ある侯爵夫人の悲劇
キャラクターノベル制作 革酎納品 2022年01月30日 10時03分04秒
●
リーンエス王国北部の町ホークヤードを治めるのは、ホークヤード侯爵家である。
現当主はルーファス・ホークヤード侯爵。王国貴族としての誇り高き精神と、統治者としての優れた手腕を併せ持つ非凡な人物だ。
彼は生まれついての貴族であり、常に市井民の上に立ち、ひとびとを良い生活、良い人生に導いていかねばならぬと己にいい聞かせる、崇高な思想の持主であった。その思想があるが故に、為政者としては市井民のことを第一に考え、私腹を肥やす様な下衆な考えは片時も抱いたことが無かった。
己に厳しく市井に優しくを地で行く様な、非支配者層にとってみれば実に理想的な統治者であったといえるだろう。
だがそれ故に自らの家系と血筋に関しては誰よりも厳しく、ホークヤード家を守ることはホークヤードの町そのものを守ることと同義であるとさえ考える、やや偏屈な思想に囚われている面もあった。尤も、その厳格さは自身の家族に対してのみ向けられており、自らが治める土地とその住民に対しては柔軟な発想で応じる為、彼の為政者としての評判は、少なくとも住民達の間ではすこぶる好評であった。
そしてプライベートに於いても妙なスキャンダルやゴシップネタは皆無であり、その丁寧な物腰や穏やかな表情から、王国北部に領地を持つ貴族達の間でも好人物として知られていた。
ところがそんなルーファスも、決して他人には明かせない後ろ暗さを抱えている。絶対にひとにはいえない、暗鬱たる記憶が今も尚、ルーファスを夜な夜な苦しめていることをひとびとは――彼の家族や家士でさえ――ついぞ知る由も無かった。
あの日、最愛の妻を失った時の光景がルーファスの人生に間違い無く、ひとつの大きな翳となって圧し掛かってきていたのである。
●
1216年、初春の時節。
リーンエス王都グランスパーダでは新年を祝賀する社交パーティが毎年、幾つもの派閥、幾つもの場所で開催される。
この年は、所属する派閥の新年社交パーティで久々にホークヤード家が主催することになっていた。
だがルーファスには若干の悩みがあった。折角の主催だというのに、次期当主を正式にお披露目することが出来なかったのである。
ルーファスが愛してやまない長男セドリックは、まだ10歳。現在はパンクリアース学園に在籍しており、加えて未だホークヤード家を相続する為の正式な条件を満たしていない為、この折角の晴れの舞台で堂々と社交界デビューをさせることが叶わなかったのだ。
昨年主催を受け持った別の貴族は、翌年に成年へと達する嫡男を次期当主としてお披露目し、ひとびとの喝采を浴びた。ホークヤード家と比較すると家格が劣る貴族だったが、それでもやるべきことはしっかり、出来ていたのである。
翻ってルーファスは、どうか。
(ネリネが……あんな忌み子を産みさえしなければ……)
自邸の執務室。
夜遅くまで新年社交パーティの進行表を手ずから作成していたルーファスは、内心で何度も舌打ちを漏らしていた。
実は、セドリックは正確にいえばホークヤード家の長男ではない。生物学上の話でいえば、セドリックは次男に相当するのである。
では、本来の長男は誰だったのか。
妻ネリネは20年前に、既にひとりの男児を出産していた。その赤子は、ヒューマンではなかった。
あり得べからざる話だが、彼女が産んだのはドワーフだった。
数世代前の血筋か何かの呪いか、或いは何らかの魔術的な要素が絡んでいるのかはまるで分からない。だがヒューマン同士で結婚した筈の最初の子がドワーフだったのは、紛れも無い事実であった。
リーンエス王国の貴族社会に於いて、ヒューマン以外の血筋を家系の中に組み込む等という話は、決して望ましい事態ではなかった。
だが皮肉にも、ネリネは忌み子のドワーフを溺愛した。その姿がルーファスを逆上させた。
ヴァンと名付けられたそのドワーフをルーファスは生かしておくつもりはなかったが、ネリネの必死の懇願を受けて、止む無くヴァン抹殺を諦めた。その代わり、一生涯を地下の牢獄で過ごさせることにした。それがルーファスに出来た、唯一の交換条件だった。
