虹の記憶
キャラクターノベル制作 望月誠司納品 2020年11月12日 20時05分18秒
灰色の時代だった。
けれど、あの頃の僕は、僕達は、確かに笑い合っていた。
君達が虹を見せてくれたから。
今はもう、いない。
●
――夜の紺碧と明けの黄金とが混ざり合う東空に燃える火のように、燦然と鮮やかな紅の瞳を持つ子供だった。
髪の色は金色。絹糸のように艶やかで滑らかな髪を、少女にしては短く、少年にしては長く切り揃えていた。
古の絵画に描かれた妖精が、額縁の中からそっと抜け出して動いているかのような――そんな錯覚を人に覚えさせる程に美しい。
華美さが抑えられた質素な作りながら、生地自体は上質だと解る男物の服と深緑の外套に、白く細い華奢な身を包んでいた。だが、男であるなら顔立ちが美し過ぎる。
少年なのか、少女なのか、直接聞けば、答えを教えてくれそうな気はしたが、セロンガード・シュタインドルフはなんとなく聞きそびれた。
紅瞳の子も自らは言わなかった。
互いに無意識に避けていたのかもしれない。あの年頃の男女は性別で互いの立ち位置を動かすから。
一体どこから来たのか、出自も身分も性別も解らないその紅瞳の子――仮の名として紅瞳子と呼ぶ事にしよう――とセロンが初めて出会った場所は森だった。
セロンと紅瞳子の最初の出会い方はあまり良い形では無かった。
外見だけなら非常に神秘的で幻想的ですらある紅瞳子だったが、その性、悪戯好きでおまけに暴力魔だった。
結構な喧嘩になって一度目は別れたのだが、セロンと紅瞳子はそれからも度々会う事となり――
色々とトラブルが起こって共に行動する事にもなり――
「指切り! 何かあったらお互い駆けつける事!」
そんな約束を交わし合う事にもなった。
結局、そのトラブルはなんとかなったのだが、その後も共に居る事が増えた。
運命の悪戯だ。
セロンは弓を使う。
だが、その弓の技術は元々は紅瞳子が教えてくれたものだった。
「どうやら貴方は弓のセンスがあるようですね。魔法の方は微妙ですが」
幼いながらに気品に満ちた顔で紅瞳子が偉そうに微笑し、セロンガードを品評した。
「――魔法は微妙、は余計だよ」
セロンは流麗な装飾が刻まれた短弓に矢を番えると目いっぱいに引き絞って放った。矢が旋転しながら真っ直ぐに飛び、森の大樹に吊るされた的の中央に硬い音を立てながら鋭く突き立つ。
この短弓はセロンが屋敷から持ち出したものだ。
少年は叔父に貴族として育てられていた。そこに愛は無かったが――ただ、喰うには困らなかった。物にも。
弓矢の一具や二具くらいなら持ち出す事が出来た。
的に中て続けていると、紅瞳子の傍らに伏せていた古狼がおもむろに立ち上がって、セロンを見た。
とても大きな狼だった。
山野の覇者たる大獣としての威風を備え、瞳にはただの獣には収まらぬ知恵の光が宿っている。
銀の毛並みは艶やかで柔らかく、触るとふさふさとしていて心地良い事をセロンは今では知っていたが、初めて会った時は随分と彼には警戒されたものだ。
その時の古狼と紅瞳子は、何処かから逃げて来た直後のような様子だった。今でも偶に思い出す、紅瞳子を背に庇って立っていた彼の、森の薄闇に輝いていた鋭い眼光を。
過去よりは幾分、柔らかくなった双眸で古狼はセロンを見つめていた。
古狼は顎を開いて一声吼えた。
くるりと背を向け森の奥の方へと歩き出す。
「……え?」
セロンが黒瞳を瞬かせていると紅瞳子が駆け出した。
「ついて来なさい、だそうです!」
「……前から思ってたんだけど、君はアルターが言ってる言葉がわかるの?!」
「なんとなくです!」
紅瞳子と言葉を交わしつつセロンもまた駆け出す。
古狼の背を追い、子供二人で緑成す大森林の奥へと入ってゆく。
やがて、湖の側に群れているこの地方の森鹿の元まで古狼は二人を案内した。
灌木の陰にて古狼はセロンへと双眸を向け、それから顎をデイアへとしゃくった。
「えっと……?」
「貴方に『狩れ』って言っているのだと思います」
声を潜めて紅瞳子が通訳する。
「えぇっ?」
少年が戸惑っていると、古狼は前足をセロン達へと向けて「ここで待て」とでも言いたげチョイチョイと振った。そして横手へと滑るように動き出す。
