月と死神
キャラクターノベル制作 革酎納品 2022年07月03日 13時29分02秒
●
少し、蒸し暑い夜だった。
じめっとした汗の不快感が首や背中に、纏わりつく。
薄暗がりの中で目覚めたヴァン・ローラントは、ゆっくりと上体を押し上げた。ここはどこだろうと、周囲に視線を走らせてみる。
リーンエス王国北部のホークヤードにある自身の探偵事務所――ではない。見覚えの無い調度品が、木窓の隙間から射し込んで来る僅かな月明かりの中でぼんやりと視界に飛び込んできた。
今の今まで眠りこけていたこのベッドも、肌触りの悪いこのシーツも、全く馴染みが無い。そういえば昨日今日は、一体何をしていただろうか。
そこでヴァンは、漸く思い出した――そうだ、今居るのは帝国東部鎮守都市エスタルだ。
ここエスタルでヴァンは、地に潜みし幽界樹を打倒する為の作戦の一環としてエスタル地下に広がる下水網に突入し、眠り続ける市民を草人から奪還する為の戦いに身を投じたばかりだった。
今までに経験したことの無い程の大量の敵と戦い、ヴァンはかつて無い程に消耗し、疲弊し、そして必死の思いで地上へと帰還したのである。
結果、幽界樹は無事に斃され、草人に連れ去られようとしていた多くの市民も何とか救い出すことが出来た。勿論全ての市民を奪還出来たという訳ではなかったが、それでも最小限の被害に食い止められたのは、大きな収穫だったといえよう。
エスタル冒険者ギルドへと帰り着いた直後、ヴァンは休憩室の雑事用テーブルに席を借り、そこで疲労の余り思わず突っ伏してしまった。
その後の記憶が無い。あのまま寝入ってしまったのだろうか。
しかし今、ヴァンはベッドの上で目を覚ました。誰かがここまで運んでくれたのかも知れない。
大体のことを思い出したところで、ヴァンはふと、月明かりが射し込む木窓に視線を転じた。蒸し暑い中で、妙に目が冴える程の冷たくて白い光だった。
ヴァンは空気を入れ替え、少しばかり涼もうと思い、ベッドを抜け出して窓際へと歩を寄せ、木窓を大きく左右に開いた。
思わず見とれてしまう程の丸い白光が、闇色の天に輝いていた。新円を描く満月が頭上にあった。これ程までに美しい満月を目にしたのは、一体いつ以来だろう。
そんなことを漠然と考えていると、不意に背後から声がかかった。
「月が綺麗ですね」
ヴァンは眉間に皺を寄せながら、ゆっくり振り向いた。
つい今の今まで自身が横たわっていたベッドに、何者かがのんびりと腰かけている。ヴァンに背中を向ける格好で座っている為、顔は見えない。
だが、その鈴の音の様に冷たく美しい声音から、女性だということはすぐに分かった。
●
何者か、とヴァンは訊いた。
一体いつ、どうやってこの室内に潜り込んできたのか。何から何まで、分からない。少なくとも、室のドアが開けられた気配は無かった。
その女性は背中越しに、しばらく考え込む仕草を見せた。それから漸く何かを思いついた様子で、二度三度、うんうんと頷いて曰く。
「強いていうなら、死神かなぁ?」
物騒な名乗りだった。
そもそも、だ。こんな真夜中に、何の断りも無く勝手に入り込んできたこの女は、明らかに不審者だといって良い。新手の風俗サービスか何かだろうか。或いはメドゥの指先とまではいかなくとも、冒険者に仇為す何らかの敵対組織からの刺客であろうか。
しかし悲しいかな、ヴァンは然程に名の知られた冒険者ではない。
例えば草人狩りのリーダー格であり、シルトラース帝国魔導院の元エスタル支部長だったクライス・アクバーを狙う、というのであれば、まだ理解は出来る。
その一方でヴァンは残念ながら、数多居る冒険者のひとりに過ぎない。そんな彼を狙ったところで、何の利益があるだろうか。
