遠く交わる銀と赤
キャラクターノベル制作 弓月 蒼納品 2022年08月09日 14時06分56秒
●掌を穢す
――――それは常に、断片として記憶に上る。
北方辺境伯領西端、『黒煙街』と呼ばれる街。かろうじて城壁はあろうとも大した規模ではない。
かつては炭鉱街として賑わったのも今は昔。現在は廃坑を抱えた特徴の無い小都市である。
――――いや、あった。と言うべきだろう。その一角、大規模孤児院『芽吹きの園』。
共に此処までやって来た黒衣の治療師は何処かへと姿を晦まし、奥へ奥へ進むは唯一人の銀の鬼。
『無想の銀鬼』ナハティガル=ラーの後背には幾つもの骸が転がる。
どれも背丈はナハティガルの胸元以下。子供だ。それが本来であれば――社会通念として――
――――"守られるべき"と言われる年頃で有ることは、流石に彼とて理解している。
それらを"王国の理"とやらに則り、斬り捨て、進むことが、時に悪行と誹られるだろうことも。
(……少し立場を換えれば、物の見方すら裏返る)
手には白顎と称される短剣一本。必要最低限の装備で敵の巣へ踏み込む以上警戒してし過ぎと言う事はない。
周囲に視線を巡らせ踏み込む一歩。其処に――――物陰から小柄な影がとびこんで来た。
遅い。最初に相対した子供らより一回り以上技量が低いとその体捌きだけでも十分見て取れる。
余裕を持って交わしながら返す刃で一撃。今更、人の命を詰む事に罪悪感も無い……と。
一撃で頚椎を真一文字に切り裂いて、上がった高い悲鳴に視線を戻し気がついた。
いや。或いは気付きたくなかったのか。流れる血液に項を抑え倒れ伏すその少女の小さな手は。
”おばーちゃん先生が入っちゃダメだって”
脳裏で声が響いて、漸く現実と追憶が一致する。言葉を交わした。面影もある。
その生命を、今詰んだ。言い訳はするまい。理由すら在る。けれど、そんなもの殺される側からすれば。
果たして、如何程の価値があるだろう。少なくとも、初対面の亜人に何某か教えようとした。
そんな無邪気な善業の代価としては――――下の下だと言って異論が挟まることはまず無いだろう。
そうだ。初めてこの土地を訪れた時、去ろうとした彼の服裾を掴んだ物も。同じ手では無かったろうか。
――――
「あなたは、私を殺しに来たのですか」
孤児院の奥。女は子供達に囲まれていた。まるでお伽噺の聖女かなにかの様に。
ナハティガルを見つめる複数対の瞳は、はっきりと使命感に燃えていた。
自らの母を守ろうとするその強く輝く、或いは眩い程の意思を、これから穢す。
体付き、体運び、見れば瞭然だった。この場所に集められたのは"主力にならない未熟者"だ。
恐らく全員集めても精々『山神』1人分。だから街には出て来なかった。
で、あるならば。眼前の女は本当に、本気で、自らの子を守りたかったのだろう。断固として。
彼が知った"真実"をそのまま当て嵌めるなら、この孤児院にはもう未来がない。
情勢がそうなってしまった以上、取り潰しは最早決まっていたも同然であり――――
――――同時に。それに伴って"真実"を知る者達は確実な手段を以て消されるだろう。
彼らにとって、命を賭して足掻く以外の選択肢が既に無かった事は、ナハティガルにも理解できた。
「……いや、アンタだけじゃない。全員殺す。そういう仕事だ」
で、あれば。彼らの怒りは。憎悪は。覚悟は。当然その執行者へ向けられて然るべきだ。
その感情は正しい。小さな両手で握る短剣がどれほど震えようと。その切っ先がこちらへ向く以上。
彼らが"此処で死ぬべき存在"である事と、彼らがそれでも"生きたいと願う事"は――――相反しない。
壁を、天井を足場と変えて三次元的軌道で襲い掛かって来る幼き脅威に対し。
この日、ナハティガルは何度目かとなる必殺の決意で以て迎え撃つ。
祝福すら無いただの一般市民の身で、彼の銀髪鬼をすら気圧しかねないその覚悟。
背負えるだろうか――――それは、一瞬の逡巡であり。そして、一瞬だけの逡巡で事足りた。
――――背負って行かねばならない。ここで喪われる命。覚悟、願い。全てが無意味で終わらない為に。
或いはそれが、母の愛と呼ばれる物であったのか。そんな事すら、彼にはとうにわからないとしても。
――――
