしまったけれど私の勝ちは勝ちよ。先に言った約束の件は憶えているかしらね?」
「やれやれ……憶えておりますとも」
ジェレムスは恭しくイザベラの手を取って立ち上がる。彼は気取らずへらりと笑った。
「しかし私の年頃も考えて頂きたい。私はもう夜会で令嬢と踊るような歳ではないし、私などの相手をさせられるお嬢様もかわいそうだ」
「もちろん無理強いはしないわ。少し揶揄ってみようと思っただけよ。まあでも――」
実の息子のように接してきたジェレムスの、その子供の顔も見てみたい。そう言いかけた時、ジェレムスは手を掲げてイザベラの言葉を制した。
「いや、皆まで仰られますな。……まあ一本取られてしまったのは事実。約束を果たさぬのもまた騎士の名折れ。次の夜会では精一杯に踊らせていただきますよ」
「そう? じゃあ……心当たりあるところに声をかけておくわね」
「ええ。よろしくお願いします。お嬢。少し踊りについて手ほどきしてくれ」
ジェレムスはイザベラに深々頭を下げると、そのままシルヴィアへと向き直る。意外な申し出に、シルヴィアは思わず目を白黒させる。
「踊りを、ですか?」
「ああ。今までこの時分には関係ない事と思って踊りの稽古なんてしてこなかったからな。男の俺が下手を晒したら付き合ってくれたお嬢さんにまで恥をかかせるからな。やるからには万全にしとかねえとな」
ジェレムスが目配せする。シルヴィアは無意識のうちに口端が綻んでいた。お兄さんのような存在として、ずっと頼りにしてきた。些細な事でも、そんな兄貴分に頼られるのは嬉しいものだ。シルヴィアは目を細めて頷いた。
「わかりました。喜んで指南致します」
かくして、今日の稽古は未だ衰えるところを知らないイザベラがジェレムスをやり込める形で終幕した。夜会でジェレムスが娘御を相手にして踊ることなど滅多になく、その理由はイザベラとの稽古に負けたからというのだから、女傑の底知れなさを誰もが思い知ることになった。
負けてしまった当人や、新たな当主として人生の晴れ舞台に立ったシルヴィアもまた、偉大な先達と同じ高みに至るにはこれからも修練せねばならぬと痛感した。
大きな苦難を乗り越えて後、人はしばしばその達成感と安心感に浴し、穏やかな現状に満足して凡庸に時を過ごしてしまうきらいがある。
そんな平和な時代にあってなお、蒼玉の一族とそれを支える臣下達は、互いに尊敬を失わぬよう研鑽を続ける。
その不断の努力が、これから先も王国を守り導く宝玉としてカペル家を輝かせるのであった。
磨かれ輝く蒼玉 終わり