宵闇の双翼
四ノ月血戦 イベントノベル(テーマ)薔薇の氏族制作 九弐ニデル納品 2025年04月08日 17時59分04秒
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その男は、赤い翼と呼ばれている。貴族街に近いベリシア通りにねぐらを持ち、無愛想ながらも下町の住人にも敬意を持たれている赤の吸血鬼狩り、ナハティガル=ラー。彼は懇意の聖職者との会合帰り、日が沈んでしまったところのシーグ街を早足で抜けていた。
酒臭い男が彼にぶつかりそうになりながら、蒼白な顔で走っていく。このあたりは貧民が多い。いくら安全のために夜は出歩くなと教会が注意喚起しても、生活のかかった彼らを止めることは難しかった。それにしても、さっきの男の様子は違ったようだが。足を止めていた彼がまた歩き出したとき。
「“赤い翼”様! あなたさま、“赤い翼”様でしょうね!」
髪を振り乱した女が彼の服を掴んだ。
助けてください助けてください、神よ、ルビーをお守りください……震えて膝をつく女を抱えて座らせると、女は男が消えた方を指して言った。
「酒屋に行ったはずのルビーが、帰ってこないの……」
女が不在の宵に、男が女の娘を使いに出してしまった。さっきの飲んだくれは女に叩き出されて目が覚めたものらしい。ナハティガルは女の差し出したメダイを受け取ると、来た道を引き返した。
だが筋を3つ越えたところで、彼の敏感な鼻に状況はすぐ知れた。
仰向けに倒れた男は首の骨をへし折られている。その奥では、すっかり血の気を失った少女がすでに事切れていた。少女の首には母親と揃いのメダイが掛かっている。ナハティガルは折よく通りかかった聖騎士団の警邏に顛末を伝えると、母親のメダイを預け足早に去った。
衆目の中で血の匂いを嗅ぐのは、ナハティガルにとって好ましくなかった。
ねぐらに帰りつき厳重に錠を下ろした彼は、帽子も取らずに地下に掘った貯蔵庫に腕を差し入れた。酒好きを装った多くの酒瓶の中から特別な封をしたひとつを拾う。小さな呟きは、開封の呪術。中身を一気に煽った彼は長い息を吐いた。
椅子で手足を伸ばし、体の端から端まで血の巡るのを愉しんでいた彼の耳に、窓を叩く高い音が届いたのはそれからすぐ。瓶の底に残ったものを名残惜しく味わい、彼は窓を開いた。
桟に留まっていたのは予想通り、左眼に眼帯をした鴉だった。呪術をもってその体内を探り、彼は小さな書面を得た。開く時、指先に火傷に似た小さな痛みがある。さっきのメダイに掛かっていた祝福のせいだった。この程度で何を守るつもりだったのか、彼の腕にはまだ少女の体の軽さが残っている。だから人間はいつまでも愚かで、弱く、何事も成し得ない……にもかかわらず、人間は吸血鬼に楯突く。どれだけ夜が危険であろうと、目を盗んで、あるいは無謀にも飛び出す。聖句で頭をいっぱいにして、狙いも定まらぬ銃を撃つ。彼が生まれた時にはすでにそうだった。彼が産まれた時にもすでにそうだった。誰も覚えていない昔からそうだったのだろう。いったい――
彼は思索を中断し、兄からの手紙を読み始めた。
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黒薔薇竜として知られる彼――ドライデン=ツヴァイは、薔薇の氏族の一員であった。多くの吸血鬼や聖職者は、彼をその剣術によって恐れているが、正しく評価するごく一部の者はその策略によって彼を認めていた。
静まり返った古城の一室で、彼は密偵たちの報告を受けていた。昨日知った話が今日書き換わることなど珍しくないこの戦いの場は、彼にとっては重苦しいものではない。どちらが知っているか、どちらが考えているか、どちらが理解しているか、どちらがつぎ込んだか。その天秤は正直だ。ならば――
「“戦う前に勝つ”ことこそが闇の貴族の嗜み」
呟いて、使い魔を呼ぶ。鴉のシニストラに書面を持たせて背を叩けば、それは弟の住む人間の街、ベリシア通りに一直線に飛んでいった。
彼が双子の弟を人間の間に送り込んだのは、ある赤の吸血鬼狩りの抹殺のためだ。幾重にも巡らせた策の、重要な駒。彼の策略は慎重だ。弟のような“剣”と同時に、裏では多くの“盾”を重ねている。秘密を守るものは多くないほうが好ましいが、人間側にも弟を助ける協力者がいる。意志も肉体も薄弱な人間は不確定要素だが、それらの動きは逐一彼に流れ込んでくる。彼と、盃を交わした薔薇の氏族の盟友に仇なす存在は人間だろうが吸血鬼だろうが区別なく、彼らが描いた未来のために排除されるだろう。彼はほんの僅か、美しく唇の端を持ち上げた。
「ナハティガル、我が弟。期待している」
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ナハティガルは書面をたたんだ。兄の指示は堅実で、それだけに、状況の確定が近いことを予見させた。兄の思い描く未来のための、蹂躙。
「――いつから人類と吸血鬼は“天敵”となった? 全ての“始まり”とは一体……?」
