解呪 01
四ノ月血戦 イベントノベル(テーマ)薔薇の氏族制作 九弐ニデル納品 2025年05月06日 07時16分53秒
己は兄の猟犬として生きる。命じられるがまま、盲目のまま。ナハティガル=ラーがそう決めたのは、初めて目覚めたあの夜のことだった。まだ燃えている屋敷を前に、兄は彼に背を向け己の使い魔を遊ばせていた。ナハティガルは、兄がこちらを振り向く前に起き上がり、自然と膝をついていた。それは忠誠を誓う片膝ではなく、赦しを乞う両膝だった。
あの時、己の“人としての全て”は失われてしまった。それが、当然だった。そもそも己のものかも怪しかったのだ。だが……ただしく“失う”ことを選んだ兄は。なぜ、魔に堕ちたのか。
――俺が、もっと早くに。もっと真摯に。俺だけはそれができたはずだった。
数百回。数千回。あるいはもっと。何度思い返してみても、ナハティガルにはその結論しか巡ってはこなかった。だから、彼は今日も猟犬であることを自らに課している。己をも魔に堕とした兄からの赦しを得られるまで、そう自らを呪い続けて。
――だがそれも、今晩で終わりだったのかも、しれない。
彼は己が呼び出した使い魔をまじまじと眺めた。そして、しばらくしていつも通りに報告書を託しそれを放った。
ドライデン=ツヴァイのもとには、弟自身からの報告よりも素早くその戦果が集まる。前回は北エノンの森の鹿の王、その前はアール川砦のハジッド伯、もう一つ前はタプサの血妃アメラウィント……彼の障害となるこれら同族は、いずれ名だたる小氏族の長たち、人間たちが躍起になって討滅を試みては失敗してきた古き者ども。その死は大きな混乱を引き起こすのが常だった。無論表面上は隠されているが、それを感知できないようでは闇の貴族たる黒薔薇竜の名はこれほどまでに恐れられはしない。
弟、ナハティガルとてそんなことは百も承知のはずだ。それでも彼は、吸血鬼狩りとして彼が狩ったそれらの顛末を、依頼主である兄に律儀に知らせてくる。吸血鬼の身で人間に紛れ、こそこそと残飯を漁る犬のように血を求め、愚かな民衆に外面で奉仕させられるあの弟は、ドライデンが血を分けた数百年の昔からずっと哀れで忠実な彼の猟犬として首輪を付けられていた。
――まだだ、まだ……
ドライデンは次の標的をすでに定めている。その者の居城の様子も、取り巻きの人数も、食事の好みも、彼はこの城の高い塔の執務室に居ながらにして何もかもを知っている。彼はそれらを細かに示した手紙を認めたところだった。3度手を打ち、使い魔のシニストラを呼ぶ。体に手紙を封じ、彼は送り出す先である弟の居場所を思い起こした。彼は今、ある郊外の別荘地に“高名な吸血鬼狩り”として招かれ逗留している。今夜あたり、事前の報告がありそうだった。
――結局何も……変わっていない。
その別荘地は、イルミテラでも有数の風光明媚な土地だった。人間どもは広い草原を馬で駆け、豊かな土壌で果樹や美しい花を育て、あたたかな気候に育まれたさまざまな動物を狩り、笑いさんざめいて暮らしていた。そこに吸血鬼の偉大なる暗い影がときおり過ぎるといえど、彼らの営みは大きく変わらない。弟はそのなかを、旅装のマントを靡かせ、深くかぶったフードのなかに草いきれを吸い込みながら歩いているのだろう。まるで、ドライデンがあの塔からその姿を見つけた時と同じように。自由に。
初めは弟がいることなど知らなかった。当然だ、彼が幽閉されたのは生まれた翌日だった。おそらく5年かそこらの後、その姿を……塔に近づいた彼を若い女が慌てて追いかけ、抱きかかえるように連れて行くのを見た。あれは母ではなかっただろうが、ふっくらした白い腕と首筋に包まれるのはどういう気持ちだろうかと、彼らが消えた道をずっと眺めていた。その向こうにある大きな建物が本来の己の住居なのだと知ったのはそこからさらに数年後だ。その頃には、己と同じ髪色をしたあれが弟だと確信していた。“あれはお前の弟だ”。声がそう教えてくれたからだった。
声は決まって月の明るい夜に聞こえてきた。“あれはお前のようには賢くない……誰も教えてやろうとしないから”。“お前には全て教えてやろう。誇り高くあるように。貴き者の責務を全うできるように”。“全てはあのお方のために”。彼は導きの通りに賢くなった。貴族に相応しい振る舞いと、語りと、騙りを手に入れた。そして、同じだけの憎しみを育てた。彼があらかじめ奪われていた、自由と愛を享受する弟へ。何も知らない、知ろうとしない、彼のうつくしき無垢さと残酷さへ。