今思えば、あの時に産まれた子がヒューマンであったなら、ルーファスもどれ程に気が楽であったろう。
(こんな下らぬことに頭を悩ますこともなく、次期当主紹介の挨拶を考えることも出来ただろうに)
ルーファスは、ただただその一事のみが恨めしかった。
●
新年社交パーティ開催前日、ルーファスは移動の為に自邸を発たなければならない。
セドリックはパンクリアース学園寮での生活を送っている為、次に顔を合わせるのはグランスパーダに於いてだ。その為、送り出しの顔ぶれは執事や家士、侍女といった面々であった。
しかしその中に、ネリネの姿は無い。
12年前にヴァンが行方不明となり、その2年後に待望の男児セドリックが産まれた。だがネリネの表情は常に暗いままであり、セドリックの養育も乳母と家士達がずっと賄ってきた。
ネリネがドワーフの長子のことを引きずっているのは、ルーファスにもすぐに分かった。しかしだからといってセドリックの育児を放棄するのは、話が違う。
「お前はセドリックの母親だろう」
ルーファスは何度もネリネを説得しようとしたが、ネリネは日に日に精神を病み、ホークヤード邸はおろか、自室を出る機会すらも少なくなった。明らかに、引き籠る様になっていた。
忌み子のドワーフだけに愛情を向け、セドリックにはまるで見向きもしない――少なくともルーファスの目にはその様に映った。それ故、ルーファスのヴァンに対する心象はますます悪化の一途を辿った。
そしてこの日、グランスパーダへと発つ当日。
ルーファスはネリネの自室へと踏み込んだ。どうしても、我慢がならなかった。
応じたネリネは相変わらず、どこか茫漠とした表情だけを浮かべてベッドの縁に腰を下ろしていた。
思わず奥歯を噛み鳴らしつつ、ルーファスはがつんとひと言、強い口調でネリネの横っ面を叩いてやろうと思った。
「良い加減にしろ、ネリネ……あのドワーフのことは忘れるんだ。私達の子はセドリックただひとり! あんな忌み子にいつまで執着しているつもりだ! ホークヤード家の崇高なる血筋を何と心得ている!?」
その瞬間、ネリネはこれまで見せたことが無い様な憤怒の色を湛えて、轟然と立ち上がった。
「あなたが……あなたがヴァンを愛してくれさえすれば、こんなことには……!」
それ以上は、言葉にならなかった。ネリネはただ怒りと悲しみに任せ、その場に突っ伏して泣き出してしまったのである。
最早、何をいっても通じぬ――ルーファスは酷い脱力感に襲われてネリネの室を出た。
廊下を進みながら、何度も頭を振る。こんな下らないことで新年社交パーティに翳を差してはならぬ。今は兎に角、己の仕事に集中すべきだ。
辛うじてネリネの激高した姿を頭の中から拭い去りながら、ルーファスは大勢の見送りの中、馬車へと乗り込んだ。
●
それから、一週間後。
グランスパーダでの大役を終えてホークヤード邸へと戻ってきたルーファスに、執事長が血相を変えて飛び付いてきた。
「大変でございます、旦那様! 奥様が……奥様のお姿が、今朝からお見えにならないのでございます!」
「何? ネリネが?」
この時ルーファスは咄嗟に、嫌な予感を覚えた。
執事長曰く、邸内邸外合わせて、探せるところは全て探し尽くしたというのだが、ネリネの姿はどこにも見当たらなかったとの由。
ルーファスは今一度邸内を隈なく探す様にと執事長にいい含めてから、ふと地下の忌まわしい光景を脳裏に浮かべた。
まさか――ルーファスはひとり、暗く冷たい石段を駆け降りた。
狭くてかび臭い、陰気な空間。天窓から辛うじて外の光を得ることが出来る、人外の一室。
そこでルーファスは目を見開いた。
ネリネは、居た。確かに、そこに居た。物いわぬ骸となって。
か細い足が、宙に浮いている。首を絞めつける太い縄が、白い肌に容赦無く食い込んでいた。
「何故だ……ネリネ、どうしてなんだ……」
呆然と呟くルーファスの視界の中に、くすんだ色の紙片が見えた。ぼんやりと手に取ってみると、そこにはネリネの感情がさらけ出されていた。
ヴァンをセドリックと同じ様に育てられなかったことへの後悔。
ヴァンの存在そのものを抹消しようとしたルーファスへの怒りと恨み。
