薔薇と琥珀の喜び
キャラクターノベル(グループ)制作 蔭沢 菫納品 2024年09月17日 13時18分37秒
琥珀のワインは、フィルエス大森林を。
薔薇色のワインはカペル領を。
これらはカペル侯シルヴィア・A・カペルの発案であった。フィルエス大森林の恵みとリーンエス王国の文化が合わさって、馥郁とした香りを醸し出す……。
これは、そんな二色のワインにまつわるエピソード。
初夏の薔薇が鮮やかな香りを風に乗せる中、一人の洒落男が行く。道を幾つか曲がり、風に揺れるあかがねと七宝の看板を見つければ、そこが今日の会場。店の入り口を守っているつもりだろうか。大柄で太った猫が、灰色の尾をぴん、と立てて来訪者を見る。月は甘い光と共に空にたゆたい、気付けば心地よい夜だ。
『虹薔薇亭』は王都にある酒場である。心温まる素朴な佇まいの――口さがない者は田舎っぽいというが――その建物は、目抜き通りから外れ、かなり奥まったところにある。お忍びの貴族が愛用する、隠れ家めいた酒場。それが『虹薔薇亭』であった。
――商人としては、オフ。
アーダベルト商会の重役商人であるルース・アーダベルトは、今日は休み。ヴィナスはそんなことを思いながら、酒場の扉を開いた。二種のワインのことを思う。記念日のためのワイン。結婚十周年のお祝いに、プロポーズに――。特別な贈り物のためにも作られたワイン達は、今日がお披露目だ。
扉に手をかける。楽しんでこい、といいたいのか、灰猫がなぁ、と鳴いた。
ディヴァンス・ファルヴェントは持ち込まれたワインと料理のリストを女将に渡しているところであった。窓の外に浮かぶ月は白ワインを思わせる色合い。もしくは今日のような集まりならば、上質なチーズだろうか。
「大変な量ですねえ。結婚式かしら」
冗談めかして語りかける女将。初老でありながらも若々しさを瞳に保った、優雅な婦人であった。彼女の趣味をいかして飾り付けられた店内は、田園風の趣がある品の良いサロン、といった風合い。小姓達が彫刻で飾られた木製のテーブルに、テキパキと料理を並べていく。
「どちらかといえば、誕生会といった方が正しいな」
「ワインの?」
いきさつを聞かされていた女将は、扇を広げて笑みを隠す。
「ええ、ワインの」
「佳い夜になりますよう、一同務めますので……アンセイス、厨房の彼はどんな感じかしら? そろそろお客様がいらっしゃってる、と伝言を」
指示を飛ばしながら女将が見た入り口は、今まさに、チリンというベルの音と共に開こうとしていて――。
エル=バ=ノイアンは調理を見ていた。女将と料理長が譲らなかったため、全てには関わらなかったが、メニュー全体や、味付けや盛り付けについての注文は多く行った。
野鳥と野菜のパイ包みは、今まさにオーブンの中で焼かれている。やがて、バターと肉の旨み溢れる甘い香りが厨房を満たすことだろう。若いパイ係が気も早く、どんなものだ、と言いたげな表情を浮かべている。一方、慎重に出汁とクリームを足されながら炊かれているのは魚介のリゾット。海老やイカに白ブドウのコクある香りがいかにも食欲を誘う。
ノイアンはハーブソルトで炒ったナッツを一つ口に入れる。程よい塩気になったそれは、酒のつまみに丁度いい。
と、一人の小姓がぱたぱたとやってくる。
「ノイアン様、そろそろお客様方が――」
ロイ・アウレアとテス・アウレアは、パートナー同士の親しさを込めて、店の中へ入る。カウンターの奥からチラリと見えた黒髪は、ノイアンのものだろうか? では、その闊達な伴侶、シルヴィア・A・カペルは――。店内を見回せば、まだ空のワイングラスを眺めながら、シルヴィアが楽しげに客を待っていた。その横では、生真面目な表情でディヴァンス・ファルヴェントと話し合っているイズレンディル・パラリムがいる。少し離れたところにいるヴィナスが、楽器の調弦をしながら時折気の利いた言葉を投げかけている。
「いかにも楽しげだね、テス」
話しかければ、愛妻にして師である銀髪の伴侶は、柔らかい表情に茶目っ気溢れる笑みを浮かべて、ロイの手を引いた。
「お久しぶり……だね」
テスの声を聞けば、シルヴィアは立ち上がり、
「ロイお兄さま、テスお兄さま! 久しぶり!」
と闊達な調子で駆け寄り、二人を抱きしめる。シルヴィアの格好は貴族然としたものではなく、いわゆる冒険者的な気楽な格好であった。それをいえばここにいる面々も皆、冒険者としての立場で来ているため、あまり格式張った格好はしていない。
「やあ、最後かな、シルヴィ。待たせてすまないね」
最後にやってきたのは吟遊詩人風の男だ。
シルヴィアは「キオ」と短く呼びかけ、今度は彼のもとへと行く。
「大丈夫だよ、前菜を持ってきてもらうね」
さあ、座って、と促すシルヴィア。『虹薔薇亭』の女将は、その様子を見て厨房の方へと移動していった。
冷えたハムとテリーヌ、とろける白と青のチーズにはイズレンディルの持ってきた、パラリム氏族のブドウを併せて。サラダには大粒の貝とほぐした魚。軽い泡ワインと共に、前菜を食べながら、皆は話す。
「ノイアンさんはまだ厨房に? 結婚のお祝いをするはずでしたが、片方いないのは問題ですよ」
イズレンディルは困ったように首を傾げる。シルヴィアはカウンターの方を向く。ワインを用意しているノイアンと目が合った。
「カウンター内にいたいみたいで」
「家事の得意な夫、というわけですか。頼もしいことです」
