私は何も知らなかった
キャラクターノベル制作 革酎納品 2022年05月02日 11時53分03秒
●
辺獄戦役――その熾烈なる戦いの結末は、故国崩壊によって身も心も打ちのめされていた多くのシルトラース帝国民に、愕然たる事実を突きつけた。
火生の神ボルガニスクの力を奪い、超越者への階段を登り始めた皇帝ヨゼフ・バルダスの再臨。帝国過激派を率いるアルルカンと、彼がこの世に生み出した人造授恵者ホムンクルス。
余りに非人道的で、人類の尊厳そのものを脅かし、世界に刃を向けて挑みかかろうとする恐るべき所業。
冒険者達の活躍でシグモル火山帯の混乱は辛うじて鎮められたものの、皇帝ヨゼフが残した爪痕は余りに無残で、ひとびとの心に拭いきれない衝撃を残していった。
しかし、ロモズ歩兵団遊兵8番隊長アウレーリア・フォン・ネーベルベルクはこの辺獄戦役に於いて、ひとびととは異なる苦痛を味わうこととなった。
「アルフォンス兄様……」
辺獄戦役終結後の、帝国過激派研究施設『フラスコ』跡地にて。
アウレーリアは一冊の手記を、半ば呆然と見つめていた。表紙の隅には、アルフォンス・コンラート・フェリックス・フォン・ネーベルベルクと記されている。
帝国崩壊前、ネーベルベルク家から忽然と姿を消したアウレーリアの兄にして、同伯爵家の嫡男として誕生した人物の名である。
それが何故、辺獄という過酷な世界の中の、かつてフラスコと呼ばれた悪鬼の研究施設内に残されていたというのか。
だが、アウレーリアにはひとつ、思い当たる節があった。
(矢張り……あのアルファNと呼ばれた改造ホムンクルスは……)
アウレーリアは直接、戦った訳ではない。
帝国過激派傘下の戦闘集団クロブロッチ陸戦隊は、辺獄に於ける皇帝ヨゼフ足止め作戦と並行して敢行されたフラスコ攻略戦に於いて、ロモズ歩兵団と熾烈な戦いを繰り広げた。
隊長デトリフ・クロブロッチはこの戦いで討ち取られたが、デトリフ以外の主だった隊長クラスや改造ホムンクルス等も少なからず、同様に撃破された。
その改造ホムンクルスが他でもない、アルファNだったのである。
最初にアルファNの名を聞いたのは、帝国北部の雪深い森パルドーに於いてであった。ロモズ歩兵団はとある調査任務を引き受け、結果、このパルドーでクロブロッチ陸戦隊と遭遇した。
デトリフ・クロブロッチはロモズ歩兵団から少なくない人数の団員を拉致し、フラスコへと連れ帰った。その際、クロブロッチ陸戦隊内で交わされた命令の中に、アルファNの名が登場していたのである。
クロブロッチ陸戦隊と遭遇した際、アウレーリアは少なからず衝撃を受けた。
帝国崩壊前、失踪したアルフォンスが自室に残した近衛連隊採用通知書には、余り見たことが無い部隊の隊章が押印されていたのであるが、その隊章こそが、クロブロッチ陸戦隊のものだったのである。
即ち、アルフォンスはクロブロッチ陸戦隊と行動を共にしていたことに他ならない。帝国崩壊時、兄は死んだとばかり思っていたアウレーリアだったが、ここへ来て、アルフォンス生存の望みを僅かに見出だした。
だがそれも、そう長くは続かなかった。
クロブロッチ陸戦隊に随行しているホムンクルスの特徴が、余りにアルフォンスと酷似していたからだ。
(まさか、兄様は……)
パルドーより帰還した当初、アウレーリアの胸中には余り考えたくない想像が何度も去来した。
しかし、運命の歯車は否が応にもアウレーリアを過酷な戦いへと導いてゆく。ロモズ歩兵団は拉致された団員の奪還を決定し、辺獄内フラスコに突入戦を仕掛ける決断を下した。
当然、遊兵8番隊を率いるアウレーリアもこの戦いに参戦した。
