【君題】世界分のたった一人を失うだけのお話です

キャラクターノベル制作 柳コータ納品 2022年06月24日 08時50分39秒

 ――その頃の『わたし』はまだ『エリカ』ではなかった。

 その日は、酷い雨が降っていた。
 風も強く吹いていて、痩せこけた小さな体では走るだけでも精一杯だ。
 身に纏う少ない襤褸切れを手繰り寄せて、雨風から守るように胸元でネムを抱える。ネムは、まだ小さな子リスだ。寿命を迎えて逝ってしまった唯一の友達が遺した大切な存在。けれどその子が、雨風に晒されて元気がない。
「大丈夫だからね……ネム」
 浅い息の中で語り掛ければ、手の中で小さなぬくもりが応えるように身動きする。それに励まされているのは自分のほうかもしれない。ずっと雨風を凌げる場所を探しているのに、屋根のあるまともな建物はほとんどなく、見つかっても恐ろしそうな大人が占拠している。
 走って、走って、転んで。それでもどうにかネムを守って辿り着いた先に見つけた僅かな屋根を残した廃墟でさえ、駆け込んだ先で見たのは、飢えた獣のように爛々とした瞳の大人たちだった。

 はじめからこの街には――『わたし』には殆ど何もなかった。
 物心ついた頃にはこの場所にいて、その頃には既にこの街は滅んでしまっていた。住む場所もろくになく、街の半分は森に呑まれたこの街に居つくのは、行き場所のないごろつきや帰還不能兵、そして『わたし』のような孤児となった子供たちばかりだ。
 少ない住処や食べ物を取り合って、いつだって何処かで怒号や泣き声が響いている。食べ物のためでなくとも、憂さ晴らしの無意味な暴力さえ当然になっていた。だから常にそれから隠れるように、森で少ない木の実を調達しては、友達のリスと分け合って、街の隅でひっそりと息をしていた。それなのに。
「あ……っ」
 思わず引き攣った声が出て。――大人たちと目が合った。
 体が硬直する。不味いと思った次の瞬間に『わたし』は再び走り出した。裸足のままの脚が瓦礫で傷つくのも構わず、もつれそうになる足を叱咤して、無我夢中で走る。
 後ろから激しい怒号がしていて、途中からはそれが雨風なのか怒号なのかもわからなくなっていた。
(にげなきゃ、ネムが)
 捕まったら自分のみならず、きっとネムだって酷い目にあってしまう。それだけはどうしても嫌で、どこをどう走ったのか自分でもよくわからないうちに、ついにどこか、大きな道へと飛び出した。
 知らない道だ。街の果てだろうか、わからない。ただもう足が動かなくて、体が冷たいのに酷く熱い気がした。息が浅くしかできなくて、目の前がちかちかとする。
「……ネ、ム」
 両手の中のぬくもりが、まだ応えてくれる。それにほっとした瞬間に、ぐらりと後ろへ体が傾いて――そして目の前に、怒号とも雨風ともつかぬ、大きな恐ろしい音が迫っていた。

「君、大丈夫か!?」
 誰かの焦った声で目を開けて、生きていることを知った。ぼんやりとまだ焦点を結びきらない視界の中へ覗き込んで来たのは、大人の男だ。反射的に体がびくりとするが、よくよく見ると、その男の身なりはあの街にいた大人たちとはまるで違って、清潔感がある。頬も痩せこけてはおらず、目も恐ろしくはない。むしろ心配そうに見つめて来るから、ついこくりと頷いた。
「その子を馬車に乗せなさい」
 雨風よりもよく通る声が聞こえたのはそのときだ。どうにか体を半分起こして、目の前に停まっていたのが馬車だと気づいた。正確には、そのとき馬車というものを知っていたわけではない。馬が引く大きな乗りものに轢かれそうになった。当時の理解はその程度のものだ。
 後で考えてみれば、駆け寄って来ていたのは御者だったのだろう。そしてその御者へ声を掛けたのは、馬車の中にいる人物だった。
「で、ですが旦那さま」
 狼狽えた御者が言い募ろうとしたが、それに構わず自ら馬車の扉を開けて外へと飛び出したのは、御者よりもずっと身なりの美しい女性だった。

