朱殷
キャラクターノベル制作 夜帷かもめ納品 2021年08月25日 14時35分12秒
「おい、立てるか?」
伸ばされたその手を、美しいと思ってしまったのだ。幾多の傷に塗れ、鮮血と泥濘にどっぷりと漬かった指先がまっ直ぐこちらへと伸ばされている。命を奪い、掬い取ることが出来る男の腕に。私とは違う世界を見てきたであろう、その左右で色の違う瞳に私は見惚れていた。
「――は、はい」
手を取ることすら躊躇われる。その背徳感を紛らわせるように、掠れた喉を絞って声を上げた。
「あの……貴方の、その、お名前は」
どうしてそんな問いかけをしたのか、分からない。分からないが、もしかしたら――彼のその名を心に刻みたいと思っていたのかもしれない。あるいは、単に話しかける口実が欲しかったのか。
「アーシェル――アーシェル・G・クラインだ」
「アーシェル、様」
指を、掛ける。見た目よりもずっと強い力で引き寄せられた。
「アーシェル様」
「なんだ」
「ありがとう、ございました」
その頬に一筋、真っすぐに刻まれた、まだ血の乾ききらない傷跡を愛おしいと感じた。私の世界を救い、壊してくれたその人の生きている証。私を救うために負った傷を、私だけの所有物のように錯覚していたのだ。
赤いインクで綴られた密やかな刻印。
●
瞳の奥に朱い色がこびりついている。拭う事の出来ない忌まわしい記憶が、網膜に焼き付いた後ろ姿と共にその右目には刻まれていた。だから痕跡を諸共に洗い流すように、俺は戦場で血を浴びる。血を流す。身を清め、禊をする聖女のように赦しを求めていた。
世界の全てが赤に染まってしまえば、左の瞳も赤い世界が見えるのならば――あるいは、狂ってしまえるのならば。
兄と同じ景色を見れるのではないかと。あの日に起こった過ちを取り戻せるのではないかと夢想していた。
そんな事は無いと理性では分かっていながらも、そうでもしなければ感情が焼き切れてしまいそうだった。平穏な生活に戻るには、もうこの両手は血に濡れすぎているから。兄の首へと刃を突き立てたその時から、俺には血の呪縛が纏わりついている。
だから。
俺は既に狂っていたのだ。
●
剣が、策謀が躍っていた。私の世界がガラガラと音を立てて崩れていく。亡国の姫を顧みる者などここにはいない。だってとうの昔に、臣下は私の愛した家族と同じように物言わぬ躯となっている。ここに在るのは、略奪の限りを尽くす荒れ狂った力の権化と、ただ一人それに敢然と立ち向かう名も知らぬ騎士。登場人物はその二人、私はただの舞台装置に過ぎない。
フレスコ画のその一筆、一筆のように。剣戟の一つ一つが私の心へと刻まれていく。
黒い軍服の騎士が、悪鬼と切り結んでいた。単純な技量であれば騎士の方が格上なのだろうか。素人である私が見ても、その動きは洗練されていた。一つ一つの体重の動きが美しく、無駄がない。いつか仕込まれた舞踏のように、一つとして無駄のないステップ。視線の一つにだって意味があるように感じられた。
そんな騎士が、身の丈半分よりもなお長い大剣を振るっている。既に傍目には満身創痍と思えるほどにその身体には傷が刻まれているにも関わらず、その動きは猛々しく、一方で軽やかですらあった。
「すごい……」
単純に、そんな言葉が口を吐いて出るほどに、美しかったのだ。
だが、それにも増して悪鬼の単純な力は暴力的なまでに理不尽だった。幾度斬りかかろうと、肉へ刃を突き立てようとその動きは止まることはない。見上げるほどの巨体が腕を振るえば、葦を手折るよりも容易く木々が砕け折れる。壁が瓦礫へ崩れゆく。街が――廃墟へと変わってゆく。
私が愛したこの街が、婚礼の儀と共に顔も知らぬ貴族の所領へと差し出されるはずだった場所が。その記憶を留める風景と共に失われていった。
「シッ――!」
エーテルの光を纏った刀身が悪鬼の脛へと深々と食い込む。鋼のように黒光りすらする筋肉を切り裂いて、騎士の振り下ろした刃は骨を半ばまで断ち切りつつもそこで止まった。痛みに咆哮を上げ、悪鬼が騎士を無造作に殴りつける。大剣を引き抜く間もなく、騎士はその拳を胴に受けて吹き飛ばされた。
それでも大剣を手放さなかったのは歴戦の戦士と言うべきか、いずれにしても――また、立ち合いは仕切り直しを余儀なくされた。
また。
何度目だろうか。私が見ている限りで、四度目だ。
仕切り直すと共に、悪鬼の傷口が肉で盛り上がる。泡立つほどに異常な速度で、傷が治っていくのだ。自分のその特性を理解しているからだろうか、悪鬼は牙を剥きだし、粗野な笑みをその口元に浮かべた。自分の圧倒的な優位、揺るぎない勝利を確信しているのだろう。その力があれば、雑兵の如きオークやコボルトを従えるなど造作もない事に違いない。
「化物、か」
騎士の呟きを呆然と私は耳の端に聞いていた。幾度斬りつけようと、その傷を癒してしまう驚異的な回復力を持った亜人。これに対して、抗う術などあるのだろうか。いくら騎士が優れた剣の技を持つとはいえ、その身体は人のそれだ。亜人のように無尽蔵のタフネスが備わっている訳ではない。
事実、彼の動きは少しずつ鈍くなってきている。傷と共に失われていく血が、終わりの見えない攻防が騎士を消耗させているのだろうか。
――トス、と。知らず、膝を衝いていた。常に顔を上げ、前を向いていなさいというのは我が家の家訓だったが……それが何になるだろうか。どこまでも深い絶望を前に、それでも尚、俯かずにいられるほど私は強くなかった。
その音に、悪鬼がこちらを向く。既に勝利を疑いもせず、騎士を一顧だにせず。ただ、勝利の勲章をその手に掴もうと大股に歩み寄ってくる。無遠慮に、手が伸び、その爪が私の顎へと掛かり――!
