プリムフラウ
キャラクターノベル制作 蔭沢 菫納品 2023年03月23日 15時08分04秒
シルヴィア・A・カペルは蝋燭の明かりに照らされていた。石造りの牢獄は冷たく、心まで凍えてしまうかのよう。時間はわからず、駆け抜ける鼠の姿もない。
(プリムフラウ・カイネールは、このような所にいるのか……)
『鈴蘭の君』と呼ばれた貴婦人のことを思い出す。夢見るような微笑みの、しかし内に秘めたウィリアム王子への渇望ゆえに暴走を重ねた女。パンクリアース学園で行われた一連の事件は、冒険者の手で阻止され、彼女は捕縛された。
もはやカイネール伯爵家は存在しない。プリムフラウが起こした事件以外にも、彼女が貴族社会で発言力を高めるために行ってきた様々な裏工作が明らかになった上――プリムフラウ以外の後継者がカイネール家に存在しないことなどがあり、『自然』に断絶したのであった。
ゆえに、今のプリムフラウ・カイネールは後ろ盾も何もないただの女だ。
(しばらくすれば処刑される……いや、今日まで生きていること自体が不思議でしかないね……)
利用価値のなくなった彼女が生かされているのは、どこかの誰かの気まぐれゆえか、あるいは同情か。
シルヴィアは頭を横に振る。やがて最奥につく。
看守がそっと開いた重い金属の扉の奥には、はたしてプリムフラウがいた。麻の荒いガウンを身に着け、長い髪は結われることなく伸びっぱなし。しかし本人は宮廷の貴婦人のような身振りでシルヴィアを中へ誘う。あまりにも明るい瞳は、牢獄にはふさわしくなかった。
「まあ、シルヴィア様もご無事だったのね……いきなりいらしたので驚いたけど、わたくし達の仲ですもの、ね?」
その笑みはかつてと変わらず、夢見るようであり……現実からは完全に切り離されていた。夢見る人の目は完全に己の世界に沈んでいた。シルヴィアは剣を交えた相手ではなく、中のよい茶飲み友達であり、プリムフラウの中ではいきなりの来訪に驚いている――という設定になっているようであった。
「さあ入って。結婚式の前っていつでも胸が躍るものだわ……違って?」
看守からプリムフラウの狂気のことをうっすらと聞かされていたシルヴィアは、否定もせずに牢へと入る。後ろで重い扉がしめられた。
白い部屋であった。自殺などがないようにプリムフラウには何も渡されていないらしく、彼女は存在しない刺繍を存在しない糸で縫っていた所らしい。
「ねえ、見てくださる……花嫁衣裳に飾る刺繍を縫っていたのよ……」
「それはそれは、なかなか労作だね」
「ええ、毎日目が覚めると、一個ずつ花を刺繍するの。すべてわたくしの印である鈴蘭。見せて差し上げたいわ。季節になると、カイネール領の谷間には鈴蘭が一斉に咲くのよ」
愛らしいが毒のある花が、とシルヴィアは心の中で思う。プリムフラウはその毒気のない笑みで、幾人もを殺そうとした。
プリムフラウには心がないのだ、と告解を聞きに来た神官から聞いたのをシルヴィアは思い出している。
妖精のように純粋で、幼子のように善悪を知らず、己を愛する心以外持たぬ孤独な女。それが初めて愛したのが、ウィリアム王子であったのか。それとも「誰かを愛する己」を愛する一環としてウィリアムを選んだのか……答えはわからない。
確かなのは、シルヴィアの前で永遠に終わらない花嫁衣裳の製作について語っており、空想の中ではプリムフラウはたいそう幸福そうである、ということであった。
「……『銀の薔薇』も流行り病で閉店になったから、このようなものしか出せないわ。悲しいこと」
マロングラッセと薬草茶、といって出されたのは、欠けたパンと水の入った木の器であった。悪意があるわけではなく、プリムフラウには本当にそう見えているらしい。まるで子どものおままごとであるが、シルヴィアはそれに従った。『リーンエス王国の彩』と『鈴蘭の君』、かつてであれば華やかなティーパーティが開かれたであろう二人の間には、何時のものだかわからないパンが転がっている。
