暗黒の街の黄金の夢
キャラクターノベル制作 望月誠司納品 2020年11月16日 20時03分05秒
暖かく透ける黄金の陽光のようにその声は澄んでいた。
ゆったりとした拍子で、聴く者を柔らかく包み込む。
赤子は女に抱かれ揺らされていた。
髪の長い女は歌っていた。
何も不安はないと。
目を閉じて横になれと。
眠れと、ナハティガルへと言っていた。
――安心して良いのだと。
●
ナハティガル=ラーが目を開いた時、世界は安らぎとは無縁の闘争で満ちていた。
ナハティガルは既に目の開かぬ赤ん坊では無くなっていたが、蟷螂の斧しか持ち得ない子供である事に変わりは無かった。
「ルッケが下流の方で浮かんでた」
とぼとぼと歩いてきた少年がぼんやりとした眼差しで、ぼそっと呟くように皆に報告した。
川辺に座り込んでいる子供達は、緩慢に首を回して少年を一瞥し、そして再び首を地面へと向け落とした。
――死体が見つかるだけマシだ。
ナハティガルは川に浸かり、身体をひたすらに擦りながら思った。
ゴールディの暗黒街では子供は良く消滅する。
この街に飼われている子供達は使い捨ての消耗品扱いだった。
数が減ったらすぐに新しい者が補充される。
それで元通り。
替わりなど、いくらでもいる。
――明日は己だろうか?
川の水よりも冷たいものが、胸に差し込まれた気がした。
身体を擦る手に力が籠った。
汚れはもうすっかり落ちている筈だったが、それでも少年は己の身を擦り続けた。
●
生きる為だ。
少年は己に覆い被さるヒキガエルのような大人の体温を感じながら天井を睨んでいた。
だが、生き延びて何になる?
ヒキガエルが鳴いている。
(――それを知る為にも、まずは生きるしかない)
少年は笑顔を浮かべていた。
ヒキガエルが鳴いている。
ぬるぬるとした生暖かさが気色悪かったが、少年は努めて第三者を操るような感覚で己自身を捉え、微笑んで天井を睨み続けていた。
ヒキガエルが鳴いている。
ヒキガエルが鳴いている。
ヒキガエルが鳴いている。
●
ナハティガルは川に浸かり、身体をひたすらに擦っていた。
汚れは既に落ちている筈だったが、何かがこびり付いているような気がする。
「ベンが首を吊ってた」
とぼとぼと少女がやって来て言った。
(――ベンは決断力のある奴だった)
楽になりたいと誰しもが願うが、自分の命に自分で始末をつけられる人間は少ない。
自分で自分の運命を決められる者は少なく、自分で自分の望む運命を手繰り寄せられる者はもっと少ない。
川辺には虚ろな瞳で、ひたすらに横たわっているだけの子供達が転がっている。すぐ近くで水が流れているのに、水を飲む気力すらも失っている。
彼等は自分で死ぬ事も生きる事もできなかったが、やがて渇きや飢えが勝手に殺した。
この場所の子供達は、身体よりもまず心の方から死んでゆく。
蠅と蛆虫が集る骸になったら川に流してやらないとならない。
穢れが蔓延ると病が発生するから。
ナハティガルは微笑を顔に張り付けて虚空を睨みつけながら、刺すように冷たい水で身体を洗い続けた。
汚れが落ちない。
●
似た境遇の子供達が次々と死んでいったが、ナハティガルは生き続けた。
街はずれの丘の陰、
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
闇の底から響いて来るかのような声をあげて少女が泣いている。
泣いている子供は珍しい。
大人がいる場所で泣いていると煩いからと叩き殺されるし、泣くだけの体力や気力がそもそも残っていない。
今では川辺の子供達は誰も泣かない。
大体、虚ろな瞳で虚空をぼうっと眺めてる。
けれど彼女は泣いていた。
生きるように泣いていた。
ナハティガルもここに来ると泣いた。
かつて、二人で約束をした。
苦しい時でも笑う事。
けれど、二人の時だけは、泣いてもいいと。
ナハティガルは声をあげて泣いた。
神を呪った。
世界を呪った。
空を呪った。
街を呪った。
人を呪った。
散々に泣き尽くすと、不思議とすっきりとする。
「――あたし、夢があるんだ」
泣き止んだ少女が赤い目をこすりながらナハティガルへと言った。
風が一陣吹き抜けて、少女の金色の髪を揺らした。
銀髪の少年は眉間に皺を刻んだ。
一瞬、単語を聞き間違えたのかと思ったのだ。
「夢、だって?」
吹き出した。
「笑うなよ!」
「悪い。馬鹿にした訳じゃない」
謝罪しつつも、少年は未だ笑いを表情から消せなかった。
だって、あまりにも異様な言葉だと感じてしまったのだ。
――この地獄のような掃き溜めで夢とは!