ヴァンへの謝罪を常々考えていたものの、それが叶わぬ悲しみと辛さ。
これはいわば、ネリネの遺言であった。同時にルーファスにぶつけられた最後の感情の塊でもある。
ルーファスはその場で破り捨てようとした。が、出来なかった。
この地獄の様な呪詛の連なりが、ネリネとの最後の繋がりになってしまった。あのドワーフの忌み子に対しては怒りしか感じなかったルーファスだが、ネリネのことはひとりの女性として、妻として、愛していた。
間違い無く、愛していたのである。
●
ローラント探偵事務所のソファーに腰を下ろしたまま、ヴァン・ローラントは天井を仰いだ。
つい先程、ホークヤード侯爵夫人病死の報に触れたのである。
葬儀は公には行われず、親族の間だけで既にひっそりと、密葬という形で執り行われたとの由。そして侯爵夫人の墓標は町の郊外にある、ホークヤード家所有の公園内に建てられているとの話であった。
ヴァンの脳裏に、様々な記憶が蘇ってくる。
暗く、寒い地下牢での生活。
幼い彼に、毎日の様に会いに来てくれた女性。彼女は決して素性を明かさなかったが、今にして思えば、あの女性こそが自分の母親だったのではないか。
少なくともヴァンはその様に確信している。そしてその女性の侍女らしき中年女が、あの女性を侯爵夫人と呼んでいたことも、ヴァンはおぼろげながらに記憶していた。
そしてこの日知らされた、突然の訃報。
ヴァンはしばし、考えた。考えた末に、決断した。
(これが最初で最後だ)
今後、ホークヤード家と関わることは彼の人生の中でもあり得ない話だろう。それでも一度だけ――自分の母親かも知れない女性の為に一度だけ、墓参してみよう。
幼い頃、毎日の様に愛情を注いでくれたあの女性が本当に侯爵夫人なら、成長した今の姿を墓前に見せることが唯一の親孝行だ。
勿論、ドワーフである自分がホークヤード侯爵夫人の息子であると名乗り出ることは、ご法度だろう。
住民のひとりとして墓参に訪れることは誰にも禁じられていないが、矢張り白昼堂々と墓標へ足を向けるのは何となく気が咎めた。
夜遅くにこっそりと訪れてみよう。
ヴァンは、支度を整え始めた。
その夜、ヴァンは緑豊かなホークヤード家所有の公園内へと足を運んだ。
ホークヤード侯爵夫人の墓は、すぐに分かった。持参した花束を添えて、しばしの黙祷。
勿論、長居するつもりは無かった。ヴァンは急ぎ足で廟堂を出た。
と、そこでひとりの老人と出会った。墓守らしい。最近は死霊術師なる妙な輩が出没しているらしく、死体が盗まれぬ様にと毎晩、一定の時間に見回りをしているらしい。
低い声音で呼び止めてきた墓守の老人は、まじまじとヴァンの顔を眺めた。
「あんた、侯爵様とよく似ていなさるねぇ。ご親戚か何かかい?」
「いや、他人の空似ってやつさ。第一俺はドワーフだしね」
苦笑するヴァンに墓守の老人は然程の興味を示さず、あぁそうかい、あんたはドワーフさんなのかと、ただただかぶりを振るばかりであった。
●
翌日、セドリックは数名の侍従を連れてネリネの墓標を訪れた。
母の突然の死を受けて、セドリックはパンクリアース学園に対して一カ月の休校届を出していた。まだ10歳の少年にとって、母の死は当然ながら即座には受け入れ難く、正直なところ、一カ月で復学出来るかどうかも自信は無かった。
しかしだからといって、いつまでもふさぎ込んでいる訳にはいかない。セドリックは乳母や執事長の勧めで、毎日母の墓標を訪れ、心の中で母に語りかけることで何とか気持ちの整理を付けようということになった。
「あら……どなたかお参りに来て下さったのでしょうか」
この日セドリックと共に墓標を訪れた乳母が手向けられている花の中に、新しい花束があることに気付いた。真っ白な、品の良い花束だった。
するとそこへ、眠そうな目をこすりながら老齢の墓守がのんびりと近づいてきた。曰く、昨晩遅くにひとりのドワーフが墓参として花束を添えていった、というのである。
「そうなんですか……どうも、ありがとうございます。もしまた、そのひとがお参りに来られる様でしたら、代わりにお礼をいっておいて頂けますか」
頭を下げるセドリックに、墓守の老人は是非その様に致しますとだけ答えて、足早に去っていった。