探偵として一部の住民と繋がりが出来ているホークヤードならば、可能性は無くも無い。だがここエスタルでは、ヴァンは完全に余所者だ。町中の路地裏で強盗辺りから無差別に狙われた、という訳でも無い。態々、ベッドのある部屋に忍び込んで来るからには何らかの理由がある筈だ。
だが、そこまで考えてヴァンは、ふと己の不思議な心境に気付いた。
どういう訳か、警戒心や危機感の類が、ヴァンの中では一切働いていないのである。何より、窓辺から離れて相手の正体を探ろうという気分も生じていない。
寧ろ、逆だ。謎の親近感の様な、不思議な安堵の情が湧き起こってきている。見も知らない、謎の相手である筈なのに。
これは一体、どういうことであろう。
謎の女性が自らを死神と名乗ったのも、或いは本当に死をもたらす存在ではなく、何か別のことを暗示している様にも思える。
実際ヴァンはこの女性に対し、マイナス方向の感情は何ひとつ抱いていなかった。
本当にこの女性が敵ならば、ヴァンが眠っているうちに仕掛けてきていた筈であろう。
●
そこから先、死神を名乗る女性は背中越しに色々と話しかけてきた。
ヴァンがローラントの姓を授けられる前後のことや、冒険者になってからのこと、ローラント探偵事務所を引き継いで探偵業を営んでいること、等々。
死神は不思議と、ヴァンの幼少の頃については何も話さなかった様に思える。
訊く必要が無かったのか、或いは訊きたくなかったのか。それは当人にしか分からない。
が、ヴァンは何を話し、何を訊かれ、何を答えたのか、よく覚えていない。恐らく言葉を交わしたその時はヴァンも己の意思と己の言葉で受け答えしたのだろうが、後になっても、その時の内容が思い出せなかった。
或いは、死神がただ一方的に言葉を連ねていただけなのかも知れない。それすらも、ヴァンの記憶に残っていなかった。
だが不思議と、嫌な感じは残っていなかった。きっと死神なる女性との会話は、ヴァンの中に安らぎと、ほんの少しの幸福感をもたらしていたに違いない。
矢張り、自分はこの女性を知っているのではないか。
ヴァンは己に問いかけた。が、答えは出てこない。知っていても思い出したくないのだろうか。
そんな中で、ひとつだけ妙に印象に残ったひと言があった。死神は不意に会話の途中で、
「今の君は、もうすっかり、大人になっているんだね」
妙に寂しげで、それでいて満足感を漂わせるひと言だった。その言葉の奥底にどういう意味が秘められているのかは、ヴァンには理解出来なかったが。
その後も、死神とヴァンは月明かりが射し込む薄暗い室の中で、互いの言葉を重ね続けた。
目覚めた時の寝苦しさや、じめっとした鬱陶しい空気感は、もうどこにも残っていない。開け放たれた窓から流れ込んでくる爽やかな涼気が、ヴァンの心を更に穏やかな色へと染めてゆく。
探偵業という仕事の上で長時間、誰かと話し込むということは今までに何度もあった。寧ろ、言葉が商売道具のひとつである以上、多くの言葉を連ねるという作業は決して珍しい話ではない。
しかし、ただ純粋に想いを交わすだけという時間――それもかなり込み入った内容を、これ程の長い時間――誰かと語り合うということは、無かったかも知れない。
それこそ名付け親でもある師匠ヘンリック・ローラントや、少年の頃からの友人である貸本屋のニコとも、ここまでの言葉を交わし合ったことなどあっただろうか。
しかし、悪い気はしなかった。寧ろ、楽しい想い出の中に居る様な、不思議な感覚だった。
そんな穏やかな時間も、やがて終わりに近づいてきていることをヴァンは何となく察した。
死神は、満足した様子で数度頷いてから、最後にこんな台詞を残した。
「君の人生は色々なことが起こるだろうけど、きっと充実したものになると思うよ。人生、楽しんでね」
それはまるで、惜別の言葉の様にも思えた。
