黒髪の少年少女の幼い日の出会い
キャラクターノベル制作 望月誠司納品 2022年03月30日 11時24分09秒
墨を溶かしたような漆黒色の髪を、腰程までに真っ直ぐに伸ばしている少女だった。
彼女の生家は帝国軍事に従事する由緒正しい貴族の家柄だった。
家格としては、上位と言って良いだろう。
御年十一歳、彼女には許嫁がいた。
彼女が嫁入りするのではなく、婿を取るという形で将来が約束されている。
子供と子供、本人達同士に面識がある訳ではなく、家同士が定めた婚約だった。
幼い少女はしかし、反発するよりも将来自分の夫となる人はどのような人間なのだろうと興味の方が勝っていた。
相手は自分と同年代の少年なのだという。
だから、顔合わせの為に彼が暮らしている屋敷を訪れる事になった時には、会える事を楽しみにしていた。
しかし、
「――いない?」
彼女の一行が屋敷を訪れる事は前もって伝えられていた筈だったが、彼の姿は屋敷内になかった。
少々行き違いがあって、現在折り悪く外出してしまっているのだという。
手紙のやりとりに何日もかかるような時代である。
そういう事も、運が悪ければ起こってしまうのだろう。
すぐに戻る、という話だったので、少女は屋敷に逗留して彼の帰りを待つ事にした。
屋敷の主は硬質で慇懃な態度の男だったが、貴族としての儀礼は尽くされた振る舞いで少女達に接したので、悪印象はさほどなかった。
――初めのうちは。
一日が経ち、二昼夜が明け、三晩が過ぎても少女の許嫁の少年は屋敷に帰ってこなかった。
「……すぐにお戻りになられる、という話ではなかったのですか?」
少女の従者が屋敷の主を責め立てた。
屋敷の主は不機嫌そうな硬い表情で「申し訳ございません」と頭を下げ深々と謝罪した。
「謝罪などいただいても意味がありません。こちらも暇ではないのです。これ以上の逗留は今後の予定に支障が発生してしまうのです。しかし、遠路はるばる来ておきながら――殿と面会が叶わぬとあっては、お嬢様の旅も、ここまで辛抱強くお待ちになられた事も、ただの無駄骨」
少女は不快だった。
面会の約束を反故にされて気分が良くなる人間がいる訳がない。
おまけに婿に取るような力関係である。そこを彼女の側からわざわざ訪問したにも関わらず、この対応をされては由緒正しい貴族家としての面子が立たない。
そういう理由もあって、当主の名代としてやってきた少女自身よりも、その補佐としてついてきている従者こそが、彼女が受けたこの仕打ちに激怒していた。
「まさかとは思いますが……貴家は当家を虚仮にしておられるのか?」
貴族というのは名誉を重んじる生き物である。
名誉を重んじる――
中世における、それはつまり、ひらたくいうなら『舐められたらぶっ殺せ』という事だ。歴史書にはそう書かれている。
暴力の匂いの強い時代の支配階級層の名誉や権威というものは、鉄と血で以ってこそ担保されている。規模感は違うが街の暴力組織と行動原理に大差は無い。
ひとたび実力を侮られたら、こいつは弱い、カモだ、と思われれば、周囲からよってたかって毟られ、とことんまでつけこまれるのが常だったから、侮辱は決して許さない。本人や一族のみならず領民の命運までかかっている。
決闘騒ぎや家同士の争いなんてのは日常茶飯事だ。
舐めてかかれば必ず痛い目にあわされるという応報の力によってこそ、不用意な手出しは控えられ、平和は保たれている。
シルトラース帝国はバルダス皇家の威光と権威と実力によって統制が取られている大陸でも類をみない中央集権国家であったから、少々中世の常識とは異なる所があるが、しかし根底に流れている部分は共通している。
だからこそ彼等はよくよく注意して礼儀正しく振る舞う。
無礼を働けば、斬りかかられて瞬く間に血を見る事態へとエスカーレートしてしまっても何の不思議もないからだ。