「ところで流行り病というけれど……」
話をあわせるにも設定がわからないでは、どうしようもない。シルヴィアが語尾を濁しがちに曖昧に問いかければ、プリムフラウは完璧な憂いの表情で床を見る。仮想の刺繍を行う手は止めないままに。
「ええ、ええ。本当に災厄だわ……王国の赤薔薇病。皆高熱を出して倒れ込んでしまうの……こんな中では、王子様との結婚式も上げられないわ。下々の者には薬が渡らないという話も聞いていて、本当に悲しきこと。王子様は病が止むまでこの別荘で暮らせ、とおっしゃってたけれども……僻地だから本当に何もないわ、本当に」
「赤薔薇病」
繰り返したシルヴィアに、プリムフラウは切々といかに恐ろしい流行病であるか、いかに王国が危機に瀕しているかを告げた。そして、己がいかに不幸な花嫁であるか……そして未来の夫である王子様がどれだけ優しい人であるか、幸せな結末が来ることを信じてどれだけ神に祈っているのかを何度も何度も繰り返すのだった。
童女のように。おとぎ話のように。ロマンスのヒロインのように。理想に溺れ、夢に溺れ……現実と理想の乖離に悩むことを止めた……。
「『苦難の道の先には幸せな未来が待っている』――か」
プリムフラウは己の言葉の中に溺れた人であり、シルヴィアはそんな彼女の姿に、『花咲く乙女』の一文を唱えてみせた。
「ええ、シルヴィア様も……お好きなのね?」
「ああ、勿論だとも」
そういう君は、苦難の道を歩くことを放棄したみたいだね。
シルヴィアは出かけた言葉を飲み込む。
「今度家令に本を届けさせないと……このご時勢、本もなかなか入手できなくて。あそこに積んであるので全部。恨み言はいいませんけど、本当に悲しい話だわ……」
シルヴィアはあまり期待せずにプリムフラウの示した方を見た。
何もなかった。愛読書であった『花咲く乙女』でさえも。しかし、その虚無の空間はプリムフラウにとっては愛読書の山らしい。読んだことのあるタイトル、読んだことのないタイトル、プリムフラウの心の中にしかないであろうタイトル――虚構が、次々に彼女の小さな口から出てくる。かつては艶やかであった唇はがさがさで、傍には、栄養失調による吹き出物ができていた。
それでもプリムフラウは幻想の中にいた。彼女は己を別荘で夫を待つ花嫁だと、次の時代の王妃だと信じている。かつて見た「ただ一人」のために生きた女ではない。生きることを捨て、己が幻想に完全に沈んだ女であった。
言葉は届かぬだろう。
わかっていた。それでも、シルヴィアは声を掛けずにはいられなかった。
「プリムフラウ、私は侯爵になるんだよ。『蒼玉』……カペルの家を継ぐ。今は、生徒会副会長で……勉強中なんだ。そして、もうすぐ卒業する」
まあ、と貴婦人の笑みを浮かべるプリムフラウ。その完璧な笑みは痛々しいが、なじみのある社交界の話題を聞いて、僅かに正気の色が戻ったようにシルヴィアは思った。
「でしたら、王国も安全だわ。是非王子様の右腕になってくださいまし、ね? あの方は敵が多いから、わたくし一人だけでは……守り切れませんもの。今はこんなに離れているし……」
「そうだね」
様々な言葉を飲み込んで、プリムフラウにシルヴィアは笑む。にっこりと完璧な笑みが返される。本当にここがどこかの喫茶店かティーパーティならばよかったのに、と、目の前の女を見た。
しかし、私はこうならなかった。生憎、何もまだ、手放していない。
「皆私に理想を託して死んでいく。理想も何も、私が祖父を演じているせいで願ったものなのか、と思う程には」
「祖父? アルヴィン様ね……お会いしたことはないけれど……お噂はかねがね」