死神がその最後に放ったひと言と同時に、窓辺に立つヴァンの意識が不意に白濁の世界に呑み込まれ、視界が歪んでいった。
●
ヴァンは再び、目を覚ました。それもベッドの上で、だ。
鬱陶しい寝苦しさは、全く感じなかった。室内は爽やかな涼気に包まれ、寝汗ひとつかいていない。
その時、ドアをノックする乾いた音が響いた。ヴァンがベッド上で声だけで応じると、見覚えのある顔が心配げな様子で室内に足を踏み入れてきた。
冒険者ギルドで、受付カウンター横に立っていたギルド職員の男性だった。
「あぁ良かった。もう回復なさったみたいですね」
そのギルド職員曰く、冒険者ギルドの休憩室に設えられた雑事用テーブルで、ヴァンは熱を発して突っ伏していたのだという。
エスタル解放戦はあれ程の激戦だったから、疲れが出たのかもしれない。
慌てたギルド職員は、エスタル冒険者ギルドが借り上げている近所の宿泊所へとヴァンを運び込み、この室のベッドに横たえたのだという。
どうやら丸一日は眠り続けていたらしく、ヴァンは随分ご迷惑をおかけしましたと頭を掻いた。
ギルド職員はとんでもない、とかぶりを振る。エスタル解放戦に参戦したヴァンは、彼らエスタル市民にとっては寧ろ、英雄だ。ヴァンに対して感謝こそすれ、逆にヴァンから謝罪されるなんてことは、恐縮に過ぎるというのである。
「どうか、ゆっくり休んでいって下さい。ヴァンさんや皆さんのお陰で、このエスタルはやっと平和を取り戻せたんですからね」
それだけいい置いて室を辞そうとしたギルド職員だったが、開け放たれている木窓にふと視線を流し、小首を傾げた。
「あの窓は、ご自分でお開けなさったので?」
ギルド職員によれば、ヴァンをこの室に運び込んだ際は確かに、あの木窓は閉め切っていた筈だ、というのである。
そしてヴァンは、夢の中でしか木窓を開けていない。
あれは一体――そこまで考えて、ヴァンはもう一度、開け放たれている窓の外に視線を流した。
闇色の天には、美しい満月が静かに浮かんでいた。
少し、蒸し暑い夜だった。
じめっとした汗の不快感が首や背中に、纏わりつく。
薄暗がりの中で目覚めたヴァン・ローラントは、ゆっくりと上体を押し上げた。ここはどこだろうと、周囲に視線を走らせてみる。
リーンエス王国北部のホークヤードにある自身の探偵事務所――ではない。見覚えの無い調度品が、木窓の隙間から射し込んで来る僅かな月明かりの中でぼんやりと視界に飛び込んできた。
今の今まで眠りこけていたこのベッドも、肌触りの悪いこのシーツも、全く馴染みが無い。そういえば昨日今日は、一体何をしていただろうか。
そこでヴァンは、漸く思い出した――そうだ、今居るのは帝国東部鎮守都市エスタルだ。
ここエスタルでヴァンは、地に潜みし幽界樹を打倒する為の作戦の一環としてエスタル地下に広がる下水網に突入し、眠り続ける市民を草人から奪還する為の戦いに身を投じたばかりだった。
今までに経験したことの無い程の大量の敵と戦い、ヴァンはかつて無い程に消耗し、疲弊し、そして必死の思いで地上へと帰還したのである。
結果、幽界樹は無事に斃され、草人に連れ去られようとしていた多くの市民も何とか救い出すことが出来た。勿論全ての市民を奪還出来たという訳ではなかったが、それでも最小限の被害に食い止められたのは、大きな収穫だったといえよう。
エスタル冒険者ギルドへと帰り着いた直後、ヴァンは休憩室の雑事用テーブルに席を借り、そこで疲労の余り思わず突っ伏してしまった。
その後の記憶が無い。あのまま寝入ってしまったのだろうか。
しかし今、ヴァンはベッドの上で目を覚ました。誰かがここまで運んでくれたのかも知れない。
大体のことを思い出したところで、ヴァンはふと、月明かりが射し込む木窓に視線を転じた。蒸し暑い中で、妙に目が冴える程の冷たくて白い光だった。
