月が綺麗な夜だから
キャラクターノベル(グループ)制作 紀藤トキ納品 2022年10月22日 16時34分57秒
●いつかの遠い未来にも
ナハシュの気まぐれさは、どこか猫に似ている。少し前までケラケラ笑いながら子供たちの相手をしていたかと思えば、ヨル・スレイマンが食器を片付けている間にふらっと姿を消した。気配を探れば、屋根の上に1人。
「……ああ。今日は飲み足りなかっただろうしな」
人懐っこく話す時もあれば、孤独に浸りたい時もある、気分屋の青年だ。ヨルは夕食の後片付けを終え、子供たちが寝床に引っ込むのを見届けてから、屋根の上へ向かった。
「ほら、まだ飲み足りないだろ、君」
「ん? ああ。そうだなあ」
つまみの乗った皿を置けば、顔も向けずに生返事が返る。その構ってくれるなと言う気配を、ヨルは慣れた顔でするりと潜り抜けた。胡坐を掻くナハシュから少し離れた軒先の縁に、片膝立てて座り込む。夜も更けて街の灯りも減り、スラムの一角にしては人の気配も絶えた時間。誰も住まない自然の只中には及ばないにせよ、なかなかの星降るような夜だ。南天、大きく月が白々と辺りを照らし、耳をすませば遠くで虫の音が聞こえた。
「俺もここで飲んで構わないかな」
振り返り問えば、ナハシュの肌が月明かりに照らされている。日の下で見るのとはまた違う、艶やかな風合いにヨルは目を細めた。
「あ? 勝手にすりゃいいだろうが。でもなあ、今日は潰れない程度にしろよ……って、ニヤニヤしやがって、何が嬉しいんだか」
「嬉しいよ。だって君、日頃は一人で星見するだろ」
ヨルはもう、ヒューマンの寿命の折り返しを過ぎた。笑った目じりには今もうっすら皺が出来ているだろう、やがては肌もくすんでくるに違いない。屋根に上ってこうして空を見上げ、まだ彼の相棒として並んでいられるのは後どれくらいだろうか。そんな事を思うヨルに、ナハシュは『また何やら辛気臭く考え込んでいやがるな』とだけ思考を向けてから、空を見上げた。
「……今日は星見っていうより、月見だなぁ。でかい顔しやがって」
「そう言うなよ。綺麗な月じゃないか」
悪態をつくナハシュも、今宵の月を心底嫌っている訳ではない。ただ、何かに文句を言いたかっただけなのだ。ぶつくさ言いつつ杯を干すナハシュに苦笑を返し、ヨルも夜空へ向き直った。あの白い月は、どこかの国の誰かが言うには夜の女王だという。最近、ヨルが時々通うようになったパンクリアース学園には、いろいろな講座があった。「100年前にどこの国で誰が何をした」だの「月は星よりも近いから大きく見える」だの、食べていくには何の意味もない無駄な知識が増えていくのが、案外楽しい。ヨル以上に文化から程遠い生き方をしていたナハシュも、気が向いたら学園に出入りしているのは、意外なような嬉しいような。あるいは、ナハシュもヨルが興味を持ったのと同じ書物を読んでいたりもするのだろうか。きっとそんな偶然はないだろうけれど。
「……そういえば、どこかの偉い先生が『月が綺麗ですね』っていう話。聞いた事あるかい」
「月が綺麗ですって? 満月が綺麗なのは当たり前だろうに」
試しに、ヨルが頭に浮かんだ事を聞いてみれば、呆れた様子でそんな事を言う。残念なような、ほっとしたような気持で自分も杯を干せば、さっきよりも月が大きくなったような気がした。少し酔いが回ったのかもしれない。
「ま、そうだなぁ。こんだけ綺麗なら……、死んでもいいかもしれねぇな」
