忍び込む諜報員達
キャラクターノベル制作 望月誠司納品 2021年07月10日 11時37分00秒
静謐に燃える洋灯の火が薄闇に揺らめいた。
「――だから、何かある、と?」
「逆説的だけれどね」
室内に年若い少女と少年の声が響く。
顔が映り込む程に磨かれた、深い飴色の木壁に囲まれた薄暗い一室だ。
王都に建つ酒場兼宿屋、帝国諜報部隊の息がかかっている。
橙色のほのかな灯りに照らされる薄暗い寝台の上、黒髪黒瞳の少年は胡坐をかき、愛用の弓の手入れをしながら頷いた。
十六歳の少年の背は平均よりも少し高いだろうか。鍛え絞られた精悍な体躯だ。
セロンガード・シュタインドルフである。
少年の傍ら、紺のスラックスと白の半袖ブラウス姿で、椅子に前後逆向きに跨るように座っている同年の少女は、背もたれの上に両腕を組むように置き、腕の上に形の良い白い顎を乗せていた。
カサンドラ・フォン・ベルリヒンゲンである。
薄紫色に艶やかな、真っ直ぐに長い髪の娘は、夏空色の瞳を動かし、目線をセロンへと向けて来る。
「なるほど、それで、気になるから調査にいこうという訳なの?」
「不味いかな?」
少年は緩やかな曲線を描く弓身を、柔らかい布で拭きながら問い返す。
「んー、藪蛇というのはあると思う。でも、何もわからないままぼうっとしているというのも、それはそれで危険だとも思う。どちらの選択肢にもリスクがあるなら、積極的に情報を集める方が性に合ってるかしら」
少女は思案顔で考えをまとめるように呟きつつ、
「だから、そうね、うん、賛成するわ。私はセロンの方針を支持する。危険があっても貴方がいれば大体なんとかなるでしょ」
「有難う」
「ゾフィーにはもう話したの?」
「……ゾフィーには秘密にする」
椅子の背もたれの上にうつ伏せになっているカサンドラが、もそりと顔を上げてセロンの方へと動かした。
無言の問いに対しセロンは弓の手入れを止めると顔を向け、
「キャシー、ゾフィーはセリーヌと距離が近くない?」
「……かなり親し気ではあるわね」
「だから、予想外の事態を起こす可能性がある」
これまで部隊にとって予想外の事態を数多く引き起こして来た少年は真顔で述べた。
少女は夏空色の瞳を二、三度瞬かせ、それからしみじみとした調子で、
「……貴方が言うと、重みがあるわねー」
「わーるかったねぇ。僕の得意技は独断専行と命令違反であると部隊のメモには記されているでしょうとも」
セロンが肩を竦めるとカサンドラはくすくすと笑った。
「ま、私はそんな貴方の選択に救われた一人ですけどもね。でもさ、今回は、そういうのとは状況が違くないかしら? そこまで事態は切迫してないっていうか……ゾフィーだって、予想外の行動を起こすべき時と、そうでない時の分別はつけると思うのだけれど。貴方だってなんでもかんでもに命令違反してきた訳じゃないでしょう?」
少女は小首を傾げて、
「それとも貴方、あの子がそういう決断をせざるをえないような事を、セリーヌさんの家でするつもりなの?」
セロンは表情を正すと、
「いや、そういう訳じゃない。ただ、未知の場所に潜入する訳だからさ。何が起こるかはわからない。出来る限り危険性は抑えておきたい」
「なるほど、それは、道理ね……親しくしてる後輩を探る為にその家に忍び込むとか本人にもストレスかかるでしょうし……確かに、私達だけでやった方が、ゾフィーにとっても良いのかしら……?」
思案しつつ、カサンドラは頷いたのだった。
●
月の出ない夜。
遠くで犬が吼えている。
夜陰に紛れ、屋根の上を密やかに、しかし素早く移動している影が二つあった。
漆黒の装束に全身を包み覆面をつけ背負い袋を負った男女――セロンとカサンドラである。
二人は、さる中立的な貴族派に属する王国貴族の屋敷へとやってきていた。
セリーヌの伯父の屋敷だ。
調査によれば、彼が身寄りのないセリーヌを引き取って衣食住の面倒を見ているのだという。
黒装束姿のセロンはカサンドラと共に暗天の下、密やかに屋根を移動し、屋敷の隅の部屋の上部へと辿り着いた。
屋根に耳をあてて澄ませ、物音などから室内に人がいるかいないかを探る。
やがて少年と少女は視線を交わし頷いた。セロンはカサンドラの腰ベルトに器具が付いたロープを留めると、ロープが少し撓むように両手で掴む。
そしてカサンドラは屋根上から身を乗り出し、セロンが支えるロープにぶらさがる。ゆっくりと窓の横へと降りてゆく。
宙ぶらりの少女は、腰にくくりつけてある容器から粘土のようなものを取り出した。手早く窓ガラスへと張り付けてゆく。