その傍らで乳母は、不思議そうに小首を傾げている。何もわざわざ夜遅くでなくとも、こうして日中にお参りしてくれれば良さそうなものなのに、と零していた。
しかし、世の中には色々なひとが居る。夜でなければ時間が自由にならない職業だって少なくない。きっとそういうひとなんだろう、とセドリックは勝手に想像を巡らせた。
それから改めて、セドリックは廟堂内へと足を踏み入れた。
(母様……どうして僕を残していってしまったのですか)
思えば、母ネリネがセドリックから距離を置いていたのは、今に始まったことではなかった。
確かに母は日頃から精神が不安定で、その所為で体調が余り芳しくなかったという話も聞いている。事実、セドリックをこの日まで育ててきたのは傍らに居る乳母であり、家士達であり、執事達であった。
父ルーファスも時折子育てに参加してくれることもあったが、それはどちらかといえば多忙を極める侯爵としての業務の合間を縫っての息抜きであり、本格的にセドリックの子育てに参加してくれているという雰囲気でもなかった。
勿論、乳母や家士達は本当の親の様な愛情をセドリックにたっぷりと注いでくれた。セドリックは母親からの愛情は得られなかったものの、それ以外のひとびとから十分な愛を得ていた。
だから母の訃報を聞いた時も、悲しみよりも驚きの方が先に立った。悲しみはその後に襲ってきた。
(母様は何故か、僕のことを見てくれようとはしなかった。母様……どうして?)
しかし、その問いかけに答えてくれる筈の母はもう居ない。
ただ、最後に見た母の顔は、本当に辛そうだった。美しい黒髪が、随分色あせて見えた。
決してセドリックを憎んでいる訳ではなく、何かが母の心に大きな傷を残している。
幼いながら、セドリックはその様に理解していた。
リーンエス王国北部の町ホークヤードを治めるのは、ホークヤード侯爵家である。
現当主はルーファス・ホークヤード侯爵。王国貴族としての誇り高き精神と、統治者としての優れた手腕を併せ持つ非凡な人物だ。
彼は生まれついての貴族であり、常に市井民の上に立ち、ひとびとを良い生活、良い人生に導いていかねばならぬと己にいい聞かせる、崇高な思想の持主であった。その思想があるが故に、為政者としては市井民のことを第一に考え、私腹を肥やす様な下衆な考えは片時も抱いたことが無かった。
己に厳しく市井に優しくを地で行く様な、非支配者層にとってみれば実に理想的な統治者であったといえるだろう。
だがそれ故に自らの家系と血筋に関しては誰よりも厳しく、ホークヤード家を守ることはホークヤードの町そのものを守ることと同義であるとさえ考える、やや偏屈な思想に囚われている面もあった。尤も、その厳格さは自身の家族に対してのみ向けられており、自らが治める土地とその住民に対しては柔軟な発想で応じる為、彼の為政者としての評判は、少なくとも住民達の間ではすこぶる好評であった。
そしてプライベートに於いても妙なスキャンダルやゴシップネタは皆無であり、その丁寧な物腰や穏やかな表情から、王国北部に領地を持つ貴族達の間でも好人物として知られていた。
ところがそんなルーファスも、決して他人には明かせない後ろ暗さを抱えている。絶対にひとにはいえない、暗鬱たる記憶が今も尚、ルーファスを夜な夜な苦しめていることをひとびとは――彼の家族や家士でさえ――ついぞ知る由も無かった。
あの日、最愛の妻を失った時の光景がルーファスの人生に間違い無く、ひとつの大きな翳となって圧し掛かってきていたのである。
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1216年、初春の時節。
リーンエス王都グランスパーダでは新年を祝賀する社交パーティが毎年、幾つもの派閥、幾つもの場所で開催される。
この年は、所属する派閥の新年社交パーティで久々にホークヤード家が主催することになっていた。
だがルーファスには若干の悩みがあった。折角の主催だというのに、次期当主を正式にお披露目することが出来なかったのである。
