影の神殿 攫われた少女
キャラクターノベル制作 望月誠司納品 2021年11月10日 13時13分15秒
埃にまみれ白みがかった茶色の木壁だ。
すえたような空気が充満している。
以前の部屋の主は掃除や手入れをろくにしていなかったのだろう。
室内に置かれた粗末な作りの椅子に少年が腰を降ろしていた。
薄汚れた襤褸の貫頭衣に精悍な身を包んだ黒髪の少年だ。そろそろ青年と呼んだ方が適切かもしれない。
シルトラース帝国が見えざる見張り番の諜報員セロンガード・シュタインドルフである。
浮かべる表情は張り詰めていて、黒い瞳には苛立ちの色が宿っていた。
≪≪……遅い≫≫
セロンガードは胸の前で腕組みしつつ顔を顰め、唸るようにテレパスにて呟いた。
声に出さないのは、両隣の部屋まではセロン達は確保していないからだ。
左右の部屋の住民はこの時間帯には仕事に出払っていて不在であるという情報を得ていたが、万一という事もある為、発声は控えていた。
そう、セロンが今現在居るのは王都郊外にある安い貸し長屋内の部屋の一つだった。
何故、こんな場所に居るのかというと、本日セロン達はこの近隣にあるさる拠点を偵察するつもりだったからである。
先日、セロンと接触し喫茶店にてノーナ・エーレスリートが伝えて来た例の『影法師』達の拠点だ。
エーレスリート伯爵家のノーナ――レッドベリル三姉妹の長姉は、見えざる見張り番より要注意人物として手配されている人間である。
そんな人物からの情報である為、真偽は疑わしく罠である可能性さえも考えられたが、ヴェヒター・ヌルの諜報員フゴーが以前にセロンへと伝えていた情報とも一致する為、無視はし難い所があった。
王都グランスパーダの郊外。
そこに彼等の拠点があるのだという。
セロン、カサンドラ、ゾフィーの三人は相談の末、ノーナが伝えて来た影法師達の拠点を偵察する事に決めた。
だが、いざ偵察を決行せんとした今、ゾフィーが何故か集合時刻を過ぎても集合場所であるこの室内に姿を現さないのである。
≪≪何かあったのかしら……≫≫
鈴を転がしたような女声がか細く脳内に響いた。
室内にある別の椅子には、セロンと同じように薄汚れた襤褸の貫頭衣に小柄ながらも女性的な起伏に富んだ身を包んだ少女が腰を降ろしていた。
腰程までに真っ直ぐに伸ばした薄紫色の髪を持つ見えざる見張り番の諜報員、カサンドラ・フォン・ベルリヒンゲンである。
室内にもう一つだけある椅子は空席だった。
ゾフィーはプライベートだと少し時間にルーズな所があった。今までの付き合いからセロンはそれを知っていたし、カサンドラもそれを知っている。
だが、さすがに作戦行動でまで時間を守らないというのは今までのゾフィーには無い事だった。
ゾフィー・マルテルは帝国弩弓課程を首席で卒業し、精鋭の諜報部隊ヴェヒター・ヌルに所属する才媛だ。
優秀な人間だし、根は真面目なので、仕事とあらばきちんとしているのだ(本当に部隊に入隊したての頃は対人関係で色々揉めたりはしたが)
それを知っているからこそのカサンドラの先程の呟きなのだろう。セロンとしてもゾフィーが任務でまで気を抜いて遅れるような真似をするとは考えていなかった。
(どこかで予想外のトラブルにでも巻き込まれてしまったのかもしれないな)
銀髪をポニーテールにしている赤眼の後輩の顔を脳裏に浮かべつつセロンは胸中で呟いた。
ゾフィーは結構、トラブルに巻き込まれやすい性質である。彼女自身がトラブルを招きやすい性格をしているというのもあったが。
≪≪来ないものは仕方が無い――≫≫
セロンは黒瞳をカサンドラへと向けた。
≪≪僕達だけで偵察に行こう≫≫
夏空色の瞳の少女はその深い青の中に翳りを宿した。
≪≪……待ってセロン、ゾフィーが来ないのはおかしいわ≫≫
少女は制止の言葉を発した。
≪≪ゾフィーだって今日のこの偵察が重要なものだと理解している筈よ。遅れる事はありえない≫≫
≪≪でも来ていない≫≫
≪≪だからおかしいの≫≫
サファイアのような青い瞳がセロンを見つめていた。
≪≪私は、レッドベリルの長姉からの情報という時点で既に危険を孕んでいると思う≫≫