張り付け終わると、手袋を嵌めた左手を粘土の中に沈め、右手で太腿に巻いた革ベルトの鞘からナイフを引き抜く。
しばしの間を置いてから、少女はナイフにエーテルを纏わせ、粘土越しにナイフを突き入れた。
凶悪な切れ味を帯びる白刃を、音も立てずに滑らせ、ガラスを粘土ごと切り裂いてゆく。
やがてカサンドラは、太腿の鞘にナイフを納めると、粘土の中に沈めていた左手を引くように動かした。
手に粘着している粘土ごとガラスがパカリと外れ、窓に穴が空く。
≪≪上手くいったわ≫≫
≪≪了解、一旦上げる≫≫
二人はテレパスで念話をかわし、セロンはロープを引いて少女をひっぱり上げる。
なおカサンドラは小柄でスタイルの良い少女だったが、セロンの両腕に伝わる重量はそれなりのものがあった。少なくとも三十後半キロか四十キロ以上はあるだろう。健康的な人間だったらそんなものだが、これを上げ下げするのは一仕事である。
セロンにひっぱり上げられた小柄な少女は、ガラス付き粘土に接着している手袋を外して、背負い袋に詰めると袋を再び背負った。再度ロープにぶらさがって窓ガラスのもとまで降りると、生じた穴より腕を滑り込ませ鍵を外す。
少女は静かに窓を開け、部屋の中へと起伏豊かな肢体をするりと滑り込ませてゆく。
屋根上から身を乗り出してその様子を確認していたセロンは、背負い袋からフック付きロープを取り出すと屋根に引っ掛け、ロープを壁伝いにつたい、彼もまた空いた窓から室内へと滑り込んだ。
部屋の中は闇に包まれていたが、セロンは『暗視』の能力により昼と遜色なく室内の様子が見えていた。授恵者の力だ。
部屋は来客用の寝室のようだった。掃除は行き届いているが、私物が無く、普段使われているような形跡が無い。
≪≪よし、まずは予定通りセリーヌの部屋を優先的に探そう≫≫
現在、セリーヌは学園の寮に移っているが、自室は残されているだろうと踏んだのだ。
狭い家なら、出て行った子供の部屋は他の用途にあてられ無くなってしまう事も良くあるが、貴族の屋敷ならば部屋数には余裕がある。
故に現存している可能性が高いと踏んだのだ。残っていれば、彼女の部屋から手がかりを得られる可能性が高い。
また、無くなっていたら無くなっていたで、その時はその時である。優先であって、他の部屋を調べない訳ではない。
≪≪わかったわ≫≫
≪≪出自の記録……素性が辿れる情報を得たい。日記なんかがあればベストなんだけど≫≫
セロンはカサンドラと念話をかわしつつドアへと近づく。
取っ手を握り、ゆっくりと回して内側に引く。
廊下へのドアは静かに開かれた。
●
屋敷の二階は静寂に包まれていた。
注意深く耳をそばだて視線を走らせ、万一にも屋敷の住人に遭遇しないように注意しながら、廊下へと慎重に足を踏み出す。
黒装束姿の少年は手近な部屋の扉に近寄ると、耳をあて物音を確認してから、取っ手を掴んで回し、扉を微かにあける。
隙間から中の様子を覗い、人が存在していない事を確認、そっと開いて、素早く身を滑り込ませる。
後ろからカサンドラが続いて来て扉を静かに閉めた。
この部屋はどうやら誰かの寝室のようだった。
セロンは寝台近くに置かれているキャビネットを開き、中を手早く物色してゆく。
様々な物品に混じって覚え書き集のような帳面も出てきたが、セリーヌに関する事は記されていなかった。
あらかた部屋を捜索し終えた所で、
≪≪……この部屋には無さそうだ。次にいこう≫≫
≪≪了解≫≫
捜索の痕跡を極力消去し、次の部屋へと向かう。元よりいきなり当たりがでるとは思っていない。
屋敷内の捜索を進めてゆくセロンとカサンドラだったが、客間らしき一室を調べている最中に、複数人が言葉をかわしながら部屋に近づいて来ているのに気づいた。
≪≪不味い。誰か来る≫≫
≪≪脱出する?≫≫
まだこれといった手がかりを見つけていなかった。
折角潜入したのに、このまま去るのは惜しい。
室内へと視線を走らせる。
この客間はバルコニーへと続いているようだった。
≪≪一旦、バルコニーに隠れて様子を覗おう≫≫
≪≪わかったわ≫≫
黒装束の男女はバルコニーへと出るとガラス戸を閉め、室内からは死角となる陰にそっと身を隠した。
話し声と共に扉が開く音がして、ランプの光が室内を照らしガラス戸から外へと漏れ出て来る。
「――無作法で悪いな。何分、普段は使用人に任せているものだから」
男の声が響いた。
老いは感じないがそれなりに年齢を重ねている渋みのある声だ。
(こんな深夜に来客……?)