貴族階級でありながら他の貴族への礼儀を弁えない者はあらゆる意味でよほどの者以外はありえない。
「いえ! 決して、決して……! そのような事は……!」
プライドの高そうな当主が苦しそうな表情を浮かべている。彼の方も無様に責め立てられたあげくに頭を下げざるをえない状況に追い込まれる、という事態には慣れていないのだろう、瞳に憤怒の色が宿っていた。
だが、どう考えても非はあちらにあった。何故屋敷にいない。
「どちらにおられるのです、『彼』は」
「……なにとぞ、しばし、もうしばし……!」
お待ちを、と許嫁の家の当主は頭を下げた。
結局の所、もう少しだけ待つ、という事になった。
(……何か、やむを得ない理由とかで、いないのだったらいいのだけど)
少女は少年が屋敷にいない理由を思った。
ただ、正統な理由があるのなら、当主がその事を述べて釈明している筈なので、まとな説明がないという事は、おそらく、まっとうな理由ではないのだろう。
案の定、
「当主様は無論、当家一同、お嬢様を侮辱するつもりなど毛頭ございません。当主様は、当主様は悪くないのです。すべてあの餓鬼が悪いんです」
少女は逗留している間に、屋敷で働いている同年代の使用人の少女と親しくなり、茶飲みがてらに話を向けると、彼女はぽろっとそんな事を伝えてきた。
「あの餓鬼?」
「あっ」
使用人の少女はクッキーを齧りながら「しまった」という表情を浮かべた。
追及してみると、少女の許嫁の少年の事だった。その少年は少女にとって許嫁であるという事を失念していたらしい。
「彼の事、詳しく教えてくださる?」
使用人の少女はバツが悪そうに喋り始めた。
なんでも許嫁の少年は日頃から森に入り浸っているらしく、恐らく今回も森に出ていて戻ってきていないのだろうと。
「まぁ……もしかして、彼って、不良少年、なのかしら?」
「そういう感じでもないんですけどね……ただ、その行動は、名誉ある貴族としてよろしくない事がとても多いんです」
「少し、踏み込んだ事を尋ねても良いかしら?」
「……なんでしょうお嬢様? わたくしめではお答えできない事もございますが……」
「答えられない事なら答えなくて良いわ。彼は、既にご両親が亡くなっていて、叔父であるこの家の当主殿に引き取られ育てられていると聞いているのだけれど……彼は当主殿とは上手くいってないのかしら?」
使用人の少女は苦い顔をした。
「表だってあからさまに衝突するような事はありませんが…………」
言葉を濁す。
「……そう」
少女はカップに口をつけ紅茶を飲んだ。
実の親子間でも上手くいかない事なんてざらにある。
叔父と甥の間柄で上手くいかないというのは、当たり前といえば当たり前の事なのかもしれない。
「じゃあ、もしかすると、彼の行動は叔父への反発なのかしら……?」
使用人の少女は沈黙した。
まぁ本人の気持ちなど本人にしかわからないだろう。
「まぁ、事情はあるのよね。それはわかるわ。でも、家と家の事だから、貴族の子だったら、きちんとしないといけないと思うの。一族、従者、使用人、領地の民達の生活がかかってるわ、自分の家だけでなく、相手の家のまでも」
「ああ……お嬢様は素晴らしい。ああ、お嬢様のような方が当家の後継者であれば良かったのに!」
使用人が称賛してきた。
世辞ならまだ救いようがあったが、
「しかし、あの餓鬼はそれを理解していない。あるいは、理解していても顧みないのです。貴族の子として守らなければならない事を平気で、無造作に、呆れるほど簡単に破り捨てる」
そう苦々しく吐き捨てるように愚痴を続けた所をみるに、おそらく本心なのだろう。
(頭が、痛いわ……)
その少年は少女にとって現状、他人とはいえない位置にあるのだ。許嫁なのだ。未来の旦那なのだ。将来は彼と結婚し家を盛り立てていかねばならない。そういう人物を夫にして共に家を無事に繁栄させてゆく事ができるのだろうか? 自分に?