ヴァンは空気を入れ替え、少しばかり涼もうと思い、ベッドを抜け出して窓際へと歩を寄せ、木窓を大きく左右に開いた。
思わず見とれてしまう程の丸い白光が、闇色の天に輝いていた。新円を描く満月が頭上にあった。これ程までに美しい満月を目にしたのは、一体いつ以来だろう。
そんなことを漠然と考えていると、不意に背後から声がかかった。
「月が綺麗ですね」
ヴァンは眉間に皺を寄せながら、ゆっくり振り向いた。
つい今の今まで自身が横たわっていたベッドに、何者かがのんびりと腰かけている。ヴァンに背中を向ける格好で座っている為、顔は見えない。
だが、その鈴の音の様に冷たく美しい声音から、女性だということはすぐに分かった。
●
何者か、とヴァンは訊いた。
一体いつ、どうやってこの室内に潜り込んできたのか。何から何まで、分からない。少なくとも、室のドアが開けられた気配は無かった。
その女性は背中越しに、しばらく考え込む仕草を見せた。それから漸く何かを思いついた様子で、二度三度、うんうんと頷いて曰く。
「強いていうなら、死神かなぁ?」
物騒な名乗りだった。
そもそも、だ。こんな真夜中に、何の断りも無く勝手に入り込んできたこの女は、明らかに不審者だといって良い。新手の風俗サービスか何かだろうか。或いはメドゥの指先とまではいかなくとも、冒険者に仇為す何らかの敵対組織からの刺客であろうか。
しかし悲しいかな、ヴァンは然程に名の知られた冒険者ではない。
例えば草人狩りのリーダー格であり、シルトラース帝国魔導院の元エスタル支部長だったクライス・アクバーを狙う、というのであれば、まだ理解は出来る。
その一方でヴァンは残念ながら、数多居る冒険者のひとりに過ぎない。そんな彼を狙ったところで、何の利益があるだろうか。
探偵として一部の住民と繋がりが出来ているホークヤードならば、可能性は無くも無い。だがここエスタルでは、ヴァンは完全に余所者だ。町中の路地裏で強盗辺りから無差別に狙われた、という訳でも無い。態々、ベッドのある部屋に忍び込んで来るからには何らかの理由がある筈だ。
だが、そこまで考えてヴァンは、ふと己の不思議な心境に気付いた。
どういう訳か、警戒心や危機感の類が、ヴァンの中では一切働いていないのである。何より、窓辺から離れて相手の正体を探ろうという気分も生じていない。
寧ろ、逆だ。謎の親近感の様な、不思議な安堵の情が湧き起こってきている。見も知らない、謎の相手である筈なのに。
これは一体、どういうことであろう。
謎の女性が自らを死神と名乗ったのも、或いは本当に死をもたらす存在ではなく、何か別のことを暗示している様にも思える。
実際ヴァンはこの女性に対し、マイナス方向の感情は何ひとつ抱いていなかった。
本当にこの女性が敵ならば、ヴァンが眠っているうちに仕掛けてきていた筈であろう。
●
そこから先、死神を名乗る女性は背中越しに色々と話しかけてきた。
ヴァンがローラントの姓を授けられる前後のことや、冒険者になってからのこと、ローラント探偵事務所を引き継いで探偵業を営んでいること、等々。
死神は不思議と、ヴァンの幼少の頃については何も話さなかった様に思える。
訊く必要が無かったのか、或いは訊きたくなかったのか。それは当人にしか分からない。
が、ヴァンは何を話し、何を訊かれ、何を答えたのか、よく覚えていない。恐らく言葉を交わしたその時はヴァンも己の意思と己の言葉で受け答えしたのだろうが、後になっても、その時の内容が思い出せなかった。
或いは、死神がただ一方的に言葉を連ねていただけなのかも知れない。それすらも、ヴァンの記憶に残っていなかった。
だが不思議と、嫌な感じは残っていなかった。きっと死神なる女性との会話は、ヴァンの中に安らぎと、ほんの少しの幸福感をもたらしていたに違いない。