古狼が音も無く反時計回りに動き、デイアを挟み込む位置へと移動してゆく。
デイア達の動きに変化が起こった。
警戒するように首を伸ばし、ピンと耳をそばだて周囲を見回し始める。
反対側の位置の茂みへと移動した古狼が前触れもなく飛び出した。
デイア達が弾かれたように駆けだす。耳をつんざく咆吼が森中に轟く。
鹿達は八方に散ったが、恐慌した様子の一頭が、セロン達が潜む茂みの方へと駆け迫って来る。
セロンは無我夢中で弓に矢を番え放った。
鋭く飛んだ矢が、デイアの胸に突き立ち衝撃力を解き放った。
四つ足で立つ獣身が大きく揺らぐ。
直後、古狼が銀色の暴風の如く飛び掛かって鹿の首に噛み付き、一瞬で絶命させた。
「や、やりましたねセロン」
「う、うん」
眼前に展開された血と圧倒的な暴力に気圧されていた子供二人だったが、古狼は気にした様子もなくバリバリと骨ごとデイアを噛み砕いて、あっという間に平らげてしまった。
骨肉と鮮血が地に四散し、しかし矢は折られもせず綺麗に取り除かれていた。
あっという間に食事を終えた古狼はまたセロンを見て、一声短く吼えると踵を返して歩き出す。
「……ついて来なさいって!」
「まだやるの?!」
セロンは矢を拾うと慌てて紅瞳子と共に追いかけた。
古狼はセロンに狩りの仕方を教えてくれた。
それは会う度にほぼ日課のようになった。
やらない日もあるが結構な頻度で狩りを行う。
そして古狼は狩りの最後には「お前の取り分だ」とでも言うようにデイア等の小さな獲物を一頭、セロンの方へ放るのだ。
狩った総数からすると随分と少ない具合ではあったが、それ以上貰っても、セロンには運べないし処理のしようもなかったので、賢明な古狼はその事を解っていたのかもしれない。
十歳になった時、セロンは授恵者となった。
紅瞳子は酷く驚いた様子だったが、
「凄いじゃないですかセロン!」
我が事のように喜んでくれた。
それからは狩りも格段に上手くなった。
古狼はトドメを自ら刺さなくなり、吼えて追い立てるだけになった。やがて獲物を探す事もセロンに任せるようになった。彼は狩りでのセロンの役割を増やしていった。どうもセロンを鍛えようとしているそぶりがあった。
(なんでだろう?)
少年はふと疑問に思ったが、あまり深くは考えなかった。己の狩りの腕が日々上達してゆくのを感じるのは、少年にとって嫌な事では無かったからだ。
古狼は紅瞳子と談笑するセロンをしばしば、じっと見つめていた。
それが日常。
屋敷にて灰色の生活を送って来たセロンにとって、悪くない日常だった。
いや、あるいは――
「見てくださいセロン!」
大森林の一画にある丘に登った時、紅瞳子が空を指差した。
雨上がりの空には鮮やかな虹のアーチがかかっていた。
「凄く、綺麗です!」
紅瞳子が興奮したように瞳を輝かせて言う。
セロンもまた隣に立って共に空を見上げ「そうだね!」と美しさに感動しながら頷いた。
雨上がりの森の空には虹がかかる。
その事をセロンは知っていた。
けれど、この日見た虹は、今までに見たどの虹よりも美しく見えた。
――あるいは、この日常に幸福さえ感じていたのかもしれない。
だがセロンが十一歳になった年のあくる日、それらは唐突に終わりを告げた。
●
木漏れ日降り注ぐ森の一画。
いつものように叔父に秘密で屋敷を抜け出したセロンは、地に描かれた魔法陣の中央に座る古狼と向かい合うように胡坐をかいて座っていた。
口から唱え続けているのは呪文。一定の抑揚でひたすらに呟いている。
小一時間程も呪術をとり行っていると、やがてその瞬間がやってきた。
視覚と聴覚が眼前の古狼と急激に混じり合う。
古狼からの意志がセロンへと流れ込んでくる。
どうやら古狼は退屈だったらしく、すぐに起き上がって四肢を大地につきながら身を伸ばした。ズブ濡れになった犬が水を飛ばすようにブルブルと体躯を震わせる。
澱接続線が繋がれたのだ。
授恵者のシューターとしての能力を磨いたセロンは古狼と接続線を繋いでいた。
紅瞳子が良いと言って、古狼も嫌がらなかったからだ。
古狼と三感と意志を同調させると狩りはさらに順調になった。
しかし、あくる日の狩りの最中の事だ。
急に風が出てきて空に灰色の雲が集まってきた。
「一雨きそうですね」