明日、骨すら残らずこの世から消えてもおかしくない街で、なかなかぶっとんだ単語だ。
「たいした奴だ、ジーナは」
「ほんとにそう思ってる?」
「本当だ。夢ってどんな夢だ?」
「ドレスを着るの」
「……ドレスを着る?」
また異様な言葉だった。普通の人間の女の子みたいな事を言う。
「そう、真っ白な綺麗なドレス!」
ドレスで腹が膨れるのか? とか、俺達にそんなもんを売ってくれる店があるのか? とか、色々な言葉が脳裏をよぎったが。
「そうか……良い夢だな」
ナハティガルは笑みを消した。胸の奥に痛みが走った。
「本当にそう思ってる?」
「思ってる。悪くない、夢だ」
そう、夢物語だ。
しかし、
「あたしね、絶対に夢を叶えるんだ」
少女は黄金のように輝く笑みをこぼして言った。
●
現実はよくナハティガルを裏切る。
この時も世界はナハティガルの予想を裏切った。
地獄のような掃き溜めでも生命力に溢れた少女は金色の髪を伸ばして豊かに成長し、時の経過と共に仇花のように咲き誇った。
あるいはそれは夢見る彼女の執念だったのかもしれない。
「久しぶりね、ナハティガル」
美しく成長したジーナはどこか緊張した面持ちで、純白のレースがふんだんにあしらわれた洒落たドレスに身を包んで現れた。
未だ十代前半であどけない顔立ちながらも、身は成熟した女にも負けない色香を放っている。
そのアンバランスな美貌がある資産家の目に留まり、養女として拾い上げられたのだ。
「そんなに久しぶりでもない。アンタがお嬢様になってから、一ヵ月も経っちゃいないだろう」
ナハティガルは笑顔で答えた。
「祝福するよ。夢を叶えたな」
「……夢?」
ジーナは眉間に皺を刻み、形の良い金色の眉の端を吊り上げてきた。
ナハティガルは怪訝に思って、笑みを消した。
まさか夢を語った本人が、とっくに夢の事を忘れていたのだろうか。
「アンタ、前に言ってただろう? 白い綺麗なドレスを着るのが夢だって」
するとジーナは目を瞬かせ、それから吹き出すように笑った。
「あぁね、確かにね、言ったね。そんな事。ナハティガル、覚えててくれたんだ?」
「ジーナは忘れていたのか?」
「そういう訳じゃないよ。でも……そう、あたしの着たい白いドレスはこれじゃないんだ。だから、あたしの夢はまだ叶えられてないんだよ」
「そうなのか? 白いし、綺麗だろうに」
「そういう事じゃ無いんだ」
じゃあどういう事だ、とナハティガルは疑問に思ったが、まぁジーナには何か譲れない拘りがあるのだろう。服の好みなんてのは人それぞれだ。
ナハティガルがなんとなく解った気でいると、ジーナは不満そうに少年を睨んで口を尖らせた。
「……っていうかね、着ろっていうから着せられてるけど、このドレスはあたし、あんまり好みじゃないの」
「まったく、贅沢な奴だぜ」
ナハティガルは呆れると共に吹き出した。ついこの間まで襤褸を纏った浮浪児だった癖に、しかし、この少女らしい言い草だと思った。
「それよりさ、貴方、バハル家の使用人になる気は無い?」
バハル家というのはジーナが養女になった男の家だ。
ナハティガルは笑みを消した。ジーナが慌てたように言う。
「勿論、変な仕事はさせないよ! 割の良いの回すよ。それであたしが貴方に対して偉そうにするとかそういうつもりも全然無いし。あたし、貴方が心配なんだ、ここは危ないからさ、貴方もはやくここから出た方が良い」
「……ジーナ、アンタに使用人を独自に雇えるような権限があるのか?」
「けんげん? そんなの、あの変態ジジイにねだれば一発だよ。あのジジイ、外じゃ恰好つけてるけど、バカだから」
「アンタ、養女って話だが、実際のところはそのジジイの妾だろ?」
言うと、幼い顔立ちの金髪の少女は表情を歪めて視線を斜め下の地に落とした。白い右手で自分の左腕を掴む。
「…………そうね。あたしは股のゆるいインバイよ。それが?」
「悪い、責めてる訳じゃない。俺だって似たような事をやってきた。知ってるだろ? そうじゃなくて、俺が言いたいのは、アンタは妾みたいなもので、まだ一ヵ月だ、って事だ。だから、あんまり強引な事はやらない方が良い。ジジイはアンタの事を可愛がってるだろうが、他は違う。俺もちょっとバハル家の事を調べて回ったが、バハル家は奥方の評判が良く無いぜ」
だから、気をつけろ、とナハティガルが忠告するとジーナは俯きながら訝し気な声をあげた。
「……奥方? あんな鳥の骨みたいなヒステリーババアがなんだっていうのさ?」