危険人物からもたらされた敵方の情報というのは、危険を孕んでいる可能性が否定できない。
≪≪私達が今居る場所は勝手知ったるシルトラース帝国じゃなくて、異文化のリーンエス王国、異国の、仮想敵国のど真ん中。いざという時、周囲の手助けを期待する事は難しい≫≫
セロン達と同様にグランスパーダに潜り込んでいる帝国人や、その息のかかった人間も居る事はいるが、やはり仮想敵国の首都であるので、自由に動けるものではない。
≪≪そしてゾフィーが来ない≫≫
不測の事態だ。
≪≪私達の今のこの状況、無理をするには不安要素が多いわ≫≫
≪≪……つまり?≫≫
≪≪つまり……今日の所は偵察は一旦中止して、日を改めた方が良くはないかしら?≫≫
カサンドラは慎重策を提案してきた。
予想外の事態に直面したら、まずは一旦立ち止まり、時には退いて態勢を立て直す、それは定石の一つではあった。
≪≪いや――行こう≫≫
セロンは首を振った。
≪≪不安要素を不安がっているだけでは何も出来ない。戦場の見えない霧の中には弓矢を撃ち込んでみるべきだ≫≫
刻一刻と状況が変化する場においてはそれもまた定石の一つだった。
情報というのは鮮度がある。劣化する。腐るのだ。
昨日確認した事が明日もそのままであるとは限らない。
さっきの安全は今の安全を必ずしも保証しない。諸行は無常、時は流れて万物は流転するからだ。
だから想定外の事態を前にし、いちいち足を止めて都度都度確認していては、敵に主導権を握られ、押し込まれ、結局は敗北する。
安全を重視して行動する事がかえって決定的な危険を招き寄せる、というのは戦場では良くある現象だった。
主導権を自らの方へと引き寄せる為には、危険を冒してでも素早く前進する事が必要なのである。
≪≪二人だけでもある程度の範囲なら探れる筈だ≫≫
≪≪けれど――≫≫
しかしどういう訳か、今日に限ってはカサンドラもなかなか承諾しなかった。
普段は二つ返事でセロンに賛成し従う少女だったが今は違った。これもまた普段には無い珍しい事態である。
≪≪どうしても反対だというならキャシーはそうすれば良い。僕は一人で行く。もし罠があるのだとしても突き破るまでだ≫≫
黒瞳を向け見据えると、碧眼の少女は瞳を閉じ、やや経ってから青瞳を再び開き頷いた。
≪≪……わかったわ≫≫
カサンドラは口を真一文字に結んでセロンを見つめる。
≪≪私も貴方と一緒に行くわ。今の貴方を一人では行かせられない≫≫
まるでセロンこそが普段とは違うのだと、薄紫色の髪の少女は言っているかのようだった。
●
ロスガリア大陸に鼎立する三大強国の一つ、大陸の中央から南方にかけてを治める大国リーンエス。
もとは荒涼たる砂に覆われていた砂漠地帯であったが、名もなき剣士が『竜喰らい』と呼ばれる巨大生物を討伐した際、緑多き豊かな大地に生まれ変わったという。
以降、この地は大地の力が他の地域よりも強く、肥えた土壌から産み出される貧しい土地から見れば反則じみた量の豊かな農産物を土台として強勢を誇って来た。
その豊かで栄えた王国の中でも、最も栄えているのが王都であるグランスパーダである。
しかしこの世に光あれば闇があるように、市壁内に土地を持てなかった者達が寄り集まって形成されたこの郊外区画は、明るく華やかな市の中心部とは異なり、街並みには暗い影が差していた。
都市中心部の華やかな服装の市民達とは明らかに一線を画する、薄汚れた襤褸を身に纏った粗野で暴力的な人間が多く住み着いていた。他人を出し抜き、出し抜かれまいとするように、常に鋭い眼光をギラつかせている。
貧しい地区である。
ここでパンクリアース学園に通う貴族然とした服装の人間が活動していると浮いてしまうので、セロンとカサンドラは先程の住居(先だってこの地区を偵察する為に拠点として確保しておいたものだ)にて粗末な麻の貫頭衣に着替えていた。
夏空は青く晴れ、白い雲が空の高い所を流れている。
しかし街は薄暗い。
貧乏な人間というのは土地を広く持てない。経済的弱者が多い区画は、狭く小さな家々が密集して立ち並ぶ街並みとなる。
そして建物が密集している地区は、陽が遮られる。