カウンター内で皆の会話に耳を傾けていたノイアンは、もう少し、という風に仕草をしてから、厨房に引っ込んだ。
それから、しばらくして熱々の料理がやってくる。
「わあ、すごい!」
テスの歓声。
やってきたのは温かい湯気を浮かべた魚介のリゾットと、黄金色に輝く野鳥と野菜のパイ包み。どちらもいかにもおいしそうです、という見た目と香りをしている。
「これは、いかにもここの女将さんに似合う、愛情と包容力を兼ね備えた料理だね」
キオルティスが皆の分を切り分けながら、女将をチラリと見る。
「では、主菜が来たところで、乾杯の時間かな」
ヴィナスが薔薇色のワインを持つ。その言葉にシルヴィアは頷いた。
ここに二種のワインがある。
大森林の琥珀――大森林をイメージしたアンバーワイン。
ラベルは薔薇モチーフの飾り窓を中心として、大森林の中で小鳥や小動物が遊ぶ風景が描かれている。
花領の薔薇――カペルをイメージしたロゼワイン。
ラベルは木々に小鳥や小動物をあしらった飾り窓を中心として、花と湖に囲まれたカペルの風景が、描かれている。
「やっと、ワインが出来上がったんだね」
感慨深くシルヴィアがオレンジがかった琥珀色のワインを手に取り、香りを楽しむ。
ここにいるのは、これら二種の合作ワイン、その立ち上げに関わったメンバーだ。フィルエス大森林の恵みをリーンエス王国の職人の力を借りながら作った、とっておきのワイン。相互交流と、経済的な結びつきのための、架け橋。エルフ達が外界と関わりを持つための……。シルヴィアは目を閉じた。
「ここまで来るのに長い道のりがあった。大森林にいるエルフとの交流もこれからもっと必要になるし、カペル領の職人達とエルフの関係もゆっくり熟成させていかなければならないよね。勿論流通も、評判も……」
立ち上がり、語るシルヴィア。
「だけど、今日はここまでこぎ着けたことと、やっと手にした平和な日々に乾杯を」
乾杯、と八人の声が重なる。
キオルティスは二つのワインのラベルをじっくり眺めてから、グラスに注いだそれらの色と香りを楽しむ。
ワイン作りに奔走した日々は大変であったが、鮮やかな思い出となって、キオルティスの目の前に浮かび上がる。
一口、味わえば、吟遊詩人はおいしい、と呟いて、感想を述べ始める。
「森の佳人、といった雰囲気だね。オレンジの花を髪に飾った、榛色の髪の乙女だ。でも、甘い声で囁くのではない。しっかりとした気質で、ウィットもある」
「フルーティでスパイシー、といったところか」
「そして、甘く見ると結構強い」
キオルティスが大森林の琥珀を女性に例えれば、ヴィナスがそれを書き留める。どうやら、販売の参考にするらしい。
「では、花領の薔薇は?」
ディヴァンスが問う。手元に揺れる薄紅色は、いかにも華やかだ。
「かわいらしい娘だ。ベリーの籠を持った、リーンエスの貴族令嬢。少々おてんばなところもあるが、花開けば、色気を纏ったレディになる」
「ベリー系で軽やかな酸味があり、時間の変化でゆっくり味が変わっていくタイプ、と」
「ご明察」
ディヴァンスの言葉にキオルティスは頷いた。
テスは目を閉じる。蘇るのは、大森林にたわわと実ったブドウの姿そして、歓声。カペルの逸品を作ろうと努力した皆が報われたことに、微笑みを浮かべる。
(思い出を閉じ込めたような味だね)
横ではロイが鼻と喉でワインを味わいながらゆっくりと身をテスに傾ける。
「間違いなくおいしい」
感慨深く告げるロイの笑顔は、最高のもので――その向けられた先は、勿論最愛のテスであった。
「改めて、結婚おめでとうございます、シルヴィアさん、ノイアンさん」
イズレンディルが来たとき、夫婦は仲睦まじく酒を飲み、古い冒険の話をしていたが――やがて友人の姿に目を細めた。
「果物、おいしかった。流石、パラリム氏族のブドウだな」
ノイアンが感謝を述べれば、イズレンディルは感謝の意を示し、
「ありがとうございます。折角なので、材料の果物も味わってもらいたい、と思いまして……最近、いかがですか?」
そう、問う。
「家を継いでから忙しくなったけど、充実しているよ」
そしてシルヴィアはカペルや王都、パンクリアース学園の話をする。
「北方や大森林の様子はどうかな」
イズレンディルは北方辺境伯外交官として各地に赴き、大森林や学園に顔を出す日々を送っていた。そのため、各地の噂は幾つも耳にしている。会える頻度の少なった友人には聞きたいことが沢山あった。シルヴィア達もそうなのだろう、ノイアンとシルヴィアが交互に各地の質問をしてくる様が、かわいらしく、関係に心温まる。
「冒険者になる前から大森林のために各地を回っていましたが、今は世界のため、といったところでしょうか」
イズレンディルは冒険者としての日々を思い出す。そして、今の生活を思う。冒険者になってから知ることは更に増え、今もまだ世界は広がり続けている。それは奇跡にも近い驚きであった。
「故郷に来てくれる日を楽しみにしている」
そう言うシルヴィアにイズレンディルは頷いた。
「ええ、お互い忙しい身になりましたが……是非にまた、カペル領にも」
キオルティスとヴィナスはワインを片手に、二人で話し合っていた。各地の情勢、流行、文化に噂、興味は尽きない。
ふと、という風にキオルティスはヴィナスへ問う。
「ヴィナスさん、キミは何か夢が出来たのかい」