「そう……そういう方なのね……」
少女の胸中からは最早、婚約者に会う事を楽しみにする気持ちなど消し飛んでいた。暗澹たる思いがこみ上げてくる。
(でも、嘆いていても現状は改善しないわよね……)
少女は顔を上げ、言った。
「彼が何を考えて私と会う事を拒否したのかはわからないけど……彼には一日も早く屋敷に戻ってきてもらわないといけないわ。そうでないと、ブルーノ……私の御付き筆頭の彼が、本当に怒ってお父様に伝えるでしょうから……お父様も結構、過激な所がある方だし、下手すると私の家と貴方の家とで抗争になりかねないわ……」
「抗争!」
使用人の少女が目を剥いた。
娘を侮辱されたので決闘だ、というのは貴族の家ではそれなりに実例がある話だ。少女の父が少女の扱い自体でそこまで怒るかはまた別問題として、家名を傷つけられたので、面子を潰されたので、だから決闘なり抗争なりを行う、というのは大いにありえる話だ。
中世貴族は基本『舐められたらぶっ殺せ』の世界だ。
「だから、一刻も早く、どうにかして連れ戻して、ブルーノをこれ以上怒らせないようにしないと……今ならまだなんとか、ギリギリ宥められると思うの……」
多くの人々の運命がかかっている。
少女は顔を青くしている使用人の少女をじっと見つめると言った。
「貴女、私の家と貴女の家の運命を、救ってみる英雄になるつもりはない?」
黒髪の貴族少女は十一歳、なんだかんだでまだまだ子供だった。
使用人の少女も子供だった。
――だから、彼女達は彼女達で、子供達だけで、突拍子も無い行動に出てしまうのだった。
●
鬱蒼とした森だ。
「なるほど、素敵な場所ね」
黒髪少女は使用人の少女を己の替え玉として、割り当てられた部屋に残し、使用人の衣服に着替えて、屋敷を抜け出し、森へと入っていた。
気分が悪くなったのでしばらく自分のいる部屋には何者も入らないようにと命令しておいたので、一日程度なら誤魔化せるだろう。
黒髪少女は授恵者であり、とても厳しい訓練を積んでいたから、自分の力ならば少年を連れ戻せると信じていた。
(さて、足跡は……よしよし、まだ消えてないわね)
使用人の少女に少年の替えの靴を見せて貰って足のサイズを把握し、屋敷から続いている少年のものと思われし足跡を黒髪少女は辿っていた。
プロの軍人、あるいは殺し屋顔負けの追跡術である。
使用人服に身を包んでいる黒髪少女は、森中においても素早く、音も無く、移動してゆく。
――なるほど、只者ではない動きだった。
彼女が自分ならば連れ戻せると思ったのもあながち子供の過信とは言い切れないものがある。
彼女に誤算があったとすれば、それはその時、この森は安全が著しく喪失された場所だった、という事だった。
●
(どうして、こんなに、こんなっ!!)
長い黒髪を宙に靡かせ、黒瞳紅瞳を見開いて、少女は必死に駆けていた。
森の奥には無数の黒い影達が蠢いていた。
常のこの世の生き物ではない。
クリーパーだ。
どういう原因の為かはわからなかったが、森中には大量のクリーパーが発生し徘徊していた。
それらはとても強力で、なおかつ数が多かった。
少女は何体かは倒したもののやがてスキルも尽き、とても抗しえなくなって、森中を逃げ回るはめになっていた。
(助けて! 誰か――)
誰に助けを求めれば良い?
父か?
神か?
両者が少女を助けてくれる訳が無い。
「――うっ!」
不意に、視界が大きく揺れて頭部と首に衝撃と痛みが加わった。
(……しまった)
少女の自慢の長い黒髪が、灌木を抜けた時に生い茂っている枝葉に絡まってしまっていた。
焦りながら必死に髪を枝から外したが、その時には既に黒い影達が間近に迫り、少女に飛び掛かってきていた。
死。
少女がそれを覚悟し身を強張らせた時、白い閃光が森を貫き、黒い影に鋭く突き立った。
(え?)