「こう なることは…… わかって いました」
刺し貫いた短剣の先。それが確実に致命傷であろうことを確かめて。
ようやく、ナハティガルは手を止めた。声に混ざる喘音から、もう長くないことは分かる。
『管理者』とされた女は、自らを刺した短剣を持つ手を上から握り。
ほんの一秒でも、半秒でも稼ぐ積もりである様だった。その驚くべき膂力に目を瞠る。
授恵者と一般人では、その身体能力そのものに大きな差がある。
振り解け無い訳がない。それでも、ナハティガルはまるで縫い留められた様に動けなかった。
「あの子、達が。生きられる 様に……力を、尽くして 来ましたが それももう――――」
軽く手首を捻れば、或いは短剣を諦め手を離せば。止めを刺すことなど造作もない。
そんな事実を理解していて、それでも振り解き切れないのは――――甘さか、それとも。
「アンタが守るべき者は、もう居ない。アンタを守ろうとした子供達も……外の、『山神』も」
皆、死んだ。或いは、これから殺す。早いか、遅いかの違いでしか無い。
であれば、彼女がここで足掻く理由など一つもない筈だ。それなのに、どうして。
「……どうして」
心中の問を、まるで覗き見られたかのように。その問に驚いて視線を向け。
けれど、彼らの母を自らに任じた女の眼差しは、もう誰も見てはいない様だった。
「――――どうして 私たち 生まれてこないと いけなかった の―――― ?」
大きく咳き込み。磨き上げられた石の床を赤く濡らすほどの血を吐いて、女は逝った。
最期に遺したその問に、応じられる答えを――――ナハティガルは、未だ、持たない。
●追憶に滲む
目を醒ますと、見慣れぬ天井。『黒煙街』――――と呼ばれた街が地図上から消えて数ヶ月。
けれど未だ時折こんな夢を見る位なのだから、恐らくは何某か。
たとえ心当たりは何も浮かんで来ないとしても、あの出来事は彼に何かを確かに遺したのだろう。
追い詰められた獣のような複数対の眼差し。その心中を察する事は、ナハティガルには難し過ぎる。
"……なァ、お前ら可笑しいとは思わねえのか?"
ただ――――そう問いを投げた男の最期が脳裏を過ぎる。
"国ってなァ民を護る為に在るんじゃねえのかよ。なあ兄弟! 可笑しいだろ!!"
そう猛った。自らがただ生まれ、ただ生きるにおいて"持たざる者"である事に憤ったあの男は。
或いは、彼よりも余程生きる事が息苦しかったのかもしれないと。今更になって思う。
"狂ってんのは俺達か!? 違うだろうが! お前らの都合で――――"
そうして持ち得なかった物を欲した。それはいつしか"既に諦めた"彼よりも。
余程まともな。真っ直ぐな。切実な想いであったのかもしれない。
"――生まれ! 殺され!! 国の為だ!? ふざけんな!!!"
『独眼蜥蜴』――――何処か、自分とも良く似た様な。まるで似ていない様な。
生まれながらの半獣人。『王国』では、余程の奇跡でも起きなければ報われる事はない。
それでも、ささやかな。その辺の市街に幾らでも落ちている様な幸せならば拾えたろう。
男には常人を上回るだけの力があり、神の祝福があり、何であれば戦う理由すらもあった。
"なあ銀髪鬼、お前なら分かる筈だ! 賽子を転がし生き死にが決まる様な国は狂ってる!"
――――にも関わらず、その欠損は埋まらなかった。選択肢すら持たない人間より遥かに。
最初は何も抱えていた物など無かったナハティガルに比べれば、ずっと恵まれていたにも関わらず。
いいや、或いは――――恵まれていたからこそ、絶望する事すら出来なかったのか。
頭上に光が在る場所が見えていたから――――奈落まで堕ち切る事すら、難しかったのか。
"ただ納得して生きたかっただけだ! それが悪だってえなら――――"
掌を見る。その罪の是非を問わず、彼はこれからも殺すだろう。
それが必要であると言うなら、是非を問わず。善悪を問わず。そこに、意味など認める事無く。
けれど、理性はそこに無慈悲なだけの現実とは異なる解を持つ。
母を護ろうとする子を殺し、子を護ろうとする母を殺し、ただ生きたいと言う意思を否定する。
その行為を、善か、悪か。いずれかに選り分けるとすれば――――それは。
"正義ってなァ何なんだよ!!"
