解呪 02
四ノ月血戦 イベントノベル(テーマ)薔薇の氏族制作 九弐ニデル納品 2025年05月06日 07時17分30秒
ナハティガル=ラーがこの別荘地に来たのは1週間ほど前だった。“頼りがいのある誠実な吸血鬼狩り”が“強力な吸血鬼を討伐”する……表向きは吸血鬼が1体滅びるだけであり、真の依頼主が誰であるかはどうでもよい。兄ドライデン=ツヴァイの力は増し、何も知らない人間も喜ぶ。ナハティガルにとって、長らく行動の目的はその前者であり、後者は顧みる価値もないものであった。
なぜなら人間は愚かで、脆く、哀れな生き物であるから……そのことを己に教えたのは兄だったか、それとも心を凍り付かせておくために自ら唱えた呪文だったのか、風化したそれの署名はもう読めなかった。
ここにきてすぐの日、遊歩道を歩いていたナハティガルは少年がひとり高い枝の上で青い顔をしているのを見つけた。隣の納屋から乗り移って身動きできなくなったものらしい。彼は迷うことなく木に飛びつき、少年を片手で担いで飛び降りた。並みの人間には難しい――だが、“赤い翼”様なら朝飯前。彼はもう、そんな風評など簡単に作れるほどの実績を備えていた。
「ありがとう、ありがとう……」
少年は使用人の子らしかった。納屋の中にいた耳の遠い老爺は孫を抱きしめて涙した。駆けつけてきた母親に大目玉をくった少年は、泣き顔になった次の瞬間にはくすぐったそうに駆け出していく。何度も礼を言う大人たちに、ナハティガルは軽く頷いて道に戻った。
「大事無くて何よりだ」
あの少年が今日木から落ちなくとも、あと5年生きている可能性はどのくらいあるものか。人間の儚さをよく知る彼はしばらく考えていた。彼らがしがみついている一瞬。通りすがっただけのお互いへの執着。わずかな触れ合いへの依存。
――それでよい……
塔の扉を壊したとき。己が考えていたのもそれではなかったか。遅すぎたにしろ、兄との間に育つべき愛情、あるいはふたり手を取り、世界に羽ばたく自由……
彼が白い鴉を出現させたのは、それから数日後。事前の報告書を兄に送るための召喚だった。喚ばれるはずだった使い魔は、兄の手ほどきで形をとったものだ。これまで、異なるものを喚ぼうとも、喚べるとも思わなかった。だが、どうやってもそれは馴染んだ姿に変化することはなかった。ただ、元と同じ眼帯だけが全ての証明のように思われた。
――これが、俺の意志だ、と。
溶けてしまった氷は戻らない。
それは、もう隠しておくことはできないのだと、彼のなかの人間があげた叫びだった。
吸血鬼に喰われる人間。人間に狩られる吸血鬼。それは単なる食物連鎖とその反撃を超えて、不毛で無意味な永遠の戦いへとあらゆる者を押し流している。それにどれだけの人間の温もりが懸けられたのか。あるいは、吸血鬼も。そしていつか、己も、兄も。
――終わらせたい。
そのために、あれは必要な儀式だったのだろう。兄は必ず白い鴉の真意に気が付く。己はもはや、兄の猟犬ではない、と。1人の独立したひとである、と。再び目覚めた彼は、自らの生き場所は人の間であると知っていた。茨の道であることが火を見るより明らかであっても、そこより他に彼の望みはなかった。
白い鴉の懐には、予想通りの報告書が入っていた。
ドライデンはそれを確かめ、黒鴉を腕にとめたまま椅子に戻った。
無知な弟が、それゆえに己に続けている贖罪は、いつの間にか彼に満足を与えなくなっていた。それは、彼自身もまた無知だったと気が付いてしまった、ずっと昔のいつかからだった。
――復讐を望んでいたはずだった。
弟に苦汁を飲ませ、かつ、己を世界から閉ざした愚劣な人間どもも、己の道を塞ぐ傲慢な同族も全て排除する。その全てを達成するこのやり方は完璧なはずだった。だが。
――あの塔から見ていた景色は、これではなかった。
弟が侍女に連れられて行った背中。馬で早駆けしていった横顔。貴族の子女同士の散策に付き合う身振り。そこに幻視していたのは、泥まみれになりみすぼらしく鞭うたれる弟ではなかった。ただ、その隣にある己の姿だったのだと……ドライデンはいまや理解していた。
――だが最早叶わぬこと。
己の真の望みを、ドライデンは叫ぶつもりもなかった。彼にはすでに吸血鬼として護るべきものがあった。そして弟は……目を上げれば、白い鴉はまだ消えることなく窓辺にいる。弟は、ひとであろうとしているのだろう。それはつまり、弟も彼と同じ望みに達した、ということか。
共に生きること。
自由な空の下にあること。
否、弟が想うのはもっと広い意味だろう。人間と吸血鬼が。ひととして。
――だが、それこそは……最早。