「――エリカ!」

 転げ落ちるように馬車から出て来た女性は、雨の中綺麗な服が泥に塗れるのにも構わず、真っ直ぐに『わたし』のところまで来た。そして泣きそうな顔で知らない名前を呼んで、『わたし』を抱き締めた。
 呆然としたのも致し方ないだろう。何もかもが唐突で、何もかもが偶然だった。何一つ状況が呑み込めないまま、『わたし』は次いで降りて来た身なりの良い男性に支えられるようにして、されるがままに馬車に乗せられた。

 雨風のない馬車の中は、それだけでまるで立派な屋敷のように思えた。滑らかな触り心地の椅子は廃墟のそれのように傷や凹凸はなく、拭くと良いと渡された布は、纏う襤褸より驚くほど柔らかい。受け取って真っ先に抱いていたネムをくるんでやると、小さな友人はきょとんとした様子だったものの、濡れそぼった体を嬉しそうにふかふかの布の中へもぐり込ませて、心底ほっとした。その布の端で申し訳程度に顔を拭って上げると、向かい側に座った男女の大人と目が合った。その途端に女性はまた泣きそうな顔になり、それを慰めるように男性がそっと肩に手を回す。
「驚かせてすまなかったね。……言葉は解るだろうか?」
「……うん」
 穏やかな声でゆっくりとした問いに、小さな声でおそるおそる頷いた。身なりからして孤児であるのは一目瞭然だったのだろう。言葉は街で自然と身に付いたもので、当然そのときは正しい言葉遣いも何も知らず、そして何よりも知らない大人が怖かった。記憶にある限りのあの街の大人は、怒号と暴力の象徴だったからだ。
 いくら目の前の大人二人がそうは見えずとも、ネムが潜った布をぎゅうと引き寄せて。痩せこけた体を精一杯緊張させるのをやめることはできなかった。
「私達は、シュルトハイス子爵家の者だ。君の名前は?」
「しらない。……この子はネム。わたしの友達」
 そっと布の上から、ネムを撫でる。本当のことだ。ネムに名前を付けたのは『わたし』でも、自分を呼ぶ者はいるはずもなかった。一瞬意味も知らずに持ち続けて来たウッドタグのことを思い出したが、当然そこに彫られた【SILK】というのが文字であることさえも理解していなかった。
 子爵夫妻は気の毒そうにこちらを見て、控えめに「親は」と問う。表情を動かすでもなく首を横にすれば、夫人が「ずっと一人だったのね」と眦の涙を拭いながら囁いた。
「ううん。ネムがいたよ」
 そればかりは、はっきりと言った。だって、ひとりではなかったのだ。ネムがいてくれた。ネムの前は、ネムを遺してくれたあの子がいた。親も誰もいなくても『わたし』は独りではなかった。
 俯かせていた視線を上げて、毅然と視線を合わせたことに夫妻は少し驚いたようだった。けれどすぐに顔を見合わせて、泣きそうに笑い合い、頷き合う。

「……そうか。なら、その友達も一緒に、私達のところへ来ないか? 私達の娘エリカとして」
「ネムも、いっしょに?」

 そのときの『わたし』にとっては、自分のことよりネムのことが重要だった。外はまだ雨風が酷い。けれど少なくともこの馬車の中は濡れもせず寒くもなく、ネムは貸して貰った布の中で心地よさそうにしている。大人は怖い。それでもこの誘いに頷けば、きっとネムのことを再びあの寒くて恐ろしい場所に戻さずに済むはずだ。『わたし』はエリカではないけれど。

「……いいよ」

 ――それが『わたし』の運命を変えた日。『わたし』がエリカになった日だった。

登場キャラクター

アーカイブ生成日時 2026年08月05日 14時56分25秒 ・ world0