飛び掛かってきていた黒い影が薙ぎ倒されるように回転しながら吹き飛んでゆき、さらに雷鳴のような獣の咆吼と共に銀色の毛並みを持つ信じられない程に巨大な狼が飛び込んできて、後続の黒い影達を薙ぎ払った。
あの強力なクリーパー達が一撃で次々に蹴散らされてゆく。
「大丈夫?」
銀狼のあまりの凄まじさに少女が呆気にとられ立ち尽くしていると、いつの間にか弓を手にした黒髪の少年が傍らに現れていた。
「あ、貴方は……」
「通りすがり。安心して、ご覧の通りあの銀狼はとても強いんだ」
少年は少女を安心させるように微笑んだ。
「ただ、少し離れていた方が良いかも。こっちに来て」
「……はい」
貴方はただの通りすがりじゃないでしょう、と思いつつも少女は、どうやら己を間一髪で救ってくれたらしい少年に手を引かれながら、安全な場所へと連れられていったのだった。
●
銀狼がクリーパー達を殲滅した後、少女は黒髪の少年から水が入った袋を貰って飲みつつ話を聞いていた。
なんでもクリーパー達は数日前から森に突如として出現したらしい。
人間でも動物でも、命あるものには片っ端から襲いかかって、喰らおうとするのだという。
そして、少年は彼の相棒である銀狼と共に森内を巡ってクリーパー達を退治し続けているのだと。
「今、この森は危険なんだ。入口まで送るから、君は帰った方が良いよ」
「はい……」
俯きがちに黒髪少女は頷いた。何故か、顔が熱くてまともに少年の顔を見れなかった。
休憩を挟みつつ森まで送り届けて貰ってから、黒髪少女は思い切って少年に尋ねてみた。
「森が大変なのはわかりました。でも、貴方も戻らなければならない場所があるのではないのですか?」
「えっ?」
少年はびっくりしたように黒瞳を瞬かせたが、
「……うん、まぁ、実は、そうなんだけど……でも、あいつら放っておくと森がめちゃくちゃになっちゃうから……」
森の動物達や環境が心配らしい。
それらを守る為には今は何よりもまずクリーパーを退治しなければならないと少年は言った。
「なるほど、そういう事情でしたか……」
貴族の子としては褒められた行動ではない。
だが、黒髪少女には不思議と悪くは思えなかった。
「えぇと、君……もしかして、僕の事、知ってる?」
黒髪少年がバツが悪そうに頬を掻きながら尋ねてきた。
黒髪少女は微笑を浮かべた。
問いには直接は答えずに、
「また後でお会いしましょう?」
許嫁の少年へとそう言い残して、少女は屋敷へと戻っていったのだった。
●
「今回は出直しましょう。そして、今回の件は不問といたします」
屋敷に帰って使用人の少女に礼を言って再び赤いドレスを身に纏うと黒髪少女はブルーノへとそう告げた。
「お嬢様?! しかし!」
「これはお願いでも提案でもなく命令です。彼がここにいないのは、森を守る為のようですよ」
「はっ?」
少女は己が見てきた事を彼女の御付きにも説明した。
「それは……しかし、だからといって当家との約束を反故にするのは……」
「ご当主もそういうご事情だったのでしたら、そうおっしゃってくだされればよろしかったのに?」
「…………言い訳にはなりますまい」
屋敷の当主は不本意そうな仏長面で答えた。
あまり器用な人間ではないらしい。
少女はくすっと笑った。
「できれば彼が戻るまで待ちたいですが、そういう訳にもいかないので、残念ですが今回はこれで失礼いたしますわ。今度、訪れる時には今回の分も埋め合わせてくださると嬉しいです、と彼にお伝えください」
ごきげんよう、と言い残し、少女は従者達を引き連れて屋敷から去っていった。
●
墨を溶かしたような漆黒の髪だ。
腰程までに真っ直ぐに伸びている。
歳の頃は十七、八といった所だろうか。
処女雪のように真っ白な肌を、透かし柄とひだ寄せがふんだんにあしらわれた深紅のドレスに包んでいる。
腰に細微な装飾の施されたベルトが回され、矢筒が下げられ、手には華美なドレスには似つかわしくない長弓が握られている。