しかしアウレーリアは直接アルファNと戦うことは無く、自らの隊を率いて、己が為すべきことだけに集中した。
結果、デトリフ・クロブロッチは討ち取られ、主だった隊長級の陸戦隊兵も死亡。同時に、改造ホムンクルスも撃破されたとの報告が舞い込んできた。
(改造ホムンクルス……アルファNは矢張り、兄様の……)
しかし、アウレーリアの疑問を解消する前に、ロモズ歩兵団は辺獄離脱戦へと移行した。アウレーリアもまた自隊を率いて辺獄を離れ、結局、アルファNの遺骸を確かめる術も失われた。
そして現在。
ロモズ歩兵団は一部の遊兵隊を辺獄内フラスコ跡へと派遣し、戦後処理に当たらせていた。
アウレーリア率いる遊兵8番隊も、この戦後処理任務の為に再びシグモル火山帯を訪れた。フラスコ内には既にクロブロッチ陸戦隊員達の遺体は、ひとつも残されていない。辺獄内に住まう魔獣やクリーパーが、あらかた食い尽くしてしまったのだろう。
そして、アルファNと呼ばれた改造ホムンクルスの遺骸もまた、失われていた。今となっては、その容貌が本当に兄アルフォンスと酷似していたのかどうかも分からない。
だが、このフラスコ内でアウレーリアは、見つけてしまった。
兄アルフォンスの手記を。その生前の記録を。
矢張りアルファNはアルフォンスだったのではないか――その想いが、次第にアウレーリアの胸中で大きな渦を描き始めている。
●
アウレーリアは手近の床に倒れている木椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
他の文書や資料はあらかた、冒険者ギルドが派遣した調査隊が既に持ち帰っている。今このフラスコ跡に残されているのは、ホムンクルス研究の為の資料としては価値が無いと判断されたものばかりであった。
それらのうちのひとつが、アルフォンスの手記であった。確かに冒険者ギルドの観点から見れば何の価値も無いものであったが、アウレーリアにとっては非常に重要な一冊だった。
帝国崩壊前に失踪した兄アルフォンス。最愛の肉親がここフラスコに至るまでの足跡を辿る上で、この手記が残されていた意味は大きい。
アルフォンスの生前の息遣いが、この一冊の中に詰まっている。彼が如何にしてネーベルベルク家を去り、そしてクロブロッチ陸戦隊に招かれていったのか。
その答え合わせが今、始まろうとしている。同時にそれは、アルフォンスが内に秘めていた心情を初めて紐解く旅にもなるであろう。
アウレーリアはひと息入れ、そっと表紙を繰った。
鼓動が高鳴るのが、自分でもよく分かる。だが、逃げることは許されない。アウレーリアはアルフォンスの人生の終焉を見届けなければならなかった。
記述は意外にも、帝国崩壊以前から始まっていた。
ネーベルベルク家の嫡男として、華やかな栄達の道を着実に、一歩ずつ進もうとしていた彼は、その時既に、途轍もないプレッシャーに耐え始めていた。
その精神的抑圧が、アルフォンスに抗い難い焦燥感を植え付けていたことも、アウレーリアはここで初めて知った。
(兄様……あの笑顔の裏で、こんなにも苦しんでいたなんて……)
頁を読み進めながら、アウレーリアは我知らず、唇を強く噛んでいた。
次々と明らかになるアルフォンスの苦しい胸の内に、何故今まで気付かなかったのかと、己の無知を歯がゆく思った。
義務感、挫折、諦観。それらが目まぐるしく入れ替わり立ち替わり、アルフォンスの胸中を蝕んでゆく。どんなに努力しても報われない日々。あの優しかった兄が穏やかな笑顔の裏で、これ程の地獄を見ていたなどとは誰が想像出来ようか。