だから一般に貧しい地区の通り程、薄暗いものとなるのである。
そんな陽が遮られた郊外の地区には不釣り合いな程に巨大な建造物が一つ建っていた。
一見ではそれは神殿のように見える。
だが、見方によっては古城のようにも見えた。
敷地を囲む石壁を持ち、その上には宗教的な装飾が成された、けれども側防塔としての機能も確かに保持しているように見える塔が幾つも伸びている。
もし仮にそれなりの数の兵で囲んでも、そう簡単には攻め落とせそうにない威容を誇っていた。
正門は開け放たれていたが、左右に守衛らしき槍を手にした男達が立っていた。
服装はセロンの仇敵たる者達が身につけていた黒い装束ではない。宗教的な装飾のなされた外套に身を包んでいる。
この炎天下ではかなりの暑さだろうに、厳めしい顔立ちの守衛達は平然とした表情を浮かべていた。少なくとも表面上は。直立不動の立ち姿からしても、よく訓練され規律が取れている兵のようだった。
――そんな様子を、薄汚れた貫頭衣に身を包んだ青年と少女が路地の陰より窺っていた。
≪≪さすがに正面は厳重ね≫≫
カサンドラが所感をテレパスにて送って来る。
≪≪うん。周囲を巡ってみよう≫≫
セロンは頷き、カサンドラへとテレパスで返事を返すと、移動を開始した。
通行人の振りをしつつ路地の陰から施設の周囲を、さりげなく、可能な限り素早く、確認してゆく。
≪≪道具を使えば、壁を乗り越えられそうな地点はあるね≫≫
セロンは施設の守衛の配置、周囲の通行人の量などから死角となっていそうな箇所にあたりをつけ、呟いた。
自分達ヴェヒター・ヌルの訓練された隊員達ならば、フック付きロープなどを使えば、人の目に留まらずに潜入出来るだろう箇所が何ヶ所かある。
昼間でもいけそうだったが、夜陰に乗じればもっと確実だろう。もっとも、夜になっても守衛の配置が変更されず、今確認した通りの配置のままならば、だが。
そして、
≪≪――まぁ、壁を乗り越えた先に監視の目が配置されていないとは限らないけど≫≫
≪≪そうよねぇ≫≫
壁の外側からでは見える範囲に限りがある。
一見では死角のように見えても、それを補うように内部に警備兵が配置されていないとは限らない。
というか厳重な警備をしている施設であるなら、死角を互いに補うように警備兵を配置するのが普通だろう。
壁を登る時点までは見つからずにいけても、登り切った瞬間にその奥に警備員が立っていて発見される可能性というのは高い。
内部に協力者が居て、施設内の見取り図や警備体制についての情報を提供して貰えたりすれば楽なのだが、無論、つい先日その存在を知った敵の拠点である。そのような工作をセロン達が施す時間は無かった。
見えない部分は見えていないし、わからない部分はわかっていない。
≪≪結構しっかりした拠点みたいだから、忍び込むのは骨が折れるわよこれ。無理は出来ないわ≫≫
カサンドラの言葉にセロンは頷いた。
無理は出来ない。
セロンとて犬死にするつもりはなかったから、それは良く理解していた。
そうして神殿の周囲を一巡りして来て、再び正面の通りが見える位置まで戻って来た時の事だった。
道の彼方から一台の馬車が神殿の前へとやってきた。
粗末な馬車ではなかった。外装は質素に抑えられていたが、かなり上等なものだとうかがえる。
というのも座席部分と車軸の回りにとても高度な技術が使用されているのがセロンの目からは見て取れたからだ。
普通の馬車はちょっとした凹凸にも激しく揺れ、乗っていて非常に疲労するものなのだが、その揺れを軽減する仕組みが使われているようだった。最新技術だ。
質素だが高級な馬車が正門前で停止し、馬車の扉が開かれた。
中から黒い長靴が出てきて、神殿前の茶色の土を踏みしめる。
下袴らしきものも黒色だった。らしき、というのは長い漆黒のローブに覆われていて下半身を含めた身の大部分が隠れていたからだ。
顔も、深く被られた黒いフードに覆われていて、セロン達が身を潜めている路地の陰からは窺う事が出来なかった。
腰には黒革帯が巻かれ、そして黒鞘に納められた刀が大小二本、佩かれている。
(……あいつはっ!)