「嵐になるかも。嫌だなぁ、今日は早めに切り上げた方が良さそう」
紅瞳子と空模様を憂いながら森中の道を進んでいると、茂みの陰より三人の男達が立ちはだかるように唐突に現れた。
一様にフード付きの漆黒の長衣を着こみ、腰に黒鞘の刀を佩いている。
いつの間に近づかれていたのか、セロンは目を剥いた。
澱接続を繋いでいなければ、あるいは古狼の明敏な嗅覚が事前にとらえていたかもしれない。だが、澱接続している間は嗅覚、聴覚、視覚、いずれも主人と同等のものになる。だから古狼でも気付かなかったのだ。
黒長衣達は一斉に膝をついた。
「お探しいたしましたぞ臺下」
彼等は紅瞳子へと礼を取っていた。
視線を向けると紅瞳子の顔色は蒼白だった。古狼からも危機感が伝わってきている。
「……お知り合い?」
「遺憾ながら、一応、そうなります」
紅瞳子は頷いた。
「ですが、友好的な相手でもありません。去りなさい影法師! 私は貴方達には従いません!」
「まぁそうでしょうな。あまり手荒な事はしたくないのですが……」
ぽつぽつと、雨が降り始めていた。
黒長衣の男達がゆっくりと立ち上がる。
紅瞳子が一歩後退り、古狼が庇うように間に進み出て唸り声をあげる。
「アルターか。忌々しい畜生めが。最早、貴様など脅威ではないわ。かかれッ!」
男達が一斉に腰から刀を抜刀し、古狼から逃げろ、との意志が伝わって来る。
セロンは紅瞳子の手を掴むと駆け出した。
飛び掛かって来る男達の刀を古狼が素早く飛び退いてかわし、前足を振るって薙ぎ払う光景が、セロンの脳裏には見えていた。
アルターは非常に強かった。
そして素早かった。
セロンと紅瞳子が逃げるまでの時間を稼ぎ、そして彼もまた脱出する事は十分に可能と思われた。
敵が三人だけだったら。
セロンは今度は気付いた。
退路の左右、灌木の陰に三人、隠れている。
「待った!」
セロンは紅瞳子を制止させ足を止めると、素早く腰の矢筒から矢を引き抜き、弓に番えざま放った。
鋭く飛んだ矢が灌木の中に消えてゆき、短く悲鳴が上がり、人が倒れる音が響く。
中った。
――死んだ、のか?
少年の腕に震えが走った。
直後、道の左右の灌木から黒長衣の男達が飛び出して来る。
「くっ!」
セロンは二本の矢を同時に引き抜くと、半瞬の間に矢継ぎ早に連射した。
目にも止まらぬ速射、だがその狙い、胴では無かった。脚だった。少年は人を殺める事を、咄嗟に嫌ったのだ。
一本の矢が右の黒長衣の男の膝を射抜いた。男が悲鳴をあげて転倒する。
二本目の矢が左の黒長衣の脛へと迫り、刺さる直前、男は高々と跳躍した。
矢が空を貫いて地に突き立つ。
宙より抜刀した男が刀を振り上げ迫って来る。
(――しまった)
胴を狙っていれば、こうも簡単にかわされる事は無かっただろう。致命傷にならぬように脚を狙ったのが、仇となった。
転瞬、曲刃がセロンの額目掛け落雷の如く一閃され、咄嗟に身を捻り頭部を横に振ってかわさんとしたセロンの肩口に喰らいつく。
鋼の切っ先が、少年の鎖骨を割り、肉を断ち斬りながら抜けてゆく。
「セロン!」
紅瞳子が悲鳴をあげ弾かれたように癒しの術式を練り始める。黒長衣の男が刀を弓引くように素早く構え直す。トドメの刺突が来る。セロンは激痛と衝撃に視界を揺らがせながらも、必死に矢筒の矢を探り、掴む。
雷鳴が轟いた。
森中は翳りを深め、天より降り注ぐ雨の勢いが急激に増してゆく。
暴風のような巨体が突進してきた。
圧倒的な巨躯を誇る古狼が、爪を鉄槌の如くに振るって一撃で黒長衣の男を叩き伏せ、地に押し倒した。
間髪入れずに巨大な牙を喉笛へと突き立て、喰らいついて引き千切る。
赤い色がぶちまけられ、黒長衣の男が激しく身を痙攣させ、絶命してゆく。
紅瞳子から癒光が放たれた。
光がセロンの身を暖かく包み込み、荒れ狂っていた激痛を急速に鎮め、傷を癒してゆく。
――だが、その時、唯一まだ立っていた影法師達の長たる男が、古狼の隙を見て取り地に刀を突き刺し術式を展開していた。
古狼の足元に巨大な魔法陣が出現する。
気付いた古狼は咄嗟に飛び退いたが、見えない障壁のようなものにぶちあたって魔法陣内へと押し戻される。
刹那、セロンへと古狼の意志が流れ込んできた。それは言語化されたものではなかった。