授恵者に覚醒した実の弟に対する憧憬と嫉妬。それらの負の感情を抑えるべく、無力な妹を憐れむことで慰めとする、その愚かさ。
己の醜い感情全てが、赦せなかった。アルフォンスのプライドが、彼自身の鬱積を認めなかった。
妹の眼差しは余りに純粋で、余りに美しかった。
その無邪気な笑顔が、鋭い刃となってアルフォンスの胸の奥深くに容赦無く突き刺さる。
この怒り、呪詛の想い、それらはどこへも向けられない。ただ己の中に、溜め込む以外に無かった。出来ればそのまま、この世から消えて無くなりたかった。
だがそこに、悪魔の囁きがアルフォンスの辛うじて保たれていた精神の平衡を突き崩しにかかった。
帝国過激派クロブロッチ陸戦隊からの、甘美な声。
全てを知っても尚、彼らの誘いはアルフォンスにとって代え難い福音となって心の隙間にそっと忍び込んできた。
ここから、アルフォンスの転落が始まった。
そしてあの日――帝国を襲った史上最大の悲劇、帝国崩壊が、アルフォンスにとっての死のカウントダウン開始となった。
皇帝ヨゼフと帝国過激派は帝国領内を離れ、その一部がシグモル火山帯を目指す。その中にアルフォンスの姿もあった。
宮廷道化師アルルカンが提唱する人造授恵者開発計画に、アルフォンスは全てを注ぎ込んだ。
拠点選定、資金の調達、資材確保、人員勧誘、素体採取、証拠隠滅。
アルフォンスはアルルカンとデトリフの求めるがままに、必死に働き続けた。それらが全て自身の死を招く壮大な自滅準備であることも知らず、絶望を原動力として精力的に身を動かした。
そしてあろうことか、アルフォンスはホムンクルス化に志願した。彼が望んだ授恵者への道は、ただ死を選びさえすれば、それで良かった。
手記の最後には家族への謝罪と、喜びの言葉が綴られていた。
『これで私もネーベルベルクの者として、陛下のお役に立てる』
それがアルフォンスが残した、唯一の喜びの声であった。
だがアルフォンスは本当に、喜悦の中で死を迎えられたのだろうか。
(いや……恐らくそれは、違う)
ホムンクルス化の条件は、絶望である。希望を抱いて死んだ者はホムンクルス化には適合しない。
ここから先はアウレーリアの想像だが、アルフォンスはホムンクルス化には適合しないとして、一度は不適格の烙印を押されたのではないか。
そこで再び、例えようもない絶望を味わったのではないか。絶望の中で身悶えしながら、アルフォンスは死を迎えたのではないか。
アルルカンとデトリフ・クロブロッチならば、やりそうなことである。
そして、そうでなければ、ホムンクルスとして蘇ることは叶わなかった筈だ。
事実、アルファNは誕生した。意志無き人形としてロモズ歩兵団の前に立ちはだかったのである。
アルファNは恐るべき強敵だった。それは確かに、かつてアルフォンスが欲した力だった。
しかし絶望の中で死を迎えた時に、アルフォンスは己が肉体の末路を想像し得ただろうか。
真っ黒な渇望の果ての代償として、願いが叶えられた事実を、理解していたのだろうか。
●
カルケルーア・ロモズに帰還後の、ある日の夜。
アウレーリアはフラスコから持ち帰った兄アルフォンスの手記を、庭先での焚火にくべた。
兄の命と共に、この手記も天に還してやるべきだ。アウレーリアにとってこの手記は、思い出の一冊にはなり得なかった。
(……兄様は失敗した。きっと最初の選択から、ずっと)
アルフォンスは何も残さず、何も成し遂げず、ただ無名の戦士として地の底で斃れた。
誉れも尊厳も、そこには無い。大半の者はアルファNと称された仮の名さえ、胸中に刻みはしなかった筈だ。
或いは彼の死後、人造授恵者計画の崩壊すらも、後始末の内だったのかも知れない。