右眼に眼帯をした鴉が止まり木の上で一声鳴く。飛び去るシニストラが応えるように彼のねぐらの上でぐるりと一周したのを、窓を閉じたナハティガルは気が付いていなかった。
その男は、赤い翼と呼ばれている。貴族街に近いベリシア通りにねぐらを持ち、無愛想ながらも下町の住人にも敬意を持たれている赤の吸血鬼狩り、ナハティガル=ラー。彼は懇意の聖職者との会合帰り、日が沈んでしまったところのシーグ街を早足で抜けていた。
酒臭い男が彼にぶつかりそうになりながら、蒼白な顔で走っていく。このあたりは貧民が多い。いくら安全のために夜は出歩くなと教会が注意喚起しても、生活のかかった彼らを止めることは難しかった。それにしても、さっきの男の様子は違ったようだが。足を止めていた彼がまた歩き出したとき。
「“赤い翼”様! あなたさま、“赤い翼”様でしょうね!」
髪を振り乱した女が彼の服を掴んだ。
助けてください助けてください、神よ、ルビーをお守りください……震えて膝をつく女を抱えて座らせると、女は男が消えた方を指して言った。
「酒屋に行ったはずのルビーが、帰ってこないの……」
女が不在の宵に、男が女の娘を使いに出してしまった。さっきの飲んだくれは女に叩き出されて目が覚めたものらしい。ナハティガルは女の差し出したメダイを受け取ると、来た道を引き返した。
だが筋を3つ越えたところで、彼の敏感な鼻に状況はすぐ知れた。
仰向けに倒れた男は首の骨をへし折られている。その奥では、すっかり血の気を失った少女がすでに事切れていた。少女の首には母親と揃いのメダイが掛かっている。ナハティガルは折よく通りかかった聖騎士団の警邏に顛末を伝えると、母親のメダイを預け足早に去った。
衆目の中で血の匂いを嗅ぐのは、ナハティガルにとって好ましくなかった。
ねぐらに帰りつき厳重に錠を下ろした彼は、帽子も取らずに地下に掘った貯蔵庫に腕を差し入れた。酒好きを装った多くの酒瓶の中から特別な封をしたひとつを拾う。小さな呟きは、開封の呪術。中身を一気に煽った彼は長い息を吐いた。
椅子で手足を伸ばし、体の端から端まで血の巡るのを愉しんでいた彼の耳に、窓を叩く高い音が届いたのはそれからすぐ。瓶の底に残ったものを名残惜しく味わい、彼は窓を開いた。
桟に留まっていたのは予想通り、左眼に眼帯をした鴉だった。呪術をもってその体内を探り、彼は小さな書面を得た。開く時、指先に火傷に似た小さな痛みがある。さっきのメダイに掛かっていた祝福のせいだった。この程度で何を守るつもりだったのか、彼の腕にはまだ少女の体の軽さが残っている。だから人間はいつまでも愚かで、弱く、何事も成し得ない……にもかかわらず、人間は吸血鬼に楯突く。どれだけ夜が危険であろうと、目を盗んで、あるいは無謀にも飛び出す。聖句で頭をいっぱいにして、狙いも定まらぬ銃を撃つ。彼が生まれた時にはすでにそうだった。彼が産まれた時にもすでにそうだった。誰も覚えていない昔からそうだったのだろう。いったい――
彼は思索を中断し、兄からの手紙を読み始めた。
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黒薔薇竜として知られる彼――ドライデン=ツヴァイは、薔薇の氏族の一員であった。多くの吸血鬼や聖職者は、彼をその剣術によって恐れているが、正しく評価するごく一部の者はその策略によって彼を認めていた。
静まり返った古城の一室で、彼は密偵たちの報告を受けていた。昨日知った話が今日書き換わることなど珍しくないこの戦いの場は、彼にとっては重苦しいものではない。どちらが知っているか、どちらが考えているか、どちらが理解しているか、どちらがつぎ込んだか。その天秤は正直だ。ならば――
「“戦う前に勝つ”ことこそが闇の貴族の嗜み」
呟いて、使い魔を呼ぶ。鴉のシニストラに書面を持たせて背を叩けば、それは弟の住む人間の街、ベリシア通りに一直線に飛んでいった。
彼が双子の弟を人間の間に送り込んだのは、ある赤の吸血鬼狩りの抹殺のためだ。幾重にも巡らせた策の、重要な駒。彼の策略は慎重だ。弟のような“剣”と同時に、裏では多くの“盾”を重ねている。秘密を守るものは多くないほうが好ましいが、人間側にも弟を助ける協力者がいる。意志も肉体も薄弱な人間は不確定要素だが、それらの動きは逐一彼に流れ込んでくる。彼と、盃を交わした薔薇の氏族の盟友に仇なす存在は人間だろうが吸血鬼だろうが区別なく、彼らが描いた未来のために排除されるだろう。彼はほんの僅か、美しく唇の端を持ち上げた。
「ナハティガル、我が弟。期待している」
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ナハティガルは書面をたたんだ。兄の指示は堅実で、それだけに、状況の確定が近いことを予見させた。兄の思い描く未来のための、蹂躙。
「――いつから人類と吸血鬼は“天敵”となった? 全ての“始まり”とは一体……?」
右眼に眼帯をした鴉が止まり木の上で一声鳴く。飛び去るシニストラが応えるように彼のねぐらの上でぐるりと一周したのを、窓を閉じたナハティガルは気が付いていなかった。