何気ない口調で続いた言葉に、ヨルの心臓が跳ねる。月が綺麗だと当たり前に言うナハシュの中で、死んでも良いというのもきっと当たり前に出た感情なのだ。決して、ヨルが思い浮かべた逸話を知っている筈など無いのだけれど。もう一度、屋根の縁から見上げればさっきと変わらない顔、変わらない姿勢で夜空を見上げている。
「……あはは、それは少し月に妬いてしまいそうだ。死んでもいいかも、なんて。……言葉の意味もわからないくせにさ」
「ああ? 何言ってるんだ、お前」
案の定、怪訝な顔をするナハシュに頭を振って、ヨルは再び白い月を見上げる。このまま酔い潰れたとしても、こんなおかしな勘違いをした事は、きっと忘れられないだろうなと彼は思った。
●月夜に死を思う
ナハシュの知る『死』は誰にでもいつか訪れるものだ。彼の心の中で平等という言葉がもしも形になるのならば、きっとそれは死神の顔をしている。しかし、人の死にざまが平等ではない事も、ナハシュは熟知していた。静かで孤独の中にひっそりと消えていった死体も見た事があるし、騒々しい酒場の裏で吐瀉物に沈んだ死体も見た事がある。満足して死んでいった奴もいれば、突然やってきた死に嘆いていた奴もいた。
(いつか必ず訪れるその時を、もしも好きに選べるっていうなら……。こんな日も悪くないだろうよ)
ここに流れ着く前、一人で酒を飲むときはいつも気を張っていた。暢気に空を見上げて星を見て、などという平和な飲み方を楽しめるようになったのは、ここ最近になってからだ。背中に気を付けずにだらけて居られる場所、寝首を掻かれてもまあしょうがないと許せるような相手。いつの間にか手に入っていたそれを家や家族と言うのならば、そうなのだろうか。
――あるいはこんな風に静かに酒を飲んでいる時に、死が訪れるなら構わない。そこに一人位は飲み仲間がいても、まあ許せないこともない。ナハシュの言葉はこの上なく素直な心情の吐露だったのだが。
「アイツも、何をとち狂ったんだか……。何が愛だ」
ナハシュはこれでも最近は勉強とやらにも手を出してみたし、それ以前からもその辺で交わされる何気ない会話にも耳を澄ませて来た。愛と言うのは、女が男と金を取らずに繋がる時に持っている感情であったり、ちゃんとした家族で親が子供に向ける感情のことだろうと、ナハシュも知ってはいる。いくら自分が世の中からはぐれたゴブリンとはいえ、空に浮かぶ月に愛を囁くほどイカれていると思われたのは、いささか不本意ではあった。しかし、ならば自分は愛とやらを誰に向けるのかと言われれば、自分でもトンと見当がつかない。
(あのガキども……は、なんか違うよなあ)
学園で読んだ絵のついた本によれば、子供を愛する親と言うのは自分の食い扶持を削って子供にやるものらしいが、ナハシュはその気持ちが理解できない。屋根裏の子供たちと出会った時に、施してやったのはこちらがたまたまそういう気分だったからだ。最近は役に立つから食わせてやっている。そこに愛などという物は多分ない。……とまで、はっきり考えてはいないのだけれど、『それが愛だ』と言われれば、そこはかとなく違和感があった。
「目が覚めたら、聞いてみてもいいんだが。でも、寝落ちる前の事は覚えてないんだよなあ」
屋根からずり落ちそうになっていたヨルを引っ張り上げると、まだ酔っていないなどと戯言を抜かす。多分、明日になれば何も覚えていないのだ。愛がどうのと口にしたどころか、下手したら、屋根に上がって夜空を見上げた事すら忘れているかもしれない。
「人が飲んでる所に勝手に来て、勝手に酔い潰れて、面倒な奴だ」
それでも、またこういう機会があったならば。きっとヨルはさっさと割り込んでから、口先だけ遠慮がちに同席を請う。自分はそれに、勝手にすればいいと答えるのだろう。ナハシュが思う未来は、そんな単純さに満ちていた。