対峙しているのは黒髪黒瞳の精悍な体躯の青年だった。
こちらもやはり弓を手にしている。
セロンガード・シュタインドルフ。
帝国が誇る精鋭の諜報部隊、ヴェヒター・ヌルの若き隊員だ。
黒髪少女が黒瞳紅瞳を細めて微笑んだ。
セロンはその両目を真っ直ぐに睨み据え、口を開いた――
彼女の生家は帝国軍事に従事する由緒正しい貴族の家柄だった。
家格としては、上位と言って良いだろう。
御年十一歳、彼女には許嫁がいた。
彼女が嫁入りするのではなく、婿を取るという形で将来が約束されている。
子供と子供、本人達同士に面識がある訳ではなく、家同士が定めた婚約だった。
幼い少女はしかし、反発するよりも将来自分の夫となる人はどのような人間なのだろうと興味の方が勝っていた。
相手は自分と同年代の少年なのだという。
だから、顔合わせの為に彼が暮らしている屋敷を訪れる事になった時には、会える事を楽しみにしていた。
しかし、
「――いない?」
彼女の一行が屋敷を訪れる事は前もって伝えられていた筈だったが、彼の姿は屋敷内になかった。
少々行き違いがあって、現在折り悪く外出してしまっているのだという。
手紙のやりとりに何日もかかるような時代である。
そういう事も、運が悪ければ起こってしまうのだろう。
すぐに戻る、という話だったので、少女は屋敷に逗留して彼の帰りを待つ事にした。
屋敷の主は硬質で慇懃な態度の男だったが、貴族としての儀礼は尽くされた振る舞いで少女達に接したので、悪印象はさほどなかった。
――初めのうちは。
一日が経ち、二昼夜が明け、三晩が過ぎても少女の許嫁の少年は屋敷に帰ってこなかった。
「……すぐにお戻りになられる、という話ではなかったのですか?」
少女の従者が屋敷の主を責め立てた。
屋敷の主は不機嫌そうな硬い表情で「申し訳ございません」と頭を下げ深々と謝罪した。
「謝罪などいただいても意味がありません。こちらも暇ではないのです。これ以上の逗留は今後の予定に支障が発生してしまうのです。しかし、遠路はるばる来ておきながら――殿と面会が叶わぬとあっては、お嬢様の旅も、ここまで辛抱強くお待ちになられた事も、ただの無駄骨」
少女は不快だった。
面会の約束を反故にされて気分が良くなる人間がいる訳がない。
おまけに婿に取るような力関係である。そこを彼女の側からわざわざ訪問したにも関わらず、この対応をされては由緒正しい貴族家としての面子が立たない。
そういう理由もあって、当主の名代としてやってきた少女自身よりも、その補佐としてついてきている従者こそが、彼女が受けたこの仕打ちに激怒していた。
「まさかとは思いますが……貴家は当家を虚仮にしておられるのか?」
貴族というのは名誉を重んじる生き物である。
名誉を重んじる――
中世における、それはつまり、ひらたくいうなら『舐められたらぶっ殺せ』という事だ。歴史書にはそう書かれている。
暴力の匂いの強い時代の支配階級層の名誉や権威というものは、鉄と血で以ってこそ担保されている。規模感は違うが街の暴力組織と行動原理に大差は無い。
ひとたび実力を侮られたら、こいつは弱い、カモだ、と思われれば、周囲からよってたかって毟られ、とことんまでつけこまれるのが常だったから、侮辱は決して許さない。本人や一族のみならず領民の命運までかかっている。
決闘騒ぎや家同士の争いなんてのは日常茶飯事だ。
舐めてかかれば必ず痛い目にあわされるという応報の力によってこそ、不用意な手出しは控えられ、平和は保たれている。
シルトラース帝国はバルダス皇家の威光と権威と実力によって統制が取られている大陸でも類をみない中央集権国家であったから、少々中世の常識とは異なる所があるが、しかし根底に流れている部分は共通している。
だからこそ彼等はよくよく注意して礼儀正しく振る舞う。
無礼を働けば、斬りかかられて瞬く間に血を見る事態へとエスカーレートしてしまっても何の不思議もないからだ。