訝しく思いつつセロンはバルコニーのガラス戸からそっと中を覗く。
「いえ、私がこんな身だから、気にしないで。むしろ手を煩わせて悪いわね」
答える声は若々しい女のものだった。
室内には、仕立ての良い服に身を包んだ貴族らしき男と、耳の長い深緑の長衣姿の女、そして鎧下服姿で腰に剣を佩いた二人の男の姿があった。
隣でカサンドラが息を呑む気配がした。幸い、至近距離にいるセロンの耳にかろうじて届く程度の音で、大きなものではなく、中の人間達に気づかれた様子はない。
(どういう事だ……?)
セロンもまた動揺を表には出さなかったが軽く衝撃を受けていた。
貴族らしき男、これは問題無い、恐らくこの屋敷の主であるセリーヌの伯父だろう。
しかし、剣を帯びた男二名、これは見知った顔だった。
(バルドゥルとライムントじゃないか)
見えざる見張り番に所属する諜報員で、彼等はセロンと同期だった。若いが優秀だと言われている二人だ。
そして、深緑の長衣姿の女。耳が長い。恐らく、エルフだろう。
セロンはその薄桃色の唇と白い肌、顎の形などに見覚えがあった。
脳裏に浮かび上がったのは、以前、セロンへとセリーヌの家庭教師につくようにとの任務を与えたあの女使者である。
(……十中八、九、間違いない、あの女使者だ。何故、彼女がここに? ……エルフだったのか)
あの時は深くフードをかぶっていた為、顔が窺えなかったが、今はその顔を晒していた。
このエルフの女性はセリーヌの伯父と知り合いなのだろうか?
彼女は、セリーヌに関する任務を与えてきた訳だから、そのセリーヌの関係者と繋がりがあっても、そう不自然ではないが……
しかし、一体どのような関係なのだろう?
エルフ、セリーヌもエルフだ。
セロンの脳内で多種多様な可能性への想像が爆発的に張り巡らされてゆく。
≪≪セロン、ライムントとバルドゥルが≫≫
カサンドラから動揺を抑え込んでいるような念話が伝わって来た。
同期である二人の隊員はリヒテンシュタット攻防戦にも参加していた。セロンは勿論、カサンドラとも面識がある。
≪≪……あのローブ姿の女性、僕にセリーヌの任務を伝えた使者だ≫≫
≪≪えぇっ? この人が、そうなの?≫≫
≪≪あぁ≫≫
ソファーに座った彼等は、
「まぁ何はともあれ、こうして再会できて何よりだ。よくぞ無事だった」
「ええ、貴方も」
久々の再会を喜んでいるらしき挨拶をかわす。
「お前は変わらないな。ずっと若々しい」
「エルフですからね。でも貴方も若いと思うわ」
「いや、もうすっかりオジサンだよ。最近肩凝りが酷くてなぁ」
「机仕事ばかりしているからじゃないかしら? 運動が大切よ」
「気をつけてはいるんだが……」
リーンエス王国の貴族の例に漏れずヒューマンである男は、エルフの女と親しい間柄であるようだった。気軽な調子で他愛もない言葉をかわしあっている。
「そちらのお二人は帝国の?」
「ええ、護衛について貰っているの。若いけれどとても優秀な戦士達よ。こちらライムント、そちらはバルドゥル」
セリーヌの伯父がライムントとバルドゥルへ視線をやり尋ねると、女エルフは二人のヴェヒター・ヌルの隊員をそのように紹介した。
二人が一礼する。
長身の逞しい体躯を持つ金髪青年がライムントで、細身の矮躯ながら鋭い刃のように鍛えられている銀髪青年がバルドゥルだ。
二人とも授恵者である。
ライムントがウォーリアで、バルドゥルがシーフだ。
女エルフはそこまでは語らなかったが、しかしセロンは知っていた。二人ともに剣を良く使う。