セロンは黒い瞳を見開いた。
血管を流れてゆく血液達が逆流したような感触を覚える。
その装い、見紛う筈もなかった。
六年前の故郷の森で、古狼を殺め、紅瞳子を攫ったあの男――影法師達、まさにその装いだった。
脳裏にあの日の土砂降りの雨の中で見た光景が鮮烈に甦る。あの日、身体に差し込まれた熱さと冷たさも。
≪≪――ロン! セロン!!≫≫
気づいた時、セロンは背後からカサンドラに抱きつかれ、テレパスで必死に呼びかけられていた。
どうやら、反射的に影法師へと突進しようとしたのをカサンドラに抑え込まれたらしかった。
身体が酷く強張っていて後ろに引かれる力と拮抗している。
セロンは身からゆっくりと力を抜いていった。
≪≪……落ち着いた?≫≫
≪≪あぁ……ごめん≫≫
危ない所だった。
下手に飛び出して斬り合いにでもなっていれば、たちまちのうちに大勢に取り囲まれてしまう事態になっていただろう。
例えその場は上手く切り抜け逃げ延びられても、パンクリアース学園での潜入任務を続けるのはきわめて困難な事になっていたに違いない。
また包囲を切り抜けられずその場で斬殺されていた可能性もあった。一思いに死ねればまだ良いが、捕らえられて拷問され魔法や催眠等で帝国の機密情報を引き出されてしまうような事態となったら目も当てられない。
≪≪……助かった≫≫
≪≪落ち着いたのなら何よりよ≫≫
薄紫色の髪の少女はセロンから身を離すと、
≪≪ねぇセロン、今日はこのあたりで引き上げましょう? これ以上となるとあの壁の向こう側に侵入する必要があるけれど、私達二人で今の装備で内部に潜入しようとするのは、失敗する可能性が高いわ≫≫
その言葉に黒髪の青年は口の中に苦さを感じつつ思考する。
壁を越えるだけでも装備が必要だ。
そして、もしも壁を越えた先にも警備の目があるなら、二人だけで察知されずに潜入する事は難しい。
だから内部警備がどのように配置されているのかの情報が必要だったし、それが得られないなら潜入の為にはせめて警備の目を引き付ける陽動が欲しい所だった。
しかしカサンドラ、あるいはセロンであっても、たった一人では陽動しようと仕掛けた所でこの規模の拠点の警備相手では、足りないだろう。
≪≪……わかった、今日の所は引き上げよう≫≫
心残りはあったがセロンは一時撤退を判断した。
≪≪ええ、影法師がこの拠点に本当に出入りしているって、確認出来ただけでも収穫だと思うわ――あれが、影法師なのね、貴方の敵≫≫
カサンドラはそう言った。
●
ひとまず今日の所の偵察を切り上げたセロンとカサンドラは、郊外にある例の住居にて元の服へと着替えた。
人目を忍びつつ長屋の裏口から出て学園へと向かう。
青空の高い所で輝いていた太陽は、今では大分傾いた位置へと移動していた。
セロンとカサンドラが城門を潜り、街の中を歩いていると鮮やかな深紅のドレスに身を包んだ少女が大通りを駆けているのが見えた。
彼女は途中でセロンとカサンドラに気づいたらしく、顔を向けて真っ直ぐに道の彼方より走って来る。
知っている顔だった。
ハチミツ色の長い髪をくるくると顔の両脇で巻いている少女、カーミラ・ドラクリヤ・オブ・ダキアだ。
根っからの貴族のお嬢様である彼女がお付きも付けず一人でドレス姿で息を切らしながら走っているというのは珍しい。
浮かべている表情も切羽詰まっている不安の色が濃いものだ。
「――どうなされました?」
ただならぬ様子にセロンが問いかけるとカーミラは息を切らせつつ、紫色の瞳でセロンを見上げ、
「セっ、セリーヌさんとフィーネさんが……!」
息を絞り出すように少女は叫んだ。
「セリーヌさんとフィーネさんが、攫われてしまいましたの!」
すえたような空気が充満している。
以前の部屋の主は掃除や手入れをろくにしていなかったのだろう。
室内に置かれた粗末な作りの椅子に少年が腰を降ろしていた。
薄汚れた襤褸の貫頭衣に精悍な身を包んだ黒髪の少年だ。そろそろ青年と呼んだ方が適切かもしれない。