貴族階級でありながら他の貴族への礼儀を弁えない者はあらゆる意味でよほどの者以外はありえない。
「いえ! 決して、決して……! そのような事は……!」
プライドの高そうな当主が苦しそうな表情を浮かべている。彼の方も無様に責め立てられたあげくに頭を下げざるをえない状況に追い込まれる、という事態には慣れていないのだろう、瞳に憤怒の色が宿っていた。
だが、どう考えても非はあちらにあった。何故屋敷にいない。
「どちらにおられるのです、『彼』は」
「……なにとぞ、しばし、もうしばし……!」
お待ちを、と許嫁の家の当主は頭を下げた。
結局の所、もう少しだけ待つ、という事になった。
(……何か、やむを得ない理由とかで、いないのだったらいいのだけど)
少女は少年が屋敷にいない理由を思った。
ただ、正統な理由があるのなら、当主がその事を述べて釈明している筈なので、まとな説明がないという事は、おそらく、まっとうな理由ではないのだろう。
案の定、
「当主様は無論、当家一同、お嬢様を侮辱するつもりなど毛頭ございません。当主様は、当主様は悪くないのです。すべてあの餓鬼が悪いんです」
少女は逗留している間に、屋敷で働いている同年代の使用人の少女と親しくなり、茶飲みがてらに話を向けると、彼女はぽろっとそんな事を伝えてきた。
「あの餓鬼?」
「あっ」
使用人の少女はクッキーを齧りながら「しまった」という表情を浮かべた。
追及してみると、少女の許嫁の少年の事だった。その少年は少女にとって許嫁であるという事を失念していたらしい。
「彼の事、詳しく教えてくださる?」
使用人の少女はバツが悪そうに喋り始めた。
なんでも許嫁の少年は日頃から森に入り浸っているらしく、恐らく今回も森に出ていて戻ってきていないのだろうと。
「まぁ……もしかして、彼って、不良少年、なのかしら?」
「そういう感じでもないんですけどね……ただ、その行動は、名誉ある貴族としてよろしくない事がとても多いんです」
「少し、踏み込んだ事を尋ねても良いかしら?」
「……なんでしょうお嬢様? わたくしめではお答えできない事もございますが……」
「答えられない事なら答えなくて良いわ。彼は、既にご両親が亡くなっていて、叔父であるこの家の当主殿に引き取られ育てられていると聞いているのだけれど……彼は当主殿とは上手くいってないのかしら?」
使用人の少女は苦い顔をした。
「表だってあからさまに衝突するような事はありませんが…………」
言葉を濁す。
「……そう」
少女はカップに口をつけ紅茶を飲んだ。
実の親子間でも上手くいかない事なんてざらにある。
叔父と甥の間柄で上手くいかないというのは、当たり前といえば当たり前の事なのかもしれない。
「じゃあ、もしかすると、彼の行動は叔父への反発なのかしら……?」
使用人の少女は沈黙した。
まぁ本人の気持ちなど本人にしかわからないだろう。
「まぁ、事情はあるのよね。それはわかるわ。でも、家と家の事だから、貴族の子だったら、きちんとしないといけないと思うの。一族、従者、使用人、領地の民達の生活がかかってるわ、自分の家だけでなく、相手の家のまでも」
「ああ……お嬢様は素晴らしい。ああ、お嬢様のような方が当家の後継者であれば良かったのに!」
使用人が称賛してきた。
世辞ならまだ救いようがあったが、
「しかし、あの餓鬼はそれを理解していない。あるいは、理解していても顧みないのです。貴族の子として守らなければならない事を平気で、無造作に、呆れるほど簡単に破り捨てる」
そう苦々しく吐き捨てるように愚痴を続けた所をみるに、おそらく本心なのだろう。
(頭が、痛いわ……)
その少年は少女にとって現状、他人とはいえない位置にあるのだ。許嫁なのだ。未来の旦那なのだ。将来は彼と結婚し家を盛り立てていかねばならない。そういう人物を夫にして共に家を無事に繁栄させてゆく事ができるのだろうか? 自分に?