そう信じなくては、憐れに過ぎる。
(結局私は、何も知らず、何も見ようとはしていなかった)
現実から目を逸らしている内に、アウレーリアは最後の肉親の死に際を看取ることも無く、ただ無為のままに喪った。
今のアウレーリアの胸中に去来するのは、虚しさだけであった。
(兄妹揃って、余りに愚かだ)
乾いた嗤いが、白い頬を奇妙に歪めた。不思議と、涙は一滴も溢れてこなかった。
帝国崩壊時に流し尽くした涙は、最早アルフォンスの為には残されていなかったのかも知れない。
そして今度こそ、自分にはもう何も無いという事実を改めて知った。だが不思議と、恐ろしくはなかった。寧ろ清々した、といっても良いかも知れない。
今の自身の感情がひとの道に外れるものだと非難されようが、構わない。もう誰にも、気を遣う必要は無いのだ。ネーベルベルク家はアウレーリアを除いて、ひとりも残っていないのだから。
武術や馬術はおろか、外出もままならぬ病弱の身を嘆いた父。
せめて嫁入り後の役割をと、無垢な人形に政治と権謀術数を仕込んだ母。
可哀想な末子だからと優しく優しく、皆が腫れ物にでも触れる様に心を砕いて作り上げた、柔らかな憐みの鳥籠。
家士も侍従達も、いつも穏やかな笑みを浮かべてアウレーリアに接してくれていた。だがその笑顔の裏では、幼い少女に対する愛しさ以上に、憐憫の情が勝っていたに違いない。
アウレーリアは授恵者として数多くのひとびとと接してきた。ロモズ歩兵団遊兵8番隊長として、少なくない人数の部下を従える様になった。
そして漸く、少しばかりではあるが、ひとの心の機微というものを理解し始める様になっていた。
(……今にして思えば、自分で感じる以上に、うんざりしていたんだな)
アウレーリアは、まだ幼かった頃の自身の感情を、今この時になって初めて理解した様な気がした。
自分でも、分かっていなかったのだ。
己の気持ち、己の感情ですら分からないのに、アルフォンスの苦悩など、理解出来よう筈も無かった。
その時、焚火の炎が大きく弾けた。
くべられた手記がオレンジ色の輝きを経て、黒い灰へと変じ、夜空に舞い上がってゆく。
(もう帝国もネーベルベルクも、私を縛れはしない)
アウレーリアは夜の闇へと消えてゆく灰の群れを、静かに見上げた。
これからは、全てを自分自身の意思で決める。そうすることが出来るだけの成長を遂げた。
絶対に、アルフォンスの様にはならない。
我知らず握り締めていた拳を、アウレーリアはそっと緩めた。
その時、声がかけられた。
遊兵8番隊の班長のひとりが、招集がかかったと伝えてきたのである。ロモズ歩兵団長リーヴァー・シュランドルが、カルケルーア・ロモズに居残っている全ての隊長、副長を呼び集めよと指令を出したらしい。
帝国過激派の残存兵が、再び動き出そうとしているとの連絡が舞い込んできたとの由。
アルルカンとデトリフ・クロブロッチは既に斃されたが、帝国過激派に名を連ねる実力者はまだ他にも居るのだろう。
何よりも、皇帝ヨゼフ・バルダスは今尚、健在なのである。このまま大人しく世界の情勢を眺めているだけ、とも思えない。絶対に、再び立ち上がる筈だ。
今、改めて思えば、帝国過激派は兄アルフォンスを甘美な死の世界へと誘った、非道な連中である。
しかし、憎しみは無い。
最早、そんなことはどうでも良かった。
アウレーリアが己の意思を決定するのは、冒険者として。そして、ロモズ歩兵団遊兵8番隊長として。それは誰にも縛られるものではなかった。
今も。
そして、これからも。