シルトラース帝国が見えざる見張り番の諜報員セロンガード・シュタインドルフである。
浮かべる表情は張り詰めていて、黒い瞳には苛立ちの色が宿っていた。
≪≪……遅い≫≫
セロンガードは胸の前で腕組みしつつ顔を顰め、唸るようにテレパスにて呟いた。
声に出さないのは、両隣の部屋まではセロン達は確保していないからだ。
左右の部屋の住民はこの時間帯には仕事に出払っていて不在であるという情報を得ていたが、万一という事もある為、発声は控えていた。
そう、セロンが今現在居るのは王都郊外にある安い貸し長屋内の部屋の一つだった。
何故、こんな場所に居るのかというと、本日セロン達はこの近隣にあるさる拠点を偵察するつもりだったからである。
先日、セロンと接触し喫茶店にてノーナ・エーレスリートが伝えて来た例の『影法師』達の拠点だ。
エーレスリート伯爵家のノーナ――レッドベリル三姉妹の長姉は、見えざる見張り番より要注意人物として手配されている人間である。
そんな人物からの情報である為、真偽は疑わしく罠である可能性さえも考えられたが、ヴェヒター・ヌルの諜報員フゴーが以前にセロンへと伝えていた情報とも一致する為、無視はし難い所があった。
王都グランスパーダの郊外。
そこに彼等の拠点があるのだという。
セロン、カサンドラ、ゾフィーの三人は相談の末、ノーナが伝えて来た影法師達の拠点を偵察する事に決めた。
だが、いざ偵察を決行せんとした今、ゾフィーが何故か集合時刻を過ぎても集合場所であるこの室内に姿を現さないのである。
≪≪何かあったのかしら……≫≫
鈴を転がしたような女声がか細く脳内に響いた。
室内にある別の椅子には、セロンと同じように薄汚れた襤褸の貫頭衣に小柄ながらも女性的な起伏に富んだ身を包んだ少女が腰を降ろしていた。
腰程までに真っ直ぐに伸ばした薄紫色の髪を持つ見えざる見張り番の諜報員、カサンドラ・フォン・ベルリヒンゲンである。
室内にもう一つだけある椅子は空席だった。
ゾフィーはプライベートだと少し時間にルーズな所があった。今までの付き合いからセロンはそれを知っていたし、カサンドラもそれを知っている。
だが、さすがに作戦行動でまで時間を守らないというのは今までのゾフィーには無い事だった。
ゾフィー・マルテルは帝国弩弓課程を首席で卒業し、精鋭の諜報部隊ヴェヒター・ヌルに所属する才媛だ。
優秀な人間だし、根は真面目なので、仕事とあらばきちんとしているのだ(本当に部隊に入隊したての頃は対人関係で色々揉めたりはしたが)
それを知っているからこそのカサンドラの先程の呟きなのだろう。セロンとしてもゾフィーが任務でまで気を抜いて遅れるような真似をするとは考えていなかった。
(どこかで予想外のトラブルにでも巻き込まれてしまったのかもしれないな)
銀髪をポニーテールにしている赤眼の後輩の顔を脳裏に浮かべつつセロンは胸中で呟いた。
ゾフィーは結構、トラブルに巻き込まれやすい性質である。彼女自身がトラブルを招きやすい性格をしているというのもあったが。
≪≪来ないものは仕方が無い――≫≫
セロンは黒瞳をカサンドラへと向けた。
≪≪僕達だけで偵察に行こう≫≫
夏空色の瞳の少女はその深い青の中に翳りを宿した。
≪≪……待ってセロン、ゾフィーが来ないのはおかしいわ≫≫
少女は制止の言葉を発した。
≪≪ゾフィーだって今日のこの偵察が重要なものだと理解している筈よ。遅れる事はありえない≫≫
≪≪でも来ていない≫≫
≪≪だからおかしいの≫≫
サファイアのような青い瞳がセロンを見つめていた。
≪≪私は、レッドベリルの長姉からの情報という時点で既に危険を孕んでいると思う≫≫
危険人物からもたらされた敵方の情報というのは、危険を孕んでいる可能性が否定できない。
≪≪私達が今居る場所は勝手知ったるシルトラース帝国じゃなくて、異文化のリーンエス王国、異国の、仮想敵国のど真ん中。いざという時、周囲の手助けを期待する事は難しい≫≫