――だから穢した。穢し続けている。だが……
ドライデンはシニストラを放とうとして、窓辺に降りた新たな羽音にわずかに眉を上げた。とまっていたのは、右眼に眼帯をした真っ白な鴉であった。
あの時、己の“人としての全て”は失われてしまった。それが、当然だった。そもそも己のものかも怪しかったのだ。だが……ただしく“失う”ことを選んだ兄は。なぜ、魔に堕ちたのか。
――俺が、もっと早くに。もっと真摯に。俺だけはそれができたはずだった。
数百回。数千回。あるいはもっと。何度思い返してみても、ナハティガルにはその結論しか巡ってはこなかった。だから、彼は今日も猟犬であることを自らに課している。己をも魔に堕とした兄からの赦しを得られるまで、そう自らを呪い続けて。
――だがそれも、今晩で終わりだったのかも、しれない。
彼は己が呼び出した使い魔をまじまじと眺めた。そして、しばらくしていつも通りに報告書を託しそれを放った。
ドライデン=ツヴァイのもとには、弟自身からの報告よりも素早くその戦果が集まる。前回は北エノンの森の鹿の王、その前はアール川砦のハジッド伯、もう一つ前はタプサの血妃アメラウィント……彼の障害となるこれら同族は、いずれ名だたる小氏族の長たち、人間たちが躍起になって討滅を試みては失敗してきた古き者ども。その死は大きな混乱を引き起こすのが常だった。無論表面上は隠されているが、それを感知できないようでは闇の貴族たる黒薔薇竜の名はこれほどまでに恐れられはしない。
弟、ナハティガルとてそんなことは百も承知のはずだ。それでも彼は、吸血鬼狩りとして彼が狩ったそれらの顛末を、依頼主である兄に律儀に知らせてくる。吸血鬼の身で人間に紛れ、こそこそと残飯を漁る犬のように血を求め、愚かな民衆に外面で奉仕させられるあの弟は、ドライデンが血を分けた数百年の昔からずっと哀れで忠実な彼の猟犬として首輪を付けられていた。
――まだだ、まだ……
ドライデンは次の標的をすでに定めている。その者の居城の様子も、取り巻きの人数も、食事の好みも、彼はこの城の高い塔の執務室に居ながらにして何もかもを知っている。彼はそれらを細かに示した手紙を認めたところだった。3度手を打ち、使い魔のシニストラを呼ぶ。体に手紙を封じ、彼は送り出す先である弟の居場所を思い起こした。彼は今、ある郊外の別荘地に“高名な吸血鬼狩り”として招かれ逗留している。今夜あたり、事前の報告がありそうだった。
――結局何も……変わっていない。
その別荘地は、イルミテラでも有数の風光明媚な土地だった。人間どもは広い草原を馬で駆け、豊かな土壌で果樹や美しい花を育て、あたたかな気候に育まれたさまざまな動物を狩り、笑いさんざめいて暮らしていた。そこに吸血鬼の偉大なる暗い影がときおり過ぎるといえど、彼らの営みは大きく変わらない。弟はそのなかを、旅装のマントを靡かせ、深くかぶったフードのなかに草いきれを吸い込みながら歩いているのだろう。まるで、ドライデンがあの塔からその姿を見つけた時と同じように。自由に。
初めは弟がいることなど知らなかった。当然だ、彼が幽閉されたのは生まれた翌日だった。おそらく5年かそこらの後、その姿を……塔に近づいた彼を若い女が慌てて追いかけ、抱きかかえるように連れて行くのを見た。あれは母ではなかっただろうが、ふっくらした白い腕と首筋に包まれるのはどういう気持ちだろうかと、彼らが消えた道をずっと眺めていた。その向こうにある大きな建物が本来の己の住居なのだと知ったのはそこからさらに数年後だ。その頃には、己と同じ髪色をしたあれが弟だと確信していた。“あれはお前の弟だ”。声がそう教えてくれたからだった。
声は決まって月の明るい夜に聞こえてきた。“あれはお前のようには賢くない……誰も教えてやろうとしないから”。“お前には全て教えてやろう。誇り高くあるように。貴き者の責務を全うできるように”。“全てはあのお方のために”。彼は導きの通りに賢くなった。貴族に相応しい振る舞いと、語りと、騙りを手に入れた。そして、同じだけの憎しみを育てた。彼があらかじめ奪われていた、自由と愛を享受する弟へ。何も知らない、知ろうとしない、彼のうつくしき無垢さと残酷さへ。
――だから穢した。穢し続けている。だが……
ドライデンはシニストラを放とうとして、窓辺に降りた新たな羽音にわずかに眉を上げた。とまっていたのは、右眼に眼帯をした真っ白な鴉であった。