汚泥の蓮と鳥籠の彩
キャラクターノベル制作 日方架音納品 2021年09月17日 11時20分54秒
豪奢な窓枠からふと見上げた青空を背景に、名も知らぬ鳥が白い軌跡を描く。
呆けたように魅入りながら、知らず、手の中の羽根を胸元に引き寄せる――そこに籠められたナニカが、贈り主ごと釣られて飛び去ってしまわぬよう。
背後で密やかに、揶揄い混じりの華が咲いた。
●
年齢が桁を増やした頃、シルヴィア・A・カペルは旅をした。上級貴族の令嬢としては得難い事に――有り得ない事に――自らの足で距離を稼ぎ、自らの腕で路銀を稼ぐような旅を。幸い、青薔薇の長に仕込まれた芸事は拙いながらも銭を投げて貰える程度には上達しており。その額が増える度、腕もまた上がっていった。
『世界って面白いでしょ?』
その長い生で飽きる程見てきただろうに。何処へ行っても初めて見るかの様な表情で、涼やかな瞳を煌かせて微笑む『先生』に連れられて。綺麗も楽しいも、辛いも切ないも――色んなモノを見た。生き抜く為の色んな事を教わった。中でも。
『君は楽器が得意だったっけ? フィドルは? ……なら、とっておきを教えてあげる』
片目を瞑った繊細な指から、夜の深く、囁き交わす様な旋律が紡がれる。その技巧に聴き惚れると同時、懐かしそうに細められた眦が強く、印象に残った。この表情は誰かを想い懐かしむ顔だと――それが、祖父に似た言動の度に出る事に気付いてからは、少しずつ寄せていって。己の口調に祖父が混じり始めた頃、特徴的な文化を持つ人々の地区に暫し滞在することになった。働かざる者食うべからず。此処でも例に漏れず、路銀稼ぎにと酒場――茶屋と呼ばれていた――にフィドルを掻き鳴らした帰り、店を出た所でついと袖を引かれ。
『――綺麗だねぇ』
「――貴女こそ」
振り向き様、びっくりしたように寄越された言葉を、何の捻りもなくうっかりと返す。事実、濡羽色とは夜に在りて尚その艶を深めるのだと。目の前の少女の髪に、シルヴィアは初めて心から理解した。
それが、『睡蓮』――傍らで転寝をする様さえも気怠い色気を纏う仕事明けの上級遊女との、長い付き合いの始まりの夜。
●
上にまで届いた耳慣れぬ音に惹かれた花魁からの遣い、と名乗った彼女との縁によって少しずつ座敷に呼ばれる回数が増え。場に馴染んでいく内、何かの折にその筆跡の流麗さが買われて恋文の代筆という仕事をも得た。
「『主と朝寝がしてみたい』とはどういう意味なのでしょうか、先生?」
『……自分で稼げとは言ったよ、言ったけどさぁ』
依頼は当然、夜に咲く花々からがほとんどで。上級に未だ届かぬ蕾達の、上客を逃さぬ為の美辞麗句は迂遠ながらも際どく。意味を問われ頭を抱える師に首を傾げながら、一文字ずつ丁寧に書き写す。その内、幼き柔軟な頭は百戦錬磨の手練手管を習い覚えて自ら艶言葉を綴りだした。
『初心なねんねちゃんの癖にねぇ』
依頼品を流し読み、睡蓮は鼻に引っ掛けたような声で笑う。綺麗だと最初に思ったその通り、目の前の麗人は何もかもが綺麗で。侯爵令嬢の教養は縁遠い枕言葉さえも手遊びに操るのか、と。出会いから何処か線を引いていた睡蓮へ、だがシルヴィアは薄く笑う。
「あら、私と貴女は同じよ?」
パチリ。射干玉の黒が大きく瞬いた。その中心にやっと写った自身を見据えながら、令嬢は朗らかに言葉を紡ぐ。
「貴方はお客さんに、私は将来の婚約者に自分を売るの。政治の交渉材料にもなったりするけど、本質は変わらない」
全てはお家の為に。結婚とは貴族令嬢として果たすべき役目であり、より良い縁組の為に自身を磨く。そこに自らの意思は無く――であれば、客を選べぬ遊女となんの違いがあるだろうか。静かに浮かべられた微笑に気圧されたように息を飲み。それから遊女は深く、溜息に混ぜた応えを漏らす。
『……ねぇ、あたしのも書いておくれよ』