会話が和やかに進んでいったが、やがて、
「――時に、セリーヌの事なんだが」
その名が出ると空気が少し変わった。
セリーヌの伯父はグラスに口をつけつつ語る。
「あの子は弓の才能を開花させつつあるらしい……親譲りだな」
女エルフはどこか誇らしげに微笑すると、
「あの子もリシルドの末裔ですもの」
夜天。
フィルエス大森林に住まうエルフ達の源流たる五氏族のうちの一つだ。
森の外に出たエルフ達もいるから、生まれがフィルエス大森林であるかはまだ確定ではないが、しかし、セリーヌは大森林にゆかり深いエルフ族の出身であるらしい。
「セリーヌは日々成長している……喜ばしい事だが、しかし、例のアレは本当に大丈夫なのかね?」
「例のアレ、というと……」
「セラン・フェルゼンブルクとかいう家庭教師の事だ」
他ならぬ自分の名前が出てきてセロンはどきりとした。
「彼は帝国が誇る精鋭特殊部隊の隊員よ。弩弓課程を首席で卒業し、部隊に配属されてからも数々の功績をあげています。その能力は信頼できるわ」
「能力、な……お前の推薦だから受け容れはしたが……本当に、その男は信用できるのか?」
「大丈夫よ。これは内密にお願いしたいのだけれど、セラン君の本名はセロンガード・シュタインドルフというの」
「シュタインドルフ? すると帝国のあの……つまりセリーヌとは……」
「そう、あの、よ。ええ、つまり、そういう事になるの」
あのってどのだよ、とセロンは思った。そういう事ってどういう事だ。
(僕の家に一体何があるっていうんだ?)
何故か、この二人はセロン本人すら心当たりの無い、シュタインドルフ家の何かの事実について知っているらしい。しかも、どうやらそれはセリーヌと関係があるのだと。
「しかし、本人は知っているのかね?」
「まだ知らないわ」
(ああ知らないよ)
その時である。
「「失礼」」
ライムントとバルドゥルが声をあげ一礼した。
直後、彼等はバルコニーへのガラス戸に向かい放たれた矢の如く駆け出した。
気づかれた? と思った瞬間にはセロンは念話を飛ばし、動き出していた。
≪≪退くよ!≫≫
≪≪ええ!≫≫
カサンドラもそのつもりだったのか即座にセロンの後を追ってくる。
黒装束姿の少年と少女はバルコニーの手摺を乗り越えると闇へと身を躍らせた。
●
「そこに誰か潜んでいたのか……? まさか、奴等か?」
セリーヌの伯父が顔色を変え、エルフの女が鋭く声を上げる。
「追って! ここは大丈夫です! 捕まえてください!」
「はっ!」
「必ずや捕縛して参ります!」
ライムントとバルドゥルは承諾の声を返し、彼等もまた軽々と手摺を跳び越え、闇中に身を躍らせた。
●
月の出ていない夜の街を漆黒の影が二つ、高速で移動している。
≪≪追ってきてる!≫≫
後方を駆けるカサンドラから念話が飛んで来た。
どうやら彼等は追っ手を放ったらしい。単独か複数かはわからないが、十中八九はバルドゥルがいる。
バルドゥルはシーフだ。疾風足を使える。セロン達よりも抜群に足が速い。
振り切るのが最上だったが、シーフのバルドゥル相手ではただ駆けるだけではそれは難しいだろう。いずれ追いつかれる。
――さて、どうする。
セロンは駆けながら考える。
普通に逃げては追いつかれるとなると、まず第一に選択肢にあがるのは迎撃だったが、相手は同じ部隊の諜報員である。まさか殺してしまう訳にはいかない。
(……正体を明かすか?)