辺獄戦役――その熾烈なる戦いの結末は、故国崩壊によって身も心も打ちのめされていた多くのシルトラース帝国民に、愕然たる事実を突きつけた。
火生の神ボルガニスクの力を奪い、超越者への階段を登り始めた皇帝ヨゼフ・バルダスの再臨。帝国過激派を率いるアルルカンと、彼がこの世に生み出した人造授恵者ホムンクルス。
余りに非人道的で、人類の尊厳そのものを脅かし、世界に刃を向けて挑みかかろうとする恐るべき所業。
冒険者達の活躍でシグモル火山帯の混乱は辛うじて鎮められたものの、皇帝ヨゼフが残した爪痕は余りに無残で、ひとびとの心に拭いきれない衝撃を残していった。
しかし、ロモズ歩兵団遊兵8番隊長アウレーリア・フォン・ネーベルベルクはこの辺獄戦役に於いて、ひとびととは異なる苦痛を味わうこととなった。
「アルフォンス兄様……」
辺獄戦役終結後の、帝国過激派研究施設『フラスコ』跡地にて。
アウレーリアは一冊の手記を、半ば呆然と見つめていた。表紙の隅には、アルフォンス・コンラート・フェリックス・フォン・ネーベルベルクと記されている。
帝国崩壊前、ネーベルベルク家から忽然と姿を消したアウレーリアの兄にして、同伯爵家の嫡男として誕生した人物の名である。
それが何故、辺獄という過酷な世界の中の、かつてフラスコと呼ばれた悪鬼の研究施設内に残されていたというのか。
だが、アウレーリアにはひとつ、思い当たる節があった。
(矢張り……あのアルファNと呼ばれた改造ホムンクルスは……)
アウレーリアは直接、戦った訳ではない。
帝国過激派傘下の戦闘集団クロブロッチ陸戦隊は、辺獄に於ける皇帝ヨゼフ足止め作戦と並行して敢行されたフラスコ攻略戦に於いて、ロモズ歩兵団と熾烈な戦いを繰り広げた。
隊長デトリフ・クロブロッチはこの戦いで討ち取られたが、デトリフ以外の主だった隊長クラスや改造ホムンクルス等も少なからず、同様に撃破された。
その改造ホムンクルスが他でもない、アルファNだったのである。
最初にアルファNの名を聞いたのは、帝国北部の雪深い森パルドーに於いてであった。ロモズ歩兵団はとある調査任務を引き受け、結果、このパルドーでクロブロッチ陸戦隊と遭遇した。
デトリフ・クロブロッチはロモズ歩兵団から少なくない人数の団員を拉致し、フラスコへと連れ帰った。その際、クロブロッチ陸戦隊内で交わされた命令の中に、アルファNの名が登場していたのである。
クロブロッチ陸戦隊と遭遇した際、アウレーリアは少なからず衝撃を受けた。
帝国崩壊前、失踪したアルフォンスが自室に残した近衛連隊採用通知書には、余り見たことが無い部隊の隊章が押印されていたのであるが、その隊章こそが、クロブロッチ陸戦隊のものだったのである。
即ち、アルフォンスはクロブロッチ陸戦隊と行動を共にしていたことに他ならない。帝国崩壊時、兄は死んだとばかり思っていたアウレーリアだったが、ここへ来て、アルフォンス生存の望みを僅かに見出だした。
だがそれも、そう長くは続かなかった。
クロブロッチ陸戦隊に随行しているホムンクルスの特徴が、余りにアルフォンスと酷似していたからだ。
(まさか、兄様は……)
パルドーより帰還した当初、アウレーリアの胸中には余り考えたくない想像が何度も去来した。
しかし、運命の歯車は否が応にもアウレーリアを過酷な戦いへと導いてゆく。ロモズ歩兵団は拉致された団員の奪還を決定し、辺獄内フラスコに突入戦を仕掛ける決断を下した。
当然、遊兵8番隊を率いるアウレーリアもこの戦いに参戦した。
しかしアウレーリアは直接アルファNと戦うことは無く、自らの隊を率いて、己が為すべきことだけに集中した。