シルヴィアを写す黒曜石に、興味の彩が差していた。
●
久方振りのシャルガネ地区の、久方振りの代筆業。未だ寝ている仕事明けの睡蓮の塒に勝手知ったると潜り込み。気に入りの羽ペンで恋文を書き綴りながら、満足気な吐息と共にその羽根を陽に透かす。麗しき見目は勿論、滑らかな書き心地はとても手に馴染み、もはや傍らに無くては落ち着かない程――そう、贈ってくれた彼のように。
「――今、何をしているのかな」
親とも慕った『先生』とのほろ苦い決別で旅を終えて令嬢に戻り、冒険者となって。まだ勝手もわからぬ駆け出しの迷宮、同期の親しみと共に組んだのが続く交流のきっかけだった。戦闘も会話も思いがけず馬が合い、それからも何度か偶然に出会ったり同じ仕事を受けたりして。
『……同じ歩兵団、とやらに来てくれたんだろう?』
柔らかな声音がそっと、思考を妨げぬよう入り込んでくる。恋文を見つめながら一つ、頷いた。ロモズ歩兵団遊兵9番隊隊長の任を拝して何度か任務を熟し、信を重ねていった隊員にも全く文句は無く――それでも。
「『ただ傍らに居て下さるだけで、どれ程の慰めとなるでしょう』」
殿方からの文に綴られた言葉がするり、唇から零れ落ちる。そう、それでも――貴方と共に戦いたかった。一番の近く、背を預けるのが貴方ならば嬉しい、と。何故か高鳴る鼓動を抑えながらの要請に頷いてくれたのみならず、入団試験では真摯に隊の事を考えた発言をしてくれて。
(どれほど嬉しかったか――君は、知らないだろうね)
思い出すように高鳴り始める胸をギュッと抑えつける。深く息を吸う合間を見計らって。
『踊ったのは三度、だったかい?』
声は更にシルヴィアの記憶を突く。一度目は故郷の薔薇の祭、改めて身長差に目を見張った。あの時の不器用な花冠は、今もドライフラワーにして自室に飾ってある。二度目、ぎこちない誘いはそのままステップにも現れていて。だが前より確実に上手くなっていた。もう数回も場を重ねれば抜かされるかもしれないと――今思えばまるで、次を望んでいるかのような。頭を振って浮かびかけた思考を追い出す。まだそれを認識するには早い、と脳裏で誰かが囁いて――ああそう、それで、三度目は。
「『貴方という夜に、泣きたくなる程の安らぎを感じるのです』」
黒を纏い溶け込んだ月夜から伸ばされた手――思い出して、無意識に髪に触れた。そこに触れた熱が、まだ残っている気がする。ソレはゆるゆると伝播して、シルヴィアの頬を赤く染めていく。あの時、静かな熱を孕み見詰める青い煌きから目を逸らし、気付かぬ振りをしたモノはまだ、奥底で蓋をされたまま――
「……良い加減、まだるっこしいねぇ」
「ひゃっ!」
のし、と背にかかる重みに悲鳴を漏らす。気を抜いていたせいもあるが――自身の口から出た乙女の様な声に、シルヴィアは思った以上に動揺した。祖父の口調が自然体となってからは、どんなに驚く場面でも出なかったのに。だが欠伸混じりの友人は、こちらの混乱などお構いなしで肩越しに恋文を覗き込み。
「ふぅん、あの末成り旦那の筆跡にしちゃ及第点だね。……ああそう、その『彼』ならどう言って寄越すと思う?」
――心身を立て直す暇を与えてくれない。からかい混じりの華を前に、呼吸も覚束無い程はくはくと口を開け閉めしながら。シルヴィアの心は勝手に記憶から彼を引っ張り出す。彼なら、貴方は、どうやって愛を囁くの――? 脳裏に彼を浮かべたまま、視線は再び手元の文に吸い寄せられる。
『貴女の瞳に映る刹那を得る為ならば、私の全てを差し出しましょう。貴女の微笑みに囚われた、哀れなるこの身ごと、全て』
ああ――もし
『その遍く輝く優しさにつけ込んででも、私は貴女が欲しいのです』
もしも、彼が
『――貴女を、愛している』
あの孕んだ熱でこの言葉を囁いてくれたなら――