「――――分からんよ。そんなことは」
だがたとえそれがどれほど正しくとも。力無き正義は、大義を得た悪より遥かに無力なのだ。
遠い未来、俯瞰して見た時。或いは彼や、今の王国の在りようが――――悪と断ざれようとも。
(……だとしても、俺は)
彼方を見た。血塗れの先、後背を一瞥すらせず歩み続けるその小さな黒い背に。
未来を見せると断言した、未だ成らずともその遥かな眼差しがどんな世界を描くか興味が湧いた。
そうして拓かれた世界は或いは、汚泥の底までも、今より少しは明るく照らすのではないかと。
その期待には刃を預ける価値が――――自分の様な者達が救われる可能性が、あるのではと。
例えばそんな未来が、赤い道の先にしかないならばその歩みを切り拓くと。彼は誓ったのだから。
●未来を臨む
「はい、『銀髪鬼』様そのままじっとして。今日は『竜』の家紋を戴くとはどういう意味か。
この『王国』に於いて『黒鋼の竜』の庇護下に在る事がどういうことか、と言うお話の続きです」
黒い外套を羽織った褐色肌の女が人差し指を立てて講釈を垂れる。
どう贔屓目に見てもナハティガルより一回り近く若い訳だが、件の女商人――シズルと言う――は。
彼の勧誘を担った縁でどうも『王国』貴族界隈には疎いナハティガルのお目付け役の様な立場らしい。
今日も朝から彼が利用している安宿に襲撃したかと思えば、早朝から衣類を剥ごうとする暴挙。
これがもう少し格の高い、貴族御用達の高級宿などであれば衛兵に突き出されているに違いない。
いや……当然、其処まで考慮した上でのこの踏み込みではあろうし、宿主とて最早抱き込み済だろうが。
「ああもう、皮帯が解けますから胸を張ってじーっと。そうそう。
どうですか、窮屈ではないですか? 今日中なら直ぐ仕立て直してお届け直しますが」
「いや、問題無い。と言うか――――そもそも、何故着付けられねばならんのか。
確かに、初見で着込むにはやや難解な造りはしているようだが……」
「ここで変に着崩して着られて正確な採寸が出来なかったら、私が叱られるんですよお!」
はい、これで完成。と着付けられたのは、所謂『竜』が仕立てた騎士制服の一種。
それも護衛士――――いわゆる近衛騎士――――となるとその仕上がりは士官服に準ずる。
利き手の者が多い右手側に羽付きの外套。裏地を深紅で染めるのは武器商を統べるが故。
血塗られた、と称してまるで過言の無い実力主義の公爵家。血と鋼を隠すのは誇りと同義だ。
左胸に刻まれた『双翼の黒竜』の家紋は文字通り、『竜』へその身命を賭す事を意味し。
折り返した袖は端から帯剣、抜剣を考慮した時の"掛かり"を避ける為。
公式の場で着ることを想定した制服であるにも関わらず、そのまま直接戦闘に移行出来る。
逆説的に――――過去幾度となく命を狙われて来たその積み重ねが、各処への工夫へと昇華されている。
(……『竜』の家紋、か)
そして何より。個人が『竜』の帯章を赦されるということは。
『王国』に於いてはただそれだけを指して自身が特権階級に位置する事を証明する。
以前にもこの辺りまでは軽く説明を受けていたが、いざ身に付けるとなれば感慨深い物もある。
当然、その身分的な位階は"貴族の臣下"でしかないが、何は無くとも"公爵家家臣"だ。
この立ち位置は辺境伯家をすら上回り、特に王都の人間はその身分を透かした先に"属す家"を見る。
彼の立場は現時点あくまで”内定”とは言え。それを『竜』本家に仕える者へ訴えても然程意味はあるまい。
端から――――既に此処まで踏み込んだ銀の鬼を。彼の黒の公爵家が無償で手放す心算など有る訳がない。
”サウゼルに踏み込むならば奥地まで"などとも言うが。ナハティガルにとっても今更な話ではある。
「商人からすれば、王国で商売をするなら喉から手が出る程欲しい"特別優待券"
当然、それを帯びて公式の場に出る場合にも"相応しい振る舞い"が求められます」
告げてはじろじろと観察されれば、たとえ悪気はなくともナハティガルとて居心地の悪さは禁じ得ないが。
当のシズルはうんうんと大きく何度か頷くと同時に、果たして何処から取り出したのか。
指先で黒銀の鈴を鳴らす。その澄んだ、けれどはっきりと存在感を持って響く音に。
脳内で警鐘が鳴らなかったとすれば、それはあまりに平和ボケし過ぎだと言わざるを得まい。
「――――何だ、その鈴は」
商人特有の綺麗過ぎる、胡散臭いとした形容出来ないシズルの満面笑顔で身の危険を察した。
直後、どやどやどやと狭い安宿の一室に運び込まれる画板! 画材! 溶液!