結果、デトリフ・クロブロッチは討ち取られ、主だった隊長級の陸戦隊兵も死亡。同時に、改造ホムンクルスも撃破されたとの報告が舞い込んできた。
(改造ホムンクルス……アルファNは矢張り、兄様の……)
しかし、アウレーリアの疑問を解消する前に、ロモズ歩兵団は辺獄離脱戦へと移行した。アウレーリアもまた自隊を率いて辺獄を離れ、結局、アルファNの遺骸を確かめる術も失われた。
そして現在。
ロモズ歩兵団は一部の遊兵隊を辺獄内フラスコ跡へと派遣し、戦後処理に当たらせていた。
アウレーリア率いる遊兵8番隊も、この戦後処理任務の為に再びシグモル火山帯を訪れた。フラスコ内には既にクロブロッチ陸戦隊員達の遺体は、ひとつも残されていない。辺獄内に住まう魔獣やクリーパーが、あらかた食い尽くしてしまったのだろう。
そして、アルファNと呼ばれた改造ホムンクルスの遺骸もまた、失われていた。今となっては、その容貌が本当に兄アルフォンスと酷似していたのかどうかも分からない。
だが、このフラスコ内でアウレーリアは、見つけてしまった。
兄アルフォンスの手記を。その生前の記録を。
矢張りアルファNはアルフォンスだったのではないか――その想いが、次第にアウレーリアの胸中で大きな渦を描き始めている。
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アウレーリアは手近の床に倒れている木椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
他の文書や資料はあらかた、冒険者ギルドが派遣した調査隊が既に持ち帰っている。今このフラスコ跡に残されているのは、ホムンクルス研究の為の資料としては価値が無いと判断されたものばかりであった。
それらのうちのひとつが、アルフォンスの手記であった。確かに冒険者ギルドの観点から見れば何の価値も無いものであったが、アウレーリアにとっては非常に重要な一冊だった。
帝国崩壊前に失踪した兄アルフォンス。最愛の肉親がここフラスコに至るまでの足跡を辿る上で、この手記が残されていた意味は大きい。
アルフォンスの生前の息遣いが、この一冊の中に詰まっている。彼が如何にしてネーベルベルク家を去り、そしてクロブロッチ陸戦隊に招かれていったのか。
その答え合わせが今、始まろうとしている。同時にそれは、アルフォンスが内に秘めていた心情を初めて紐解く旅にもなるであろう。
アウレーリアはひと息入れ、そっと表紙を繰った。
鼓動が高鳴るのが、自分でもよく分かる。だが、逃げることは許されない。アウレーリアはアルフォンスの人生の終焉を見届けなければならなかった。
記述は意外にも、帝国崩壊以前から始まっていた。
ネーベルベルク家の嫡男として、華やかな栄達の道を着実に、一歩ずつ進もうとしていた彼は、その時既に、途轍もないプレッシャーに耐え始めていた。
その精神的抑圧が、アルフォンスに抗い難い焦燥感を植え付けていたことも、アウレーリアはここで初めて知った。
(兄様……あの笑顔の裏で、こんなにも苦しんでいたなんて……)
頁を読み進めながら、アウレーリアは我知らず、唇を強く噛んでいた。
次々と明らかになるアルフォンスの苦しい胸の内に、何故今まで気付かなかったのかと、己の無知を歯がゆく思った。
義務感、挫折、諦観。それらが目まぐるしく入れ替わり立ち替わり、アルフォンスの胸中を蝕んでゆく。どんなに努力しても報われない日々。あの優しかった兄が穏やかな笑顔の裏で、これ程の地獄を見ていたなどとは誰が想像出来ようか。
授恵者に覚醒した実の弟に対する憧憬と嫉妬。それらの負の感情を抑えるべく、無力な妹を憐れむことで慰めとする、その愚かさ。