心底可笑しくてたまらない、という笑い声にハッと意識を浮上させる。切れ長の眦に涙まで浮かべた友人は、豪奢な手鏡を差し出して。
「表情、見てご覧よ」
悪戯っぽく笑う顔の、瞳だけが見守る優しさを帯びている。それでも。
――シルヴィアはついぞ、鏡を覗く勇気が持てなかった。
●
インクが乾いた頃合を見計らい、代筆の恋文を一つ一つ丁寧に畳んでいく。後は帰りがけ、置屋の女将に纏めて渡しておけばいい。最終確認、と読み返す恋文は昔から変わらず上客を逃がさぬ為の営業、旦那方も其れをわかって戯れ返す文が多い。だが。
(これとこれは明らかに――本気みたいだね)
長年書いていれば、汲み取れる想いも深くなる。行間にさえ滲み出る程の劣情が、視覚越しに胸を打った。
(彼も、この恋文のような想いを誰かに持ったことがあるのかな)
それなりに濃い刻を過ごしてきたとはいえ、出会ってまだ短い。己の見知らぬ時の中で、恋愛の一つや二つはしているだろう。年頃だし、見目も性格も良いし、もしかして恋人もいるのかも……知らず、少しばかり寄る眉間を嫋やかな指がギュッと押さえた。
「思い悩むなら押し倒しちまえば良いだろう?」
「押し倒っ……! か、彼と私はそんなんじゃ……!」
「可愛いねぇ」
(そんな間柄なら押し倒しても構わない、って事だろ? ……って聞いてやるのはまだ酷かねぇ)
初心な友人が真っ赤に色付いた頬に向き合う勇気が出るのには、はたして後どのくらい必要か。だがそう遠い事でもないだろう、と。この汚泥の様な界隈に密やかに花咲く恋を様々、眺めてきた睡蓮は口角を上げる。
『結婚とは果たすべき役目、通過儀礼のような物』
そうやって、貴族の顔で淡々と紡いでいた決意。それもけして嘘ではないのだろう――だが願わくば。
(……あんたの想いが叶うと良い)
汚泥の蓮と鳥籠の彩と。真逆のようで同じ枷を嵌められている友人の恋が叶いますように。いまだ百面相を続けるシルヴィアをにやにやと揶揄いながら。睡蓮はただ心の内で、高く自由な青い空に請い願うのだった。
呆けたように魅入りながら、知らず、手の中の羽根を胸元に引き寄せる――そこに籠められたナニカが、贈り主ごと釣られて飛び去ってしまわぬよう。
背後で密やかに、揶揄い混じりの華が咲いた。
●
年齢が桁を増やした頃、シルヴィア・A・カペルは旅をした。上級貴族の令嬢としては得難い事に――有り得ない事に――自らの足で距離を稼ぎ、自らの腕で路銀を稼ぐような旅を。幸い、青薔薇の長に仕込まれた芸事は拙いながらも銭を投げて貰える程度には上達しており。その額が増える度、腕もまた上がっていった。
『世界って面白いでしょ?』
その長い生で飽きる程見てきただろうに。何処へ行っても初めて見るかの様な表情で、涼やかな瞳を煌かせて微笑む『先生』に連れられて。綺麗も楽しいも、辛いも切ないも――色んなモノを見た。生き抜く為の色んな事を教わった。中でも。
『君は楽器が得意だったっけ? フィドルは? ……なら、とっておきを教えてあげる』
片目を瞑った繊細な指から、夜の深く、囁き交わす様な旋律が紡がれる。その技巧に聴き惚れると同時、懐かしそうに細められた眦が強く、印象に残った。この表情は誰かを想い懐かしむ顔だと――それが、祖父に似た言動の度に出る事に気付いてからは、少しずつ寄せていって。己の口調に祖父が混じり始めた頃、特徴的な文化を持つ人々の地区に暫し滞在することになった。働かざる者食うべからず。此処でも例に漏れず、路銀稼ぎにと酒場――茶屋と呼ばれていた――にフィドルを掻き鳴らした帰り、店を出た所でついと袖を引かれ。
『――綺麗だねぇ』
「――貴女こそ」
振り向き様、びっくりしたように寄越された言葉を、何の捻りもなくうっかりと返す。事実、濡羽色とは夜に在りて尚その艶を深めるのだと。目の前の少女の髪に、シルヴィアは初めて心から理解した。