ルーファスが愛してやまない長男セドリックは、まだ10歳。現在はパンクリアース学園に在籍しており、加えて未だホークヤード家を相続する為の正式な条件を満たしていない為、この折角の晴れの舞台で堂々と社交界デビューをさせることが叶わなかったのだ。
昨年主催を受け持った別の貴族は、翌年に成年へと達する嫡男を次期当主としてお披露目し、ひとびとの喝采を浴びた。ホークヤード家と比較すると家格が劣る貴族だったが、それでもやるべきことはしっかり、出来ていたのである。
翻ってルーファスは、どうか。
(ネリネが……あんな忌み子を産みさえしなければ……)
自邸の執務室。
夜遅くまで新年社交パーティの進行表を手ずから作成していたルーファスは、内心で何度も舌打ちを漏らしていた。
実は、セドリックは正確にいえばホークヤード家の長男ではない。生物学上の話でいえば、セドリックは次男に相当するのである。
では、本来の長男は誰だったのか。
妻ネリネは20年前に、既にひとりの男児を出産していた。その赤子は、ヒューマンではなかった。
あり得べからざる話だが、彼女が産んだのはドワーフだった。
数世代前の血筋か何かの呪いか、或いは何らかの魔術的な要素が絡んでいるのかはまるで分からない。だがヒューマン同士で結婚した筈の最初の子がドワーフだったのは、紛れも無い事実であった。
リーンエス王国の貴族社会に於いて、ヒューマン以外の血筋を家系の中に組み込む等という話は、決して望ましい事態ではなかった。
だが皮肉にも、ネリネは忌み子のドワーフを溺愛した。その姿がルーファスを逆上させた。
ヴァンと名付けられたそのドワーフをルーファスは生かしておくつもりはなかったが、ネリネの必死の懇願を受けて、止む無くヴァン抹殺を諦めた。その代わり、一生涯を地下の牢獄で過ごさせることにした。それがルーファスに出来た、唯一の交換条件だった。
今思えば、あの時に産まれた子がヒューマンであったなら、ルーファスもどれ程に気が楽であったろう。
(こんな下らぬことに頭を悩ますこともなく、次期当主紹介の挨拶を考えることも出来ただろうに)
ルーファスは、ただただその一事のみが恨めしかった。
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新年社交パーティ開催前日、ルーファスは移動の為に自邸を発たなければならない。
セドリックはパンクリアース学園寮での生活を送っている為、次に顔を合わせるのはグランスパーダに於いてだ。その為、送り出しの顔ぶれは執事や家士、侍女といった面々であった。
しかしその中に、ネリネの姿は無い。
12年前にヴァンが行方不明となり、その2年後に待望の男児セドリックが産まれた。だがネリネの表情は常に暗いままであり、セドリックの養育も乳母と家士達がずっと賄ってきた。
ネリネがドワーフの長子のことを引きずっているのは、ルーファスにもすぐに分かった。しかしだからといってセドリックの育児を放棄するのは、話が違う。
「お前はセドリックの母親だろう」
ルーファスは何度もネリネを説得しようとしたが、ネリネは日に日に精神を病み、ホークヤード邸はおろか、自室を出る機会すらも少なくなった。明らかに、引き籠る様になっていた。
忌み子のドワーフだけに愛情を向け、セドリックにはまるで見向きもしない――少なくともルーファスの目にはその様に映った。それ故、ルーファスのヴァンに対する心象はますます悪化の一途を辿った。
そしてこの日、グランスパーダへと発つ当日。
ルーファスはネリネの自室へと踏み込んだ。どうしても、我慢がならなかった。
応じたネリネは相変わらず、どこか茫漠とした表情だけを浮かべてベッドの縁に腰を下ろしていた。
思わず奥歯を噛み鳴らしつつ、ルーファスはがつんとひと言、強い口調でネリネの横っ面を叩いてやろうと思った。
「良い加減にしろ、ネリネ……あのドワーフのことは忘れるんだ。私達の子はセドリックただひとり! あんな忌み子にいつまで執着しているつもりだ! ホークヤード家の崇高なる血筋を何と心得ている!?」
その瞬間、ネリネはこれまで見せたことが無い様な憤怒の色を湛えて、轟然と立ち上がった。