相容れない二つの道が再び交わる時があるのなら。“忌み子”は“嫡男”に遣るはずだった手紙を握り、灰に変えた。代わりに何も書かない紙を封じ入れ、放つ。
――その時に。再会しよう、ナハティガル。
シニストラが宵の空に消えてゆく。ドライデンはそれをいつまでも見つめていた。
なぜなら人間は愚かで、脆く、哀れな生き物であるから……そのことを己に教えたのは兄だったか、それとも心を凍り付かせておくために自ら唱えた呪文だったのか、風化したそれの署名はもう読めなかった。
ここにきてすぐの日、遊歩道を歩いていたナハティガルは少年がひとり高い枝の上で青い顔をしているのを見つけた。隣の納屋から乗り移って身動きできなくなったものらしい。彼は迷うことなく木に飛びつき、少年を片手で担いで飛び降りた。並みの人間には難しい――だが、“赤い翼”様なら朝飯前。彼はもう、そんな風評など簡単に作れるほどの実績を備えていた。
「ありがとう、ありがとう……」
少年は使用人の子らしかった。納屋の中にいた耳の遠い老爺は孫を抱きしめて涙した。駆けつけてきた母親に大目玉をくった少年は、泣き顔になった次の瞬間にはくすぐったそうに駆け出していく。何度も礼を言う大人たちに、ナハティガルは軽く頷いて道に戻った。
「大事無くて何よりだ」
あの少年が今日木から落ちなくとも、あと5年生きている可能性はどのくらいあるものか。人間の儚さをよく知る彼はしばらく考えていた。彼らがしがみついている一瞬。通りすがっただけのお互いへの執着。わずかな触れ合いへの依存。
――それでよい……
塔の扉を壊したとき。己が考えていたのもそれではなかったか。遅すぎたにしろ、兄との間に育つべき愛情、あるいはふたり手を取り、世界に羽ばたく自由……
彼が白い鴉を出現させたのは、それから数日後。事前の報告書を兄に送るための召喚だった。喚ばれるはずだった使い魔は、兄の手ほどきで形をとったものだ。これまで、異なるものを喚ぼうとも、喚べるとも思わなかった。だが、どうやってもそれは馴染んだ姿に変化することはなかった。ただ、元と同じ眼帯だけが全ての証明のように思われた。
――これが、俺の意志だ、と。
溶けてしまった氷は戻らない。
それは、もう隠しておくことはできないのだと、彼のなかの人間があげた叫びだった。
吸血鬼に喰われる人間。人間に狩られる吸血鬼。それは単なる食物連鎖とその反撃を超えて、不毛で無意味な永遠の戦いへとあらゆる者を押し流している。それにどれだけの人間の温もりが懸けられたのか。あるいは、吸血鬼も。そしていつか、己も、兄も。
――終わらせたい。
そのために、あれは必要な儀式だったのだろう。兄は必ず白い鴉の真意に気が付く。己はもはや、兄の猟犬ではない、と。1人の独立したひとである、と。再び目覚めた彼は、自らの生き場所は人の間であると知っていた。茨の道であることが火を見るより明らかであっても、そこより他に彼の望みはなかった。
白い鴉の懐には、予想通りの報告書が入っていた。
ドライデンはそれを確かめ、黒鴉を腕にとめたまま椅子に戻った。
無知な弟が、それゆえに己に続けている贖罪は、いつの間にか彼に満足を与えなくなっていた。それは、彼自身もまた無知だったと気が付いてしまった、ずっと昔のいつかからだった。
――復讐を望んでいたはずだった。
弟に苦汁を飲ませ、かつ、己を世界から閉ざした愚劣な人間どもも、己の道を塞ぐ傲慢な同族も全て排除する。その全てを達成するこのやり方は完璧なはずだった。だが。
――あの塔から見ていた景色は、これではなかった。
弟が侍女に連れられて行った背中。馬で早駆けしていった横顔。貴族の子女同士の散策に付き合う身振り。そこに幻視していたのは、泥まみれになりみすぼらしく鞭うたれる弟ではなかった。ただ、その隣にある己の姿だったのだと……ドライデンはいまや理解していた。
――だが最早叶わぬこと。
己の真の望みを、ドライデンは叫ぶつもりもなかった。彼にはすでに吸血鬼として護るべきものがあった。そして弟は……目を上げれば、白い鴉はまだ消えることなく窓辺にいる。弟は、ひとであろうとしているのだろう。それはつまり、弟も彼と同じ望みに達した、ということか。
共に生きること。
自由な空の下にあること。
否、弟が想うのはもっと広い意味だろう。人間と吸血鬼が。ひととして。
――だが、それこそは……最早。
相容れない二つの道が再び交わる時があるのなら。“忌み子”は“嫡男”に遣るはずだった手紙を握り、灰に変えた。代わりに何も書かない紙を封じ入れ、放つ。
――その時に。再会しよう、ナハティガル。
シニストラが宵の空に消えてゆく。ドライデンはそれをいつまでも見つめていた。