己の醜い感情全てが、赦せなかった。アルフォンスのプライドが、彼自身の鬱積を認めなかった。
妹の眼差しは余りに純粋で、余りに美しかった。
その無邪気な笑顔が、鋭い刃となってアルフォンスの胸の奥深くに容赦無く突き刺さる。
この怒り、呪詛の想い、それらはどこへも向けられない。ただ己の中に、溜め込む以外に無かった。出来ればそのまま、この世から消えて無くなりたかった。
だがそこに、悪魔の囁きがアルフォンスの辛うじて保たれていた精神の平衡を突き崩しにかかった。
帝国過激派クロブロッチ陸戦隊からの、甘美な声。
全てを知っても尚、彼らの誘いはアルフォンスにとって代え難い福音となって心の隙間にそっと忍び込んできた。
ここから、アルフォンスの転落が始まった。
そしてあの日――帝国を襲った史上最大の悲劇、帝国崩壊が、アルフォンスにとっての死のカウントダウン開始となった。
皇帝ヨゼフと帝国過激派は帝国領内を離れ、その一部がシグモル火山帯を目指す。その中にアルフォンスの姿もあった。
宮廷道化師アルルカンが提唱する人造授恵者開発計画に、アルフォンスは全てを注ぎ込んだ。
拠点選定、資金の調達、資材確保、人員勧誘、素体採取、証拠隠滅。
アルフォンスはアルルカンとデトリフの求めるがままに、必死に働き続けた。それらが全て自身の死を招く壮大な自滅準備であることも知らず、絶望を原動力として精力的に身を動かした。
そしてあろうことか、アルフォンスはホムンクルス化に志願した。彼が望んだ授恵者への道は、ただ死を選びさえすれば、それで良かった。
手記の最後には家族への謝罪と、喜びの言葉が綴られていた。
『これで私もネーベルベルクの者として、陛下のお役に立てる』
それがアルフォンスが残した、唯一の喜びの声であった。
だがアルフォンスは本当に、喜悦の中で死を迎えられたのだろうか。
(いや……恐らくそれは、違う)
ホムンクルス化の条件は、絶望である。希望を抱いて死んだ者はホムンクルス化には適合しない。
ここから先はアウレーリアの想像だが、アルフォンスはホムンクルス化には適合しないとして、一度は不適格の烙印を押されたのではないか。
そこで再び、例えようもない絶望を味わったのではないか。絶望の中で身悶えしながら、アルフォンスは死を迎えたのではないか。
アルルカンとデトリフ・クロブロッチならば、やりそうなことである。
そして、そうでなければ、ホムンクルスとして蘇ることは叶わなかった筈だ。
事実、アルファNは誕生した。意志無き人形としてロモズ歩兵団の前に立ちはだかったのである。
アルファNは恐るべき強敵だった。それは確かに、かつてアルフォンスが欲した力だった。
しかし絶望の中で死を迎えた時に、アルフォンスは己が肉体の末路を想像し得ただろうか。
真っ黒な渇望の果ての代償として、願いが叶えられた事実を、理解していたのだろうか。
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カルケルーア・ロモズに帰還後の、ある日の夜。
アウレーリアはフラスコから持ち帰った兄アルフォンスの手記を、庭先での焚火にくべた。
兄の命と共に、この手記も天に還してやるべきだ。アウレーリアにとってこの手記は、思い出の一冊にはなり得なかった。
(……兄様は失敗した。きっと最初の選択から、ずっと)
アルフォンスは何も残さず、何も成し遂げず、ただ無名の戦士として地の底で斃れた。
誉れも尊厳も、そこには無い。大半の者はアルファNと称された仮の名さえ、胸中に刻みはしなかった筈だ。