「あなたが……あなたがヴァンを愛してくれさえすれば、こんなことには……!」
それ以上は、言葉にならなかった。ネリネはただ怒りと悲しみに任せ、その場に突っ伏して泣き出してしまったのである。
最早、何をいっても通じぬ――ルーファスは酷い脱力感に襲われてネリネの室を出た。
廊下を進みながら、何度も頭を振る。こんな下らないことで新年社交パーティに翳を差してはならぬ。今は兎に角、己の仕事に集中すべきだ。
辛うじてネリネの激高した姿を頭の中から拭い去りながら、ルーファスは大勢の見送りの中、馬車へと乗り込んだ。
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それから、一週間後。
グランスパーダでの大役を終えてホークヤード邸へと戻ってきたルーファスに、執事長が血相を変えて飛び付いてきた。
「大変でございます、旦那様! 奥様が……奥様のお姿が、今朝からお見えにならないのでございます!」
「何? ネリネが?」
この時ルーファスは咄嗟に、嫌な予感を覚えた。
執事長曰く、邸内邸外合わせて、探せるところは全て探し尽くしたというのだが、ネリネの姿はどこにも見当たらなかったとの由。
ルーファスは今一度邸内を隈なく探す様にと執事長にいい含めてから、ふと地下の忌まわしい光景を脳裏に浮かべた。
まさか――ルーファスはひとり、暗く冷たい石段を駆け降りた。
狭くてかび臭い、陰気な空間。天窓から辛うじて外の光を得ることが出来る、人外の一室。
そこでルーファスは目を見開いた。
ネリネは、居た。確かに、そこに居た。物いわぬ骸となって。
か細い足が、宙に浮いている。首を絞めつける太い縄が、白い肌に容赦無く食い込んでいた。
「何故だ……ネリネ、どうしてなんだ……」
呆然と呟くルーファスの視界の中に、くすんだ色の紙片が見えた。ぼんやりと手に取ってみると、そこにはネリネの感情がさらけ出されていた。
ヴァンをセドリックと同じ様に育てられなかったことへの後悔。
ヴァンの存在そのものを抹消しようとしたルーファスへの怒りと恨み。
ヴァンへの謝罪を常々考えていたものの、それが叶わぬ悲しみと辛さ。
これはいわば、ネリネの遺言であった。同時にルーファスにぶつけられた最後の感情の塊でもある。
ルーファスはその場で破り捨てようとした。が、出来なかった。
この地獄の様な呪詛の連なりが、ネリネとの最後の繋がりになってしまった。あのドワーフの忌み子に対しては怒りしか感じなかったルーファスだが、ネリネのことはひとりの女性として、妻として、愛していた。
間違い無く、愛していたのである。
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ローラント探偵事務所のソファーに腰を下ろしたまま、ヴァン・ローラントは天井を仰いだ。
つい先程、ホークヤード侯爵夫人病死の報に触れたのである。
葬儀は公には行われず、親族の間だけで既にひっそりと、密葬という形で執り行われたとの由。そして侯爵夫人の墓標は町の郊外にある、ホークヤード家所有の公園内に建てられているとの話であった。
ヴァンの脳裏に、様々な記憶が蘇ってくる。
暗く、寒い地下牢での生活。
幼い彼に、毎日の様に会いに来てくれた女性。彼女は決して素性を明かさなかったが、今にして思えば、あの女性こそが自分の母親だったのではないか。
少なくともヴァンはその様に確信している。そしてその女性の侍女らしき中年女が、あの女性を侯爵夫人と呼んでいたことも、ヴァンはおぼろげながらに記憶していた。
そしてこの日知らされた、突然の訃報。
ヴァンはしばし、考えた。考えた末に、決断した。
(これが最初で最後だ)
今後、ホークヤード家と関わることは彼の人生の中でもあり得ない話だろう。それでも一度だけ――自分の母親かも知れない女性の為に一度だけ、墓参してみよう。
幼い頃、毎日の様に愛情を注いでくれたあの女性が本当に侯爵夫人なら、成長した今の姿を墓前に見せることが唯一の親孝行だ。
勿論、ドワーフである自分がホークヤード侯爵夫人の息子であると名乗り出ることは、ご法度だろう。