矢張り、自分はこの女性を知っているのではないか。
ヴァンは己に問いかけた。が、答えは出てこない。知っていても思い出したくないのだろうか。
そんな中で、ひとつだけ妙に印象に残ったひと言があった。死神は不意に会話の途中で、
「今の君は、もうすっかり、大人になっているんだね」
妙に寂しげで、それでいて満足感を漂わせるひと言だった。その言葉の奥底にどういう意味が秘められているのかは、ヴァンには理解出来なかったが。
その後も、死神とヴァンは月明かりが射し込む薄暗い室の中で、互いの言葉を重ね続けた。
目覚めた時の寝苦しさや、じめっとした鬱陶しい空気感は、もうどこにも残っていない。開け放たれた窓から流れ込んでくる爽やかな涼気が、ヴァンの心を更に穏やかな色へと染めてゆく。
探偵業という仕事の上で長時間、誰かと話し込むということは今までに何度もあった。寧ろ、言葉が商売道具のひとつである以上、多くの言葉を連ねるという作業は決して珍しい話ではない。
しかし、ただ純粋に想いを交わすだけという時間――それもかなり込み入った内容を、これ程の長い時間――誰かと語り合うということは、無かったかも知れない。
それこそ名付け親でもある師匠ヘンリック・ローラントや、少年の頃からの友人である貸本屋のニコとも、ここまでの言葉を交わし合ったことなどあっただろうか。
しかし、悪い気はしなかった。寧ろ、楽しい想い出の中に居る様な、不思議な感覚だった。
そんな穏やかな時間も、やがて終わりに近づいてきていることをヴァンは何となく察した。
死神は、満足した様子で数度頷いてから、最後にこんな台詞を残した。
「君の人生は色々なことが起こるだろうけど、きっと充実したものになると思うよ。人生、楽しんでね」
それはまるで、惜別の言葉の様にも思えた。
死神がその最後に放ったひと言と同時に、窓辺に立つヴァンの意識が不意に白濁の世界に呑み込まれ、視界が歪んでいった。
●
ヴァンは再び、目を覚ました。それもベッドの上で、だ。
鬱陶しい寝苦しさは、全く感じなかった。室内は爽やかな涼気に包まれ、寝汗ひとつかいていない。
その時、ドアをノックする乾いた音が響いた。ヴァンがベッド上で声だけで応じると、見覚えのある顔が心配げな様子で室内に足を踏み入れてきた。
冒険者ギルドで、受付カウンター横に立っていたギルド職員の男性だった。
「あぁ良かった。もう回復なさったみたいですね」
そのギルド職員曰く、冒険者ギルドの休憩室に設えられた雑事用テーブルで、ヴァンは熱を発して突っ伏していたのだという。
エスタル解放戦はあれ程の激戦だったから、疲れが出たのかもしれない。
慌てたギルド職員は、エスタル冒険者ギルドが借り上げている近所の宿泊所へとヴァンを運び込み、この室のベッドに横たえたのだという。
どうやら丸一日は眠り続けていたらしく、ヴァンは随分ご迷惑をおかけしましたと頭を掻いた。
ギルド職員はとんでもない、とかぶりを振る。エスタル解放戦に参戦したヴァンは、彼らエスタル市民にとっては寧ろ、英雄だ。ヴァンに対して感謝こそすれ、逆にヴァンから謝罪されるなんてことは、恐縮に過ぎるというのである。
「どうか、ゆっくり休んでいって下さい。ヴァンさんや皆さんのお陰で、このエスタルはやっと平和を取り戻せたんですからね」
それだけいい置いて室を辞そうとしたギルド職員だったが、開け放たれている木窓にふと視線を流し、小首を傾げた。
「あの窓は、ご自分でお開けなさったので?」
ギルド職員によれば、ヴァンをこの室に運び込んだ際は確かに、あの木窓は閉め切っていた筈だ、というのである。
そしてヴァンは、夢の中でしか木窓を開けていない。
あれは一体――そこまで考えて、ヴァンはもう一度、開け放たれている窓の外に視線を流した。
闇色の天には、美しい満月が静かに浮かんでいた。