「さすが、社交界にその名ありと呼ばれた『鈴蘭の君』。耳ざとい方だ」
水の椀をティーカップのように優雅に持ち上げるプリムフラウ。微笑む目に僅かな知性のきらめきが戻ったのは気のせいだろうか。
「ですけど、シルヴィア様はシルヴィア様でしょう。誰も彼も、己が己だということを忘れてしまっては……自分を愛することを忘れたら……死んでしまうわ?」
激しいエゴの焔は、まだプリムフラウの中に残っているらしい。空想の中に生きようとも、まだ。強く言い切る女の姿を、シルヴィアはしっかりと見つめる。
「ああ、大丈夫。理想を継ぐ器でしかないと……なりそこないでしかない、と様々な思いに潰されかけたけれど。まだ、こちら側にいるよ」
シルヴィアはあわせるように水を飲む。ぬるいが清潔な水であることに安堵した。少なくともプリムフラウは、清潔な水を飲める立場ではあるらしい。
「冒険者でいる、ということかしら?」
「いや……まあ、いわない方がいいだろうね」
君の夢が覚めてしまうからね、と心の中でシルヴィアは呟いた。
「『いとたかき恋人よ、あなたの手を掴むにはわたくしは地上に近すぎる』……この一文、わかるかい、プリムフラウ」
「『我が野の花マリーネよ、大丈夫、二人で手を伸ばし合えば、指先はいつでも届くのだから』……ええ、シルヴィア様。『花咲く乙女』でしょ? ルフランド卿が身分違いのマリーネ嬢をバルコニーで励ますシーン。わたくし、このシーンが好きよ。身分など違っても、愛することはできる……そして、こう結ばれるわ。『恋する者にはいつも天の祝福があるのだ』」
「ああ、私が身分違いの恋に悩んでいるのは気付いているだろう」
いつぞやの戦場でのやり取り。あの時は二人とも剣を手に、今は、ままごとのようなお茶会をしながら。
「ええ、夜色の髪のお方でしょう……お似合いだわ……口にしてらしたものね……全く、あの日のシルヴィア様の美しさといったら……」
目の前のプリムフラウは、何時しか現実を思い出していた。もっともそれは彼女にとってすぐに消える遠い幻、もう一つの現実のようなものであったが……そこにいたのは、かつて歪んだ形であったとはいえ――シルヴィアの恋を肯定してくれたはずの貴婦人であった。
「はは。私は、君のように『ただ一人』のためには生きられない。そう生きてみたい時もあるけれどね――私でなくなってしまうから」
「ええ、自分を曲げるのは、よくないことだわ……」
「いくつもの恋物語の中で、身分違いの恋は悲劇に終わる……でも不思議なことに、君の言葉が背を押すんだ、プリムフラウ。君はあれほどの事件を起こしたというのに……ね」
プリムフラウはしばらく己の指を見ていた。沢山の人を殺めた事実を、この瞬間どう思っているのだろうか……とシルヴィアは問う。
「きっと大丈夫よ、あなたは試練に勝ち、恋心を認め……わたくしの『自己愛』に勝ったのだもの」
その瞬間プリムフラウは『恋する貴婦人』の奥に確かな知性を見せていた。敗北を認めた人の潔さとともに、じっとシルヴィアを見ていた。しかし、不意にその表情が緩み、腰かけていた寝台に倒れ込む。どうやら疲れたらしい。
「あの時から何も思いは変わっていないよ、プリムフラウ」
――君には感謝しているんだ。君は私と彼の仲を肯定してくれた人だから。
だから、どちらもあきらめず、わがままにすべてを手にしよう。
正道の手段で、貴族らしく鮮やかに……。
(どんな困難な道でも、私はやり切ってみせる)
牢を出れば、どれだけ話し込んでいたのだろうか、夕陽が穏やかな輝きを天に満たしていた。やがて来る夜に側にいる人の姿を思い、シルヴィアは微笑む。
そして祈った。どうぞプリムフラウに神のお恵みが……安らぎがありますように、と。