●
「ようやく、か。亜人にしては慎重だったな」
目の前を、漆黒の外套が覆っていた。悪鬼のむくつけき指が斬り落とされ、地へと転がる。一歩、その背中が遠ざかって何があったのかを理解した。神速を以ってその身を私と悪鬼の間にねじ込ませた騎士が、不意を打った一撃を亜人の首へと見舞ったのだ。
「さすがに首を撥ねれば、再生も出来ないだろう?」
また、一歩。背中が遠ざかる。歩みと共に腕を引き、刃を更に深くねじ込んでいく。肉が断ち切れる、鈍い破裂音がした。そして何か、湿った粘性の何かが大地へと撒き散らされる気配。
「まだ動くか」
言葉と共に、刃を抜いて、突き立てる。今度は心の臓を貫いたのだろうか。その表情は見えないけれど――どこか、楽し気な響きに私は感じられて。
その声音に危うくも蠱惑的な、強い男を感じてしまった。
呆けて座り込む私に、振り返った貴方が手を伸ばす。
「おい、立てるか?」
伸ばされたその手を、美しいと思ってしまったのだ。幾多の傷に塗れ、鮮血と泥濘にどっぷりと漬かった指先がまっ直ぐこちらへと伸ばされている。命を奪い、掬い取ることが出来る男の腕に。私とは違う世界を見てきたであろう、その左右で色の違う瞳に私は見惚れていた。
「――は、はい」
手を取ることすら躊躇われる。その背徳感を紛らわせるように、掠れた喉を絞って声を上げた。
「あの……貴方の、その、お名前は」
どうしてそんな問いかけをしたのか、分からない。分からないが、もしかしたら――彼のその名を心に刻みたいと思っていたのかもしれない。あるいは、単に話しかける口実が欲しかったのか。
「アーシェル――アーシェル・G・クラインだ」
「アーシェル、様」
指を、掛ける。見た目よりもずっと強い力で引き寄せられた。
「アーシェル様」
「なんだ」
「ありがとう、ございました」
その頬に一筋、真っすぐに刻まれた、まだ血の乾ききらない傷跡を愛おしいと感じた。私の世界を救い、壊してくれたその人の生きている証。私を救うために負った傷を、私だけの所有物のように錯覚していたのだ。
赤いインクで綴られた密やかな刻印。
●
瞳の奥に朱い色がこびりついている。拭う事の出来ない忌まわしい記憶が、網膜に焼き付いた後ろ姿と共にその右目には刻まれていた。だから痕跡を諸共に洗い流すように、俺は戦場で血を浴びる。血を流す。身を清め、禊をする聖女のように赦しを求めていた。
世界の全てが赤に染まってしまえば、左の瞳も赤い世界が見えるのならば――あるいは、狂ってしまえるのならば。
兄と同じ景色を見れるのではないかと。あの日に起こった過ちを取り戻せるのではないかと夢想していた。
そんな事は無いと理性では分かっていながらも、そうでもしなければ感情が焼き切れてしまいそうだった。平穏な生活に戻るには、もうこの両手は血に濡れすぎているから。兄の首へと刃を突き立てたその時から、俺には血の呪縛が纏わりついている。
だから。
俺は既に狂っていたのだ。
●
剣が、策謀が躍っていた。私の世界がガラガラと音を立てて崩れていく。亡国の姫を顧みる者などここにはいない。だってとうの昔に、臣下は私の愛した家族と同じように物言わぬ躯となっている。ここに在るのは、略奪の限りを尽くす荒れ狂った力の権化と、ただ一人それに敢然と立ち向かう名も知らぬ騎士。登場人物はその二人、私はただの舞台装置に過ぎない。
フレスコ画のその一筆、一筆のように。剣戟の一つ一つが私の心へと刻まれていく。
黒い軍服の騎士が、悪鬼と切り結んでいた。単純な技量であれば騎士の方が格上なのだろうか。素人である私が見ても、その動きは洗練されていた。一つ一つの体重の動きが美しく、無駄がない。いつか仕込まれた舞踏のように、一つとして無駄のないステップ。視線の一つにだって意味があるように感じられた。