「おや、ばれたかな」
「いや、なんとなく、聞いてみただけだけど――どうやら大当たりのようだね」
喰えない人だ、と肩をすくめるヴィナスは、自然な笑みを浮かべていた。
「俺達の時代で、知識や技術を止めてはいけない、そう思っている」
「学校でも作るつもりかい」
ヴィナスは頷く。
「国や種族を問わず、職人や商人が技を学ぶような養成学校が必要だと、常々思っていてね――」
キオルティスは口笛を鳴らす。
「夢が上手くいきますように」
そうして、ヴィナスのハーディングフェーレを見る。
「久しぶりに、一曲どうかな?」
「喜んで――なら、これは忘れてはいけないね」
銀糸の仮面で目元を覆うヴィナス。キオルティスにも似た仮面を手渡し、
「着けよう」
にっこりと笑むのであった。
「ノイアン、リゾットめっちゃおいしい! 後ワインも!」
ノイアンに駆け寄ってきたのはテスとその夫のロイであった。
「レシピあるかな、是非に是非に知りたいんだ」
ノイアンは頷き、
「喜んでもらえて何よりだ。レシピをまとめておく」
そう答える。わあ、と声をあげるテス。
ノイアンは思う。種族や出身について好みや価値観は違う。
(だが、このワインのようなものがあることで、繋がる未来も、ある)
それはとてもよい、祝福のようなものにノイアンは思えた。
「そういえば、ディヴィが睦言のお手本見せてくれるって!」
テスに引っ張り出されてきたのは、はあ? と言いたげなディヴァンス。
「本人がいなければどうしようも出来ない」
と恋人の存在を盾にしてすっと間合いを取るディヴァンスであった。それでもテスとロイのからかいに渋い顔をしながらも、内心、再会に喜んでいる様は隠しきれない。
「あー、ノイアン。ナッツが旨かった。感謝する」
そして、イズレンディルの方を向き、
「懐かしい味だった。パラリム氏族のブドウは優しい味わいだな」
そう、そそくさと一礼した。『睦言』発言への照れ隠しのつもりらしい。
そんなディヴァンスの様子を笑うテスとロイ。
「結婚おめでとう、幸せに」
ロイがにこやかに笑めば、テスもまた、
「ノイアン、シルヴィ結婚おめでとう」
と祝福をする。
「ところで、ロイお兄さまとテスお兄さまに夫婦円満の秘訣を聞きたいのだけど、いいかな」
先生には聞きそびれたし、と真面目な顔で問うシルヴィア。その横でノイアンも無表情を貫きながらも頷いた。
「じゃあ、睦言のお手本を見せるね」
テスは腰かけたロイの座面に膝立ちをし、そばにあったロゼワインを口に含む。
演奏をしていたキオルティスの手が、一瞬、興味で止まった。
ワインを味わっていたイズレンディルが、目をぱちくりさせた。
そのまま、テスはロイに口付けする。そのまま薔薇色のワインがロイに流れ込む。甘く、緩やかに。テスの表情は愛情がこぼれんばかりのもの。頬が赤いのは、酔っているからなのか、それとも愛故か。
自然に口移しを受けたロイは、自分に向けて愛情が向けられたことが嬉しい、とばかりに妻を抱擁する。
「宿り木にようこそ、オレの奥さん」
逃げられないように抱きしめる様を見て、ディヴァンスが赤面したまま咳払いをする。
ひとしきり愛情を見せつけたテスは、酒で濡れた唇を色っぽく舐めてから、
「睦言に大事なのは――大好きって、言葉で態度でずっと伝えることかな」
溢れる思いを届けるためのことだから、と熱っぽい瞳でロイを見るテス。
ロイもまた、こんな風に、遠慮せず示すと良い――そう言いたげな、悪戯な笑みを浮かべている。
「遠慮なく示し続ける。成る程。心がけよう。ね、ノイアン」
「あ、ああ」
ディヴァンスはただ見守るだけ。
テスとロイの一連の行動に驚いていたノイアンは、気恥ずかしさをごまかすように咳をした。
横では、シルヴィアもまた、赤面していた。
銀糸の仮面で目元を覆ったヴィナスとキオルティスがシルヴィアの側にやってきて、着けてくれとばかりに、仮面を渡す。
「仮面楽団の再会だね」
フィドルの調弦をしていたシルヴィアは、その仮面を身につける。かつての思い出が蘇る。
「それでは、一曲。俺から捧ぐ葡萄酒達への賛歌だよ」
白い竪琴を持ち、アンクルベルを飾ったキオルティスが音頭を取る。
その横で、ヴィナスの上品な演奏が始まる。
静かな静かな森の中
隠れるようで惹き付ける
琥珀を一粒飲みましょう
忘れられないその味を
素敵な誰かと共にして
貴族的なワルツであった。
テスとロイがアンバーワインを飲み交わす。速くも遅くもないテンポは乗りやすく、リズムも取りやすい。二人は立ち上がり、ふいに、体を寄せ合って踊り始めた。
花咲く花咲く街の中
美しく咲く嫋やかな
薔薇を一輪飲みましょう
初めて感じるその味を
素敵な誰かと共にして
イズレンディルはハミングをしながら、身を音楽に任せる。横にいたディヴァンスが話しかける。話題は各国の出来事。様々なニュース。
「カペル領は領主の代替わりをきっかけに、経済活動が活発化しているな」
ディヴァンスの手には、ロゼワインが一杯。イズレンディルの手には、アンバーワインが一杯。乾杯、とばかりに杯を交わす。
「このワインが、カペル領の賑わいを後押しできますように」
願い事をするように、イズレンディルはワイングラスを掲げ、その中を見つめるのであった。
竪琴と鈴に合わせてフィドルが踊る。ヴィナスの演奏と調和したシルヴィアの響きは、場を盛り上げていく。キオルティスのリズムは皆を魅了し、響きは心を躍らせる。