「買われた奴は、買われた奴でしかないんだ。奥方が正妻だ。後ろ盾も強い」
少年は思う。
そのジジイにとってジーナの事は遊びだ。
だが、奥方は遊びではなく家同士の結びつきの実利だ。
「ジジイに可愛がられてるのはアンタだが、ジジイに恐れられているのは奥方だ、家の為に重要なのもな」
だから、もっと言うなら奥方だけではない。
当主の変態趣味をよく思っていない者は家中に沢山いるだろう。ただでさえ気が立ってる。
「だから、家の中から睨まれるような事はやらない方が良い。危険だ。特に俺達みたいな出の奴は。
折角、そんな綺麗な服を着られる身分になったんだろ。ジーナ、悪い事は言わないから、大人しく、謙虚に振舞っていた方が良い」
淡々と説明すると、ジーナはようやく顔を上げたが、頬を膨らませて碧眼に涙を溜めて不満そうな顔でナハティガルを睨んできた。
少年は肩を竦めた。
「アンタは俺の事が心配だというが、俺に言わせりゃアンタの方こそ心配だぜ?
俺の方は心配いらないよ。大丈夫だ。
何年ここで生き抜いてると思ってるんだ。俺の為に無理なんぞするもんじゃあない。
それよりも、妖怪みたいな鳥骨ババアに取り殺されないように自分の方こそ気をつけろ」
ナハティガルは首の後ろを掻きつつ笑顔を浮かべた。
声が掠れて震えてしまわないように一つ咳払いしてから言う。
「――悪い主人じゃないのなら、少しはジジイの事もいたわってやれ、余程嫌な相手なら無理にとは言わないが、だが、それがアンタ自身の身を守る為にもなる」
銀髪の少年が言うと金髪の少女は凄絶な笑顔を浮かべた。
「……あたし、絶対、あの変態ジジイをたぶらかしてバハル家のケンリョク握ってやるから!」
「おいおいおいおいおい」
「なんてね、冗談よ。あたしもそこまで命知らずじゃない。アンタが言いたい事は解った。せいぜい周りに気に入られるように、波風立てないように生きてやるわよ」
「頼むぜ。しっかり身を守れよ。俺が泣けるのは、アンタの前だけなんだからな」
「それはこっちの台詞でもあるんだけどね。貴方こそ、ヘマしないでよね!」
そんな事を笑いながら言い合って、別れた。
それが、ナハティガルがジーナとかわした、最後の言葉だった。
あくる日、川辺に虚ろな瞳の子供がとぼとぼとやってきて言った。
「――ジーナが首を吊ったってさ」
●
自殺、という噂だった。
なんでも家格に見合った礼儀作法が出来ず、養女となった幼い少女は日々苦悩していて、ある日パーティで大きな粗相をしてしまい、恩義ある家の名を汚した責任を感じて自ら命を断ったのだそうな。
――あいつがそんなタマか。
別の噂では、奥方達と反りが合わず、毎日のように酷いイジメを受けていて、それで日々憔悴してゆき、この世を儚んで首を吊ったと。
――あいつがそんなタマか。
さらに別の噂が言う。
あの気の強い幼いながらに妖艶な娘は、奥方の勘気に触れる振る舞いをしてしまい激怒させ、故に、自殺に見せかけて殺されたのだと。
――噂の中ならこれが一番ありえそうだ。
だが、真実は奈辺にあるのか、本当の所は、わからなかった。推測しか出来ない。
確実にわかっている事は。
もう泣き顔を晒せる相手はこの世にはいない、という事。
だから、ナハティガルは泣くのを止めた。
再び瞳を閉じるその日まで。
ゆったりとした拍子で、聴く者を柔らかく包み込む。
赤子は女に抱かれ揺らされていた。
髪の長い女は歌っていた。
何も不安はないと。
目を閉じて横になれと。
眠れと、ナハティガルへと言っていた。
――安心して良いのだと。
●
ナハティガル=ラーが目を開いた時、世界は安らぎとは無縁の闘争で満ちていた。
ナハティガルは既に目の開かぬ赤ん坊では無くなっていたが、蟷螂の斧しか持ち得ない子供である事に変わりは無かった。
「ルッケが下流の方で浮かんでた」
とぼとぼと歩いてきた少年がぼんやりとした眼差しで、ぼそっと呟くように皆に報告した。
川辺に座り込んでいる子供達は、緩慢に首を回して少年を一瞥し、そして再び首を地面へと向け落とした。
――死体が見つかるだけマシだ。
ナハティガルは川に浸かり、身体をひたすらに擦りながら思った。
ゴールディの暗黒街では子供は良く消滅する。
この街に飼われている子供達は使い捨ての消耗品扱いだった。
数が減ったらすぐに新しい者が補充される。
それで元通り。
替わりなど、いくらでもいる。
――明日は己だろうか?