そんな騎士が、身の丈半分よりもなお長い大剣を振るっている。既に傍目には満身創痍と思えるほどにその身体には傷が刻まれているにも関わらず、その動きは猛々しく、一方で軽やかですらあった。
「すごい……」
単純に、そんな言葉が口を吐いて出るほどに、美しかったのだ。
だが、それにも増して悪鬼の単純な力は暴力的なまでに理不尽だった。幾度斬りかかろうと、肉へ刃を突き立てようとその動きは止まることはない。見上げるほどの巨体が腕を振るえば、葦を手折るよりも容易く木々が砕け折れる。壁が瓦礫へ崩れゆく。街が――廃墟へと変わってゆく。
私が愛したこの街が、婚礼の儀と共に顔も知らぬ貴族の所領へと差し出されるはずだった場所が。その記憶を留める風景と共に失われていった。
「シッ――!」
エーテルの光を纏った刀身が悪鬼の脛へと深々と食い込む。鋼のように黒光りすらする筋肉を切り裂いて、騎士の振り下ろした刃は骨を半ばまで断ち切りつつもそこで止まった。痛みに咆哮を上げ、悪鬼が騎士を無造作に殴りつける。大剣を引き抜く間もなく、騎士はその拳を胴に受けて吹き飛ばされた。
それでも大剣を手放さなかったのは歴戦の戦士と言うべきか、いずれにしても――また、立ち合いは仕切り直しを余儀なくされた。
また。
何度目だろうか。私が見ている限りで、四度目だ。
仕切り直すと共に、悪鬼の傷口が肉で盛り上がる。泡立つほどに異常な速度で、傷が治っていくのだ。自分のその特性を理解しているからだろうか、悪鬼は牙を剥きだし、粗野な笑みをその口元に浮かべた。自分の圧倒的な優位、揺るぎない勝利を確信しているのだろう。その力があれば、雑兵の如きオークやコボルトを従えるなど造作もない事に違いない。
「化物、か」
騎士の呟きを呆然と私は耳の端に聞いていた。幾度斬りつけようと、その傷を癒してしまう驚異的な回復力を持った亜人。これに対して、抗う術などあるのだろうか。いくら騎士が優れた剣の技を持つとはいえ、その身体は人のそれだ。亜人のように無尽蔵のタフネスが備わっている訳ではない。
事実、彼の動きは少しずつ鈍くなってきている。傷と共に失われていく血が、終わりの見えない攻防が騎士を消耗させているのだろうか。
――トス、と。知らず、膝を衝いていた。常に顔を上げ、前を向いていなさいというのは我が家の家訓だったが……それが何になるだろうか。どこまでも深い絶望を前に、それでも尚、俯かずにいられるほど私は強くなかった。
その音に、悪鬼がこちらを向く。既に勝利を疑いもせず、騎士を一顧だにせず。ただ、勝利の勲章をその手に掴もうと大股に歩み寄ってくる。無遠慮に、手が伸び、その爪が私の顎へと掛かり――!
●
「ようやく、か。亜人にしては慎重だったな」
目の前を、漆黒の外套が覆っていた。悪鬼のむくつけき指が斬り落とされ、地へと転がる。一歩、その背中が遠ざかって何があったのかを理解した。神速を以ってその身を私と悪鬼の間にねじ込ませた騎士が、不意を打った一撃を亜人の首へと見舞ったのだ。
「さすがに首を撥ねれば、再生も出来ないだろう?」
また、一歩。背中が遠ざかる。歩みと共に腕を引き、刃を更に深くねじ込んでいく。肉が断ち切れる、鈍い破裂音がした。そして何か、湿った粘性の何かが大地へと撒き散らされる気配。
「まだ動くか」
言葉と共に、刃を抜いて、突き立てる。今度は心の臓を貫いたのだろうか。その表情は見えないけれど――どこか、楽し気な響きに私は感じられて。
その声音に危うくも蠱惑的な、強い男を感じてしまった。
呆けて座り込む私に、振り返った貴方が手を伸ばす。
「おい、立てるか?」