セロン達と同様にグランスパーダに潜り込んでいる帝国人や、その息のかかった人間も居る事はいるが、やはり仮想敵国の首都であるので、自由に動けるものではない。
≪≪そしてゾフィーが来ない≫≫
不測の事態だ。
≪≪私達の今のこの状況、無理をするには不安要素が多いわ≫≫
≪≪……つまり?≫≫
≪≪つまり……今日の所は偵察は一旦中止して、日を改めた方が良くはないかしら?≫≫
カサンドラは慎重策を提案してきた。
予想外の事態に直面したら、まずは一旦立ち止まり、時には退いて態勢を立て直す、それは定石の一つではあった。
≪≪いや――行こう≫≫
セロンは首を振った。
≪≪不安要素を不安がっているだけでは何も出来ない。戦場の見えない霧の中には弓矢を撃ち込んでみるべきだ≫≫
刻一刻と状況が変化する場においてはそれもまた定石の一つだった。
情報というのは鮮度がある。劣化する。腐るのだ。
昨日確認した事が明日もそのままであるとは限らない。
さっきの安全は今の安全を必ずしも保証しない。諸行は無常、時は流れて万物は流転するからだ。
だから想定外の事態を前にし、いちいち足を止めて都度都度確認していては、敵に主導権を握られ、押し込まれ、結局は敗北する。
安全を重視して行動する事がかえって決定的な危険を招き寄せる、というのは戦場では良くある現象だった。
主導権を自らの方へと引き寄せる為には、危険を冒してでも素早く前進する事が必要なのである。
≪≪二人だけでもある程度の範囲なら探れる筈だ≫≫
≪≪けれど――≫≫
しかしどういう訳か、今日に限ってはカサンドラもなかなか承諾しなかった。
普段は二つ返事でセロンに賛成し従う少女だったが今は違った。これもまた普段には無い珍しい事態である。
≪≪どうしても反対だというならキャシーはそうすれば良い。僕は一人で行く。もし罠があるのだとしても突き破るまでだ≫≫
黒瞳を向け見据えると、碧眼の少女は瞳を閉じ、やや経ってから青瞳を再び開き頷いた。
≪≪……わかったわ≫≫
カサンドラは口を真一文字に結んでセロンを見つめる。
≪≪私も貴方と一緒に行くわ。今の貴方を一人では行かせられない≫≫
まるでセロンこそが普段とは違うのだと、薄紫色の髪の少女は言っているかのようだった。
●
ロスガリア大陸に鼎立する三大強国の一つ、大陸の中央から南方にかけてを治める大国リーンエス。
もとは荒涼たる砂に覆われていた砂漠地帯であったが、名もなき剣士が『竜喰らい』と呼ばれる巨大生物を討伐した際、緑多き豊かな大地に生まれ変わったという。
以降、この地は大地の力が他の地域よりも強く、肥えた土壌から産み出される貧しい土地から見れば反則じみた量の豊かな農産物を土台として強勢を誇って来た。
その豊かで栄えた王国の中でも、最も栄えているのが王都であるグランスパーダである。
しかしこの世に光あれば闇があるように、市壁内に土地を持てなかった者達が寄り集まって形成されたこの郊外区画は、明るく華やかな市の中心部とは異なり、街並みには暗い影が差していた。
都市中心部の華やかな服装の市民達とは明らかに一線を画する、薄汚れた襤褸を身に纏った粗野で暴力的な人間が多く住み着いていた。他人を出し抜き、出し抜かれまいとするように、常に鋭い眼光をギラつかせている。
貧しい地区である。
ここでパンクリアース学園に通う貴族然とした服装の人間が活動していると浮いてしまうので、セロンとカサンドラは先程の住居(先だってこの地区を偵察する為に拠点として確保しておいたものだ)にて粗末な麻の貫頭衣に着替えていた。
夏空は青く晴れ、白い雲が空の高い所を流れている。
しかし街は薄暗い。
貧乏な人間というのは土地を広く持てない。経済的弱者が多い区画は、狭く小さな家々が密集して立ち並ぶ街並みとなる。
そして建物が密集している地区は、陽が遮られる。
だから一般に貧しい地区の通り程、薄暗いものとなるのである。
そんな陽が遮られた郊外の地区には不釣り合いな程に巨大な建造物が一つ建っていた。