川の水よりも冷たいものが、胸に差し込まれた気がした。
身体を擦る手に力が籠った。
汚れはもうすっかり落ちている筈だったが、それでも少年は己の身を擦り続けた。
●
生きる為だ。
少年は己に覆い被さるヒキガエルのような大人の体温を感じながら天井を睨んでいた。
だが、生き延びて何になる?
ヒキガエルが鳴いている。
(――それを知る為にも、まずは生きるしかない)
少年は笑顔を浮かべていた。
ヒキガエルが鳴いている。
ぬるぬるとした生暖かさが気色悪かったが、少年は努めて第三者を操るような感覚で己自身を捉え、微笑んで天井を睨み続けていた。
ヒキガエルが鳴いている。
ヒキガエルが鳴いている。
ヒキガエルが鳴いている。
●
ナハティガルは川に浸かり、身体をひたすらに擦っていた。
汚れは既に落ちている筈だったが、何かがこびり付いているような気がする。
「ベンが首を吊ってた」
とぼとぼと少女がやって来て言った。
(――ベンは決断力のある奴だった)
楽になりたいと誰しもが願うが、自分の命に自分で始末をつけられる人間は少ない。
自分で自分の運命を決められる者は少なく、自分で自分の望む運命を手繰り寄せられる者はもっと少ない。
川辺には虚ろな瞳で、ひたすらに横たわっているだけの子供達が転がっている。すぐ近くで水が流れているのに、水を飲む気力すらも失っている。
彼等は自分で死ぬ事も生きる事もできなかったが、やがて渇きや飢えが勝手に殺した。
この場所の子供達は、身体よりもまず心の方から死んでゆく。
蠅と蛆虫が集る骸になったら川に流してやらないとならない。
穢れが蔓延ると病が発生するから。
ナハティガルは微笑を顔に張り付けて虚空を睨みつけながら、刺すように冷たい水で身体を洗い続けた。
汚れが落ちない。
●
似た境遇の子供達が次々と死んでいったが、ナハティガルは生き続けた。
街はずれの丘の陰、
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
闇の底から響いて来るかのような声をあげて少女が泣いている。
泣いている子供は珍しい。
大人がいる場所で泣いていると煩いからと叩き殺されるし、泣くだけの体力や気力がそもそも残っていない。
今では川辺の子供達は誰も泣かない。
大体、虚ろな瞳で虚空をぼうっと眺めてる。
けれど彼女は泣いていた。
生きるように泣いていた。
ナハティガルもここに来ると泣いた。
かつて、二人で約束をした。
苦しい時でも笑う事。
けれど、二人の時だけは、泣いてもいいと。
ナハティガルは声をあげて泣いた。
神を呪った。
世界を呪った。
空を呪った。
街を呪った。
人を呪った。
散々に泣き尽くすと、不思議とすっきりとする。
「――あたし、夢があるんだ」
泣き止んだ少女が赤い目をこすりながらナハティガルへと言った。
風が一陣吹き抜けて、少女の金色の髪を揺らした。
銀髪の少年は眉間に皺を刻んだ。
一瞬、単語を聞き間違えたのかと思ったのだ。
「夢、だって?」
吹き出した。
「笑うなよ!」
「悪い。馬鹿にした訳じゃない」
謝罪しつつも、少年は未だ笑いを表情から消せなかった。
だって、あまりにも異様な言葉だと感じてしまったのだ。
――この地獄のような掃き溜めで夢とは!