と、そこに新しい音が一つ。
リュートであった。ディヴァンスの手の中で、リュートは大森林の爽やかさを、カペルの華やかさを奏でる。
「おや――」
キオルティスが大森林に悪戯な和音を重ね、シルヴィアとヴィナスがカペルに王都風のメロディーを重ねていく。
歌は止まらず、宴は止まらない。楽しげに身を寄せ合うテスとロイは、再び口移しでワインを味わう。今度は琥珀色のワインを、ロイからテスへ。
「ロイの髪の色も、琥珀に染まっているね」
「酔った?」
「いいえ!」
テスが甘えるように己に身を重ねるのを、ロイは楽しんでいた。
ワインの余韻と共に。
演奏も終わり、皆ゆっくりと心地よいけだるさに身を任せる時間。
「そういえば、好きな料理って何だっけ?」
ノイアンがシルヴィアの問いに答える。
「肉と野菜を吊り鍋でローストしたもの……か」
「いかにも冒険者風ですね、懐かしい」
イズレンディルは目を細める。
「肉は何でも。鹿……イノシシ……野ウサギ……鴨……」
「そこにお芋と人参を入れて、臭み取りの香草もたっぷりかな?」
ノイアンの言葉に、シルヴィアが合いの手を入れる。ノイアンはゆっくりと頷く。
「冒険中の野営を思い出すから、好きだ。いつも食べた味のようで、その時々で、微妙に変わる」
例えば一緒にいる面々が、いつも同じでないように。
その関係も、時や物事の経過で色合いや味わいを変えるように――。
「ワインに似てますね」
イズレンディルの言葉に、若夫婦は頷く。
「そう思うと、ワインは不思議な飲み物だ。過去を閉じ込めているのに、時と共に変化する――」
ノイアンはエルフ達のことを思う。彼らは、外界の空気に当たって、どんな味わいに変化していくのだろうか?
シルヴィアはそんなノイアンの横で、ナッツをじっと見ている。
死線を共にくぐっても、旅をしても、愛し合っても、知らないことはまだ沢山。『肉と野菜を吊り鍋でローストしたもの』の正式名称も知らなければ、それがノイアンの好物だと口で聞くことは今までなかった。
まだまだ、勉強をしなくては。そう思う。
世界のこと、自領のこと、そして――愛する人のことも。
「体が鈍る前にまたいつか、冒険に出かけたい。落ち着いたら声をかけてもいいだろうか」
ふいに、思いついた、という風に声をかけるノイアン。その声にシルヴィアは現実へと引き戻される。
「私でよければ。是非に」
答えるのはイズレンディル。
「そうか、他の奴にも声をかけなければな」
思い思いに好きな時間を過ごしている面々を、ノイアンは見た。
「私も冒険に同行したいな」
おや、という顔になるイズレンディル。ノイアンは僅かに笑んで、頷く。
「こんな面々で冒険するなんて、どんな伝説が出来てしまうやらだね」
キオルティスが笑う。吟遊詩人には見逃せない話だ、とばかりに。
点火器に飾られたのは、三日月を模ったガーネット。中庭には、誰もいない。キオルティスは朱色の月を飾った点火器で、煙草を吸う。
爽やかな味わいが肺を満たす。空に浮かぶ月は、そろそろ沈みかけている。
おやすみなさい、と言いたげな様子で、キオルティスは目を閉じる。
様々な出会いがあり、別れがあり。喜びがあり、苦い思いもあった。
永遠は人には許されていない。この後も、様々な苦しみや別れはあるだろう。
それでも、とキオルティスは思う。
ここまでの道のりは、悪いものではなかったと――。
何せ、賑やかで楽しい日々だったのだ。
世界は混沌としていたが、その中にメロディーというパターンを見つけ、紡いでいくような日々であった。
そして、今、キオルティスはここにいる。
友人――シルヴィアから貰った点火器で、煙草を吸いながら。
だから、未来は悪いものではない。
根拠はないが、そう思った。祈るように。
そして、冒険者としての日々は、もう思い出なのだと――若い日々に、思いをはせた。
ワイン瓶を片手に、ヴィナスは道を行く。洒落男である彼が、歩きながらワインを飲む様は、妙に絵になっていた。持っているのはアンバーワイン、大森林の琥珀。味わいは変わり、スパイシーな側面が強く出ている。
なぁ、と灰色の猫が鳴く。
「やあ、衛兵さん。もう仕事終わりかな」
『虹薔薇亭』の玄関にいた灰色猫だ、とヴィナスは思う。猫は上機嫌そうにヴィナスの脚に尾を絡ませた。
「それとも、夜遊び好きのお嬢さんだったかい――?」
甘える猫を、ヴィナスはあやす。沈む前の月光が、道に差し込んで幻想的な色合いを辺りに映し出していた。
静かな静かな森の中
隠れるようで惹き付ける
琥珀を一粒飲みましょう
忘れられないその味を
素敵な誰かと共にして
楽器はしまっている。故に、ヴィナスが出来るのは指で拍子を取り、歌うこと。
花咲く花咲く街の中
美しく咲く嫋やかな
薔薇を一輪飲みましょう
初めて感じるその味を
素敵な誰かと共にして
いつしかこの曲も、様々な変奏が出来、歌詞も変わっていくことだろう。
そのことに、不思議な気分になりながら、ヴィナスは猫を撫でる。
猫は、歌声に合わせているつもりなのか、なあ、と鳴く。
「旅の話を所望なら、吟遊詩人にでもたのんで欲しいな。俺はそう言うことは向いていない」
なあ、なあ。ねだるように何度か猫は鳴き、そして、これ以上構ってもらえないと思ったのか、去っていく。
静かな静かな森の中
隠れるようで惹き付ける
琥珀を一粒飲みましょう