そうしてしまうのが一番な気はする。
こちらがセロンとカサンドラだと知れば、バルドゥルも話くらいは聞いてくれるだろう、普通ならば。
こちらの正体を知れば殺そうとはすまい、普通ならば。
(しかし――)
今回のセリーヌに関する任務、何か、ひっかかるものをセロンは感じていた。
人は三人寄れば派閥が生まれるという。
バルダス皇家のもとに結束するシルトラース帝国であったが、帝国は巨大だ。決して一枚岩ではない。
それはヴェヒター・ヌルにも言えた。
あるいはもしかしたら、自分達が探りを入れていると、気づかれない方が良いのかもしれない。可能な限りは正体を伏せておきたかった。
≪≪機動力を潰す、しかる後に振り切る。後遺症が残るような大怪我はさせないように。当然、殺すのは駄目だ≫≫
≪≪……格下相手ならともかく、ヴェヒター・ヌルの精鋭相手になかなか厳しい注文ね≫≫
≪≪無理かい?≫≫
≪≪いいえ、やってみましょう!≫≫
セロンとカサンドラは駆けつつ迎撃の為の作戦を立てると、路地へと飛び込んだ。
「――だから、何かある、と?」
「逆説的だけれどね」
室内に年若い少女と少年の声が響く。
顔が映り込む程に磨かれた、深い飴色の木壁に囲まれた薄暗い一室だ。
王都に建つ酒場兼宿屋、帝国諜報部隊の息がかかっている。
橙色のほのかな灯りに照らされる薄暗い寝台の上、黒髪黒瞳の少年は胡坐をかき、愛用の弓の手入れをしながら頷いた。
十六歳の少年の背は平均よりも少し高いだろうか。鍛え絞られた精悍な体躯だ。
セロンガード・シュタインドルフである。
少年の傍ら、紺のスラックスと白の半袖ブラウス姿で、椅子に前後逆向きに跨るように座っている同年の少女は、背もたれの上に両腕を組むように置き、腕の上に形の良い白い顎を乗せていた。
カサンドラ・フォン・ベルリヒンゲンである。
薄紫色に艶やかな、真っ直ぐに長い髪の娘は、夏空色の瞳を動かし、目線をセロンへと向けて来る。
「なるほど、それで、気になるから調査にいこうという訳なの?」
「不味いかな?」
少年は緩やかな曲線を描く弓身を、柔らかい布で拭きながら問い返す。
「んー、藪蛇というのはあると思う。でも、何もわからないままぼうっとしているというのも、それはそれで危険だとも思う。どちらの選択肢にもリスクがあるなら、積極的に情報を集める方が性に合ってるかしら」
少女は思案顔で考えをまとめるように呟きつつ、
「だから、そうね、うん、賛成するわ。私はセロンの方針を支持する。危険があっても貴方がいれば大体なんとかなるでしょ」
「有難う」
「ゾフィーにはもう話したの?」
「……ゾフィーには秘密にする」
椅子の背もたれの上にうつ伏せになっているカサンドラが、もそりと顔を上げてセロンの方へと動かした。
無言の問いに対しセロンは弓の手入れを止めると顔を向け、
「キャシー、ゾフィーはセリーヌと距離が近くない?」
「……かなり親し気ではあるわね」
「だから、予想外の事態を起こす可能性がある」
これまで部隊にとって予想外の事態を数多く引き起こして来た少年は真顔で述べた。
少女は夏空色の瞳を二、三度瞬かせ、それからしみじみとした調子で、
「……貴方が言うと、重みがあるわねー」
「わーるかったねぇ。僕の得意技は独断専行と命令違反であると部隊のメモには記されているでしょうとも」
セロンが肩を竦めるとカサンドラはくすくすと笑った。
「ま、私はそんな貴方の選択に救われた一人ですけどもね。でもさ、今回は、そういうのとは状況が違くないかしら? そこまで事態は切迫してないっていうか……ゾフィーだって、予想外の行動を起こすべき時と、そうでない時の分別はつけると思うのだけれど。貴方だってなんでもかんでもに命令違反してきた訳じゃないでしょう?」
少女は小首を傾げて、
「それとも貴方、あの子がそういう決断をせざるをえないような事を、セリーヌさんの家でするつもりなの?」
セロンは表情を正すと、
「いや、そういう訳じゃない。ただ、未知の場所に潜入する訳だからさ。何が起こるかはわからない。出来る限り危険性は抑えておきたい」
「なるほど、それは、道理ね……親しくしてる後輩を探る為にその家に忍び込むとか本人にもストレスかかるでしょうし……確かに、私達だけでやった方が、ゾフィーにとっても良いのかしら……?」
思案しつつ、カサンドラは頷いたのだった。
●
月の出ない夜。
遠くで犬が吼えている。
夜陰に紛れ、屋根の上を密やかに、しかし素早く移動している影が二つあった。
漆黒の装束に全身を包み覆面をつけ背負い袋を負った男女――セロンとカサンドラである。
二人は、さる中立的な貴族派に属する王国貴族の屋敷へとやってきていた。
セリーヌの伯父の屋敷だ。
調査によれば、彼が身寄りのないセリーヌを引き取って衣食住の面倒を見ているのだという。
黒装束姿のセロンはカサンドラと共に暗天の下、密やかに屋根を移動し、屋敷の隅の部屋の上部へと辿り着いた。