(あの人は、あったかもしれないもう一人の自分だから……私は、そう思いたい)
彼女が罰せられるその時も、美しくありますように、と。
(プリムフラウ・カイネールは、このような所にいるのか……)
『鈴蘭の君』と呼ばれた貴婦人のことを思い出す。夢見るような微笑みの、しかし内に秘めたウィリアム王子への渇望ゆえに暴走を重ねた女。パンクリアース学園で行われた一連の事件は、冒険者の手で阻止され、彼女は捕縛された。
もはやカイネール伯爵家は存在しない。プリムフラウが起こした事件以外にも、彼女が貴族社会で発言力を高めるために行ってきた様々な裏工作が明らかになった上――プリムフラウ以外の後継者がカイネール家に存在しないことなどがあり、『自然』に断絶したのであった。
ゆえに、今のプリムフラウ・カイネールは後ろ盾も何もないただの女だ。
(しばらくすれば処刑される……いや、今日まで生きていること自体が不思議でしかないね……)
利用価値のなくなった彼女が生かされているのは、どこかの誰かの気まぐれゆえか、あるいは同情か。
シルヴィアは頭を横に振る。やがて最奥につく。
看守がそっと開いた重い金属の扉の奥には、はたしてプリムフラウがいた。麻の荒いガウンを身に着け、長い髪は結われることなく伸びっぱなし。しかし本人は宮廷の貴婦人のような身振りでシルヴィアを中へ誘う。あまりにも明るい瞳は、牢獄にはふさわしくなかった。
「まあ、シルヴィア様もご無事だったのね……いきなりいらしたので驚いたけど、わたくし達の仲ですもの、ね?」
その笑みはかつてと変わらず、夢見るようであり……現実からは完全に切り離されていた。夢見る人の目は完全に己の世界に沈んでいた。シルヴィアは剣を交えた相手ではなく、中のよい茶飲み友達であり、プリムフラウの中ではいきなりの来訪に驚いている――という設定になっているようであった。
「さあ入って。結婚式の前っていつでも胸が躍るものだわ……違って?」
看守からプリムフラウの狂気のことをうっすらと聞かされていたシルヴィアは、否定もせずに牢へと入る。後ろで重い扉がしめられた。
白い部屋であった。自殺などがないようにプリムフラウには何も渡されていないらしく、彼女は存在しない刺繍を存在しない糸で縫っていた所らしい。
「ねえ、見てくださる……花嫁衣裳に飾る刺繍を縫っていたのよ……」
「それはそれは、なかなか労作だね」
「ええ、毎日目が覚めると、一個ずつ花を刺繍するの。すべてわたくしの印である鈴蘭。見せて差し上げたいわ。季節になると、カイネール領の谷間には鈴蘭が一斉に咲くのよ」
愛らしいが毒のある花が、とシルヴィアは心の中で思う。プリムフラウはその毒気のない笑みで、幾人もを殺そうとした。
プリムフラウには心がないのだ、と告解を聞きに来た神官から聞いたのをシルヴィアは思い出している。
妖精のように純粋で、幼子のように善悪を知らず、己を愛する心以外持たぬ孤独な女。それが初めて愛したのが、ウィリアム王子であったのか。それとも「誰かを愛する己」を愛する一環としてウィリアムを選んだのか……答えはわからない。
確かなのは、シルヴィアの前で永遠に終わらない花嫁衣裳の製作について語っており、空想の中ではプリムフラウはたいそう幸福そうである、ということであった。
「……『銀の薔薇』も流行り病で閉店になったから、このようなものしか出せないわ。悲しいこと」
マロングラッセと薬草茶、といって出されたのは、欠けたパンと水の入った木の器であった。悪意があるわけではなく、プリムフラウには本当にそう見えているらしい。まるで子どものおままごとであるが、シルヴィアはそれに従った。『リーンエス王国の彩』と『鈴蘭の君』、かつてであれば華やかなティーパーティが開かれたであろう二人の間には、何時のものだかわからないパンが転がっている。