そして見るからに『吾輩が画伯である』とばかりに洒落た衣装を着こなす紳士達……!!
「さあさあ、練習編その1、ですよナハティガル様。
知ってらっしゃいますか? 王国では騎士には偶像と言う役割もまたある事を……!」
「何!? いや知らん知らん知らんちょっと待て、本当にこれが竜の仔を守る事に直結すると――――」
「します。多分します。抜群にします私を信じて下さい!」
小指、人差し指、親指を立てて片目を閉じてみせた褐色肌の女はさておき。
運び込まれた画板と3人の画伯に囲まれ、狭い安宿の一室は最早ぎゅうぎゅうである。
(くっ、微塵たりと信用出来ん……!!)
「あっ! ちょ、ナハティガル様!? こーら逃げるなあーっ! 者共出会え出会え――――!!」
外套を翻し窓縁を飛び越え、躊躇無く身を虚空へ投げ出したナハティガル。
その捜索は結局夕焼けが見える頃まで続き、その日こそ無事逃げ切ることに成功したものの。
――――何だかんだと後日改めて襲撃を受け、結局諦め半分で肖像画にされたのだという。
――――それは常に、断片として記憶に上る。
北方辺境伯領西端、『黒煙街』と呼ばれる街。かろうじて城壁はあろうとも大した規模ではない。
かつては炭鉱街として賑わったのも今は昔。現在は廃坑を抱えた特徴の無い小都市である。
――――いや、あった。と言うべきだろう。その一角、大規模孤児院『芽吹きの園』。
共に此処までやって来た黒衣の治療師は何処かへと姿を晦まし、奥へ奥へ進むは唯一人の銀の鬼。
『無想の銀鬼』ナハティガル=ラーの後背には幾つもの骸が転がる。
どれも背丈はナハティガルの胸元以下。子供だ。それが本来であれば――社会通念として――
――――"守られるべき"と言われる年頃で有ることは、流石に彼とて理解している。
それらを"王国の理"とやらに則り、斬り捨て、進むことが、時に悪行と誹られるだろうことも。
(……少し立場を換えれば、物の見方すら裏返る)
手には白顎と称される短剣一本。必要最低限の装備で敵の巣へ踏み込む以上警戒してし過ぎと言う事はない。
周囲に視線を巡らせ踏み込む一歩。其処に――――物陰から小柄な影がとびこんで来た。
遅い。最初に相対した子供らより一回り以上技量が低いとその体捌きだけでも十分見て取れる。
余裕を持って交わしながら返す刃で一撃。今更、人の命を詰む事に罪悪感も無い……と。
一撃で頚椎を真一文字に切り裂いて、上がった高い悲鳴に視線を戻し気がついた。
いや。或いは気付きたくなかったのか。流れる血液に項を抑え倒れ伏すその少女の小さな手は。
”おばーちゃん先生が入っちゃダメだって”
脳裏で声が響いて、漸く現実と追憶が一致する。言葉を交わした。面影もある。
その生命を、今詰んだ。言い訳はするまい。理由すら在る。けれど、そんなもの殺される側からすれば。
果たして、如何程の価値があるだろう。少なくとも、初対面の亜人に何某か教えようとした。
そんな無邪気な善業の代価としては――――下の下だと言って異論が挟まることはまず無いだろう。
そうだ。初めてこの土地を訪れた時、去ろうとした彼の服裾を掴んだ物も。同じ手では無かったろうか。
――――
「あなたは、私を殺しに来たのですか」
孤児院の奥。女は子供達に囲まれていた。まるでお伽噺の聖女かなにかの様に。
ナハティガルを見つめる複数対の瞳は、はっきりと使命感に燃えていた。
自らの母を守ろうとするその強く輝く、或いは眩い程の意思を、これから穢す。
体付き、体運び、見れば瞭然だった。この場所に集められたのは"主力にならない未熟者"だ。
恐らく全員集めても精々『山神』1人分。だから街には出て来なかった。