或いは彼の死後、人造授恵者計画の崩壊すらも、後始末の内だったのかも知れない。
そう信じなくては、憐れに過ぎる。
(結局私は、何も知らず、何も見ようとはしていなかった)
現実から目を逸らしている内に、アウレーリアは最後の肉親の死に際を看取ることも無く、ただ無為のままに喪った。
今のアウレーリアの胸中に去来するのは、虚しさだけであった。
(兄妹揃って、余りに愚かだ)
乾いた嗤いが、白い頬を奇妙に歪めた。不思議と、涙は一滴も溢れてこなかった。
帝国崩壊時に流し尽くした涙は、最早アルフォンスの為には残されていなかったのかも知れない。
そして今度こそ、自分にはもう何も無いという事実を改めて知った。だが不思議と、恐ろしくはなかった。寧ろ清々した、といっても良いかも知れない。
今の自身の感情がひとの道に外れるものだと非難されようが、構わない。もう誰にも、気を遣う必要は無いのだ。ネーベルベルク家はアウレーリアを除いて、ひとりも残っていないのだから。
武術や馬術はおろか、外出もままならぬ病弱の身を嘆いた父。
せめて嫁入り後の役割をと、無垢な人形に政治と権謀術数を仕込んだ母。
可哀想な末子だからと優しく優しく、皆が腫れ物にでも触れる様に心を砕いて作り上げた、柔らかな憐みの鳥籠。
家士も侍従達も、いつも穏やかな笑みを浮かべてアウレーリアに接してくれていた。だがその笑顔の裏では、幼い少女に対する愛しさ以上に、憐憫の情が勝っていたに違いない。
アウレーリアは授恵者として数多くのひとびとと接してきた。ロモズ歩兵団遊兵8番隊長として、少なくない人数の部下を従える様になった。
そして漸く、少しばかりではあるが、ひとの心の機微というものを理解し始める様になっていた。
(……今にして思えば、自分で感じる以上に、うんざりしていたんだな)
アウレーリアは、まだ幼かった頃の自身の感情を、今この時になって初めて理解した様な気がした。
自分でも、分かっていなかったのだ。
己の気持ち、己の感情ですら分からないのに、アルフォンスの苦悩など、理解出来よう筈も無かった。
その時、焚火の炎が大きく弾けた。
くべられた手記がオレンジ色の輝きを経て、黒い灰へと変じ、夜空に舞い上がってゆく。
(もう帝国もネーベルベルクも、私を縛れはしない)
アウレーリアは夜の闇へと消えてゆく灰の群れを、静かに見上げた。
これからは、全てを自分自身の意思で決める。そうすることが出来るだけの成長を遂げた。
絶対に、アルフォンスの様にはならない。
我知らず握り締めていた拳を、アウレーリアはそっと緩めた。
その時、声がかけられた。
遊兵8番隊の班長のひとりが、招集がかかったと伝えてきたのである。ロモズ歩兵団長リーヴァー・シュランドルが、カルケルーア・ロモズに居残っている全ての隊長、副長を呼び集めよと指令を出したらしい。
帝国過激派の残存兵が、再び動き出そうとしているとの連絡が舞い込んできたとの由。
アルルカンとデトリフ・クロブロッチは既に斃されたが、帝国過激派に名を連ねる実力者はまだ他にも居るのだろう。
何よりも、皇帝ヨゼフ・バルダスは今尚、健在なのである。このまま大人しく世界の情勢を眺めているだけ、とも思えない。絶対に、再び立ち上がる筈だ。
今、改めて思えば、帝国過激派は兄アルフォンスを甘美な死の世界へと誘った、非道な連中である。
しかし、憎しみは無い。
最早、そんなことはどうでも良かった。
アウレーリアが己の意思を決定するのは、冒険者として。そして、ロモズ歩兵団遊兵8番隊長として。それは誰にも縛られるものではなかった。
今も。
そして、これからも。