だが、人の言葉にするならば、
――その子を頼む。
古狼はセロンに紅瞳子の事を頼んでいた。
――何故、僕に頼む。
氷のように冷たい予感がセロンの腹の底から脳天までを一瞬で突き抜けた。
これからも君が自分で守れば良いじゃないか、そう言いたかった。
だが、ぶつり、と何かが切れたような音が頭の奥で鳴り、激烈な衝撃が襲った。セロンへと伝わってきていた古狼の意志が途絶える。
視界と聴覚と嗅覚とが激しくかき乱され立っていられなくなる。
古狼の足元に展開していた魔法陣が眩く猛烈に輝いた。
そして、地から天へと向かい稲妻のような蒼白い巨大な爆光が噴き上がっていった。
●
雨が激しく降っている。
稲妻が天で荒れ狂っている。
視界がうねるように揺れ、耳障りな音が頭の内側から響いている。
そんな中、セロンは遠くから紅瞳子の狂ったような絶叫を聞いた気がした。
霞む目を豪雨の中に必死に凝らせば、古狼が、あの強大無比を誇った古狼が、銀の巨体を横倒しにして、真っ赤な血の海に沈んでいた。ピクリとも動かない。
視覚情報を理解した瞬間、セロンの脳髄を憤怒が突き抜け焼き焦がした。振り向いて黒長衣の長を睨むと、酩酊感を無視し、弓身を握り締め矢を番え引き絞る。
「お前ぇええええええええ!!」
だが、激怒の矢が放たれる前に、セロンの背を強烈な衝撃が突き抜けた。小柄な少年の身が宙に舞い、吹き飛んで転がる。
「あ……?」
雨に濡れた地に仰向けに転がったまま、首を向ければ、膝から矢を生やしながらも黒長衣の男が黄光を不気味に立ち登らせる刀を振り抜いた姿勢で立っていた。刀身がべったりと赤く濡れている。
セロンの血だ。
少年は既に雨でずぶ濡れだったが、背は焼けたように猛烈に熱くなって来ていた。
「…………小僧、どうして死んでいない」
雨音を割って影法師の長の声が低く響いた。
「古狼は死んだのに」
血塗れの少年は絶叫をあげた。
身を捻り、手をぬかるんだ地につき、起き上がる、荒れ狂っている背中の激痛、無視する。
弓に矢を――弓が、いつの間にか手から消えている。腰の矢筒から矢を引き抜く。握り締め、駆けだす。
癒しの光が紅瞳子の方から飛んで来る。身体から痛みが引いてゆく。力が甦って来る。
膝から力が抜けた。
折れる。
前のめりに地面に叩きつけられる。
――何が起こった?
身体が、動かない。
麻痺している。
黄光を立ち登らせる刀が脳裏をよぎった。
――毒のエーテル。
気づく。
紅瞳子は澱毒を解除する魔法はまだ使えない。紅瞳子はとても優秀だったが、セロンと違い授恵者でもない、十歳程度のただの子供だ。
黒い天で雷光が荒れ狂っている。滝のような雨が地に降り注いでいた。
「……忌々しい畜生と餓鬼でしたな、四人も殺られた。接続を切ったのでは?」
「……それは不可能だ。エーテルのリンクラインは咄嗟に切る事など出来ん」
「ええ、普通は出来ない。ですが、この古狼は普通ではありますまい」
「……なるほど。こやつなら、出来かねん、か……そうか、主人を守る為に、自ら無理やり断ったか。畜生ながら、最期まで天晴な奴よ。所詮……無駄な足掻きだがなッ!」
黒長衣の男達が刀をぶら下げてセロンへと近づき、
「待てぇえッ!」
絶叫が響いた。
「――待たねば私は私の喉を刺すッ!!」
紅瞳子が短刀の切っ先を自らの喉へと向けていた。
「……臺下、本気ですかな?」
「試してみるか? 貴様らにアルターが殺され、セロンまで殺められれば、この世などしがみ付くに値せんわ! 元々、どこかで野垂れ死ぬつもりだった。セロンに出会わなければな」
「……対価は?」
「私の身だ。引き換えに彼を助けろ、誓えッ!!」
「承知いたしました。誓いましょう、我が剣にかけて――」
「神に誓えッ!!!!」
「……………………よろしい。我らが神に誓いましょう。ですが、それならばせめて、記憶消しの術はかけさせていただきますぞ」
「だ……駄目だ……ッ!!」
セロンは最早動かぬ身ながら首だけを紅瞳子に向けて声を絞り出した。
「に……げ……ろ……ッ!!」
最期に見上げた紅瞳子は笑っていた。泣きながら、微笑んでいた。
「御免なさい、セロン、どうか幸せに生きて」
目の前が真っ暗になった。
比喩ではなく、何も見えなくなった。