「ところで流行り病というけれど……」
話をあわせるにも設定がわからないでは、どうしようもない。シルヴィアが語尾を濁しがちに曖昧に問いかければ、プリムフラウは完璧な憂いの表情で床を見る。仮想の刺繍を行う手は止めないままに。
「ええ、ええ。本当に災厄だわ……王国の赤薔薇病。皆高熱を出して倒れ込んでしまうの……こんな中では、王子様との結婚式も上げられないわ。下々の者には薬が渡らないという話も聞いていて、本当に悲しきこと。王子様は病が止むまでこの別荘で暮らせ、とおっしゃってたけれども……僻地だから本当に何もないわ、本当に」
「赤薔薇病」
繰り返したシルヴィアに、プリムフラウは切々といかに恐ろしい流行病であるか、いかに王国が危機に瀕しているかを告げた。そして、己がいかに不幸な花嫁であるか……そして未来の夫である王子様がどれだけ優しい人であるか、幸せな結末が来ることを信じてどれだけ神に祈っているのかを何度も何度も繰り返すのだった。
童女のように。おとぎ話のように。ロマンスのヒロインのように。理想に溺れ、夢に溺れ……現実と理想の乖離に悩むことを止めた……。
「『苦難の道の先には幸せな未来が待っている』――か」
プリムフラウは己の言葉の中に溺れた人であり、シルヴィアはそんな彼女の姿に、『花咲く乙女』の一文を唱えてみせた。
「ええ、シルヴィア様も……お好きなのね?」
「ああ、勿論だとも」
そういう君は、苦難の道を歩くことを放棄したみたいだね。
シルヴィアは出かけた言葉を飲み込む。
「今度家令に本を届けさせないと……このご時勢、本もなかなか入手できなくて。あそこに積んであるので全部。恨み言はいいませんけど、本当に悲しい話だわ……」
シルヴィアはあまり期待せずにプリムフラウの示した方を見た。
何もなかった。愛読書であった『花咲く乙女』でさえも。しかし、その虚無の空間はプリムフラウにとっては愛読書の山らしい。読んだことのあるタイトル、読んだことのないタイトル、プリムフラウの心の中にしかないであろうタイトル――虚構が、次々に彼女の小さな口から出てくる。かつては艶やかであった唇はがさがさで、傍には、栄養失調による吹き出物ができていた。
それでもプリムフラウは幻想の中にいた。彼女は己を別荘で夫を待つ花嫁だと、次の時代の王妃だと信じている。かつて見た「ただ一人」のために生きた女ではない。生きることを捨て、己が幻想に完全に沈んだ女であった。
言葉は届かぬだろう。
わかっていた。それでも、シルヴィアは声を掛けずにはいられなかった。
「プリムフラウ、私は侯爵になるんだよ。『蒼玉』……カペルの家を継ぐ。今は、生徒会副会長で……勉強中なんだ。そして、もうすぐ卒業する」
まあ、と貴婦人の笑みを浮かべるプリムフラウ。その完璧な笑みは痛々しいが、なじみのある社交界の話題を聞いて、僅かに正気の色が戻ったようにシルヴィアは思った。
「でしたら、王国も安全だわ。是非王子様の右腕になってくださいまし、ね? あの方は敵が多いから、わたくし一人だけでは……守り切れませんもの。今はこんなに離れているし……」
「そうだね」
様々な言葉を飲み込んで、プリムフラウにシルヴィアは笑む。にっこりと完璧な笑みが返される。本当にここがどこかの喫茶店かティーパーティならばよかったのに、と、目の前の女を見た。
しかし、私はこうならなかった。生憎、何もまだ、手放していない。
「皆私に理想を託して死んでいく。理想も何も、私が祖父を演じているせいで願ったものなのか、と思う程には」
「祖父? アルヴィン様ね……お会いしたことはないけれど……お噂はかねがね」
「さすが、社交界にその名ありと呼ばれた『鈴蘭の君』。耳ざとい方だ」