再び、歌は始まる。
ゆっくりと、ヴィナスは家路を辿る。伴侶や、家族のもとへ。
薔薇色のワインはカペル領を。
これらはカペル侯シルヴィア・A・カペルの発案であった。フィルエス大森林の恵みとリーンエス王国の文化が合わさって、馥郁とした香りを醸し出す……。
これは、そんな二色のワインにまつわるエピソード。
初夏の薔薇が鮮やかな香りを風に乗せる中、一人の洒落男が行く。道を幾つか曲がり、風に揺れるあかがねと七宝の看板を見つければ、そこが今日の会場。店の入り口を守っているつもりだろうか。大柄で太った猫が、灰色の尾をぴん、と立てて来訪者を見る。月は甘い光と共に空にたゆたい、気付けば心地よい夜だ。
『虹薔薇亭』は王都にある酒場である。心温まる素朴な佇まいの――口さがない者は田舎っぽいというが――その建物は、目抜き通りから外れ、かなり奥まったところにある。お忍びの貴族が愛用する、隠れ家めいた酒場。それが『虹薔薇亭』であった。
――商人としては、オフ。
アーダベルト商会の重役商人であるルース・アーダベルトは、今日は休み。ヴィナスはそんなことを思いながら、酒場の扉を開いた。二種のワインのことを思う。記念日のためのワイン。結婚十周年のお祝いに、プロポーズに――。特別な贈り物のためにも作られたワイン達は、今日がお披露目だ。
扉に手をかける。楽しんでこい、といいたいのか、灰猫がなぁ、と鳴いた。
ディヴァンス・ファルヴェントは持ち込まれたワインと料理のリストを女将に渡しているところであった。窓の外に浮かぶ月は白ワインを思わせる色合い。もしくは今日のような集まりならば、上質なチーズだろうか。
「大変な量ですねえ。結婚式かしら」
冗談めかして語りかける女将。初老でありながらも若々しさを瞳に保った、優雅な婦人であった。彼女の趣味をいかして飾り付けられた店内は、田園風の趣がある品の良いサロン、といった風合い。小姓達が彫刻で飾られた木製のテーブルに、テキパキと料理を並べていく。
「どちらかといえば、誕生会といった方が正しいな」
「ワインの?」
いきさつを聞かされていた女将は、扇を広げて笑みを隠す。
「ええ、ワインの」
「佳い夜になりますよう、一同務めますので……アンセイス、厨房の彼はどんな感じかしら? そろそろお客様がいらっしゃってる、と伝言を」
指示を飛ばしながら女将が見た入り口は、今まさに、チリンというベルの音と共に開こうとしていて――。
エル=バ=ノイアンは調理を見ていた。女将と料理長が譲らなかったため、全てには関わらなかったが、メニュー全体や、味付けや盛り付けについての注文は多く行った。
野鳥と野菜のパイ包みは、今まさにオーブンの中で焼かれている。やがて、バターと肉の旨み溢れる甘い香りが厨房を満たすことだろう。若いパイ係が気も早く、どんなものだ、と言いたげな表情を浮かべている。一方、慎重に出汁とクリームを足されながら炊かれているのは魚介のリゾット。海老やイカに白ブドウのコクある香りがいかにも食欲を誘う。
ノイアンはハーブソルトで炒ったナッツを一つ口に入れる。程よい塩気になったそれは、酒のつまみに丁度いい。
と、一人の小姓がぱたぱたとやってくる。
「ノイアン様、そろそろお客様方が――」
ロイ・アウレアとテス・アウレアは、パートナー同士の親しさを込めて、店の中へ入る。カウンターの奥からチラリと見えた黒髪は、ノイアンのものだろうか? では、その闊達な伴侶、シルヴィア・A・カペルは――。店内を見回せば、まだ空のワイングラスを眺めながら、シルヴィアが楽しげに客を待っていた。その横では、生真面目な表情でディヴァンス・ファルヴェントと話し合っているイズレンディル・パラリムがいる。少し離れたところにいるヴィナスが、楽器の調弦をしながら時折気の利いた言葉を投げかけている。
「いかにも楽しげだね、テス」
話しかければ、愛妻にして師である銀髪の伴侶は、柔らかい表情に茶目っ気溢れる笑みを浮かべて、ロイの手を引いた。
「お久しぶり……だね」
テスの声を聞けば、シルヴィアは立ち上がり、
「ロイお兄さま、テスお兄さま! 久しぶり!」
と闊達な調子で駆け寄り、二人を抱きしめる。シルヴィアの格好は貴族然としたものではなく、いわゆる冒険者的な気楽な格好であった。それをいえばここにいる面々も皆、冒険者としての立場で来ているため、あまり格式張った格好はしていない。
「やあ、最後かな、シルヴィ。待たせてすまないね」
最後にやってきたのは吟遊詩人風の男だ。
シルヴィアは「キオ」と短く呼びかけ、今度は彼のもとへと行く。
「大丈夫だよ、前菜を持ってきてもらうね」
さあ、座って、と促すシルヴィア。『虹薔薇亭』の女将は、その様子を見て厨房の方へと移動していった。
冷えたハムとテリーヌ、とろける白と青のチーズにはイズレンディルの持ってきた、パラリム氏族のブドウを併せて。サラダには大粒の貝とほぐした魚。軽い泡ワインと共に、前菜を食べながら、皆は話す。
「ノイアンさんはまだ厨房に? 結婚のお祝いをするはずでしたが、片方いないのは問題ですよ」
イズレンディルは困ったように首を傾げる。シルヴィアはカウンターの方を向く。ワインを用意しているノイアンと目が合った。
「カウンター内にいたいみたいで」
「家事の得意な夫、というわけですか。頼もしいことです」