それが、セロンが最後に見た、紅瞳子の笑顔だった。
けれど、あの頃の僕は、僕達は、確かに笑い合っていた。
君達が虹を見せてくれたから。
今はもう、いない。
●
――夜の紺碧と明けの黄金とが混ざり合う東空に燃える火のように、燦然と鮮やかな紅の瞳を持つ子供だった。
髪の色は金色。絹糸のように艶やかで滑らかな髪を、少女にしては短く、少年にしては長く切り揃えていた。
古の絵画に描かれた妖精が、額縁の中からそっと抜け出して動いているかのような――そんな錯覚を人に覚えさせる程に美しい。
華美さが抑えられた質素な作りながら、生地自体は上質だと解る男物の服と深緑の外套に、白く細い華奢な身を包んでいた。だが、男であるなら顔立ちが美し過ぎる。
少年なのか、少女なのか、直接聞けば、答えを教えてくれそうな気はしたが、セロンガード・シュタインドルフはなんとなく聞きそびれた。
紅瞳の子も自らは言わなかった。
互いに無意識に避けていたのかもしれない。あの年頃の男女は性別で互いの立ち位置を動かすから。
一体どこから来たのか、出自も身分も性別も解らないその紅瞳の子――仮の名として紅瞳子と呼ぶ事にしよう――とセロンが初めて出会った場所は森だった。
セロンと紅瞳子の最初の出会い方はあまり良い形では無かった。
外見だけなら非常に神秘的で幻想的ですらある紅瞳子だったが、その性、悪戯好きでおまけに暴力魔だった。
結構な喧嘩になって一度目は別れたのだが、セロンと紅瞳子はそれからも度々会う事となり――
色々とトラブルが起こって共に行動する事にもなり――
「指切り! 何かあったらお互い駆けつける事!」
そんな約束を交わし合う事にもなった。
結局、そのトラブルはなんとかなったのだが、その後も共に居る事が増えた。
運命の悪戯だ。
セロンは弓を使う。
だが、その弓の技術は元々は紅瞳子が教えてくれたものだった。
「どうやら貴方は弓のセンスがあるようですね。魔法の方は微妙ですが」
幼いながらに気品に満ちた顔で紅瞳子が偉そうに微笑し、セロンガードを品評した。
「――魔法は微妙、は余計だよ」
セロンは流麗な装飾が刻まれた短弓に矢を番えると目いっぱいに引き絞って放った。矢が旋転しながら真っ直ぐに飛び、森の大樹に吊るされた的の中央に硬い音を立てながら鋭く突き立つ。
この短弓はセロンが屋敷から持ち出したものだ。
少年は叔父に貴族として育てられていた。そこに愛は無かったが――ただ、喰うには困らなかった。物にも。
弓矢の一具や二具くらいなら持ち出す事が出来た。
的に中て続けていると、紅瞳子の傍らに伏せていた古狼がおもむろに立ち上がって、セロンを見た。
とても大きな狼だった。
山野の覇者たる大獣としての威風を備え、瞳にはただの獣には収まらぬ知恵の光が宿っている。
銀の毛並みは艶やかで柔らかく、触るとふさふさとしていて心地良い事をセロンは今では知っていたが、初めて会った時は随分と彼には警戒されたものだ。
その時の古狼と紅瞳子は、何処かから逃げて来た直後のような様子だった。今でも偶に思い出す、紅瞳子を背に庇って立っていた彼の、森の薄闇に輝いていた鋭い眼光を。
過去よりは幾分、柔らかくなった双眸で古狼はセロンを見つめていた。
古狼は顎を開いて一声吼えた。
くるりと背を向け森の奥の方へと歩き出す。
「……え?」
セロンが黒瞳を瞬かせていると紅瞳子が駆け出した。
「ついて来なさい、だそうです!」
「……前から思ってたんだけど、君はアルターが言ってる言葉がわかるの?!」
「なんとなくです!」
紅瞳子と言葉を交わしつつセロンもまた駆け出す。
古狼の背を追い、子供二人で緑成す大森林の奥へと入ってゆく。
やがて、湖の側に群れているこの地方の森鹿の元まで古狼は二人を案内した。
灌木の陰にて古狼はセロンへと双眸を向け、それから顎をデイアへとしゃくった。
「えっと……?」
「貴方に『狩れ』って言っているのだと思います」
声を潜めて紅瞳子が通訳する。
「えぇっ?」
少年が戸惑っていると、古狼は前足をセロン達へと向けて「ここで待て」とでも言いたげチョイチョイと振った。そして横手へと滑るように動き出す。
古狼が音も無く反時計回りに動き、デイアを挟み込む位置へと移動してゆく。