屋根に耳をあてて澄ませ、物音などから室内に人がいるかいないかを探る。
やがて少年と少女は視線を交わし頷いた。セロンはカサンドラの腰ベルトに器具が付いたロープを留めると、ロープが少し撓むように両手で掴む。
そしてカサンドラは屋根上から身を乗り出し、セロンが支えるロープにぶらさがる。ゆっくりと窓の横へと降りてゆく。
宙ぶらりの少女は、腰にくくりつけてある容器から粘土のようなものを取り出した。手早く窓ガラスへと張り付けてゆく。
張り付け終わると、手袋を嵌めた左手を粘土の中に沈め、右手で太腿に巻いた革ベルトの鞘からナイフを引き抜く。
しばしの間を置いてから、少女はナイフにエーテルを纏わせ、粘土越しにナイフを突き入れた。
凶悪な切れ味を帯びる白刃を、音も立てずに滑らせ、ガラスを粘土ごと切り裂いてゆく。
やがてカサンドラは、太腿の鞘にナイフを納めると、粘土の中に沈めていた左手を引くように動かした。
手に粘着している粘土ごとガラスがパカリと外れ、窓に穴が空く。
≪≪上手くいったわ≫≫
≪≪了解、一旦上げる≫≫
二人はテレパスで念話をかわし、セロンはロープを引いて少女をひっぱり上げる。
なおカサンドラは小柄でスタイルの良い少女だったが、セロンの両腕に伝わる重量はそれなりのものがあった。少なくとも三十後半キロか四十キロ以上はあるだろう。健康的な人間だったらそんなものだが、これを上げ下げするのは一仕事である。
セロンにひっぱり上げられた小柄な少女は、ガラス付き粘土に接着している手袋を外して、背負い袋に詰めると袋を再び背負った。再度ロープにぶらさがって窓ガラスのもとまで降りると、生じた穴より腕を滑り込ませ鍵を外す。
少女は静かに窓を開け、部屋の中へと起伏豊かな肢体をするりと滑り込ませてゆく。
屋根上から身を乗り出してその様子を確認していたセロンは、背負い袋からフック付きロープを取り出すと屋根に引っ掛け、ロープを壁伝いにつたい、彼もまた空いた窓から室内へと滑り込んだ。
部屋の中は闇に包まれていたが、セロンは『暗視』の能力により昼と遜色なく室内の様子が見えていた。授恵者の力だ。
部屋は来客用の寝室のようだった。掃除は行き届いているが、私物が無く、普段使われているような形跡が無い。
≪≪よし、まずは予定通りセリーヌの部屋を優先的に探そう≫≫
現在、セリーヌは学園の寮に移っているが、自室は残されているだろうと踏んだのだ。
狭い家なら、出て行った子供の部屋は他の用途にあてられ無くなってしまう事も良くあるが、貴族の屋敷ならば部屋数には余裕がある。
故に現存している可能性が高いと踏んだのだ。残っていれば、彼女の部屋から手がかりを得られる可能性が高い。
また、無くなっていたら無くなっていたで、その時はその時である。優先であって、他の部屋を調べない訳ではない。
≪≪わかったわ≫≫
≪≪出自の記録……素性が辿れる情報を得たい。日記なんかがあればベストなんだけど≫≫
セロンはカサンドラと念話をかわしつつドアへと近づく。
取っ手を握り、ゆっくりと回して内側に引く。
廊下へのドアは静かに開かれた。
●
屋敷の二階は静寂に包まれていた。
注意深く耳をそばだて視線を走らせ、万一にも屋敷の住人に遭遇しないように注意しながら、廊下へと慎重に足を踏み出す。
黒装束姿の少年は手近な部屋の扉に近寄ると、耳をあて物音を確認してから、取っ手を掴んで回し、扉を微かにあける。
隙間から中の様子を覗い、人が存在していない事を確認、そっと開いて、素早く身を滑り込ませる。
後ろからカサンドラが続いて来て扉を静かに閉めた。
この部屋はどうやら誰かの寝室のようだった。
セロンは寝台近くに置かれているキャビネットを開き、中を手早く物色してゆく。
様々な物品に混じって覚え書き集のような帳面も出てきたが、セリーヌに関する事は記されていなかった。
あらかた部屋を捜索し終えた所で、
≪≪……この部屋には無さそうだ。次にいこう≫≫
≪≪了解≫≫
捜索の痕跡を極力消去し、次の部屋へと向かう。元よりいきなり当たりがでるとは思っていない。
屋敷内の捜索を進めてゆくセロンとカサンドラだったが、客間らしき一室を調べている最中に、複数人が言葉をかわしながら部屋に近づいて来ているのに気づいた。
≪≪不味い。誰か来る≫≫
≪≪脱出する?≫≫
まだこれといった手がかりを見つけていなかった。
折角潜入したのに、このまま去るのは惜しい。
室内へと視線を走らせる。
この客間はバルコニーへと続いているようだった。
≪≪一旦、バルコニーに隠れて様子を覗おう≫≫
≪≪わかったわ≫≫
黒装束の男女はバルコニーへと出るとガラス戸を閉め、室内からは死角となる陰にそっと身を隠した。
話し声と共に扉が開く音がして、ランプの光が室内を照らしガラス戸から外へと漏れ出て来る。
「――無作法で悪いな。何分、普段は使用人に任せているものだから」
男の声が響いた。
老いは感じないがそれなりに年齢を重ねている渋みのある声だ。
(こんな深夜に来客……?)