カウンター内で皆の会話に耳を傾けていたノイアンは、もう少し、という風に仕草をしてから、厨房に引っ込んだ。
それから、しばらくして熱々の料理がやってくる。
「わあ、すごい!」
テスの歓声。
やってきたのは温かい湯気を浮かべた魚介のリゾットと、黄金色に輝く野鳥と野菜のパイ包み。どちらもいかにもおいしそうです、という見た目と香りをしている。
「これは、いかにもここの女将さんに似合う、愛情と包容力を兼ね備えた料理だね」
キオルティスが皆の分を切り分けながら、女将をチラリと見る。
「では、主菜が来たところで、乾杯の時間かな」
ヴィナスが薔薇色のワインを持つ。その言葉にシルヴィアは頷いた。
ここに二種のワインがある。
大森林の琥珀――大森林をイメージしたアンバーワイン。
ラベルは薔薇モチーフの飾り窓を中心として、大森林の中で小鳥や小動物が遊ぶ風景が描かれている。
花領の薔薇――カペルをイメージしたロゼワイン。
ラベルは木々に小鳥や小動物をあしらった飾り窓を中心として、花と湖に囲まれたカペルの風景が、描かれている。
「やっと、ワインが出来上がったんだね」
感慨深くシルヴィアがオレンジがかった琥珀色のワインを手に取り、香りを楽しむ。
ここにいるのは、これら二種の合作ワイン、その立ち上げに関わったメンバーだ。フィルエス大森林の恵みをリーンエス王国の職人の力を借りながら作った、とっておきのワイン。相互交流と、経済的な結びつきのための、架け橋。エルフ達が外界と関わりを持つための……。シルヴィアは目を閉じた。
「ここまで来るのに長い道のりがあった。大森林にいるエルフとの交流もこれからもっと必要になるし、カペル領の職人達とエルフの関係もゆっくり熟成させていかなければならないよね。勿論流通も、評判も……」
立ち上がり、語るシルヴィア。
「だけど、今日はここまでこぎ着けたことと、やっと手にした平和な日々に乾杯を」
乾杯、と八人の声が重なる。
キオルティスは二つのワインのラベルをじっくり眺めてから、グラスに注いだそれらの色と香りを楽しむ。
ワイン作りに奔走した日々は大変であったが、鮮やかな思い出となって、キオルティスの目の前に浮かび上がる。
一口、味わえば、吟遊詩人はおいしい、と呟いて、感想を述べ始める。
「森の佳人、といった雰囲気だね。オレンジの花を髪に飾った、榛色の髪の乙女だ。でも、甘い声で囁くのではない。しっかりとした気質で、ウィットもある」
「フルーティでスパイシー、といったところか」
「そして、甘く見ると結構強い」
キオルティスが大森林の琥珀を女性に例えれば、ヴィナスがそれを書き留める。どうやら、販売の参考にするらしい。
「では、花領の薔薇は?」
ディヴァンスが問う。手元に揺れる薄紅色は、いかにも華やかだ。
「かわいらしい娘だ。ベリーの籠を持った、リーンエスの貴族令嬢。少々おてんばなところもあるが、花開けば、色気を纏ったレディになる」
「ベリー系で軽やかな酸味があり、時間の変化でゆっくり味が変わっていくタイプ、と」
「ご明察」
ディヴァンスの言葉にキオルティスは頷いた。
テスは目を閉じる。蘇るのは、大森林にたわわと実ったブドウの姿そして、歓声。カペルの逸品を作ろうと努力した皆が報われたことに、微笑みを浮かべる。
(思い出を閉じ込めたような味だね)
横ではロイが鼻と喉でワインを味わいながらゆっくりと身をテスに傾ける。
「間違いなくおいしい」
感慨深く告げるロイの笑顔は、最高のもので――その向けられた先は、勿論最愛のテスであった。
「改めて、結婚おめでとうございます、シルヴィアさん、ノイアンさん」
イズレンディルが来たとき、夫婦は仲睦まじく酒を飲み、古い冒険の話をしていたが――やがて友人の姿に目を細めた。
「果物、おいしかった。流石、パラリム氏族のブドウだな」
ノイアンが感謝を述べれば、イズレンディルは感謝の意を示し、
「ありがとうございます。折角なので、材料の果物も味わってもらいたい、と思いまして……最近、いかがですか?」
そう、問う。
「家を継いでから忙しくなったけど、充実しているよ」
そしてシルヴィアはカペルや王都、パンクリアース学園の話をする。
「北方や大森林の様子はどうかな」
イズレンディルは北方辺境伯外交官として各地に赴き、大森林や学園に顔を出す日々を送っていた。そのため、各地の噂は幾つも耳にしている。会える頻度の少なった友人には聞きたいことが沢山あった。シルヴィア達もそうなのだろう、ノイアンとシルヴィアが交互に各地の質問をしてくる様が、かわいらしく、関係に心温まる。
「冒険者になる前から大森林のために各地を回っていましたが、今は世界のため、といったところでしょうか」
イズレンディルは冒険者としての日々を思い出す。そして、今の生活を思う。冒険者になってから知ることは更に増え、今もまだ世界は広がり続けている。それは奇跡にも近い驚きであった。
「故郷に来てくれる日を楽しみにしている」
そう言うシルヴィアにイズレンディルは頷いた。
「ええ、お互い忙しい身になりましたが……是非にまた、カペル領にも」
キオルティスとヴィナスはワインを片手に、二人で話し合っていた。各地の情勢、流行、文化に噂、興味は尽きない。
ふと、という風にキオルティスはヴィナスへ問う。
「ヴィナスさん、キミは何か夢が出来たのかい」
「おや、ばれたかな」
「いや、なんとなく、聞いてみただけだけど――どうやら大当たりのようだね」