デイア達の動きに変化が起こった。
警戒するように首を伸ばし、ピンと耳をそばだて周囲を見回し始める。
反対側の位置の茂みへと移動した古狼が前触れもなく飛び出した。
デイア達が弾かれたように駆けだす。耳をつんざく咆吼が森中に轟く。
鹿達は八方に散ったが、恐慌した様子の一頭が、セロン達が潜む茂みの方へと駆け迫って来る。
セロンは無我夢中で弓に矢を番え放った。
鋭く飛んだ矢が、デイアの胸に突き立ち衝撃力を解き放った。
四つ足で立つ獣身が大きく揺らぐ。
直後、古狼が銀色の暴風の如く飛び掛かって鹿の首に噛み付き、一瞬で絶命させた。
「や、やりましたねセロン」
「う、うん」
眼前に展開された血と圧倒的な暴力に気圧されていた子供二人だったが、古狼は気にした様子もなくバリバリと骨ごとデイアを噛み砕いて、あっという間に平らげてしまった。
骨肉と鮮血が地に四散し、しかし矢は折られもせず綺麗に取り除かれていた。
あっという間に食事を終えた古狼はまたセロンを見て、一声短く吼えると踵を返して歩き出す。
「……ついて来なさいって!」
「まだやるの?!」
セロンは矢を拾うと慌てて紅瞳子と共に追いかけた。
古狼はセロンに狩りの仕方を教えてくれた。
それは会う度にほぼ日課のようになった。
やらない日もあるが結構な頻度で狩りを行う。
そして古狼は狩りの最後には「お前の取り分だ」とでも言うようにデイア等の小さな獲物を一頭、セロンの方へ放るのだ。
狩った総数からすると随分と少ない具合ではあったが、それ以上貰っても、セロンには運べないし処理のしようもなかったので、賢明な古狼はその事を解っていたのかもしれない。
十歳になった時、セロンは授恵者となった。
紅瞳子は酷く驚いた様子だったが、
「凄いじゃないですかセロン!」
我が事のように喜んでくれた。
それからは狩りも格段に上手くなった。
古狼はトドメを自ら刺さなくなり、吼えて追い立てるだけになった。やがて獲物を探す事もセロンに任せるようになった。彼は狩りでのセロンの役割を増やしていった。どうもセロンを鍛えようとしているそぶりがあった。
(なんでだろう?)
少年はふと疑問に思ったが、あまり深くは考えなかった。己の狩りの腕が日々上達してゆくのを感じるのは、少年にとって嫌な事では無かったからだ。
古狼は紅瞳子と談笑するセロンをしばしば、じっと見つめていた。
それが日常。
屋敷にて灰色の生活を送って来たセロンにとって、悪くない日常だった。
いや、あるいは――
「見てくださいセロン!」
大森林の一画にある丘に登った時、紅瞳子が空を指差した。
雨上がりの空には鮮やかな虹のアーチがかかっていた。
「凄く、綺麗です!」
紅瞳子が興奮したように瞳を輝かせて言う。
セロンもまた隣に立って共に空を見上げ「そうだね!」と美しさに感動しながら頷いた。
雨上がりの森の空には虹がかかる。
その事をセロンは知っていた。
けれど、この日見た虹は、今までに見たどの虹よりも美しく見えた。
――あるいは、この日常に幸福さえ感じていたのかもしれない。
だがセロンが十一歳になった年のあくる日、それらは唐突に終わりを告げた。
●
木漏れ日降り注ぐ森の一画。
いつものように叔父に秘密で屋敷を抜け出したセロンは、地に描かれた魔法陣の中央に座る古狼と向かい合うように胡坐をかいて座っていた。
口から唱え続けているのは呪文。一定の抑揚でひたすらに呟いている。
小一時間程も呪術をとり行っていると、やがてその瞬間がやってきた。
視覚と聴覚が眼前の古狼と急激に混じり合う。
古狼からの意志がセロンへと流れ込んでくる。
どうやら古狼は退屈だったらしく、すぐに起き上がって四肢を大地につきながら身を伸ばした。ズブ濡れになった犬が水を飛ばすようにブルブルと体躯を震わせる。
澱接続線が繋がれたのだ。
授恵者のシューターとしての能力を磨いたセロンは古狼と接続線を繋いでいた。
紅瞳子が良いと言って、古狼も嫌がらなかったからだ。
古狼と三感と意志を同調させると狩りはさらに順調になった。
しかし、あくる日の狩りの最中の事だ。
急に風が出てきて空に灰色の雲が集まってきた。
「一雨きそうですね」
「嵐になるかも。嫌だなぁ、今日は早めに切り上げた方が良さそう」