「そう……そういう方なのね……」
少女の胸中からは最早、婚約者に会う事を楽しみにする気持ちなど消し飛んでいた。暗澹たる思いがこみ上げてくる。
(でも、嘆いていても現状は改善しないわよね……)
少女は顔を上げ、言った。
「彼が何を考えて私と会う事を拒否したのかはわからないけど……彼には一日も早く屋敷に戻ってきてもらわないといけないわ。そうでないと、ブルーノ……私の御付き筆頭の彼が、本当に怒ってお父様に伝えるでしょうから……お父様も結構、過激な所がある方だし、下手すると私の家と貴方の家とで抗争になりかねないわ……」
「抗争!」
使用人の少女が目を剥いた。
娘を侮辱されたので決闘だ、というのは貴族の家ではそれなりに実例がある話だ。少女の父が少女の扱い自体でそこまで怒るかはまた別問題として、家名を傷つけられたので、面子を潰されたので、だから決闘なり抗争なりを行う、というのは大いにありえる話だ。
中世貴族は基本『舐められたらぶっ殺せ』の世界だ。
「だから、一刻も早く、どうにかして連れ戻して、ブルーノをこれ以上怒らせないようにしないと……今ならまだなんとか、ギリギリ宥められると思うの……」
多くの人々の運命がかかっている。
少女は顔を青くしている使用人の少女をじっと見つめると言った。
「貴女、私の家と貴女の家の運命を、救ってみる英雄になるつもりはない?」
黒髪の貴族少女は十一歳、なんだかんだでまだまだ子供だった。
使用人の少女も子供だった。
――だから、彼女達は彼女達で、子供達だけで、突拍子も無い行動に出てしまうのだった。
●
鬱蒼とした森だ。
「なるほど、素敵な場所ね」
黒髪少女は使用人の少女を己の替え玉として、割り当てられた部屋に残し、使用人の衣服に着替えて、屋敷を抜け出し、森へと入っていた。
気分が悪くなったのでしばらく自分のいる部屋には何者も入らないようにと命令しておいたので、一日程度なら誤魔化せるだろう。
黒髪少女は授恵者であり、とても厳しい訓練を積んでいたから、自分の力ならば少年を連れ戻せると信じていた。
(さて、足跡は……よしよし、まだ消えてないわね)
使用人の少女に少年の替えの靴を見せて貰って足のサイズを把握し、屋敷から続いている少年のものと思われし足跡を黒髪少女は辿っていた。
プロの軍人、あるいは殺し屋顔負けの追跡術である。
使用人服に身を包んでいる黒髪少女は、森中においても素早く、音も無く、移動してゆく。
――なるほど、只者ではない動きだった。
彼女が自分ならば連れ戻せると思ったのもあながち子供の過信とは言い切れないものがある。
彼女に誤算があったとすれば、それはその時、この森は安全が著しく喪失された場所だった、という事だった。
●
(どうして、こんなに、こんなっ!!)
長い黒髪を宙に靡かせ、黒瞳紅瞳を見開いて、少女は必死に駆けていた。
森の奥には無数の黒い影達が蠢いていた。
常のこの世の生き物ではない。
クリーパーだ。
どういう原因の為かはわからなかったが、森中には大量のクリーパーが発生し徘徊していた。
それらはとても強力で、なおかつ数が多かった。
少女は何体かは倒したもののやがてスキルも尽き、とても抗しえなくなって、森中を逃げ回るはめになっていた。
(助けて! 誰か――)
誰に助けを求めれば良い?
父か?
神か?
両者が少女を助けてくれる訳が無い。
「――うっ!」
不意に、視界が大きく揺れて頭部と首に衝撃と痛みが加わった。
(……しまった)
少女の自慢の長い黒髪が、灌木を抜けた時に生い茂っている枝葉に絡まってしまっていた。
焦りながら必死に髪を枝から外したが、その時には既に黒い影達が間近に迫り、少女に飛び掛かってきていた。
死。
少女がそれを覚悟し身を強張らせた時、白い閃光が森を貫き、黒い影に鋭く突き立った。
(え?)