喰えない人だ、と肩をすくめるヴィナスは、自然な笑みを浮かべていた。
「俺達の時代で、知識や技術を止めてはいけない、そう思っている」
「学校でも作るつもりかい」
ヴィナスは頷く。
「国や種族を問わず、職人や商人が技を学ぶような養成学校が必要だと、常々思っていてね――」
キオルティスは口笛を鳴らす。
「夢が上手くいきますように」
そうして、ヴィナスのハーディングフェーレを見る。
「久しぶりに、一曲どうかな?」
「喜んで――なら、これは忘れてはいけないね」
銀糸の仮面で目元を覆うヴィナス。キオルティスにも似た仮面を手渡し、
「着けよう」
にっこりと笑むのであった。
「ノイアン、リゾットめっちゃおいしい! 後ワインも!」
ノイアンに駆け寄ってきたのはテスとその夫のロイであった。
「レシピあるかな、是非に是非に知りたいんだ」
ノイアンは頷き、
「喜んでもらえて何よりだ。レシピをまとめておく」
そう答える。わあ、と声をあげるテス。
ノイアンは思う。種族や出身について好みや価値観は違う。
(だが、このワインのようなものがあることで、繋がる未来も、ある)
それはとてもよい、祝福のようなものにノイアンは思えた。
「そういえば、ディヴィが睦言のお手本見せてくれるって!」
テスに引っ張り出されてきたのは、はあ? と言いたげなディヴァンス。
「本人がいなければどうしようも出来ない」
と恋人の存在を盾にしてすっと間合いを取るディヴァンスであった。それでもテスとロイのからかいに渋い顔をしながらも、内心、再会に喜んでいる様は隠しきれない。
「あー、ノイアン。ナッツが旨かった。感謝する」
そして、イズレンディルの方を向き、
「懐かしい味だった。パラリム氏族のブドウは優しい味わいだな」
そう、そそくさと一礼した。『睦言』発言への照れ隠しのつもりらしい。
そんなディヴァンスの様子を笑うテスとロイ。
「結婚おめでとう、幸せに」
ロイがにこやかに笑めば、テスもまた、
「ノイアン、シルヴィ結婚おめでとう」
と祝福をする。
「ところで、ロイお兄さまとテスお兄さまに夫婦円満の秘訣を聞きたいのだけど、いいかな」
先生には聞きそびれたし、と真面目な顔で問うシルヴィア。その横でノイアンも無表情を貫きながらも頷いた。
「じゃあ、睦言のお手本を見せるね」
テスは腰かけたロイの座面に膝立ちをし、そばにあったロゼワインを口に含む。
演奏をしていたキオルティスの手が、一瞬、興味で止まった。
ワインを味わっていたイズレンディルが、目をぱちくりさせた。
そのまま、テスはロイに口付けする。そのまま薔薇色のワインがロイに流れ込む。甘く、緩やかに。テスの表情は愛情がこぼれんばかりのもの。頬が赤いのは、酔っているからなのか、それとも愛故か。
自然に口移しを受けたロイは、自分に向けて愛情が向けられたことが嬉しい、とばかりに妻を抱擁する。
「宿り木にようこそ、オレの奥さん」
逃げられないように抱きしめる様を見て、ディヴァンスが赤面したまま咳払いをする。
ひとしきり愛情を見せつけたテスは、酒で濡れた唇を色っぽく舐めてから、
「睦言に大事なのは――大好きって、言葉で態度でずっと伝えることかな」
溢れる思いを届けるためのことだから、と熱っぽい瞳でロイを見るテス。
ロイもまた、こんな風に、遠慮せず示すと良い――そう言いたげな、悪戯な笑みを浮かべている。
「遠慮なく示し続ける。成る程。心がけよう。ね、ノイアン」
「あ、ああ」
ディヴァンスはただ見守るだけ。
テスとロイの一連の行動に驚いていたノイアンは、気恥ずかしさをごまかすように咳をした。
横では、シルヴィアもまた、赤面していた。
銀糸の仮面で目元を覆ったヴィナスとキオルティスがシルヴィアの側にやってきて、着けてくれとばかりに、仮面を渡す。
「仮面楽団の再会だね」
フィドルの調弦をしていたシルヴィアは、その仮面を身につける。かつての思い出が蘇る。
「それでは、一曲。俺から捧ぐ葡萄酒達への賛歌だよ」
白い竪琴を持ち、アンクルベルを飾ったキオルティスが音頭を取る。
その横で、ヴィナスの上品な演奏が始まる。
静かな静かな森の中
隠れるようで惹き付ける
琥珀を一粒飲みましょう
忘れられないその味を
素敵な誰かと共にして
貴族的なワルツであった。
テスとロイがアンバーワインを飲み交わす。速くも遅くもないテンポは乗りやすく、リズムも取りやすい。二人は立ち上がり、ふいに、体を寄せ合って踊り始めた。
花咲く花咲く街の中
美しく咲く嫋やかな
薔薇を一輪飲みましょう
初めて感じるその味を
素敵な誰かと共にして
イズレンディルはハミングをしながら、身を音楽に任せる。横にいたディヴァンスが話しかける。話題は各国の出来事。様々なニュース。
「カペル領は領主の代替わりをきっかけに、経済活動が活発化しているな」
ディヴァンスの手には、ロゼワインが一杯。イズレンディルの手には、アンバーワインが一杯。乾杯、とばかりに杯を交わす。
「このワインが、カペル領の賑わいを後押しできますように」
願い事をするように、イズレンディルはワイングラスを掲げ、その中を見つめるのであった。
竪琴と鈴に合わせてフィドルが踊る。ヴィナスの演奏と調和したシルヴィアの響きは、場を盛り上げていく。キオルティスのリズムは皆を魅了し、響きは心を躍らせる。
と、そこに新しい音が一つ。