紅瞳子と空模様を憂いながら森中の道を進んでいると、茂みの陰より三人の男達が立ちはだかるように唐突に現れた。
一様にフード付きの漆黒の長衣を着こみ、腰に黒鞘の刀を佩いている。
いつの間に近づかれていたのか、セロンは目を剥いた。
澱接続を繋いでいなければ、あるいは古狼の明敏な嗅覚が事前にとらえていたかもしれない。だが、澱接続している間は嗅覚、聴覚、視覚、いずれも主人と同等のものになる。だから古狼でも気付かなかったのだ。
黒長衣達は一斉に膝をついた。
「お探しいたしましたぞ臺下」
彼等は紅瞳子へと礼を取っていた。
視線を向けると紅瞳子の顔色は蒼白だった。古狼からも危機感が伝わってきている。
「……お知り合い?」
「遺憾ながら、一応、そうなります」
紅瞳子は頷いた。
「ですが、友好的な相手でもありません。去りなさい影法師! 私は貴方達には従いません!」
「まぁそうでしょうな。あまり手荒な事はしたくないのですが……」
ぽつぽつと、雨が降り始めていた。
黒長衣の男達がゆっくりと立ち上がる。
紅瞳子が一歩後退り、古狼が庇うように間に進み出て唸り声をあげる。
「アルターか。忌々しい畜生めが。最早、貴様など脅威ではないわ。かかれッ!」
男達が一斉に腰から刀を抜刀し、古狼から逃げろ、との意志が伝わって来る。
セロンは紅瞳子の手を掴むと駆け出した。
飛び掛かって来る男達の刀を古狼が素早く飛び退いてかわし、前足を振るって薙ぎ払う光景が、セロンの脳裏には見えていた。
アルターは非常に強かった。
そして素早かった。
セロンと紅瞳子が逃げるまでの時間を稼ぎ、そして彼もまた脱出する事は十分に可能と思われた。
敵が三人だけだったら。
セロンは今度は気付いた。
退路の左右、灌木の陰に三人、隠れている。
「待った!」
セロンは紅瞳子を制止させ足を止めると、素早く腰の矢筒から矢を引き抜き、弓に番えざま放った。
鋭く飛んだ矢が灌木の中に消えてゆき、短く悲鳴が上がり、人が倒れる音が響く。
中った。
――死んだ、のか?
少年の腕に震えが走った。
直後、道の左右の灌木から黒長衣の男達が飛び出して来る。
「くっ!」
セロンは二本の矢を同時に引き抜くと、半瞬の間に矢継ぎ早に連射した。
目にも止まらぬ速射、だがその狙い、胴では無かった。脚だった。少年は人を殺める事を、咄嗟に嫌ったのだ。
一本の矢が右の黒長衣の男の膝を射抜いた。男が悲鳴をあげて転倒する。
二本目の矢が左の黒長衣の脛へと迫り、刺さる直前、男は高々と跳躍した。
矢が空を貫いて地に突き立つ。
宙より抜刀した男が刀を振り上げ迫って来る。
(――しまった)
胴を狙っていれば、こうも簡単にかわされる事は無かっただろう。致命傷にならぬように脚を狙ったのが、仇となった。
転瞬、曲刃がセロンの額目掛け落雷の如く一閃され、咄嗟に身を捻り頭部を横に振ってかわさんとしたセロンの肩口に喰らいつく。
鋼の切っ先が、少年の鎖骨を割り、肉を断ち斬りながら抜けてゆく。
「セロン!」
紅瞳子が悲鳴をあげ弾かれたように癒しの術式を練り始める。黒長衣の男が刀を弓引くように素早く構え直す。トドメの刺突が来る。セロンは激痛と衝撃に視界を揺らがせながらも、必死に矢筒の矢を探り、掴む。
雷鳴が轟いた。
森中は翳りを深め、天より降り注ぐ雨の勢いが急激に増してゆく。
暴風のような巨体が突進してきた。
圧倒的な巨躯を誇る古狼が、爪を鉄槌の如くに振るって一撃で黒長衣の男を叩き伏せ、地に押し倒した。
間髪入れずに巨大な牙を喉笛へと突き立て、喰らいついて引き千切る。
赤い色がぶちまけられ、黒長衣の男が激しく身を痙攣させ、絶命してゆく。
紅瞳子から癒光が放たれた。
光がセロンの身を暖かく包み込み、荒れ狂っていた激痛を急速に鎮め、傷を癒してゆく。
――だが、その時、唯一まだ立っていた影法師達の長たる男が、古狼の隙を見て取り地に刀を突き刺し術式を展開していた。
古狼の足元に巨大な魔法陣が出現する。
気付いた古狼は咄嗟に飛び退いたが、見えない障壁のようなものにぶちあたって魔法陣内へと押し戻される。
刹那、セロンへと古狼の意志が流れ込んできた。それは言語化されたものではなかった。
だが、人の言葉にするならば、
――その子を頼む。