水の椀をティーカップのように優雅に持ち上げるプリムフラウ。微笑む目に僅かな知性のきらめきが戻ったのは気のせいだろうか。
「ですけど、シルヴィア様はシルヴィア様でしょう。誰も彼も、己が己だということを忘れてしまっては……自分を愛することを忘れたら……死んでしまうわ?」
激しいエゴの焔は、まだプリムフラウの中に残っているらしい。空想の中に生きようとも、まだ。強く言い切る女の姿を、シルヴィアはしっかりと見つめる。
「ああ、大丈夫。理想を継ぐ器でしかないと……なりそこないでしかない、と様々な思いに潰されかけたけれど。まだ、こちら側にいるよ」
シルヴィアはあわせるように水を飲む。ぬるいが清潔な水であることに安堵した。少なくともプリムフラウは、清潔な水を飲める立場ではあるらしい。
「冒険者でいる、ということかしら?」
「いや……まあ、いわない方がいいだろうね」
君の夢が覚めてしまうからね、と心の中でシルヴィアは呟いた。
「『いとたかき恋人よ、あなたの手を掴むにはわたくしは地上に近すぎる』……この一文、わかるかい、プリムフラウ」
「『我が野の花マリーネよ、大丈夫、二人で手を伸ばし合えば、指先はいつでも届くのだから』……ええ、シルヴィア様。『花咲く乙女』でしょ? ルフランド卿が身分違いのマリーネ嬢をバルコニーで励ますシーン。わたくし、このシーンが好きよ。身分など違っても、愛することはできる……そして、こう結ばれるわ。『恋する者にはいつも天の祝福があるのだ』」
「ああ、私が身分違いの恋に悩んでいるのは気付いているだろう」
いつぞやの戦場でのやり取り。あの時は二人とも剣を手に、今は、ままごとのようなお茶会をしながら。
「ええ、夜色の髪のお方でしょう……お似合いだわ……口にしてらしたものね……全く、あの日のシルヴィア様の美しさといったら……」
目の前のプリムフラウは、何時しか現実を思い出していた。もっともそれは彼女にとってすぐに消える遠い幻、もう一つの現実のようなものであったが……そこにいたのは、かつて歪んだ形であったとはいえ――シルヴィアの恋を肯定してくれたはずの貴婦人であった。
「はは。私は、君のように『ただ一人』のためには生きられない。そう生きてみたい時もあるけれどね――私でなくなってしまうから」
「ええ、自分を曲げるのは、よくないことだわ……」
「いくつもの恋物語の中で、身分違いの恋は悲劇に終わる……でも不思議なことに、君の言葉が背を押すんだ、プリムフラウ。君はあれほどの事件を起こしたというのに……ね」
プリムフラウはしばらく己の指を見ていた。沢山の人を殺めた事実を、この瞬間どう思っているのだろうか……とシルヴィアは問う。
「きっと大丈夫よ、あなたは試練に勝ち、恋心を認め……わたくしの『自己愛』に勝ったのだもの」
その瞬間プリムフラウは『恋する貴婦人』の奥に確かな知性を見せていた。敗北を認めた人の潔さとともに、じっとシルヴィアを見ていた。しかし、不意にその表情が緩み、腰かけていた寝台に倒れ込む。どうやら疲れたらしい。
「あの時から何も思いは変わっていないよ、プリムフラウ」
――君には感謝しているんだ。君は私と彼の仲を肯定してくれた人だから。
だから、どちらもあきらめず、わがままにすべてを手にしよう。
正道の手段で、貴族らしく鮮やかに……。
(どんな困難な道でも、私はやり切ってみせる)
牢を出れば、どれだけ話し込んでいたのだろうか、夕陽が穏やかな輝きを天に満たしていた。やがて来る夜に側にいる人の姿を思い、シルヴィアは微笑む。
そして祈った。どうぞプリムフラウに神のお恵みが……安らぎがありますように、と。
(あの人は、あったかもしれないもう一人の自分だから……私は、そう思いたい)
彼女が罰せられるその時も、美しくありますように、と。