明日、骨すら残らずこの世から消えてもおかしくない街で、なかなかぶっとんだ単語だ。
「たいした奴だ、ジーナは」
「ほんとにそう思ってる?」
「本当だ。夢ってどんな夢だ?」
「ドレスを着るの」
「……ドレスを着る?」
また異様な言葉だった。普通の人間の女の子みたいな事を言う。
「そう、真っ白な綺麗なドレス!」
ドレスで腹が膨れるのか? とか、俺達にそんなもんを売ってくれる店があるのか? とか、色々な言葉が脳裏をよぎったが。
「そうか……良い夢だな」
ナハティガルは笑みを消した。胸の奥に痛みが走った。
「本当にそう思ってる?」
「思ってる。悪くない、夢だ」
そう、夢物語だ。
しかし、
「あたしね、絶対に夢を叶えるんだ」
少女は黄金のように輝く笑みをこぼして言った。
●
現実はよくナハティガルを裏切る。
この時も世界はナハティガルの予想を裏切った。
地獄のような掃き溜めでも生命力に溢れた少女は金色の髪を伸ばして豊かに成長し、時の経過と共に仇花のように咲き誇った。
あるいはそれは夢見る彼女の執念だったのかもしれない。
「久しぶりね、ナハティガル」
美しく成長したジーナはどこか緊張した面持ちで、純白のレースがふんだんにあしらわれた洒落たドレスに身を包んで現れた。
未だ十代前半であどけない顔立ちながらも、身は成熟した女にも負けない色香を放っている。
そのアンバランスな美貌がある資産家の目に留まり、養女として拾い上げられたのだ。
「そんなに久しぶりでもない。アンタがお嬢様になってから、一ヵ月も経っちゃいないだろう」
ナハティガルは笑顔で答えた。
「祝福するよ。夢を叶えたな」
「……夢?」
ジーナは眉間に皺を刻み、形の良い金色の眉の端を吊り上げてきた。
ナハティガルは怪訝に思って、笑みを消した。
まさか夢を語った本人が、とっくに夢の事を忘れていたのだろうか。
「アンタ、前に言ってただろう? 白い綺麗なドレスを着るのが夢だって」
するとジーナは目を瞬かせ、それから吹き出すように笑った。
「あぁね、確かにね、言ったね。そんな事。ナハティガル、覚えててくれたんだ?」
「ジーナは忘れていたのか?」
「そういう訳じゃないよ。でも……そう、あたしの着たい白いドレスはこれじゃないんだ。だから、あたしの夢はまだ叶えられてないんだよ」
「そうなのか? 白いし、綺麗だろうに」
「そういう事じゃ無いんだ」
じゃあどういう事だ、とナハティガルは疑問に思ったが、まぁジーナには何か譲れない拘りがあるのだろう。服の好みなんてのは人それぞれだ。
ナハティガルがなんとなく解った気でいると、ジーナは不満そうに少年を睨んで口を尖らせた。
「……っていうかね、着ろっていうから着せられてるけど、このドレスはあたし、あんまり好みじゃないの」
「まったく、贅沢な奴だぜ」
ナハティガルは呆れると共に吹き出した。ついこの間まで襤褸を纏った浮浪児だった癖に、しかし、この少女らしい言い草だと思った。
「それよりさ、貴方、バハル家の使用人になる気は無い?」
バハル家というのはジーナが養女になった男の家だ。
ナハティガルは笑みを消した。ジーナが慌てたように言う。
「勿論、変な仕事はさせないよ! 割の良いの回すよ。それであたしが貴方に対して偉そうにするとかそういうつもりも全然無いし。あたし、貴方が心配なんだ、ここは危ないからさ、貴方もはやくここから出た方が良い」
「……ジーナ、アンタに使用人を独自に雇えるような権限があるのか?」
「けんげん? そんなの、あの変態ジジイにねだれば一発だよ。あのジジイ、外じゃ恰好つけてるけど、バカだから」
「アンタ、養女って話だが、実際のところはそのジジイの妾だろ?」
言うと、幼い顔立ちの金髪の少女は表情を歪めて視線を斜め下の地に落とした。白い右手で自分の左腕を掴む。
「…………そうね。あたしは股のゆるいインバイよ。それが?」