一見ではそれは神殿のように見える。
だが、見方によっては古城のようにも見えた。
敷地を囲む石壁を持ち、その上には宗教的な装飾が成された、けれども側防塔としての機能も確かに保持しているように見える塔が幾つも伸びている。
もし仮にそれなりの数の兵で囲んでも、そう簡単には攻め落とせそうにない威容を誇っていた。
正門は開け放たれていたが、左右に守衛らしき槍を手にした男達が立っていた。
服装はセロンの仇敵たる者達が身につけていた黒い装束ではない。宗教的な装飾のなされた外套に身を包んでいる。
この炎天下ではかなりの暑さだろうに、厳めしい顔立ちの守衛達は平然とした表情を浮かべていた。少なくとも表面上は。直立不動の立ち姿からしても、よく訓練され規律が取れている兵のようだった。
――そんな様子を、薄汚れた貫頭衣に身を包んだ青年と少女が路地の陰より窺っていた。
≪≪さすがに正面は厳重ね≫≫
カサンドラが所感をテレパスにて送って来る。
≪≪うん。周囲を巡ってみよう≫≫
セロンは頷き、カサンドラへとテレパスで返事を返すと、移動を開始した。
通行人の振りをしつつ路地の陰から施設の周囲を、さりげなく、可能な限り素早く、確認してゆく。
≪≪道具を使えば、壁を乗り越えられそうな地点はあるね≫≫
セロンは施設の守衛の配置、周囲の通行人の量などから死角となっていそうな箇所にあたりをつけ、呟いた。
自分達ヴェヒター・ヌルの訓練された隊員達ならば、フック付きロープなどを使えば、人の目に留まらずに潜入出来るだろう箇所が何ヶ所かある。
昼間でもいけそうだったが、夜陰に乗じればもっと確実だろう。もっとも、夜になっても守衛の配置が変更されず、今確認した通りの配置のままならば、だが。
そして、
≪≪――まぁ、壁を乗り越えた先に監視の目が配置されていないとは限らないけど≫≫
≪≪そうよねぇ≫≫
壁の外側からでは見える範囲に限りがある。
一見では死角のように見えても、それを補うように内部に警備兵が配置されていないとは限らない。
というか厳重な警備をしている施設であるなら、死角を互いに補うように警備兵を配置するのが普通だろう。
壁を登る時点までは見つからずにいけても、登り切った瞬間にその奥に警備員が立っていて発見される可能性というのは高い。
内部に協力者が居て、施設内の見取り図や警備体制についての情報を提供して貰えたりすれば楽なのだが、無論、つい先日その存在を知った敵の拠点である。そのような工作をセロン達が施す時間は無かった。
見えない部分は見えていないし、わからない部分はわかっていない。
≪≪結構しっかりした拠点みたいだから、忍び込むのは骨が折れるわよこれ。無理は出来ないわ≫≫
カサンドラの言葉にセロンは頷いた。
無理は出来ない。
セロンとて犬死にするつもりはなかったから、それは良く理解していた。
そうして神殿の周囲を一巡りして来て、再び正面の通りが見える位置まで戻って来た時の事だった。
道の彼方から一台の馬車が神殿の前へとやってきた。
粗末な馬車ではなかった。外装は質素に抑えられていたが、かなり上等なものだとうかがえる。
というのも座席部分と車軸の回りにとても高度な技術が使用されているのがセロンの目からは見て取れたからだ。
普通の馬車はちょっとした凹凸にも激しく揺れ、乗っていて非常に疲労するものなのだが、その揺れを軽減する仕組みが使われているようだった。最新技術だ。
質素だが高級な馬車が正門前で停止し、馬車の扉が開かれた。
中から黒い長靴が出てきて、神殿前の茶色の土を踏みしめる。
下袴らしきものも黒色だった。らしき、というのは長い漆黒のローブに覆われていて下半身を含めた身の大部分が隠れていたからだ。
顔も、深く被られた黒いフードに覆われていて、セロン達が身を潜めている路地の陰からは窺う事が出来なかった。
腰には黒革帯が巻かれ、そして黒鞘に納められた刀が大小二本、佩かれている。
(……あいつはっ!)