ナハシュの気まぐれさは、どこか猫に似ている。少し前までケラケラ笑いながら子供たちの相手をしていたかと思えば、ヨル・スレイマンが食器を片付けている間にふらっと姿を消した。気配を探れば、屋根の上に1人。
「……ああ。今日は飲み足りなかっただろうしな」
人懐っこく話す時もあれば、孤独に浸りたい時もある、気分屋の青年だ。ヨルは夕食の後片付けを終え、子供たちが寝床に引っ込むのを見届けてから、屋根の上へ向かった。
「ほら、まだ飲み足りないだろ、君」
「ん? ああ。そうだなあ」
つまみの乗った皿を置けば、顔も向けずに生返事が返る。その構ってくれるなと言う気配を、ヨルは慣れた顔でするりと潜り抜けた。胡坐を掻くナハシュから少し離れた軒先の縁に、片膝立てて座り込む。夜も更けて街の灯りも減り、スラムの一角にしては人の気配も絶えた時間。誰も住まない自然の只中には及ばないにせよ、なかなかの星降るような夜だ。南天、大きく月が白々と辺りを照らし、耳をすませば遠くで虫の音が聞こえた。
「俺もここで飲んで構わないかな」
振り返り問えば、ナハシュの肌が月明かりに照らされている。日の下で見るのとはまた違う、艶やかな風合いにヨルは目を細めた。
「あ? 勝手にすりゃいいだろうが。でもなあ、今日は潰れない程度にしろよ……って、ニヤニヤしやがって、何が嬉しいんだか」
「嬉しいよ。だって君、日頃は一人で星見するだろ」
ヨルはもう、ヒューマンの寿命の折り返しを過ぎた。笑った目じりには今もうっすら皺が出来ているだろう、やがては肌もくすんでくるに違いない。屋根に上ってこうして空を見上げ、まだ彼の相棒として並んでいられるのは後どれくらいだろうか。そんな事を思うヨルに、ナハシュは『また何やら辛気臭く考え込んでいやがるな』とだけ思考を向けてから、空を見上げた。
「……今日は星見っていうより、月見だなぁ。でかい顔しやがって」
「そう言うなよ。綺麗な月じゃないか」
悪態をつくナハシュも、今宵の月を心底嫌っている訳ではない。ただ、何かに文句を言いたかっただけなのだ。ぶつくさ言いつつ杯を干すナハシュに苦笑を返し、ヨルも夜空へ向き直った。あの白い月は、どこかの国の誰かが言うには夜の女王だという。最近、ヨルが時々通うようになったパンクリアース学園には、いろいろな講座があった。「100年前にどこの国で誰が何をした」だの「月は星よりも近いから大きく見える」だの、食べていくには何の意味もない無駄な知識が増えていくのが、案外楽しい。ヨル以上に文化から程遠い生き方をしていたナハシュも、気が向いたら学園に出入りしているのは、意外なような嬉しいような。あるいは、ナハシュもヨルが興味を持ったのと同じ書物を読んでいたりもするのだろうか。きっとそんな偶然はないだろうけれど。
「……そういえば、どこかの偉い先生が『月が綺麗ですね』っていう話。聞いた事あるかい」
「月が綺麗ですって? 満月が綺麗なのは当たり前だろうに」
試しに、ヨルが頭に浮かんだ事を聞いてみれば、呆れた様子でそんな事を言う。残念なような、ほっとしたような気持で自分も杯を干せば、さっきよりも月が大きくなったような気がした。少し酔いが回ったのかもしれない。
「ま、そうだなぁ。こんだけ綺麗なら……、死んでもいいかもしれねぇな」
何気ない口調で続いた言葉に、ヨルの心臓が跳ねる。月が綺麗だと当たり前に言うナハシュの中で、死んでも良いというのもきっと当たり前に出た感情なのだ。決して、ヨルが思い浮かべた逸話を知っている筈など無いのだけれど。もう一度、屋根の縁から見上げればさっきと変わらない顔、変わらない姿勢で夜空を見上げている。