飛び掛かってきていた黒い影が薙ぎ倒されるように回転しながら吹き飛んでゆき、さらに雷鳴のような獣の咆吼と共に銀色の毛並みを持つ信じられない程に巨大な狼が飛び込んできて、後続の黒い影達を薙ぎ払った。
あの強力なクリーパー達が一撃で次々に蹴散らされてゆく。
「大丈夫?」
銀狼のあまりの凄まじさに少女が呆気にとられ立ち尽くしていると、いつの間にか弓を手にした黒髪の少年が傍らに現れていた。
「あ、貴方は……」
「通りすがり。安心して、ご覧の通りあの銀狼はとても強いんだ」
少年は少女を安心させるように微笑んだ。
「ただ、少し離れていた方が良いかも。こっちに来て」
「……はい」
貴方はただの通りすがりじゃないでしょう、と思いつつも少女は、どうやら己を間一髪で救ってくれたらしい少年に手を引かれながら、安全な場所へと連れられていったのだった。
●
銀狼がクリーパー達を殲滅した後、少女は黒髪の少年から水が入った袋を貰って飲みつつ話を聞いていた。
なんでもクリーパー達は数日前から森に突如として出現したらしい。
人間でも動物でも、命あるものには片っ端から襲いかかって、喰らおうとするのだという。
そして、少年は彼の相棒である銀狼と共に森内を巡ってクリーパー達を退治し続けているのだと。
「今、この森は危険なんだ。入口まで送るから、君は帰った方が良いよ」
「はい……」
俯きがちに黒髪少女は頷いた。何故か、顔が熱くてまともに少年の顔を見れなかった。
休憩を挟みつつ森まで送り届けて貰ってから、黒髪少女は思い切って少年に尋ねてみた。
「森が大変なのはわかりました。でも、貴方も戻らなければならない場所があるのではないのですか?」
「えっ?」
少年はびっくりしたように黒瞳を瞬かせたが、
「……うん、まぁ、実は、そうなんだけど……でも、あいつら放っておくと森がめちゃくちゃになっちゃうから……」
森の動物達や環境が心配らしい。
それらを守る為には今は何よりもまずクリーパーを退治しなければならないと少年は言った。
「なるほど、そういう事情でしたか……」
貴族の子としては褒められた行動ではない。
だが、黒髪少女には不思議と悪くは思えなかった。
「えぇと、君……もしかして、僕の事、知ってる?」
黒髪少年がバツが悪そうに頬を掻きながら尋ねてきた。
黒髪少女は微笑を浮かべた。
問いには直接は答えずに、
「また後でお会いしましょう?」
許嫁の少年へとそう言い残して、少女は屋敷へと戻っていったのだった。
●
「今回は出直しましょう。そして、今回の件は不問といたします」
屋敷に帰って使用人の少女に礼を言って再び赤いドレスを身に纏うと黒髪少女はブルーノへとそう告げた。
「お嬢様?! しかし!」
「これはお願いでも提案でもなく命令です。彼がここにいないのは、森を守る為のようですよ」
「はっ?」
少女は己が見てきた事を彼女の御付きにも説明した。
「それは……しかし、だからといって当家との約束を反故にするのは……」
「ご当主もそういうご事情だったのでしたら、そうおっしゃってくだされればよろしかったのに?」
「…………言い訳にはなりますまい」
屋敷の当主は不本意そうな仏長面で答えた。
あまり器用な人間ではないらしい。
少女はくすっと笑った。
「できれば彼が戻るまで待ちたいですが、そういう訳にもいかないので、残念ですが今回はこれで失礼いたしますわ。今度、訪れる時には今回の分も埋め合わせてくださると嬉しいです、と彼にお伝えください」
ごきげんよう、と言い残し、少女は従者達を引き連れて屋敷から去っていった。
●
墨を溶かしたような漆黒の髪だ。
腰程までに真っ直ぐに伸びている。
歳の頃は十七、八といった所だろうか。
処女雪のように真っ白な肌を、透かし柄とひだ寄せがふんだんにあしらわれた深紅のドレスに包んでいる。
腰に細微な装飾の施されたベルトが回され、矢筒が下げられ、手には華美なドレスには似つかわしくない長弓が握られている。
対峙しているのは黒髪黒瞳の精悍な体躯の青年だった。
こちらもやはり弓を手にしている。
セロンガード・シュタインドルフ。
帝国が誇る精鋭の諜報部隊、ヴェヒター・ヌルの若き隊員だ。
黒髪少女が黒瞳紅瞳を細めて微笑んだ。
セロンはその両目を真っ直ぐに睨み据え、口を開いた――