切れっ端と指輪

プロローグノベル制作 木戸 小鬼納品 2020年12月26日 20時03分36秒

 誰そ彼時。フードを目深に被った影がどぶ板を跨いで、貧困と堕落の悪臭が満ちる帰路を急ぐ。
 懐には貨幣が数枚。それから数日分のパン。これらは盗み出したガラクタと引き換えに得たものだ。
 狂った懐中時計。傷だらけのブローチ。時代遅れの礼服。持ち主それぞれの執着があったのだろう。
 けれどミアはもう、そんなことは気にしなくなっていた。盗まねば飢えるだけ。奪わねば奪われるだけ。10になるかならないかのうちに既に、心の中は乾いていた。

「……ただいま」
 スラムの通りの暗いあばら家の奥、寝台の上で微かに動く影を確かめて、ミアはたっぷり躊躇ってから囁いた。
 おかえりなさい。
 影は、女は囁き返す。形の良い唇が、鷹揚に言葉を紡ぐ。その音を聴くたびに、ミアは堪らなく苛ついた。
 おそかったわね。しんぱいしたのよ。かみがぐしゃぐしゃじゃない。ねえミア。ミア。
 纏わり付く雑音に耳を塞ぎ、衣服を掴んで縋る手を振り払い、弾みで引き倒した。きゃあと鳴き声が響く。

 この女を食わせて、生かしているのはミアだった。必死に稼いでやっと『二人分』。それは、小さな身体は大きすぎる重荷。


●
 ミアは彼女を『お袋』と呼んだ。
 元は由緒正しきヒューマンの貴族の娘。蝶よ花よと育てられ、やがて縁深い貴族の家へと嫁いだ。愛を深め、子を育み、誰からも祝福された幸福な人生を歩む筈だった。
 だのに、嗚呼、なんてことだろう。月が満ち、産まれ落ちた子供に表れた『印』を認めて産婆は息を呑んだ。それは小さな、小さな尖った耳。連綿と受け継がれてきた『高貴で純粋な血脈』にこびり付いた曇り。
 さて、ではどうすればいい。
 必要なのは生贄。体裁を保つ為の、荒野へと解き放つ贖罪の山羊。


●
 足元に崩れ落ちた母の姿にミアははっとした。
 曇った窓から射し込む金色の陽光に照らされたその姿。
 蹲り、不規則に身体を震わせながら、時折ごぼりと喉の奥から嫌な音を出す。

 お袋は心も身体も病んでいた。

 何不自由ない暮らしから一転、放逐されて汚いスラムに身を寄せるようになったせいだろう。

 でもさ、それなら、アタシはどうなんだ。

 咄嗟に助け起こそうと伸ばしてしまった手が、硬直する。
 そうだ。産まれて間もない頃から、ロクな庇護も受けられず、必死に生き延びてきた。一人で動けるようになるまで育てては貰ったが、それも実家から持ち出した装飾品があったからだ。それが尽きてからはミアが盗みに手を染めてでも食い扶持を稼いで、どうにかこうにか二人生き延びてきたのだ。

 アタシの方がよっぽどおかしくなりそうだったよ。

 ミア。ねえミア。おねがい。いかないで。あなたがしんぱいなの。あいしているの。あなたににどとあえなくなる。そんなよかんがするの。だからおねがい。わたしのたいせつな……。
 細い腕が足に縋り付く。そのぞっとするほど冷たい感触に、考えるより先に身体が動いていた。
 いやに軽い身体を蹴り、踵を返して戸口を開け放つ。途端、流れ込んだスラムの腐臭ですら清々しく思える日暮れ時だった。


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 彼は誰時。全てを覆い隠していた闇が淡く薄まる頃。ミアはどぶ板の上を跳ねた。
 懐はいつもより重い。今日は異様にツイていた。まるで憑き物が落ちたかのように。
 だから予感はしていたのだ。家を出たその時の姿のまま、埃が積もった床の上で事切れた母の姿を見た時も、大して驚きもしなかった。
「清々した」
 呟いて、目深に被っていたフードを撥ね退ける。短く刈った髪の隙間から飛び出るのは尖ったふたつの耳。
 思えば、この目立つ耳には随分と苦労させられてきた。母の事だけではない。この辺りでスラムを彷徨くエルフはいっとう珍しい。つまり、この耳がミアの身分証になってしまうのだ。

 顔無し名無しの方が都合が良いこそ泥にとってはこの上なく都合が悪かった耳の中程に、ミアは鈍く光るナイフの刃を押し当てた。
 刃を伝って流れ落ちた血がぬるりと手を汚す。しかしミアは手を止めなかった。
 うっかり耳を晒した帰り道に、待ち伏せされて殴られた。間抜けを罵られ、稼ぎを奪われた。耳を捻り上げて、捕まえやすくて良いと嘲笑われた。
 痛みと悔しさで奥歯をきつく食い縛る。次から次へ、今迄のしくじりが浮かんでは消えていく。こんな思いはしなくて済む。アタシの髪をやたらと梳かしたがり、そして、整えられた髪の間から覗いた耳を擽るのが好きだったお袋はもう、いない。

 ぶつり。最後に繋がっていた皮が切れた。


●
 黎明の光を受けて、ミアは軽やかにどぶ板を飛び越えた。
 懐にはハンカチに包んだ耳の切れっ端と、母がどんな困窮の中でも手放す事を拒んだ小さな指輪。
 好事家に売り払えばそこそこの値段が付くだろう。切り取った経緯でも芝居ぶって聞かせてやれば、幾らか上乗せしてくれるかも。

 決して、二人で暮らしたあばら家を振り返らなかった。あの場所はもう、帰る場所にはなり得ないのだ。

登場キャラクター

アーカイブ生成日時 2026年08月05日 14時56分25秒 ・ world0