訝しく思いつつセロンはバルコニーのガラス戸からそっと中を覗く。
「いえ、私がこんな身だから、気にしないで。むしろ手を煩わせて悪いわね」
答える声は若々しい女のものだった。
室内には、仕立ての良い服に身を包んだ貴族らしき男と、耳の長い深緑の長衣姿の女、そして鎧下服姿で腰に剣を佩いた二人の男の姿があった。
隣でカサンドラが息を呑む気配がした。幸い、至近距離にいるセロンの耳にかろうじて届く程度の音で、大きなものではなく、中の人間達に気づかれた様子はない。
(どういう事だ……?)
セロンもまた動揺を表には出さなかったが軽く衝撃を受けていた。
貴族らしき男、これは問題無い、恐らくこの屋敷の主であるセリーヌの伯父だろう。
しかし、剣を帯びた男二名、これは見知った顔だった。
(バルドゥルとライムントじゃないか)
見えざる見張り番に所属する諜報員で、彼等はセロンと同期だった。若いが優秀だと言われている二人だ。
そして、深緑の長衣姿の女。耳が長い。恐らく、エルフだろう。
セロンはその薄桃色の唇と白い肌、顎の形などに見覚えがあった。
脳裏に浮かび上がったのは、以前、セロンへとセリーヌの家庭教師につくようにとの任務を与えたあの女使者である。
(……十中八、九、間違いない、あの女使者だ。何故、彼女がここに? ……エルフだったのか)
あの時は深くフードをかぶっていた為、顔が窺えなかったが、今はその顔を晒していた。
このエルフの女性はセリーヌの伯父と知り合いなのだろうか?
彼女は、セリーヌに関する任務を与えてきた訳だから、そのセリーヌの関係者と繋がりがあっても、そう不自然ではないが……
しかし、一体どのような関係なのだろう?
エルフ、セリーヌもエルフだ。
セロンの脳内で多種多様な可能性への想像が爆発的に張り巡らされてゆく。
≪≪セロン、ライムントとバルドゥルが≫≫
カサンドラから動揺を抑え込んでいるような念話が伝わって来た。
同期である二人の隊員はリヒテンシュタット攻防戦にも参加していた。セロンは勿論、カサンドラとも面識がある。
≪≪……あのローブ姿の女性、僕にセリーヌの任務を伝えた使者だ≫≫
≪≪えぇっ? この人が、そうなの?≫≫
≪≪あぁ≫≫
ソファーに座った彼等は、
「まぁ何はともあれ、こうして再会できて何よりだ。よくぞ無事だった」
「ええ、貴方も」
久々の再会を喜んでいるらしき挨拶をかわす。
「お前は変わらないな。ずっと若々しい」
「エルフですからね。でも貴方も若いと思うわ」
「いや、もうすっかりオジサンだよ。最近肩凝りが酷くてなぁ」
「机仕事ばかりしているからじゃないかしら? 運動が大切よ」
「気をつけてはいるんだが……」
リーンエス王国の貴族の例に漏れずヒューマンである男は、エルフの女と親しい間柄であるようだった。気軽な調子で他愛もない言葉をかわしあっている。
「そちらのお二人は帝国の?」
「ええ、護衛について貰っているの。若いけれどとても優秀な戦士達よ。こちらライムント、そちらはバルドゥル」
セリーヌの伯父がライムントとバルドゥルへ視線をやり尋ねると、女エルフは二人のヴェヒター・ヌルの隊員をそのように紹介した。
二人が一礼する。
長身の逞しい体躯を持つ金髪青年がライムントで、細身の矮躯ながら鋭い刃のように鍛えられている銀髪青年がバルドゥルだ。
二人とも授恵者である。
ライムントがウォーリアで、バルドゥルがシーフだ。
女エルフはそこまでは語らなかったが、しかしセロンは知っていた。二人ともに剣を良く使う。
会話が和やかに進んでいったが、やがて、
「――時に、セリーヌの事なんだが」
その名が出ると空気が少し変わった。
セリーヌの伯父はグラスに口をつけつつ語る。
「あの子は弓の才能を開花させつつあるらしい……親譲りだな」
女エルフはどこか誇らしげに微笑すると、
「あの子もリシルドの末裔ですもの」
夜天。
フィルエス大森林に住まうエルフ達の源流たる五氏族のうちの一つだ。