で、あるならば。眼前の女は本当に、本気で、自らの子を守りたかったのだろう。断固として。
彼が知った"真実"をそのまま当て嵌めるなら、この孤児院にはもう未来がない。
情勢がそうなってしまった以上、取り潰しは最早決まっていたも同然であり――――
――――同時に。それに伴って"真実"を知る者達は確実な手段を以て消されるだろう。
彼らにとって、命を賭して足掻く以外の選択肢が既に無かった事は、ナハティガルにも理解できた。
「……いや、アンタだけじゃない。全員殺す。そういう仕事だ」
で、あれば。彼らの怒りは。憎悪は。覚悟は。当然その執行者へ向けられて然るべきだ。
その感情は正しい。小さな両手で握る短剣がどれほど震えようと。その切っ先がこちらへ向く以上。
彼らが"此処で死ぬべき存在"である事と、彼らがそれでも"生きたいと願う事"は――――相反しない。
壁を、天井を足場と変えて三次元的軌道で襲い掛かって来る幼き脅威に対し。
この日、ナハティガルは何度目かとなる必殺の決意で以て迎え撃つ。
祝福すら無いただの一般市民の身で、彼の銀髪鬼をすら気圧しかねないその覚悟。
背負えるだろうか――――それは、一瞬の逡巡であり。そして、一瞬だけの逡巡で事足りた。
――――背負って行かねばならない。ここで喪われる命。覚悟、願い。全てが無意味で終わらない為に。
或いはそれが、母の愛と呼ばれる物であったのか。そんな事すら、彼にはとうにわからないとしても。
――――
「こう なることは…… わかって いました」
刺し貫いた短剣の先。それが確実に致命傷であろうことを確かめて。
ようやく、ナハティガルは手を止めた。声に混ざる喘音から、もう長くないことは分かる。
『管理者』とされた女は、自らを刺した短剣を持つ手を上から握り。
ほんの一秒でも、半秒でも稼ぐ積もりである様だった。その驚くべき膂力に目を瞠る。
授恵者と一般人では、その身体能力そのものに大きな差がある。
振り解け無い訳がない。それでも、ナハティガルはまるで縫い留められた様に動けなかった。
「あの子、達が。生きられる 様に……力を、尽くして 来ましたが それももう――――」
軽く手首を捻れば、或いは短剣を諦め手を離せば。止めを刺すことなど造作もない。
そんな事実を理解していて、それでも振り解き切れないのは――――甘さか、それとも。
「アンタが守るべき者は、もう居ない。アンタを守ろうとした子供達も……外の、『山神』も」
皆、死んだ。或いは、これから殺す。早いか、遅いかの違いでしか無い。
であれば、彼女がここで足掻く理由など一つもない筈だ。それなのに、どうして。
「……どうして」
心中の問を、まるで覗き見られたかのように。その問に驚いて視線を向け。
けれど、彼らの母を自らに任じた女の眼差しは、もう誰も見てはいない様だった。
「――――どうして 私たち 生まれてこないと いけなかった の―――― ?」
大きく咳き込み。磨き上げられた石の床を赤く濡らすほどの血を吐いて、女は逝った。
最期に遺したその問に、応じられる答えを――――ナハティガルは、未だ、持たない。
●追憶に滲む
目を醒ますと、見慣れぬ天井。『黒煙街』――――と呼ばれた街が地図上から消えて数ヶ月。
けれど未だ時折こんな夢を見る位なのだから、恐らくは何某か。
たとえ心当たりは何も浮かんで来ないとしても、あの出来事は彼に何かを確かに遺したのだろう。
追い詰められた獣のような複数対の眼差し。その心中を察する事は、ナハティガルには難し過ぎる。
"……なァ、お前ら可笑しいとは思わねえのか?"