「……あはは、それは少し月に妬いてしまいそうだ。死んでもいいかも、なんて。……言葉の意味もわからないくせにさ」
「ああ? 何言ってるんだ、お前」
案の定、怪訝な顔をするナハシュに頭を振って、ヨルは再び白い月を見上げる。このまま酔い潰れたとしても、こんなおかしな勘違いをした事は、きっと忘れられないだろうなと彼は思った。
●月夜に死を思う
ナハシュの知る『死』は誰にでもいつか訪れるものだ。彼の心の中で平等という言葉がもしも形になるのならば、きっとそれは死神の顔をしている。しかし、人の死にざまが平等ではない事も、ナハシュは熟知していた。静かで孤独の中にひっそりと消えていった死体も見た事があるし、騒々しい酒場の裏で吐瀉物に沈んだ死体も見た事がある。満足して死んでいった奴もいれば、突然やってきた死に嘆いていた奴もいた。
(いつか必ず訪れるその時を、もしも好きに選べるっていうなら……。こんな日も悪くないだろうよ)
ここに流れ着く前、一人で酒を飲むときはいつも気を張っていた。暢気に空を見上げて星を見て、などという平和な飲み方を楽しめるようになったのは、ここ最近になってからだ。背中に気を付けずにだらけて居られる場所、寝首を掻かれてもまあしょうがないと許せるような相手。いつの間にか手に入っていたそれを家や家族と言うのならば、そうなのだろうか。
――あるいはこんな風に静かに酒を飲んでいる時に、死が訪れるなら構わない。そこに一人位は飲み仲間がいても、まあ許せないこともない。ナハシュの言葉はこの上なく素直な心情の吐露だったのだが。
「アイツも、何をとち狂ったんだか……。何が愛だ」
ナハシュはこれでも最近は勉強とやらにも手を出してみたし、それ以前からもその辺で交わされる何気ない会話にも耳を澄ませて来た。愛と言うのは、女が男と金を取らずに繋がる時に持っている感情であったり、ちゃんとした家族で親が子供に向ける感情のことだろうと、ナハシュも知ってはいる。いくら自分が世の中からはぐれたゴブリンとはいえ、空に浮かぶ月に愛を囁くほどイカれていると思われたのは、いささか不本意ではあった。しかし、ならば自分は愛とやらを誰に向けるのかと言われれば、自分でもトンと見当がつかない。
(あのガキども……は、なんか違うよなあ)
学園で読んだ絵のついた本によれば、子供を愛する親と言うのは自分の食い扶持を削って子供にやるものらしいが、ナハシュはその気持ちが理解できない。屋根裏の子供たちと出会った時に、施してやったのはこちらがたまたまそういう気分だったからだ。最近は役に立つから食わせてやっている。そこに愛などという物は多分ない。……とまで、はっきり考えてはいないのだけれど、『それが愛だ』と言われれば、そこはかとなく違和感があった。
「目が覚めたら、聞いてみてもいいんだが。でも、寝落ちる前の事は覚えてないんだよなあ」
屋根からずり落ちそうになっていたヨルを引っ張り上げると、まだ酔っていないなどと戯言を抜かす。多分、明日になれば何も覚えていないのだ。愛がどうのと口にしたどころか、下手したら、屋根に上がって夜空を見上げた事すら忘れているかもしれない。
「人が飲んでる所に勝手に来て、勝手に酔い潰れて、面倒な奴だ」
それでも、またこういう機会があったならば。きっとヨルはさっさと割り込んでから、口先だけ遠慮がちに同席を請う。自分はそれに、勝手にすればいいと答えるのだろう。ナハシュが思う未来は、そんな単純さに満ちていた。