森の外に出たエルフ達もいるから、生まれがフィルエス大森林であるかはまだ確定ではないが、しかし、セリーヌは大森林にゆかり深いエルフ族の出身であるらしい。
「セリーヌは日々成長している……喜ばしい事だが、しかし、例のアレは本当に大丈夫なのかね?」
「例のアレ、というと……」
「セラン・フェルゼンブルクとかいう家庭教師の事だ」
他ならぬ自分の名前が出てきてセロンはどきりとした。
「彼は帝国が誇る精鋭特殊部隊の隊員よ。弩弓課程を首席で卒業し、部隊に配属されてからも数々の功績をあげています。その能力は信頼できるわ」
「能力、な……お前の推薦だから受け容れはしたが……本当に、その男は信用できるのか?」
「大丈夫よ。これは内密にお願いしたいのだけれど、セラン君の本名はセロンガード・シュタインドルフというの」
「シュタインドルフ? すると帝国のあの……つまりセリーヌとは……」
「そう、あの、よ。ええ、つまり、そういう事になるの」
あのってどのだよ、とセロンは思った。そういう事ってどういう事だ。
(僕の家に一体何があるっていうんだ?)
何故か、この二人はセロン本人すら心当たりの無い、シュタインドルフ家の何かの事実について知っているらしい。しかも、どうやらそれはセリーヌと関係があるのだと。
「しかし、本人は知っているのかね?」
「まだ知らないわ」
(ああ知らないよ)
その時である。
「「失礼」」
ライムントとバルドゥルが声をあげ一礼した。
直後、彼等はバルコニーへのガラス戸に向かい放たれた矢の如く駆け出した。
気づかれた? と思った瞬間にはセロンは念話を飛ばし、動き出していた。
≪≪退くよ!≫≫
≪≪ええ!≫≫
カサンドラもそのつもりだったのか即座にセロンの後を追ってくる。
黒装束姿の少年と少女はバルコニーの手摺を乗り越えると闇へと身を躍らせた。
●
「そこに誰か潜んでいたのか……? まさか、奴等か?」
セリーヌの伯父が顔色を変え、エルフの女が鋭く声を上げる。
「追って! ここは大丈夫です! 捕まえてください!」
「はっ!」
「必ずや捕縛して参ります!」
ライムントとバルドゥルは承諾の声を返し、彼等もまた軽々と手摺を跳び越え、闇中に身を躍らせた。
●
月の出ていない夜の街を漆黒の影が二つ、高速で移動している。
≪≪追ってきてる!≫≫
後方を駆けるカサンドラから念話が飛んで来た。
どうやら彼等は追っ手を放ったらしい。単独か複数かはわからないが、十中八九はバルドゥルがいる。
バルドゥルはシーフだ。疾風足を使える。セロン達よりも抜群に足が速い。
振り切るのが最上だったが、シーフのバルドゥル相手ではただ駆けるだけではそれは難しいだろう。いずれ追いつかれる。
――さて、どうする。
セロンは駆けながら考える。
普通に逃げては追いつかれるとなると、まず第一に選択肢にあがるのは迎撃だったが、相手は同じ部隊の諜報員である。まさか殺してしまう訳にはいかない。
(……正体を明かすか?)
そうしてしまうのが一番な気はする。
こちらがセロンとカサンドラだと知れば、バルドゥルも話くらいは聞いてくれるだろう、普通ならば。
こちらの正体を知れば殺そうとはすまい、普通ならば。
(しかし――)
今回のセリーヌに関する任務、何か、ひっかかるものをセロンは感じていた。
人は三人寄れば派閥が生まれるという。
バルダス皇家のもとに結束するシルトラース帝国であったが、帝国は巨大だ。決して一枚岩ではない。
それはヴェヒター・ヌルにも言えた。
あるいはもしかしたら、自分達が探りを入れていると、気づかれない方が良いのかもしれない。可能な限りは正体を伏せておきたかった。
≪≪機動力を潰す、しかる後に振り切る。後遺症が残るような大怪我はさせないように。当然、殺すのは駄目だ≫≫
≪≪……格下相手ならともかく、ヴェヒター・ヌルの精鋭相手になかなか厳しい注文ね≫≫
≪≪無理かい?≫≫
≪≪いいえ、やってみましょう!≫≫
セロンとカサンドラは駆けつつ迎撃の為の作戦を立てると、路地へと飛び込んだ。