セロンは黒い瞳を見開いた。
血管を流れてゆく血液達が逆流したような感触を覚える。
その装い、見紛う筈もなかった。
六年前の故郷の森で、古狼を殺め、紅瞳子を攫ったあの男――影法師達、まさにその装いだった。
脳裏にあの日の土砂降りの雨の中で見た光景が鮮烈に甦る。あの日、身体に差し込まれた熱さと冷たさも。
≪≪――ロン! セロン!!≫≫
気づいた時、セロンは背後からカサンドラに抱きつかれ、テレパスで必死に呼びかけられていた。
どうやら、反射的に影法師へと突進しようとしたのをカサンドラに抑え込まれたらしかった。
身体が酷く強張っていて後ろに引かれる力と拮抗している。
セロンは身からゆっくりと力を抜いていった。
≪≪……落ち着いた?≫≫
≪≪あぁ……ごめん≫≫
危ない所だった。
下手に飛び出して斬り合いにでもなっていれば、たちまちのうちに大勢に取り囲まれてしまう事態になっていただろう。
例えその場は上手く切り抜け逃げ延びられても、パンクリアース学園での潜入任務を続けるのはきわめて困難な事になっていたに違いない。
また包囲を切り抜けられずその場で斬殺されていた可能性もあった。一思いに死ねればまだ良いが、捕らえられて拷問され魔法や催眠等で帝国の機密情報を引き出されてしまうような事態となったら目も当てられない。
≪≪……助かった≫≫
≪≪落ち着いたのなら何よりよ≫≫
薄紫色の髪の少女はセロンから身を離すと、
≪≪ねぇセロン、今日はこのあたりで引き上げましょう? これ以上となるとあの壁の向こう側に侵入する必要があるけれど、私達二人で今の装備で内部に潜入しようとするのは、失敗する可能性が高いわ≫≫
その言葉に黒髪の青年は口の中に苦さを感じつつ思考する。
壁を越えるだけでも装備が必要だ。
そして、もしも壁を越えた先にも警備の目があるなら、二人だけで察知されずに潜入する事は難しい。
だから内部警備がどのように配置されているのかの情報が必要だったし、それが得られないなら潜入の為にはせめて警備の目を引き付ける陽動が欲しい所だった。
しかしカサンドラ、あるいはセロンであっても、たった一人では陽動しようと仕掛けた所でこの規模の拠点の警備相手では、足りないだろう。
≪≪……わかった、今日の所は引き上げよう≫≫
心残りはあったがセロンは一時撤退を判断した。
≪≪ええ、影法師がこの拠点に本当に出入りしているって、確認出来ただけでも収穫だと思うわ――あれが、影法師なのね、貴方の敵≫≫
カサンドラはそう言った。
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ひとまず今日の所の偵察を切り上げたセロンとカサンドラは、郊外にある例の住居にて元の服へと着替えた。
人目を忍びつつ長屋の裏口から出て学園へと向かう。
青空の高い所で輝いていた太陽は、今では大分傾いた位置へと移動していた。
セロンとカサンドラが城門を潜り、街の中を歩いていると鮮やかな深紅のドレスに身を包んだ少女が大通りを駆けているのが見えた。
彼女は途中でセロンとカサンドラに気づいたらしく、顔を向けて真っ直ぐに道の彼方より走って来る。
知っている顔だった。
ハチミツ色の長い髪をくるくると顔の両脇で巻いている少女、カーミラ・ドラクリヤ・オブ・ダキアだ。
根っからの貴族のお嬢様である彼女がお付きも付けず一人でドレス姿で息を切らしながら走っているというのは珍しい。
浮かべている表情も切羽詰まっている不安の色が濃いものだ。
「――どうなされました?」
ただならぬ様子にセロンが問いかけるとカーミラは息を切らせつつ、紫色の瞳でセロンを見上げ、
「セっ、セリーヌさんとフィーネさんが……!」
息を絞り出すように少女は叫んだ。
「セリーヌさんとフィーネさんが、攫われてしまいましたの!」