古狼はセロンに紅瞳子の事を頼んでいた。
――何故、僕に頼む。
氷のように冷たい予感がセロンの腹の底から脳天までを一瞬で突き抜けた。
これからも君が自分で守れば良いじゃないか、そう言いたかった。
だが、ぶつり、と何かが切れたような音が頭の奥で鳴り、激烈な衝撃が襲った。セロンへと伝わってきていた古狼の意志が途絶える。
視界と聴覚と嗅覚とが激しくかき乱され立っていられなくなる。
古狼の足元に展開していた魔法陣が眩く猛烈に輝いた。
そして、地から天へと向かい稲妻のような蒼白い巨大な爆光が噴き上がっていった。
●
雨が激しく降っている。
稲妻が天で荒れ狂っている。
視界がうねるように揺れ、耳障りな音が頭の内側から響いている。
そんな中、セロンは遠くから紅瞳子の狂ったような絶叫を聞いた気がした。
霞む目を豪雨の中に必死に凝らせば、古狼が、あの強大無比を誇った古狼が、銀の巨体を横倒しにして、真っ赤な血の海に沈んでいた。ピクリとも動かない。
視覚情報を理解した瞬間、セロンの脳髄を憤怒が突き抜け焼き焦がした。振り向いて黒長衣の長を睨むと、酩酊感を無視し、弓身を握り締め矢を番え引き絞る。
「お前ぇええええええええ!!」
だが、激怒の矢が放たれる前に、セロンの背を強烈な衝撃が突き抜けた。小柄な少年の身が宙に舞い、吹き飛んで転がる。
「あ……?」
雨に濡れた地に仰向けに転がったまま、首を向ければ、膝から矢を生やしながらも黒長衣の男が黄光を不気味に立ち登らせる刀を振り抜いた姿勢で立っていた。刀身がべったりと赤く濡れている。
セロンの血だ。
少年は既に雨でずぶ濡れだったが、背は焼けたように猛烈に熱くなって来ていた。
「…………小僧、どうして死んでいない」
雨音を割って影法師の長の声が低く響いた。
「古狼は死んだのに」
血塗れの少年は絶叫をあげた。
身を捻り、手をぬかるんだ地につき、起き上がる、荒れ狂っている背中の激痛、無視する。
弓に矢を――弓が、いつの間にか手から消えている。腰の矢筒から矢を引き抜く。握り締め、駆けだす。
癒しの光が紅瞳子の方から飛んで来る。身体から痛みが引いてゆく。力が甦って来る。
膝から力が抜けた。
折れる。
前のめりに地面に叩きつけられる。
――何が起こった?
身体が、動かない。
麻痺している。
黄光を立ち登らせる刀が脳裏をよぎった。
――毒のエーテル。
気づく。
紅瞳子は澱毒を解除する魔法はまだ使えない。紅瞳子はとても優秀だったが、セロンと違い授恵者でもない、十歳程度のただの子供だ。
黒い天で雷光が荒れ狂っている。滝のような雨が地に降り注いでいた。
「……忌々しい畜生と餓鬼でしたな、四人も殺られた。接続を切ったのでは?」
「……それは不可能だ。エーテルのリンクラインは咄嗟に切る事など出来ん」
「ええ、普通は出来ない。ですが、この古狼は普通ではありますまい」
「……なるほど。こやつなら、出来かねん、か……そうか、主人を守る為に、自ら無理やり断ったか。畜生ながら、最期まで天晴な奴よ。所詮……無駄な足掻きだがなッ!」
黒長衣の男達が刀をぶら下げてセロンへと近づき、
「待てぇえッ!」
絶叫が響いた。
「――待たねば私は私の喉を刺すッ!!」
紅瞳子が短刀の切っ先を自らの喉へと向けていた。
「……臺下、本気ですかな?」
「試してみるか? 貴様らにアルターが殺され、セロンまで殺められれば、この世などしがみ付くに値せんわ! 元々、どこかで野垂れ死ぬつもりだった。セロンに出会わなければな」
「……対価は?」
「私の身だ。引き換えに彼を助けろ、誓えッ!!」
「承知いたしました。誓いましょう、我が剣にかけて――」
「神に誓えッ!!!!」
「……………………よろしい。我らが神に誓いましょう。ですが、それならばせめて、記憶消しの術はかけさせていただきますぞ」
「だ……駄目だ……ッ!!」
セロンは最早動かぬ身ながら首だけを紅瞳子に向けて声を絞り出した。
「に……げ……ろ……ッ!!」
最期に見上げた紅瞳子は笑っていた。泣きながら、微笑んでいた。
「御免なさい、セロン、どうか幸せに生きて」
目の前が真っ暗になった。
比喩ではなく、何も見えなくなった。
それが、セロンが最後に見た、紅瞳子の笑顔だった。