それが、『睡蓮』――傍らで転寝をする様さえも気怠い色気を纏う仕事明けの上級遊女との、長い付き合いの始まりの夜。
●
上にまで届いた耳慣れぬ音に惹かれた花魁からの遣い、と名乗った彼女との縁によって少しずつ座敷に呼ばれる回数が増え。場に馴染んでいく内、何かの折にその筆跡の流麗さが買われて恋文の代筆という仕事をも得た。
「『主と朝寝がしてみたい』とはどういう意味なのでしょうか、先生?」
『……自分で稼げとは言ったよ、言ったけどさぁ』
依頼は当然、夜に咲く花々からがほとんどで。上級に未だ届かぬ蕾達の、上客を逃さぬ為の美辞麗句は迂遠ながらも際どく。意味を問われ頭を抱える師に首を傾げながら、一文字ずつ丁寧に書き写す。その内、幼き柔軟な頭は百戦錬磨の手練手管を習い覚えて自ら艶言葉を綴りだした。
『初心なねんねちゃんの癖にねぇ』
依頼品を流し読み、睡蓮は鼻に引っ掛けたような声で笑う。綺麗だと最初に思ったその通り、目の前の麗人は何もかもが綺麗で。侯爵令嬢の教養は縁遠い枕言葉さえも手遊びに操るのか、と。出会いから何処か線を引いていた睡蓮へ、だがシルヴィアは薄く笑う。
「あら、私と貴女は同じよ?」
パチリ。射干玉の黒が大きく瞬いた。その中心にやっと写った自身を見据えながら、令嬢は朗らかに言葉を紡ぐ。
「貴方はお客さんに、私は将来の婚約者に自分を売るの。政治の交渉材料にもなったりするけど、本質は変わらない」
全てはお家の為に。結婚とは貴族令嬢として果たすべき役目であり、より良い縁組の為に自身を磨く。そこに自らの意思は無く――であれば、客を選べぬ遊女となんの違いがあるだろうか。静かに浮かべられた微笑に気圧されたように息を飲み。それから遊女は深く、溜息に混ぜた応えを漏らす。
『……ねぇ、あたしのも書いておくれよ』
シルヴィアを写す黒曜石に、興味の彩が差していた。
●
久方振りのシャルガネ地区の、久方振りの代筆業。未だ寝ている仕事明けの睡蓮の塒に勝手知ったると潜り込み。気に入りの羽ペンで恋文を書き綴りながら、満足気な吐息と共にその羽根を陽に透かす。麗しき見目は勿論、滑らかな書き心地はとても手に馴染み、もはや傍らに無くては落ち着かない程――そう、贈ってくれた彼のように。
「――今、何をしているのかな」
親とも慕った『先生』とのほろ苦い決別で旅を終えて令嬢に戻り、冒険者となって。まだ勝手もわからぬ駆け出しの迷宮、同期の親しみと共に組んだのが続く交流のきっかけだった。戦闘も会話も思いがけず馬が合い、それからも何度か偶然に出会ったり同じ仕事を受けたりして。
『……同じ歩兵団、とやらに来てくれたんだろう?』
柔らかな声音がそっと、思考を妨げぬよう入り込んでくる。恋文を見つめながら一つ、頷いた。ロモズ歩兵団遊兵9番隊隊長の任を拝して何度か任務を熟し、信を重ねていった隊員にも全く文句は無く――それでも。
「『ただ傍らに居て下さるだけで、どれ程の慰めとなるでしょう』」
殿方からの文に綴られた言葉がするり、唇から零れ落ちる。そう、それでも――貴方と共に戦いたかった。一番の近く、背を預けるのが貴方ならば嬉しい、と。何故か高鳴る鼓動を抑えながらの要請に頷いてくれたのみならず、入団試験では真摯に隊の事を考えた発言をしてくれて。
(どれほど嬉しかったか――君は、知らないだろうね)
思い出すように高鳴り始める胸をギュッと抑えつける。深く息を吸う合間を見計らって。
『踊ったのは三度、だったかい?』
声は更にシルヴィアの記憶を突く。一度目は故郷の薔薇の祭、改めて身長差に目を見張った。あの時の不器用な花冠は、今もドライフラワーにして自室に飾ってある。二度目、ぎこちない誘いはそのままステップにも現れていて。だが前より確実に上手くなっていた。もう数回も場を重ねれば抜かされるかもしれないと――今思えばまるで、次を望んでいるかのような。頭を振って浮かびかけた思考を追い出す。まだそれを認識するには早い、と脳裏で誰かが囁いて――ああそう、それで、三度目は。