「悪い、責めてる訳じゃない。俺だって似たような事をやってきた。知ってるだろ? そうじゃなくて、俺が言いたいのは、アンタは妾みたいなもので、まだ一ヵ月だ、って事だ。だから、あんまり強引な事はやらない方が良い。ジジイはアンタの事を可愛がってるだろうが、他は違う。俺もちょっとバハル家の事を調べて回ったが、バハル家は奥方の評判が良く無いぜ」
だから、気をつけろ、とナハティガルが忠告するとジーナは俯きながら訝し気な声をあげた。
「……奥方? あんな鳥の骨みたいなヒステリーババアがなんだっていうのさ?」
「買われた奴は、買われた奴でしかないんだ。奥方が正妻だ。後ろ盾も強い」
少年は思う。
そのジジイにとってジーナの事は遊びだ。
だが、奥方は遊びではなく家同士の結びつきの実利だ。
「ジジイに可愛がられてるのはアンタだが、ジジイに恐れられているのは奥方だ、家の為に重要なのもな」
だから、もっと言うなら奥方だけではない。
当主の変態趣味をよく思っていない者は家中に沢山いるだろう。ただでさえ気が立ってる。
「だから、家の中から睨まれるような事はやらない方が良い。危険だ。特に俺達みたいな出の奴は。
折角、そんな綺麗な服を着られる身分になったんだろ。ジーナ、悪い事は言わないから、大人しく、謙虚に振舞っていた方が良い」
淡々と説明すると、ジーナはようやく顔を上げたが、頬を膨らませて碧眼に涙を溜めて不満そうな顔でナハティガルを睨んできた。
少年は肩を竦めた。
「アンタは俺の事が心配だというが、俺に言わせりゃアンタの方こそ心配だぜ?
俺の方は心配いらないよ。大丈夫だ。
何年ここで生き抜いてると思ってるんだ。俺の為に無理なんぞするもんじゃあない。
それよりも、妖怪みたいな鳥骨ババアに取り殺されないように自分の方こそ気をつけろ」
ナハティガルは首の後ろを掻きつつ笑顔を浮かべた。
声が掠れて震えてしまわないように一つ咳払いしてから言う。
「――悪い主人じゃないのなら、少しはジジイの事もいたわってやれ、余程嫌な相手なら無理にとは言わないが、だが、それがアンタ自身の身を守る為にもなる」
銀髪の少年が言うと金髪の少女は凄絶な笑顔を浮かべた。
「……あたし、絶対、あの変態ジジイをたぶらかしてバハル家のケンリョク握ってやるから!」
「おいおいおいおいおい」
「なんてね、冗談よ。あたしもそこまで命知らずじゃない。アンタが言いたい事は解った。せいぜい周りに気に入られるように、波風立てないように生きてやるわよ」
「頼むぜ。しっかり身を守れよ。俺が泣けるのは、アンタの前だけなんだからな」
「それはこっちの台詞でもあるんだけどね。貴方こそ、ヘマしないでよね!」
そんな事を笑いながら言い合って、別れた。
それが、ナハティガルがジーナとかわした、最後の言葉だった。
あくる日、川辺に虚ろな瞳の子供がとぼとぼとやってきて言った。
「――ジーナが首を吊ったってさ」
●
自殺、という噂だった。
なんでも家格に見合った礼儀作法が出来ず、養女となった幼い少女は日々苦悩していて、ある日パーティで大きな粗相をしてしまい、恩義ある家の名を汚した責任を感じて自ら命を断ったのだそうな。
――あいつがそんなタマか。
別の噂では、奥方達と反りが合わず、毎日のように酷いイジメを受けていて、それで日々憔悴してゆき、この世を儚んで首を吊ったと。
――あいつがそんなタマか。
さらに別の噂が言う。
あの気の強い幼いながらに妖艶な娘は、奥方の勘気に触れる振る舞いをしてしまい激怒させ、故に、自殺に見せかけて殺されたのだと。
――噂の中ならこれが一番ありえそうだ。
だが、真実は奈辺にあるのか、本当の所は、わからなかった。推測しか出来ない。
確実にわかっている事は。
もう泣き顔を晒せる相手はこの世にはいない、という事。
だから、ナハティガルは泣くのを止めた。
再び瞳を閉じるその日まで。