住民のひとりとして墓参に訪れることは誰にも禁じられていないが、矢張り白昼堂々と墓標へ足を向けるのは何となく気が咎めた。
夜遅くにこっそりと訪れてみよう。
ヴァンは、支度を整え始めた。
その夜、ヴァンは緑豊かなホークヤード家所有の公園内へと足を運んだ。
ホークヤード侯爵夫人の墓は、すぐに分かった。持参した花束を添えて、しばしの黙祷。
勿論、長居するつもりは無かった。ヴァンは急ぎ足で廟堂を出た。
と、そこでひとりの老人と出会った。墓守らしい。最近は死霊術師なる妙な輩が出没しているらしく、死体が盗まれぬ様にと毎晩、一定の時間に見回りをしているらしい。
低い声音で呼び止めてきた墓守の老人は、まじまじとヴァンの顔を眺めた。
「あんた、侯爵様とよく似ていなさるねぇ。ご親戚か何かかい?」
「いや、他人の空似ってやつさ。第一俺はドワーフだしね」
苦笑するヴァンに墓守の老人は然程の興味を示さず、あぁそうかい、あんたはドワーフさんなのかと、ただただかぶりを振るばかりであった。
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翌日、セドリックは数名の侍従を連れてネリネの墓標を訪れた。
母の突然の死を受けて、セドリックはパンクリアース学園に対して一カ月の休校届を出していた。まだ10歳の少年にとって、母の死は当然ながら即座には受け入れ難く、正直なところ、一カ月で復学出来るかどうかも自信は無かった。
しかしだからといって、いつまでもふさぎ込んでいる訳にはいかない。セドリックは乳母や執事長の勧めで、毎日母の墓標を訪れ、心の中で母に語りかけることで何とか気持ちの整理を付けようということになった。
「あら……どなたかお参りに来て下さったのでしょうか」
この日セドリックと共に墓標を訪れた乳母が手向けられている花の中に、新しい花束があることに気付いた。真っ白な、品の良い花束だった。
するとそこへ、眠そうな目をこすりながら老齢の墓守がのんびりと近づいてきた。曰く、昨晩遅くにひとりのドワーフが墓参として花束を添えていった、というのである。
「そうなんですか……どうも、ありがとうございます。もしまた、そのひとがお参りに来られる様でしたら、代わりにお礼をいっておいて頂けますか」
頭を下げるセドリックに、墓守の老人は是非その様に致しますとだけ答えて、足早に去っていった。
その傍らで乳母は、不思議そうに小首を傾げている。何もわざわざ夜遅くでなくとも、こうして日中にお参りしてくれれば良さそうなものなのに、と零していた。
しかし、世の中には色々なひとが居る。夜でなければ時間が自由にならない職業だって少なくない。きっとそういうひとなんだろう、とセドリックは勝手に想像を巡らせた。
それから改めて、セドリックは廟堂内へと足を踏み入れた。
(母様……どうして僕を残していってしまったのですか)
思えば、母ネリネがセドリックから距離を置いていたのは、今に始まったことではなかった。
確かに母は日頃から精神が不安定で、その所為で体調が余り芳しくなかったという話も聞いている。事実、セドリックをこの日まで育ててきたのは傍らに居る乳母であり、家士達であり、執事達であった。
父ルーファスも時折子育てに参加してくれることもあったが、それはどちらかといえば多忙を極める侯爵としての業務の合間を縫っての息抜きであり、本格的にセドリックの子育てに参加してくれているという雰囲気でもなかった。
勿論、乳母や家士達は本当の親の様な愛情をセドリックにたっぷりと注いでくれた。セドリックは母親からの愛情は得られなかったものの、それ以外のひとびとから十分な愛を得ていた。
だから母の訃報を聞いた時も、悲しみよりも驚きの方が先に立った。悲しみはその後に襲ってきた。
(母様は何故か、僕のことを見てくれようとはしなかった。母様……どうして?)
しかし、その問いかけに答えてくれる筈の母はもう居ない。
ただ、最後に見た母の顔は、本当に辛そうだった。美しい黒髪が、随分色あせて見えた。
決してセドリックを憎んでいる訳ではなく、何かが母の心に大きな傷を残している。
幼いながら、セドリックはその様に理解していた。