ただ――――そう問いを投げた男の最期が脳裏を過ぎる。
"国ってなァ民を護る為に在るんじゃねえのかよ。なあ兄弟! 可笑しいだろ!!"
そう猛った。自らがただ生まれ、ただ生きるにおいて"持たざる者"である事に憤ったあの男は。
或いは、彼よりも余程生きる事が息苦しかったのかもしれないと。今更になって思う。
"狂ってんのは俺達か!? 違うだろうが! お前らの都合で――――"
そうして持ち得なかった物を欲した。それはいつしか"既に諦めた"彼よりも。
余程まともな。真っ直ぐな。切実な想いであったのかもしれない。
"――生まれ! 殺され!! 国の為だ!? ふざけんな!!!"
『独眼蜥蜴』――――何処か、自分とも良く似た様な。まるで似ていない様な。
生まれながらの半獣人。『王国』では、余程の奇跡でも起きなければ報われる事はない。
それでも、ささやかな。その辺の市街に幾らでも落ちている様な幸せならば拾えたろう。
男には常人を上回るだけの力があり、神の祝福があり、何であれば戦う理由すらもあった。
"なあ銀髪鬼、お前なら分かる筈だ! 賽子を転がし生き死にが決まる様な国は狂ってる!"
――――にも関わらず、その欠損は埋まらなかった。選択肢すら持たない人間より遥かに。
最初は何も抱えていた物など無かったナハティガルに比べれば、ずっと恵まれていたにも関わらず。
いいや、或いは――――恵まれていたからこそ、絶望する事すら出来なかったのか。
頭上に光が在る場所が見えていたから――――奈落まで堕ち切る事すら、難しかったのか。
"ただ納得して生きたかっただけだ! それが悪だってえなら――――"
掌を見る。その罪の是非を問わず、彼はこれからも殺すだろう。
それが必要であると言うなら、是非を問わず。善悪を問わず。そこに、意味など認める事無く。
けれど、理性はそこに無慈悲なだけの現実とは異なる解を持つ。
母を護ろうとする子を殺し、子を護ろうとする母を殺し、ただ生きたいと言う意思を否定する。
その行為を、善か、悪か。いずれかに選り分けるとすれば――――それは。
"正義ってなァ何なんだよ!!"
「――――分からんよ。そんなことは」
だがたとえそれがどれほど正しくとも。力無き正義は、大義を得た悪より遥かに無力なのだ。
遠い未来、俯瞰して見た時。或いは彼や、今の王国の在りようが――――悪と断ざれようとも。
(……だとしても、俺は)
彼方を見た。血塗れの先、後背を一瞥すらせず歩み続けるその小さな黒い背に。
未来を見せると断言した、未だ成らずともその遥かな眼差しがどんな世界を描くか興味が湧いた。
そうして拓かれた世界は或いは、汚泥の底までも、今より少しは明るく照らすのではないかと。
その期待には刃を預ける価値が――――自分の様な者達が救われる可能性が、あるのではと。
例えばそんな未来が、赤い道の先にしかないならばその歩みを切り拓くと。彼は誓ったのだから。
●未来を臨む
「はい、『銀髪鬼』様そのままじっとして。今日は『竜』の家紋を戴くとはどういう意味か。
この『王国』に於いて『黒鋼の竜』の庇護下に在る事がどういうことか、と言うお話の続きです」
黒い外套を羽織った褐色肌の女が人差し指を立てて講釈を垂れる。
どう贔屓目に見てもナハティガルより一回り近く若い訳だが、件の女商人――シズルと言う――は。
彼の勧誘を担った縁でどうも『王国』貴族界隈には疎いナハティガルのお目付け役の様な立場らしい。
今日も朝から彼が利用している安宿に襲撃したかと思えば、早朝から衣類を剥ごうとする暴挙。
これがもう少し格の高い、貴族御用達の高級宿などであれば衛兵に突き出されているに違いない。
いや……当然、其処まで考慮した上でのこの踏み込みではあろうし、宿主とて最早抱き込み済だろうが。
「ああもう、皮帯が解けますから胸を張ってじーっと。そうそう。