リュートであった。ディヴァンスの手の中で、リュートは大森林の爽やかさを、カペルの華やかさを奏でる。
「おや――」
キオルティスが大森林に悪戯な和音を重ね、シルヴィアとヴィナスがカペルに王都風のメロディーを重ねていく。
歌は止まらず、宴は止まらない。楽しげに身を寄せ合うテスとロイは、再び口移しでワインを味わう。今度は琥珀色のワインを、ロイからテスへ。
「ロイの髪の色も、琥珀に染まっているね」
「酔った?」
「いいえ!」
テスが甘えるように己に身を重ねるのを、ロイは楽しんでいた。
ワインの余韻と共に。
演奏も終わり、皆ゆっくりと心地よいけだるさに身を任せる時間。
「そういえば、好きな料理って何だっけ?」
ノイアンがシルヴィアの問いに答える。
「肉と野菜を吊り鍋でローストしたもの……か」
「いかにも冒険者風ですね、懐かしい」
イズレンディルは目を細める。
「肉は何でも。鹿……イノシシ……野ウサギ……鴨……」
「そこにお芋と人参を入れて、臭み取りの香草もたっぷりかな?」
ノイアンの言葉に、シルヴィアが合いの手を入れる。ノイアンはゆっくりと頷く。
「冒険中の野営を思い出すから、好きだ。いつも食べた味のようで、その時々で、微妙に変わる」
例えば一緒にいる面々が、いつも同じでないように。
その関係も、時や物事の経過で色合いや味わいを変えるように――。
「ワインに似てますね」
イズレンディルの言葉に、若夫婦は頷く。
「そう思うと、ワインは不思議な飲み物だ。過去を閉じ込めているのに、時と共に変化する――」
ノイアンはエルフ達のことを思う。彼らは、外界の空気に当たって、どんな味わいに変化していくのだろうか?
シルヴィアはそんなノイアンの横で、ナッツをじっと見ている。
死線を共にくぐっても、旅をしても、愛し合っても、知らないことはまだ沢山。『肉と野菜を吊り鍋でローストしたもの』の正式名称も知らなければ、それがノイアンの好物だと口で聞くことは今までなかった。
まだまだ、勉強をしなくては。そう思う。
世界のこと、自領のこと、そして――愛する人のことも。
「体が鈍る前にまたいつか、冒険に出かけたい。落ち着いたら声をかけてもいいだろうか」
ふいに、思いついた、という風に声をかけるノイアン。その声にシルヴィアは現実へと引き戻される。
「私でよければ。是非に」
答えるのはイズレンディル。
「そうか、他の奴にも声をかけなければな」
思い思いに好きな時間を過ごしている面々を、ノイアンは見た。
「私も冒険に同行したいな」
おや、という顔になるイズレンディル。ノイアンは僅かに笑んで、頷く。
「こんな面々で冒険するなんて、どんな伝説が出来てしまうやらだね」
キオルティスが笑う。吟遊詩人には見逃せない話だ、とばかりに。
点火器に飾られたのは、三日月を模ったガーネット。中庭には、誰もいない。キオルティスは朱色の月を飾った点火器で、煙草を吸う。
爽やかな味わいが肺を満たす。空に浮かぶ月は、そろそろ沈みかけている。
おやすみなさい、と言いたげな様子で、キオルティスは目を閉じる。
様々な出会いがあり、別れがあり。喜びがあり、苦い思いもあった。
永遠は人には許されていない。この後も、様々な苦しみや別れはあるだろう。
それでも、とキオルティスは思う。
ここまでの道のりは、悪いものではなかったと――。
何せ、賑やかで楽しい日々だったのだ。
世界は混沌としていたが、その中にメロディーというパターンを見つけ、紡いでいくような日々であった。
そして、今、キオルティスはここにいる。
友人――シルヴィアから貰った点火器で、煙草を吸いながら。
だから、未来は悪いものではない。
根拠はないが、そう思った。祈るように。
そして、冒険者としての日々は、もう思い出なのだと――若い日々に、思いをはせた。
ワイン瓶を片手に、ヴィナスは道を行く。洒落男である彼が、歩きながらワインを飲む様は、妙に絵になっていた。持っているのはアンバーワイン、大森林の琥珀。味わいは変わり、スパイシーな側面が強く出ている。
なぁ、と灰色の猫が鳴く。
「やあ、衛兵さん。もう仕事終わりかな」
『虹薔薇亭』の玄関にいた灰色猫だ、とヴィナスは思う。猫は上機嫌そうにヴィナスの脚に尾を絡ませた。
「それとも、夜遊び好きのお嬢さんだったかい――?」
甘える猫を、ヴィナスはあやす。沈む前の月光が、道に差し込んで幻想的な色合いを辺りに映し出していた。
静かな静かな森の中
隠れるようで惹き付ける
琥珀を一粒飲みましょう
忘れられないその味を
素敵な誰かと共にして
楽器はしまっている。故に、ヴィナスが出来るのは指で拍子を取り、歌うこと。
花咲く花咲く街の中
美しく咲く嫋やかな
薔薇を一輪飲みましょう
初めて感じるその味を
素敵な誰かと共にして
いつしかこの曲も、様々な変奏が出来、歌詞も変わっていくことだろう。
そのことに、不思議な気分になりながら、ヴィナスは猫を撫でる。
猫は、歌声に合わせているつもりなのか、なあ、と鳴く。
「旅の話を所望なら、吟遊詩人にでもたのんで欲しいな。俺はそう言うことは向いていない」
なあ、なあ。ねだるように何度か猫は鳴き、そして、これ以上構ってもらえないと思ったのか、去っていく。
静かな静かな森の中
隠れるようで惹き付ける
琥珀を一粒飲みましょう
再び、歌は始まる。
ゆっくりと、ヴィナスは家路を辿る。伴侶や、家族のもとへ。