「『貴方という夜に、泣きたくなる程の安らぎを感じるのです』」
黒を纏い溶け込んだ月夜から伸ばされた手――思い出して、無意識に髪に触れた。そこに触れた熱が、まだ残っている気がする。ソレはゆるゆると伝播して、シルヴィアの頬を赤く染めていく。あの時、静かな熱を孕み見詰める青い煌きから目を逸らし、気付かぬ振りをしたモノはまだ、奥底で蓋をされたまま――
「……良い加減、まだるっこしいねぇ」
「ひゃっ!」
のし、と背にかかる重みに悲鳴を漏らす。気を抜いていたせいもあるが――自身の口から出た乙女の様な声に、シルヴィアは思った以上に動揺した。祖父の口調が自然体となってからは、どんなに驚く場面でも出なかったのに。だが欠伸混じりの友人は、こちらの混乱などお構いなしで肩越しに恋文を覗き込み。
「ふぅん、あの末成り旦那の筆跡にしちゃ及第点だね。……ああそう、その『彼』ならどう言って寄越すと思う?」
――心身を立て直す暇を与えてくれない。からかい混じりの華を前に、呼吸も覚束無い程はくはくと口を開け閉めしながら。シルヴィアの心は勝手に記憶から彼を引っ張り出す。彼なら、貴方は、どうやって愛を囁くの――? 脳裏に彼を浮かべたまま、視線は再び手元の文に吸い寄せられる。
『貴女の瞳に映る刹那を得る為ならば、私の全てを差し出しましょう。貴女の微笑みに囚われた、哀れなるこの身ごと、全て』
ああ――もし
『その遍く輝く優しさにつけ込んででも、私は貴女が欲しいのです』
もしも、彼が
『――貴女を、愛している』
あの孕んだ熱でこの言葉を囁いてくれたなら――
心底可笑しくてたまらない、という笑い声にハッと意識を浮上させる。切れ長の眦に涙まで浮かべた友人は、豪奢な手鏡を差し出して。
「表情、見てご覧よ」
悪戯っぽく笑う顔の、瞳だけが見守る優しさを帯びている。それでも。
――シルヴィアはついぞ、鏡を覗く勇気が持てなかった。
●
インクが乾いた頃合を見計らい、代筆の恋文を一つ一つ丁寧に畳んでいく。後は帰りがけ、置屋の女将に纏めて渡しておけばいい。最終確認、と読み返す恋文は昔から変わらず上客を逃がさぬ為の営業、旦那方も其れをわかって戯れ返す文が多い。だが。
(これとこれは明らかに――本気みたいだね)
長年書いていれば、汲み取れる想いも深くなる。行間にさえ滲み出る程の劣情が、視覚越しに胸を打った。
(彼も、この恋文のような想いを誰かに持ったことがあるのかな)
それなりに濃い刻を過ごしてきたとはいえ、出会ってまだ短い。己の見知らぬ時の中で、恋愛の一つや二つはしているだろう。年頃だし、見目も性格も良いし、もしかして恋人もいるのかも……知らず、少しばかり寄る眉間を嫋やかな指がギュッと押さえた。
「思い悩むなら押し倒しちまえば良いだろう?」
「押し倒っ……! か、彼と私はそんなんじゃ……!」
「可愛いねぇ」
(そんな間柄なら押し倒しても構わない、って事だろ? ……って聞いてやるのはまだ酷かねぇ)
初心な友人が真っ赤に色付いた頬に向き合う勇気が出るのには、はたして後どのくらい必要か。だがそう遠い事でもないだろう、と。この汚泥の様な界隈に密やかに花咲く恋を様々、眺めてきた睡蓮は口角を上げる。
『結婚とは果たすべき役目、通過儀礼のような物』
そうやって、貴族の顔で淡々と紡いでいた決意。それもけして嘘ではないのだろう――だが願わくば。
(……あんたの想いが叶うと良い)
汚泥の蓮と鳥籠の彩と。真逆のようで同じ枷を嵌められている友人の恋が叶いますように。いまだ百面相を続けるシルヴィアをにやにやと揶揄いながら。睡蓮はただ心の内で、高く自由な青い空に請い願うのだった。