どうですか、窮屈ではないですか? 今日中なら直ぐ仕立て直してお届け直しますが」
「いや、問題無い。と言うか――――そもそも、何故着付けられねばならんのか。
確かに、初見で着込むにはやや難解な造りはしているようだが……」
「ここで変に着崩して着られて正確な採寸が出来なかったら、私が叱られるんですよお!」
はい、これで完成。と着付けられたのは、所謂『竜』が仕立てた騎士制服の一種。
それも護衛士――――いわゆる近衛騎士――――となるとその仕上がりは士官服に準ずる。
利き手の者が多い右手側に羽付きの外套。裏地を深紅で染めるのは武器商を統べるが故。
血塗られた、と称してまるで過言の無い実力主義の公爵家。血と鋼を隠すのは誇りと同義だ。
左胸に刻まれた『双翼の黒竜』の家紋は文字通り、『竜』へその身命を賭す事を意味し。
折り返した袖は端から帯剣、抜剣を考慮した時の"掛かり"を避ける為。
公式の場で着ることを想定した制服であるにも関わらず、そのまま直接戦闘に移行出来る。
逆説的に――――過去幾度となく命を狙われて来たその積み重ねが、各処への工夫へと昇華されている。
(……『竜』の家紋、か)
そして何より。個人が『竜』の帯章を赦されるということは。
『王国』に於いてはただそれだけを指して自身が特権階級に位置する事を証明する。
以前にもこの辺りまでは軽く説明を受けていたが、いざ身に付けるとなれば感慨深い物もある。
当然、その身分的な位階は"貴族の臣下"でしかないが、何は無くとも"公爵家家臣"だ。
この立ち位置は辺境伯家をすら上回り、特に王都の人間はその身分を透かした先に"属す家"を見る。
彼の立場は現時点あくまで”内定”とは言え。それを『竜』本家に仕える者へ訴えても然程意味はあるまい。
端から――――既に此処まで踏み込んだ銀の鬼を。彼の黒の公爵家が無償で手放す心算など有る訳がない。
”サウゼルに踏み込むならば奥地まで"などとも言うが。ナハティガルにとっても今更な話ではある。
「商人からすれば、王国で商売をするなら喉から手が出る程欲しい"特別優待券"
当然、それを帯びて公式の場に出る場合にも"相応しい振る舞い"が求められます」
告げてはじろじろと観察されれば、たとえ悪気はなくともナハティガルとて居心地の悪さは禁じ得ないが。
当のシズルはうんうんと大きく何度か頷くと同時に、果たして何処から取り出したのか。
指先で黒銀の鈴を鳴らす。その澄んだ、けれどはっきりと存在感を持って響く音に。
脳内で警鐘が鳴らなかったとすれば、それはあまりに平和ボケし過ぎだと言わざるを得まい。
「――――何だ、その鈴は」
商人特有の綺麗過ぎる、胡散臭いとした形容出来ないシズルの満面笑顔で身の危険を察した。
直後、どやどやどやと狭い安宿の一室に運び込まれる画板! 画材! 溶液!
そして見るからに『吾輩が画伯である』とばかりに洒落た衣装を着こなす紳士達……!!
「さあさあ、練習編その1、ですよナハティガル様。
知ってらっしゃいますか? 王国では騎士には偶像と言う役割もまたある事を……!」
「何!? いや知らん知らん知らんちょっと待て、本当にこれが竜の仔を守る事に直結すると――――」
「します。多分します。抜群にします私を信じて下さい!」
小指、人差し指、親指を立てて片目を閉じてみせた褐色肌の女はさておき。
運び込まれた画板と3人の画伯に囲まれ、狭い安宿の一室は最早ぎゅうぎゅうである。
(くっ、微塵たりと信用出来ん……!!)
「あっ! ちょ、ナハティガル様!? こーら逃げるなあーっ! 者共出会え出会え――――!!」
外套を翻し窓縁を飛び越え、躊躇無く身を虚空へ投げ出したナハティガル。
その捜索は結局夕焼けが見える頃まで続き、その日こそ無事逃げ切ることに成功したものの。
――――何だかんだと後日改めて襲撃を受け、結局諦め半分で肖像画にされたのだという。